「本居宣長」と現代医学

昭和52年に出版された「本居宣長」は、当時四千円の本で、貧乏中高生だった私は安価な第四次全集版で読んだ。読んだと言いつつ、私にとっては非常に難解な著作で、読み進むのに大変苦労した。第五章までは宣長の伝記的記述が多いが、その後、契沖あたりから、無学な私には途端に読みにくくなった。後に出た『小林秀雄全作品』(第六次全集)と異なり、第四次全集は注釈など一切無い。よって何度も挫折した。正直、告白すると、私が「本居宣長」をまともに読んだのは、『全作品』が出てからである。

裏を返せば、第五章辺りまでは当時から繰返し読んだ。特に第三章は、医師としての宣長の記述があり、親近感を持った。私は医学部を目指していたのである。小林先生がその後、昭和57年から大病をされたことは全く知らなかったが、私は医学生になっていた。たしか、亡くなる前日に危篤である旨の新聞記事が出て、その後、死亡が伝えられた。当時購読していた新聞にも大きく報道された。私はその時の記事の切り抜きを今でも大切に持っている。また、当時のマスコミがこぞって追悼特集を出したのは周知の通りである。

今、実際に医師になってみて「本居宣長」を通読してみると、現代医学との関連を想起させる箇所があちこちに見られる。平成28年10月の池田塾で口頭質問させていただいたが、もう一度振り返ってみたい。この時に私が注目したのは、第二十五章の「ざえ」と「大和魂」「大和心」についてである。これは小林先生の講演にも出てくる有名な言葉であるが、『全作品』第27集から見ていく。まずは「源氏物語」である(278頁)。

「猶、才を本としてこそ、大和魂の世に用ひらるる方も、強う侍らめ」―「才」は学才、学問の意味だ。学問という土台があってこそ、大和魂を世間で強く働かすことも出来ると、光源氏は言う。すなわち「大和魂」は、「才」に対する言葉で、意味合が「才」とは異なるものとして使われている。「才」が、学んで得た智識に関係するに対し、「大和魂」の方は、これを働かす智慧に関係する。

これを現代医学に当てはめると、「才」とは、科学的医学理論であり、統計学的有意を証明した医学論文であり、論文に基づく診療ガイドラインであり、人間を臓器に分割した専門分化であり、「個」を無視した最大公約数的な一般論であろう。今の時代、科学的理論や統計学やガイドラインや一般論だけを武器にして、機械的に臨床に従事する医師の何と多いことか。

しかし、個々の患者というのは、言うまでもなく、生身の人間である。生き物である。昔は「臨床医は患者から学べ」と盛んに言われたものだが、最近はそういう謙虚さを忘れ、「臨床医は各種データ(証拠)から学び、それを目の前の患者に当てはめる」ことが主流の時代になってしまった(Evidence-based medicine;EBM)。私が思うに、そんな時代だからこそ、臨床医は「才」を本としながらも、患者一人一人の個別性を感じ取り、親身になって全人的に診ようとする「大和魂」の心持ちが必要なのではないだろうか。

次は、「今昔物語」である(279頁)。

明法博士、善澄の家に強盗が押入った。善澄は、彼等が立去ると、後を追って門前に飛び出し、おのれ達の顔は皆見覚えた、検非違使の別当に訴え片っ端から召し捕らせる、とわめき立てた、これを聞いた強盗達は、引返して来て、善澄を殺した。物語作者は附言している、―「善澄、才ハメデタカリケレドモ、露、和魂ヤマトダマシヒ無カリケル者ニテ、カカル心幼キ事ヲ云テ死ヌル也」、善澄は、学問は立派だったが、大和魂を少しも持ちあわせていなかった、そのためこういう幼稚なことを言って殺されたのである……、と。「大和魂」という言葉は、ここでも学問を意味する「才」に対して使われている。机上の学問に比べられた生活の智慧、死んだ理窟に対する、生きた常識という意味合である。両者が折合うのはむつかしい事だと、「今昔物語」の作者は言いたいのである。

この「才」と「大和魂」とが折合うのが難しいという現実は、現代の臨床医たちにも当てはまっていると思われる。最先端の医学知識に精通した医師と、生きた智慧を持った医師とを兼ねることは、実際には難しいことなのである。なぜ難しいのか。医学部での医学教育や医師国家試験は自然科学の上に立脚しており、「才」のみ重視する医師が量産されている現実がある。宣長は「うひ山ぶみ」で、「やまと魂を堅固カタくすべきこと」を繰返し強調しているが、実際には漢意儒意(才)に惑わされて「やまと魂」がかたまりにくいことを指摘している(284頁)。今の臨床医たちも、押し寄せる医療情報の大群に妨げられて大和魂が固まらない。才さえあれば、とりあえず医者はできる。新たな才を発見すれば医学学会で評価もされる。しかし、臨床医として真に理想とすべき姿は、やはり才を本として大和魂を用いることであろう。

続いて、小林先生は赤染衛門の歌を読ませる(281頁)。

文章もんじょう博士、大江匡衡まさひらの家で乳母を雇ったが、その乳母の乳が乏しい。そこで匡衡は、こういう歌を詠んで妻赤染衛門に贈った、―「はかなくも 思ひけるかな もなくて 博士の家の 乳母めのとせむとは」、満足に乳が出ないというのに、知の家である我が家の乳母になろうなどとよくも思ったものだ……。これに対して赤染衛門はこう返した、―「さもあらばあれ 大和心し 賢くば 細乳ほそぢに附けて あらすばかりぞ」、大和心が賢い女なら、無学でも、子供に附けて置いて、一向差支えないではありませんか……。人間は、学問などすると、どうして、こうも馬鹿になるのか、この女流歌人も、学者学問に対して反撥する気持を少しも隠そうとはしていないと小林先生は言っている。

上古の日本人の生き方を理想とした小林先生は、現代医学の科学的側面を全否定し、名医の直観や自然治癒を大切にされたという。自然治癒は、特にウイルス性疾患にはとても大切なことで、風邪をひくと寝室にひきこもり、西洋薬には頼らなかったという先生の療養態度は、逆説的だが、実は合理的なのである。先生が身体を張って体感したこの常識は、現代医学も後追いの形で保証をしたのである。「本居宣長補記Ⅰ」(『全作品』28所収)で言われている、宣長の「真暦考」に現代天文学が決定的な表現を与えたのと同じであった。

人間は、大きな力に生かさせてもらっている以上、それに協力することが大切であり、人為的医療が万能と考えるのは人間の傲りであろう。医学的俗言の中には迷信も混じってはいるが、小林先生が終始心がけられたという「頭寒足熱」のように、いわゆるホンモノも数多くあるのである。患者側も、データしか見ないような医師に頼り切るのではなく、自分の命を守るためには、自分自身の身体の仕組みや体調の変化を、小林先生のように、もっと真剣に「感じ取る」べきである。

小林先生の存命時と比べて、今の医療はさらにデータが重視される時代になった。医療だけではない。あらゆる分野で「才」や「証拠」が重用されている、と言ってもよい。そんな大和心を捨てた現代人に対し、先生はどんな眼差しを向けられ、どんな言葉を発せられるであろうか。こういう想像にこそ、現代を生きるヒントがあるように、私には思われる。

 (了)

 

墓と遺言書について思うこと

小林秀雄の旧宅、山の上の家で行われている「小林秀雄に学ぶ塾」に参加するようになって、はや丸4年がすぎた。池田雅延塾頭の導きのもと、小林秀雄晩年の大作「本居宣長」を12年かけて皆で繰り返し読破するという壮大な計画も、気づけば三分の一が終わってしまった。この間、「言葉」「歴史」「道」というテーマを塾頭から与えられつつ、己が問いを発する訓練をそれぞれに行っているのであるが、私はなぜかこれまで、導入部の総論の文章に囚われてしまい、飽きもせずこの部分を眺めつづけている。そして、「宣長の墓と遺言書について、宣長らしさについて」を、己が問いとして抱きつづけている。

問い:宣長の遺言書について、小林先生は「宣長らしい」という。墓については「簡明、清潔で、美しい」という。逆に、それ以外のことはほとんど何も言及していない。宣長の遺言書とそれに基づいて作られた墓は、宣長という謎めいた人物の謎の一つである。そしてこの謎が、一つの起動力となり、最終的に小林先生の宣長について書きたいという内的衝動が実際に動きだしたのかもしれないなぁと思う。「最後から逆に宣長の人生をたどろうとしている訳ではない」と言ってはいるが、やはり本の最初に遺言書が出てくる意義は深いのではないかと考えている。小林先生のいう宣長らしいとはどういうことだろうか。

以下、自分なりの遺言書に関して思うことを書く。

小林は、宣長の遺言書をまるで随筆と感じ、宣長の人柄をまことによく現し、思想の結実、独白、最後の述作と言いたいという。宣長があと数年長生きすれば、この遺言書が台本となって、宣長とその周囲の人々による、もう一つの思想劇(対話劇ともいえるか)が繰り広げられ、現存する以上に、宣長にまつわる記録が残った可能性もあった。でも実際には、遺言書に関しては弟子たちとの本格的な対峙がないままに終わってしまった。

宣長は何故このような遺言書を書いたのか、小林はなぜこの本の冒頭で遺言書を取り上げたのかは、私には、にわかには解き明かせない大きな謎である。どうしていつまでも「謎」なのか。宣長についての残された資料や史跡というのは、たとえばまるで私たちにとっては、一つの光源が一瞬の宣長の影を見せ、その残像を見たと思ったら、また別の光源が別の影を見せているかのようだ。追いかけているのはいつも本物の影ではなく、あたかも幻影を見ているかのように思えてくる。間に介在するものが増えれば、宣長の姿は幻影のそのまた幻影の幻影ぐらいに、ものすごく遠くてはかない。思うに、この影を追って行けばいいと確信できた人にだけ、影はその人にとって本物の影である。小林にとっては、遺言書とその墓が、宣長本体に繋がっている確かな影の一つだったのだと思う。「古事記伝」よりも、「紫文要領」よりも濃い影に見えた瞬間があったのかもしれない。影を追ってたどった足跡が一つの道となり、その先に真に見たいもの、心から欲したものがある、はずである。どこまで行けるかはその人次第。それはひとつの信仰ともいえるようなものに近いのではないか、とも考えている。

小林も若い頃から、「古事記伝」や「紫文要領」をはじめ、様々な宣長の著作や宣長伝などを通じて、宣長の影を色々と幾つも見ては消え見ては消えを繰り返したのではないか(小林は頭がいいから消えないでいたかもしれないが)。そしてとうとうこれぞという消えない影の尻尾をつかみ取り、逃さずに自分が光源となって、らせん階段を登るかのように影の本体を立体照射していった結果、得られた一つの宣長の姿というのが、この「本居宣長」という本になっているのだと思えてきた。自分は宣長の影をつかんでいるし見ていると確信して、言葉というのみで宣長の彫像を彫る。それはたとえば、天からの蜘蛛の糸のように信じてたぐっていくものである。一人で登っていようが、後ろに群衆がいようが関係ないのである。迷ったら消える。そういう影である。影ではなく別の言い方をすれば、小林にとって宣長の遺言書と墓は、宣長を覗くための遠めがねとも言えるし、宣長への冒険の入り口だったともいえるだろう。信じて使っている小林にとっては最高の遠めがねでも、信じていないし興味もない人にとっては見えないめがねであろう。小林にとっては入り口にみえても、信じていない人にはただの紙と石だろう。そういうもののたとえとしては、ハリー・ポッターの9と3/4番線ホームにも似ていると思った。

小林は若い頃から、宣長の世界へ壁抜けする意志はずっと持っていたと思う。そしていちばん間口が大きそうな「古事記伝」から入ろうとしたけれどしっくりせず、「源氏」も試したけれど今一つで、付かず離れず遠巻きに眺めながら入り口を捜し続けていたところ、あるとき遺言書と墓が、小林専用の宣長界への入り口に見え、まさにその時その扉が開いたのだと思う。そしてどこに通ずるかもわからない、戻ってこられるかどうかもわからないその入り口を信じて入った。だからこその小林のセリフが、「私が、ここで試みるのは、相も変わらず、やってみなくては成功するかしないか見当のつき兼ねる企て」(第1章)なのであり、宣長界を潜り抜けて出てきた最後のセリフが、「又、其処へ戻る他ない」、「その用意はした」(第50章)なのであると思う。自分一人で真っ暗な宣長という地下帝国を探検し、後続の人の為に小林風の地図を作ってくれたといえるかもしれない。小林は自分が見たと信じた影をたよりにひとつの宣長像という彫像を彫りぬいた。12年もかけてひとつの作品として仕上げた。入り口から入って、遭難せず、怪我もせず、無事に抜けて出てきたところが、かつての入り口と一致したのだと思う。相手は宣長である。真っ暗なブラックホールに飛び込むようなものである。

小林は還暦を過ぎてから宣長の執筆を開始した。満を持して、いよいよ始めるに当たって、もしかしたら意外と軽い気持ちで思い立った宣長の墓参りは、思いのほか宣長という人物に、一層の興味をかきたてるものがあったのだと思う。ある程度、年を取らなければ、あるいは末期がん等で自分の死を意識している人でもなければ、遺言書や墓になんて絶対本気で興味を示さない、と私は思う。誰しも、飛鳥の石舞台とか、エジプトのピラミッドを見れば、墓へというよりは古代への情緒をかきたてられるかもしれないが、普通は12年も考え続けられる思索の起動力にはならないのではないか。(中にはそういうことをきっかけにして、たとえば考古学者になる子供もいるかもしれないが少数派だろう。)遺言書に織り込まれた宣長の思想は、小林にとっては12年も考え続けられるほどに切実ななにかがあった。だから図として本にも取り入れた。なぜだか、それほどに、小林にとっては遺言書がなんとも面白く、魅力的なものにみえたようである。小林にしても墓に戻るつもりで書いていたわけではなかったと思うが、期せずしてというか、必然的にというか、戻ってきてしまったように見えなくもない。切実ななにかとして、「宣長らしい」というのは、ひとつのキーワードである気もする。

一つの理由として、今自分が考えていることとしては、遺言書は宣長だけで吟味されたものであり、弟子や門下の者たちとの論議が加わっておらず、おそらくはその後の書き直しや付けたしなどの推敲の跡もなく、純粋に宣長の肉声だけがそのまま保存されていることが大きいと思う。まさに独白が保持されているのである。小林の眼はいつも、何をしたか以上に、どうやって成し遂げたかを見たがる。完成品の舞台裏を見たがる。きれいに整った完成品には無いものを、生き生きとした気取りのない荒削りの宣長の肉声を、小林は遺言書から聞いたのではないだろうか。

先に述べた、資料や史跡が幻影ならば、自分が光源とはどういうことかといえば、自分が今この場に生きているということだと思う。本でも人でも絵画でも、何かと対峙して、自分が感じたこと考えたことというのが光であり、薄かれ濃かれ何かしらの影=記憶は生まれる。火傷するほどの影であることもあるだろう。逆にどんなに薄い影でも頭の片隅には記憶として蓄積され、次に同じことや似たことがあればよみがえり、徐々に濃くなり、再生可能な記憶になっていくのだと思う。

影をより鮮明に再生しやすいようにするにはどうすればいいか。人に語ればそれは整理され、書けば一つの姿となる。だから宣長は書いた。何でも描いた。宣長は書かなくても頭がいいからずっと覚えていたとは思うが、より精しく記憶するために、的確に無駄なく頭から出し入れするために、書くことを常としていたとは思う。そして書いて整えた最終稿を、基本的には著作として残していった。小林も、宣長の世界に入り込んで旅する間、一生懸命に想い考えて宣長の影が消えてしまわないように追い求めて書いた。時の流れの中で、光源の強弱はあったとしても、やむことなく宣長の全作品を投影しつくし、「古事記伝」という一番遠いところから出るのではなく、自分にとって一番近い遺言書からまた出てきたのだと思う。

宣長の遺言書も墓も、ものすごく個人的な物である。あるとき宣長は葬式について考えた。町でたまたま葬式に出くわしたのかもしれない。身近な人でないと具体的に想像しにくいが、空想にしても弟子や息子が死んだことを想像するのは忍びないから、自分の葬式と仮定してみた。役者、衣装も全部自分で考えてみた。そしたらますます楽しくなって式次執り行いのすべてを演出してみたくなったのだろう。そして彼の性分として、まずは第一次資料として書いておいた。まだまだ熟考して楽しむつもりだったのかもしれない。それはたまたま、後の世から見れば彼の死の前年だった。現存する遺言書はそういうものなのではないか、とまずは考えてみた。まだまだ時間があれば、より精巧になったか、はたまた違う考えが浮かび別のものをつくったか。でもしかし、相手は宣長である。一つの文体は一つの作品である。その時にしかできないものである。だから、宣長レベルの人では、第一次資料ではなく、すでにそれなりに出来上がった作品と言えてしまうのかもしれない。まだ荒削りではあったかもしれない。ただの台本で、舞台稽古も始まっていないような段階で、宣長は死んでしまった。終演を迎え緞帳が降りたとみなすべき舞台作品とはいえない類の姿で、肝心の宣長はこと切れてしまった。でも、別の見方をすれば、門下と議論を重ねた後の全くない、純粋に宣長の肉声だけで構成された希少品であるのではないかとも思う。

宣長という人は、伊勢の国松坂の一介の町医者である。都の暮らしも知ってはいるけれど、たとえば今のように新幹線に乗って、日帰りで年末に京都の南座をちょいと見に行くなんてできない時代。ならばお楽しみで、せめて自分の頭の中では最高の舞台を作ってみましょうという、なんとも子供らしい発想で、いつもいつも頭の中は一杯一杯の大忙しだったのだと思う。留学した京から帰ってきて以来、宣長は何十年も松坂でそのように暮らしてきた。そういう意味で、宣長は文筆、絵、演出、編集等々の何でもかんでもを、一人でこなしてしまう多様な作家であったといえるのではないか。なんとも稀有な人物である。制約の中でめいっぱい遊びきる「好、信、楽」の人であった。遺言書もそのような遊びの一端であり、でも本気であり、そしてたまたま時間的にも宣長の人生の終端に位置してしまったのである。小林は、期せずして最後の作品となってしまった遺言書や「枕の山」の桜の歌を、小作品だけれど宣長らしさが出ているとみなしているのではないかと思う。自分のことばかりを書いた遺言書をみて、小林は健全な思想家の姿が、其処に在るという。つまり、遺言書の体裁をとった独白であり、信念の披瀝だというのである。そこには生き生きとした当時のその時のなまの宣長の考え、肉声が、まるで瞬間冷凍されたかのように新鮮なまま残されていた、と小林には思えたのではないかと思う。だから遺言書や墓は小林と宣長を直接に繋いだのだと思う。

思うに、宣長は今を精いっぱい生きる人であった。自分の気持ちに正直な人であった。思ったことをすぐに実行して、先送りしない人であった。宣長は台本(遺言書)ができたら、上演してみたくなった。だから墓の候補地を見に行った。当時は、田舎の町民が旅の途中でもないのに、里から離れた山中を一人でフラフラしていたら、その家族は世間から白い目でみられてしまうことだろう。だから、宣長は墓の土地を見に行くのをあきらめるか、伴を連れて行くしかないのである。健全な常識的な松坂の一生活者として、71歳にして一人で墓候補地に行くという選択肢は存在しなかった。一方で、宣長の性格からして、見に行かないという選択肢もなかったであろう。家族に迷惑をかけない範囲で(それでも多々迷惑ではあったと思うが)、自分のやりたいことを存分にする人であり、今やりたいことを今やる人であった。小林はそういう宣長を、生きた個性とか独自な生まれつきという表現で表しているのだと思う。小林曰く、宣長は常に、身の丈にあっていることを、生活感情に染められた文体で表現した。もし宣長がもう少し長生きしたら、この遺言を廻って、弟子たちとの議論やすり合わせがあり、もしも対話による熟成があったら、宣長の墓は松坂では大流行のご当地様式にまで発展したかもしれないし、しなかったかもしれない。そういう思想劇を私たちは見損ねてしまったわけである。

山の上の家の塾に入ったことにより、このように「本居宣長」を読みながら、つらつらととめどなく思いを巡らすことができるようになってきた。入塾初年度に、この本を初めてまずは自分で通読した際、母国語である日本語の本とわかっていても、わからないまま、響かないまま最後まで行ってしまった体験が、今はただ懐かしい。第5章の終わりの「契沖は、既に傍に立っていた」というト書きと、第50章の「もう、終わりにしたい」というセリフだけが残った読書体験であった。それがいまではこの本に慣れたことにより、小林秀雄の声が少しずつ聞こえるようになってきた。塾で連れ立って松阪を訪れたこともあり、その際、本居宣長記念館の吉田悦之館長から、数々の資料を見ながら様々な宣長のエピソードを伺った。その経験からも、何となく、宣長の文章やエピソードは、いつでもどこでも、宣長らしいなぁと思わせるものが、確かにあるような気がする。でも、どこがどう宣長らしいのか、具体的には、なかなか上手く言葉にできない。第4章で宣長の「玉かつま」を引用した後に、小林は「……もし、ここで、宣長自身によって指示されているのは、彼の思想の源泉とも呼ぶべきものではないだろうか、そういう風に読んでみるなら、彼の思想の自発性というものについての、一種の感触が得られるだろう。だがこれには、はっきりした言葉が欠けているという、ただそれだけの理由から、この経験を、記憶のうちに保持して置くのが、大変にむつかしいのだ」と言っている。似た感覚ではなかろうかと思う。

こういう感覚を自分の中でより確かにしていくために、もっと上手に伝わるように言語化するために、この「本居宣長」という本を繰り返し読むことは、すごく楽しい。「思う」とか「気がする」とかひと言でいっても、理解度や把握度、直観度には雲泥の差はあるけれど、宣長を読んでいた小林にも、先に書いてあるようにこういう感覚はあったと思うし、この山の上の塾に参加しつづけている皆に共通する感覚だと思う。皆が個々に小林の声を聞いて、自分の中で鳴らして、自分の声にして、そして互いに共鳴することができたら、すごくいい音楽になるのだろうなぁと思う。

 (了)

 

小林秀雄に問うという奇跡

「人生如何に生くべきか」ということを生涯のテーマにした小林秀雄が、刊行までに十二年かけた大著「本居宣長」、その晩年の大著に編集者として寄り添った池田雅延氏とともに「本居宣長」を読む。場所は、それが執筆された鎌倉の通称「山の上の家」だ。いつも静かで、光の中、鳥たちの声に囲まれている。かつての主の椅子は塾生と共に部屋にあり、書斎もステレオも生前のままである。庭から見える相模湾は、季節ごとに朝昼夕といろいろな景色を見せてくれる。学びにかける歳月は、小林秀雄が刊行までにかけた歳月と同じ十二年。それらをひっくるめて“奇跡”だと思う。

私は、この「小林秀雄に学ぶ塾」が開かれた2012年から参加し、今年(2017年)で6年目となった。1年目は「美を求める心」を学んだ。「本居宣長」が対象となったのは2013年からである。私は毎月、広島から通っている。それを聞いて、すごいですねと驚く人がいる。どうしたらこの“奇跡”をうまく説明できるのだろうか。自分自身の当たり前も、人にとっては、すごいことになるのだ。

だから、余計にでも、他の人にこの感動を伝えたくなる。2015年から「池田塾in広島」を開かせていただいているのも、そのためだ。鎌倉の「小林秀雄に学ぶ塾」を、私たちは皆「池田塾」と呼んでいるが、果して、広島での参加者も、瞬時にと言っていいほど、池田塾頭の語る小林秀雄の魅力に捕えられた。ある中学校の校長先生は、翌日の朝礼で全校生徒にそのことを伝えられた。また、ある学生は、家に帰るなり、玄関で「お母さん、産んでくれてありがとう。こんな世界があるなんて知らなかった」と言ったそうである。

池田塾の学び方は、塾生一人ひとりが「本居宣長」を読んで、約300字の小林先生に向けた「質問」を提出する。池田塾頭はそれらを順次取り上げ、小林先生はこの質問にはこう応じられるであろうと話される。往々にして厳しい叱咤が飛ぶ、塾頭の脳裏に閃く小林先生の叱咤である。

塾頭は、質問者の質問の一点を衝いて、「そこにつまずいた」と表現されることがある。どこに「つまずく」かは、無論、人それぞれなのだが、そこから考え始めるということの自覚を促されている。私が当初、質問を作る時には、何かしら、小林秀雄の思想の本質をつかもうとでもするかのような、身の丈に合わない気負いがあった。その結果はどうだったかというと、ちゃんと「つまずく」ことができなかったように思う。最初の目標が大雑把すぎるということもあるだろう。しかし、正しく質問が作れなかったのは、私一人だけの問題でもないようだ。

塾頭は、よく「大学入試に問題がある」と指摘される。塾頭の話はいつも、小林秀雄がどういうことを語ったかを受け継がれているが、大学入試についても同じである。長く試験というものは、“正解”を強要するものであった。生徒は「先生は何かを隠している。それを当てればよい」ということになった。どんな科目でもこのパターンは変わらない。国語の長文読解もそうだ。自らを振り返ってみれば、知らず識らず、せいぜい数頁ほどの極々短い文章の中に “隠された正解”を探ろうとしていたのではないだろうか。そんなことを繰り返しているうちに、本文の全体像を読み取るということが、できなくなっていたようだ。

“正解”があるかのような勝手な思い込みは、質問を作る時に邪魔になる。大体、ここは学校ではないし、“正解”を速く類推するのを競う場所でもない。小林秀雄の著作を読み、「人生如何に生くべきか」を考える「塾」なのである。塾頭は、小林秀雄の批評家としての歩みを概括して、「人生如何に生くべきか、ということを生涯のテーマとした」と言われた。そして、その著作はどれも「結論を書いていない」。なぜなら、「人間誰一人として人生の結論など出せるわけがない、それが小林秀雄の結論」だからである。そのような作品を前にして、何が“正解”かもないだろう。また、小林秀雄が文章を書くにあたって、どれだけ言葉について考え抜いたか、それゆえに、本文を読むに際しては、小林秀雄の一語一語の選択に注意を向け、そこを書いているときの小林秀雄の心持ちを推し量りながらたどっていく必要があることを教えてもらった。つまるところ、本文を書く小林秀雄の事を想像できなければ、本当に読んだことにはならないのだと思う。これは他の作者の文章を読むときも同じであろう。

質問は自問自答という形で作成するのだが、本文を離れた独りよがりな空想や、他の思想家等を持ち出して、解釈のようなことをすることを、塾頭は厳しく戒められた。「つまずいた」ことは、私にとって意味があるし、そのことで自分を知ることもできる。あくまでも「本文熟視」こそ肝要で、「つまずいた」箇所から「最低でも前後十頁は読み返す」こと。そこには、必ず小林秀雄が、その言葉なり、文なりを表現した意味合いが読み取れる。なぜなら、「そういう風に小林先生は文章をお書きになった」からである。また、小林秀雄を語ったり、論じたりする者が陥りやすい「観念の遊戯」も厳に戒められた。小林秀雄が「人生如何に生くべきか、ということを生涯のテーマとした」ということは、何度でも思い出すべきことだと思われる。何も「いたずらに難しいことを書いたわけではない」のである。

また、本文から離れてしまうことを、塾頭は「精神の緊張に耐えられないせい」だと言われた。自分が「つまずいた」ところを、早く解決したくなり、考えが勝手に飛躍してしまいがちになるのだ。小林秀雄は「思考力の持続」の大切さを言っていたそうだ。この二つはものを考えるに際しての必須だということだろう。

この同人誌『好・信・楽』は、“小林秀雄に問うという奇跡”にでくわした多士済々の塾生たちの小林秀雄への質問・自答と、塾頭の「小林先生ならこうお答えになるに違いない」という返答の、真摯なやり取りであふれるだろう。感動は確かにあったのだ。「本居宣長」という畢生の大業を読みぬき、本意をつかみ取る上でこれほどの同行者はもう二度と現れない。きっと多くの人たちが、塾生一人ひとりの生きた学問の足取りの音を、また小林秀雄の著作をその生涯にわたり「好み、信じ、楽しんで」きた塾頭の声を聞き取り、受け取ってくれると信じている。

最後になりますが、このような“奇跡”を起こしてくださった茂木健一郎さんには、どんなに感謝しても、感謝しきれない思いがしています。

(了)