言葉の深さを知る

「それと言うのも、恐らく(著者注;平田)篤胤あつたねの眼には、『直毘霊なおびのみたま』は、あくまでも比類のない着想として、教学の組織を、そこから新しく展開すべき発想として、映じていたからだ。そして、その使命は自分に降りかかっていると信じたからである。はげしく宣長のうちに、自己を投影し、それを、宣長から選ばれたと信じた人とも言えるだろう。篤胤の考えでは、古道を説く以上、天地の初発から、人魂ひとだまの行方に至るまで、古伝に照して、誰にでも納得がいくように、説かねばならぬ。古伝の解釈に工夫をこらせば、それは可能なのである。安心なきが安心などという曖昧あいまいな事ではなく、はっきりと納得がいって、安心するというものでなければならない」新潮社刊「小林秀雄全作品」第27p.292~p.293

この一文を読んだとき、私は、人の言葉を受け取る際、篤胤と同様に、自分の思い込みによって言葉を聞き取り、相手はこう考えているに違いないと、決めつけをする癖があることに気付かされ、また、この癖は、どのようにして身に付いてしまったのかを考えたとき、これまでの自分自身の生き方と向き合う必要があるのではないかと感じました。

小林秀雄氏は、篤胤に対し「篤胤は、眼中人なしというおもむきの、非常な自信家であったが、ただ宣長だけには、絶対的な尊敬の念を抱き、深い心情を傾けていた。山室山の宣長の墓にもうでた折に、詠んだ歌 ―『をしへ子の 千五百ちいほと多き 中ゆけに 吾を使ひます 御霊畏みたまかしこし』『我が魂よ 人は知らずも たまぢはふ 大人の知らせば 知らずともよし』― 篤胤にしてみれば、ただ在りのままを、素直に詠んだまでであって、言葉の上の飾りや誇張は全く考えられてはいなかった。彼は、鈴屋大人の御霊が幽冥ゆうめい界にまします事を、少しも疑ってはいなかった。『たま真柱みはしら』にあるように、死後は霊となって、師の墓辺に奉仕する事を信じていた。宣長と自分との間に、精神上の幽契が存するという事は、篤胤の神道の上からすれば、合理的に理解出来る動かぬ事実であった。私達は、これを疑うわけにはいかない。もし疑うなら、疑う人の眼には、篤胤という歴史上の人物の、形骸けいがいしか映じないであろう。人間によって生きられた歴史を見るむつかしさは、その辺りにある」(同p.290~p.291と言われています。

なぜ小林氏は、向き合う相手の内面が、ここまでわかるのだろうかと不思議に思いました。

自分の生き方と向き合い、私の身の回りで起こる出来事や人間関係の問題など、これは私の人生にとって、どのような意味があるのかを見つめるためには、小林氏の言われている歴史を見る眼が必要なのではないかと感じました。

また、それを知ることで、相手の言葉をより率直に、より正確に受け取ることができ、自分の人生にとって大切なことを見逃さない眼を養うことができるのではないかと思い、令和五年十月の山の上の家の塾で、以下の質問を提出しました。

―「人間によって生きられた歴史を見るむつかしさ」について質問です。第二十五章に「例えば、ある歌が麗しいとは、歌の姿が麗しいと感ずる事ではないか。そこでは、麗しいとはっきり感知出来る姿を、言葉が作り上げている。それなら、言葉は実体でないが、単なる符牒とも言えまい。言葉が作り上げる姿とは、肉眼に見える姿ではないが、心にはまざまざと映ずる像には違いない。万葉歌の働きは、読む者の想像に、万葉人の命の姿を持込むというに尽きる。これを無視して、古の大義はおろか、どんな意味合が伝えられるものではない」とありますが、この事と同様に「人間によって生きられた歴史を見る」力をつけるには、言葉の姿、歌の姿を感じるという読書の経験が必要なのでしょうか。

この質問から、令和六年十月に行われた山の上の家の塾での

―「宣長と自分との間に、精神上のゆうけいが存するという事は、篤胤の神道の上からすれば、合理的に理解出来る動かぬ事実であった。私達は、これを疑うわけにはいかない。もし疑うなら、疑う人の眼には、篤胤という歴史上の人物の、形骸けいがいしか映じないであろう。人間によって生きられた歴史を見るむつかしさは、その辺りにある」と言われています。

「人間によって生きられた歴史を見る」には、「はげしく宣長のうちに、自己を投影し、それを、宣長から選ばれたと信じた」篤胤が、宣長との間に結んだ「精神上のゆうけい」を信じることで、小林秀雄さんの見た「人間によって生きられた歴史」は見えてくるのでしょうか。

という質問に至るまでに、池田雅延塾頭からご指導頂いたことは、以下の内容です。

・ 自問と自答が噛み合っておらず、自問に照応する自答を磨き上げる努力が必要であること。

・ 自分の思いつきを自答にしてはいけない。ここでは篤胤に即して人間全体の歴史を見るのは難しいと言っており、それが、どういう難しさなのかを考えること。

・ 小林氏は、上辺だけをい摘まんで語る、と言うことをしない。篤胤の行動の動機を知ろうとすれば、篤胤の歌や手紙を一つ一つ読み取り、内面を考えたり、本人の立場になって生きてみないと、その人間の歴史を知ると言うことができない。これが歴史に向かう態度、本文中の言葉に、一つ一つ丹念に向き合うこと。

・ 「人間によって生きられた歴史を見る」という言葉の深さを知ること。

・ 小林氏が直観した、篤胤の人物像は、どんな人物であったかが眼目。小林氏は、篤胤の内面を見るところまで深め、その姿の奥にある精神的な葛藤まで見ている。篤胤がどういう思考経路を辿ったのか、内面を見ているということ。

・ 篤胤の精神の内部に入り込むと、理屈に合った生き方、歴史を生きた人間の生き方の手本を示している。篤胤は、独りよがりの自信過剰のとんでもない弟子だった。自分は宣長の一番弟子だと言い張り、論を張った。宣長は、日常生活上の学びを学問だと言った。篤胤は、これに感動したが、宣長の学問を観念論にしてしまい、それを自分の弟子にも吹聴してしまったこと。

・ 篤胤の死後、弟子たちが、宣長の墓の敷地内に勝手に篤胤の墓を立ててしまったこと。

・ 小林氏は、この本(「本居宣長」)で、必ずしも篤胤に触れなくてもよかったが、歴史上から見ると、面白い悪役としての篤胤を深く知ることで、宣長の正しい学問がくっきり浮かび上がってくる。篤胤に対する一般人の誤解を解く必要があったこと。

・ 宣長への普通ではない篤胤の情熱に対し、疑って、鼻先でせせら笑って終わりにし、篤胤を排除すると、篤胤の歴史上の演技から学ぶところがなくなってしまうこと。

 

塾頭のご指導を受けながら、私は、日常生活でも、自分と価値観の合わない相手を、心の中で排除し、相手の内面を知るための努力を全くしておらず、また、身の回りで起こった出来事に対しても、感情的になり、物事の本質の外側ばかりに意識が向き、結果的に自分自身の生き方をとても狭いものにしていたことに気付きました。

今回の第二十六章からの質問でも、著者が言わんとすることの肝心要の理解ができず、無意識のうちに著者が言っていることを、自分にとって都合の良い言葉に置き換えてしまい、塾頭からご指導頂くまで、そのことにさえ気付かずにいました。

また、ご指導頂いたことを、頭では理解したつもりでも、いざ、実行しようと思った時、どのようにして読書や質問に反映すれば良いのか全くわからず、小林氏の言われている歴史の見方を早く知りたいという考えに囚われ、離れられずにいました。

質問には、私自身の日ごろの考え方の癖が現れてしまい、未だに、本文と向き合うということができずにいますが、本誌、前々号(「好・信・楽」2024年夏号」)でも触れた、「本も、絵を眺めるように読むのです、最初は文章の意味を取ろうなどとは思わず、小さくでいいから声に出して読むのです。こうして口を動かしていると、文章の意味は後からついてきます、本を書いた人の言おうとしていることが自然にわかってきます。つまり、『絵を眺めるように』とは、本の一行一行を最初から細切れに『読解』していくのではなく、まずはざっと全体を、無心で目にしていくということです、絵は、そこに描かれている山や海や花の全体をまずはざっと眺めるでしょう、それと同じように、本に書かれている文章をひととおり、声に出して読みながら眺めるのです。『声に出して読みながら眺める』とは、著者すなわち本を書いた人の気持ちを話し言葉として聴き取るということで、こうすれば、絵を見て絵描きさんの丹念な筆遣いや荒々しい筆遣いから絵描きさんの気持ちや意気込みが汲み取れ、それがその絵の目のつけどころとなるように、著者が言葉を強くしている箇所や、なぜだか口ごもっているように読める箇所やを聴き分けていけば、その本で最も読み取るべきことは何かがおのずとわかってくるのです」という本の読み方を、いつも忘れないように、読書や日々の生活を重ねることの大切さを、改めて実感しました。

 

文章を書くことは、とても苦手ですが、この「好*信*楽」への寄稿の機会を与えて頂いたことで、さらに思考を深めることができ、質問だけでは気付くことができなかった、新たな発見と学びがありました。塾頭、編集部の皆様に心より感謝申し上げます。

 

(了)

 

質問を通して学んだこと

本誌前号(「好*信*楽」2024年夏号)に掲載された「弱さと向き合う」でも触れたように、小林秀雄氏の文章を読む際、「自分の価値観を一切捨てて文章を読む」ということが難しく、なかなか実践できずにいました。

過去に、山の上の家の塾で提出した、自問自答形式の質問について、池田雅延塾頭からご指導頂いたことと、日常生活で私が抱えている問題で改善すべきことが不思議なほどに共通していたため、文章と向き合う時だけではなく、日常生活でも私自身の考え方の癖を直すことで、読書について何かつかめるのではないかと思いました。

令和六年七月七日に行われた、山の上の家の塾に向けて提出した質問は、今、私が直面している子育てにおいて、自分の価値観を通してでしか、子どもと向き合っていなかったことを思い知らされた出来事がきっかけでした。

 

この出来事を通して、これまで何年も山の上の家の塾で学んできたにもかかわらず、私は、未だに「読書」に近づくどころか、どんどん遠ざかっているようで、本当に情けなくなり、落ち込んでいた時、塾頭から「第一章から第十五章でも、自問自答がさらに整えられるなら追加してお送りください」という内容の言葉を頂きました。偶然頂いた言葉ですが、この章の中に、今の私に必要な学びがあるのだと直感し、対象章を読み進めてみると、今回の質問として提出した「もこうされる手本と模俲する自己との対立」(新潮社刊「小林秀雄全作品」第27集p.122)の一文が気になりました。

宣長さんは「模俲される手本と模俲する自己との対立」をどのように受け入れ、自分のものにしたのだろうと思い、次のような質問を提出しました。

―「模俲される手本と模俲する自己との対立、その間の緊張した関係そのものが、そのまま彼等の学問の姿だ。古書は、飽くまでも現在の生き方の手本だったのであり、現在の自己の問題を不問に附する事が出来る認識や観察の対象では、決してなかった」について質問です。「模俲される手本と模俲する自己との対立」と、宣長はどのように向き合ったのでしょうか。

「彼は、どんな『道』も拒まなかったが、他人の説く『道』を自分の『道』とする事は出来なかった」とあります。宣長は、自己の生き生きとした包容力と理解力によって、古書と向き合い、「模俲される手本と模俲する自己との対立」によって、現在の自己の問題を知り、己れを知るに至ったのでしょうか。

 

この質問については、何度か改訂・再提出し第四版で完成となりましたが、完成に至るまで塾頭からご指導いただいたことは、まず「模俲される手本と模俲する自己との対立」を、誰が見てもわかるように、藤樹、仁斎、徂徠、宣長の中から、本文中で言われている内容を踏まえて具体的に説明し、「対立とは何か」をしっかり押さえること。また、私の質問文は、具体性を欠いており、本文で言われている抽象的な言葉をそのまま質問文のなかで使ってはいけない。その言葉の、具体的な中身の理解と説明、わけても著者が言わんとしている肝心かんじんかなめの理解が大切である。そのうえで、

・ 「対立」とは、真似できない個体差、信念の相違である。

・ 徂徠が模俲したものは、古文辞こぶんじであり、これについて辞書で調べること。

・ 「惣而そうじて学問の道は文章の外無之候。古人の道は書籍に有之候。書籍は文章ニ候。よく文章を会得ゑとくして、書籍のまま済し候而、我意を少もまじえ不申候得ば、古人の意は、明に候」(「答問書」下p.115)は、徂徠の学問の中心軸であり、この具体的な説明を本文から探し、自答に盛り込むこと。

・ 「過去の人間から呼びかけられる声を聞き、これに現在の自分が答えねばならぬと感じたところに、彼等の学問の新しい基盤が成立した」(同p.120)は、徂徠が古典を模倣すると言うことであり、これも盛り込むこと。

・ 「彼等の遺した仕事は、新しく、独自なものであったが、斬新ざんしんや独創に狙いを附ける必要などは、彼等は少しも感じていなかった。自己を過去に没入する悦びが、期せずして、自己を形成し直す所以となっていたのだが、そういう事が、いかにも自然に、邪念を交えず行われた事を、私は想わずにはいられない」(同p.120)から、私が第三版での質問文に入れていた「自省による批判」と言うことの具体的な説明を探すこと。

 

以上のように、塾頭に、自答の導き方まで、丁寧にご指導頂き、次の第四版の質問文で完成となりました。

 

―「模俲される手本と模俲する自己との対立、その間の緊張した関係そのものが、そのまま彼等の学問の姿だ。古書は、飽くまでも現在の生き方の手本だったのであり、現在の自己の問題を不問に附する事が出来る認識や観察の対象では、決してなかった」について質問です。

「模俲される手本と模俲する自己との対立」とは、「近世の訓詁くんこの学の自立と再生とに、最も純粋に献身した学者達」が行ってきた、「自己を過去に没入」し「自己を形成し直す」ということであり、徂徠は古文辞を模俲することによって、「学問は歴史に極まり候事ニ候」「惣而そうじて学問の道は文章の外無レ之候。古人の道は書籍に有レ之候。書籍は文章ニ候。よく文章を会得ゑとくして、書籍のまま済し候而、我意を少もまじえ不レ申候得ば、古人の意は、明に候」という、歴史を深く知るために、「過去の人間から呼びかけられる声を聞き、これに現在の自分が答え」る努力によって古文辞学こぶんじがくを発展させたのでしょうか。

 

今回の自問自答では、塾頭からご指導頂くまで、古文辞という肝腎要なことが、私の意識には入っておらず、それが何なのか、どういう事なのかの理解もできていませんでした。

「大辞林(三省堂)」で、古文辞、古文辞学の意味を調べてみると「【古文辞】①古代の文章の言葉。②中国で、しん・漢以前の文、盛唐以前の詩の総称。【古文辞学】荻生徂徠おぎゅうそらいが唱えた儒学。宋学を否定し伊藤仁斎の古義学や明の古文辞派の影響を受けつつそれを批判し、中国古代の言語(古文辞)と制度文物の研究によって六経に記載された先王の道を知ろうとするもの。その思想と方法論は本居宣長などの国学に影響を与えた。徂徠学」とあり、古文辞という漢字の中に、これ程、大きな意味があったことを知り感動しました。

今まで「読書ができるようになりたい」と言いながら、自分の狭い価値観の範囲でしか小林氏の文章を読もうとせず、また、知るための努力も全くしていなかったことに、さらには、子育てや日常生活の場でも、同じ姿勢で向き合っており、相手が発する言葉や行動の中には、沢山の意味や背景があるのに、私は自分にとって都合のよい部分だけを切り取り、そこから相手を判断していたことに改めて気づかされたのです。

 

塾頭から繰り返しご指導頂き、また、この度の「好*信*楽」への寄稿の機会を頂いていたお陰で、第十一章の自問自答を完遂することができました。

貴重な学びの機会を下さり本当に有難うございました。

(了)

 

弱さと向き合う

「本も、絵を眺めるように読むのです、最初は文章の意味を取ろうなどとは思わず、小さくでいいから声に出して読むのです。こうして口を動かしていると、文章の意味は後からついてきます、本を書いた人の言おうとしていることが自然にわかってきます。つまり、『絵を眺めるように』とは、本の一行一行を最初から細切れに「読解」していくのではなく、まずはざっと全体を、無心で目にしていくということです、絵は、そこに描かれている山や海や花の全体をまずはざっと眺めるでしょう、それと同じように、本に書かれている文章をひととおり、声に出して読みながら眺めるのです。『声に出して読みながら眺める』とは、著者すなわち本を書いた人の気持ちを話し言葉として聴き取るということで、こうすれば、絵を見て絵描きさんの丹念な筆遣いや荒々しい筆遣いから絵描きさんの気持ちや意気込みが汲み取れ、それがその絵の目のつけどころとなるように、著者が言葉を強くしている箇所や、なぜだか口ごもっているように読める箇所やを聴き分けていけば、その本で最も読み取るべきことは何かがおのずとわかってくるのです」。これは、以前開催されていた「小林秀雄に学ぶ塾㏌広島」の懇親会の席で、初めて私が、池田雅延塾頭に質問した際にご指導いただいたことです。

 

池田塾頭と出会うまで、小林秀雄氏の作品は一度も読んだことがなく、また文学とは縁のない人生を送ってきましたが、塾頭を通して聴く、小林氏の言葉が、これまでに経験したことのないほど、心に強く響き、ここでの学びは私の人生の軸となると直観しました。

読書についてご指導いただいてから、何年も経ったものの、いまだ小林氏の文章は難しく、度々たびたび立ち止まるという有り様ですが、くじけそうになるたびに、塾頭からご指導いただいたことを思い出し、小林氏の文章と向き合っています。

 

心から読書ができるようになりたいと、特に強く思うようになったのは、現在四歳の息子が、生後四ヶ月ごろから発症した、アトピー性皮膚炎がきっかけです。根本となる原因を改善していくために、信頼できる皮膚科の医師を探し、その指導のもと、薬や保湿剤は使用せず、睡眠、食事、運動などの生活リズムの改善と、皮膚をなるべく水で濡らさないこと、子どもの意欲を育てること、これだけを続けました。症状は体の成長とともに落ち着いてくるので、目に見えて変化が出るまでには半年から一年程かかります。私のこの治療方法は、アトピー性皮膚炎の標準治療とは異なるため、周囲の人達からは、なかなか理解されず、症状が改善するまでの一年間は、様々な心の葛藤が起こりました。我が子を人に見られることが恥ずかしいと感じ、子どもと向き合えなくなったり、批判的な意見をしてくる相手に強い怒りを感じ、攻撃的になったり……と、母親として、人間として、とても情けない自分の姿が嫌になり、このままの状態で、子育てをしてはいけないと感じました。

池田塾頭にご指導いただいた読書ができるようになることで、自分自身の弱さと正面から向き合い、受け入れられるようになるのではないかと思い、そういう意識で、「小林秀雄全作品」第27集を読むと、「自分自身の経験を重ね合わせて読む」ことと、「自分の価値観を通して読む」こととの違いは何か、という疑問が湧き、塾頭に質問したところ、「本を読むとき、自分の価値観は一切捨てること。池田の場合は、『小林先生なら、どう考えるのだろう?』ということだけを考える。私たち一人ひとりの価値観は、小さい、ちんけなものである。だから、本は、著者から何を教えてもらえるのだろうか、どんな話が聞けるのだろうか、という姿勢で読む。読んでいくうちに、『ここで著者が言っていることは、私にも何かしら覚えがある』という箇所に出会うとそこで立ち止まる、そしてその自分の経験を著者の言葉に照らし、『そうか、そういうことだったのか』と何かに思い当たる、これが『経験を重ね合わせる』ということです。ところが、最初から自分の経験の眼鏡をかけて読むと、自分だけの狭いフレームの中でしか著者の言うことが読み取れません。だから、ページを開いたそのときから、自分の枠の外に出ていること、これが肝要です」と、ご指導いただきました。

これを聞いて、私は、本に対してだけではなく、人や物事、我が子にさえも、自分の価値観を通してでしか向き合っていなかったと深く反省しました。そこで池田塾頭に言われた読書法をさっそく試みましたが、簡単にはできず、気がつくとまたしても自分の価値観を通して読んでしまっていて、そして、実生活の人間関係でも、そのことを思い知らされる出来事が続いていました。

 

どうすれば、自分の価値観という枠の外に出て物事と向き合えるようになるのだろう、と考えていると、「『物まなびの力』は、彼のうちに、どんな圭角も作らなかった。彼の思想は、戦闘的な性質の全くない、本質的に平和なものだったと言ってよい。(新潮社刊「小林秀雄全作品」第27集p.52)」の一文が気になり、なぜ、宣長さんは、それができたのだろうか、どうすれば私にもそれができるのだろうかと思い、次のような質問を提出しました。

―「『物まなびの力』は、彼のうちに、どんな圭角も作らなかった。彼の思想は、戦闘的な性質の全くない、本質的に平和なものだったと言ってよい。彼は、自分の思想を、人に強いようとした事もなければ、退いてこれを固守する、というような態度を取った事もないのだが、これは、彼の思想が、或る教説として、彼のうちに打建てられたものではなかった事による。そう見えるのは外観であろう。彼の思想の育ち方を見る、忍耐を欠いた観察者を惑わす外観ではなかろうか」とあります。宣長さんの思想の育ち方とは、人生いかに生きるべきかに関してであれ、「源氏物語」などの古典に対してであれ、まず何らかの価値観をもって臨み、その価値観の上に立った自説を日に日に強化して他人を説得したり服従させたりする学問ではなく、宣長自身に与えられた環境や宣長自身の心の動きに即した、自問自答による自己表現の学問によって育った、ということなのでしょうか。

この質問に対して、池田塾頭からご指導いただいた内容は、以下の通りでした。

「宣長さんの思想の育ち方とは、自分に与えられた環境や宣長自身の心の動きに即した、自問自答による自己表現の学問によって育った、ということなのでしょうか」とした自答はたいへんよい。

しかし、この結論に至るまでの熟視が足りない。熟視対象にあげられている引用文―「『日記』を読むと、学問しているのだか、遊んでいるのだかわからないような趣がある。塾の儒書会読については、極く簡単な記述があるが、国文学については、何事も語られていない。無論、契沖の名さえ見えぬ。こまごまと楽し気に記されているのは、四季の行楽や観劇や行事祭礼の見物、市井の風俗などの類いだけである。『やつがれなどは、さのみ世のいとなみも、今はまだ、なかるべき身にしあれど、境界につれて、風塵にまよひ、このごろは、書籍なんどは、手にだにとらぬがちなり』(宝暦六年十二月二十六、七日)というような言葉も見られるほどで、環境に向けられた、生き生きとした宣長の眼は摑めるが、間断なくつづけられていたに違いない、彼の心のうちの工夫は、深く隠されている」(同p.58)―に、至るまでの宣長の生い立ちが重要で、宣長の『在京日記』の引用だけでは自答のピントが合っていない。宣長が、常日頃、親から授かった気質(父親から授かった仏教徒としての熱心さ、母親から授かった先々のことまで見通す賢さ)に基づいて生活していたことと、天から授かった気質である自分自身の自発性に身を預けていたこと、これが『在京日記』を読んで小林先生が言われている「彼の心のうちの工夫」であるが、自答にあたってはこの「彼の心のうちの工夫」という言葉をしっかり押さえておきたかった、ここが確と押さえられていれば、次に言われていることが宣長独自の思想の育ち方としてより明確に読み取れたであろう、―自分の人生を作るために持続して育んできた思想、すなわち、個人として、自分はこう生きたいという思いを持って古典を読んでいると、他人にもそれが当てはまると思うことはあった、しかしそれを教説として他人に訴えたりはせず、自分はこう思う、と手元で言うに留めた。他人と競合したり他人を説得したりするなど、外に意識を向けている暇はない、内的思想であった。

今回の質問でも、私は、早く答えを知りたいと急いで本文を読んでしまい、「(本居)大平は、宣長の学問の系譜を列記した中に、『父主念仏者ノマメ心』『母刀自トジ遠キオモンパカリ』と記入している。曖昧な言葉だが、宣長の身近にいた大平には、宣長の心の内側に動く宣長の気質の力も、はっきり意識されていた」(同p.53)という、大事な部分を見落としていました。

池田塾頭からご指導いただいたことを、一刻も早く身に着けたいと気持ちは焦るばかりですが、日常生活での日々のあらゆる出来事に一つ一つ丁寧に取り組んで行くことの積み重ねで、本当の読書に近づけるのではないかと思いました。

ここで改めて、池田塾頭、広島塾を立ち上げて下さった吉田宏さん・美佐さんご夫妻、そして塾生の皆様と出会えたことに心から感謝申し上げます。

(了)

 

私の人生を変えた「好信楽」

平成27年10月12日に行われた“第1回小林秀雄に学ぶ塾in広島”、これが小林秀雄氏との初めての出逢いでした。

 

そのときの池田雅延塾頭の講演の中で、最も印象に残ったのは「ユニバーサルモーター」のお話です。

「世界中のヨットというヨットが、ユニバーサルモーターを積んでいる。このモーターは、スピードは出ない、しかし絶対に壊れない。世界中のヨットがこのモーターを積んでいるのは、港を遠く離れた海上で帆柱が折れるといった緊急事態に陥ったときも、確実に港まで帰り着くためだ。各社競ってスピードの出るモーターを開発しているが、スピードの出るモーターは壊れやすい。ユニバーサルモーターだけが、絶対に壊れないモーターとして造られ続けているのだ……」と、小林秀雄氏がお話されていたという内容でした。これを聴いて、私は、正しい信念があれば、周りのスピードとは関係なく、真理に近づける、歩みは遅くてもいいんだ、と言われた気がしました。これからどうやって生きていけばいいのか、心の奥底で長い間ずっと求め続けていたものが見つかったという感動で全身に鳥肌が立ちました。

 

当時、愛犬の死を切っ掛けに始めた動物愛護活動を通し、私達人間は、多くの生き物の犠牲の上に生きていたんだということを目の当たりにしていた時期でもありました。また社会はそんなことを一々考える暇もなく、時代は猛スピードで駆け抜けていく。その速さには到底ついていけず、先行く人達を見ては、羨ましがったり妬んだりしている自分にも嫌気がさしていました。鍼灸を生業としている私は、何が正しくて、何が間違っているのかも分からない不安定な状態のまま、人の身体や心に触れる仕事をしている。「今のまま、この仕事を続けてはいけない……」と日々、悩んでいましたが、小林秀雄氏の思想に触れることで私の心の軸ができ、問題との向き合い方が見えてくると直観しました。

 

その後、“小林秀雄に学ぶ塾in広島”と鎌倉で行われている塾に参加するようになりました。しかし、本が難しくて読み進めることができなかった私は、懇親会の席で、池田塾頭に「小林秀雄氏の本が解るようになりたいのですが、難しくて読めないのです」という正直な気持ちを打ち明けました。すると塾頭は、とても穏やかに「読書は、意味を取ろうとしなくていい。景色や写真を眺めるように全体を眺めて、声に出して読むんだよ。意味は後からついてくるから」と読書の方法を教えて下さいました。早速、小林秀雄氏の「本居宣長」(新潮社刊「小林秀雄全作品」第27・28集所収)の素読みを始めました。

 

そのうち、正しい読書とは、鍼灸師の私にとって患者さんとの向き合い方の訓練なのだと感じるようになりました。鍼灸の施術は患者さんの訴える症状にだけ鍼や灸をするわけではありません。患者さんの心の訴えを感じ、その人の背景にある不安、考え方の癖、生まれつきの体質等を総合的に診て、その方に合うであろうツボの組み合わせ、鍼や灸の刺激量を変えていきます。同じ患者さんでも、日によって心身の状態は微妙に変化し、それを見逃さないように気をつけていないといけません。鍼灸師側が「きっとこの患者さんは、こういう人だろう」と思い込んで決めつけてしまうと、患者さんの心の声が聞えなくなってしまいます。鍼の技術の乏しい私には、心の声を感じるということは、とても大切な課題です。

 

そんなことを考えながら素読みを続けていると、気になる箇所が出てくるようになりました。

 

“自分のこの「好信楽」という基本的な態度からすれば、「凡百雑技」から「山川草木」に至るまで、「天地万物、皆、吾ガ賞楽ノ具ナルノミ」と言う。このような態度を保持するのが、「風雅ニ従」うという事である” (第5章)

 

“一体、人間が人間であるその根拠が、聖人の道にあるとはおかしいではないか。人の万物の霊たる所以は、もっと根本的なものに基く、と自分は考えている。「夫レ人ノ万物ノ霊タルヤ、天神地祇ノ寵霊ニ頼ルノ故ヲ以テナルノミ」、そう考えている。従って、わが国には、上古、人心質朴の頃、「自然ノ神道」が在って、上下これを信じ、礼儀自ら備わるという状態があったのも当然なことである。”(同)

 

“人々が、その限りない弱さを、神々の目に曝すのを見たわけだが、そういう、何一つ隠しも飾りも出来ない状態に堪えている情の、退っ引きならぬ動きを、誰もが持って生まれて来た情の、有りの儘の現れと解して、何の差支えがあろうか。”(第50章)

 

しかし、何故これらの箇所が気になるのか、自分にとって都合のよい所だけを引っ張ってきているだけではないのか、そもそも私は正しく読書ができているのか? と、考えれば考えるほど不安は大きくなる一方でした。

 

そんな時、広島の塾の主催者である吉田宏さんに背中を押して頂いたのが切っ掛けで、鎌倉の塾で質問に立つことになりました。早速、質問を池田塾頭にメールで送り、ご指導いただいたことは、「山の上の家で小生が求めている『質問』とは、小林先生の『本居宣長』のどこか一ヵ所を取上げ、その本文の行間で言われている深意について自問自答するというものです。今回の『質問』では第5章の『好信楽』という言葉が取り上げられていますが、300字という字数をフルに『好信楽』に宛て、この言葉に託した宣長の意志や覚悟を縦横に推察するということを試みて下さい。300字という限られた字数には森本さんの経験や感想を述べ立てている余裕はありません」という内容でした。

 

教えて頂いたことを頭に叩き込み、本と向き合った時、「質問締め切りまで、もう時間がない」という焦りから、私は、本居宣長の意志、覚悟は何か? と意味を取ろうとしてしまい、全く何も見えなくなってしまいました。ふと、「あ、これは患者さんと向き合う時にも、私が陥りやすい現象だ」という思いがよぎりました。落ち着いて池田塾頭から頂いたメールと塾でのノートを読み返しました。すると過去に教えて頂いた読書についてのメモが目につきました。意味を取ろうとせず、眺めるように、再度、素読みしていくと、「もしかして、こういうことかな」という答えが自然と見えてきました。

本居宣長の言う「好信楽」とは、趣味のような軽々しいものではなく、実生活で実践しながら学問するということであり、生半可な生き方をしていては到底出逢えるものではないのではないか、という、今までとは全く違った景色が見えてきたのです。得心がいった瞬間でした。

 

そこで、私が提出した質問は、“自分のこの『好信楽』という基本的な態度からすれば、『凡百雑技』から『山川草木』に至るまで、『天地万物、皆、吾ガ賞楽ノ具ナルノミ』と言う。このような態度を保持するのが、『風雅ニ従』うという事である” について、本居宣長の言う『好信楽』とは、実生活で実践しながら学問するということなのでしょうか? また “之ヲ好ミ信ジ楽シム” という、その対象と出逢うためには“凡百雑技”から“山川草木”に至る天地万物などの身の回りのもの全てが教えであり、“上古、人心質朴の頃”のような有るが儘の生き物としての自然な情の現れを知り、自分自身を、正しく、冷静な目で見つめなければならないということなのでしょうか? でした。

 

ところが、池田塾頭は、「森本さん、自答の最後の最後で気を抜いてしまったね。『自分自身を、正しく、冷静な目で見つめなければならない』というのは、現代社会で言われている通念です。現代社会の通念をここに持ち込んだのでは宣長が言わんとしている大事なことが宙に浮いてしまいます。宣長が言わんとしているのは客観の真反対の主観こそ大事ということで、小林先生が言われている「宣長の『好信楽』という基本的な態度」とは、何事にも自分自身の感性で……、ということは主観で向きあうという態度です。だから自答も原文を現代語に翻訳するのではなく、最後まで宣長の言葉に即して行わなければならないのです」、さらにその後の懇親会でも「森本さん、わかったかい? 最後が肝心なんだよ。『徒然草』の『高名こうみょうの木登り』だよ」と、今回の私の質問で足りなかった点について丁寧にご指導下さいました。「高名の木登り」の話は、「徒然草」の第百九段に出ていました。

 

私にとって「好信楽」とは、小林秀雄に学ぶ塾そのものです。ここで学ぶ事は、鍼灸の修行であり、人生の全てに繋がっています。これからも、塾での学びを深め、小林秀雄氏の思想に触れ、良い鍼灸師を目指し、学んだ事を一人でも多くの患者さんに活かしていきたいと思います。山の上の家では、かけがえのない時間を過ごさせて頂いています。池田塾頭はじめ、いつも優しくて親切な先輩方に出逢うことができ、私にはこれ以上の幸福はありません。

 

最後に、このような、奇跡的な御縁を作って下さった吉田宏さん・美佐さんご夫妻に心から感謝を申し上げます。

(了)