小林秀雄に学ぶ塾 同人誌
発行 令和二年(二〇二〇)十月一日
発行人 茂木 健一郎
発行所 小林秀雄に学ぶ塾
編集スタッフ
坂口 慶樹
渋谷 遼典
Webディレクション
金田 卓士
小林秀雄に学ぶ塾 同人誌
発行 令和二年(二〇二〇)十月一日
編集スタッフ
坂口 慶樹
渋谷 遼典
Webディレクション
金田 卓士
前号でご案内の通り、本誌は今号より、季刊誌として改めて出帆することとなった。塾生一同、「小林秀雄に学ぶ塾」の同人誌という名に恥じない、さらなる誌面の充実に向けて決意を新たにしたところであり、読者の皆さんには、引き続きご指導とご鞭撻を、心よりお願いする次第である。
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まずは、前号に続き石川則夫さんに「特別寄稿」を頂いた。まさに続編という位置付けであり、前号も含めて味読いただきたい。今号では、小林先生の柳田国男観が、時系列で精緻に繰り広げられている。それは、先生の「講演文学」として名高い「信ずることと知ること」が、二度にわたる講演と加筆を経て定稿版へと至る過程でもある。改めて「お月見」(新潮社刊「小林秀雄全作品」第24集所収)という作品も読み直したくなった。
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巻頭劇場は、もちろん荻野徹さんである。今回は、件の娘がノリノリのラップで口ずさんでいた、「宣長は、『古意を得る』ための手段としての、古言の訓詁や釈義の枠を、思い切って破った」という言葉から幕が開く。さて「ふたつの訓詁」を中心に展開する今回の対話劇、果してどのような大切りを見せるのか、東西東西(とざいとーざい)、ご注目!
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「『本居宣長』自問自答」には、越尾淳さんと渋谷遼典さんが寄稿された。お二方とも、主題は、小林先生が言っている「知ると感ずるとが同じであるような、全的な認識」についてである。
越尾さんは、本塾での自問自答に立った後、突如、同僚の方の訃報に接することとなった。そういう状況の中で、「まさに知ると感じることが同じであるような全的な認識を自分ごととして経験した」と言う。心からの哀悼の意を表しつつ、越尾さんが真心を込めて綴られた言葉を静かにかみしめたい。
渋谷さんは、小林先生が「分裂を知らず、観点を設けぬ、全的な認識力」と呼ぶ、その「『全的な認識力』の内実は、『宣長』本文でこれ以上詳述されることはない」点に着眼し自答を試みている。わけても、「全的な認識力」という先生の言葉遣いから「自ずから思い出された」として、渋谷さんが紹介しているベルグソンの文章には、ぜひお目通しいただければと思う。
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今号の「考えるヒント」は、「本居宣長」において、小林先生が使っている二つのキーワードの用例探索特集である。
溝口朋芽さんは、山の上の家の塾の自問自答のなかで、入塾以来、自らのテーマとしてきた本居宣長の「遺言書」へさらに近づく手掛かりとして、「精神」という言葉に注目した。十箇所の用例を精査するなかで、それらの言葉は宝玉のように輝きを増してきた。さらには、一連の宝玉を貫く一筋の緒も見えて来た。なお、溝口さんも言及している通り、池田雅延塾頭による「小林秀雄『本居宣長』全景二十五 精神の劇」(本誌2020年5・6月号掲載)も併せてお読みいただければ、さらに理解を深められることと思う。
その溝口さんの自問自答が深耕される姿に触発された橋本明子さんは、「想像力」という言葉に眼を向けた。それはちょうど、今般の新型コロナウイルス禍の影響を受け、橋本さんの職場でも、想像力を駆使する必要に迫られた時のことであった。そこで橋本さんが見出した「考えるヒント」とは何か?
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今回、橋本さんが引用された『学生との対話』(新潮社刊)に、先生のこのような発言がある。
「イマジネーションは、いつでも血肉と関係がありますよ。イマジネーションというのは頭全体を働かせることですね。頭や精神というのは、常に肉体と直接に触れ合うものです。僕も経験してきたことだが、イマジネーションが激しく、深く働くようになってくると、嬉しくもなるし、顔色にも出ますし、体もどこか変化してきます。本当のイマジネーションというものは、すでに血肉化された精神のことではないですかね……」。
塾生一同、先生が言うところの「想像力」を我が物とし、本誌読者の皆さんの心にも身体にも響く言葉を求めて、新たな歩みを進めていきたい。
(了)
二十六 言は道を載せて
1
さて、「世ハ言ヲ載セテ以テ遷リ、言ハ道ヲ載セテ以テ遷ル。道ノ明カナラザルハ、職トシテ之ニ是レ由ル」である。
「職トシテ」は、主として、だが、この「世ハ言ヲ載セテ……」は、荻生徂徠の学問論であり、中国古典の研究心得とも言える著作『学則』の中に見え、小林氏の文脈では第十章の次の一節を承けて引かれている。
――仁斎の「古義学」は、徂徠の「古文辞学」に発展した。仁斎は「住家ノ厄」を離れよと言い、徂徠は「今文ヲ以テ古文ヲ視ル」な、「今言ヲ以テ古言ヲ視ル」なと繰返し言う。古文から直接に古義を得ようとする努力が継承された。……
ではなぜ徂徠は、「今文ヲ以テ古文ヲ視ル」な、「今言ヲ以テ古言ヲ視ル」なと繰返し言ったのか、「世ハ言ヲ載セテ以テ遷」るからである。小林氏は、第十章でこう言っている。
――「世ハ言ヲ載セテ」とは、世という実在には、いつも言葉という符丁が貼られているという意味ではない。徂徠に言わせれば、「辞ハ事ト嫺フ」(「答屈景山書」)、言は世という事と習い熟している。……
言葉というものは、その言葉が用いられた時代と一体である、相即不離であると徂徠は言っている……、と小林氏は言うのである。これを目にして私は、氏が第六章で、契沖の明眼との関わりで言っていた、
――「万葉」の古言は、当時の人々の古意と離すことは出来ず、「源氏」の雅言は、これを書いた人の雅意をそのまま現す……
という件の古言と古意、雅言と雅意をおのずと思い合せたが、徂徠がこう言っていると小林氏に言われ、そういう意識をしっかり持って顧みれば、なるほど「今言ヲ以テ古言ヲ視」ては誤る。身近なところでは「本居宣長」のなかでも言われている「あはれ」である。「近言」の「あわれ」は悲哀を言う言葉だが、「古言」では歓喜にも感興にも言われ、強く心に迫ってくる物事の万般に対して言われた。その「あはれ」という「言」を載せて「世」は遷った、「世」が遷ったために「あはれ」という「言」も遷った。
と、こういう卑近な話にすると、そんなこと、わざわざ徂徠を持ち出してきて言われなくてもわかっています、「言」は「世」に載って遷ります、だから古語辞典というものがあるのでしょうと、小林氏に食ってかかりそうになっている現代人の物知り顔も目に浮かぶ。だが、氏がいまも生きていたら、ただちに言うだろう、それがわかっているなら、「源氏物語」を現代語訳で読んですますなどという手抜きは止したまえ、「源氏物語」にかぎらず古典の現代語訳こそは「今文ヲ以テ古文ヲ視ル」、「今言ヲ以テ古言ヲ視ル」行為そのものなのだ、さらに言うなら、古語辞典というもの自体が「今言ヲ以テ古言ヲ視」させている、古語辞典のおかげで古言はますます視えなくなっている……。では、どうすればよいか。今日の私たちにはとても無理だが、古文を古文のままに何度も熟読する、古語を用いて擬古文の実作に励む、それが要諦だと徂徠は古文辞復興の大先達、李攀竜、王世貞を通じて学び、実行した。
徂徠は、それほどまでの古文辞習練を積んで、「世ハ言ヲ載セテ以テ遷リ、言ハ道ヲ載セテ以テ遷ル。道ノ明カナラザルハ、職トシテ之ニ是レ由ル」と言ったのである。したがって、徂徠の言う「遷ル」は、古語辞典を引いて間に合うような語意の変容だけではない。言葉によって捉えられ、言葉という鏡に映し出された時代時代の人生観、価値観、そういうものも「言」に載って「遷ル」のである。
ちなみに、「もののあはれを知る」という言葉の用例として残っている最古の文章は紀貫之の「土佐日記」だが、平安時代、「もののあはれ」は専ら歌人の用語であった、しかし、江戸時代になると、一般庶民の日常生活の場でふつうに使われていた、それを第六回「もののあはれを知る」で見た。
――新潮日本古典集成『本居宣長集』の校注者日野龍夫氏は、「解説」で次のように言っている。「物のあわれを知る」という言葉は、江戸時代人の言語生活の中ではごくありふれた言葉であった、したがって、その言葉によって表される思想も、江戸時代人の生活意識の中ではごくありふれた思想であった、通俗文学の中でも最も通俗的な為永春水の人情本に、「物のあはれを知る」ないし「あはれを知る」という言葉がしばしば出てくるほどである……。
さらに、
――時は江戸となり、貴族であった俊成の歌が、近松門左衛門や浮世草子といった大衆相手の作品世界に取り込まれ、「もののあはれを知る」は地下の娯楽のなかでもてはやされるようになった。『日本古典文学大辞典』には、この時代、「もののあはれ」は浄瑠璃や小説類でも用いられ、そこでは日常生活で求められる他人への心づかいや同情心を意味することが多かった、とある。……
「世は言を載せて遷る」とは、たとえばこういうことを言っているのである。小林氏は徂徠の意を汲み、今は過ぎ去って見えない世を知ろうとすれば、手がかりは過去の人間たちの生活の跡だ、そういう手がかりのうちでも最たるものは言葉である、と受け、したがって、
――歴史を考えるとは、意味を判じねばならぬ昔の言葉に取巻かれる事だ。歴史を知るとは、言を載せて遷る世を知る以外の事ではない筈だ。……
と言うのである。
そういう「昔の言葉」のなかに、「道」という言葉がある。「道そのもの」は「道」という言葉に載っており、「道」という言葉は「世」に載って遷る。「世」が遷れば人の生き方や生活の意味合も変化する、それによって「道」という「言」に載った「道そのもの」のありようははっきりとは見て取れなくなり、人間いかに生きるべきかという問いが浮んでもおいそれとは答えられなくなった。昔は即答できたのだ、「道」がはっきり見えていたからだ。それができなくなった、「道」とは何かが明らかでなくなった。
しかし、「道そのもの」は今なお健在である。なぜなら「道そのもの」と一体の「道」という言葉は「言」に載って遷ったからである。つまり、「道」という言葉に載って、現代まで運ばれてきているからである。「道」という言葉の意味は判じにくくなったが、だからと言って「道そのもの」が消滅したわけではない、遠い昔の遺物となってしまったわけでもない。厳然と今に遷ってきている。「道そのもの」は、古今を貫透するのである。徂徠は「言ハ道ヲ載セテ以テ遷ル」を、「道ノ明カナラザル」現況の最大要因として言っていると思われるのだが、小林氏は、そこを一気に、「道そのもの」は「道」という「言」に載って「古今ヲ貫透スル」と読む。それは徂徠が、「徂徠先生答問書」で、
――古の聖人之智は、古今を貫透して、今日様々の弊迄明に御覧候。古聖人之教は、古今を貫透して、其教之利益、上古も末代も聊之替目無之候。左無御座候而は、聖人とは不被申事ニ候」……
と言っているからであり、
――徂徠の著作には、言わば、変らぬものを目指す「経学」と、変るものに向う「史学」との交点の鋭い直覚があって、これが彼の学問の支柱をなしている。……
からである。
2
では、「古今ヲ貫透スル道」とは何か、どういうものか。小林氏は、第三十二章で次のように言う。
――「道」という古言は、古註には「道ハ礼楽ヲ謂フ」とある通り、はっきりと古聖人の遺した、具体的な治績を指した言葉であって、これを離れて、別に道というようなものはなかったのである。……
すなわち、「先王の道」である。試みにぺりかん社の『日本思想史辞典』を開いてみると、こう言われている。
――徂徠の言う「道」とは、孔子が学んだところの「先王の道」であり、燦然と完備した「礼楽」に象徴される先王の制作にかかるもの一般であり、それによって人間社会が理想的に存立せしめられたところの文化の体系である。徂徠は、孔子がこの「先王の道」を論定する場面に立ち会うことによって(「論語徴」)、また、先王によってそれが制作されることで人間社会が理想的に存立してきた原初の場面にまで立ち返ることによって(「弁道」「弁名」)、先王の古代の「文」なるありさまを描き出していくのである。……
「文」は「道」の古い言い方で、「『文』なる」は後に出る「礼楽」の行きわたった、というほどの意のようだが、そういう眼を借りて『学則』を見渡せば、徂徠の頭にあった「道」はたしかに「先王の道」なのである。
たとえば『学則』で、徂徠は次のように言っている。
――それ六経は物なり。道具にここに存す。……
「六経」は、儒学の根幹とされている六種の経書(中国古代の聖賢の教えを記した書物)で『書経』『易経』『詩経』『春秋』『礼記』『楽記』を言うが、「道」はこれらに精しく記されていると徂徠は言うのである。
『学則』は享保二年(一七一七)、徂徠五十二歳の年に書かれたと見られているが、徂徠の主著『弁道』『弁名』もこの頃に成っており、『学則』はこの二著と並行して書かれたと思われる。現に、「道」というものを弁別する、識別するという意味の書『弁道』にも、
――後世の人は古文辞を識らず。故に近言を以て古言を視る。聖人の道の明らかならざるは、職としてこれにこれ由る。……
と、『学則』とほぼ同じ文言を記し、しかも、古文辞を知らずに今言を以て古言を視たため「道」を誤解したり不分明にしてしまったりした実例をいくつか挙げてこれらを正している。ここから推しても『学則』で言う「道」は「先王の道」と解し得るのである。
では「先王の道」とは、どういうものか。『弁道』では、こう言っている。
――孔子の道は、先王の道なり。先王の道は、天下を安んずるの道なり。孔子は、平生、東周をなさんと欲す。(中略)そのつひに位を得ざるに及んで、しかるのち六経を脩めて以てこれを伝ふ。六経はすなはち先王の道なり。……
「先王」は、遠い昔の徳の高い王の意であるが、具体的には古代中国に出現した七人の統治者、古伝説上の堯、舜に始り、夏王朝の創始者禹、殷王朝の創始者湯、周王朝の創始者文王、武王、周公である。
「孔子は、平生、東周をなさんと欲す」は、孔子が周に倣って自分の生国魯で「先王の道」を実践し、東方の国、魯を、周のような国、「東周」にしたいと懸命だったことを言っている。しかしその孔子の志は受け容れられず、それならと孔子は「先王の道」を書物として後世に残すことを決意して『春秋』を筆削し、『書経』『易経』『詩経』『礼記』『楽記』の補修に努めた。そうして成ったのが「六経」であり、したがって「六経」は、とりもなおさず「先王の道」なのである……。
――先王の道は、先王の造る所なり。天地自然の道に非ざるなり。けだし先王、聡明叡智の徳を以て、天命を受け、天下に王たり。その心は、一に、天下を安んずるを以て務めとなす。ここを以てその心力を尽くし、その知巧を極め、この道を作為して、天下後世の人をしてこれに由りてこれを行はしむ。あに天地自然にこれあらんや。……
――けだし先王の徳は、衆美を兼備し、名づくるを得べきこと難し。しかるに命けて聖となす所の者は、これを制作の一端に取るのみ。先王、国を開き、礼楽を制作す。これ一端なりといへども、先王の先王たる所以はまたただこれのみ。……
「けだし」は、思うに、で、私(徂徠)が推測するところでは……だが、先王は聖人とも呼ばれている、これは、先王は「礼楽」を制作した、その「礼楽」制作を讃えてのことである、先王の功績は計り知れず、「礼楽」はそれらのほんの一端だが、先王が先王と仰がれる理由は「礼楽」を制作したからだとさえ言っていいほどなのである……。
「礼楽」の「礼」は礼儀で、社会の秩序を保ち、「楽」は音楽で、人心を和らげる作用があるとして、後に精しく出るが、先王たちは挙って「礼楽」の創出に意を用いた。
一言で言えば、「先王の道」とは、堯、舜ら「先王」と呼ばれる名君たちが残した、治世上の創造的実績である。それを象徴する言葉が「礼楽」である。
今にして思えば、小林氏が第三十二章で言っている「『道』という古言は、はっきりと古聖人の遺した、具体的な治績を指した言葉であって、これを離れて、別に道というようなものはなかったのである」は、第十章でも言っておいてもらうべきであった。それがそうなっていないのは、徂徠の言う「道」はすべて「先王の道」、「聖人の道」と解するのは『本居宣長』刊行当時のいわば一般常識であり、したがって小林氏は、第十章ではそれをわざわざことわろうとは思いもしなかったのだろうが、私にしてもなまじ徂徠の「道」は「先王の道」という聞き噛りの知識があったことによって、念のための加筆をとは進言せぬまま通ってしまったようなのだ。小林氏の本の担当者としての私の「傍目八目」の迂闊であった。
3
「先王の道」、徂徠はそれを「六経」から読み取り、『弁道』に記した。『弁道』は次の一句から始まる。
――道は知り難く、また言ひ難し。その大なるがための故なり。後世の儒者は、おのおの見る所を道とす。みな一端なり。……。
ゆえにここでは一端も一端、ほんの片端に留まるほかないのだが、先に引いた『弁道』の何か条かに加えてさらに何か条かを引き写す。
――けだし、先王の教へは、物を以てして理を以てせず。教ふるに物を以てする者は、必ず事を事とすることあり。教ふるに理を以てする者は、言語詳らかなり。物なる者は衆理の聚る所なり。しかうして必ず事に従ふ者これを久しうして、すなはち心実にこれを知る。何ぞ言を仮らんや。……
「事を事とす」は、『書経』にある言葉を踏まえていると『日本思想大系 荻生徂徠』の注にあり、そこでは「事実に努める」と言われているだけだが、小林氏は第三十二章でこう言っている。
――物を明らめる学問で、「必ず事を事とすることあり」と言うのは、それぞれ特殊な、具体的な形に即して、それぞれに固有な意味なり価値なりを現している、そういう、物を見定めるということになろう。……
この条を含めて以下の各条、まさに「古の聖人之智は、古今を貫透して、今日様々の弊迄明に御覧候。古聖人之教は、古今を貫透して、其教之利益、上古も末代も聊之替目無之候」の代表格と言えるだろう。
――善悪はみな心を以てこれを言ふ者なり。孟子曰く、「心に生じて政に害あり」と。あに至理ならずや。然れども心は形なきなり。得てこれを制すべからず。故に先王の道は、礼を以て心を制す。礼を外にして心を治むるの道を語るは、みな私智妄作なり。何となれば、これを治むる者は心なり。我が心を以てわが心を治むるは、譬へば狂者みづからその狂を治むるがごとし。いづくんぞ能くこれを治めん。故に後世の心を治むるの説は、みな道を知らざる者なり。……
――もしそれ礼楽なる者は、徳の則なり。中和なる者は、徳の至りなり。精微の極にして、以てこれに尚ふるなし。然れども中和は形なく、意義のよく尽くす所に非ず。故に礼は以て中を教へ、楽は以て和を教ふ。先王の、中和に形づくれるなり。礼楽は言はざれども、能く人の徳性を養ひ、能く人の心思を易ふ。心思一たび易れば、見る所おのづから別る。故に知者を致すの道は、礼楽より善きはなし。……
「中和」は、『弁名』の「中・庸・和・衷 八則」に、「中なる者は過不及なきの謂ひなり」「和なる者は和順の謂ひなり」とあって、それぞれ精しく説明されている。「易ふ」は「変える」「変る」である。
これらすべて、今日なお深くうなずかされる「道」である、人生を、そして人世を、いかに生きるべきかの叡智である。こういう「道」の恩恵に、徂徠以前の日本人は与ることができなかった。徂徠は自ら編み上げた古文辞学を馳駆して古文古語のまま「道」を読み取った。「世」に載った「言」に載って幾世代もを遷ったため、世々の「言」に何重にも包まれ、隔てられてしまっていた「道」が、徂徠によって明らかになった。
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小林氏が、「歴史を考えるとは、意味を判じねばならぬ昔の言葉に取巻かれる事だ」と言った後に、「ところで、生き方、生活の意味合が、時代によって変化するから、如何に生くべきか、という課題に応答する事が困難になる。道は明かには見えて来ない」と言っている「道」は、「先王の道」であると解してここまできた。だが、「生き方、生活の意味合が、時代によって変化するから」という言葉に重きをおけば、たとえば第十一章に小林氏が書いている次のような「道」が思い浮かぶ。
――宣長が求めたものは、如何に生くべきかという「道」であった。彼は「聖学」を求めて、出来る限りの「雑学」をして来たのである。彼は、どんな「道」も拒まなかったが、他人の説く「道」を自分の「道」とする事は出来なかった。……
ここで言われている「他人の説く道」は、「六経」に見られる「道」ではない。主には朱子学の説く「道」である。朱子学の「道」を疑って抗った近世日本の学問の豪傑たちは、「自分の『道』」を求めて刻苦精励した。
小文の第三回「道の学問」で、私は、小林氏は「本居宣長」は思想のドラマを書こうとしたのだと言ったが、小林氏の言う「思想」とは私たち一人ひとりの生き方の模索であり、その先で手にする生き方の確信であった、それはまた、小林氏の言う「道」も私たち一人ひとりの生き方の模索であり、その先で手にする生き方の確信であったと言えるだろう、と書いた。彼ら学問の豪傑たちの求めた道は、まさに自分の生き方の模索であった。
ここから先は、そういう「道」を、「本居宣長」の中に見ていく。小林氏が徂徠の学問に即して言った「変るものに向う『史学』」の対象となる道、すなわち、時代の趨向あるいはその時代を生きた人たちの思案によって見出された「道」である。それらはいずれも「先王の道」から出て「先王の道」へ還る「道」であった。
――考える道が、「他のうへにて思ふ」ことから、「みづからの事にて思ふ」ことに深まるのは、人々の任意には属さない、学問の力に属する、宣長は、そう確信していた、と私は思う。彼は、「契沖ノ歌学ニオケル、神代ヨリタダ一人也」とまで言っている。宣長の感動を想っていると、これは、契沖の訓詁註解の、言わば外証的な正確に由来するのではない、契沖という人につながる、その内証の深さから来る、と思わざるを得ない。宣長は、契沖から歌学に関する蒙を開かれたのではない、凡そ学問とは何か、学者として生きる道とは何か、という問いが歌学になった契沖という人に、出会ったというところが根本なのである。…… (第六章 新潮社刊『小林秀雄全作品』第27集76頁/以下、27―76と表記)
――詠歌は、長流にとっては、わが心を遣るものだったかも知れないが、契沖には、わが心を見附ける道だった。仏学も儒学も、亦寺の住職としての生活も、自殺未遂にまで追い込まれた彼の疑いを解く事は出来なかったようである。(中略)道は長かったが、遂に、倭歌のうちに、ここで宣長の言葉を借りてもいいと思うが、年少の頃からの「好信楽」のうちに、契沖は、歌学者として生きる道を悟得した。…… (第七章 27-83)
――彼(中江藤樹)は、時代の問題を、彼自身の問題と感じていた。彼が、彼自身の為に選んだ学問の自由は、時代の強制を跳躍台としたものだ。これを心に入れて置けば、「此身同キトキハ、学術モ亦異ナル事ナシ」と言う時の、彼の命の鼓動は聞ける筈だ。これは学説の紹介でもなければ学説の解釈でもない。自分は学問というものを見附けたという端的な言葉である。彼は、自分の発見を信じ、これを吟味する道より他の道は、賢明な道であれ、有利な道であれ、一切断念して了った。それが彼の孤立の意味だが、もっと大事なのは、誰も彼の孤立を放って置かなかった事だ。荒地に親しんで来た人々には、荒地に実った実には、大変よく納得出来るものがあった。…… (第七章 27-98)
――仁斎は「語孟」を、契沖は「万葉」を、徂徠は「六経」を、真淵は「万葉」を、宣長は「古事記」をという風に、学問界の豪傑達は、みな己れに従って古典への信を新たにする道を行った。彼等に、仕事の上での恣意を許さなかったものは、彼等の信であった。無私を得んとする努力であった。…… (第九章 27-103)
――彼(伊藤仁斎)の考えによれば、書を読むのに、「学ンデ之ヲ知ル」道と「思テ之ヲ得ル」道とがあるので、どちらが欠けても学問にはならないが、書が「含蓄シテ露サザル者」を読み抜くのを根本とする。書の生きている隠れた理由、書の血脈とも呼ぶべきものを「思テ得ル」に至るならば、初学の「学ンデ知ル」必要も意味合も、本当にわかって来る。この言わば、眼光紙背に徹する心の工夫について、仁斎自身にも明瞭な言葉がなかった以上、これを藤樹や蕃山が使った心法という言葉で呼んでも少しも差支えはない。…… (第九章 27-106)
――彼(仁斎)は、ひたすら字義に通ぜんとする道を行く「訓詁ノ雄」達には思いも及ばなかった、言わば字義を忘れる道を行ったと言える。先人の註脚の世界のうちを空しく摸索して、彼が悟ったのは、問題は註脚の取捨選択にあるのではなく、凡そ註脚の出発した点にあるという事であった。世の所謂孔孟之学は、専ら「学ンデ知ル」道を行った。成功を期する為には、「語孟」が、研究を要する道徳学説として、学者に先ず現れている事を要した。学説は文章から成り、文章は字義からなる。分析は、字義を綜合すれば学説を得るように行われる。のみならず、この土台に立って、与えられた学説に内在する論理の糸さえ見失わなければ、学説に欠けた論理を補う事も、曖昧な概念を明瞭化する事も、要するにこれを一層精緻な学説に作り直す事は可能である。…… (第九章 27-108)
――彼等の遺した仕事は、新しく、独自なものであったが、斬新や独創に狙いを附ける必要などは、彼等は少しも感じていなかった。自己を過去に没入する悦びが、期せずして、自己を形成し直す所以となっていたのだが、そういう事が、いかにも自然に、邪念を交えず行われた事を、私は想わずにはいられない。彼等の仕事を、出来るだけ眼を近附けて見ると、悦びは、単に仕事に附随した感情ではなく、仕事に意味や価値を与える精神の緊張力、使命感とも呼ぶべきものの自覚である事が合点されて来る。言うまでもなく、彼等の言う「道」も、この悦びの中に現じた。道は一と筋であった。ここでも亦、先きに触れた「経」と「史」との不離という、徂徠の考えを思い出して貰ってよいのである。…… (第十一章 27-120)
――古書の吟味とは、古書と自己との、何物も介在しない直接な関係の吟味に他ならず、この出来るだけ直接な取引の保持と明瞭化との努力が、彼等の「道」と呼ぶものであったし、例えば徂徠の仕事に現れて来たような、言語と歴史とに関する非常に鋭敏な感覚も、この努力のうちに、おのずから形成されたものである。例えば仁斎の「論語」の発見も亦、「道」を求める緊張感のうちでなされたものに相違ないならば、向うから「論語」が、一字の増減も許さぬ歴史的個性として現れれば、こちらからの発見の悦びが、直ちに「最上至極宇宙第一書」という言葉で、応じたのである。…… (第十一章 27-122)
――学問とは物知りに至る道ではない、己れを知る道であるとは、恐らく宣長のような天才には、殆ど本能的に摑まれていたのである。彼には、周囲の雰囲気など、実はどうでもいいものであった。むしろ退屈なものだったであろう。卑近なるもの、人間らしいもの、俗なるものに、道を求めなければならないとは、宣長にとっては、安心のいく、尤もな考え方ではなかった。俗なるものは、自分にとっては、現実とは何かと問われている事であった。この問いほど興味あるものは、恐らく、彼には、どこにも見附からなかったに相違ない。そうでなければ、彼の使う「好信楽」とか「風雅」とかいう言葉は、その生きた味いを失うであろう。…… (第十一章 27-127)
――宣長が考えていたのは、彼が「物語の本意」と認めた「物のあはれを知る」という「道」である。個々の経験に与えられた、心情の動き、「あだなる」動きも「実なる」動きも、「道」を語りはしない。宣長は、「道」という言葉で、先験的な原理の如きものを、考えていたわけではなかったが、個々の心情の経験に脈絡をつけ、或る一定の意味に結び、意識された生き方の軌道に乗せる、基本的な、或は純粋な、と呼んでいい経験は、思い描かざるを得なかったのである。これは「道」を考える以上、当然、彼に要請されている事であった。…… (第十四章 27-154)
――そういう次第で、宣長の論述を、その起伏に逆わず、その抑揚に即して辿って行けば、「物の哀をしる」という言葉の持つ、「道」と呼ぶべき性格が、はっきり浮び上って来る。…… (第十五章 27-159)
――彼は、これを、「源氏」に使われている「あぢはひを知る」という、その同じ意味の言葉で言う。「よろづの事を、心にあぢはふ」のは、「事の心をしる也、物の心をしる也、物の哀をしるなり」と言う。なるほど漠然とした物の言い方だ。しかし、事物を味識する「情」の曖昧な働きのその曖昧さを、働きが生きている刻印と、そのまま受取る道はある筈だ。宣長が選んだ道はそれである。「情」が「感」いて、事物を味識する様を、外から説明によって明瞭化する事は適わぬとしても、内から生き生きと表現して自証する事は出来るのであって、これは当人にとって少しも曖昧な事ではなかろう。現に、誰もが行っている事だ。殆ど意識せずに、勝手に行っているところだ。そこでは、事物を感知する事が即ち事物を生きる事であろうし、又、その意味や価値の表現に、われ知らず駆られているとすれば、見る事とそれを語る事との別もあるまい。…… (第十五章 27-164)
――彼が歌道の上で、「物のあはれを知る」と呼んだものは、「源氏」という作品から抽き出した観念と言うよりも、むしろそのような意味を湛えた「源氏」の詞花の姿から、彼が直かに感知したもの、と言った方がよかろう。彼は、「源氏」の詞花言葉を玩ぶという自分の経験の質を、そのように呼ぶより他はなかったのだし、研究者の道は、この経験の充実を確かめるという一と筋につながる事を信じた。この道を迷わすものを、彼は「魔」という強い言葉で呼んだ。…… (第十八章 27-202)
――この有名な歌集の註解は、当時までに、いろいろ書かれていたが、宣長に気に入らなかったのは、契沖によって開かれた道、歌に直かに接し、これを直かに味わい、その意を得ようとする道を行った者がない、皆「事ありげに、あげつら」う解に偏している、「そのわろきかぎりを、えりいで、わきまへ明らめて、わらはべの、まよはぬたつきとする物ぞ」と言う。…… (第二十一章 27-227)
――「和歌ハ言辞ノ道也。心ニオモフ事ヲ、ホドヨクイヒツヾクル道也」という彼の言葉は、歌は言辞の道であって、性情の道ではないというはっきりした言葉と受取らねばならない。歌は「人情風俗ニツレテ、変易スル」が、歌の変易は、人情風俗の変易の写しではあるまい。前者を後者に還元して了う事は出来ない。私達の現実の性情は、変易して消滅する他はないが、この消滅の代償として現れた歌は、言わば別種の生を享け、死ぬ事はないだろう。…… (第二十二章 27-252)
この後、第三十二章、第三十三章と、再び徂徠の言う「道」、そして宣長の「道」に言及されるのだが、小林氏が「本居宣長」で「道」という言葉に託した思いのほどは、以上を熟視することで汲み得ると思う。その氏の思いが端的に集約されているのがすでに引いた次の一節である。
――宣長は、「道」という言葉で、先験的な原理の如きものを、考えていたわけではなかったが、個々の心情の経験に脈絡をつけ、或る一定の意味に結び、意識された生き方の軌道に乗せる、基本的な、或は純粋な、と呼んでいい経験は、思い描かざるを得なかったのである。これは「道」を考える以上、当然、彼に要請されている事であった。…… (第十四章 27-154)
契沖の「わが心を見附ける道」「歌学者として生きる道」、中江藤樹の「自分の学問の発見を信じ、これを吟味する道」、伊藤仁斎、荻生徂徠らの「古典への信を新たにする道」、そして本居宣長の「己れを知る道」「卑近なるもの、人間らしいもの、俗なるものに求めた道」、「『物のあはれを知る』という道」、これらのいずれもが「個々の心情の経験に脈絡をつけ、或る一定の意味に結び、意識された生き方の軌道に乗せる、基本的な、或は純粋な、と呼んでいい経験」である。
小林氏は、学問とは、誰もが知っていることをより深く知ろうとすることだと言っていた。上に抜き出した「道」という言葉の使われ方からすれば、氏は「道」についても、「道」とは誰もが歩いている道を歩くことだ、自分をより深く知ろうとして歩くことだ、と言っているようである。
と、こう思ったとき、脳裏に突然、小林氏の「モオツァルト」(『小林秀雄全作品』第15集所収)の一節が閃いた。
――モオツァルトは、歩き方の達人であった。目的地なぞ定めない、歩き方が目的地を作り出した。彼はいつも意外な処に連れて行かれたが、それがまさしく目的を貫いたという事であった。……
突然ではあったが唐突ではなかった。藤樹、仁斎、徂徠、契沖、宣長……、彼らもまた歩き方の達人だったのだと小林氏に言われたかのようだった。
5
だが、小林氏は、「変るもの」に向けた目を、「変らぬもの」にもむろん向けている。徂徠に即して言えば「経学」の対象となる「道」である。
――物まなびの力にて、あまたの書どもを、かきあらはして、大御国の道のこゝろを、ときひろめ、天の下の人にも、しられぬるは、つたなく賤き身のほどにとりては、いさをたちぬとおぼえて、…… (第四章 27―50)
宣長の「家のむかし物語」からである。ここで言われている「大御国の道のこゝろ」は、「もののあはれを知る道」に次いで宣長の後半生を領した。
――宝暦十三年という年は、宣長の仕事の上で一転機を劃した年だとは、誰も言うところである。宣長は、「源氏」による「歌まなび」の仕事が完了すると、直ちに「古事記伝」を起草し、「道のまなび」の仕事に没入する。「源氏」をはじめとして、文学の古典に関する、終生続けられた彼の講義は、京都留学を終え、松坂に還って、早々始められているのだが、「日記」によれば、「神代紀開講」とあるのは、真淵の許への入門と殆ど同時である。まるで真淵が、宣長の志を一変させたようにも見える。だが、慎重に準備して、機の熟するのを待っていなかった者に、好機が到来する筈はなかったであろう。…… (第十九章 27-213)
「真淵」は、賀茂真淵である。宣長自身は「玉かつま」の七の巻でこう言っている。
――おのれは、道の事も歌の事も、あがたゐのうしの教のおもむきによりて、たゞ古の書共を、かむがへさとれるのみこそあれ、……
「あがたゐのうし」は「県居の大人」で真淵のことだが、宣長は「道の事」も「歌の事」も真淵に導かれて、と言うのである。ところが、その真淵が、行き詰った。真淵は「萬葉集」を絶讃し、そこに日本固有の「道」があると主張したのだが、しかし、
――彼は、これを「高く直きこゝろ」「をゝしき真ごゝろ」「天つちのまゝなる心」「ひたぶるなる心」という風に、様々に呼んではみるのだが、彼の反省的意識は安んずる事は出来なかった。「上古之人の風雅」は、いよいよ「弘大なる意」を蔵するものと見えて来る。「万葉」の風雅をよくよく見れば、藤原の宮の人麿の妙歌も、飛鳥岡本の宮の歌の正雅に及ばぬと見えて来る。源流を尋ねようとすれば、「それはた、空かぞふおほよそはしらべて、いひつたへにし古言も、風の音のごととほく、とりをさめましけむこゝろも、日なぐもりおぼつかなくなんある」(「万葉集大考」)という想いに苦しむ。あれを思い、これを思って言葉を求めたが、得られなかった。…… (第二十章 27-229)
「空かぞふ」は「おほよそ」の「おほ」にかかる枕詞である。真淵は、人代を尽して神代を窺おうとした、ということは、「万葉集」を究めて「古事記」に向おうとした。だが、宣長は見て取っていた、
――「万葉」の、「みやび」の「調べ」を尽そうとした真淵の一途な道は、そのままでは「古事記」という異様な書物の入口に通じてはいまい、其処には、言わば一種の断絶がある、そう宣長には見えていたのではなかろうか。真淵の言う「文事を尽す」という経験が、どのようなものであるかを、わが身に照らして承知していた宣長には、真淵の挫折の微妙な性質が、肌で感じられていたに相違あるまい。…… (第二十章 27-230)
真淵は、「万葉集」から得た「古道」を掲げて論を張った。だがその「古道」が真淵自身を縛った、「古事記」へは一歩も踏み出せなかった。「古道」を掲げるということ自体が、邪念だったようなのである。
宣長は、真淵の挫折を他山の石とした。
――宣長の正面切った古道に関する説としては、「直毘霊」が最初であり、又、これに尽きてもいる。「直毘霊」は、今日私達が見るように、「此篇は、道といふことの論ひなり」という註が附けられて、「古事記伝」の総論の一部に組み込まれているものだが、論いなど何処にもない。端的に言って了えば、宣長の説く古道の説というものは、特に道を立てて、道を説くということが全くなかったところに、我が国の古道があったという逆説の上に成り立っていた。…… (第二十五章 27-282)
――宣長は、我が国の神典の最大の特色は、天地の理などは勿論の事、生死の安心もまるで説かぬというところにある、と考えていた。彼にとって、神道とは、神典と言われている古文が現している姿そのものであり、教学として説いて、筋の通せるようなものではなかった。…… (第二十六章 27-292)
宣長が「家のむかし物語」に書いた「大御国の道のこゝろ」とはこれであり、その「こゝろ」は「特に道を立てて、道を説くということが全くなかった」ところにあった。「古事記」をはじめとする神典に書かれていること、それらの姿がそのまま「道」であると宣長は取った。小林氏が第六章に引いていた「紫文要領」の言葉、「やすらかに見る」が思い合せられる。
宣長の「古事記」は、徂徠の「六経」であった。その「古事記」を宣長は「今文ヲ以テ」は視ず、「今言ヲ以テ」は解かなかった。「古文から直接に古義を得ようとする努力」を三十五年にもわたって続け、「道を立てて道を説くということ」はまったくなく、「生死の安心もまるで説かぬ」という「大御国の道」に到った。これが、宣長が歩きとおした「聖学」の道であった、「如何に生くべきか」を求めて歩んだ「無私」の道であった。
(第二十六回 了)
その十 黎明~ヨーゼフ・ヨアヒム
机の上に木製の写真立てが一つ、十九世紀末の髭もじゃの男がこちらを見下ろしている。ご本人は澄ましているだけかも知れないが、睥睨という趣である。いかにも頑強な骨格、それに鋼鉄の意志と非妥協的な不機嫌。小柄な人だったというが、どう見ても巨人だ。
われわれがこんにちモーツァルトのコンチェルトやバッハのソナタを、あるいはまたベートーヴェンのヴァイオリン・コンチェルトあるいはソナタを演奏会場で聞くとき、本来は、一分間、彼のことを思い出すべきなのである。
(J・ハルトナック『二十世紀の名ヴァイオリニスト』松本道介訳)
同感である。なるほど、せめて一分間目を閉じて、「彼」に思いを馳せるべきだ。「彼」とは、すなわち、写真立ての偉丈夫、ヨーゼフ・ヨアヒムである。ヨアヒムに捧げられるべき一分間の瞑目……「一分間」というのはそれなりに長い時間だが、ヨアヒムの、ヴァイオリン音楽史上の功績を思えば、むしろ短すぎるくらいのものである。
ところで「本来は」と、ハルトナックは断ってもいた。一分間の瞑目など、今日では誰も思いつきもしないということだろう。そう、ヨアヒムのことなど、みな、忘れてしまった。サラサーテのことは覚えているのに。「これは本来は妙なことなのである」(ハルトナック)。たしかにパブロ・サラサーテはある種の音楽的傾向の達成に違いない。それは妖しいまでに美しい。が、やはりそれはひとつの時代の終焉、落日なのだ。夕映えなのだ。それに対してヨアヒムは、今日のすべてのヴァイオリニストを照らし出す曙光である。そしてその一閃は鮮烈だった。
八歳の少年ヨーゼフ・ヨアヒムに関してわれわれは、この少年とその腕前に真の奇蹟を見、また聞いたという以外にない。彼の演奏、そのイントネーションの曇りのない美しさ、そして困難な個所の克服ぶり、リズムの安定性といったものは、聴衆をうっとりさせ、彼らはただ絶えず拍手をして、第二のヴュータンに、第二のパガニーニに、第二のオール・ブルになると、おのおの予言したのであった。
(『二十世紀の名ヴァイオリニスト』に引用された《シュピーゲル》紙の記事)
1838年、ブダペストでのデビューの直後に現れた批評である。引用しつつハルトナックは、ここに二つ誤りがあるとしている。まず、このときヨアヒムは未だ七歳であったこと。次に、「第二のパガニーニ」ではなく、むしろ「パガニーニの克服者」というべきであったということ。
たしかに「第二」の称号は、たとえばサラサーテのようなヴァイオリニストにこそふさわしい。「民謡の一旋律をヴァイオリンの上に乗せれば足りた」パガニーニのように、サラサーテは、故国スペインの旋律やジプシーの歌謡を、演奏の度毎に、芸術音楽へと高めてみせた。が、その傍では、少なからぬサロン系のヴァイオリニストたちが、パガニーニの幻影を追いながら、いつか切実な芸術的動機を見失って、つかの間のきらめきと喝采とを思い出に空虚な頽廃へと落ち込んでいったように見える。伝承されてきた趣味や教養が、新時代との葛藤を忌避して自閉し、ナルシスティックに「進化」しつつ滅びていく……パガニーニに潜む魅惑的な陥穽だ。その傾斜の最中にあってそれに抗い、放浪のヴァイオリニストの魂を己の本領として輝いた宵の明星……サラサーテは、私には、そういう奇跡的な個性と見える。
さて、ヨアヒムもまた、きわめて個性的な神童として登場したのであった。だが、その眼差しは、パガニーニのさらに向こう、バッハやモーツァルトやベートーヴェンといった古典の系譜に注がれていくことになる。
ブダペストでの衝撃のデビューの後、聖地ウィーンに向かったヨアヒムだったが、音楽院の最高権威ゲオルグ・ヘルメスベルガーⅠ世にはその将来性を悲観されたらしい。さすがにハインリヒ・エルンストはその可能性を見抜いて、自らの師であるヨーゼフ・ベームを紹介している。
そのウィーンでの修業時代を経て、次に向かったのはライプツィヒであった。神童としてはパリに学ぶのが常道だが、東欧ハンガリー、キトシュという村の貧しいユダヤ人一家にそんな財力はなかった。また親戚筋のヴィトゲンシュタイン夫人がライプツィヒ行きを勧めたともいう。ライプツィヒにはゲヴァントハウス管弦楽団があり、新設の音楽院があり、それらを主宰するフェリックス・メンデルスゾーンがいた。十二歳のヨアヒムは、そのメンデルスゾーンによって、もはや音楽院で勉強する段階ではないと評され、メンデルスゾーン自身やフェルディナンド・ダーヴィト教授、さらにはエルンストやアントニオ・バッジーニといった一流奏者との交流を通して、後にはシューマン夫妻との交際も加わって、その天稟の芸術性を高めていったのである。エルンストもバッジーニも、パガニーニの系譜だが、ここではメンデルスゾーンのバッハへの傾倒が決定的な影響となった。
その影響は、1847年のメンデルスゾーンの死後、フランツ・リストの招聘に応じてワイマールに赴き、オーケストラのコンサートマスターとして恵まれた生活を送る中で、次第に結晶していった。やがて、リヒャルト・ワーグナーとともに、「新ドイツ楽派」の首領として「未来の音楽」を主張することになるリストとの親密な友情のなかでこそ、ヨアヒムはかえって自らの古典への志向を自覚し、より強くしていったのではないか。二人は、後に訣別することになるが、それは、それぞれの音楽観の建設的な展開の必然的帰結だ。以後、ヨアヒムは、音楽の倫理性を求め、古典の媒介者ないしは継承者としての道をまっすぐに歩き始める。
そしてその同行者、それが、正真正銘の古典派ヨハネス・ブラームスだった。自分の音楽などには懐疑的で、むしろ過去の巨匠たちへの、わけてもベートーヴェンへの敬意を動機のすべてとして、彼らを仰ぎ見つつ、無私を得んとし続けたブラームス。ヨアヒムに宛てた手紙のなかで彼はこんなふうに自問自答していた。
「ヨハネスは何処だ。彼はまだティンパニさえ響かせないのか。ベートーヴェンのシンフォニーの冒頭を思いながら、彼はそれに近づこうと努力することになるだろう」。
ヨアヒムもまた、ブラームスに出会う少し前に、こんな言葉をしたためている。
「どうやらぼくは音楽にとって何の役にも立たないように運命づけられているみたいだ……しかも自分の芸術の向上を真剣に考えている。それはぼくにとって神聖なものだ……それにもかかわらず、事実上何も成就していない。まるで、何か悲劇的な運命がぼくの上にのしかかっているみたいだ。それと闘う力がないんだ! この運命は一生つきまとうのだろうか? ……しかし、征服してやるぞ。何としても芸術に対して大きな貢献をしたいのだ!」
メンデルスゾーンによってバッハへの目を開かれ、その無伴奏のヴァイオリン・ソナタを再発見していたヨアヒムにとって、あるいはワーグナーのベートーヴェンへの眼差しに対峙し、楽聖の未知の展開などより、その魂魄にこそ迫ろうとしていたに違いないヨアヒムにとって、ブラームスは恰好の同志であり、あるいは自らの志の半分を投影するに充分な相手だったかもしれない。ヴァイオリニスト・ヨアヒムは既に作曲家でもあったが、その一面は、半ばはブラームスに委ねられたのではないか、そんなふうにも見える。ブラームスもまた、ヨアヒムという知己を得て、作曲家として生きる人生を確信したことだろう。他人の干渉を徹底的に拒むために、すべてに敵対しつつ古典の世界を幻想する、どこまでも非妥協的なこの作曲家の伴侶は、古典に推参するその姿に敬意を払い、かつそこに遠く及びえない天才を認めるヨアヒムの、その謙譲と寛容をもってして、はじめて務まる役柄であった。
1869年、三十八歳になる年、ヨアヒムは新設のベルリン音楽大学の学長に就任した。学長は学内外で猛烈に働き、学生は年毎に増えていった。「真に世界的なヴァイオリニストを一人も育てなかった」と、カール・フレッシュは後に酷評したが、一定の技量をもち、かつ古典を教養とする多くのヴァイオリニストを輩出することで、ベルリンの、ひょっとしたらヨーロッパ全土のオーケストラの質を飛躍的に高めた功績は見逃せない。それと同時に自らの演奏活動も精力的に行い、聴衆に迎合してきたヴァイオリン音楽のプログラムを、ただただ技巧的であったり過剰にロマンティックであったり空虚な感傷を楽しんだりするだけの小品が並んだ従来のプログラムを、クラシックを軸にした厳粛なものへと改革した。現代のクラシック・コンサートの会場には、良くも悪くも、たとえばミサのような緊張した雰囲気が満ちているが、その萌芽はどうやら、ヨアヒムが築いたその音楽文化、サロンの小部屋から解放された新興都市ベルリンという芸術空間にこそあるようだ。そしてその間にもブラームスと議論を重ね、シューマンやメンデルスゾーンのエピゴーネンと貶められたこの作曲家を支えた。たとえばブラームスのヴァイオリン・コンチェルトは、ヨアヒムの音色とその圧倒的な技量とを念頭に書かれたものだ。
かくして十九世紀までの漂泊のヴァイオリニストたちに芸術家としての地位を与え、また今日に持続するクラシック音楽の伝統を再構築した巨匠こそ、ハンガリーに現れ、バッハ終焉のライプツィヒを経て、ベルリンを新たなクラシック音楽の拠点としてそこに躍動した、このヨーゼフ・ヨアヒムなのである。
もはや歴史の彼方の人物だが、幸いにも五曲、古いレコードで今もその演奏を聴くことができる。1903年、もとより晩年のドキュメントであって全盛期のそれではないが、贅沢を言ってはいけない。オリジナルの分厚いレコード盤にごく上質の鉄針を落とせば、一世紀ほど前まで確かに生きていた真の巨匠ヨーゼフ・ヨアヒムの、その奏でる音響、誠実で瑞々しい音色が、時間を超えて溢れてくる。ありがたいことである。ヨアヒム先生のレッスンは、まずは生徒に弾かせ、何か批判すべきことがあると、直ちに自分で弾いて規範を示すというものだった。「まったく神々しいような態度でみずから問題の個所を弾いて」みせたとは、同じハンガリーを出自とする高弟レオポルト・アウアーの述懐だが、ヨアヒムはいつも自分で弾いたのだ。だから彼のレコードは、自ら演奏してみせることのできない、未来の「門弟」に向けられたものであっただろう。そしてその「教材」に選んだのは、まずはバッハ無伴奏から二曲、次にブラームスのハンガリー舞曲集から二曲、そして自作の一曲であった。
ヨアヒムは作曲家としても知られていたから、その一曲の自演が遺されたことは幸いである。しかしながら、一般にヨアヒムの作品は、今日ほとんど顧みられていない。もっともその「作品」の定義をほんの少し広げれば、事情は違ってくるのである。ブラームスの、モーツァルトの、ベートーヴェンのヴァイオリン・コンチェルトにあるカデンツァだ。ことにベートーヴェンのカデンツァは、いかにも古典派らしい名品である。ヴィルトゥオーゾ的名人芸とクラシックの高次の統合。残念ながらヨアヒムの録音はない。私は、ヨーゼフ・ヴォルフスタールの1929年の音源で、それを確かめたのだった。ベートーヴェンはこの曲のカデンツァを書いていないというから、ヨアヒムが代わりに書いた、そういう趣である。そして、ヨアヒムの演奏が遺されていないから、ヴォルフスタールが弾いたのだ。
1844年5月27日、ヨアヒムは、ロンドンのフィルハーモニー協会のコンサートで、ベートーヴェンのヴァイオリン・コンチェルトを、そのカデンツァをつけて「復活」させた。十三歳になるひと月前のことである。指揮をしたメンデルスゾーンは、「前代未聞の成功」と称賛した。1806年のフランツ・クレメントによる初演では、長い第一楽章の後に休憩が入ったというから、それは「復活」どころか、初めての完全な形での「初演」であったかも知れない。
ところでこのコンチェルト、ニコロ・パガニーニが少なくとも一度、その演奏会のプログラムに載せているそうだ。この事実は、思いがけず深い意味を持つかもしれない。パガニーニが一度だけ弾いた。言い換えれば二度と弾かなかった。何故か。それはつまり、聴衆に理解されなかったということではないか。聴衆が好むのはあくまで享楽的なショートピースであって、構成的なクラシックの大曲なんかではない。それでも一度はこの名曲を演奏した、が、断念した。そういうことではないか。すなわち、パガニーニは聴衆に迎合した。迎合しつつ、彼の心は、もはや、聴衆から離れ、再び還らなかったのだ。そうだとすれば……。
ヨアヒムは、「パガニーニの克服者」である。それは、パガニーニをも含む前世紀のヴァイオリニストの限界をクラシックの文脈に統合して超克したということである。そして、パガニーニが断念したところから出発して、クラシックを、新たな時代の聴衆に開いたということである。ヨアヒムは、自分にも他者にも求めるものが高く、したがって常に悲観して、寛容の裡にも不機嫌を潜ませていたというが、それはつまり、彼が、その時代と聴衆から離れることなく、非妥協的に奮闘していた、その証だ。そしてその眼差しは、今日の私のような者にも届いている。
注)
ヨーゼフ・ヨアヒム……Joseph Joachim1831-1907 ハンガリー・キトシュ出身
パブロ・サラサーテ……Pablo Sarasate1844-1908 スペイン・パンプローナ出身
アンリ・ヴュータン……Henri Vieuxtemps1820-1881 ベルギー・ヴェルヴィエ出身
ニコロ・パガニーニ……Nicolo Paganini1782-1840 イタリア・ジェノヴァ出身
オール・ブル……Ole Bull1810-1880 ノルウェー・ベルゲン出身(オーレ・ブル)
「民謡の一旋律を……」……小林秀雄「ヴァイオリニスト」より。
ハインリヒ・エルンスト……Heinrich Ernst1814-1865 パガニーニの演奏を見て「ネル・コル・ピユ・ノン・ミ・セントの変奏曲」を習得し、パガニーニのいる演奏会で弾いたという。
ヴィトゲンシュタイン夫人……ピアニストのパウル・ヴィトゲンシュタイン、哲学者のルートヴィヒ・ヴィトゲンシュタインの祖母。
アントニオ・バッジーニ……Antonio Bazzini1818-1897 イタリア・ブレシア出身
カール・フレッシュ……Carl Flesch1873-1944 ハンガリー・モション出身
レオポルト・アウアー……Leopold Auer1845-1930 ハンガリー・ヴェスプレーム出身
「幸いにも五曲」……バッハ作曲無伴奏ヴァイオリン・ソナタ一番よりアダージョ
バッハ作曲無伴奏ヴァイオリン・パルティータ一番よりブーレ
ブラームス作曲ハンガリー舞曲一番
ブラームス作曲ハンガリー舞曲二番
ヨアヒム作曲ロマンス
ヨーゼフ・ヴォルフスタール……Josef Wolfsthal1899-1931 ウクライナ・レンブルク出身
(了)
天才とは意に随って取戻される幼年期に他ならない。……
顔にせよ、風景にせよ、光、金泥、塗料、燦めく布、化粧
に飾られた美女の魅惑等、それが何にせよ、新奇を眼前に
する小児らの動物的に恍惚とした凝視は、この深い楽しげ
な好奇心の所為となさなければならぬ。
シャルル・ボードレール「近代生活の画家」(*1)
以前、箱根、彫刻の森美術館(ピカソ館)(*2)を訪れた時、ベビーカーに乗った女児が、両親と一緒に入ってきた。絵の前に来ると、「これなんだろうねー」と甲高い声を上げる。ただ、それだけである。そして、次の絵の前にくると、同様に「これなんだろうねー」と言う。私は、その繰り返しを心地よく耳にしながら、ピカソが捏ねた「みみずく」の陶器と、静かに向き合っていた。
*
小林秀雄先生は、「近代絵画」(新潮社刊『小林秀雄全作品』第22集所収)を書き終えて、「先年、外国旅行をした時、絵を一番熱心に見て廻った。当時得た感動を基として、近代絵画に関する自分の考えをまとめてみたいと思い、昭和二十九年の春から書き始め、毎月雑誌に発表して今日に至った」(*3)と記している通り、その執筆動機は、「絵画についての疑い様のない感動」(「ピカソ」、同)が基にある。ところが先生は、ピカソについて、気の置けない大岡昇平さんとの対談で、「ほんとうは好きじゃないんだよ。ただ問題性があって別なところで好きなんだ」(*4)と述べている。つまり、心底では必ずしも好きになれないが、別なる問題性に心動かされてピカソ論を書いた、しかも連載にして17回にも及んだ(*5)。それでは、小林先生が眼を付けたピカソの「問題性」とは一体何なのか? 紙幅の許すところで、考えを深めてみることにしたい。
*
小林先生は、ピカソ論の前半で、美術史家ヴォリンゲルの「抽象と感情移入」の説について、エジプトでの実体験に基づき、多くの紙幅を割いている。この説は、本誌前号(2020年5・6月号)「遁れるゴーガンの『直覚』」でも書いた通り、人間の芸術意欲を駆動する深因について、心理学者リップスの「感情移入の概念」、すなわち、人間側の「生命の喜びの感情を対象に移入し、これによって対象を己の所有物と感じたいという欲求が、芸術意欲の前提をなすという考え」(傍点筆者)を、ロマン主義(*6)が愛好した審美的直観を理論的に再構成したもので、「人間と自然との間に、よく応和した親近な関係があった時代の芸術には当てはまるだろう」が、「これを凡ての様式の芸術の説明原理とするのは無理だ」として退ける。
ヴォリンゲルはむしろ、ピラミッドに代表されるエジプトの芸術様式が示すように、そこには「生命への、有機的なものへの、憧れを、進んで、きっぱりと拒絶する要求が制作者達にあったと仮定しなければ説明がつかぬものがあ」り、「われわれが忘れ果てた抽象への衝動であり、本能であり、抑え難い感情である」という「抽象作用の概念」こそ第一義、とするのである。
そこで小林先生は、ヴォリンゲルが言う意味合いでの抽象芸術という言葉に、ピカソが反対する理由はなかったという前提で、このように述べている。
「二十世紀の抽象芸術は、明答は得られないにせよ、ヴォリンゲルの仮説の応用問題を提供している様に見える。歴史は二度繰返さないが、異なった条件の下に非常によく似た事が起るとは考えられよう」(傍点筆者)。
先生は、ピカソの「実在感から出発しない様な絵はない」という主張と同様、「美術史に最初に現れた抽象的芸術の作者達も実在感から出発した」と言う。作者たるエジプト人らは、「到るところに不思議を見、危険を見て生活していた。彼等に迫る世界の像は、混沌として、不安定であり、これを取り鎮める合理的な世界の解釈は、彼等の能力を超えたものだったから、彼等は、この大敵に対し本能的に身構えをする他はなかったのだが、この身構えこそ彼等の造形力であり、具象のまどわしから逃れて意識の安定を得んとする道であった」。
それならピカソは、何に対し「不思議」や「危険」を見て、身構えたのか……
彫刻の森には、「貧しき食事」(1904年)という、印象的なエッチング(銅版画)があった。一組の男女がテーブルに肘をついて坐っている。ともに瘦身である。机上には、酒瓶にコップと、カチカチのパンが二かけ。盲目なのか男は目をつぶり、口を半開きにしたまま、左手を女の肩に回しているが、その指は長くて細い。実に表情的な指だ。私は、秘めた恨めしさを静かに醸し出す、日本の古い幽霊画でも見ているような心持になった。
これは、1901年から04年末までのピカソの作風、いわゆる「青の時代」の作品である。小林先生は、その時代の代表作「自画像」(1901年)について、「孤独なしには、何一つ為し遂げることは出来ない。私は、かつて私の為の一種の孤独を作った」というピカソの言葉にある「孤独」を語っているのだと言う。さらに、そういう作者自身の姿を扱うのに、青の色調、精神医学者ユングが言う「冥府の色」を必要とした、というのも、「名附けようもない自分自身に出会った一種の恐怖に由来すると言ってもいいからである」と言っている。
「貧しき食事」に描かれた男女から、私が感得したものもまた、ピカソが覚えた、そういう一種の恐怖の意識だったのだろうか? いや、小林先生の言う通り、「ピカソの内的体験は、やはり謎に止まる」だろうし、ピカソから「私には自分を自分流に知る事で手一杯だ」と一蹴されそうなので、さらなる詮索はやめておこう。
*
幸いにも、私達は今でも、ピカソが制作する状況を、映像を通じて観ることができる。小林先生もピカソ論の冒頭で、鑑賞後「言葉のない感動が、尾を引いていて、口をきくのもいやだった」と言う、クルーゾー監督による映画「ミステリアスピカソ」(*7)である。
こんなシーンがあった。ピカソは、唐突に「見ててくれ、驚くものを描くから」と言うと、花束を描き始めた。……花束は、そのまま魚の鱗と化す。……魚は、鶏の羽の模様に変わる。すると突然、画面を黒く塗りつぶし始めた。最終的に出来上がったのは、不気味に嗤うアルルカン(道化)の顔であった。
別のシーンである。彼は、海水浴場と思しき絵を描き始めた。画面は、何度も何度も書き直されていく。一度や二度ではない、書き直しの永劫回帰である。
ピカソの声が拾われる。
「これはひどいな、まったくだめだ」。
書き直しは続く。
「ますます悪くなる 心配かい? 心配無用だ。最後にはもっと悪くなる……」。
ついに、当初の絵とは似ても似つかない物に変わり果ててしまった。
「またひどくなった。剥ぎ取ってしまおう」。
今度は修復の繰り返しが始まる。
「少しはよくなったか」
ようやく出来上がりか、と思われた瞬間……
「これもただ一枚の絵。今ようやく、この絵の全体をイメージできた」。
「新しい画布で、すべてを描き直そう」。
このシーン、映画では10分弱に編集されているが、実際の撮影は8日間にも及んだという(*8)。
もう一つ、小林先生がピカソ論を書くうえで大事にしていた書籍がある。まずは、先生が抱いていたピカソの印象も含めて、そのことがよく分かると思う一節を紹介したい。
「サバルテスというピカソの秘書が書いた『親友ピカソ』(*9)という本がある。先日、訳者の益田義信君から贈られて読んで、大変面白かった。いつか『ライフ』誌上に、何か特殊な発火装置めいたもので、空中に絵を描いているピカソの実に鮮明な写真が出ていたが、毛の生えていない大猿の様な男が、パンツ一枚で、虚空を睨んでいたが、その異様な眼玉には驚いた。こんな眼つきをした男は、泥棒、人殺し、何を為出かすかわからぬが、議論だけはしまい、と感じたが、益田君の訳書を読んでみると、やはりそんな風な人に思えた」。(「偶像崇拝」(同、第18集所収))
続いて、同書の中の一節を引く。前述の映画と相まって、ピカソの実際の制作時の特徴が、よくわかるのではないかと思う。
「彼の心は天も地も彼を抑え引きもどすことも出来ぬ程、急速に一つのことから他へと移って行く。どんな場合でも、人をして話の源を忘れさせてしまうのが常である。彼の無数の幻想の一つを、形につくり上げにかかる時は、話題を全然変えてしまうこともある。何度岐路にはいって話を中絶したことだろう。……彼が時々私にする話の形式は、彼の創作形式と比較せざるを得ない程よく似ている」。
*
ピカソには狂的な蒐集癖もあった。紙くず、骨のかけら、マッチ箱…… あらゆる実物で、ポケットは一杯になって破れ、部屋中に散乱していた。サバルテスが指摘しても、「棄てねばならぬ理由が何処にあるか」と譲らない。小林先生は、この奇癖に興味を持ち、「殆ど彼の制作の原理だ」とまで断言する。「頭脳は、勝手な取捨選択をやる、用もない価値の高下を附ける。みんな言葉の世界の出来事だ、眼には、それぞれ愛すべきあらゆる物があるだけだ。何一つ棄てる理由がない」のである(「偶像崇拝」)。
先生は、ピカソが、「美とは、私には意味のない言葉だ。その意味が何処から来たのか、どこへ行くのか誰も知らないのだからな」と言ったことを踏まえ、このように続けている。
「恐らく彼は、自分の蒐集癖が、『美』の抑圧への、深い反抗に発している事をよく感じているのである」。「自分の心底深く隠れている蒐集の理由だけが正当で、大事なのである」。
であるならば、この、ピカソの歎きの声も、さらに深く感得できよう。
「誰もが美術を理解したがる。何故、鶯の歌を理解しようとはしないのか。何故、人々は理解しようとはしないで、夜や、花や、廻りのいろいろな物を愛するのか。ところが、絵画となると、理解しなければならないのだそうである。画家は必要から制作している事、彼自身は、世界の些々たる分子に過ぎない事、説明は出来ないにしても、私達に喜びを与える沢山の他の物に比べて、絵を特に重要視するには当たらぬ事、そういう事を世人が何よりも先ず知ってくれればよいのだが」(「声明」1935年)。(「近代絵画」)
私には、彼が「自らの作品も、頭脳で理解せず、眼でみたまま愛してくれよ」、そう訴えているように聞こえる。そうなると、ピカソ作品の特徴を、キュービズムという外附けの枠組みで分類したり、作品の表題や第三者の解説で理解することも無用ということになる。彼の絵を見て、わからない、と嘆くこともないのだ。
確かにピカソは、「我々がキュービスムを発明した時、キュービスムを発明しようという様な意向は全くなかった。自分等の裡にあるものが明かしたかっただけだ」(傍点筆者)と言っている。ところが小林先生は、次のように続けるのである。
「ピカソが実際に行ったところは、寧ろ内部からの決定的な脱走だったと言った方がいい。ロマンティスムが育成して来た『内部にあるもの』は、次第に肥大して、意識と無意識との対立とな」る。しかし彼にとって、「意識と無意識が対立する様な暇はな」く、「絶えず外部に向って行動を起こす」。眼前にある対象物に向かって仕事をする。対象物に激突したピカソは「壊れて破片となる」。そこには「平和も調和も」なく、「恐らくはそれは自然を吾がものとなし得たという錯覚に過ぎなかった」のであろう。
先に、ピカソの制作のリアルな有り様を、映画やサバルテスの文章を通じて紹介したが、それらこそまさに、ピカソによる「内部にあるもの」からの脱走、すなわち、彼が対象物に激突して破片と化す様だったのではあるまいか。さらには、そこで私達は、対象を己の所有物と感じたいと欲する「感情移入」の拒絶、すなわち小林先生が言う「ヴォリンゲルの仮説の応用問題」を目の当たりにしていたのではあるまいか。
*
ピカソは晩年、子供たちを見ると、このように言っていたという。
「私があの子供たちの年齢のときには、ラファエロと同じように素描できた。けれどもあの子供たちのように素描することを覚えるのに、私は一生かかった」(*10)。
さて、彫刻の森の女児は、相変わらず「これなんだろうねー」を繰り返している。
ふと思った。ピカソの作品を味うには、表題や解説の言葉に頼らない注意力を保ちながら、あの女児になりきって観ていくのがよいのかも知れない。
鶯が歌うように、「これなんだろうねー」とだけ繰り返しながら……
(*1)ボードレール「ボードレール 芸術論」(佐藤正彰・中島健蔵訳、角川文庫)
(*2)彫刻の森美術館(神奈川県足柄下郡箱根町ニノ平1121)
※ピカソ館は1984年に開館。2019年に全面リニューアルされた。
(*3)「『近代絵画』著者の言葉」、新潮社刊『小林秀雄全作品』第22集所収
(*4)「文学の四十年」、新潮社刊『小林秀雄全作品』第25集所収
(*5)向坂隆一郎「『近代絵画』前夜」、『この人を見よ 小林秀雄全集月報集成』新潮社小林秀雄全集編集室編
(*6)ロマンティスム。18世紀末から19世紀初頭にヨーロッパで展開された芸術上の思潮・運動。自然・感情・空想・個性・自由の価値を重視する。
(*7)「ミステリアスピカソ-天才の秘密」Le mystère Picasso、DVD発売;シネマクガフィン、販売:ポニーキャニオン
(*8)この作品「ラ・ガループの海水浴場」(第一作)は、東京国立近代美術館に所蔵されている。
(*9)「親友ピカソ」(美術出版社)
(*10)ローランド・ペンローズ「ピカソ その生涯と作品」(高階秀爾・八重樫春樹訳、新潮社)
※出典確認は、彫刻の森美術館の黒河内卓郎さんにお世話になりました。記して感謝申し上げます。
【参考文献】
マリ=ロール・ベルナダック、ポール・デュ・ブーシェ「ピカソ 天才とその世紀」高階絵里加訳、創元社
(了)
1 小林秀雄からの言及
前稿の最後に柳田国男『昔話と文学』の序文を長々と引用し、それが、ただならぬ文章であると記しただけで擱筆してしまい、読まれた方にはなんのことやら意味不明に思われたのではないかと思う。で、どういう訳かと言うと、これも明確には言いがたい性質のものなのだが、「日本文学史」や「日本文学概説」などという講義を長年、芸も無く繰り返してきた者にとって、最も悩ましい問題は、日本文学の特質とは何か、それをどう把握して説いたら良いかということで、この悩みを抱いて教壇に立って来た者ならば、必ず、あの柳田国男の知見、1938(昭13)年時点であのような認識に立っていたことに驚嘆するはずなのである。今、これについて詳細に語る術が私にはないのだが、私なりのある漠然とした方向性を得たという想い、それが「ただならぬ」という言葉になってしまったのだった。
さて、前稿で考察したように、小林秀雄が創元社編集顧問に着任し、『創元選書』を企画、その第1巻柳田国男『昔話と文学』が刊行されたのは1938(昭13)年12月10日、柳田63歳の年の暮れであった。この選書シリーズはその後かなりな刊行数に達し、出版業としては大いに成功したと言ってよいが、その第1巻についてかなりな思い入れや拘りが想定されるものの、この時期の前後には、小林が柳田に直接言及した文章は見あたらない。戦後になって、漸く、しかし、わずかな言及が現れてくる。
まずは、小林秀雄による柳田国男への言及が、いつ、どのようになされたか、それを時系列に整理しつつ、そこに現れる柳田国男観の展開を考えてみたい。
1950(昭25)年2月に発表された折口信夫との対談「古典をめぐりて」(「本流」創刊号)において国文学史と美術史とを総合するような歴史書が欲しいと小林が発言したときに、折口は「柳田先生のなさって居られる為事――あれともう少し領域の違う方面にやっぱりあれだけ大知識人が、二、三人でもあると、余程よくなるのだと思いますがね」と語るが、小林はそれに応じて「ああいう博学な人が二、三人といっても大へんな事だ」と言う。柳田国男、すなわち博学な人物、この対談ではそれだけである。しかし、1958(昭33)年1月の「国語という大河」(「毎日新聞」)では、様々な国語教科書に採用される自らの文章への複雑な思いを述べながら、次のような言及が見える。
そういう次第だが、うれしかった経験もある。だが、たったいっぺんだけだ。それは、柳田国男氏が、氏の編集する国語教科書に、山に関する私の紀行の全文を選んで下さった時である。うれしかったというのは、私の文章なぞから、強いて選んでもらえるなら、この種の文章よりほかにはなさそうだと思っていたからである。
1935(昭10)年の8月に霧ヶ峰ヒュッテの「山の会」でその謦咳に触れた後、敗戦直後に自ら柳田邸へ赴き「創元」創刊に関わる相談を持ちかけた民俗学者・柳田国男への敬意は、敗戦後にもそのまま続いていたということである。しかし、この後は1965(昭40)年11月の大岡昇平との対談「文学の四十年」で、柳田が亡くなる前に呼ばれて筆記を依頼されて会いに行った経験を語る時へ飛んでしまう(前稿参照)。そして次には、『本居宣長』第二十八回の「稗田阿礼」についての記述箇所、すなわち「阿礼女性説は、柳田国男氏にあっては非常に強い主張(妹の力、稗田阿礼)となっている」に現れることになるが、しかし、驚くべきことにこの箇所は『新潮』連載時の「本居宣長」第二十九回(昭和45年4月)には記述がなく、阿礼女性説は折口信夫の論説としてのみ言及されていたのである。つまり、雑誌連載を終えた昭和51年12月以降から単行書『本居宣長』(昭和52年10月刊)の原稿成立の間に新たに加筆、修正されていると見なければならないが、これはこれで私にとっては興味深いことであって、『本居宣長』刊行前の昭和52年という時期に柳田国男の『妹の力』所収の「稗田阿礼」論が改めて組み込まれたことは、後に振り返ってみたい。
さて、これ以降の文章については、1974(昭49)年1月の「波」(新潮社)に掲載された「新年雑談」になる。これは『八丈実記』を刊行して菊池寛賞を受賞した同姓同名の編者、小林秀雄への祝意を表した文章だが、その『八丈実記』の著者である近藤富蔵という人物について「僕は柳田国男さんからはじめて話を聞きました」そして、この富蔵が自らの行状について「読本風に書いた」もの、「『鎗北実録』という面白いものがあるから、と柳田さんに薦められて読んでみたのである」と見えるが、この実録は相当気に入ったようで、「重蔵富蔵父子という事で、何か書けないかと思ったりして、家内に写させたものを今も持っている。ただそんな事をふと思っただけで済んでしまったが、誰かよくしらべて書いたら面白いのではないかと思う」とまで述べている。
この文章は1973(昭48)年の暮れに書かれたと思われるが、実はこれまでの小林秀雄全集類には未収録になっている「近藤富蔵の事」という文章が、この年の「文藝春秋」12月号に掲載されており、これは同誌の「第21回菊池寛賞発表」のページに「菊池賞受賞を喜ぶ」(p380)という欄があり、各受賞者への賛辞が簡単に書かれている記事で、小林の文章には「新年雑談」とほぼ同内容が記されている。しかし、この文章では、
写本「鎗北実録」を、柳田氏から拝借したのだが、非常に面白かったし、この人物について書いてみる気はないかと言われた事もあったし、家内に筆写させ、今も所持している。
と記されているのである。つまり、写本は柳田国男から借りて読んだもので、その際に、「この人物について書いてみる気はないか」と促されたとも読める。いつ、どこかは不明だが、小林秀雄と柳田国男との交流の一端をうかがわせる記述である点、見逃せない文章であろう。
そして、その翌年1974(昭49)年8月5日の鹿児島県霧島で行われた「国民文化研究会・全国学生青年合宿教室」における講演「信ずることと考えること」(原題)には、柳田国男の具体的な著作への、まとまったかたちでは初めてと言える言及が現れて来るのである。
2 柳田国男「ある神秘な暗示」をめぐって
先ず、この時期について小林秀雄の側から見れば、連載中の「本居宣長」の第五十二回が同年7月号、五十三回が8月号、五十四回が9月号に掲載されている。そして、このあたりの話題は本居宣長と上田秋成との「呵刈葭」論争の考察に入って来たところであり、論旨から言ってもまさしく、信ずることから身を起こす学問の姿と、物事を対象化して分析、考察していくいわゆる自然科学的思考法との対比を、古代人の奉じた神を問う論争に典型的なかたちで露呈してくることに注視し、その記述に集中していたところであった。いわば「本居宣長」の記述もいよいよ佳境に入って来たところであり、「信ずる」から出発する学問とはどういうものか、どういうかたちを取るものなのかについて、思い巡らしていた時期の講演であったと言えよう。
霧島での講演は、当時TV出演で一世を風靡したユリ・ゲラーの念力実験から、精神感応なる超常現象の話をめぐるベルグソンの思考方法に及び、そして霧島へ来る前に初めて読んだという柳田国男の『故郷七十年』、その「ある神秘な暗示」という文章についての読後感から次のように説き始めている。これは「信ずることと考えること」1974(昭49)年8月5日、霧島での講演録音(新潮CD『小林秀雄講演第二巻』)からそのまま文字起こししてみよう、それは後に活字化され、文章として整理されたものよりも、小林秀雄の息づかい、言葉を発する際の抑揚のあり方などに、柳田国男への想い、敬愛の情が実によく表現されているからである。出来るだけその肉声を聴き取るように読んで欲しい。
こないだね、僕は、こっち来る前に、柳田国男さんのね、故郷七十年という本を読んでた。昔から僕は聞いてた本だけども、ん、読まなかった、諸君、読んだ人あるかねえ、んー、柳田国男さんていう人は、諸君もよく読むといいですよ。あの、ハイカラみたいな本ばっかり読まないでね、ハイカラみたいな本、今、だいたいハイカラみたいな本、ろくな本はないです。
この発言後に、柳田国男『故郷七十年』中の「ある神秘な暗示」、すなわち柳田が14歳の時、茨城県の布川に預けられていた時の経験を語るものであるが、当時住んでいた旧家の庭に小さな祠があり、これは亡くなったお祖母さんを祭ったものだと聞いて、好奇心から中を覗いてみたという経験である。祠の中には美しい蝋石の玉があった。それを見た瞬間に、実になんとも表現できないような「異常心理」に陥り、昼間の空に輝くいくつもの星を見てしまう。その時、たまたま頭上高く飛んでいたヒヨドリの鋭い鳴き声で我に返ったという話を語り終えて、
僕はそれを読んだときね、非常に感動しましてね、ははあ、これで僕は柳田さんという人はわかったと思いました。そういう人でなけりゃ民俗学なんていうもんはできないんですよ、民俗学というのもひとつの学問です、学問だけど科学ではないですよ、科学の方法みたいな、あんな狭っ苦しい方法では民俗学っていう学問はできないんです。それからもっと大事なこと、もっと大事なことは、ヒヨが鳴かなかったら発狂するっていうような、そういう神経を持たなけりゃ民俗学っていうものはできないんです。そういうことをよく諸君考えてごらんなさい、諸君は目が覚めないか、そういう話を、僕はほんとにそのときに、はっと感動してね、あっ柳田さんの学問の秘密っていうのはここにあったんだ、こういう感受性にあったんだ。
というようにほとんど一気呵成の勢いで自らの感動をほとばしらせている。その語勢には聴いている者をこの感動の中に巻き込んでいく激しさが表れているのである。次いで柳田の話をもう一つということで、『山の人生』中の最初の話、「一 山に埋もれたる人生ある事」を紹介していく。これは明治の30年代後半あたりのこと、「西美濃の山の中で炭を焼く五十ばかりの男」が、自分の2人の子供を「鉞で斫り殺した」事件の記録を、当時法制局参事官職にあってこれを読んだ柳田の思い出話なのだが、柳田自身はこの話の中でどのような想いを持ったのか、これが自分の学問、民俗学とどういう関係があるのかについてまったく言及していない。ただ、「我々が空想で描いてみる世界よりも、隠れた現実の方が遙かに物深い。また我々をして考えしめる」とだけ述べるに止まっている。しかし、小林秀雄はこの『山の人生』が刊行された大正15年に思いを馳せつつ、明治の終わりから大正期にかけての文学に大きな流れをもたらした自然主義、柳田の友人、田山花袋らが主導していった自然主義から私小説への潮流が、どれほど矮小な人生観を小説に仮託し続けてきたか、そこに現れた「空想で描いてみる世界」の人生よりも、「山に埋もれたる人生」の方が真実であり、そこには遙かな昔から今日まで、日本人の知恵として育まれて来た人生観があるのだという痛切な想いが、この話を書いていた柳田の胸中に去来していたはずだと説いているのである。
この霧島での講演は、ベルグソンへの言及が分量としては多く、柳田への言及は先に挙げた二つの著書に触れるだけなのでその半量くらいに止まっていた。そして、この講演が、後に「信ずることと知ること」として文章化され、『新訂小林秀雄全集』(第4次全集)の別巻Ⅰ(昭54年)に収録されたのであった。この全集の書誌Ⅱの解題によれば、
『日本への回帰』第一〇集、国民文化研究会刊、昭和五〇年三月。「諸君!」昭和五一年七月号に再掲・昭和四九年八月の国民文化研究会における講演に基く。
と記載されている。しかし、この霧島での講演の録音テープがそのまま新潮カセット文庫(昭六〇年十二月)で発売されてみると、その講演での言葉、文章は全集収録本文とはだいぶ異なっていることに気づく、その点について、このカセット文庫に付された解説(現行CD版にも掲載されている)によって、霧島での講演録音がそのまま活字化されなかった事情は明らかになるが、実はその時の講演だけではなく、その翌々年(昭51年)の3月になされたもう一つの講演を経て定稿とされた文章が、先の『新訂全集』本文なのだ。少々ややこしい話になるのだが、これはまた後に触れるとして、今は時系列の順を追って進めていこう。霧島の8月5日の講演から約2ヶ月後に「古田君の事」(『回想の古田晁』筑摩書房私家版 1974(昭49)年10月)に、再び柳田国男への言及が現れる。
これは筑摩書房の創業者であった古田晁の「一周忌に、友人ども相寄り、一文を草して、霊前に供えるという事で、書く事を約したままでいたところ、編集者から催促を受けた。それが、丁度、『故郷七十年』を読んだところであった」というのである。この古田晁追悼の文章は次のように始まる。
「定本柳田国男集」は、筑摩書房の優れた出版物の一つである。柳田さんの厖大な研究は「故郷七十年」と題する思い出話で終わるのだが、その中に、「ある神秘な暗示」という談話がある。十四歳の時の不思議な経験が語られている。
そして先に挙げた小さな祠を覗き見て「異常心理」に襲われた経験を紹介し、こう述べる。
この少年時の思い出の淡々たる記述は、人を引きつけずには置かぬ一種の名文であって、私は読んで、柳田さん自身の口から、その学問の秘密を打ち明けられたように思われた。
それはやっぱりそうだったかという強い感じであった。蝋石に宿ったお祖母さんの魂が、まざまざと見えるという、古人にとっては解りきった事実の中に、何の苦もなく、極めて素直に入りこめる柳田さんの、場合によっては狂気にも誘われ兼ねない天賦の感受性、或いは想像力に、出会う思いであった。これが柳田さんの学問の原動力をなしていた。そして、これは非常な抑制力によって秘められていた。この人にはこの人の持って生まれて来た魂の、全体的な動きというものがあり、それは、その学問の方法を受けついだ人々にも受けつぐ事は出来なかったものに相違ない。
この後に先の引用、この文章を書いている経緯について触れ、「故郷七十年」を読んでいたところだったと書いて、こう続く。
序でに、余計とも思われる事を言えば、今年初めてだが、裏庭の錦木の茂みに、鵯が巣をかけ、卵が三つ孵った。親は、高空で鳴く暇もなく、毎日、朝から餌をはこぶので苦労している。雛は、巣から高々と首を延ばし、精一杯に開けた口は、空を仰いで、満天の星を望んでいるような様子をしている。そういう次第で、ペンを取り上げると、私はわれ知らず、古田君の魂の行方を追うようであった。
ヒヨドリが営巣して雛を孵す時期がほぼ6月~8月頃とすれば、霧島での講演の直前に『故郷七十年』を読んでいたのであろうか。古田晁の命日は1973(昭48)年10月30日であって、その一周忌に文集を出すということであり、「編集者から催促を受けた。それが、丁度、『故郷七十年』を読んだところであった」というところを踏まえるなら、先の霧島での講演の直前に書かれたものではないかと推測されるが、柳田を語る文章の整い方をみれば、講演で語られた言葉に基づいて、かなり推敲されたようにも思われる。
さて、1974(昭49)年には8月と10月に柳田への言及を含む講演と文章が確認できるのだが、もう一度「信ずることと知ること」に戻し、1976(昭51)年に行われたもうひとつの講演について見てみよう。これが「古田君の事」の後に続く柳田への言及になる。
3 「信ずることと知ること」成立の経緯
現行の『小林秀雄全作品』にも収録されている「信ずることと知ること」が、実は2回の講演に基づいて成立していたこと、いわば文章作品としての「信ずることと知ること」の生成過程といったものが、『小林秀雄 学生との対話』(2014(平26)年3月 新潮社刊)の刊行によって明らかになった。本書には霧島での講演後、これをその翌年にはじめて活字化した「初稿版」と昭和51年3月の講演を経て成立した「定稿版」の両者を掲載し、次のような解説を付しているのである。
「信ずることと知ること」は、昭和四十九年八月に「信ずることと考えること」の題下に講義された後、翌年、改題されて国民文化研究会発行の「日本への回帰」第10集に掲載された(本書三〇頁から収載のもの)。小林秀雄はその後も思索を重ね、五十一年三月に東京で講演を行い、「諸君!」同年七月号に改訂稿を発表、これを決定稿とした。同じテーマが、講義をし、学生と対話し、講義録を作り、さらに時間を経て講演し、改稿されることで、作品にどれほどの深まりと表現上の工夫が齎されたか味読いただきたい(同書158ページ)
では、「初稿版」と「定稿版」でどこが異なるか。今、本稿で問題としている柳田国男に関わる小林秀雄の言及というところだけ取り上げれば、柳田国男の著作として紹介し、説いていく対象の数が違うのだ。1974(昭49)年8月の霧島講演とその活字化「初稿版」では、『故郷七十年』と『山の人生』の2著だけに言及しているが、「定稿版」では、これに加えて、『遠野物語』の「序文」と「山人考」、次に『遠野物語』中の第61話、そして『妖怪談義』にも言及しているのである。この4点の増加が何を意味するか。端的に言えば、霧島での講演から、小林は柳田国男の著作をさらに読み進めていったということである。それでは、1976(昭51)年3月の講演とはどのようなものだったのか。
これは福田恆存の依頼によって同年3月6日に、文京区本駒込にあった三越三百人劇場で行われた講演であった。この講演は録音されており、同年中にCBS・SONYからLPレコード小林秀雄講演「信ずることと知ること」と題して発売されたのである。私はこのアナログレコードを忘れもしない大学入学時(昭52年)に、秋葉原にあった石丸電気本店のレコード売場で購入し秘蔵していたが、世の中がCD時代になってからこのLPレコードを聴くこともなくなり、内容に柳田国男の話題があったとは記憶しているもののその全体はすっかり忘れていたのである。ところが、先だってふとしたことからこの音源に再び触れることを得て(本誌でもお馴染みの荻野徹さんのご厚意による)、一聴して驚嘆した。というのは、この三百人劇場での講演内容は、最初から最後まで柳田国男についてだけ語っていたものだったからだ。
4 三越三百人劇場における講演
1976(昭51)年3月6日、三越三百人劇場での講演「信ずることと知ること」の冒頭部はこう始められている。これも出来るだけ忠実に文字起こししてみる。
今日は僕、柳田さんの話を、ちょっと、ほんのわずかですけど、しようと思ってね、それで失礼しようと思ってんだ。実はね、今日はこの本持ってきた、これは柳田さんの本です。全集の中の本です、あの有名な「遠野物語」がのっかってる全集の一つですがね、実はこれはちょっと他でもしゃべったことがあるんですがね。
つまり、この時から2年前の夏、霧島での講演を踏まえることを示唆しつつ、その時と同じように「近頃僕は『故郷七十年』っていう本をね初めて読んだんです」と語って、やはり「ある神秘な暗示」という一節に言及していく。その読後の感動は次のような言葉となっている。
もしもヒヨドリが鳴かなかったら発狂したかもしれない、そういう非常な、あの、経験だなあ、そういう感受性を、がだね、柳田さんの学問の中でどのくらい大きな役目をしてるかっていうことは、僕は、柳田さんの本を読んでてよく分かるんですね。(……中略……)ははあ、これで分かった、ここに民俗学ってものを生かしている本当の命があるんだということを、私はそのとき、悟ったんですよ。あんとき、僕は柳田さんを好きでよく読んでいるんですけどね、そのとき、僕は、はっと目が覚めた。ははあそうか、やっぱりそうだったか……。
すなわち、この『故郷七十年』中の「ある神秘な暗示」の読後感について、小林は1974(昭49)年8月に講演し、同年10月に書き、そして1975(昭50)年3月に「信ずることと知ること」初稿版を書き(正確には聴講した学生のノート原稿に加筆、修正した)、さらに1976(昭51)年3月にまたこの講演で言及し、同年7月に「信ずることと知ること」定稿版を書く、という都合5回に渡って語り、書く行為を繰り返していたことになる。
三百人劇場の講演は、次に『山の人生』第1話に触れていくが、これは霧島での講演とほぼ同じである。しかし、その後は、『遠野物語』の「序文」に言及していく。
「国内の山村にして遠野よりさらに物深き所にはまた無数の山神山人の伝説あるべし。願わくはこれを語りて平地人を戦慄せしめよ」を読み上げて、「随分激しい言葉を言っていますね」と語り、この「平地人」とは現代の「インテリ」のことだと近代知性に凝り固まった人間への鋭い批判を展開している。しかし、この序文の文言「平地人を戦慄せしめよ」という強い口調を取り上げるところ、これは、たとえば小林秀雄の遺作となった「正宗白鳥の作について」の第5回(「文學界」1981(昭56)年9月)で触れている、フロイトの『夢判断』の巻頭言「天上の神々を動かし得ざりせば、冥界を動かさん」への注目と同様な意味合いを持っているのではないか。つまり、柳田国男とフロイトに、その時代を占有している知性を根元から壊乱させるような力、しかし、それは、実に孤独な精神によって培われるしかなかった力、そのようなものを小林秀雄は、「平地人を戦慄せしめよ」という柳田の激しい語勢に、確かに感じ取っていると、私には思われるのである。
また、講演は『遠野物語』第61話を読み上げて、山中で白鹿に出会い、これを魔性のものと思って対決した猟師の話に、自然の力と人間の心との交流が開かれる異常な経験の姿を読み取っていく。そして、三百人劇場の講演は、最後に『妖怪談義』の一節を引用していく。
「化け物の話を一つ、出来るだけきまじめに又存分にしてみたい。けだし我々の文化閲歴のうちで、これが近年最も閑却せられたる部面であり、従って或民族が新たに自己反省を企つる場合に、特に意外なる多くの暗示を供与する資源でもあるからである。私の目的はこれに由って、通常人の人生観、分けても信仰の推移を窺い知るに在った……(中略)……私は生来お化けの話をすることが好きで、又至って謙虚なる態度を以て、この方面の知識を求め続けていた。それが近頃はふっと断念してしまったわけは、一言で言うなら相手が悪くなってきたからである。先ず最も通例の受返事は、一応にやりと笑ってから、全体オバケというものは有るもので御座りましょうかと来る。そんな事はもう疾くに決している筈であり、又私がこれに確答し得る適任者でないことは判りきっている筈である……(中略)……無いにも有るにもそんな事は実はもう問題でない。我々はオバケはどうでも居るものと思った人が昔は多いにあり、今では少しはある理由が分からないで困っているのである」。
この文についても、柳田が極めて婉曲に表現しているところを読み取って、次のような語勢で聴衆を柳田の文脈の内側へと強く誘っていくのである。ここでの小林の口調もまたたたみかけるような力が漲っている。
こういう文章の意味、分かりますか、こういう文章の含みが。ここには大変な含みがあります。だいたいね、柳田さんの文章は、みんな、含みがあります。含みで読ませるように出来ているからね、だから、難しいんですよ。柳田さんの学問ってものはね、含みのない文章じゃ表現することが出来なかった学問です。さっきも言ったようにね、ああいう、発狂するかしないか、ヒヨドリの声ひとつだというような心を持っていないと出来ない学問なんですよ、これは冗談でも何でもないんです、今、そういう学問がなくなっちゃったんです。文章の含みによって真理を語るっていう様な学問がね。そりゃあ文士はやってますよ、詩人は。だけどそういう学問だってなきゃ駄目なんです。それでなきゃ人間の学問はできませんね、人間に関しての、あるいは歴史に関しての……。
オバケの話を聞かせてくれと地方に行って頼めば、なんだ田舎者と思って馬鹿にするなと怒られるようになった。また逆に、都会ではオバケの話をしても「ニヤリ」と笑われておしまいになる。つまり、もう既にオバケという存在はかつての迷信の一つとして遠ざけられ、極めて意識的かつ合理的な日常生活においては忘れ去られたことになってしまっている。しかし、暗がりに潜む化け物は退治されたかもしれないが、心の奥底に追いやられた化け物は、底知れぬ不安として居座り続けているではないか。今もまだ、暗闇の中で恐怖を感じる人は、少なくなってはいるが必ずいるし、化け物話の風説はいまだに流布しているのであるから、我々の心の世界の奥行きと拡がりがどれほど遠くにまで及んでいるか。本当は計り知れないものであるはずだが、現代人は心の世界の隅々まで科学の発達によって知り尽くしたと自負し、それが恐れというものを追放したと思い込んでいる。
というように三百人劇場の講演は展開し、昔の人々が自然とあまりに近づいて、深刻な取り引きを結んでいた。その結び方を通して、神の恵みや神の怖しさを悟ることが出来たのだ、それは人間の心、魂の問題だった。そして、なぜそう出来たかといえば、この肉体と心というような区別などなかった、魂というものを持っていたからである。
柳田国男は、そういう魂のあり方が受け入れられなくなったことを嘆いているのだ、ということを最後に話してこの講演は終わっている。
5 柳田国男論
1976(昭51)年3月6日の本講演が伝えることは、先に挙げたフロイトの『夢判断』が実行した、人間心理の暗がり、「冥界」へメスを入れるような思考とまったく同様な、日本人の心の伝承的な真実を明るみへ出そうという画期的な学問が柳田国男の民俗学であること。しかし、その学問の前提として、柳田国男という、極めて繊細な感受性を生まれながらに帯びていた個性を必要とし、かつ、その個性に満ちた表現を以てしか成し遂げられなかったということなのである。注意すべきことは、柳田の民俗学という学問の成果は、その個性的な文体と切っても切り離せないということ。すなわち、言語的表現の意味というものは、その字面、そこに現れている文字自体には宿っていないという難解だが具体的で経験的な真実を懸命に伝えようとしていることである。そうした想いこそが、「こういう文章の意味、分かりますか、こういう文章の含みが」という、聴衆の心へ叩きつけるような語勢となってほとばしり出てしまうのである。
そして、さらに注意したいのは、この「文章の含み」なる働き、力の出所が「古田君の事」でそれとなく記されていたこと、柳田の人並み外れた感受性が「これは非常な抑制力によって秘められていた」と書き添えていることと深いつながりがあるはずだと、私には思われるのである。
さて、この講演を経て後、「信ずることと知ること」は定稿版へ整うのだが、おおまかに言えばその前半は霧島での講演で、後半が柳田国男の学問について、そこに三百人劇場での講演が接続されている。しかし、どうやら、この講演記録の文字起こしで定稿版のすべてが成立しているわけではない。極めて些細なことかも知れないが、この講演内容を注意して聴いた上で、文字化された定稿版を読み直すと、定稿版において柳田国男の「山人考」が「山人」の由来を説く引用文とともに付け加えられていることが分かるのだ。つまり、三百人劇場の講演から定稿版擱筆までの間に、さらに柳田国男の文献を確認していたことになる。
以上のような経緯を振り返ると、1974(昭49)年の夏、霧島での講演を皮切りに、1976(昭51)年の「諸君!」7月号の「信ずることと知ること」定稿版に至るほぼ2年間に、小林秀雄は柳田国男の著作のあれこれを渉猟していたことが分かってくる。そこで、先に少々触れた、『本居宣長』の稗田阿礼女性説の件に戻ってみたい。
繰り返せば、『新潮』連載時の「本居宣長」第二十九回(昭和45年4月)には、阿礼女性説は折口信夫の論説としてのみ言及されており、雑誌連載を終えた昭和51年12月以降から単行書『本居宣長』(昭和52年10月刊)の準備としての連載原稿推敲の間に、柳田国男の説が新たに加筆、修正されていると見なければならないが、すなわちこれまで叙述して来た小林秀雄の柳田国男への注視の時間を踏まえれば、少なくともその2年間あたりで、柳田国男『妹の力』所収の論文「稗田阿礼」を読んでいたということになると思うのである。
もちろん霧島での講演直前に柳田国男を初めて読んだわけではない。小林秀雄と柳田国男との邂逅から創元選書第1回『昔話と文学』刊行(1938(昭13)年12月)、そして敗戦直後の柳田邸訪問等、その付かず離れずの関係は戦前から継続していたことは前稿で記した通りである。たしかに、柳田国男論は書かれなかったが、先に記した三百人劇場での講演はそのままで実に見事な柳田国男論であった、時は『本居宣長』の完成に向けて集中されていたとは言え、あるいはその先に、柳田国男論が書かれていても不思議ではなかった、そう私には思われるのである。
6 「お月見」
柳田国男は1962(昭37)年8月8日、ひどく暑い夏の日に逝去したという。享年87歳。その年の秋、10月27日発行の「朝日新聞」PR版・四季の欄に小林秀雄は「お月見」という小文を寄せていた。
知人からこんな話を聞いた。ある人が、京都の嵯峨で月見の宴をした。もっとも月見の宴というような大袈裟なものではなく、集まって一杯やったのがたまたま十五夜の夕であったといったような事だったらしい……
と始まる小文は、宴席の途中で誰もが月の出を待つように空を見上げる、ところがその席にスイス人が数名加わっていて、賑やかな宴会の途中に月を見上げて静まり返った日本人たちに「今夜の月にはなにか異変があるのか」と質問したという逸話である。そして、次のように終わっていく。
お月見の晩に、伝統的な月の感じ方が、何処からともなく、ひょいと顔を出す。取るに足らぬ事ではない、私たちが確実に身体でつかんでいる文化とはそういうものだ。古いものから脱却する事はむずかしいなどと口走ってみたところで何がいえた事にもならない。文化という生き物が、生き育って行く深い理由のうちには、計画的な飛躍や変異には、決して堪えられない何かが在るに違いない。私は、自然とそんな事を考え込むようになった。……
日本人が長年の間に培って来た自然への独特な感受性は、我々の身体のどこかに、必ず潜んでいる。しかし、それは我々には意識化できないもので、たまたま外国の人が鏡となった場合に、漸く、自らの姿がそこに写されるように浮かび上がる。そうしたことを生涯かけて掘り起こして来たのが柳田国男の民俗学であったことは疑いない。そして、そうつくづく思っていると、この「お月見」という小文には、柳田国男への追悼という「含み」がある、私にはそう読めて来るのである。
(了)
新型コロナウィルス感染症問題の影響を受けて、今年4月に車通勤を始めた。帰り道は毎夜、車も人もほとんどない、店の灯りも落ちた中を走るのだが、その時に、小林秀雄先生の講演のCDを聴くことにした。今回のコロナ以来、私の職場でも、会議等で検討するのは未経験のことばかり、判断の拠り所は「人は、それをよしとするかどうか」となった。つまり、「健康に生きることが最優先という時に、立場や文化の違いを超えて人がよしとするもの、納得する答えは何か」を探し続けた。「語る人と聞く人とが、互いに想像力を傾け合い、世にある事柄の意味合や価値を、言葉によって協力し創作する」、大袈裟なようで気恥ずかしいが、まさに先生のこの言葉は、私の職場における、最善を模索する話し合いそのものであったと思う。
――物語は、どういう風に誕生したか。「まこと」としてか「そらごと」としてか。愚問であろう。式部はただ、宣長が「物のあはれ」という言葉の姿を熟視したように、「物語る」という言葉を見詰めていただけであろう。「かたる」とは「かたらふ」事だ。相手と話し合う事だ。「かた」は「言」であろうし、「かたる」と「かたらふ」とどちらの言葉を人間は先きに発明したか、誰も知りはしないのである。世にない事、あり得ない事を物語る興味など、誰に持てただろう。そんなものに耳を傾ける聞き手が何処に居ただろう。物語が、語る人と聞く人との間の真面目な信頼の情の上に成立つものでなければ、物語は生れもしなかったし、伝承もされなかったろう。語る人と聞く人とが、互に想像力を傾け合い、世にある事柄の意味合や価値を、言葉によって協力し創作する、これが神々の物語以来変らぬ、言わば物語の魂であり、式部は、新しい物語を作ろうとして、この中に立った。これを信ずれば足りるという立場から、周囲を眺め、「日本紀などは、たゞ、かたそばぞかし」と言ったのである。(新潮社刊『小林秀雄全作品』第27集181頁)
だから私は、小林先生の言葉が私の職場にも何かヒントを与えてくださるのでは、と期待した。先生は講演後の質疑応答で、学生の質問に答えて言った。「昔の人の心になるのは何でもないことです。それは、人間は変わらないものだからです。人間は変わるところもあるけれど、変わらないところもあるからです。あなたに目が二つあることは変わらないでしょう。生物としての人間、種としての人間は、全然変わってないでしょう。それと同じで、人間の精神もやっぱり変わっていませんよ。現代は、物質的な進歩は確かにたいへんなもので、それに僕らはつい目を奪われるから、人間はどんどん変わっているように思ってしまう。これは、人間の精神を実は蔑ろにしていることです。人間の変わらないところ、変わらない精神を発見するのには、昔のものを虚心坦懐に読めばいいのです。……想像力さえあれば、いつでも彼らの心に触れることができる」。
『本居宣長』で、小林先生は「学問界の豪傑達は、みな己に従って古典への信を新たにする道を行った。彼等に、仕事の上での恣意を許さなかったものは、彼等の信であった。無私を得んとする努力であった」と書いている。藤樹、契沖、仁斎、徂徠、宣長といった豪傑達は、まさに信を新たにする道を行うために、想像力を磨いたのではないだろうか。
古典を虚心坦懐に読むために、小林先生の言う「想像力」とは何かを理解し、できるなら、それを磨きたいと思い、『本居宣長』を読みながら「想像力」という言葉を追ってみた。前回の塾の自問自答で、溝口朋芽さんが「精神」という言葉を追い、丁寧に考えを深められたように私も、と思った。
――当時、古書を離れて学問は考えられなかったのは言うまでもないが、言うまでもないと言ってみたところで、この当時のわかり切った常識のうちに、想像力を働かせて、身を置いてみるとなれば、話は別になるので、此処で必要なのは、その別の話の方なのである。書を読まずして、何故三年も心法を練るか。書の真意を知らんが為である。それほどよく古典の価値は信じられていた事を想わなければ、彼等の言う心法という言葉の意味合はわからない。彼等は、古典を研究する新しい方法を思い附いたのではない。心法を練るとは、古典に対する信を新たにしようとする苦心であった。仁斎は「語孟」を、契沖は「万葉」を、徂徠は「六経」を、真淵は「万葉」を、宣長は「古事記」をという風に、学問界の豪傑達は、みな己れに従って古典への信を新たにする道を行った。彼等に、仕事の上での恣意を許さなかったものは、彼等の信であった。無私を得んとする努力であった。この努力に、言わば中身を洞にして了った今日の学問上の客観主義を当てるのは、勝手な誤解である。(同103頁)
――彼の言う「あはれ」とは広義の感情だが、なるほど、先ず現実の事や物に触れなければ感情は動かない、とは言えるが、説明や記述を受附けぬ機微のもの、根源的なものを孕んで生きているからこそ、不安定で曖昧なこの現実の感情経験は、作家の表現力を通さなければ、決して安定しない。その意味を問う事の出来るような明瞭な姿とはならない。宣長が、事物に触れて動く「あはれ」と、「事の心を知り、物の心を知る」事、即ち「物のあはれを知る」事とを区別したのも、「あはれ」の不完全な感情経験が、詞花言葉の世界で完成するという考えに基く。これに基いて、彼は光源氏を、「物のあはれを知る」という意味を宿した、完成された人間像と見たわけであり、この、言語による表現の在るがままの姿が、想像力の眼に直知されている以上、この像の裏側に、何か別のものを求めようとは決してしなかったのである。(同206頁)
――おぼつかない神代の伝えごとを、そのまま受納れた真淵が、「古へを、おのが心言にならはし得」たところを振返ってみるなら、それとは質の違った想像力が、この易しい譬えの裏には、働いているのが見えて来るであろう。――「言を以ていひ伝ふると、文字をもて書伝ふるとをくらべいはんには、互に得失有て、いづれを勝れり共定めがた」くと、宣長は繰返し言っている。これは大事な事で、彼は定めがたき一般論などを口にしているのではない。ただ、両者は相違するという端的な事実に着目して欲しい、と言っているだけなのだ。ところが、其処に眼を向ける人がない。「上古言伝へのみなりし代の心に立かへりて見」るという事が、今日になってみると如何に難かしいかを、宣長は考えるのであり、その言うところには、文字を用いなれたる人々が、知らずして抱いている偏見に、強く抗議したいという含みがある。(同第28集169頁)
――「文字は不朽の物なれば、一たび記し置つる事は、いく千年を経ても、そのまゝにるは文字の徳也、然れ共文字なき世は、文字無き世の心なる故に、言伝へとても、文字ある世の言伝へとは大に異にして、うきたることさらになし、今の世とても、文字知れる人は、万の事を文字に預くる故に、空にはえ覚え居らぬ事をも、文字しらぬ人は、返りてよく覚え居るにてさとるべし、殊に皇国は、言霊の助くる国、言霊の幸はふ国と古語にもいひて、実に言語の妙なること、万国にすぐれたるをや」、――神代より言い伝え、言霊の幸わう国と語り継いで来た「文字なき世は、文字無き世の心なる故」と、しっかりと想像力を働かせてみるなら、「言辞の道」に於いて、「浮きたる事」は、むしろ今の世の、「文字を知れる人」の側にある事に気付くであろう、というのが、宣長の言いたいところだったのである。(同上)
用例探索をさらに進めていく中で、私は「想像力の眼」という言葉に強く惹きつけられてしまった。想像力の眼は、言葉が描き上げた物語の中の人物を実在の人物を見るのと同じように見る、あるがままに見る。余計な意味づけなど決してしない。さらには、想像力をしっかりと働かせてみれば、「『言辞の道』に於いて、『浮きたる事』は、むしろ今の世の、『文字を知れる人』の側にある事に気付くであろう」と、書かれていた。
「想像力を働かせる」とは、私を無くし、相手に同化して考えることだ。そのためには、これまで自分の中に積み重ねた知識や経験を一掃し、現代における一切の通念を捨てた、ゼロの原点への回帰が求められる。言うまでもなく、小林秀雄に学ぶ塾では、何度も言及されている。このようなことが、凡人の私にできるのだろうか。小林先生は、そのためには想像力を磨け、と言う。講演の中でも、「想像力は磨くこともできるのです。想像力だってピンからキリまであるから、努力次第ですよ。精神だって、肉体と同じで、鍛えなければ駄目です。使っていないと、発達などしません。想像力も自分で意識して磨いていけばどんどん発達するものです」と、学生を励ましている。
――万葉歌人が歌ったように「神社に神酒すゑ、禱祈ども」、死者は還らぬ。だが、還らぬと知っているからこそ祈るのだ、と歌人が言っているのも忘れまい。神に祈るのと、神の姿を創り出すのとは、彼には、全く同じ事なのであった。死者は去るのではない。還って来ないのだ。と言うのは、死者は、生者に烈しい悲しみを遺さなければ、この世を去る事が出来ない、という意味だ。それは、死という言葉と一緒に生れて来たと言ってもよいほど、この上なく尋常な死の意味である。宣長にしてみれば、そういう意味での死しか、古学の上で、考えられはしなかった。死を虚無とする考えなど、勿論、古学の上では意味をなさない。死という物の正体を言うなら、これに出会う場所は、その悲しみの中にしかないのだし、悲しみに忠実でありさえすれば、この出会いを妨げるような物は、何もない。世間には識者で通っている人達が巧みに説くところに、深い疑いを持っていた彼には、学者の道は、凡人が、生きて行く上で体得し、信仰しているところを掘り下げ、これを明らめるにあると、ごく自然に考えられていたのである。
「真実の神道の安心」を説いた、「答問録」の中の文の出どころを、「古事記伝」中の「神世七代」の講義に求め、私の文もくだくだしい書きざまとなったが、講義の急所は、伊邪那岐命の涙にある、という考えさえ手離さなければ、二つの文は、しっくりと重なり合うのが見えて来るだろう。
「御国にて上古、たゞ死ぬればよみの国へ行物とのみ思ひて、かなしむより外の心なく」と門人等に言う時、彼の念頭を離れなかったのは、悲しみに徹するという一種の無心に秘められている、汲み尽し難い意味合だったのである。死を嘆き悲しむ心の動揺は、やがて、感慨の形を取って安定するであろう。この間の一種の沈黙を見守る事を、彼は想っていた。それが、門人等への言葉の裏に、隠れている。死は「千引石」に隔てられて、再び還っては来ない。だが、石を中に置いてなら、生と語らい、その心を親身に通わせても来るものなのだ。上古の人々は、そういう死の像を、死の恐ろしさの直中から救い上げた。死の測り知れぬ悲しみに浸りながら、誰の手も借りず、と言って自力を頼むと言うような事も更になく、おのずから見えて来るように、その揺がぬ像を創り出した。其処に含蓄された意味合は、汲み尽し難いが、見定められた彼の世の死の像は、此の世の生の意味を照し出すように見える。宣長の洞察によれば、そこに、「神代の始メの趣」を物語る、無名作者達の想像力の源泉があったのである。
想像の力は、何を教えようとも、誰を喩そうとも働きはしない。かろやかに隠喩の働きに乗じ、自由に動く。生死は吉善凶悪となり、善神悪神となり、黄泉にとどまる悪神の凶悪に触れた善神は、禊によって、穢悪を祓い清めなければならない、という風に。だが、それが為に、物語の基本の秩序は乱れはしない。自由に語るとは、ただ、任意に語る事ではない。「女男ノ大神の美斗能麻具波比より始まりて、嶋国諸の神たちを生坐し、今如此三柱ノ貴ノ御子神に、分任し賜へるまで」、――の物語を、注意して読んで行けば、――「世間のあるかたち何事も、吉善より凶悪を生し、凶悪より吉善を生しつゝ、互にうつりもてゆく理リ」に、おのずから添うて進むのが見えて来る。作者等の想像の発するところに立ち、物語が蔵する、その内的秩序に、一たん眼が開かれれば、初め読み過したところを振り返り、「女男ノ大神の美斗能麻具波比」という物語最初の吉善さえ、「凶悪の根ざし」を交えずには、作者達は発想出来なかったのに気が附くだろう、と註釈は、読者の注意を促している。(同206頁)
用例から繰り返せば、「想像の力は、何を教えようとも、誰を喩そうとも働きはしない」。だからこそ、「『世間のあるかたち何事も、吉善より凶悪を生し、凶悪より吉善を生しつゝ、互にうつりもてゆく理リ』に、おのずから添うて進むのが見えて来る」という。こう考えると想像力は、生命が危機や未知に直面した時、極めて困難な局面を打開して、人間を救う力にもなるだろう。
コロナで大きく変わった社会の中で、考えるヒントを求める私たちは、小林先生の文章を読んで、生きるための知恵とは何かを知る。それは、こういうことのようだ。想像力を磨けば、今も昔も変わらない人間の精神、つまり、誰もが無意識に持つ「常識」が思い出される。もちろん、ここでいう「常識」は、一般に言われる常識ではない。『小林秀雄全作品』の脚注には、この言葉が出るたび、「人間が生れつき備えている知恵や能力。外部から習得される知識よりも、万人共通の直観力、判断力、理解力に基づく思慮分別に重きをおいて著者は用いる」とある。そういう「常識」は、さらに精神を働かせる。この繰り返しを絶やさないよう努め想像力を磨き続けることこそが、このような時代でも、よく生きる、ということなのかもしれない。
(了)
「本居宣長」を読むようになって6年が過ぎたが、冒頭の第1章、第2章に登場する、宣長本人が書いた「遺言書」を捉えようとする私の精神は、空回りを繰り返していた。今年の山の上の家の塾での質問も、懲りずに「遺言書」に関する事を取り上げたいと思っていると、ふと、最終章、第50章の最後部、下記の一文に目が留まった。
――宣長が、此処に見ていたのは、古人達が、実に長い間、繰返して来た事、世に生きて行く意味を求め、これを、事物に即して、創り出し、言葉に出して来た、そういう真面目な、純粋な精神活動である。学者として、その性質を明らめるのには、この活動と合体し、彼等が生きて知った、その知り方が、そのまま学問上の思惟の緊張として、意識出来なければならない。そう、宣長は見ていた。そういう次第なら、彼の古学を貫いていたものは、徹底した一種の精神主義だったと言ってよかろう。むしろ、言った方がいい。観念論とか、唯物論とかいう現代語が、全く宣長には無縁であった事を、現代の風潮のうちにあって、しっかりと理解する事は、決してやさしい事ではないからだ。宣長は、あるがままの人の「情」の働きを、極めれば足りるとした。それは、同時に、「情」を、しっくりと取り巻いている、「物の意、事の意」を知る働きでもあったからだ。
――もう、終わりにしたい。結論に達したからではない。私は、宣長論を、彼の遺言書から始めたが、このように書いて来ると、又、其処へ戻る他ないという思いが頻りだからだ。ここまで読んで貰えた読者には、もう一ぺん、此の、彼の最後の自問自答が、(機会があれば、全文が)、読んで欲しい、その用意はした、とさえ、言いたいように思われる。
こうして長編「本居宣長」は全50章の幕を閉じるのであるが、直前の文章で2度、「精神」という言葉を述べた直後に「また遺言書に戻る他ない」と本編を締めくくっている。小林秀雄氏はまるで、直前に書いた「精神」という言葉に突き動かされるように、私たち読者を「遺言書」に誘っているように思われた。全編を通して「精神」という言葉は、幾度となく登場するが、ここで言われている「精神」について考えることで、遺言書への手掛かりがつかめるのではないか、という思いに駆られ、次のような質問を立てた。
――小林氏が伊藤仁斎や荻生徂徠の学問に対する姿勢について語る際、「道とは何かという問いで、彼等の精神は、卓然として緊張していた」(第10章)と表現をしています。また、第50章の最終段落において「純粋な精神活動」「徹底した一種の精神活動」という表現があり、それら「精神」について触れた直後に「また遺言書に戻る他ない」と本編を締めくくっています。小林先生は「精神」という言葉に格別の意味を込めつつ『本居宣長』を書き進め、本を書き終わる頃には、宣長の「精神」と「遺言書」が一体のものであるように見えてきたのではないでしょうか。そうであるから、最後に「また遺言書に戻る他ない」と書いたのではないでしょうか。
質問の文中で私は、「精神」という言葉について、「格別の」、とはあらわしたものの、その中身についてはこの時点でまったく思いが到っていない状況であった。そこで、まずは、小林氏が本文で「精神」という言葉をどのように用いているのかについて辿ろうと思い、全編を通じて多く登場する「精神」という言葉をさらうことにした。それらの中から、今回の私の質問にヒントをくれるのではないかと感じた箇所をピックアップし、その内容を塾当日の質問発表の場で塾生諸氏と共有した。それが下記の10か所である。
一、
――ところで、彼(宣長)が契沖の「大明眼」と言うのは、どういうものであったか。これはむつかしいが、宣長の言うところを、そのまま受取れば、古歌や古書には、その「本来の面目」がある、と言われて、はっと目がさめた、そういう事であり、私達に、或る種の直覚を要求している言葉のように思われる。「万葉」の古言は、当時の人々の古意と離すことは出来ず、「源氏」の雅言は、これを書いた人の雅意をそのまま現す、それが納得出来る為には、先ず古歌や古書の在ったがままの姿を、直かに見なければならぬ。直かに対象に接する道を阻んでいるのは、何を措いても、古典に関する後世の註であり、解釈である。(中略)契沖にとって、歌学が形であれば、歌道とは、その心であって、両者は離す事は出来ない。(中略)詠歌は、歌学の目的ではない、手段である。のみならず、歌学の方法としても、大へん大事なものだ。これは、当時の通念にとっては、考え方を全く逆にせよと言われる事であった。詠歌は、必ずしも面倒な歌学を要しないとは考えられても、詠歌は歌学に必須の条件とは考え及ばぬことであった。それと言うのも、話は後に戻るのだが、問題は、宣長の逆の考え方が由来した根拠、歌学についての考えの革新にあった。従来歌学の名で呼ばれていた固定した知識の集積を、自立した学問に一変させた精神の新しさにあった。歌とは何か、その意味とは、価値とは、一と言で言えば、その「本来の面目」とはという問いに、契沖の精神は集中されていた。契沖は、あからさまには語っていないが、これが、契沖の仕事の原動力をなす。宣長は、そうはっきり感じていた。この精神が、彼の言う契沖の「大明眼」というものの、生きた内容をなしていた。
二、
――日本の歴史は、戦国の試煉を受けて、文明の体質の根柢からの改造を行った。当時のどんな優れた実力者も、そんなはっきりした歴史の展望を持つ事は出来なかったであろうが、その種の意識を、まるで欠いていたような者に何が出来るわけもなかった事は、先ず確かな事であろう。乱世は「下剋上」の徹底した実行者秀吉によって、一応のけりがついた。(中略)しかし、「下剋上」の劇は、天下人秀吉の成功によって幕が下りて了った訳ではない。「下剋上」と言う文明の大経験は、先ず行動の上で演じられたのだが、これが反省され、精神界の劇となって現れるには、又時間を要したのである。(中略)彼には、家康の時代が待っているという考えは、自然なものだったであろうが、己れに克つという心の大きな戦いには、家康とは全く別種の豪傑が要る、歴史の摂理は、もうこれを用意していたとは、恐らく秀吉の思い及ばぬところであった。
三、
――仁斎の学問を承けた一番弟子は、荻生徂徠という、これも亦独学者であった。(中略)仁斎も亦、雑学者は多いが聖学に志す豪傑は少い、古今皆然りと嘆じている。ここで使われている豪傑という言葉は、無論、戦国時代から持ち越した意味合を踏まえて、「卓然独立シテ、倚ル所無キ」学者を言うのであり、彼が仁斎の「語孟字義」を読み、心に当るものを得たのは、そういう人間の心法だったに違いない。言い代えれば、他人は知らず、自分は「語孟」をこう読んだ、という責任ある個人的証言に基いて、仁斎の学問が築かれているところに、豪傑を見たに違いない。読者は、私の言おうとするところを、既に推察していると思うが、徂徠が、「独リ先生ニ郷フ」と言う時、彼の心が触れていたものは、藤樹によって開かれた、「独」の「学脈」に他ならなかった。仁斎の「古義学」は、徂徠の「古文辞学」に発展した。仁斎は「住家ノ厄」を離れよと言い、徂徠は「今文ヲ以テ古文ヲ視ル」な、「今言ヲ以テ古言ヲ視ル」なと繰返し言う(「弁名」下)。古文から直接に古義を得ようとする努力が継承された。これを、古典研究上の歴史意識の発展と呼ぶのもよいだろうが、歴史意識という言葉は、「今言」である。今日では、歴史意識という言葉は、常套語に過ぎないが、仁斎や徂徠にしてみれば、この言葉を摑む為には、豪傑たるを要した。藤樹流に言えば、これを咬出した彼等の精神は、卓然として独立していたのである。言うまでもなく、彼等の学問は、当時の言葉で言えば、「道学」であり、従って道とは何かという問いで、彼等の精神は、卓然として緊張していたと見てよいわけであり、そこから生れた彼等の歴史意識も、この緊張で着色されていた。徂徠になると、「学問は歴史に極まり候事ニ候」(「答問書」)とまで極言しているが、人生如何に生くべきか、という誰にも逃れられない普遍的な課題の究明は、帰するところ、歴史を深く知るに在ると、自分は信ずるに至った、彼はそう言っているのである。
四、
――彼等が、所謂博士家或は師範家から、学問を解放し得たのは、彼等が古い学問の対象を変えたり、新しい学問の方法を思い附いたが為ではない。学問の伝統に、彼等が目覚めたというところが根本なのである。過去の学問的遺産は、官家の世襲の家業のうちに、あたかも財物の如く伝承されて、過去が現在に甦るという機会には、決して出会わなかったと言ってよい。「古学」の運動によって、決定的に行われたのは、この過去の遺産の蘇生である。言わば物的遺産の精神的遺産への転換である。過去の遺産を物品並みに受け取る代りに、過去の人間から呼びかけられる声を聞き、これに現在の自分が答えねばならぬと感じたところに、彼等の学問の新しい基盤が成立した。今日の歴史意識が、その抽象性の故に失って了った、過去との具体的と呼んでいい親密な交りが、彼等の意識の根幹を成していた。(中略)過去が思い出されて、新たな意味を生ずる事が、幸い或は悦びとして経験されていた。悦びに宰領され、統一された過去が、彼等の現在の仕事の推進力となっていたというその事が、彼等が卓然独立した豪傑であって、而も独善も独断も知らなかった所以である。彼等の遺した仕事は、新しく、独自なものであったが、斬新や独創に狙いを附ける必要などは、彼等は少しも感じていなかった。自己を過去に没入する悦びが、期せずして、自己を形成し直す所以となっていたのだが、そういう事が、いかにも自然に邪念を交えず行われた事を、私は想わずにはいられない。彼等の仕事を、出来るだけ眼を近附けて見ると、悦びは、単に仕事に附随した感情ではなく、仕事に意味や価値を与える精神の緊張力、使命感とも呼ぶべきものの自覚である事が合点されて来る。言うまでもなく、彼等の言う「道」も、この悦びの中に現じた。道は一と筋であった。
五、
――ここに歌人等の決定的な誤解が生じた、と想像していいのだが、彼等がどう誤解したかを考えてみるのも無駄ではない。簡明な要約のかなわぬ、宣長の言葉の含みを言うのには、そんな迂路も必要なのである。(中略)そこで、彼等にとっても、見掛けの上では、歌の道は言葉の「文」と言う問題が中心となるのだが、「文」の意味合が、宣長の言う「文」とはまるで違って来る事になる。宣長は、「歌といふ物のおこる所」に歌の本義を求めたが、既述のように、その「歌といふ物のおこる所」とは、即ち言語と言うものの出で来る所であり、歌は、言語の粋であると考えた事が、彼の歌学の最大の特色を成していた。「物のあはれにたへぬところよりほころび出て、をのづから文ある辞」(「石上私淑言」巻一)と歌を定義する彼の歌学は、表現活動を主題とする言語心理学でもあった。この心理の動きを、彼は「自然の事」とか「自然の妙」とか呼んだが、そういう時、彼が思い浮べていたのは、誰にも自明な精神の自発性に他ならなかった、と見てよいなら、彼の「文」という言葉も、其所から発言されていたと考えていいわけだろう。そういう考えから、彼の歌の定義をもう一度読んでみるがいい、「物のあはれにたへぬところよりほころび出て、をのづから文ある辞」という言い方で、あやという言葉が目指しているのは、「辞のあや」ではなく、むしろ「あやとしての辞」である事を、合点するだろう。
六、
――堪え難い心の動揺に、どうして堪えるか。逃げず、ごまかさず、これに堪え抜く、恐らくたった一つの道は、これを直視し、その性質を見極め、これをわが所有と変ずる、そういう道だ。力技でも難業でもない、それが誰の心にも、おのずから開けている「言辞の道」だ、と宣長は考えたのである。(中略)詞は、「あはれにたへぬところより、ほころび出」る、と言う時に考えられているのは、心の動揺に、これ以上堪えられぬと言う意識の取る、動揺の自発的な処置であり、この手続きは、詞を手段として行われる、という事である。どうして、そういうことになるか、誰も知らない、「自然の妙」とでも言う他はないのだが、彼は、そういう所与の言語事実を、ただ見るのではなく、私達めいめいが自主的に行っている、言語表現という行為の裡に、進んで這入って行く。(中略)そういう次第で、自己認識と言語表現とが一体を成した、精神の働きまで遡って、歌が考えられている事を、しっかり捕えた上で、「人に聞する所、もつとも歌の本義」という彼の言葉を読むなら、誤解の余地はない。
七、
――宣長は、「雲隠の巻」の解で、「あはれ」の嘆きの、「深さ、あささ」を言っているが、彼の言い方に従えば、「物のあはれをしる情の感き」は、「うき事、かなしき事」に向い、「こころにかなはぬすぢ」に添うて行けば、自然と深まるものだ。無理なく意識化、或は精神化が行われる道を辿るものだ、と言う。そういう情のおのずからな傾向の極まるところで、私達は、死の観念と出会う、と宣長は見るのである。この観念は、私達が生活している現実の世界に在る何物も現してはいない。「此世」の何物にも囚われず、患わされず、その関わるところは、「彼の世」に在る何かである、としか言いようがない。この場合、宣長が考えていたのは、悲しみの極まるところ、そういう純粋無雑な意識が、何処からか、現れて来る、という事であった。
八、
――生死の経験と言っても、日常生活のうちに埋没している限り、生活上の雑多な目的なり、動機なりで混濁して、それと見分けのつかぬ状になっているのが普通だろう。それが、神々との、真っ正直な関わり合いという形式を取り、言わば、混濁をすっかり洗い落して、自立した姿で浮び上って来るのに、宣長は着目し、古学者として、素早く、その像を捕えたのである。其処に、彼は、先きに言ったように、人々が、その限りない弱さを、神々の眼に曝すのを見たわけだが、そういう、何一つ隠しも飾りも出来ない状態に堪えている情の、退っ引きならぬ動きを、誰もが持って生れて来た情の、有りの儘の現れと解して、何の差支えがあろうか。とすれば、人々がめいめいの天与の「まごころ」を持ち寄り、共同生活を、精神の上で秩序附け、これを思想の上で維持しようが為に、神々について真剣に語り合いを続けた、そのうちで、残るものが残ったのが、「神世七代」の物語に他ならぬ、そういう事になるではないか。この観点に立った宣長を驚かした啓示とは、端的に言って了えば、「天地の初発の時」、人間はもう、ただ生きるだけでは足らぬ事を知っていた、そういう事になろう。いかに上手に生活を追おうと、実際生活を乗り超えられない工夫からは、この世に生れて来た意味なり価値なりの意識は引出せないのを、上古の人々は、今日の識者達には殆ど考えられなくなったほど、素朴な敬虔な生き方の裡で気附いていた。
九、
――物語最初の吉善さえ、「凶悪の根ざし」を交えずには、作者達は発想出来なかったのに気が附くだろう、と註釈は、読者の注意を促している。これが宣長を驚かした。彼は、この驚きを、「神代を以て人事を知」るという言葉で言ったが、この「人事」という言葉は、人間の変らぬ本性という意味にとってよい。この彼の考え方は、古人の心をわが心としなければ、古学は、その正当な意味を失うという確信に根ざすものだが、問題は、この方法の彼なりの扱い方にあった。これは繰返し言って置きたい。古人に倣い、「産巣日大神の御霊」と呼ばれた生命力を、先ず無条件に確認するところに、学問を出発させた以上、この「御霊」の徳の及ぶ限り、「皇統は、千万世の末までに動きたまはぬ」事については、学問上の疑いは出来しない。(中略)何も作家達という言葉にこだわる事はない。宣長が、此処に見ていたのは、古人達が、実に長い間、繰返して来た事、世に生きて行く意味を求め、これを、事物に即して、創り出し、言葉に出して来た、そういう真面目な、純粋な精神活動である。学者として、その性質を明らめるのには、この活動と合体し、彼等が生きて知った、その知り方が、そのまま学問上の思惟の緊張として、意識出来なければならない。そう宣長は見ていた。
十、
――そういう次第なら、彼の古学を貫いていたものは、徹底した一種の精神主義だったと言ってよかろう。むしろ言った方がいい。観念論とか、唯物論とかいう現代語が、全く宣長には無縁であった事を、現代の風潮のうちにあって、しっかりと理解する事は、決してやさしい事ではないからだ。宣長は、あるがままの人の「情」の働きを、極めれば足りるとした。それは、同時に、「情」を、しっくりと取り巻いている、「物の意、事の意」を知る働きでもあったからだ。
もう、終わりにしたい。結論に達したからではない。私は、宣長論を、彼の遺言書から始めたが、このように書いて来ると、又、其処へ戻る他ないという思いが頻りだからだ。ここまで読んで貰えた読者には、もう一ぺん、此の、彼の最後の自問自答が、(機会があれば、全文が)、読んで欲しい、その用意はした、とさえ、言いたいように思われる。
以上の抜粋を、山の上の家の塾当日の質問の際に挙げてのち、「本居宣長」において小林氏が使われている「精神」とはどういうことか、というお話を池田塾頭より伺うことができた。それは私の拙い質問が敷衍された先の、今まで知りえなかった小林氏が語るところの「精神」についての核心部分であった。その詳細については、塾頭による、本誌「好・信・楽」の「小林秀雄『本居宣長』全景」、二十五「精神の劇」(2020年5・6月号掲載)に詳しいが、この中で「精神」について、以下のように述べておられる。
――「道とは何かという問いで、卓然として緊張していた彼等の精神」、その「精神」を端的に言えば、何事につけても人生いかに生きるべきかを考えようとする人間の本能的機能である……そして、私が先に挙げた10か所の「精神」の文脈はどれもこの“人生いかに生きるべきかを考えようとする人間の本能的機能”という背景を背負っている、と書かれている。確かに今回ひいた10か所を見返してみると、文中に「おのずから」「自然の」といった言葉が、頻繁に用いられていることに気が付く。そして小林氏の意味する「精神」がかたどられ、その姿が垣間見えてくるようである。そのような心持ちであらためて、最終章の最後部の文章を読んでみる。
――宣長は、あるがままの人の「情」の働きを、極めれば足りるとした。それは、同時に、「情」を、しっくりと取り巻いている、「物の意、事の意」を知る働きでもあったからだ。
この一文が、小林氏が宣長について語ろうとして書いた結晶のような言葉に見えてくる。この結晶をさらに読み解くためには、「精神」という言葉のもつ意味を何度も反芻する以外にないのだろうと思う。
このように導かれて辿ってくると、「精神」について書かれた本文の中で1箇所選びそびれた箇所があることに気づいた。
――宣長を語ろうとして、藤樹までさか上るというこの廻り道を始めたのも、宣長の仕事を解体してこれに影響した見易い先行条件を、大平の「恩頼図」風に数え上げて見たところで、大して意味のある事ではあるまいという考えからであった。見易くはないが、もっと本質的な精神の糸が辿れるに違いない、それが求めたかった。近世の訓詁の学の自立と再生とに、最も純粋に献身した学者達の遺した仕事を内面から辿ってみれば、貫道する学脈というものは見えて来るのである。
なぜ宣長には古事記が読めたのか、小林氏がその問いに精神を集中する中で、中江藤樹から紡がれた日本近世を貫く一筋の「学問の道」が浮かび上がり、小林氏自身が合点した「もっと本質的な精神の糸」を読者に示してくれているのだということに、今、ようやく思いが到るのである。
(参考)「本居宣長」からの引用部分
小林秀雄全作品第27集
① 第6章 P73 L4 「精神の新しさ」
② 第8章 P90 L1 「精神界の劇」
③ 第10章 P112 後ろからL4 「彼等の精神」
④ 第11章 P120 L3 「精神的遺産」
同第28集
⑤ 第36章 P58 L8 「精神の自発性」
⑥ 第36章 P59 後ろからL7 「精神の働き」
⑦ 第50章 P198 L10 「精神化」
⑧ 第50章 P202後ろからL2 「精神の上で秩序附け」
⑨ 第50章 P208 後ろからL1 「純粋な精神活動」
⑩ 第50章 P209 L4 「精神主義」
本文最後の引用部分
⑪ 第11章 P121 後ろからL4 「精神の糸」
(了)
『本居宣長』十四章で、小林秀雄は、宣長が「物のあはれ」という言葉をどのように読み、どのように使っていたか、その具体的な現場に読者を誘う。
「阿波礼といふ言葉は、さまざまいひかたはかはりたれ共、其意は、みな同じ事にて、見る物、きく事、なすわざにふれて、情の深く感ずることをいふ也。俗には、ただ悲哀をのみ、あはれと心得たれ共、さにあらず、すべてうれし共、おかし共、たのし共、かなしとも、こひし共、情に感ずる事は、みな阿波礼也。されば、おもしろき事、おかしき事などをも、あはれといへることおほし」(「石上私淑言」巻一)
「哀」の字を当てられ、特に悲哀の意に使われるようになったのは、「うれしきこと、おもしろき事などには、感ずること深からず、ただかなしき事、うきこと、恋しきことなど、すべて心に思ふにかなはぬすぢには、感ずること、こよなく深きわざなるが故」(「玉のをぐし」二の巻)だという。人の「情」は、生活がなに不自由なく順調に流れているときには行為のうちに解消されていくもので、「感ずること深から」ざるものだが、たとえば恋愛をして、肝腎な所で思い通りにならない他者に出逢ったり、離別の苦しみにぶつかると、「心は心を見るように促される。心と行為との間のへだたりが、即ち意識と呼べるとさえ言えよう」。「逢みての後のこころにくらぶればむかしはものをおもはざりけり」、という古い歌は、決して古びない人の情のありさまを見事に言い表している。
「宣長は、『あはれ、あはれ』で暮した歌人ではなく、『あはれといふ物』を考え詰めた学者である。(…)理を怖れ、情に逃げた人ではない。彼は、もうこの先きは考えられぬという処まで、徹底的に考える事の出来た強い知性の持主であった」(「考えるという事」小林秀雄全作品24所収)。宣長は、「あはれ」という言葉の用例を吟味しながら、あはれの情趣ではなく、そこに浮び上がる人の情の感きや発生をありのままに捉えようとした。「彼の課題は、『物のあはれとは何か』ではなく、『物のあはれを知るとは何か』であった」。宣長ははっきり書いている。「此物語は、紫式部がしる所の物のあはれよりいできて、(中略)読む人に物の哀をしらしむるより外の義なく、よむ人も、物のあはれをしるより外の意なかるべし」(「紫文要領」巻下)。
それでは、「もののあはれをしる」という言葉を宣長はどのように記しているのか。
「目に見るにつけ、耳にきくにつけ、身にふるるにつけて、其よろづの事を、心にあぢはへて、そのよろづの事の心を、わが心にわきまへしる、是事の心をしる也、物の心をしる也、物の哀をしる也、其中にも、猶くはしくわけていはば、わきまへしる所は、物の心、事の心をしるといふもの也、わきまへしりて、其しなにしたがひて、感ずる所が、物のあはれ也」(「紫文要領」巻上)。
この引用に続けて、小林秀雄はこう書いている。「説明は明瞭を欠いているようだが、彼の言おうとするところを感得するのは、難かしくはあるまい。明らかに、彼は、知ると感ずるとが同じであるような、全的な認識が説きたいのである。知る事と感ずる事とが、ここで混同されているわけではない」。
宣長の文を一見すれば、たしかに「あじは」う、「わきまへしる」といった言葉を挟みつつ、「しる」と「感ずる」が錯綜し、混同されて用いられているように見える。例えば「紫文要領」には、他にも「知る」と「感じる」がそれぞれの文脈に応じて同じ意味合いで使われているような箇所が散見される。しかし宣長の文章の含みを、五官を働かせ、迎えに行くように読む小林秀雄は、それを混同とは読まず、「知ると感ずるとが同じであるような、全的な認識」に結ぶ。概念の上での混同などよりも、二つの言が具体的に働いている場で何が起きているのかを捉えることが肝要なのだ。宣長の文から「全的な認識」を摑み出す過程には読みの飛躍があるが、小林秀雄は決して外部から何かを持ち込もうとしているのではない。むしろ宣長の、あるいは自分自身の内側に潜り込んで、人の情のありよう、つくられかた(『本居宣長』では「人性の基本的構造」とも呼ばれている)の原初に遡って考えようとする態度がある。―――しかし、「知ると感ずるとが同じであるような、全的な認識」とは、いったいどのような認識を現しているのだろうか。
小林秀雄はすぐにそれを、「知る」と「感じる」が分かれる以前の「子供の認識」と言い換え、知ると感じるとが一体となって働く子供らしい認識を忘れた「大人びた認識」と較べている(「子供の認識」については池田塾頭の本誌連載第七回で精しく吟味されている)。さらに「分裂を知らず、観点を設けぬ、全的な認識力」とも呼んでいる。
「よろずの事にふれて、おのずから心が感くという、習い覚えた知識や分別には歯が立たぬ、基本的な人間経験があるという事が、先ず宣長には固く信じられている。心というものの有りようは、人々が『わが心』と気楽に考えている心より深いのであり、それが、事にふれて感く、事に直接に、親密に感く、その充実した、生きた情の働きに、不具も欠陥もある筈がない。それはそのまま分裂を知らず、観点を設けぬ、全的な認識力である筈だ。問題は、ただこの無私で自足した基本的な経験を、損なわず保持して行くことが難かしいというところにある。難かしいが、出来る事だ。これを高次な経験に豊かに育成する道はある。それが、宣長が考えていた、『物のあはれを知る』という『道』なのである」(*)。
「全的な認識力」の内実は、『宣長』本文でこれ以上詳述されることはない。感受と判断が一体となっているような認識は、そもそも本性上、言葉による分析に適さない。敢えて書こうとすれば、たとえば「門を出ると、おっかさんという蛍が飛んでいた」(「感想」全作品別巻1所収)と「童話」を書くことになるだろうし、説明しようとすれば曖昧なものにならざるを得ない。しかし、言語化の困難は人間の経験の根柢にこのような認識が働いているということを決して否定しない。「無私で自足した基本的な経験」を保持していくのが難しいのは、生活の必要から、また事物の反省的判断によって、僕らは普段みずからの経験を「合理的経験」にすり替えてしまうからだ。万人と同じように知って整理できるような経験ばかりを僕らはしてはいないが、習い覚えた知識や習慣によって、経験をある鋳型に当て嵌めて整えてしまう。そういう分別を超えたところで、宣長は人の情のありようを考えている。「よろづの事にふれて、感く人の情」を、宣長はやすらかに眺めたのだが、現代に生きる我々にはなかなかそれが見えない。物語を夢中になって愛読する玉鬘の心を忘れず、あやしさを恐れず神話に向かう宣長の心底に、常にこのような「情」が躍動している様を、小林秀雄はありありと観ていたのではないだろうか。
宣長は、俊成の和歌や「源氏物語」に結晶された、表現としての「あはれ」の吟味を通じて、「情」について考えた。いつも曖昧で、不安定に動いている情のありようを、しかし表現の「めでたさ」によってまざまざと直知できる仕方で彼に示したのは、歌や物語だった。
「宣長が、『情』と書き『こころ』と読ませる時、『心性』のうちの一領域としての『情』が考えられていたわけではない。彼の『情』についての思索は、歌や物語のうちから『あはれ』という言葉を拾い上げる事で始まったのだが、この事が、彼の『情』と呼ぶ分裂を知らない直観を形成した。この直観は、曖昧な印象でも、その中に溺れていればすむ感情でもなく、眼前に、明瞭に捕える事が出来る、歌や物語の具体的な姿であり、その意味の解読を迫る、自足した表現の統一性であった。これは、何度でも考え直していい事なのである」(十五章)。情は生活の中に解消されない感慨として欲から離れ、自主的な意識の世界を形成する。事にふれ、情が深く感いたとき、認識はさらに深まり、深まった認識はさらに深い感動をもたらす。そうした喜びはおのずから表現へと向かう。表現としてかたちを与えられてはじめて、情は眼前に明瞭な「姿」として現れてくる。「情」は「とやかくやと、くだくだしく、めめしく、みだれあひて、さだまりがた」きものだが、表現として結晶した「情」は、決して曖昧なものではない。「源氏」という虚構の物語の表現の「めでたさ」が、日常生活では不安定なものとして常に揺れ動いている「情」のありようを、読むものに一挙に、まざまざと示すということがある。「彼(宣長)は、啓示されたがままに、これに逆らわず、極めて自然に考えたのである。即ち、『物語』を『そらごと』と断ずる、不毛な考え方を、遅疑なく捨てて、『人の情のあるやう』が、直かに心眼に映じて来る道が、所謂『そらごと』によって、現に開かれているとは何故か、という、豊かな考え方を取り上げた」(十五章)。
宣長の「もののあはれを知る」についての説を、具体的な表現を離れて、抽象的な理屈として解けると考えるのは間違いである。実際、小林秀雄も「欲」と「情」、「まめなる」と「あだなる」といった表現を対照させつつ、宣長の言葉から注意深く離れないように、なだらかに筆を進めている。これは、「宣長の述作から、私は宣長の思想の形体、或は構造を抽き出そうとは思わない。実際に存在したのは、自分はこのように考えるという、宣長の肉声だけである。出来るだけ、これに添って書こうと思うから、引用文も多くなると思う」(二章)という言葉が語っている通り、『本居宣長』全体を貫く記述のスタイルであり、読者はこの思索の流れに添って読み進めることではじめて、平易なだけに含みが多い宣長の文章にじっくり向き合い、単なる学説やその解釈の集積としてではなく、一つの有機的な、また融通無碍な精神の像として宣長と交わることができる。また、それはひたすら原文に即してその意を明らめようとする宣長自身の学問の在りようにも叶う態度である。
しかし、今回は「知ると感ずるとが同じであるような、全的な認識」という、『本居宣長』本文では決して論としては書かれていない片言にこだわって自問自答を行なった。それは、宣長の言葉遣いから「全的な認識」を摑みだす小林秀雄の手つきには、『本居宣長』を読み進める上で、また『本居宣長』の紙背で働いている小林秀雄の後年の考えを窺う上で、重要な態度が現れていると思われるからだ。この考えを十分に論ずる紙幅も準備もいまはないが、宣長が「経験は理に先ずる事を確信した思想家であって、この事は、彼の思想を理解する上で、極めて大切な事だ」(「本居宣長-『物のあはれ』の説について」全作品23所収)と小林秀雄が書くとき、「経験」という言葉の射程は一般に考えるよりも遙かに深く広い、という事は言える。
「科学的経験」に置き換えられる以前の、「日常尋常な経験」を切り捨てずに考えること。神話であれ歴史であれ、人間が物語ってきたあらゆることどもの根柢に、そのような経験から育った「素朴な認識力としての想像力」が働いているのを忘れないこと。柳田国男の布川での「異常心理」を語る言葉を取り上げて、「ここには、自分が確かに経験したことは、まさに確かに経験した事だという、経験を尊重するしっかりした態度が現れている。自分の経験した異常な直観が悟性的判断を超えているからと言って、この経験を軽んずる理由にはならぬという態度です」(「信ずることと知ること」全作品26所収)と語るとき、「科学以前」を生きる山人や古代人の経験や語りを重んずる二人の先人の姿は、小林秀雄の裡で確かに共鳴していたように見える。
(*)「事に直接に、親密に感く、その充実した、生きた情の働き」や、「分裂を知らず、観点を設けぬ、全的な認識力」といった言葉遣いから、自ずから思い出されたベルクソンの文章を、『本居宣長』を共に読む読者の参考に供しておきたい。小林秀雄は、『本居宣長』本文の中では一言もベルクソンに言及していないが、「哲学者の全集を読んだのはベルグソンだけ」(「人間の建設」全作品25所収)と語られ、また「感想」(『本居宣長』連載の二年前まで五年に亘って書き継がれ、中絶した)の連載を通じて、改めて肉体化されたベルクソンの思想は、彼が「人性の基本構造」を考えるとき常にその骨法を成しているように見える。次に引用するのは、ベルクソンが自ら「私が哲学者に推奨すべきものと信ずる方法」について述べた論文と講演を集めた、と語る『思想と動くもの』に収載された、「Introduction à la métaphysique(形而上学入門)」の冒頭部分である(岩波文庫の河野與一訳を参照した)。
「哲学の定義と絶対の意味をそれぞれ比較すると、哲学者のあいだに、一見相違があるにもかかわらず、物を知るのに非常に違った二つの見方を区別する点ではぴったり合っていることに気がつく。第一の知り方はその物のまわりを回ることであり、第二の知り方はその物のなかに入ることである。第一の知り方は人の立つ視点と表現の際に使う記号に依存する。第二の知り方は視点には関わりなく記号にも依らない。第一の認識は相対にとどまり、第二の認識はそれが可能な場合は絶対に到達すると言える。
たとえば空間のなかに一つの物質が運動しているとする。私はその運動を眺める視点が動いているか動いていないかによって別々の知覚をもつ。私がその運動を関係づける座標や基準点の系に従って、すなわち私がその運動を飜訳するのに使う記号に従って、違う言い方をする。この二つの理由から、私はこの運動を相対的と名づける。前の場合も後の場合も私はその物の外に身を置いている。ところが絶対運動という時には、私はその運動体に内面的なところ、いわば気分を認め、私はその気分に同感し想像の力でその気分のなかに入りこむのである。その場合、その物体が動いているか動いていないか、動く場合はどのように動くかによって、私の感じは違ってくる。私の感ずることは、私がその物体のなかにいるのであるからそれに対してとる視点には依存しないし、元のものを把握するためにあらゆる飜訳を断念しているのであるから飜訳に使う記号にも依存しない。つまりその運動は外から、いわば私の方からではなく、内から、運動のなかで、そのまま捉えるのである。そうすれば私は絶対を捉えたことになる。
また、小説の登場人物がいて、人が私に彼のおこなう情事について語るとしよう。小説家は好きなだけその特徴の数をふやし、その主人公にものを言わせたり行動させたりすることができる。しかし、そうしてみても、私が一瞬間その人物と一致する際に感ずる単純で不可分な意識には匹敵しない。その際、泉から流れるように行動も身ぶりも言葉も自然に流れてくるように思われよう。それはもはやその人物について私がもっている観念に付けくわわって、どこまでもその観念を豊富にしながら、しかも結局それを充たすところまでいかないような属性というものではなくなる。人物はいっぺんに全体として与えられ、それを明らかにしていく無数の事件は、その観念に付けくわわってそれを豊富にしていくのではなく、逆にその観念から汲み上げられながら、しかもその本質を汲みつくしたり貧しくしたりすることがないように思われる。その人物について人が私に語るすべての事は、人物に対する視点を供給する。その人物の描写に使われるすべての特徴は、私がすでに知っている人や物との比較によってしか私にそれを知らせることはできないから、多かれ少なかれ記号的に表すための符号にすぎない。してみると、記号や視点は私を人物の外に置き、その人物について、ほかの人物との共通な点、その人物に固有に属していない点を与えるのである。ところがその人物の固有な点、その本質を成している点は、定義上内的なものであるから外から認めることはできないし、ほかのすべてのものと共通な尺度がないから、記号によって言い表すことができない。描写、記述、分析によるかぎり、私はここで相対のうちにとどまる。ただ人物そのものとの一致が私に絶対を与える。
(中略)
その結果、絶対は直観のうちにしか与えられず、ほかのすべては分析の領分に入ることになる。私がここで直観と呼ぶのは、対象の内部に身を移すための同感のことで、それによってわれわれはその物の独特な、したがって表現のできないところと一致するのである。ところが、分析というはたらきは、対象を既知の、すなわちその対象とほかの物とに共通な要素に帰するものである。つまり分析とは一つの物をその物でないものと照らし合わせて表現することになる。してみると、分析は飜訳、記号による説明、次々にとった視点からする表現であって、それらの視点から今研究している新しい対象とすでに知っているつもりのほかの対象との接触を記述するのである。分析は、そのまわりを回っているほか仕方がない対象を抱きしめようとして永遠に満たされない欲求をもちながら、いつまでも不十分な表現を十分にするために限りなく視点の数をふやし、いつまでも不完全な飜訳を完全な飜訳にするためにさまざまな記号を使っていく。そこで分析は無限に続く。しかし直観は、もしも可能だとすれば、単純な行為である」。
徂徠から宣長へ受け継がれていく「物」の学問について書かれた『本居宣長』33章(小林秀雄全作品28集)の次の文章を併せて見ておきたい。「物を以てする学問の方法は、物に習熟して、物と合体する事である。物の内部に入込んで、その物に固有な性質と一致する事を目指す道だ。理を以てする教えとなると、その理解は、物と共感し一致する確実性には、到底達し得ない。物の周りを取りかこむ観察の観点を、どんなに増やしても、従ってこれに因る分析的な記述的な言語が、どんなに精しくなっても、習熟の末、おのずから自得する者の安心は得られない」。「情」や「物」をめぐる小林秀雄の思索の要には、単なる学説の引き写しなどではなく、真に肉体化され、応用されているベルクソンの態度がある。『本居宣長』を書き終えたあと、江藤淳との対談(「『本居宣長』をめぐって」全作品28集所収)でやや唐突に語られた宣長とベルクソンの「本質的なアナロジー」を解く鍵が、恐らくここに秘められている。
(了)
9月に入り、昼間はムッとする暑さに閉口しながらも、朝夕の風に秋の気配を感じるようになった頃、1通の訃報が職場に届いた。ある経済官庁に勤務する同期のI君の死を知らせるものだった。享年47だった。
今から20年前、私は初めての係長としてその経済官庁に出向し、これまた初めてとなる法律を作るという仕事をした。「法律を作る」と書いたが、これはやや正確を欠いた表現で、①Aという法律を廃止する、②B~Dという法律を改正する、③A~Dの影響を受け、これらを引用していることで条文番号がズレたりする多数の法律を改正する(霞が関用語で「ハネ改正」と呼ばれるものだ)という内容を1本の法律にまとめる作業に従事した。
この作業は中央省庁に勤務する官僚には避けては通れないものだが、何度やっても慣れない、本当に大変なものだ(付け加えれば、退職までにもう経験したくない)。国会審議に対応することの大変さもあるが、何と言っても大変なのは内閣法制局での条文審査である。
有効な現行法は約2,000本あると言われるが、こうした法体系と矛盾するような法律ができてしまえば、日本社会のみならず、場合によっては世界的に悪影響を与えることにもなりかねない。このため、中央省庁(内閣)が国会へ提出する法律案については、内閣の一組織である内閣法制局の条文審査を受ける必要がある。
具体的には、立法者が意図している内容が適切に条文として表現されているか、使われている用語の意味やそれらの用語から構成されている条文案が既存の法体系と矛盾していないか、などということを一言一句審査されるのである。
また、当時も法律の条文を検索するコンピュータシステムはあったのだが、中央省庁内の閉じたネットワークだけで使えるシステムで、しかも掲載している条文に時々誤りがあるということで、そのままでは条文審査に使えなかった。このため、業界用語的に「黒本」と呼ばれる某出版社の手になる正確な条文が掲載された法律集から必要な条文をコピーし、切り貼りし、過去のこの法律と今回の法律で同じ意図で条文を書き表したいので、過去のこの法律と同じ表現を用います、という「用例集」を作成する必要があった。全体では電話帳くらいの厚さにもなる用例集を人力で作成することは大変な手間であった。
こうした内閣法制局に対する作業を総括していたのが、その経済官庁で採用されていた私と同期のI君であった。一連の作業を開始するに当たって、I君と私のいる法案チームで顔合わせをしたのだが、採用後に行われた全省庁合同の研修で一緒になった縁で面識があったこともあり、こちらとしてはある種の気安さと安心感を持っていた。
しかし、そうした私の淡い期待はあっという間に打ち砕かれた。
「説明がまったく論理的ではない」
「意図していることと条文に書かれている内容が合致していない」
「前例としている条文の意味を取り違えており、今回の条文案の前例となっていない」
などと容赦ない指摘を浴びて悶絶し、I君に出された宿題を返すためにタクシー帰りとなることもしばしばであった。正直、「この野郎!」と思うこともあった。
しかしながら、内閣法制局における条文審査にも同行したI君は、我々法案チーム以上に理路整然と、そして熱意のある説明を行い、スムーズな改正作業に大きく貢献してくれた。そんな彼は、自分の役割として当然のことをしたまでという感じで、私や他のチームメンバーがお礼を述べても表情も変えず、特に気にもしない風であった。私はとても同期とは思えない彼の優秀さと落ち着いた物腰、泰然とした態度にいつしか畏敬の念を持つようになっていた。
I君の活躍もあり、無事に法案は法律として国会で成立し、私も親元の役所に戻った。それ以来、仕事上の接点がなく、省庁横断の同期会にもなかなか顔を出せずじまいではあったのだが、彼が国会対応の管理職や中国の専門家として活躍していることは風の噂に聞いており、仕事ぶりの幅の広さに「やはり彼は違うな」との思いを持っていた。そんな矢先の突然の訃報だった。なんでも、昨年秋にガンであることが赴任先の中国で分かり、帰国して療養していたのだという。
I君の死を聞き、ここまで書いてきたことが瞬間的に思い出された。いや、脳内に噴き出てきたという方が正確かもしれない。そんな心の動きを感じたのは久しぶりだった。それだけ悲しみが深かった、大きく心が揺り動かされたのかもしれない。
小林秀雄先生は『本居宣長』の第十四章で、「明らかに、彼は、知ると感ずるとが同じであるような、全的な認識が説きたいのである。知る事と感ずる事とが、ここで混同されているわけではない。両者の分化は、認識の発達を語っているかも知れないが、発達した認識を尺度として、両者のけじめをわきまえぬ子供の認識を笑う事は出来まい。子供らしい認識を忘れて、大人びた認識を得たところで何も自慢になるわけではない」としている(小林秀雄全作品27集151頁14行目から19行目)。
私はここを読んでハッとした。宣長さんは、「あはれ」を論じるとき、悲しみを代表的なものだとはしていなかったが、今回I君の死を知った時、まさに知ると感じることが同じであるような全的な認識を自分ごととして経験したのである。
人は誰でも子供の頃には、知ると感じるということが分化をしない、心という完全な認識器官の働きの下に生きることができている。しかし、年を取り、大人になるにつれて段々と「感じる」よりも「知る」という方がより前面に出てきてしまうものだ。それが「大人になる」ということかもしれない。
小林先生は続ける。「心というものの有りようは、人々が『わが心』と気楽に考えている心より深いのであり、それが、事にふれて感く、事に直接に、親密に感く、その充実した、生きた情の働きに、不具も欠陥もある筈がない。それはそのまま分裂を知らず、観点を設けぬ、全的な認識力である筈だ。問題は、ただこの無私で自足した基本的な経験を、損わずに保持して行く事が難かしいというところにある」(同27集152頁4行目から8行目)
日々の生活は慌ただしい、仕事のこと、家族のこと、お金のこと、病気のことなど、いろいろなことを考えなければ生活はできない。それは、学問と同様、真剣に医業を営んでいた宣長さんも同じだったかもしれない。「あはれ」とは、嬉し悲しと定まりがたい心の動きであり、何かと忙しい日々の生活の中で、心を十全に動かして「あはれ」と正面から向き合うということは宣長さんでも困難だったかもしれない。
しかし、宣長さんは「あはれ」をつかみ直す手がかりを得た。それは『源氏物語』との出会いである。歌や物語の表現という具体的な姿を通じて、人は「あはれ」をつかみ直すことができる。日々の生活の中で、バラバラと現れて、消えてしまう「あはれ」ではなく、物語という一筋の脈略の中で人が「あはれ」をはっきりとつかみ直すことができる、物語の力を『源氏』から宣長さんは明確に受け取ったのだ。
「彼の『情』についての思索は、歌や物語のうちから『あはれ』という言葉を拾い上げる事で始まったのだが、この事が、彼の『情』と呼ぶ分裂を知らない直観を形成した。この直観は、曖昧な印象でも、その中に溺れていればすむ感情でもなく、眼前に、明瞭に捕える事が出来る、歌や物語の具体的な姿であり、その意味の解読を迫る、自足した表現の統一性であった」(同27集162頁8行目から12行目)と小林先生は述べている。
そして、宣長さんは、「自分の不安定な『情』のうちに動揺したり、人々の言動から、人の『情』の不安定を推知したりしている普通の世界の他に、『人の情のあるやう』を、一挙に、まざまざと直知させる世界の在る事が、彼に啓示された」(同27集163頁1行目から4行目)という、『源氏』の持つ「あはれ」を尽くした、表現の行き届いた、「めでたさ」に打たれたのだ。
大事な友人の死でも、結婚した喜びでも、その時にはこれ以上ないというくらいの心の振幅があって、心に深く刻みこまれたつもりでも、日々の暮らしの中で意外に、薄情なくらいあっけないほど薄れたり、忘れたりしてしまう。
だが、『源氏』は人々にまざまざと情のありようを知らしめる、めでたき器物である。書かれている物語は「そらごと」かもしれないが、その物語を受け取った人に生じる情の動きは「まこと」なのだ。
人は忘れるから生きていけるとも言われる。実際、楽しいことと悲しいことを数え上げれば、後者の方が多いかもしれない。だから、忘れるから生きていけるということもあるだろう。しかし、人は『源氏』のような無二の、無上のめでたき器物と交わることで、喜怒哀楽、様々な情の動きが心の中に湧き上がってくる。と同時に、それぞれの人に固有の感情に結びついた思い出も湧き上がってくるはずだ。そういう心の動きの中に、もう今は会えない人々にも会うことができるだろう。そして、また私はI君に出会うこともできるように思う。
(了)