ふたつの訓詁

……小林秀雄「本居宣長」を読んでは取りとめもないおしゃべりをする男女4人組。

元気のいい娘が、何か呟き、身体をリズミカルに揺らしながら現れる。……

 

生意気な青年(以下「青年」) おや、ご機嫌だね。

元気のいい娘(以下「娘」) 何だ、君か。

青年 ぶつぶつ言ってたけど、何なの?

娘 ぶつぶつじゃない。ラップよ、ラップ。

青年 相変わらずワケの分からないことを。で、中身は何なのさ。

娘 小林先生の『本居宣長』のなかで、なぜか気になるところ、書き抜いて読んでみたら、体がリズムを取り出したの。

青年 ますますワケが分からない。で、どこなの。

娘 ひとつはね、「宣長は、『古意を得る』ための手段としての、古言の訓詁くんこや釈義の枠を、思い切って破った。古言のうちに、ただ古意を判読するだけでは足りない。古言と私達の間にも、語り手と聞き手の関係、私たちが平常、身体で知っているような尋常な談話の関係を、創りあげなければならぬと考えた」というところ(新潮社刊『小林秀雄全作品』第27集268頁。以下引用はすべて同全集から)。

もう一つは、「訓詁はことごとく、直く、安らかな、古人の心ばえの全体的な直観の内部で、その照明を受けて行われる。そして、逆に、直観をいよいよ確かめて行くように行われる。ただ語句の訓詁の成功を総合し、安排して、目的を達するという、平板な姿を取ってはいない」というところ(第28集113頁)。

凡庸な男(以下「男」) ほお。ずいぶん難しいところだね。

青年 意味分かってんの。

娘 そこはね、パス。でも、作者の声っていうか、語り口っていうの? なんかゴツゴツしてるとこが気になって、スルーできないんだよね。

男 ゴツゴツだなんて、不躾な言い方だな。

娘 テンが、たくさんあるよね。

男 テン? ああ、読点ね。

娘 それを意識すると、すらすらとは読みたくない。

青年 それでぶつぶつ言ってたわけね。

娘 リズム乗せてるの、ラップよ、ラップ。

青年 何言ってんだか。

江戸紫の似合う女(以下「女」) あら、そういうこと、分かるような気がいたしますわ。わたくしも、小林先生のご本の気になるところどころ、気に入りの万年筆で書き写すことがございますのよ。

男 あなた達筆だから、すらすらきれいに書くのでしょ。

女 それが、長い文章の途中で、突然、読点で細かく区切られて、手が止まりますの。文章そのものが、なにか、考え込んでいるような、力をこめているような、不思議な感じがいたしますの。

男 不思議な感じか。(娘に)で、さっきの二箇所はどうなの。ゴツゴツだけ?

娘 それからね、クンコってとこかな、引っかかるのは。

青年 クンコ?ああ、訓詁学の訓詁ね。なんか、古臭いなあ。

男 そうだね、『論語』や『孟子』などの古典を恭しく押し戴いて、その片言隻句へんげんせっくについて、ああでもない、こうでもないと言い募る、カビくさい学問というイメージがあるな。

青年 この間も、経営学という分野の有名な学者が、昔の日本の学界には、海外の文献について「誰かがこういった」と解説するだけで日本の独自性を発揮しない、古色蒼然こしょくそうぜんたる解釈学、訓詁学が深く根を下ろしていた、と批判していたね。

女 そういう、私たちの日々の社会活動や経済活動を、いま、どうすればうまくいくか、そういう実用的、実践的な学問もあるわね。現実の社会の客観的、実証的分析が課題で、古典は関係ないのかもしれない。でも、そういう分析の中で、私たち一人一人の個性とか、成功や失敗の体験というものは、切り捨てられてしまう。あくまでも観察対象の一事例、統計処理される前の生データに過ぎないのでしょう。

青年 現在を客観的にとらえようとすると、かえって、いまの私たちに届かない。現に生きている一人ひとりの生きる喜びや悲しみは捨象されてしまうという逆説だね。

男 だからこそ、古典が大切というわけだ。一人ひとりの人間は、たった一度きりの人生を生きて、その中で思い悩む。そのときどきに内心の相談相手となる書物があり、世代を超え、時代を超えて受け継がれてきた。それが、古典だ。

女 ええ、でも、古典を対象にする現代の学問というのが、また、妙な代物でしょう。古典を、あくまで観察と分析の対象としてとらえる。文章をばらばらに分解して、基礎となる概念をこしらえて、その組み立て方に着目する。他の古典ともども、同じ尺度で比較可能な複数の作品群と考えて、諸作品を位置づける、みたいな。でも、こんな頭の体操みたいな学問では、私たち、一人ひとりの人生に、答えを出してくれそうにない。

男 だから、一人ひとりが古典に向き合うことが必要ということになんだな。

娘 で、向き合うって、どういうこと?

男 目の前にある書物の向こう側、印刷された文字の列の背後に、作者の姿をみるということかな。古典を、先哲の一つの仕事、一人の傑出した人物が語り、行動したことの記録として、味わい、何かを感じ取る、そういうことかな。

娘 ふーん。普通の読書とどこが違うの?

青年 それは、問いかけるってことじゃないかな。だから僕はいつも、質問しながら読んでいる。

娘 どんなふうに。

青年 宣長さんの『源氏』論も『古事記』の注釈も、そして小林先生の『本居宣長』も、言葉についての考察でしょう。言語論には僕も関心がある。だから、作品の部分部分をばらばらにするのではなくて、宣長さんや小林先生と対話するつもりで、僕のこんな考え方はどうですか、と問いかけるようにして読んでいる。そうすれば、僕の人生にとって意味ある答えが、読み取れるんじゃないかな。

女 そこがまた怪しいのよ。前近代の訓詁学者たちも一緒。彼らなりに、自分の人生とのかかわりの中で古典を読み解こうとしていたのでしょうけれど。でも、小林先生は、大意、こんなふうにおっしゃっている(第27集108頁)。訓詁学者にとって、古典は、一種の道徳学説だった、古典そのものというより、其処に盛り込まれた道徳学説が研究対象だった。学説は文章から成り、文章は字義から成る。それらをばらばらに分解し、分析した上で、再び組み立て直し、総合したものが、古典の、たとえば『論語』や『孟子』が意味するところの道徳学説なのだ、こんなふうに主張する。こういう思考を推し進めて、研究対象の既成の学説に欠けた論理を補うとか、曖昧な概念を明瞭化するわけね。

青年 それはそれで、いいんじゃないの。

女 でも古典を読む、というのは、そういうことではないと思いますわ。

青年 ああ、そう。あなたが言いたいのは、彼らは、古典に対して、無私ではなかったということね。確かに彼らは、近代の科学的思考には到達していないかもしれませんね。では、近代以降の実証主義、あれはあれで、文献に対する厳格な史料批判を行い、研究内容から研究者自身の価値判断や嗜好を排除し、客観的証拠のないことは述べず、第三者の批判を仰ぐという点で、これ以上の無私はないんじゃないの。

女 そこは違うの。古典の読み手としての研究者の人となりは、むしろ消してはいけないわ。そうじゃなくて、語り手の人生と切り離せない古典の扱いのこと。現代の実証的学問にとって、古典は、あくまで標本のような存在で、せいぜい、切片をプレパラートに固定して顕微鏡で観察するための観察資料なの。

青年 観察する・されるの関係において、観察する側が絶対的な存在で、古典に対して無私であるどころか、全く逆になってしまっている、というご主張ね。

女 相変わらず品のないおしゃべりですけど、そういうことですわ。

青年 あれもだめ、これもだめ。じゃあ、どうすれば。

女 小林先生は、「私の仕事の根本は、何度くり返して言ってもいいが、宣長の遺した原文の訓詁にあるので、彼の考えの新解釈など企てているのではない」とおっしゃっている。(第7集253頁)

娘 えっ、訓詁なの。さっきボクがラップしてたとこには、訓詁なんか「思い切って破った」って出て来るよ。

女 そうですわ。でも先生はそのすぐあとで、「古言のうちに、ただ古意を判読するだけでは足りない」とおっしゃっているでしょう。

娘 それだけの「訓詁」じゃだめなんだ。

女 そしてこんなふうにおっしゃっているでしょう。古言と私達の間にも語り手と聞き手の関係を生み出す、私たちが平常、身体で知っているような尋常な談話の関係を創る。

娘 訓詁にも二つあるってこと?そうか、そういうことが書いてあったんだ。だからなんか、ゴツゴツって感じたのかな。

男 ラップ娘の感性も、バカにできないね。

女 宣長も小林先生も、「訓詁はことごとく、直く、安らかな、古人の心ばえの全体的な直観の内部で、その照明を受けて行われる。そして、逆に、直観をいよいよ確かめて行くように行われる」。

娘 ふうん。そうか、とは思うけど、ボクたちも、小林先生のご本をこんなふうに読めるかなあ?

女 先ほど、先生のご本を書き写していて手が止まることがある、というお話をいたしました。

男 たとえば。

女 そうね、たとえば、「宣長の論述を、その起伏に逆わず、その抑揚に即して辿って行けば」(第27集159頁)というあたり。

青年 そんなことで、先生の論述を辿れたとでも言うつもりですか?

女 そうは申しません。ただ、ご本読んでいて、ここのところ先生にお尋ねしてみたいと思う瞬間がありますの。

男 そういうところばかりだなあ、けれど、どうお尋ねすればいいかも難題だなあ。

青年 刺激的な考察が満載、触発されて私の脳内回路も暴走していますよ。

女 おやおや、お二人とも。でもわたくしも似たり寄ったり、ぐずぐずしてばかり。それでも、滔々と流れる大河のような先生の論述の中に、ちょっと立ち止まって考え込みその都度解決していくような、あるいは、枝分かれしたお考えをひとまず束ねておくような、そういう細かな水脈のようなものがあるような気がしますの。その一つ一つに、ふと、気づかされることがある。それを少しずつ書き留めておくというのが、いまのわたくしの手仕事ですわ。

娘 手仕事か、いいなあ。ボクはラップさ。ノリノリで、声を出して。

 

……娘は、初めとおなじように、何か呟き、身体をリズミカルに揺らしながら去っていく。
青年はぽかんと口をあけて見送る。……

 

(了)