本居宣長の「宗教的経験」とは

小林秀雄氏は、「宣長が、古学の上で扱ったのは、上古の人々の、一と口で言えば、宗教的経験だった」と論じます。宣長のいう「宗教的経験」とはどのようなものと小林氏は受け取ったのでしょうか。

小林氏は続けて次のように記しています。

 

宗教を言えば、直ぐその内容を成す教義を思うのに慣れた私達からすれば、宣長が、古伝説から読み取っていたのは、むしろ宗教というものの、彼の所謂、その「出で来る所」であった。何度言ってもいい事だが、彼は、神につき、要するに、「何にまれ、尋常ヨノツネならずすぐれたるコトのありて、可畏カシコきものを迦微カミとは云なり」と言い、やかましい定義めいた事など一切言わなかった。勿論、言葉を濁したわけではなし、又、彼等の宗教的経験が、未熟だったとも、曖昧だったとも考えられてはいなかった。神代の物語に照らし、彼等の神との直かな関わりを想い、これをややつづめて言おうとしたら、おのずから含みの多い言い方となった、ただ、そういう事だったのである。

(新潮社刊「小林秀雄全作品」第28集 200頁10行目~)

 

宗教というと、教団や組織、あるいは体系だった聖典や経典といったものを現代の私たちは思い浮かべがちですが、宣長は、宗教の「出で来る所」である神の存在を、「可畏き物」であるとしか言いようがないと述べています。何かすぐれた、恐るべき能力をもった人や、海・山といった自然、狐や狸などの動物、それら全部をそのまま神だと素直に受け入れました。「人々めいめいの個性なり力量なりに応じて、素直に経験されていた」という、今日の信仰態度とは異なった「なだらか」な、「のどやかなる」一貫した姿勢があった。こうした原初の純粋性、それが宣長にとって「宗教的経験」であり、小林氏も宗教とは本来そういうものであったと考えられたのではないでしょうか。

小林氏は次のように述べています。

 

「何にまれ、尋常ならずすぐれたる徳のありて、可畏き物を迦微とは云なり」とあったのは、飽くまでも後世の人々の為になされた註釈である事を、繰返し言って置きたい。上古の人々は、神に直かに触れているという確かな感じを、誰でも心に抱いていたであろう。恐らく、この各人各様の感じは、非常に強い、圧倒的なものだったに相違なく、誰の心も、それぞれ己れの直観に捕えられ、これから逃れ去る事など思いも寄らなかったとすれば、その直観の内容を、ひたすら内部から明らめようする努力で、誰の心も一ぱいだったであろう。

(同第28集 86頁13行目~)

 

一方で、本居宣長は、桜の名所吉野山の吉野水分みくまり神社で、父・定利が、子授け祈願をして翌年に授かったということを子供の頃に度々母親から聞かされたため、自身を水分神社の申し子であると『菅笠日記』に記しています。「みくまりの 神の誓いの なかりせば これのあが身は 生まれこめやも」と歌にも詠んでおり、成人してからも水分神社の方向に向って毎朝祈りを捧げていたと伝えられています。

また、二十歳の時に宣長は、松阪の浄土宗樹敬寺で五重相伝を受けており、これは非常に信仰の厚い人やその家族が、朝から夕方まで五日間に渡って受ける儀式で、そこで血脈をもらう、それはお坊さんになることに準じるものですが、本文中で村岡典嗣氏のいう「その家庭の宗教たる浄土宗的信仰の習性」があることは全く無視できないように考えます。

先般、松阪の本居宣長旧邸を訪れた際、そこに仏壇がありました。大正天皇皇后はその旧邸をご見学の際、国学者の家に仏壇があることを意外に思われておつきの一人が案内の人にたずねたところ、「宣長は、自分の思想とは別に、熱心な仏教徒であった祖先の心を大切に思い、この仏壇を拝んでいたのです」とこたえたといいます。

以上のような、現代的な考えでの「宗教」と、宣長との具体的な関わり合いを取り上げてみると、宣長には幅広くゆるやかな信仰があったことが伺えます。しかし、小林氏が言うように、こうしたことを「いろいろと取集めてみても、そういう資材なり、手段なりをどう扱って、どういう風に開眼するに到ったかという、宣長の思想の自発性には触れる事は出来まい」との言葉は、ここで考える「宗教的経験」について、まさに当てはまることであるので、これ以上触れないことにします。古代人の、もっと原初的な体験について小林氏は指摘していると考えるからです。

音声資料として、小林氏のCDの講演集『日本の神道』(新潮社、「小林秀雄講演」第二巻「信ずることと考えること」所収)に「宗教的経験」ついて大切と思われることを話されていたので、紹介すると、「神学はいらなかった。信仰があれば足りた。生きた信仰というものは人間の宗教的経験だな、個人の。神は非常に私的な経験、僕の個人的な経験を通じて神は経験される。僕の哲学を通じて、あるいは僕の神学を通じて神を知るんじゃないんです。そんなもの後からこしらえるものなんです、人間の知恵が。だけど知恵より経験の方が先なんです。だから古代の信仰は全部神を祀った」と語っています。

 

小林氏の「古事記伝」からの重要な引用をここでも繰り返します。

 

古伝による神の古意については、「古事記伝、三之巻」に詳しい。大事な文であるから、引用は省けない。

すべて迦微とは、イニシヘ御典ノフミドモに見えたる天地の諸の神たちを始めて、其を祀れる社に坐ス御霊をも申し、又人はさらにも云ハず、トリケモノ木草のたぐひ海山など、其余ソノホカナニにまれ、尋常ならずすぐれたる徳のありて、可畏き物を迦微とは云なり、(すぐれたるとは、尊きこと善きこと、功しきことなどの、優れたるのみを云に非ず、悪きもの奇しきものなども、よにすぐれて可畏きをば、神と云なり、さて人の中の神は、先ヅかけまくもかしこき天皇は、御世々々みな神に坐スこと、申すもさらなり、其は遠つ神とも申して、凡人タダビトとは遙に遠く、尊く可畏く坐シますが故なり、かくて次々にも神なる人、古へも今もあることなり、又天ノ下にうけばりてこそあらね、一国一里一家の内につきても、ほどほどに神なる人あるぞかし、さて神代の神たちも、多くは其代の人にして、其代の人は皆神なりし故に、神代とは云なり、又人ならぬ物には、いかづちは常にも鳴ル神神鳴リなど云ヘば、さらにもいはず、タツダマ狐などのたぐひも、すぐれてあやしき物にて、可畏ければ神なり、(中略)又虎をも狼をも神と云ること、書紀万葉などに見え、又桃子モモ意富加牟オホカムミノ命と云名を賜ひ、クビタマクラナノ神と申せしたぐひ、又イワ木株コノタチカヤノカキバのよく言語モノイヒしたぐひなども、皆神なり、さて又海山などを神と云ることも多し、そは其ノ御霊の神を云に非ずて、直に其ノ海をも山をもさして云り、此らもいとかしこき物なるがゆゑなり、)そもそも迦微は如此く種々にて、貴きもあり賤きもあり、強きもあり弱きもあり、善きもあり悪きもありて、心もシワザもそのさまざまに随ひて、とりどりにしあれば(貴き賤きにも、段々キザミキザミ多くして、最賤き神の中には、イキホヒすくなくて、凡人にも負るさへあり、かの狐など、怪きわざをなすことは、いかにかしこく巧なる人も、かけて及ぶべきに非ず、まことに神なれども、常に狗などにすら制せらるばかりの、イヤシき獣なるをや、されど然るたぐひの、いと賤き神のうへをのみ見て、いかなる神といへども、理を以て向ふには、可畏きこと無しと思ふは、高きいやしき威力チカラの、いたくタガひあることを、わきまへざるひがことなり、)大かた一むきに定めてひがたき物になむありける」

(同第28集 77頁1行目~)

 

宣長は、古人に準じて、何か恐るべき力をもった人や、海や山、木、こういったものを神秘的なものとして信じ、尊敬の態度、親愛の態度を示しました。これは人間が人間として生まれた原初的な経験であり、まだ自分たちはそれを持っており、人間の根本的な経験としてこれを信じると宣長はいうのです。

(了)

 

神に名をつけること

「古事記」の「神代カミヨノ一之巻ハジメノマキ」には神々の名が次々に登場します。

天と地とが始まった時に、高天原たかまのはらには天之アメノ御中主ミナカヌシノカミタカ御産ミムビノカミ神産カミムビノカミという三神がお出になり、「独り神」として姿を隠していらっしゃった。一方、大地は浮いた脂のごとくクラゲのように漂っていた頃、そこに葦の芽のように萌え出したのが宇摩志阿斯訶備比古遅ウマシアシカビヒコヂノカミでした。この神もまた高天の原に生じた神々と同様に姿を隠してしまわれるが、その後も続いて神を生じさせ、独り神から男女対偶の神となり、ついには伊邪那いざな伊邪那いざなという兄妹が誕生します。この二神は、天空に浮かぶ天の浮橋にお立ちになり、大地以前の地表をかき回してシマをつくり、その島に降りて結婚し、蛭子ルゴを生むという失敗の後、大地や島を生み、風や木や山や野といった自然を神として生み出しました。こうした流れで次々に神の名があげられます。

小林秀雄著『本居宣長』を読んでいると、次の文章に目がとまります。小林氏は「『古事記』の『神代カミヨノ一之巻ハジメノマキ』は、神の名しか伝えていない。『古事記』の筆者が、それで充分としたのは、神の名は、神代カミヨの人々の命名という行為を現している点で、間違いのない神代の事跡コトノアトだからだ」といいます。「神の名しか伝えていない」ことで充分としたというのはどういうことなのでしょうか。

その答えを得るべく、さらに読み進め、また戻って読み返してみて、それについてふれられている文章をまず取り上げてみます。

 

古い時代、世上に広く行き渡っていた、迦微カミに関する経験にしても同じ事で、先ず八百万の神々の、何か恐るべき具体的な姿が、漠然とでも、周囲に現じているという事でなければ、神代の生活は始まりはしなかった。

その神々の姿との出会い、その印象なり感触なりを、意識化して、確かめるという事は、誰にとっても、八百万の神々に命名するという事に他ならなかったであろう。「迦微と云は体言なれば」と宣長が言う時、彼が考えていたのは、実は、その事であった。彼等は、何故迦微を体言にしか使わなかったか。体言であれば、事は足りたからである。「タダに神其ノ物を指シて」産巣日神と呼べば、其ノ物に宿っている「す」というハタラきは、おのずから眼に映じて来たし、例えば、伊邪那岐神、伊邪那美神と名付ければ、その「誘ふ」という徳が、又、天照大御神と名付ければ、その「天照す」徳が露わになるという事で、「コトバココロナラビニスナオ」なる「迦微」と共にあれば、それで何が不足だったろう。(小林秀雄全作品 28集 84頁10行目~)

 

迦微をどう名付けるかが即ち迦微をどう発想するかであった、そういう場所に生きていた彼等に、迦微という出来上がったことばの外に在って、これを眺めて、その体言用言の別を言うような分別ふんべつが、浮かびようもなかった。言ってみれば、やがて体言用言に分流する源流の中にいる感情が、彼等の心ばえを領していた。神々の名こそ、上古の人々には、一番大事な、親しい、生きた思想だったという確信なくして、あの「古事記伝」に見られる、神名についての、「誦声ヨムコエあがさがり」にまで及ぶ綿密な吟味が行われた筈はないのである。(同85頁4行目~)

 

そして、暗記すべきほどに最も重要であると池田雅延氏が指摘されているのが次の文章です。

 

上古の人々は、神に直かに触れているという確かな感じを、誰でも心に抱いていたであろう。恐らく、各人かくじん各様の感じは、非常に強い、圧倒的なものだったに相違なく、誰の心も、それぞれ己れの直観に捕えられ、これから逃れ去る事など思いも寄らなかったとすれば、その直観の内容を、ひたすら内部からあきらめようとする努力で、誰の心も一ぱいだったであろう。この努力こそ、神の名を得ようとする行為そのものに他ならなかった。そして、この行為が立会ったもの、又、立会う事によって身に付けたものは、神の名とは、取りも直さず、神という物の内部に入り込み、神のココロを引出して見せ、神を見る肉眼とは、同時に神を知る心眼である事を保証する、生きた言葉の働きの不思議であった。(同86頁15行目~)

 

神仏という絶対的存在の名を呼ぶ、称えるという行為が現代でも宗教の一番大切な行いとして日々の生活の中に溶け込んでいます。例えば仏教の場合、ナムアミダブツやナムシャカムニブツは念仏や称名といわれ、仏の名を呼ぶことで、仏がまさに自分の前にあらわれ、我々を救ってくださるという。

こうして名を呼ぶことで神仏から「直かに触れているという確かな感じ」を受けることによって大きな安心を手に入れることになります。そして人々はますます信仰の思いを強くするのでした。そうした言葉による確かな手応えは上古の時代からあって、人々は一番大事で身近ではありますが、よくわからない恐るべき存在が神仏であり、本居宣長が「何にまれ、尋常ヨノツネならずすぐれたるコトのありて、可畏カシコき物を迦微とは云なり」というように、「上は産巣日神から、下は狐のたぐいに至るまで、善きも悪しきも、貴きも賤しきも、強きも弱きも、驚くほど多種多様な神々が現れていた」と述べます。神々に共通な、神たる特質は「可畏き物」という存在だったのです。そしてその一つ一つに名前を付けたのでした。

神を畏れつつも、神の名を呼ぶことで神とちかしい、あるいは一体であるという豊かな充足感が人々の日常を支えていたし、「古事記」の編纂の上でも当然の前提として存在していたと考えます。

神の名について「本居宣長補記 Ⅱ」には次の内容の記述があります。(同362頁)

宣長晩年の述作に「伊勢二宮さき竹の弁」と題する伊勢二所大神宮の祭神についての考証があり、外宮の祭神について中世の頃より様々な異説が行われていたことが述べられます。

「内宮と並び祭られる外宮の祭神が、食物の神であるとは、まことに心もとない次第である」、「例えば、祭神を天ノ御中主ノ神とか国ノ常立ノ尊とかする合理的解釈によって、人を納得させる道も開けたとする」とする考えについて宣長は次のように語ります。

「そもそも世ノ中に、宝は数々おほしといへども、一日もなくてはかなはぬ、無上至極のたふとき宝は、食物也。其故は、まづ人は、命といふ物有て、万ヅの事はあるなり」と。

これを承けて、小林氏は次のように述べます。

食欲は動物にもある、という事は、人間の食べ物についての経験は、食欲だけで、決して完了するものではないという意味だ。では、どういうところで、どういう具合に、人間らしい意識は目覚めるのか。この種の問いに答える為に、「食の恩」と言う言葉ほど簡明適確な言葉が、何処に見附け出せようか。いや、この意識の目覚めと、この言葉の出現とは同じ事だ。そう、宣長は言いたい。彼の信ずるところによれば、人生に於ける食物の意味合は、「食の恩」という言葉で、完了するわけだが、更に言えば、「食の恩」を知るという情の動きは、そのまま、感謝の対象を、想像裡に描き出す働きでもあった。それも、神の御名が称えられるほど、鮮やかに描き出す働きでもあった。そういう古人の内容充実した経験豊かで、間然するところのない認識の姿は、「神代の伝説のこゝろ」を、吾が「こゝろ」としてみようと努めさえさえすれば、又、その上で、持って生れた想像の力を信じ、素直に、無邪気に、これに従って行きさえすれば、誰の心中にも歴然たるものがあろう。宣長は、これを、人間に本来備わる智慧の現れ方と、素直に受け取れば足りるとした。(同364頁19行目~)

 

古事記の「神代カミヨノ一之巻ハジメノマキ」が「神の名しか伝えていない」のはこういう理由からでした。私たちが「古事記」を読むにあたっても現代人の感覚を見直して、古人の思いを想像し、古人の気持ちになって読むこと、これこそが欠くことの出来ない、たいへん大切なことだと感じられました。

(了)

 

萬葉集の恩人、契沖、仙覚

作品『本居宣長』(新潮社刊)には古典の大家が多く登場し、古典作品の学び方、味わい方を教えてくれる。その最も重要な方法が「模傚」である。「模傚される手本と模傚する自己との対立、その間の緊張した関係そのものが、彼らの学問の姿だ」と小林秀雄先生はおっしゃる。先生のいう「模傚」とは何かについて考えてみた。

宣長はもちろん、本書で登場する伊藤仁斎や契沖、荻生徂徠、賀茂真淵といった「学問界の豪傑」たちは皆この方法によって自らの研究を進めていった。ここで多くのページが割かれている契沖(1640-1701)は、萬葉研究者でかつ真言宗僧侶であり、たまたま、私自身が仕事で最もふれる機会が多かったのが「萬葉集」と「真言密教」であったので、関連した知識が今回「模傚」を考えてみる上で少しは役に立つかもしれないと思った。

契沖は、宣長の自己発見の機縁となった人であり、学問とは何か、学者として生きる道とは何かをその著書に示した人である。

昨年、本誌の2018年(平成三十年)8・9月号で「やすらかにながめる、契沖の歌」という坂口慶樹氏の文章を読み、大いに触発されて、まず久松潜一著『契沖』(吉川弘文館)を買い求め、通読し、そしてすぐに私も大阪の、契沖が住職をつとめた妙法寺と隠棲した円珠庵を訪れてみた。久松博士は、私が長年編集担当した中西進氏の指導教授としてお名前は存じ上げていたが、はじめて手にする本だった。円珠庵には契沖の墓があるが一般の人は中に入れず、外からお参りした。妙法寺には契沖の供養塔と慈母の墓があり、こちらもお参りさせていただいた。お墓参りが趣味というわけではないが、鎌倉東慶寺の小林秀雄先生のお墓はもちろん、二十数年前には導かれるように松阪樹敬寺の本居宣長の墓に参っている。墓参りをするとその人と通じ合えるように感じる。

坂口氏は大阪の契沖遺跡に足を運ぶのみならず、契沖が生涯にわたって詠み続けてきた歌を収めた『漫吟集類題』(契沖全集 第十三巻)を入手し、六千首もの和歌に目を通して小林先生のいわんとすることを感じ取ろうとされていた。こうした態度がまさに「模傚」することなのだろうと私は理解した。池田雅延塾頭もご指摘下さる、「模傚」すること、徹底的に真似をすることで自我がなくなることを「無私を得る」と小林先生はおっしゃっているのではないかと。「無私を得んとする努力」すなわち「模倣」によって自らの学問は深まっていくのではないかと。

本居宣長にとって契沖はまさに「模傚」の対象であった。契沖について第一人者の久松博士は次のようにおっしゃる。

‥‥古典そのものを科学的に扱い、自由な討究精神によって古語を明らかにしようとしたのが契沖である。‥‥近世の黎明は契沖らによって開かれている。‥‥

 

ここで少し廻り道をする。新元号「令和」が発表されて間もない平成三十一年四月七日、鎌倉駅にほど近い妙本寺に立ち寄った。海棠の花を見るためだ。小林秀雄「中原中也の思い出」の舞台だった。

‥‥晩春の暮れ方、二人は石に腰掛け、海棠の散るのを黙って見ていた‥‥

この文章に魅かれてのことだ。鎌倉駅から妙本寺までは歩いて十分ほど。ここの住職であった仙覚(1203-1273)は、萬葉研究者として知られた人だとこの時はじめて知る。この場所で萬葉集諸本の校合を行ない、それをもとに注釈を加えた『萬葉集註釈』を後に刊行する。境内には仙覚の業績を讃える「萬葉集研究遺跡」と記された石碑があった。『仙覚全集』を編纂した佐佐木信綱博士(1872-1963)は「仙覚の仕事がなければ、萬葉集の全体像は今日に伝来することはなかっただろう」という。

新元号「令和」は萬葉集を典拠とすると発表されて以来、萬葉集の詠まれた故地や、編者大伴家持や、その父旅人の赴任先はこの日大いに賑わったとニュースで出ていた。

寺を出てしばらく歩いてふと思い出した。この妙本寺の住職は私が長らく勤めていた出版社の最初の支援者ではなかったかと。すぐ調べてみるとやはりその通りだ。現在が八十二代目、支援者が七十九代目であった。ここは本山なので世襲ではなく、日蓮宗内の有力寺院の住職が貫主として晋山して勤め上げる。その出版社で萬葉学者、中西進氏の著作集三十六巻を上梓したが、中西氏当人は今年、新元号「令和」の発案者であろうと話題になっていた。

こうしたこともあり仙覚についてもっと詳しく調べたいと思った。小林先生、本居宣長関係で探してみる。そして本誌『好・信・楽』2018年2月号所載の「小林秀雄『本居宣長』全景」九で池田塾頭の文章に行き当たる。

‥‥特筆されるのは鎌倉時代の僧、仙覚である。仙覚は十三歳で「萬葉集」の研究を志し、四十四歳の年に諸本を見る機会を得て校訂本をつくり、それまでは点(漢文訓読の補助記号、または注釈)のついていなかった一五二首に訓をつけた。その後も校訂作業を続けて仙覚新点本を完成させ、最後は「萬葉集註釈」を著して難解歌八一一首に注を施すなどした。この仙覚の校訂事業と注釈は、「萬葉集」の享受・承継史上、不滅の意義をもつとされている。

 

それ以降、鎌倉を訪れるたびに、妙本寺を訪れるようにしている。本堂の裏あたりに葬られているとの記述があったので、境内で出会った副住職と役僧であろう人に確認をした。そのように伝えられているとのことだったので、そこで毎回手を合わせている。この人物がいたからこそ萬葉集が現代に伝わっているのだ。

久松潜一『契沖』によると、契沖の学問を代表する『萬葉代匠記』では、初稿本では(下河辺)長流の説を多く引いているが、それは精撰本ではすべて削り、顕昭や仙覚の説を多く引用している。また方法の上にも仙覚の道理と文証という方法をうけついだとされる。

この内容を読んで、さらに仙覚について知りたくなる。現在、仙覚について研究をされている方はいるのか。検索してみると、青山学院大学教授小川靖彦さんがいらっしゃった。小川氏は中学生の頃、中西進氏の『天智伝』に感銘を受けてすぐに会いにいったというエピソードの持ち主で、私も原稿執筆をお願いしたことで面識のある方だった。著書『萬葉学史の研究』にも仙覚についての踏み込んだ考察がなされているようなので、『仙覚全集』とあわせて、今後の楽しみとし、「模傚」を実践してみたい。

 

この夏、「新潮CD 小林秀雄講演」を聴くことにした。一度に全巻は購入できないので、最初の一巻は何を買うか迷った。最終的にはジャケットで決めた。夏だから海の写真の第八巻「宣長の学問/勾玉のかたち」にした。当たりだった。昭和四十年・國學院大學での講演で、講師紹介を行っているのが久松潜一博士だった。小林先生も学生時代に講義を受けていたようだ。まさか久松博士の声としゃべりが聴けるとは思わなかった。しかも本巻CDの解説を書いているのが池田塾頭の「新潮講座」等でお世話になっている國學院大學教授の石川則夫さんだった。前回私が執筆した原稿(本誌2019年1・2月号所載)同様、石川さん、坂口さんには今回も拙文に登場していただくことになった。偶然である。昨秋、下諏訪温泉のコンビニ近くのベンチに三人すわり缶ビールを飲んだひとときが懐かしい。

(了)

 

下諏訪「みなとや旅館」紀行

小林秀雄先生お気に入りの宿として知られる下諏訪「みなとや旅館」に宿泊した。いつか必ず行こうと決めていたがなかなかその機会がなかった。本誌2018年6月号、8・9月号で國學院大學の石川則夫先生が宿泊した時のことを寄稿されていたのを読み、とても羨ましく思っていたところ、再訪への同行にお声かけいただき、この日がただただ待ち遠しかった。

JR中央本線上諏訪駅で下車して、レンタカーでそれぞれ離れた場所に鎮座する諏訪大社四社を参拝する計画だ。1社目は下社秋宮へ。神楽殿にて正式参拝。御神木を御神体としてお祀りしており、御神木を中心に四隅に御柱おんばしらとよばれる大木を立てる。御神木は外からは見えない。この大木を曳き立てる奇祭として知られる御柱祭について、場所を移してDVDを観る。天にも届くような甲高い声の木遣り歌が私の心を大きく揺さぶり、そしてひどく高揚させる。多くの男たちが命の危険を冒してまで大木に乗って急坂を滑り落ちたいと思うのも無理はないと思った。その大木は上社では八ヶ岳中腹横川国有林から25キロの距離を曳く。下社では八島高原東俣国有林から10キロを里曳きする。御柱祭の曳行・建立は氏子の神社への奉仕によって行われる。大祭の年は婚礼や葬儀は控えめになり、家屋新築も見送られるなど、諏訪地方では最も重要な祭事として位置づけられるのだ。

2社目、下社春宮に向う。春宮は秋宮から北西に1.2キロ離れた地にあり、毎年2月から7月まで祭神が祀られる。秋宮よりこぢんまりとした感じだが、近くには砥川が流れていてせせらぎが気持ちのよい空間をつくり出している。

そして木落し坂へ。傾斜は35度、100メートルの長さがある。上から覗くととても乗れそうにない傾斜だ。落ちたらすぐに車道で、川が車道に沿って流れている。ここで記念撮影する宿主と小林先生ご夫妻の写真、そして秋宮で宿主と撮影した小林先生の写真が写真集『みなとやつれづれ』に収載されているが、雑誌の特集などで見る緊張感のある鋭い眼差しの先生とはちがってとても柔らかい温和な表情をなさっている。

「みなとや旅館」に着く。荷物を上げて順々に入浴する。外湯で湯船からうまい具合に月が見える。諏訪大社の御神湯として千年の歴史を持つ名湯「綿の湯」が引かれている。湯船には白い玉砂利が敷かれまわりは手入れの行き届いた庭だ。「ほんとうに温泉が好きなら、この風呂で体を洗うことはコケなことだ」と小林先生がおっしゃったのもうなずける。

いよいよ夕食だ。テーブルには大皿に馬刺、諏訪湖のワカサギ、小エビ、フナ、ザザムシ、イナゴ、蜂の子、コゴミ、ヨシナのコブ、アザミ、ジゴボウなどが素材の特長を生かして調理されている。小林先生ともご一緒にいただきたいということで、席をもうけて写真を立てかけ徳利と盃を用意する。お酒がすすんでくると女将の小口芳子さんがご自分用の小椅子をもってきて小林先生のことを話して下さる。

小林先生はこの宿での白洲正子さんとの会話の中で「諏訪には京都以上の文化がある」といわれ、求めに応じて、それを書き留められた。今回実物を拝見できなかったが、先生のおっしゃる「京都以上の文化」とは何を指すのか自分で確かめてみたいという気持ちが今回の旅にはあった。小林先生は具体的に何をさしておっしゃったのだろうか。

食事の席に話を戻す。熱燗がすすむ。小林先生も一緒に召し上がっている気配を感じる。かつて私はこの諏訪の「ぬのはん」という宿で中沢新一氏の対談の収録をした。小林秀雄賞を受賞されて間もない頃ということもあってか、終った後の食事の席で小林先生のことを中沢氏が口にした。こうした席での小林先生はたいへん厳しかった、余計なことを話す編集者はひどく怒られたと聞く。それはその時の我々の不用意な言葉に対する戒めであったのだが。小林先生の著作のように文学史に残る本を出版することは、担当する編集者はいかに大変だっただろうかとその後想像をめぐらせたことを覚えている。今回偶然にも小林先生の担当をされていた池田塾頭とご一緒させていただいている。不思議な巡りあわせだ。

翌朝5時45分に宿を出発して春宮の朝御鐉あさみけ祭へ。御祭神に朝の食事を捧げる神事である。四社ともに朝六時に行われるが、「川のせせらぎが聞こえて私は一番好き」という若女将のことばが決め手となり春宮へ。まだ薄暗く静寂につつまれた境内。見物する人は我々だけで、川の流れる音に心が洗われるような時間であった。

宿に戻って朝食となる。キジのガラだしによるそば雑炊だ。小林先生もたいへんお好きだったとのこと。そう聞くとさらにおいしく感じられる。これを目当てに来る人もいるとのことだ。昨晩からここでしかなかなか味わえない品々に驚きの連続だ。ここで塾頭は突然気付いたようにおっしゃった。「『諏訪には京都以上の文化がある』の『諏訪』って、この『みなとや』を指して言われたのではないかな。『京都』というのは小林先生の定宿だった『佐々木』でしょう。つまり、諏訪の『みなとや』は京都の『佐々木』に勝るとも劣らない、それほど気に入った、という気持ちで言われたのではないかな」

「佐々木」は京都清水五條坂にあった料理旅館だ。祇園の一流の芸妓であったお春さんがはじめ、その姪の佐々木達子さんがその後を継いだ。近衛文麿、吉田茂、志賀直哉、里見淳、河上徹太郎、吉田健一等々が贔屓にしていた隠れ宿だ。

白洲正子さんの随筆集『夕顔』収録の「京の宿 佐々木達子」によると、小林先生は「この宿屋は国宝だよ」といって愛していたとある。続いて以下のように書かれている。

名妓であったおばさんには、多分にお譲ちゃん的なわがままなところがあり、それが魅力でもあったが、長年下積みで苦労した達子さんは我慢強かった。私たち一家はどんなに彼女のお世話になったかわからない。祖父、――つまりおばさんの父親が気難しい板前であったので、彼女は小さい時から料理が上手で、味にはうるさかった。京都の料理屋は隅から隅まで知りつくし、料理ばかりでなく、それは日常の生活万端に及んでおり、これはと思う老舗では「佐々木」といえばどこでも一目置かれていた。すべてそうしたことは先代のおばさんから受け継がれた訓練によるが、彼女はそれに応え、たださえうるさい客たちに至れりつくせりの接待をした。そういうものこそ私は、千年の歴史を誇る京都の「伝統」と呼びたいのだ。

小林先生は何でもご自分の体験によってでしか語られない。諏訪の「みなとや旅館」での滞在が先生にとってはたいへん満足のいくものだったのだろう。

 

2日目は最初に神長官守矢もりや資料館へ。諏訪大社の祭祀を司った守矢家の屋敷にある。この建物を設計したのは藤森照信氏だが、そのいきさつについては中沢新一対談集『惑星の風景』で藤森氏との会話の中で詳しくふれられている。照信という名は第77代神長官守矢真幸氏が付けた。第78代の守矢早苗氏も藤森氏と幼なじみというご縁があり、茅野市役所から設計を依頼された。自然の素材である石とか土とか木をかなり荒々しく使って建てられている。1991年開館で藤森氏にとってはデビュー作だ。この神長官守矢資料館には、神様と一緒に「生肉食う」とか、「血の滴る首を捧げる」とか、「脳味噌をまぜた肉」を捧げるという、当時の諏訪信仰の一番原始的な部分を再現してある。御頭祭を見聞した菅江真澄のスケッチをもとに復元している。御頭祭では鹿の生肉や脳味噌あえや焼き皮を夜を徹して神人とともに食した。屋敷内の小高くなった場所にはミシャグチを神社として祀る。諏訪社の神事ではこのミシャグチ神は非常に重要な役割を果たしていたという。

3つ目の上社前宮へ。ここはたけ方神かたのかみが出雲から諏訪に入った時、最初に鎮座した地とされ、諏訪大社四社の中で最も古い由緒をもち、かつては祭事の中心であった。祭神は、中世まではミシャグチ神、現在は八坂やさか刀売神とめのかみで、諏訪信仰の発祥の地と伝えられる。諏訪市立博物館。4つめの上社本宮で正式参拝を終えて、最後に地元の銘酒「真澄」をおみやげに購入するため「セラ真澄」に立ち寄る。諏訪大社の宝物「真澄の鏡」にあやかって命名されたという。「みなとや旅館」でいただいた熱燗も「真澄」だ。あまりにおいしかったので買って帰ろうとするが、「真澄」にもいろいろあってどれかわからない。連れの一人、坂口慶樹さんはお酒に詳しいので「坂口さん」と呼ぶと、そばにいた塾頭は「サケグチですよ」とおっしゃる。きのうに引き続き2度目だ。1回目は単なる冗談かと思ったが、ひょっとして深い意味があるのではと思い、調べてみた。

柳田國男の『石神問答』という本によってシャグジと関係のあると思われる地名として指摘されている中に坂口山(さくちやま)とある。また『精霊の王』の中で中沢氏は批判的ながらも次のように民俗学者中山太郎氏の推論をとりあげている。

御左口神〔ミシャクジ〕を、中山太郎は酒の神であると考えている。古い時代は酒は女性が噛んでつくるものだった。今では酒造りを技とする職人を「杜氏」と言っているが……御左口神とは酒殿の御祭神であると考えたわけである。

お酒を買う。昨日「みなとや旅館」で出たお酒の銘柄もわかった。だれかがショップの人に聞いたが、サケグチさんの舌はあたっていた。帰りの電車の中でおいしくいただきながら、新宿駅に着く。別れ際に塾頭は、今回のことを原稿にまとめるようにと再度おっしゃった。行きよりもやや重くなった荷物を背負って帰路についた。

(了)