小林秀雄に学ぶ塾 同人誌
発行 令和六年(二〇二四)七月一日
発行人 茂木 健一郎
発行所 小林秀雄に学ぶ塾
副編集長
入田 丈司
副編集長・Webディレクション
金田 卓士
編集顧問
池田 雅延
小林秀雄に学ぶ塾 同人誌
発行 令和六年(二〇二四)七月一日
副編集長
入田 丈司
副編集長・Webディレクション
金田 卓士
編集顧問
池田 雅延
猛暑きびしい中、読者の皆さんに心よりお見舞い申し上げます。
さて今号も、荻野徹さんによる「巻頭劇場」から幕を開ける。山の上の家の塾の塾生の間でもよく見かける光景だが、いつも四人は、「『本居宣長』のなかで、どの部分が一番好きか?」という話題で盛り上がっている。江戸紫の女によれば、その場面になると思わず原始人を想像してしまうそうだ。なぜ原始人なのか? 四人の話は、言語以前の身体的な意思疎通のありようにまで話が及ぶ。それは、私たち一人ひとりが出生時から経験してきたことでもある……
*
本塾における、『本居宣長』精読十二年計画も、いよいよ最終年度に入っている。「『本居宣長』自問自答」には、泉誠一さん、森本ゆかりさん、そして小島奈菜子さんが寄稿された。
泉さんは、小林秀雄先生が語っている「一人の宣長さんが現れて来るまで一生懸命に宣長さんの文章を読めば、きっと一人になって現れて来るに違いない……、そのいきさつが僕の本に書いてある」という言葉に注目した。小林先生が批評の極意と考えていた「述べて作らず」の心構えで組み立てられた泉さんの文章は、本塾で長きにわたり「自問自答」を続けて来たがゆえの、大いなる成果の一つであろう。
森本さんは、「池田塾頭を通して聴く、小林秀雄氏の言葉が、これまでに経験したことのないほど、心に強く響き、ここでの学びは私の人生の軸となると直観しました」と述懐している。入塾以前には、小林先生の作品は一度も読んだことがなく、文学とは縁のない人生を送ってきた。今や、塾での質問にも連続して取り組んでいる森本さんが目下挑んでいるのは、自らの価値観は捨てて無私に著者と向き合う態度をいかにして自得するかという道である。
小島奈菜子さんは、「物質である体に、なぜ心があるのか」という物と心との関係は、言語における「音声(形)になぜ意味が宿るのか」という形と意味との関係と同じ構造にあると言う。後者の関係について小島さんは、「本居宣長」で触れられている古人らの命名行為に着目した。それは「自己認識と言語表現とが一体を成した、精神の働き」である。そこで、「言葉の力の源泉」と言われている「興」の功と「観」の功はどのように発動するのか。小島さんが紡ぐ言葉に、じっくりと耳を傾けたい。
*
さる六月末、郷里の熊本市の旧城下町、新町にある書店が閉店した。創業は明治七年(一八七四)、熊本で最古級の書店であった。建物は、東京丸の内の赤煉瓦オフィス街で有名な保岡勝也氏の設計による二階建てで、国の登録有形文化財にも指定されている。当時、旧陸軍第十二師団軍医部長として小倉に赴任していた森鴎外も常連で、「書肆の主人長崎次郎を訪ふ」(「小倉日記」)と綴っていた。私の実家からも近く、子どもの頃からなじみのある本屋でもあったため、閉店と聞いて大きなショックを受けた。いや、単なるなじみだからではない。それは、私が今や片時も本が手放せない、大の本好きになった出来事と大きく関わっている。
中学時代に通っていた塾があった。熱血講師のM先生から、夏季の課題として吉川英治「三国志」の文庫全八巻を完読するよう課された。今なら「大人買い」と称して八巻まとめて買うところだが、そこは中学生だった。一巻読み上げる毎に、新町の市電の電停前の書店に自転車を走らせた。一冊ごとに覚えた達成感に加え、風格ある書店で文庫本を買うこと自体が、当時の中学生の私には、大人びた「むしゃ(武者)んよか」(熊本弁で「格好いい」)ことだったのだろう。内容が身についたかは別にして、見る見るうちに読み上げていった。だからどうだ、という程のことでもないが、大部の本を読み進めることが、その後の人生で大きな苦痛にならなかったのは、M先生と長崎次郎書店さんのおかげだと、今になって痛感している。
ちなみに私は、山の上の家の塾に入るにあたり、「小林秀雄全作品」全二十八巻、別冊も含めて三十二巻の完読を、自らに課した。そのときも、けっして「大人買い」することなく、一巻読み上げるたびに書店に走るスタイルを貫いたことも、中学時代の経験が底の底にあったような気がしてならない。
ただ、本当の大人となってしまったからには、読むスピードだけで満足していてはいけない。今年こそ、精読、熟読の一年なのである。
*
杉本圭司さんの「小林秀雄の『ベエトオヴェン』」は、著者の都合により、やむをえず休載します。ご愛読下さっている皆さんに著者とともに心からお詫びを申し上げ、改めて引き続きのご愛読をお願いします。
(了)
第二十九章 漢字を迎えた日本人
1
今回は、第二十九章である、次のように書き出されている。
――「神代史の新しい研究」(大正二年)に始まった、津田左右吉氏の「記紀」研究は、「記紀」の所伝に関して、今までにない、凡そ徹底した所謂科学的批判が行われたという事で、名高いものである。「記紀」は、六世紀前後の大和朝廷が、皇室の日本統治を正当化しようが為の、基本的構想に従って、書かれたもので、勿論、日本民族の歴史というようなものではない。この結論に行きつく為になされた、「記紀」の歴史史料としての価値の吟味は、今日の古代史研究家達に、大きく影響し、言わば、その仕事の土台を提供したと言ってもよいのであろうか。……
津田左右吉は、明治六年(一八七三)、岐阜県に生れた歴史学者で、早稲田大学の教授であった大正七年から昭和一五年にかけての時期を中心として日本の思想史、中国の思想史、そして記紀(『古事記』『日本書紀』)の本文批判に基づく古代史研究に従事したが、小林氏が言っている「科学的批判」の「批判」も基本的には「本文批判」であり、「本文批判」とは古典の写本を作品ごとに比較し、検討し、それぞれの作品について大本の原本に最も近いと思われる本文形態を定めようとする学術作業である。
今日のような印刷技術はなかった時代の作品や歌集は、いずれも手書きの写本で伝わった。「萬葉集」であれ「源氏物語」であれ相次いで書写され、こうして生まれた写本もまた書写され書写されしていったが、そういう書写の過程で写し間違いや写し落しが起ってもそうとは気づかれないまま写され続けた箇所も少なくなく、そのうち本来の「萬葉集」や「源氏物語」はどうであったかがわからなくなってしまうという事態に至った。原本がどこかに保存されている作品や歌集であれば原本と照合することもできたが、原本はもはや行方知れずとなっている作品は写本を幾種類も集めてきて突き合わせ、これらをどう接合すれば本来の本文により近くなるかを追究する必要が生まれてそれが古典研究の基礎作業となり、こうした古典研究の基礎作業が「本文批判」と呼ばれたのである。
「批判」という言葉を聞くと、ふつう私たちは、たとえば『大辞林』に「誤っている点やよくない点を指摘し、あげつらうこと」と言われている「批判」をまず思い浮かべるが、『大辞林』にはこれより先に「物事の可否に検討を加え、評価・判定すること」という語義が挙げられていて、古典研究のための「本文批判」はこちらの「批判」であり、津田左右吉の「記紀」研究も、こういう意味合での「科学的批判」で声価を得たのだが、小林氏は、津田左右吉が得た声価はもう一方の「批判」、すなわち「本居宣長『古事記伝』批判」に立って得られたということを第二十九章で詳しく言い、その津田左右吉の宣長批判を梃として「古事記」に関わる宣長の洞察を目の当たりにさせるのである。
2
小林氏はまず言う。
――津田氏は、「宣長が古事記伝を書いてから、古事記の由来について、一種の僻見が行われている」という事を言っている。これが、氏の長い研究を通じて変らない意見であった事は、言うまでもないが、この一種の僻見とは、宣長のどういう考えに発しているかというと、「古事記」は、阿礼の「誦習」、つまり阿礼が、漢文で書かれた古書を、国語に誦み直して、書物を離れて、これを暗誦したところに成り立ったとする考えだ。安万侶の「古事記序」を、宣長は、そう読みたかったから、そう読んだに過ぎず、正しく読めば、そのような意味の事は、序には書かれていない、と津田氏は言うのである。その意見は、ほぼ次のようなものだ。……
「阿礼」は稗田阿礼、「安万侶」は太安万侶で、「古事記」はこの二人の才覚と献身で成ったのだが、以下、小林氏を介して津田左右吉の言うところを聞こう。
――宣長は、阿礼を、大変な暗記力を持った人物と受け取っているようだが、「人と為り聡明にして、目に度れば口に誦み、耳に払れば心に勒す」とは、極く普通に、博覧強記の学者と解すればいいわけで、特に暗誦に長じた人と取る理由はない。その気で読んでいるから、序に使われている「辞」という言葉も、耳に聞く言語という意味に読むので、成心なく読めば、帝紀と本辞旧辞という風に、対照して使われているのだから、当然、目に見る文字に写された物語という意味に読んでいい筈である。阿礼が手掛けた古記録の類の多くは、「古事記」の書きざまと大差のないものだったであろう。漢字で国語を写すという無理が、勝手な工夫で行われて来たのだろうから、古記録は、当時はもう極めて難解なものとなっていたに違いない。そこで、阿礼という聡明な学者がやった事は、仙覚が「万葉」を訓み、宣長自身が「古事記」を訓んだと同じ性質のものだと考えていいわけで、誦むは訓む、誦習は解読の意と解するのが正しい。阿礼の口誦という事を信じた宣長は、上代には、書物以外にも、伝誦されていた物語があったように考えているらしいが、そのような形跡は、毫も文献の上に認める事が出来ないし、便利な漢字を用いて、記録として、世に伝えられているのに、何を苦しんで、故らに、口うつしの伝誦などする必要があったろうか。要するに、このような宣長の誤解は、「古事記」に現れた国語表現というものを、重く考え過ぎたところから起ったとせざるを得ない、と津田氏は言う。……
「仙覚」は鎌倉時代の天台宗の僧で、「萬葉集」が奈良時代の末期に編まれて以来四百年、全二十巻、総計約四千五百首のすべてが漢字で書かれていたため誰にもほとんど読めなくなっていた「萬葉集」の本文批判を初めて本格的に行い、百数十首に新たな訓みを試みて日本の古典研究の基礎を確立したと言われている人物である。「萬葉集」の本文批判、訓読と言えば江戸時代の契沖がよく知られているが、仙覚の『萬葉集註釈』は契沖の『萬葉代匠記』の先蹤だったのである。
しかし、一方、と小林氏は続ける、津田氏は、
――「古事記伝」という宣長の学問の成績を、無視する事は出来ないわけで、これについては、実に感嘆の外はないと言っているのである。すると、宣長の学問は、僻見から出発しなければ、あれほどの成績のあがらないものであったか。無論、揚げ足を取る積りなど少しもないので、こんな事を言い出すのも、やはり歴史というものは難かしいものだ、と思わせるものが、其処に見えて来るからだ。問う人の問い方に応じて、平気で、いろいろに答えもするところに、歴史というものの本質的な難解性があるのであろうか。現代風の歴史学の方法で照明されると、宣長の古学は、僻見から出発している姿に見える、そういうところに、歴史の奥行とでも言うべきものが、おのずから現れて来るのが感じられて、面白く思うのである。……
小林氏の文章は、こうしてここまでは津田左右吉の言わば「難本居宣長『古事記伝』」の観望である。「難」は「批難」の意で、古文献で時折見かける言葉だが、津田左右吉がこの語を用いているわけではない。しかし、ここから先は小林氏の「難津田左右吉の記紀研究」とも言える宣長弁護論、と言うより宣長の仮説正当論が展開され、これによっていっそう峻嶮の度が増す「宣長の『古事記』」と「津田左右吉の『古事記』」との対峙を確と見て取るために私池田が敢えて用いてみたのである。この対峙は、第二章で言われていた「思想の劇」を、それこそ劇的に思い起させるのである。
――或る時、宣長という独自な生れつきが、自分はこう思う、と先ず発言したために、周囲の人々がこれに説得されたり、これに反撥したりする、非常に生き生きとした思想の劇の幕が開いたのである。この名優によって演じられたのは、わが国の思想史の上での極めて高度な事件であった。……
江戸時代の中期、本居宣長が主役となって幕を開けた「思想の劇」は、宣長亡き後の大正七年、津田左右吉という強かな敵役の登場で最後の山場にかかったのである。
3
小林氏の筆鋒は、一語一語、一行一行、研ぎ澄まされていく、氏は、宣長の身になって津田左右吉を難じるのである、私たちは小林氏の身になって氏の言うところを聞こう。
――宣長が、「古事記」の研究を、「これぞ大御国の学問の本なりける」と書いているのを読んで、彼の激しい喜びが感じられないようでは、仕方がないであろう。彼にとって、「古事記」とは、吟味すべき単なる史料でもなかったし、何かに導き、何かを証する文献でもなかった。そっくりそのままが、古人の語りかけてくるのが直かに感じられる、その古人の「言語のさま」であった。耳を澄まし、しっかりと聞こうとする宣長の張りつめた期待に、「古事記序」の文が応じたのであった。従って、津田氏の指摘する「辞」という言葉にしても、文章と読者との間の、そのような尋常な人間関係のうちで、読まれていたのであり、これを離れて、「辞」という言葉の定義が求められていたのではない。阿礼が、勅を奉じて誦み習ったのは、「帝紀及び本辞」であったと「序」は言う。津田氏は、「書紀」の天武紀に、川嶋皇子等に詔して、「令レ記二定帝紀及上古諸事一」とあるのを引き、「本辞」とは「上古諸事」、即ち旧事の記録の意味と解するが、宣長となると、これが逆になり、「書紀」から同じ川嶋皇子の修撰の条を引き、「古事記」の場合、「旧事といはずして、本辞旧辞と云ヘる」は、古語や口誦との関係を思っての事だと解する。更に、「帝紀及び本辞」という言い方が、「帝皇日継及び先代旧辞」となり、「旧辞の誤りと先紀の謬り」となり、遂に、「阿礼が誦む所の勅語の旧辞」だけになる、そういう文の文脈、語勢が、「辞」という言葉の意味を決定する、と宣長は見た。津田氏は、「辞」を「事」とする考えを動かさぬから、「勅語の旧辞」というような表現は許せないわけで、まるで意味をなさぬという事になろう。……
小林氏は畳み掛ける、
――津田氏の考えは、「辞」の字義の分析の上に立つ全く理詰めのものなのに対し、宣長の考えは、「序」を信ずる読者の鋭敏性から、決して離れようとしない。阿礼という人間にしても、安万侶の語り口を見れば、ただ有能な史と受取るわけにはいかないというのだ。語部という事は言われていないが、何かそういう含みのある人間と感じ取られている事は明らかで、それに順じて、「誦習」という言葉も、大変微妙な含みで使われている事は、「古事記伝」を注意して読む者にははっきりした事だ。宣長にしてみれば、誦習とは解読の意味だ、と簡単に問題を片附けて了う事は、到底出来なかったのである。……
続けて言う、
――古書は、普通、漢文の格に書かれて来たとは、改めて言うまでもない解り切った事である、と誰も考えている。凡そ読み書きを覚えるという道は、漢文の書籍に習熟するより他に、開けていなかったという、わが国の上代の人達が経験していた、言語生活上の、どうにもならぬ条件に、深く思いを致す者がない。それが、宣長が切り開いた考えだ。そして、この考えに彼を導いたのは、「古事記」というただ一つの書であった。……
この引用文中の、特に次の条に留意されたい。
――凡そ読み書きを覚えるという道は、漢文の書籍に習熟するより他に、開けていなかったという、わが国の上代の人達が経験していた、言語生活上の、どうにもならぬ条件に、深く思いを致す者がない。それが、宣長が切り開いた考えだ。……
「小林秀雄『本居宣長』全景」と題して続けているこの小文の今回、標題を第二十九章の中ほどで言われている「漢字を迎えた日本人が、漢字に備った強い表意性に、先ず動かされた事は考えられるが、……」から採って「漢字を迎えた日本人」としたが、その「漢字を迎えた日本人」への小林氏の想像力駆使は、たったいま引いた「凡そ読み書きを覚えるという道は、漢文の書籍に習熟するより他に、開けていなかったという、わが国の上代の人達が経験していた、言語生活上の、どうにもならぬ条件」、ここからである。ここから始めて小林氏は「漢字を迎えた日本人」の悪戦苦闘、すなわち、日本人の誰もがありったけの智慧を絞って漢字の一字一字と対決し、そうすることで漢字漢文、延いては先進国中国の文化文明を我が物としようとした奮励努力に思いを致して第二十九章を書き継ぐのである。
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以下、第二十九章を読み進めてそこに「漢字を迎えた日本人」が登場するたび小林氏の文章を引用していくが、その二番手はつい先ほど引いた「古書は、普通、漢文の格に書かれて来たとは……」と言われていた条に続く次の条である。これらの引用文中、私がわけても注目する条に下線を引いていく。
――「奈良の御代のころに至るまでも、物に書るかぎりは、此間の語の随なるは、をさをさ見えず、万葉などは、歌の集なるすら、端辞など、みな漢文なるを見てもしるべし」と言う。この「書るかぎりは」とは散文の意であり、彼の言い方に従えば、「かならず詞を文なさずても有ルべきかぎりは、みな漢文にぞ書りける」となる。この宣長の考えは、大変はっきりしたもので、仮字によって、古語のままに書くという国語の表記法は、詞の文を重んずる韻文に関してだけ発達したと見た。ここで「詞の文」と言うのは、無論、文字を知らなかった日本人が育て上げた、国語の音声上の文を言うので、これは漢訳が利かない。固有名詞とは、この文の価値が極端になった場合と見て置いてよかろう。国語は先ず歌として生れたというのが、宣長の考えであったが、言うまでもなく、これは国語界の全く内輪の話であり、国語の漢字による表記という事になれば、まるで違った問題になる。……
――漢字を迎えた日本人が、漢字に備った強い表意性に、先ず動かされた事は考えられるが、表音性に関しては、極めて効率の悪い漢字を借りて、詞の文を写そうという考えが、先ず自然に浮んだとは思えない。これには、不便を忍んでも、何とかして写したい、という意識的な要求が熟して来なければならない事だし、当然、これは、詞の文を命とする韻文というものの性質についての、はっきりした自覚の成熟と見合うだろう。歌うだけでは不足で、歌の集が編みたくなる、そういう時期が到来すると、仮字による歌の表記の工夫は、一応の整備を見るのだが、それでも同じ集の中で、まるでこれに抗するような姿で、「かならず詞を文なさずても有ルべきかぎりは」漢文の格に書かれている異様な有様は、古学者たるものが、しっかりと着目しなければならぬところだ、と宣長は言いたいのである。……
――「大御国にもと文字はなかりしかば、上ツ代の古事どもも何も、直に人の口に言ヒ伝へ、耳に聴伝はり来ぬるを、やゝ後に、外国より書籍と云フ物渡リ参来て、其を此間の言もて読ミならひ、その義理をもわきまへさとりてぞ、其ノ文字を用ひ、その書籍の語を借て、此間の事をも書記すことにはなりぬる」。又しても、こんな引用を、「古事記伝」からしたくなるのも、誰もこの歴史事実を知識としては知っているが、「書籍と云フ物渡リ参来て」幾百年の間、何とかして漢字で日本語を表現しようとした上代日本人の努力、悪戦苦闘と言っていいような経験を想い描こうとはしない、想い描こうにも、そんな力を、私達現代人は、殆ど失って了っている事を思うからだ。これを想い描くという事が、宣長にとっては、「古事記伝」を書くというその事であった。彼は、上代人のこの言語経験が、上代文化の本質を成し、その最も豊かな鮮明な産物が「古事記」であると見ていた。その複雑な「文体」を分析して、その「訓法」を判定する仕事は、上代人の努力の内部に入込む道を行って、上代文化に直かに推参するという事に他ならない、そう考えられていた。……
――ところで、この努力の出発点は、右の引用にあるように、「書籍と云フ物」を、「此間の言もて読ミなら」う、というところにあった、即ち、訓読というものが、漢字による国語表現の基礎となった、と宣長は言う。わかり切った事と他人事のようには言うまい。漢字漢文を、訓読によって受止めて、遂にこれを自国語のうちに消化して了うという、鋭敏で、執拗な知慧は、恐らく漢語に関して、日本人だけが働かしたものであった。……
――例えば、上代朝鮮人も亦、自国の文字も知らずに、格段の文化を背景に持つ漢語を受取ったが、その自国語への適用は、遂に成功せず、棒読みに音読される漢語によって、教養の中心部は制圧されて了った。諺文の発明にしても、ずっと後の事であるし、日本の仮名のように、漢字から直接に生み出されたものではない。和訓の発明とは、はっきりと一字で一語を表わす漢字が、形として視覚に訴えて来る著しい性質を、素早く捕えて、これに同じ意味合を表す日本語を連結する事だった。これが為に漢字は、わが国に渡来して、文字としてのその本来の性格を変えて了った。漢字の形は保存しながら、実質的には、日本文字と化したのである。この事は先ず、語の実質を成している体言と用言の語幹との上に行われ、やがて語の文法的構造の表記を、漢字の表音性の利用で補う、そういう道を行く事になる。これは非常に長い時間を要する仕事であった。言うまでもなく、計画や理論でどうなる仕事ではなかった。時間だけが解決し得た難題を抱いて、日本人は実に長い道を歩いた、と言った方がよかろう。それというのも、仕事は、和訓の発明という、一種の放れ業とでも言っていいものから始まっているからだ。……
――「古事記伝」から引いてみようか、「かの皇天とある字を、アメノカミと訓るは、皇天にては、古意にかなはず、かならず天神とあるべき処なることを弁へたるなれば、此ノ訓は宜し、されど此ノ訓によりて、皇天即チ天神と心得むは、ひがことなり、凡て書紀を看むには、つねに此ノ差をよく思ふべき物ぞ、よくせずば漢意に奪はれぬべし」云々。放れ業なら、その意味合をはっきり判じようとすれば、一向はっきりしなくもなるだろう。それは、この短文を一見しただけでも、解る筈である。何故かというと、妙な言い方になるが、では、天をアメと訓むのは宜しいが、此の訓によって、アメ即ち天と心得むは、ひがごとか、そういう事になるからだ。「アメ」という訓は、「天」という漢字の意味に対応する邦訳語だと、私達には苦もなく言えるとしても、「天」の他に文字というものを知らなかった上代人にしてみれば、訓とは、「天」という漢字の形によって、「アメ」という日本語を捕え直す、その働き、まことに不安定な働きを意味したろう。従って、「アメ」即ち「天」という簡単な事にはならない。「天」は「アメ」を現す文字として日本語のうちに組入れられても、形がそのまま保存されている以上、漢字としての表意性は消えはしないだろう。それなら、「アメ」と「天」は、むしろ一種の対抗関係にある。対抗しているからこそ、両者は微妙に釣合もする。そういう生きた釣合を保持して行くのが、訓読の働きだったと言えよう。……
――それにしても、話される言葉しか知らなかった世界を出て、書かれた言葉を扱う世界に這入る、そこに起った上代人の言語生活上の異変は、大変なものだったであろう。これは、考えて行けば、切りのない問題であろうが、ともかく、頭にだけは入れて置かないと、訓読の話が続けられない。言ってみるなら、実際に話し相手が居なければ、尋常な言語経験など考えてもみられなかった人が、話し相手なしに話す事を求められるとは、異変に違いないので、これに堪える為には、話し相手を仮想して、これと話し合っている積りになるより他に道はあるまい。読書に習熟するとは、耳を使わずに話を聞く事であり、文字を書くとは、声を出さずに語る事である。それなら、文字の扱いに慣れるのは、黙して自問自答が出来るという道を、開いて行く事だと言えよう。……
――言語がなかったら、誰も考える事も出来まいが、読み書きにより文字の扱いに通じるようにならなければ、考えの正確は期し得まい。動き易く、消え易い、個人々々の生活感情にあまり密着し過ぎた音声言語を、無声の文字で固定し、整理し、保管するという事が行われなければ、概念的思考の発達は望まれまい。ところが、日本人は、この所謂文明への第一歩を踏み出すに当って、表音の為の仮名を、自分で生み出す事もなかったし、他国から受取った漢字という文字は、アルファベット文字ではなかった。図形と言語とが結合して生れた典型的な象形文字であった。この事が、問題をわかりにくいものにした。……
――漢語の言霊は、一つ一つの精緻な字形のうちに宿り、蓄積された豊かな文化の意味を語っていた。日本人が、自国語のシンタックスを捨てられぬままに、この漢字独特の性格に随順したところに、訓読という、これも亦独特な書物の読み方が生れた。書物が訓読されたとは、尋常な意味合では、音読も黙読もされなかったという意味だ。原文の持つ音声なぞ、初めから問題ではなかったからだ。眼前の漢字漢文の形を、眼で追うことが、その邦訳語邦訳文を、其処に想い描く事になる、そういう読み方をしたのである。これは、外国語の自然な受入れ方とは言えまいし、勿論、まともな外国語の学習でもない。このような変則的な仕事を許したのが、漢字独特の性格だったにせよ、何の必要あって、日本人がこのような作業を、進んで行ったかを思うなら、それは、やはり彼我の文明の水準の大きな違いを思わざるを得ない。……
――向うの優れた文物の輸入という、実際的な目的に従って、漢文も先ず受取られたに相違なく、それには、漢文によって何が伝達されたのか、その内容を理解して、応用の利く智識として吸収しなければならぬ。その為には、宣長が言ったように、「書籍と云フ物」を、「此間の言もて読ミなら」う事が捷径だった、というわけである。無論、捷径とはっきり知って選んだ道だったとは言えない。やはり何と言っても、漢字の持つ厳しい顔には、圧倒的なものがあり、何時の間にか、これに屈従していたという事だったであろう。屈従するとは、圧倒的に豊富な語彙が、そっくりそのままの形で、流れ込んで来るに任せるという事だったであろう。それなら、それぞれの語彙に見合う、凡その意味を定めて、早速理解のうちに整理しようと努力しなければ、どうなるものでもない。この、極めて意識的な、知的な作業が、漢文訓読による漢文学習というものであった。これが、わが国上代の教養人というものを仕立てあげ、その教養の質を決めた。そして又これが、日本の文明は、漢文明の模倣で始まった、と誰も口先きだけで言っている言葉の中身を成すものであった。……
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「小林秀雄『本居宣長』全景」の今回、「漢字を迎えた日本人」と題した第二十九章の読みを、私はほとんど本文の引用で繋いでいる。これには、理由がある。
先ほど、小林氏が本居宣長の生涯を「思想の劇」と呼ぶに関して「思想の劇とは何か」を直に言っている条を「本居宣長」の第二章から引いたが、小林氏はその第二章で続けてこう言っている。
――宣長の述作から、私は宣長の思想の形体、或は構造を抽き出そうとは思わない。実際に存在したのは、自分はこのように考えるという、宣長の肉声だけである。出来るだけ、これに添って書こうと思うから、引用文も多くなると思う。……
私は小林氏のこの言葉に準じているのである。私の「小林秀雄『本居宣長』全景」も、小林氏の言わんとするところを抽象的に並べ立てるのではなく、自分はこのように考えるという小林氏の肉声に添って書こうと思うから引用文も多くなるのである。
そこでさて、まずはその引用文ということだが、小林氏は私にこう言われた、
――批評は引用に尽きるのだよ、誰かの文章を読んで、「ここだ!」と思える箇所が適格に引用できたら、もう評者の評言などは一言も要らないのだよ。……
小林氏のこの言葉は私の記憶に強く残り、以来、私は、編集者として他人の文章に批評や感想を求められるときに備えて「ここだ!」という一か所に意識的に行き会おうとするようにもなったが、今回の「漢字を迎えた日本人」のように、小林氏が過去の、それも遠い遠い過去の出来事や人々に思いを馳せている文章の場合は氏の「歴史は思い出だ」という言葉が甦り、私も小林氏の「思い出」に浸ろう、浸りきろうとするのである。
思い出という言葉は、一般的には自分自身の過去、次いでは肉親との過去、そして恩師恩人や知友との過去、というふうに、自分自身と直接の接点がある過去を記憶に蘇らせる行為をさして言われるが、小林氏はそこに留まらず、歴史上のすべての時代、すべての人々を対象としてそれぞれに思いを馳せる、思いを致す、言い換えれば想像力の限りを尽くして歴史上のどの時代へも推参し、どの時代の人とでも親密になってその人の心中を推し量る、そういう思いの馳せ方すべてを「思い出す」と言い、そうして得られた過去もすべて氏は「思い出」と呼んで、歴史とはこういう思い出をこそ言うのだ、僕らはそういう思い出という歴史から人生の生き方を学ぶのだ、史料という名の証拠品がなければ歴史とは言えないなどと言う現代の実証主義一辺倒の歴史学が扱っている歴史は単なる年表に過ぎない、と言っていた。
私は今回、第二十九章を何度目かで読んでいるうち、ふと、小林氏は「漢字を迎えた日本人」という氏の「思い出」を語っているのだと思い、そうであるなら引用は省けない、一行も省けない、ましてや要約などは論外だ、漢字伝来という風雲急を告げた歴史劇の全篇を小林氏の口ぶりで聴きとってもらうのでなければ第二十九章は抜け殻になる、とにもかくにもその一心で氏の「思い出」を書き写していった結果が今回の多量引用となったのだが、最後に、なかでも極めつきと言えるであろう小林氏の「思い出語り」を第二十九章の終盤からお聴きいただく。
――漢字漢文の模倣は、自信を持って、徹底的に行われた。言ってみれば、模倣は発明の母というまともな道が、実に、辛抱強く歩かれた。知識人達は、一般生活人達に親しい、自国の口頭言語の曖昧な力から、思い切りよく離脱して、視力と頭脳による漢字漢文の模倣という、自己に課した知的訓練とも言うべき道を、遅疑なく、真っすぐに行った。そして遂に、模倣の上で自在を得て、漢文の文体にも熟達し、正式な文章と言えば、漢文の事と、誰もが思うような事になる。其処までやってみて、知識人の反省的意識に、初めて自国語の姿が、はっきり映じて来るという事が起ったのであった。……
――知識人は、自国の口頭言語の伝統から、意識して一応離れてはみたのだが、伝統の方で、彼を離さなかったというわけである。日本語を書くのに、漢字を使ってみるという一種の実験が行われた、と簡単にも言えない。何故なら、文字と言えば、漢字の他に考えられなかった日本人にとっては、恐らくこれは、漢字によってわが身が実験されるという事でもあったからだ。従って、実験を重ね、漢字の扱いに熟練するというその事が、漢字は日本語を書く為に作られた文字ではない、という意識を磨ぐ事でもあった。口誦のうちに生きていた古語が、漢字で捕えられて、漢文の格に書かれると、変質して死んで了うという、苦しい意識が目覚める。どうしたらよいか。……
――この日本語に関する、日本人の最初の反省が「古事記」を書かせた。日本の歴史は、外国文明の模倣によって始まったのではない、模倣の意味を問い、その答えを見附けたところに始まった、「古事記」はそれを証している、言ってみれば、宣長は、そう見ていた。従って、序で語られている天武天皇の「古事記」撰録の理由、「帝紀及ビ本辞、既ニ違ヒ正実ニ、多ク加フト虚偽ヲ、当テ二今ノ之時ニ一、不バレ改メ二其ノ失ヲ一、未ダレ経二幾バクノ年ヲモ一其ノ旨欲ムトス滅ビ」にしても、天皇の意は「古語」の問題にあった。「古語」が失われれば、それと一緒に「古の実のありさま」も失われるという問題にあった、宣長は、そう直ちに見て取った。……
もはや言うまでもない、これが小林氏の津田左右吉に対する最終告知である。
(第三十九回了)
九、西山宗因「肥後道記」を振り返る
前章では、二十九歳で歩むべき道を断たれた「肥後牢人」西山宗因が、強い決意をもって故郷の熊本を出立し、京都に到着するまでの旅路について記した「肥後道記」(以下、「道記」)を詳しく見た。ここで章を改め、この旅が、そしてその経験を紀行文として仕上げたことが、彼に何をもたらしたのかについて振り返ってみたい。
第一は、旅が進むにつれて、宗因の心境の変化、心の成長のありようが見て取れることである。当初は、彼を急襲した主家改易という事態への恨みや、残して来た家族や故郷への断ち切れない思いが前面に出ていたが、旅も半ばを過ぎた頃から、穏やかな心持ち、ユーモアを表現できる心の余裕が顔を出してくる。例えば十月七日のこと、釣人のお爺さんに声をかけて釣果を見せてもらい、どの魚を売ってもらおうかとしばし迷っていると、お爺さんは決めるのが遅いと怒り出してしまった。そこで「釣人よ ま(待)て事問わん みなか(皆買)はば いか計せん 魚のあたひ(値)ぞ」と詠んだ。これは、「古今和歌集」(巻第九、羇旅歌、四)や「伊勢物語」(第九段)にある、「名にしおはば いざ言問はむ みやこ鳥 わが思ふ人は ありやなしやと」という有名な歌をもじったようだ。釣り人を「水の上に遊びつつ魚を食ふ」都鳥に見立て、「そんなに怒らなくても……」と、ほくそ笑みながら詠んだのであろう。
その後、三原から尾道を通るときにも、当時から酒蔵が多い場所だったのか、「をの道や 三原の酒旗の 風吹けば 口によだり(涎)を ながす舟人」と詠んでおり、宗因の少し緩んだような心持ちが感じられる。
ちなみに、この「道記」を「飛鳥川」という名で世に紹介された小宮豊隆氏が次のように述べていることにも、留意しておきたい。「最も悲痛な運命に置かれ、また最も悲痛な情感を基調とする旅の記述の中に、折折滑稽な、俳諧歌が出て来るといふ事実、然もその事実は、宗因に悲痛な運命を十分悲痛に受けとるだけの、人生に対する誠実な純粋な感情があつたといふ事を説明するとともに、一方では宗因に、苛烈な運命を最後には押し返して、それを超越しようとする意志があつたといふ事を証明するものであるといふ事は、後年の宗因の、談林の俳諧の本質を理解する上に、貴重な鍵を提供する」(*1)。
旅先ならではの、人との交流もあった。周防灘の上関を過ぎたところで、荒天による待機となった折、松かげの小庵に住む老師がいた。所望されて、籬に品よく植えられていた菊を念頭に一句捧げた。宗因は、「道記」のなかでこう独白している――う(憂)き中にも、旅こそは又心なぐさむ事はおほかれ。
第二は、宗因の心を慰めたものは、旅先で日々経験したことだけではなく、それを紀行文という散文のかたちに仕上げて行ったことのなかにもあったのではなかろうか、ということである。それまで和歌や連歌の修行に明け暮れていたなかで、われ知らず散文を認めることになり、その過程そのものが、自らの心を和らげてくれた。これは、同様に和歌や漢文に専念してきた紀貫之が「土佐日記」で試した、小林秀雄先生が言うところの「自分には大変親しい日常の経験を、ただ伝えるのではなく、統一ある文章に仕立て上げてみるという」「和文制作の実験」(「本居宣長」)を通じて体感した功徳と同種のものであったに違いない(*2)。
さらに、彼は後年、大名諸侯の求めに応じて日本各地を旅し、津山、奥州、筑紫太宰府などで多くの紀行文を記すことになるが、この「道記」を通じて得られた功徳がそれらの原体験になった面もあったのではあるまいか。
第三は、宗因は、単に全国を旅して紀行文を残したというだけではなく、人生いかに生きるべきかという処世上の態度として、居所を定めない生き方を貫き、最期の死所も不明というように「『一生旅程雲水』のごとき」(*3)生涯を閉じた、ということである。かれは「道記」の最後に、この我が身は、「古今和歌集」所収の「世の中は いづれかさして わがならむ 行き止まるをぞ 宿と定むる」(よみ人知らず、巻第十八、雑歌下、九八七)という歌そのままだ、と述懐しつつ一首詠んでいた。
くり返し おもへば世やは う(憂)かるべき 身はもとよりの しづのをだ巻(倭文の苧環)
「しづのをだ巻」の「しづ」は麻などで織った古代の布、「をだ巻」は織物を織るために麻などを球状に巻いたものを言い、そこから「しづのをだ巻」は「くり返し」や「賤しい」という言葉の序詞として使われることが多いが、ここでは自分はもともと賤しい身だ、その自分が「くり返しおもって(思って)みれば」と言っていて、歌意は、賤しい身の上だが、いや、だからこそ、気が滅入ることばかりの世の中でも、何度でも出直してやろう、である。私は前章で、「弱気に傾きがちな自らを奮起させるような、秘めた強い思いを感得せざるをなかった」と書いたが、まさにこの上洛の旅と執筆の経験こそが、その後の彼の生き方を決定付けた力強い原動力の一つとなったのではないだろうか。
最後に、宗因は、紀貫之はもちろん、柿本人麻呂ら「万葉集」の歌人、壬生忠岑ら「古今集」の歌人、そして菅原道真や紫式部などの歌や物語を踏まえて「道記」を書き上げている。それは、先達が味わってきた哀しみを、わが哀しみとして深く体感し追体験することである。宗因のその後の連歌修行と大阪天満宮連歌所の宗匠就任、さらには一世を風靡した俳諧活動の展開のなかにおいて、この「道記」を書いた経験が、古人との繋がりをまざまざと実感させ、彼が「人生いかに生きるべきか」と新たな道を切り拓いて行くうえで、豊かな糧とならなかったわけはないように思う。
十、連歌所宗匠 西山宗因
さて、寛永十年(一六三三)十月半ば、上洛した西山宗因は、旧主風庵(正方)が隠棲している京都堀河六条、本圀寺の塔頭近くの「夕顔の小家」に住んだ。しかし、京都の地は宗因にとって馴染みがない場所ではなかった。元和五年(一六一九)、十五歳で正方に仕え始めた彼は、元和八年(一六二二)に初上洛し、伏見肥後殿橋にあった加藤家伏見屋敷で公務に就く傍ら、里村南家に出入りし師昌琢(*4)から連歌の指導を受けていたのである。里村家は、毎年正月の幕府御連歌始に宗匠として第一の連衆を務め、徳川三百年にわたり連歌界の頂点に君臨していた家柄であった。それから約八年間、宗因は京都で昌琢出座の連歌の席に連なるなど研鑽を積んでいたのである。
そして再上洛し連歌の席に交わることになったが、その約半分は、風庵の相手を勤めたりするなど、風庵に随って出座している(*3)。若い頃から何かと目をかけてきてくれた風庵への思慕の念は強かった。また、寛永十七年(一六四〇)から十八年頃には伏見に転居し、妻帯して長子伊之助(後の宗春)も生まれている。
ところが、正保元年(一六四四)八月、正方に対し、京都から追放し広島の松平(浅野)安芸守光晟預りとする幕命が下った。再就職のつてを求めていた風庵の動きを、幕府が嫌ったものと思われる。それでも宗因は、しばしば広島を訪れて、風庵の消沈した気持ちを慰めた。その後、正保四年(一六四七)九月、宗因は里村家の推挙を得て、摂津南中島天満宮(大阪天満宮)連歌所宗匠に就任した。そこでまず宗因に与えられた使命は、長年にわたり中断していた月次連歌の再興であった。しかしその翌年(慶安元年)、広島の風庵が発病し、九月にはこの世を去ってしまう。宗因は、度重なる広島往復などで慌ただしかったようで、月次連歌の再開は、翌慶安二年(一六五三)の正月にずれ込んだ。気付けば宗因も、四十五歳を迎えていた。
同年九月には、風庵の一周忌が営まれ、宗因は追善の千句を捧げた(「風庵懐旧千句」)。その冒頭でこのように述べている。
「……ことわり(理)のよわひ(齢)なれど、我身にとりては、たの(頼)む木陰の枯れは(果)つる心ち(地)ぞし侍る。志学のころ(頃)ほひより、ことに情をかけてめぐ(恵)みたて給し心ざしの程、いへばおろか也。されば、世俗のつたな(拙)きことの葉をひるがへして、ねがはくは其恩をむく(報)ふるはしにもなれ、……」
そして、自らを守り育ててくれた大木のような存在であった師の仏前に、こんな句を供えた。
つゐに行 月日は今日や 去年の秋
きけば時雨に 露もろき袖……
明暦二年(一六五八)九月には、天満宮内の仮寓有芳庵から向栄庵に移居した。ちなみに現在は、大阪天満宮の大門の向かって右手に「西山宗因向栄庵跡」という石碑が立てられていて、天満宮の社殿などの風情とともに、当時の様子を偲ぶことができる。
さて、宗因の大阪やその周辺での活躍が進むにつれて、その舞台はさらに大きく広がって行く。大名諸侯の要請に応じて、全国各地を訪れる機会が増えた。前章でも触れたように「津山紀行」「奥州紀行」「筑紫太宰府記」「明石山庄記」などの紀行文は、その賜物である。わけても深い交流が続いたのは、岩城平の内藤左京亮義概(風虎)、豊前小倉の小笠原右近将監忠真、播州明石の松平日向守信之という面々であった。
例えば、寛文五年(一六六五)二月、小笠原忠真公の七十賀を祝して、小倉城で興行された「小倉千句」(*5)がある。
寛文五年二月吉祥日
第一
花之何 十七日
連歌の第一句目である発句は忠真が詠み、その発句に連ねる脇(句)に嫡男長真、以下小笠原一門が続き、六句目からを宗因が詠んでいる。ただ実際には、下書きの存在から、宗因がすべてを代作したものと見られている。このように「今や宗因は、大阪天満宮の連歌所宗匠たるにとどまらない。天下諸侯の崇敬を鍾め、その扶持を受ける身」(*6)となっていたのである。
一方、実生活においては、必ずしも順風満帆というわけには行かなかった。寛文二年(一六六二)には、奥州行の間に長女を亡くした。旅先での又聞きであった。彼は、その時の状況をこう記していた。
「やつがれ(吾)がむすめ、文月の比う(失)せにけるとぶら(訪)ひをきくに、ともかくも思わかず、今までつげざりし故郷人もおぼつかなく、夢にやあらん、いつは(偽)りにもやと、よろづにおもひうるかたなし。
声をだに きかぬを聞きし 人づ(伝)ては さながら夢の わかれなりけり
いに(去)し春、老のわかれこそ心ぼぞ(細)うおもひしに、かくさかさま(逆様)なる愁にしづむは、返す返すつれなき命にこそ。……」(「奥州紀行 陸奥行脚記」)
さらに、「つれなき命」は長女だけではなかった。寛文六年(一六六六)には、次男も亡くした。翌同七年十月十八日には、親交の深かった小倉の小笠原忠真公が亡くなり、その二日後には妻(狩野探幽の女(むすめ)と言われている)までも喪ってしまった。このように、立て続く不幸に遭遇した彼の心境は、察するに余りあるものがある。
そんな宗因は、寛文十年(一六七〇)二月十五日、仏涅槃会の日を選び、小倉の福聚寺二世法雲禅師のもと、従来から持ち続けていた出家遁世の希いを遂げる。さらにその翌年には、連歌所宗匠職を長男の宗春に譲った。六十七歳になっていた。「家を出て世を捨て、一切を放下した宗因は、今や全く身も心も軽くなった。後年、談林一流の俳諧にまで発展した宗因の俳諧活動が、この出家遁世を境として俄然活気を呈してきた」(*6)のである。
十一、俳諧師 西山宗因
宗因による俳諧は、彼が五十歳になろうとする頃、すなわち承応二年(一六四九)頃から始まっている。例えば次の一句は、万治元年(一六五八)刊の「牛飼」に初めて出したものである。
ながむとて 花にもいたし 首の骨 梅翁(宗因)
上・中二句は「眺むとて 花にも いたく馴れぬれば 散る別れこそ 悲しかりけれ」という西行の歌(「新古今和歌集」巻二春下)が念頭にあり、下句の日常語と組み合わせて、花を眺めすぎて首がいたくなってしまったよ、というおかしみも込めて表現した句である。
もう一つ、延宝二年(一六七四)刊の「宗因蚊柱百句」には、こういう箇所がある。
月もしれ 源氏のながれの 女也
青暖簾の きりつぼのうち
一葉ちる宿は 餅有だんご有
しかしこれが、当時広く受け入れられていた、松永貞徳(*7)を中心とする貞門俳諧の人々から強い非難を受けた。なかでも匿名の去法師という人物は、目の前に現れた蚊柱を追い払うべく「渋団」を出版して宗因を非難した。いったい何が非難されたのか? ここで「源氏のながれの女」とは、源氏の血を継いでいる女という意だが、次の「青暖簾」という言葉が、遊里の部屋にかかる暖簾を意味するため、その女が遊女を連想させ、それと光源氏の亡母桐壺更衣とを一緒にされたことに、去法師は「下劣の沙汰」「放埓至極也」と噛み付いた。貞徳は、俳諧を連歌の余興とはいえ、なるべく連歌や和歌の方に引き上げようと連歌の式目に準じた規則の整備などを行ってきていたため、門人にとっても、宗因が見せた自由奔放と破格は断じて許せないものだったのだ。
一方宗因にとってみれば、そもそも第一線を退いた後の七十歳の年寄りの余技に過ぎぬじゃないか、という気持ちもあったし、だからこそ余生は、それまで従ってきた連歌の諸制約や社会的な立場から解き放たれて、俳諧特有の滑稽諧謔を自由に発揮、謳歌したいと思っていたのであろう。そんな心持ちで、非難の応酬に時間を費やすのは無益と感じたのか、彼自身が「渋団」に対してすぐに反論した様子は見られない。実は、それから六年後に刊行された俳諧集で次のように本音を漏らしている。「古風・当風・中昔、上手は上手、下手は下手、いづれを是と弁へず、すいた事してあそぶにはしかじ。夢幻の戯言也。谷三つとんで火をまねく、皆是あだしのの草の上の露」(「阿蘭陀丸二番船」)。
ところが、むしろ宗因の支持者が黙ってはいなかった。その一人である岡西惟中(*8)は、さっそく「渋団返答」を書いて師の擁護の先頭に立った。
さらに、その支持者の一人として、突如表舞台に現われた人物がいた。井原鶴永、のちの西鶴(*9)である。寛文十三年(一六七三)春、大阪生玉神社で万句俳諧が興行され、同六月末には、鶴永の処女撰書「生玉万句」として刊行された。江本裕氏によれば、宗因はもちろん、宗因との関係の深い人物も出句している(*10)。最後の三句を紹介しよう。
宗因も、鶴永による興行の成就を祝しているようである。
なお、同年(延宝元年に改元)冬、鶴永は、宗因の姓から一字いただき西鶴と改号した。彼の喜ぶ「鶴の一声」が聞こえてきそうだ。ともあれ、このとき彼は三十二歳、宗因に学んだ誹諧も存分に糧としたうえで、「豊富な古典的知識と艶麗の天稟と雄偉の文章を以て」(*11)浮世草子として著名な処女作「好色一代男」を書き上げ、時代の寵児となるのは、この九年後のことである(*12)。
さて、この延宝元年から延宝二年(一六七四)にかけて、「西山宗因千句」「西山宗因後五百韻」「西山宗因蚊柱百句」「宗因五百句」「西山宗因釈教誹諧」というように、宗因の名を冠した俳書が立て続けに刊行されている。これは、宗因の個人的人気に便乗した当時の書肆(書店)が積極的に出版したものである。しかしながら、これらの出版に関し、どこまで宗因の息がかかっていたかは、先に見た「渋団」に沈黙を通した彼の態度などを勘案すれば、はなはだ疑問である。しかしながら、乾裕幸氏の指摘の通り「『西山宗因』の四字は、いまやすこぶる効率の高い引札として世間に通用した」のであり、商業出版界の興隆と時を同じくするかたちで、本人の意思とは別にして、宗因の人気はうなぎ登りとなっていった(*13)。
(*1)小宮豊隆「宗因の『飛鳥川』に就いて」、「芭蕉の研究」岩波書店
(*2)「物語の生命を源泉で飲んだ紫式部Ⅱ――紀貫之の「実験」、「好*信*楽」2024年冬号、
(*3)野間光辰「連歌師宗因」、「談林叢談」岩波書店
(*4)天正二年(一五七四)~寛永十三年(一六三六)。昌叱の子。
(*5)千句とは、発句から脇(句)、第三と続け、最後の挙句までの百句を百韻とし、それを十巻千句にまとめたもの。
(*6)野間光辰「西山宗因」、同上書
(*7)元亀二年(一五七一)~承応二年(一六五三)。里村北家の紹巴(じょうは)から連歌を、九条稙通(たねみち)・細川幽斎に和歌・歌学を学ぶ。
(*8)寛永十六年(一六三九)~正徳元年(一七一一)。
(*9)寛永十九年(一六四二)~元禄六年(一六九三)。
(*10)江本裕「俳諧師 西鶴」、「西鶴への招待」岩波セミナーブックス49
(*11)保田與重郎「芭蕉」講談社学術文庫
(*12)例えば、熊本生まれの言論人、徳富蘇峰は、西鶴を次のように評している――彼が宗因門下の俳諧師としての生立ちは、浮世草子の作者としての彼に、多大の感化を与えた。その句法においては、発句(ほっく)式に、なるべく少なき文字にて、多くの意味を言い現さんとし、その章法においては、連歌式に、聯想(れんそう)によりて一話頭から、他の話題に飛び越す慣用手段を取らしめた。而(しこう)して両者は、時としては彼が文章の長技となり、時としては短所となったが、しかも彼の特色は、全くこれによりて発揮せられた。(「近世日本国民史 元禄時代世相篇」講談社学術文庫)
(*13)乾裕幸「俳諧師西鶴 考証と論」、「前田国文選書1」
【参考文献】
・柿衛文庫、八代市立博物館未来の森ミュージアム、日本書道美術館編「宗因から芭蕉へ ――西山宗因生誕四百年記念」八木書店
(つづく)
【再び熟視対象について合理主義から非合理主義へ】
前回の論考において、私は小林秀雄先生の「哲学」の一節を引いて、熟視していきたいと述べた。その一節を改めて引く。
――丸山真男氏の、「日本政治思想史研究」はよく知られた本で、社会的イデオロギイの構造の歴史的推移として、朱子学の合理主義が、古学古文辞学の非合理主義へ転じて行く必然性がよく語られている。仁斎や徂徠の学問が、思想の形の解体過程として扱われている仕事の性質上、氏の論述は、ディアレクティックというよりむしろアナリティックな性質の勝ったものであり、その限り曖昧はなく、特に徂徠に関して、私は、いろいろ教えられる点があったが、私としては、ただ徂徠という人の懐にもっと入り込む道もあるかと考えている。(新潮社刊『小林秀雄全作品』第24集p.173-4)
この「徂徠という人の懐にもっと入り込む」とはどういうことかについて思索を深めていくのが本連載の目的である。そのために、東京大学出版会刊『日本政治思想史研究』に収められた「近世儒教の発展における徂徠学の特質並にその国学との関連」「近世日本政治思想における『自然』と『作為』――制度観の対立としての――」(前回同様、それぞれ「第一論文」「第二論文」と以下では表記する)を読み、まず丸山眞男氏が言おうとしているところを辿り、それから小林先生の言いたかったことに迫っていきたい。そして、前回は丸山氏の論文に沿って、「朱子学の合理主義」とは何であるか、丸山氏の見立てを示すことができた。前回論考の結語部分を再度記す。
――理によって自然と人間を連続的・統一的に説明しようというのが朱子学の体系の底にある思惟方法であり、その連続性が楽観的に疑いなく認められる限りにおいて、朱子学は成立している、というのが丸山氏の見立てなのである。
では、今回の論考の目的はどこにあるかと言えば、この朱子学の合理主義が、特に徂徠によってどう非合理主義へと転じたかを丸山氏の論文に沿って描くことにある。つまり、今回の論考の主人公は、いよいよ荻生徂徠である。
ここまで前置きをして、今回の論考にあたって、一点、読者諸賢にご留意いただきたいのは、合理主義や非合理主義という言葉の意味合いについてである。すでに「朱子学の合理主義」について触れたとおり、小林先生や丸山氏が徂徠について語る文脈においてこれらの言葉を使うとき、現代において一般的に使われている「合理的な考えだ」とか「それは非合理な選択だ」といった語用とは、異なる用いられ方をしている。小林先生や丸山氏の言う「理」は、あくまで朱子学で用いられる理を指している。こうした語の、現代的・日常的な意味との乖離は、引用箇所の語について一つひとつ注意が要るが、本論考における「合理」「非合理」の語については特段の注意が必要と考え、今の段階で述べた。
【荻生徂徠にまつわる年譜】
丸山氏の論文を理解する前提として、荻生徂徠について簡単に年譜的な紹介を挟もう。以下のまとめは、岩波書店刊『日本思想大系36荻生徂徠』に収録されている「荻生徂徠年表」及び吉川幸次郎氏が記した「徂徠学案」を参考にしている。
荻生徂徠は、寛文六年(一六六六)の生まれである。江戸時代が始まって半世紀と十余年経った頃で、時の将軍は四代家綱である。父の荻生方庵は、のちに五代将軍となる徳川綱吉の侍医を務めていたが、延宝七年(一六七九)、主君綱吉より咎を受け、上総国に流罪となる。子の徂徠もそれに伴った。綱吉が将軍となり、十余年が経った元禄五年(一六九二)、父の赦免と同時に、徂徠も江戸に戻る。元禄九年(一六九六)、徂徠は綱吉の側用人柳沢吉保に召し抱えられ、綱吉の側近の学者の一人となる。宝永六年(一七〇九)に綱吉が死に、柳沢吉保は政権から離れることになり、伴って徂徠もここでは一度政権からは疎遠になる。続く六代将軍家宣の政治顧問には、学者の新井白石が据えられるが、これが七代将軍家継の死まで続く。享保元年(一七一六)に八代将軍吉宗が就くと、新井白石の失脚に伴って、再び徂徠は政権から注目を浴びる契機を得る。吉宗政権下に「弁道」「弁名」といった徂徠の主著も成立している。いくつか将軍に献上した仕事もあり、享保十二年(一七二七)に徂徠は吉宗に謁見する。その頃「政談」も成るが、翌年、徂徠は六十三年の生涯の幕を閉じる。
簡単な年譜としては以上の通りだが、では、徂徠は学者として、いかなる時代に生きていたのか。丸山氏が「徳川期を通じて、(中略)近世儒教はまづその展開の第一歩を朱子学において踏み出すこととなつた」(「第一論文」p.13)と記している通り、江戸時代当初の学問界においては朱子学が支配的だった。その立役者が林羅山という学者だったのだが、彼は初代将軍家康から四代将軍家綱にまで仕えている。ということは、徂徠が生まれた寛文六年もまだ学問と言えば朱子学という時代であったのである。とはいえ同時に、「寛文五・六年六には、山鹿素行・伊藤仁斎の二偉材によつて、殆んど同時に宋学より古学への一大転換が試みられた」(同上p.39)と丸山氏が言うように、徂徠の生誕年は折しも朱子学の支配的状況が変容する時期でもあったのである。
さて、これでいよいよ丸山氏の徂徠についての記述を読み進めていく準備が整った。
【丸山論文に沿ってその二 元禄期の荻生徂徠】
丸山氏の第一論文第三節は次のように書き出される。
――われわれは徂徠学の論究に入る前に、徂徠が、五代将軍綱吉の側用人たりし柳沢吉保の家臣として関与した二つの事件をとり上げてこれを本論への導入部とすることにしよう。(同上p.71)
ここで言う「二つの事件」とは、元禄九年と元禄十五年の事件である。前者は、窮乏した農民が道入という名で流浪の旅に出て、その中途で病にかかった母親を放置し、親棄の罪で捕まった事件である。後者は、あの赤穂浪士の事件のことである。両事件に対する徂徠の所見に、丸山氏はまず注目した。年譜で確認したことだが、徂徠の主著と言える「弁道」「弁名」などがまとまるのは享保期であり、二つの事件が起こった元禄期は、それより二十年ほど早い時期である。徂徠の年齢で換算するならば、元禄期が二十代後半から三十代、享保期が五十代である。丸山氏は、若き日の徂徠の言葉に注目することで、徂徠に通貫する思惟方法を見出そうとするのである。
――さて以上の二つの問題を通ずる徂徠の思惟方法の特質が如何なるものであるかはもはや明らかであろう。さきには徂徠は道入の処分に反対して無罪を主張した。後の場合には轟々たる助命論に抗して義士の断罪を説いた。しかも徂徠をして道入の無罪を主張せしめたものはまた彼をして義士の断罪を奉答せしめたものであつた。そこに貫くものは何か。一言以て表現するならば、政治的思惟の優位といふことである。上の二事件はいづれも元禄期の出来事であり、徂徠はいまだ独自の思想体系を完成してゐなかつた。にも拘らず、まさしくこの政治性の優位こそ、後年の徂徠学を金線の様に貫く特質にほかならぬ。(同上p.76)
丸山氏が徂徠に見たのは、「政治的思惟の優位」であった。この引用と同頁で、徂徠の立場は「個人道徳を政治的決定にまで拡張することを断乎として否認した」ものであったと丸山氏が言っていることと合わせると、「政治的思惟の優位」とは、政治の論議において、個人道徳に関することを交えず、純粋に政治的な問題をのみ机上に乗せるといった意味合いと言えるだろう。
ここで、徂徠の思惟方法と、理による統一的な説明を目指す朱子学のそれとの差が、示唆されている。朱子学においては、理が何を説明するにおいても登場する、いわば万能薬のような効果を持っている以上、政治的なもの、道徳的なものという区別は端から存在しない。換言すれば、すべては「合理」か否かで判断されることになる。徂徠は、この政治と道徳の問題を峻別している。ということは、統一原理としての理が、徂徠の思惟においては存在しないということではないか。このことを念頭に、丸山氏による徂徠についてのより詳しい説明に入っていこう。
【丸山論文に沿って その三 荻生徂徠と古文辞学】
――徂徠学の出発点となり、その方法論を為すものはいはゆる古文辞学である。彼は聖人の道を正しく理解する為にはまづ古文辞を知ることを必須の前提とした。(同上p.78)
「古文辞学」とは、荻生徂徠の学問の性質を端的に表した語である。冒頭に引用した小林先生の文章の中にも「古学古文辞学」という表現があった。近世の儒教界において、まず支配的だった朱子学に対抗した古学派の一派が徂徠の創始した古文辞学なのであるが、そうした学問の流派を符牒的に整理するだけでは何にもならない。「古文辞学」という語を見つめてみよう。「古文辞」とは何か。これはそのままの意味で言えば、古典、古い言葉ということである。ただ、「古典を読め」というだけなら、何も徂徠だけが言うところではない。徂徠の古文辞学は、「古文辞」との向き合い方に肝がある。
――なにより大事なのは道の奥にある「ことば」とことばを通じて表現されてゐる「こと」である。Sollenを云々する前にまづSeinが知られねばならぬ。(中略)Seinとは何か。儒教の場合には明かに唐虞三代の制度文物といふDas Geweseneである。そこで徂徠においてはその制度文物を叙述したものとして六経が古典として基本的な地位を占める。(同上p.78)
徂徠にとって古文辞の具体的な内容とは、「唐虞三代の制度文物」が記された「六経」である。「六経」とは、詩経・書経・礼経・楽経・易経・春秋の六つを指す。「唐虞三代」とは、夏・殷・周の三代の古代中国王朝を指すが、その間の統治者であった堯・舜・兎・湯・文王・武王・周公の七人の先王をも指す。六経という「ことば」と、それに記されている、唐虞三代の聖人たちの制作による制度やあらゆる物という「こと」が第一の古文辞であるというのが、徂徠の前提なのである。徂徠が「弁名」の中で、先の七人を「作者七人」と表現するのも、制度を作った者という意味合いからであろう。(岩波書店刊『日本思想大系36荻生徂徠』「弁名」p.66、以下引用後には単に「弁名」p.○と記す)
この引用をさらに詳しく見ていこう。まず気になった読者諸賢もいるかと思うが、「Sollen」「Sein」「Das Gewesene」といったドイツ語の単語が用いられている。それぞれ「なすべきこと」「であること」「過去のもの」と訳せる。当然これらの言葉を使っていないどころか知りもしなかったであろう徂徠を述べるのに、なぜわざわざこうした外来語を持ち出すのか。丸山氏の論文では、後にマキャベリの「君主論」であったり、中世ヨーロッパのスコラ学であったり、テンニースという近代ドイツの学者のゲマインシャフトとゲゼルシャフトという概念などが登場する。ここではそれらを詳しくする必要はないと思うのでこうした名前の紹介だけに留めるが、とにかく西洋で徂徠とは全く別に生まれた概念の援用や比較が随所に現れるのである。これらについては、明らかに一般読者を想定したものではなく、丸山氏が大学において専門とした政治学のほかの学者に向けた、学術論文的な発想から来ていると考えられる。先の引用に現れたドイツ語の単語もそうした発想から来ているのであろう。ここでいちいち立ち止まるのは、無用な脱線を起こしかねないので、以下でも言及は最小限に留めることとする。
もう一つ、「道」という言葉が出てきたことに注目しよう。こちらは、徂徠を考えるうえで重要な語である。丸山氏がこの箇所よりもっと後(具体的にはp.84)で引いてくる、徂徠の「弁道」の次の二つの箇所は、今の時点で確認しておいてよい重要な一節であると思われる。
――道は知り難く、また言ひ難し。その大なるがための故なり。後世の儒者は、おのおの見る所を道とす。みな一端なり。それ道は先王の道なり。(岩波書店刊『日本思想大系36荻生徂徠』「弁道」p.10、以下引用後には単に「弁道」p.○と記す)
――道なる者は統名なり。礼楽刑政凡そ先王の建つる所の者を挙げて、合せてこれに命くるなり。礼楽刑政を離れて別にいはゆる道なる者あるに非ざるなり。(同上p.13)
儒者たちが各々「道」を立てる。朱子学の理はその典型と言える。それは、もっともらしい解釈を与えてくれるが、徂徠に言わせれば「一端」にすぎない。全体を見通しているようで、全く部分的・主観的な空論にすぎないのである。徂徠にとって「道」とは、一言でいうなら、「先王の道」である。「先王の道」とは、「先王の建つる所」となった「礼楽刑政」であり、「六経」に叙述された客観的事実である。先に引いた「徂徠学の出発点となり、その方法論を為すものはいはゆる古文辞学である」という丸山氏の要約は、ここでさらに深い意味を帯びるのではないか。「先王の道」を学ぶ徂徠にとっては、「六経」という「古文辞」と向かい合うことは、出発点や方法論ということをはるかに超えて、彼の学問そのものであると言ってもよいのではないかとさえ思う。
徂徠が率直に言っている通り、本来「道は知り難く、また言ひ難」きものである。その言葉の奥行きを慮ってか、丸山氏は、「道」についての詳細な論述に入っていくのである。
【丸山論文に沿って その四 「道」について】
丸山氏は、「天の概念」「道の本質」「道の内容」「道の根拠」と言う順で説明していくが、それぞれの要点を丸山氏の論述と徂徠の原文を引用しながら記していきたい。
――まづ徂徠において道とはもつぱら人間規範で自然法則ではない。天道とか地道とかいふのはアナロギーにすぎない。(「第一論文」p.80)
――また「天の道」と曰ひ、「地の道」と曰ふ者あり。(中略)吉凶禍福は、その然るを知らずして然る者あり。静かにしてこれを観れば、またその由る所の者あるに似たり。故にこれを天道と謂ふ。(中略)親しくして知るべし。しかも知るべからざる者あり。徐にしてこれを察せば、またその由る所の者あるに似たり。故にこれを地道と謂ふ。みな聖人の道あるに因りて、借りて以てこれを言ふのみ。(「弁名」p.45〜6)
なぜ丸山氏は、「道」の話をしたくて、「天」の話から入るのか。それは、朱子学の「理」を万能とする誤謬が、自然と人為とを混同していたことを、徂徠が見抜き、まずその峻別が前提にあることを示すためであろう。すでに何度も述べているように、朱子学は、自然と人間とを一気通貫して説明する原理を求めていた。徂徠は、初めからそのような認識に立たない。天体や地上の不思議な動きは、人間がその理屈を知ると知らずとにかかわらず存在する。その点、知り難き聖人の道と共通点はあるが、それは似ているだけのことである。丸山氏は引いていないが、徂徠は「弁道」でも次のようにはっきり記していた。
――先王の道は、先王の造る所なり。天地自然の道に非ざるなり。(「弁道」p.14)
それでは、徂徠にとって「天の概念」とは何であったか。
――天は「知」の対象ではなくまさに「敬」の対象とされる。(中略)彼(本多注:徂徠)においては天の人格性は実に信仰にまで高められてゐる。(「第一論文」p.81〜2)
――それ天なる者は、知るべからざる者なり。かつ聖人は天を畏る。故にただ「命を知る」と曰ひ、「我を知る者はそれ天か」と曰ひて、いまだかつて天を知ることを言はざるは、敬の至りなり。(「弁名」p.123)
「天」は、徂徠にとって「知るべからざる」もの、知ることのできないものであった、ということは、換言すれば、天の動きを何か一つの単純な理屈で説明することはできない。では、人間は、天とは無関係に生きるべきなのだろうか。徂徠にとってはそうではなかった。かつて聖人たちは、天に対して「畏」や「敬」という謙虚な姿勢をとった。「我を知る者はそれ天か」とは、私たちが天を知るのではない、天が私たちを知っているのだ、という天と人間との覆しようのない圧倒的な差の率直な承認であると言えよう。それと同じ態度を自らの学問の根底に置くのが徂徠の基本姿勢なのである。
これを前提として、徂徠は自然と区別された、人間規範としての「道」を語る。丸山氏によると、「道の本質」とは次のようなものとなる。
――聖人の道乃至先王の道の本質はなによりも治国平天下といふ政治性に在る。(「第一論文」p.82)
――先王の道は、天下を安んずるの道なり。その道は多端なりといへども、要は天下を安んずるに帰す。(「弁道」p.17)
「天下を安んずるの道」は、「弁道」で繰り返し登場する表現である。丸山氏は、ここに注目し、徂徠にとって「道の本質」が「治国平天下といふ政治性」であるとした。つまり、「道」は、この現実世界を平和に治めるために存在するのであって、それ以外の目的はないのである。朱子学の「理」に比べれば、徂徠の「道」に対する捉え方は極めて限定的であるということを、丸山氏は論文全体を通じて何度も主張するのである。
次に、「道の内容」についてであるが、これはすでに先回りして述べていたところである。丸山氏は、「弁道」にある「道なる者は統名なり」から始まる一節が、徂徠が道に与えた定義だと述べ、「道の内容」とは「唐虞三代の制度文物」のことであり、「礼楽刑政」のことであると言う。
ここまで押さえて、丸山氏は次の問いを立てた。
――つぎの問題はかかる本質と内容とを有する道をして道たらしめる根拠はどこにあるのかといふことである。徂徠学の道は唐虞三代の制度文物の総称である。かうした一定の歴史的にかつ場所的に限定された道が何故に時空を超越した絶対的な普遍妥当性を帯びるのであらうか。(「第一論文」p.95)
これは、「道の根拠」の問題である。丸山氏がこの後指摘するように、全てを理によって説明する朱子学では、この問題は生じなかった。なぜなら、理とは時代も場所も超越すると楽観的に信じられているからである。徂徠はそうではない。であれば、徂徠はいかにして道を根拠づけたか。丸山氏の言うところを聴こう。
――道はかかる聖人乃至先王の作為たることに窮極の根拠をもつのである。(「第一論文」p.97)
――われわれはさきに天が徂徠学において彼岸的な信仰対象となつてゐることを見た。(中略) 聖人の系列の最古に位する五帝はやがてまた天とされてゐる。一般人との連続性は断ち切られた聖人はここにまぎれもなく人格的な天に連続してゐるのである。聖人のいはばかうした彼岸性(Jenseitigkeit)こそ徂徠学における道の普遍妥当性の最後的な保証にほかならなかつた。(「第一論文」p.98)
先に、天に対する姿勢として「敬」について触れたが、それは聖人に対しても同じことであり、したがって道に対しても同じなのである。実際、徂徠は「弁名」において、「帝もまた天なり」(「弁名」p.126)と端的に言っている。ここで言う「帝」とは、唐虞三代よりさらに以前の上古の五帝(伏羲・神農・黄帝・顓頊・帝)を指す。五帝に始まり、唐虞三代の君主に至る「聖人」と彼らが制作した「道」を、自らの生きている世界と切り離して「彼岸」に置いた上で、それを信仰する。徂徠にとって道の根拠とはかくなるものであった。そして、このことを丸山氏は「聖人に対する非合理的信仰」(「第一論文」p.186)としたのである。
【丸山論文に沿って その五 徂徠の「歴史意識」】
ここで、改めて、先に引用した「道の根拠」に関する丸山氏の問いを思い返してほしい。すべてを理で説明する朱子学の「合理主義」の発想によれば、「なぜ道が普遍的なのか」と問われても、「理にかなっているからである」と安直に答えれば済む話である。しかし、徂徠は朱子学のような理を採用しない。したがって、同じ問いに対して、「それは信仰すべきものだからである」と答えるしかない。この「非合理的信仰」が学問の中核にあることは、ある危険を孕んでいる。いかなる現実が目前にあっても、古代に制作された道こそが絶対の理想であるとして、古代と現在とが歴史的に隔たっていることを等閑視してしまう危険である。しかし、徂徠は全くそうならなかった、むしろ反対である、と丸山氏は言う。
――唐虞三代といふ時間的にも場所的にも制約された制度に道を求めた徂徠学が何故に非歴史的なドグマティズムに陥らなかつたか、むしろ逆に儒教思想において比類がないほどの歴史意識がそこに高揚されたかといふ疑問は、道の根拠としての聖人のかかる彼岸性を考慮することによつてはじめて解明せられるであらう。唐虞三代の制度は彼岸的性格をもつた聖人の制作なるが故にのみ絶対的なのである。(中略) 唐虞三代の制度文物はまさにそのザインのままにおいて彼岸的な聖人に根拠づけられたのであつて、なんら規範的意味において絶対化されるのではない。従つて道が一定の時と処においてゾルレンとして作用するときは、夫々の具体的状況に応じた形態をとることを毫も妨げないのである。(「第一論文」p.98〜9)
ここでは、「非歴史的なドグマティズム」と徂徠の「歴史意識」とが比較されている。「歴史意識」とは何か。ここでの意味合いは、古代と現在とが全く異なるものであるという認識のことである。徂徠の「世は言を載せて以て遷り、言は道を載せて以て遷る」(岩波書店刊『日本思想大系36荻生徂徠』「学則」p.190)という一節は、世界と言語とが「遷る」、絶えず変遷していく有り様を鋭く捉えている。歴史は動き続けているのである。丸山氏は、この徂徠の鋭敏な歴史意識が、「道の根拠」を「聖人の彼岸性」に置いたことと深く関わっていると言う。「道」は偉大であり、信仰すべき「ザイン」すなわち存在である、しかしそれは私たちが生きている現在とは遥かに隔たった場所に存在するのであり、現在の私たちに何かをすべしと命令する「ゾルレン」すなわち規範ではない。だから、「道」を何らかの規範として働かせたいとき、歴史の変遷を認めたうえで、現在の「具体的状況」を把握して、それに合わせることは必須なのである。
そして、この徂徠の認識が、政治の実践についてどのような帰結を生むのか、第二論文では、以下のように書かれる。
――聖人と道との論理的関係はやがて唐虞三代ならぬ、あらゆる時代に於ける制度と政治的支配者との関係に類推されたのである。徂徠は朱子学の「合理主義」が歴史的個性を見失はしめることを屢々指摘し、聖人の道の衰頽した秦漢以後についても時代時代の制度の特殊性を認識する必要を強調してゐるが、かうした制度たるや、(中略)悉くその時代の創業の君主の自由なる(自己の「料簡」による)作為にその妥当根拠を帰せしめてゐる。(「第二論文」p.218)
歴史は変遷する。あらゆる時代に通ずる「理」などない。その時代時代に「特殊性」があり、「創業の君主の自由なる作為」が許される。これが徂徠の政治論の帰結であった。忘れてはならないのは、絶対的な存在である「聖人の道」を謙虚に信仰することが前提であるということである。最後の引用にあった「自由」という言葉は、完全な任意という意味ではないだろう。古代に制作された「道」という絶対的な存在への信仰と、「世は言を載せて以て遷り、言は道を載せて以て遷る」という歴史の性質に対する鋭敏な意識、それらを同時に抱いた精神の微妙な緊張の上で、徂徠は思索を深めていたのである。
本論考では、朱子学の合理主義から徂徠の非合理主義へという過程を描き出した。徂徠にとって「道」は、天とは全く原理を異にした聖人の制作によるものであること、それは現在とは隔たった「彼岸性」があるゆえに、信仰すべきものであると同時に、現在にそのまま適用できる規範ではないことが確認できた。丸山氏の論文に沿って、徂徠の思惟方法を辿ってきたが、道への信仰や歴史意識について、もっと精しくしたい。それが「徂徠の懐に入る」ということなのではなかろうかという期待を残し、次回への橋渡しとする。
(つづく)
玉井 裕香子
私はお恥ずかしいことに、本にじっくりと向き合い、ひとつひとつの言葉を解釈しながら自分の中で咀嚼して読み進めるという経験をしたことがありません。
小林秀雄先生に関しては、講演の音源をいくつか聞いたことがあるものの、ご著書をきちんと拝読するのは今回購入した本が初めてです。
この塾を通して、皆様との対話を重ねながら学ぶ機会を得、本当の意味での本との向き合い方、学ぶこととは、を考えて参りたいと思っております。
(了)
本多 哲也
独りで学ぶことを体得したい。小林秀雄先生の仕事を改めて見返すと、批評した作品や人物の多さに圧倒される。ただ、いわゆる博覧強記とは異なる。どの文章でも、小林秀雄という個性が、真剣に相手にぶつかっていることが伝わるからだ。私は、これこそ独学なのだと感動する。現代で独学と言うと、効率よく知識を入力し、意見を出力する方法論を指すように思うが、そんなことは気にせず、小林先生の生き方から、独学を体得したい。
(了)
「歴史の中に生きる」
越尾 淳
入塾以来、何度も読んできたつもりの「本居宣長」は、結局私にとっては昔の碑文のようなもので、読むともなく眺めてきただけとも思える。
ただ、自問自答を繰り返すことで、藤樹、仁斎、徂徠、宣長、そして小林秀雄先生が連なる学問の歴史が確かに存在し、自分もその流れの先端に生きているのだと自覚する。自問自答というのは、歴史の大河に問いかけ、今を生きる自分という存在を捉え直すことなのかもしれない。最後の年も、全力で歴史に体当たりしてみたい。
(了)
「美を求める心」
入田丈司
私は「美を求める心」、「物の美しい姿を求める心」を養って少しでも得たいと思います。一体、自分は「美しい姿を求める」ことをしてきたろうか、今のままでは一度の私の人生あまりに勿体ないのでは、という想いがあります。具体的には、小林秀雄先生の著作、普段から好んでいる多様な音楽、日常で目にする花々、この三つを重点に「物の美しい姿を求める心」、美が与える「沈黙の力に堪える経験をよく味わう」ことを養います。
(了)
溝口朋芽
「歌は、言葉の粋」であると小林秀雄先生が『本居宣長』本文の中で書かれています。本年度は、この一文の意味を会得できるよう読んでいきたいと考えています。
古代より、人間が言葉を発して、歌となり、文字となる、その歴史を宣長さんと一緒に本文の中で小林先生が辿っている、そのことを私という人間が読みながら辿る、小林先生の言葉で言えば、「思い出す」ことを通じて、この山の上の家の塾で私がこの十年考えてきた事柄を、繋がりをもって捉えることができたら、とてもありがたいと思います。
(了)
生亀 充子
これまで池田雅延塾頭、塾生の皆様のお話を通じて、小林秀雄先生の「本居宣長」を何とか読み進める力を頂いてまいりました。
今年一年は、「もののあはれ」や「やまと心」など、古人たちが「まごころ」の有り様を表現するためにどのようなことばを選び、用いてきたのかについて思索を深め、日常生まれては消える心象が、ことばによっていかに助けられ、また姿かたちとなっているのかといった気づきを掬い上げたいと考えております。そして、先人たちの苦心によって紡がれてきたことばをたどることで日本人の心の姿を知り、日常を生きる力(好信楽)になる学ぶ喜びを得たいと考えております。
(了)
橋本 明子
この一年で私が得たいもの、考えたいこと、それは心の不思議について、です。令和五年度の塾で、私は「やまと心と漢意」について自問自答を行いました。いくつか引いた熟視対象の中で、いまの私の心に響いたのは「『わが心ながら、わが心にもまかせぬ物』たるところに、その驚くべき正体があるという、そういうところに、行着いているのが感得される。それが、彼の『物の哀』論の土台を成している」という件です。
心の驚くべき正体、これについて考えを巡らせ、本居宣長の「物の哀」論の土台について理解を始めたい。これが私のこの一年で目指すところです。
(了)
冨部久
私の今年度の一番の学びは、「本居宣長」に出てくる「紫式部の夢」という言葉の中の「夢」が、小林秀雄先生の批評家としての出発点ともなった「様々なる意匠」の中に出てくる、「批評とは竟に己れの夢を懐疑的に語る事ではないのか!」という言葉の中の「夢」と同じものではないかという池田雅延塾頭からのご教示を受けたことです。それまでこの「紫式部の夢」という言葉の中の「夢」の意味をはっきりと捉えられずに、頭の中に渦巻いていたもやもやが、池田塾頭のひとことによって一気に雲散霧消し、更には紫式部のことを大批評家という小林先生の真意も分かったような気がしました。そして、そこに小林先生の、批評家として処女作を書いたころから晩年の大作までの思想の一貫性のようなものを感じました。
そのほかにも、小林先生について池田塾頭に教えを頂いたことにより、小林先生の姿というものが、今まで以上にはっきりと見えて来た一年だったという思いがしております。
(了)
「言葉とイメージ」
鈴木順子
昨年以来、四十九章の、小林秀雄先生の言われた、「今もなお古伝説の流れに浸った人々の表情は、故意に目を閉じなければ、誰にも見えている。それは、私達が国語の力に捕らえられているのと同じように、私達の運命と呼ぶべきものである。」が、ずっと頭から離れない。
三十五章で、小林先生は、「歌は、凡そ言語の働きというものの本念を現す」と、宣長の言葉を借りて、「いひきかせたりとても、人にも我にも何の益もあらね共、いはではやみがたきは自然の事」と、そして、「言語に本来内在している純粋な表現力が、私達に、しっかりした共同生活を可能にしている、言わば、発条となっているという考えが、宣長の言語観の本質を成していた。」と説明する。
言葉が共同生活を成し、そこからまた言葉が生まれるとすれば、私達の使う言葉は、古代からの言葉を引き出していると言えないだろうか。イメージにも同じことが言えないだろうか。
(了)
「私が山の上の家の塾で学んだこと」
本多哲也
小林秀雄先生は、ニイチェについて次のように言っている。
――私には、ニイチェは思想の宝庫というより寧ろ考えるという意志の源泉の様に思われる。思想と象徴とが或は論理と詩とが、そこで一緒に爆発するのに立会うのである。(「ニイチェ」117頁、新潮社刊「小林秀雄全作品」第18集所収)
言葉を凝視した向こうに人を見ている。言葉の意味よりも、その出処にある原始的な力を信じる。小林先生にとって批評とは何か、この一節から感じられる。おそらく小林先生が進んで批評の対象としたものは、少なからず、「考えるという意志の源泉」や「思想と象徴、或は論理と詩の爆発」が感じられる作品や人であった。ドストエフスキイもモオツァルトもゴッホも。もちろん本居宣長もである。小林先生に導かれて、彼らと出会い直してみる。表現力、より正確には表現しようとする力は、彼らにおいては圧倒的だが、それは私の中にも確かにある、人間の基本的な力ではないかと思い出される。
(了)
「令和五年度の山の上の家の塾で私が得たもの、考えたこと」
越尾淳
今年度の私の自問自答は、生成AI(人工知能)への驚きに触発され、中江藤樹はじめ学問界の豪傑達について取り上げました。「考える」という当たり前の行為が機械に代替されると世界は今後どうなっていくのか。期待と不安の入り交じる気持ちです。いずれにせよ、「考える」ということを考える機会に恵まれたことは大きな喜びでした。
ここからさらに進んで、考え方の一つの方法である「討議」ということについて、小林秀雄先生はどのように考えていたのだろうと思いました。ある問題を複数人で話し合い、様々な意見や知恵を集め、一定の結論を得るという行為は今日重視されています。しかし、小林先生は徹底して身一つで事物に向き合い、交わることが「考える」ことだと述べています。この討議ということに関して、小林先生がお考えを示されていれば、この機会に教えていただきたいと思います。
(了)
「令和五年度の山の上の家の塾で私が得たもの、考えたこと」
森本ゆかり
率直に生きると言うことを、人間関係で実践した一年でした。
結果は、とても酷いもので、率直では無く、感情的な行動ばかりとなり、思ったことを曲げて表現してしまったり、あるいは感じたことを、そのまま言葉に出しすぎて、相手と口論になったり、そのことで激怒してしまったり、できれば、知らずに済ませたかった、私自身の嫌な一面を思い知ることとなり、振り返ると苦しい一年でした。
この塾で、私が提出した、「本居宣長」第二十六章の質問に対して、池田雅延塾頭からご指導いただいた「人間によって生きられた歴史を見るという、小林秀雄さんの言葉の深さを知る」ということは、私自身の人間関係や日々の生活での課題と共通しており、本当に不思議な思いでした。
本を読むということの学びを深め、言葉の姿を感じられるようになることで、率直な生き方に少し近づけるのではないかと思いました。
今後ともご指導下さいますよう、宜しくお願い申し上げます。
(了)
「年度末に思うこと」
松広一良
十二年かけて「本居宣長」を読む、毎年通読し、それを十二回繰り返す、その最終年度がいよいよやってくる。私は四期生なので、通読は最終年度が十回目になる。おかげで本はマーカーペンや多色ボールペンの線だらけになり、紙もゴワゴワになっている。これほど同じ本を繰り返し読んだことはない、にも拘らずこんなことが書いてあったのかという発見を今だにしたりする、奥の深い本だからか自分の読みが浅いからか。そういう極めて稀な体験をさせてくれた池田雅延塾頭には深謝したい。その馬力、熱意には舌を巻く、とても真似はできない。最終年度は質問を二件は出したいと思う。塾頭にダメ出しされるかもしれないが……。
(了)
「質問する事」
入田丈司
小林秀雄に学ぶ塾では、自問自答を通じて上手な質問を行う事が根幹です。今年度に私は、この自問自答しながらの質問を、塾以外の場でも実践しました。必ず答えを予測したうえで質問をするのです。すると、シンプルな質問であれ、相手の方と対話が成り立ち、手応え有る時間となるのです。ある時、ボクシングの現役・全日本チャンピオンの談話を聞く珍しい機会がありました。彼のファイト溢れる生活談を聞いた後、「試合に至るまで怖くないのですか?」と、トレーニングに集中するから怖くないという答えを予測して質問しました。彼の答えは逆でした。パンチを浴びる事、負けてベルトを失う事、どちらも怖い。怖いから相手を冷静に研究し、怖いからトレーニングに耐えられるというのです。そして、危機に向き合い怖さを感じる事は、実生活でも大事ですね、という良き対話になったのです。この時の私の質問は、答えを予測するからこそ生まれたのです。
(了)
「この一年、私が得たもの、考えたこと」
溝口朋芽
今年度の山の上の家で、八月と十二月の二回質問に立たせていただきました。
この二つの質問について自問自答を深める中で、言葉とは何か、ということについてあらためて考えを深めることができた一年でした。
八月の質問は「即物的な方法」について、十二月は「人のまごころ」についてでした。いずれも、宣長さんの物への向かい方に関しての質問です。
物、言葉、歌について自身の出した質問に沿ってどのような思索をたどったのか、そのあらましと感じたことを当日はお話できれば思っております。
(了)
橋本 純
思い込みとは怖いもので、作曲家の小林秀雄さんの作品をいつか歌ってみたいと思っていたことを志望動機のひとつにあげていたのですが、その後で別人であることに気がつきました。それでも奇跡的に十二期として迎え入れていただけて、作家小林秀雄と本居宣長と出会いました。
講義を聴く中では、今使っている言葉と昔の書物の中に出てくる言葉の意味が変化していることと、人によってその概念が違うことを知りました、小林秀雄氏の使う言葉の概念を知りたいと思いました。
また、黙読、音読、頭で考えること、感想を述べること、書くこと、はそれぞれ違うところを使っていると感じていることです。考えることと感想を言うことはそう難しくはなくても書くという時、文字にするには考えをまとめないとならなくて、書けたら理解度が深まる気がしています。
以前からピアノの仕事でも生徒に口頭で教えている時と講評を書くことは全く違う能力が必要と思っていたこともあり、五感のうちより多く使い感じると心に残りやすいと思いました。本題に入る前の質疑応答の時間で小林秀雄先生と池田雅延塾頭のエピソードを聴くのが好きです。特に西洋医学のお薬のお話しには共感しました。
現在科学的に解き明かされているものが全てではない、胃腸の調子を整えるという朝鮮人参の成分の+αにも目を向けること、そのものの解明されていない成分も含めて全体が作用している。というようなエピソードは小林秀雄氏の考え方の根底になっているように思いました。
難しいけれども令和六年度こそは、自問自答にチャレンジしたいです。
(了)
「物と心との関係を考えることは、言語について考えることに通じる。言語は心の動きを体であらわすことで生み出される、両者の接点だからだ」と以前書いた(拙稿『好*信*楽』令和五年(2023)春号「荻生徂徠の『物』と『心』」)。「物質である体に、なぜ心があるのか」という古くて新しい難問と同じ構造は、言語それ自体にもある。「音声(形)になぜ意味が宿るのか」という、形と意味との関係だ。いずれの問いも、私たちの日常生活においては、どんな人の身体にも心があることを誰もが了解しているし、言葉を交わせば(形を交換すれば)意味が伝わると経験上知っている。論理的に説明しようとするとどうしても埋まらない二者(物と心/形と意味)の間隙は、生活の中では密接に結び付いていて、問題になることはない。しかし、だからといってこれらが「問いのための問い」でしかないのか、と言えば全くそうではない。切実な危機感を持って、小林秀雄はこれらの問題に向き合い、考え続けた。
『本居宣長』において、上述の言語についての問題は、物事に名を発明する、「命名」という起源の行為に遡って考えられている。本居宣長は、『古事記』の神々に名を付けた古人達の、命名という表現行為を、和歌を詠む行為と同じであると直観し、その時の心中を文章にしている。小林秀雄は、宣長の「詠歌ノ第一義ハ、心ヲシヅメテ妄念ヲヤムルニアリ」という言葉を引いて、言葉にならない物事に遭遇し心が動揺したとき、その動揺がどのようなものなのかを、何とかして自らの力で見定めようとする「言語表現という行為」が、詠歌であり命名である、と第三十六章で次のように言っている。
堪え難い心の動揺に、どうして堪えるか。逃げず、ごまかさず、これに堪え抜く、恐らくたった一つの道は、これを直視し、その性質を見極め、これをわが所有と変ずる、そういう道だ。力技でも難業でもない、それが誰の心にも、おのずから開けている「言辞の道」だ、と宣長は考えたのである。悲しみを、悲しみとして受取る、素直な心さえ持っている人なら、全世界が自分一人の悲しみと化するような、深い感情の経験は、誰にもあるだろう。詞は、「あはれにたへぬところより、ほころび出」る、と言う時に考えられているのは、心の動揺に、これ以上堪えられぬという意識の取る、動揺の自発的な処置であり、この手続きは、詞を手段として行われる、という事である。どうして、そういう事になるか、誰も知らない、「自然の妙」とでも言う他はないのだが、彼は、そういう所与の言語事実を、ただ見るのではなく、私達めいめいが自主的に行っている、言語表現という行為の裡に、進んで這入って行く。
詠歌の行為の裡にいなければ、「排蘆小船」で、言われているように、「詠歌ノ第一義ハ、心ヲシヅメテ妄念ヲヤムルニアリ」と合点するわけにはいかないだろう。心の動揺は、言葉という「あや」、或は「かたち」で、しっかりと捕えられぬうちは、いつまでも得体の知れない不安であろう。言葉によって、限定され、具体化され、客観化されなければ、自分はどんな感情を抱いているのか、知る事も感ずる事も出来ない。「妄念ヲヤムル」という言い方は、そういうところから来ている。「あはれ」を歌うとか語るとかいう事は、「あはれ」の、妄念と呼んでもいいような重荷から、余り直かで、生まな感動から、己れを解き放ち、己れを立て直す事だ。
そういう次第で、自己認識と言語表現とが一体を成した、精神の働きまで遡って、歌が考えられている事を、しっかり捕えた上で、「人に聞する所、もつとも歌の本義」という彼の言葉を読むなら、誤解の余地はない。「人に聞する所」とは、言語に本来備わる表現力の意味であり、その完成を目指すところに歌の本義があると言うので、勿論、或る聞いてくれる相手を目指して、歌を詠めというような事を言っているのではない。なるほど、聞く人が目当てで、歌を詠むのではあるまいが、詠まれた歌を、聞く人はあるだろう、という事であれば、その聞く人とは、誰を置いても、先ず歌を詠んだ当人であろう。宣長の考えからすれば、当然、そういう事にならざるを得ない。わが思いを歌うとは、捕えどころのない己れの感情を、「人の聞てあはれとおもふ」詞の「かたち」に仕立て上げる事なら、この自律性を得た詞の「かたち」が、自ら聞きてあわれと思う詞の「かたち」と区別がつく筈はない。
(「本居宣長」第三十六章 新潮社刊『小林秀雄全作品』第28集 p.5813行目~
下線は引用者による、以下同)
既存のものの言い方ではとても表せないような自分自身の心の動揺、「全世界が自分一人の悲しみと化するような、深い感情の経験」の、「妄念と呼んでもいいような重荷」の姿を、自分自身で見定めること。感情の強弱はあれど、「自己認識と言語表現とが一体」のこの行為が、詠歌であり命名なのである。下線部にあるように、先ず自分自身に聞かせるために、「あや」或いは「かたち」を作り整えることで、心の動きを「直視し、その性質を見極め、これをわが所有と変ずる」ことが可能になるのだ。なぜなのか、理由はわからない、「『自然の妙』とでも言う他はない」のだとしても、人間は本来そのように造られており、言葉の本来の力は、こうした表現力にあるのだ。発明した当人以外の者から見ると「飛躍」した結合に見える「かたち」と意味とは、この表現行為の裡では一体なのである(「飛躍」という言い方は、「本居宣長補記Ⅱ」にある。拙稿『好*信*楽』平成30年(2018)3月号「『徴』という語をめぐって」参照)。
『本居宣長』本文中で、言葉の力の源泉として示されているのが、「興」と「観」という二つの働きだ。儒学者・荻生徂徠が著書『論語徴』で書いている、言葉に意味を結びつける力(「興」)と、言葉から物の姿を受取る力(「観」)である。「興」については荻生徂徠の考えを軸にして書かれているが(拙稿『好*信*楽』令和六年(2024)冬号「『興』――言語の本能としての比喩の働き」参照)、「人の心中に、形象を喚起する言語の根源的な機能」とされている「観」については、徂徠から受け継いだ言語観を発展させた本居宣長の文章が中核となっている。まずは、荻生徂徠を引いて「心中に形象を喚起する」点が挙げられている第三十二章を見てみよう。
宣長が書写した「論語徴」の全文は、「詩之用【引用者注:詩の力、効用】」は、「興之功」「観之功」の二者に尽きるという意見が、いろいろな言い方で、説かれているのだが、基本となっているのは、孔子の、「詩ヲ学バズンバ、以テモノ言フコト無シ」という考え、徂徠の註解によれば、「凡ソ言語ノ道ハ、詩コレヲ尽ス」という考えであるとするのだから、詩の用が尽しているのは言語の用なのである。従って、ここに説かれている興観の功とは、言語の働きを成立させている、基本的な二つの要素、即ち物の意味と形とに関する語の用法を言う事になる。(中略)
「観之功」の方も同様で、「得失ヲ考見スル」というような、知的な意味には取られていないので、人の心中に、形象を喚起する言語の根源的な機能と受取られている。物の意味が、語るにつれて発展すれば、これと表裏をなして物の形は、「黙シテ之ニ存シ、情態目ニ在リ」、「観トハ是ナリ」とある。
(第三十二章 『小林秀雄全作品』第28集 p.126行目〜)
「興」の力によって言葉を形づくり、「観」の力によってその形から意味(物の形象)を受け取る、この「言語の用」のおかげで私たちは、お互いに何を思い考えているのかを知り合うことができている。「意味」が具体的にどのようなものかを示すことは、非常に多様で難しいが、ここで「形象」と言われているような心象イメージもそのひとつであり、例えば「海」という言葉によって心中に浮んでくる情景のようなものがそれに当たる。この点を、中国文学者である吉川幸次郎氏は、次のような言い方で述べている。
「可以観【引用者注:以って観るべく。吉川幸次郎全集 第四巻『論語』p.564】」。古注の鄭玄に、「風俗の盛衰を観るべし」。世の中の有様がわかる。新注の「得失を考見す」も同じ解釈である。みずからは経験しない事柄を、あたかもしたしく経験したごとく感じ、また感じたことによって考えうるのが、一般に文学の効用であるが、それをいったのである。徂徠いわく、「世運の升降【引用者注:昇降】、人物の情態、朝廷に在りて以って閭巷を識る可く、盛代に在りて以って衰世を識る可く、君子に在りて以って小人を識る可く、丈夫に在りて以って婦人を識る可く、平常に在りて以って変乱を識る可く、天下の事、皆な我れに萃まる者は、観の功也」。(中略)
要するに詩は、感情の表現であるゆえに、論理の叙述である他の文献とは異なってもつ効用を、四つの面【注1】から指摘したのである。感情の表現であるゆえにもつ特殊な自由さとしての比喩、あるいは感情の興奮、それをいうのが「興」であり、感情の表現であるゆえにもつ広汎な観察の可能が「観」である。以上二者は詩という存在の、第一義的な性質についての指摘といえる。
(筑摩書房刊 吉川幸次郎全集 第四巻『論語』 陽貨第十七 p.566〜567下線は引用者)
下線部で言われているように、「心中に形象を喚起する」力によって、自分自身が今まさに経験しているのではない物事を感受することができる力が「文学の効用」の真髄だ。これには他人から受け取ること(空間的な隔たりを超えること)ばかりでなく、過去の自分の経験を甦らせたり、現在の経験を未来に引き継いだりといった、時間的な隔たりを超えることも含まれる。冒頭で引いた『本居宣長』第三十六章で見たように、自らの心の動きを起点とした「感情の表現であるゆえに」こそ、共感を通して他者の視点を得ることができ、「広汎な観察」が可能になると言うのだ。徂徠はこのことを指して「天下の事、皆な我れに萃まる(世の中のありとあらゆる物事が自分のところに集まってくる)」と言い表した。小林秀雄は、本居宣長の歌論書『石上私淑言』で「ながむる」と言われている行為はこの「『観』の字の心」であるとして、第三十七章で次のように述べている。
事物と人情との間に、おのずから成立している親和がないところに、歌はない。これは、彼の歌学を貫く一番大事な考えだ。そして、附言するまでもないが、これは、「古今集序」の、「生きとし生けるもの、いづれか歌をよまざりける」を受けての事である。歌がほころび出る無私な心を失うとは、彼の考えによると、物の「かたち」が、有るがままに見えなくなって了う事なのだ。彼の言い方で言えば、「物をながむる」という事が出来なくなるという事なのである。「ながむる」とは、ただ見る事ではなく、「観」の字の心で、「物をつくゞゝと見る」事だが、その語源に遡れば、「声を長くする」という事で、「長息する」という「なげく」と、同じ意味合の言葉である。(下線は引用者)――――「情に感と深く思ふ事あれば、必長き息をつく、俗にこれを多売伊幾都久といふ、漢文にも長大息などといへり、その長く息をつくによりて、むすぼゝれたる心のはるゝ故に、心に深く感ずる事あれば、をのづから長息はする也」(「石上私淑言」巻一)と言う。「三代集」の頃まで、「ながむる」は声を長くする事、転じて、物思う事の両様の意に使われていたが、「千載」「新古今」の頃から、意が又転じて、物を見る事だけに言われるようになった。「視」「望」と同義の「眺」の字をあてて、使っている内に、この言葉の伝統的な含みが、忘れられて了った。そうなっては、字を当てるなら「詠」であると言ってみても、どうにもならぬという事になった。
(第三十七章 『小林秀雄全作品』第28集 p.732行目~)
この「事物と人情」が「親和」する場面については第三十六章で、その時の心中にまで踏み込んで言及がされていた。人の心が「物」に出会って感動すると、「物」をよく見ようとするのと同時に、「長き息をつ」き、「声を長くする」ことで内面を外に表そうとする。これは日本に限らず、漢文(中国文化圏)でも同様であると宣長は言う。よく見ることと声に文をなすことは、昔は同じひとつの「ながむる」行為であり、それは荻生徂徠の言う「観」の字の心で、日本語の「なげく」「ながむる」という古語によって、その起源がひとつであったことが、国語の体系の中に記憶として保存されているのだ。「興の功」、つまり「言語の本能としての比喩の働き」によって表現として成立した言葉の「形」には、そのときの古人の心の動きが自ずと表れている。それを自ら「ながむる」ことによって「事物と人情」が「親和」し、歌(言葉)となるのである。
さらに第三十七章では、「興」の力が発現するためにもまず「ながむる」行為が必要であることが示されている。私たちは、眼さえあれば物が見える、というわけではないのだ。上記の引用文の直前では、この表現行為の起点にある心の動揺について、「情」と「欲」という、異なる心の状態について言及されている。「欲」に基づく意図的な行為からは歌は生まれず、ただ生きているだけで自ずと動いてしまう、人が本来持って生まれたままの「情」が歌を生み出すのだ、「物の『かたち』が、有るがままに見えなくなって了う」ように我々は生きている、のだ、と。
「歌ハ情ヨリイヅルモノナレバ、欲トハ別也」(「あしわけをぶね」)、意欲と感慨とは、本質的に対立する。物に応じて慨嘆する時は、物に没入して、己れを去るものだが、己れを押し立てなければ、意欲する事は出来ない。「よろづの事、わが思ふかたのみをたてて、世の人のいふところをひたすらにいひおとすは、是すなはち物の哀しらぬ我執のつよき人也」とあり、又、「我執をはなれ、人情にしたがへるかきざま、とりもなをさず、物の哀をしれる書ざま也」(「紫文要領」巻上)とも言う。人の生きた心は動いて止まぬ。この、言わば「わが心ながら、わが心にもまかせぬ」心の裡にあって、己れを立て、己れに執するとは、自我とは、かくの如きものという「不動心」を案出する事に他なるまい。これはどうしても無理を通す事になる。人為的に案出された自我観念は、意欲と結んで、絶えず自己を主張し、自己を防衛していなければ、「動くこそ人のまごころ」という、心の自然な有りように対抗し、これに伍して行けないのである。
この、我執に根差す意欲の目指すところは、感慨を捨て去った実行にある。意欲を引提げた自我の目指すところは、現実を対象化し、合理化して、これを支配するにある。その眼には、当然、己れの意図や関心に基いて、計算出来る世界しか映じてはいない。当人は、それと気附かぬものだが。
(第三十七章 『小林秀雄全作品』第28集 p.721行目~)
宣長ははっきり「情」と「欲」を別のものとしており、小林秀雄はそれを受けて、動く心を「不動」にすることが可能であるかのような自我観念は「人為的に案出された」ものに過ぎないと言う。日常生活を営む上では「現実を対象化し、合理化して、これを支配する」ことがどうしても必要になるが、そうした「意欲を引提げた」ままでは、「己れの意図や関心に基いて、計算出来る世界しか」見えてはいない。そもそも「物」が見えていないので、「物をながむる」ことも当然できない。物に準えて表現する比喩である「興」の力も、物が見えて初めて発揮することができるものだ。元来心は「わが心ながら、わが心にもまかせぬ」もの、「生きた心は動いて止まぬ」のが本来の姿なのだが、この「意欲」を滅そうと努力しなければ、本来の「歌がほころび出る無私な」姿が現れることはない。「欲」を「情」へと遷すために、なんとか「我執をはなれ、人情にしたが」おうとすることで、ようやく「物の哀をし」ることが可能になる、と宣長は言っているのだ【注2】。
出会った物事に自ずと心を動かされ、その動揺をなんとか言葉に成そうと努力し、成した表現を自ら「ながむる(眺/詠)」こと。この一連の行為を繰り返し行うことによって、言葉の形と意味とが一体の、「事物と人情」が「親和」した歌が生み出される、それが「ながむる」というひとつの行為であると、小林秀雄は言っているのだ。このような言語観を再び見出すことが、なぜ必要だと考えたのか。『本居宣長』の単行本刊行に際して行われた、文芸評論家の江藤淳氏との対談の中で、小林秀雄は次のように語っている。
話が少々外れるが、私は若いころから、ベルグソンの影響を大変受けて来た。大体言葉というものの問題に初めて目を開かれたのもベルグソンなのです。それから後、いろいろな言語に関する本は読みましたけれども、最初はベルグソンだったのです。あの人の「物質と記憶」という著作は、あの人の本で一番大事で、一番読まれていない本だと言っていいが、その序文の中で、こういう事が言われている。自分の説くところは、徹底した二元論である。実在論も観念論も学問としては行き過ぎだ、と自分は思う。その点では、自分の哲学は常識の立場に立つと言っていい。常識は、実在論にも観念論にも偏しない、中間の道を歩いている。常識人は、哲学者の論争など知りはしない。観念論や実在論が、存在と現象とを分離する以前の事物を見ているのだ。常識にとっては、対象は対象自体で存在し、而も私達に見えるがままの生き生きとした姿を自身備えている。これは「image」だが、それ自体で存在するイマージュだとベルグソンは言うのです。この常識人の見方は哲学的にも全く正しいと自分は考えるのだが、哲学者が存在と現象とを分離してしまって以来、この正しさを知識人に説く事が非常に難かしい事になった。この困難を避けなかったところに自分の哲学の難解が現れて来る。また世人の誤解も生ずる事になる、と彼は言うのです。
ところで、この「イマージュ」という言葉を「映像」と現代語に訳しても、どうもしっくりしないのだな。宣長も使っている「かたち」という古い言葉の方が、余程しっくりとするのだな。
「古事記伝」になると、訳はもっと正確になります。性質情状と書いて、「アルカタチ」とかなを振ってある。「物」に性質情状です。これが「イマージュ」の正訳です。大分前に、ははァ、これだと思った事がある。ベルグソンは、「イマージュ」という言葉で、主観的でもなければ、客観的でもない純粋直接な知覚経験を考えていたのです。更にこの知覚の拡大とか深化とか言っていいものが、現実に行われている事を、芸術家の表現の上に見ていた。宣長が見た神話の世界も、まさしくそういう「かたち」の知覚の、今日の人々には思いも及ばぬほど深化された経験だったのだ。(下線は引用者)
この純粋な知覚経験の上に払われた、無私な、芸術家によって行われる努力を、宣長は神話の世界に見ていた。私はそう思った。「古事記伝」には、ベルグソンが行った哲学の革新を思わせるものがあるのですよ。私達を取りかこんでいる物のあるがままの「かたち」を、どこまでも追うという学問の道、ベルグソンの所謂「イマージュ」と一体となる「ヴィジョン」を摑む道は開けているのだ。たとえ、それがどんなに説き難いものであってもだ。これは私の単なる思い付きではない。哲学が芸術家の仕事に深く関係せざるを得ないというところで、「古事記伝」と、ベルグソンの哲学の革新との間には、本質的なアナロジーがあるのを、私は悟った。
(「本居宣長」をめぐって(対談) 『小林秀雄全作品』第28集 p.22813行目~)
科学の知見に強く影響され、「知識人」によって学問が専門化・分化した結果、下線部で言われている「主観的でもなければ、客観的でもない純粋直接な知覚経験」、つまり私たち「常識人」が経験しているありのままの世界を、言葉で捉えることが難しくなった。吉川幸次郎氏が「文学の効用」として示していた力が軽んじられるようになり、言語観、つまり言語に対する態度がすっかり変わってしまった。小林秀雄は、現在に至っても続いているこうした状況への危機感から、言葉の本来のあり方を示そうとしているのである。言葉本来の力による「知覚の拡大とか深化」がなければ、私たちの経験の本当の「かたち」を摑むことは叶わないということだ。
同じ危機感は、『本居宣長』執筆以前から繰り返し著されていた。「表現について」という文章にあるように、フランスにおける象徴派詩人達の運動も、同じ危機感から発している。
ボオドレエル以後の象徴派詩人達の運動は、文学の散文化による自我の拡散に抗して、個性的な内的な現実を守りつづけて来た運動だと言えます。浪漫派文学は、先ず自己告白によって口火を切った。偽りの外的形式を否定して真の内容が吐露したかった。それはいい。ところが、吐露する形式はどういう事にならねばならぬか。そういう事まで考える余裕はなかったのである。ただ何も彼も吐き出して了いたかった。その自由と無秩序との裡に、せっかく現そうとした自己の姿が迷い込んで了ったのである。この告白の嵐に、一つの大きな秩序を与えたものが、合理的な観察態度なのである。ところが、この態度が齎した正確な描写という手法は、文学の新しい秩序を創り出したというより、寧ろ文学によって事物の秩序を明るみに出した。告白の嵐の中に道を失った自我は、観察機械たる自己を発見するという始末になった。これは発見とは言えまい。新しい型の紛失です。そこで、こういう問題が現れます。一般の趨勢に抗して、象徴派の詩人達は、内的現実を守った、つまり自己表現の問題から眼を離さなかったのであるが、彼等が詩人の本能から感得していた自己とは、告白によっても現れないし、描写の対象となる様なものでもなかった。自己とは詩魂の事である。それはreprésentation(明示)によって語る事は出来ない、詩という象徴symboleだけが明かす事が出来る。併しsymboleという言葉は曖昧です。ヴァレリイは、サンボリスト達の運動は、音楽からその富を奪回しようとした一群の詩人の運動と定義した方がいいと言っている。強いてsymboleという言葉を使うなら、その最も古い意味合いで、詩人は自ら創り出した詩という動かす事の出来ぬ割符に、日常自らもはっきりとは自覚しない詩魂という深くかくれた自己の姿の割符がぴったり合うのを見て驚く、そういう事が詩人にはやりたいのである。これはつまる処、詩は詩しか表現しない、そういう風に詩作したいという事だ。これは、まさしく音楽に固有な富である。
(「表現について」 『小林秀雄全作品』第18集 p.4812行目~)
単なる「観察機械」としての自己ではなく、ここで「詩魂」と呼ばれている「深くかくれた自己の姿」、自分自身の人生を「どう生きるか」という難問に直面した時に先ず出会う問い、「自分の心(精神、人格)はどのように作られているのか」を見出すことを可能にする言語表現のあり方。それを小林秀雄は、本居宣長が『古事記伝』で古人達から受け継いだ、「ながむる」という表現行為のあり方に見出したのではないか。上記の文中にある「象徴symbole」の本来の意味である「割符」という語は、『本居宣長』本文中では「徴」という語がそれに当たる。「割符」の脚注に「紙片などに文字を書き、証印を押して二つに割り、当事者双方が一つずつ持つもの。後日、合せてみて当事者である証拠とする。symboleの語源、古代ギリシャ語のsymbolaは、コインなどを割って作った割符をいう」とあり、「徴」も同じsymboleの意味で使われている。まず割符の片方として言葉の形を作ると、もう片方の割符として意味が現れ、その双方が合うように形を整える。宣長が古人達の行為を模倣して得た、この「ながむる」行為こそ、象徴派詩人達が目指した表現行為そのものであると、小林秀雄は考えたのではないだろうか。
そういう意味で、「徴」という語は次のように、言葉の「かたち(肉声の文)」と意味とが表裏一体のものとして成り立つ場面に現れる。次の第三十五章にある宣命(皇国言で記された上代の詔勅。同書p.46)についての文章がその一つだ。
宣命の言霊は、先ず宣るという事が作り出す、音声の文に宿って現れた。これが自明ではなかった人々に、どうして「宣命譜」などが必要だったろうか。何も音声の文だけに限らない、眼の表情であれ、身振りであれ、態度であれ、内の心の動きを外に現わそうとする身体の事の、多かれ少かれ意識的に制御された文は、すべて広い意味での言語と呼べる事を思うなら、初めに文があったのであり、初めに意味があったのではないという言い方も、無理なく出来るわけであり、少くとも、先ず意味を合点してからしゃべり出すという事は、非常に考えにくくなるだろう。例えば、「お早う」とか「今日は」という言葉を、先ずその意味を知ってから、使うようになったなどという日本人は、一人もいないだろう。意味も知らぬ事をしゃべる子供、とよく大人は言うが、口真似が、言葉のやりとりに習熟する、自分もやって来た、たった一つの道であった事は、忘れ勝ちだ。そればかりではない。大人になったからと言って、日に新たな、生きた言語の活動のうちに身を置いている以上、この、言語を学ぶ基本的態度を変更するわけにはいかないのである。(中略)
言語に関し、「身に触れて知る」という、しっかりした経験を「なほざりに思ひすつる」人々は、「言霊のさきはふ国」の住人とは認められない。
この言語共同体を信ずるとは、言葉が、各人に固有な、表現的な動作や表情のうちに深く入り込み、その徴として生きている理由を、即ち言葉のそれぞれの文に担われた意味を、信ずる事に他ならないからである。更に言えば、其処に辞書が逸する言語の真の意味合を認めるなら、この意味合は、表現と理解とが不離な、生きた言葉のやりとりの裡にしか現れまい。実際にやりとりをしてみることによって、それは明瞭化し、錬磨され、成長もするであろう。
(第三十五章 『小林秀雄全作品』第28集 p.482行目~)
「内の心の動きを外に現わそうとする身体の事」によって生み出された「文」という「かたち」は、本来が表現行為であればこそ、模倣することによって、半ば無意識的なものとして身についてゆき、習慣のような身体運動の記憶として蓄積される。だからこそ、自分自身で行為することによって初めて「かたち」に意味が結びつく「表現と理解とが不離な」もの、「représentation(明示)によって語る事は出来ない、詩という象徴symboleだけが明かす事が出来る」ものなのだ。宣命はこの「文」を成す表現行為であり、その精確な模倣のために古人達は「宣命譜」を必要とした。この宣長の言う「文」こそ、象徴派詩人たちが奪回しようとした「音楽に固有の富」であり、そうして成った「割符」の片方として、もう片方の「詩魂」が現れ、己の心のあり方を知ることができるのだ。本稿の冒頭に挙げた「音声(形)になぜ意味が宿るのか」といった問いが示すように、形に結びついた「意味」が自明に存在している、という通念が定着している現代において、この表現行為としての言語のあり方こそ、小林秀雄が新たに示したい言語観だったのではないか。
「ながむる(眺/詠)」行為が本来、「表現と理解とが不離な」、「自己認識と言語表現とが一体」の行為であること。これこそ、本居宣長が長年『古事記』を愛読吟味して『古事記伝』を書き上げたことで見出された、大きな発見ではないだろうか。小林秀雄が、フランスの象徴派詩人達やベルグソンの思想に見出すことのなかった、この言語本来のあり方が、『本居宣長』全篇の執筆によって初めて見出されたように、私には思われる。
【注1】他の二つである「羣」「怨」は、「興」「観」の応用であることが『本居宣長』第三十二章で言及されている。
【注2】この考え方を宣長は「源氏物語」を読み「紫文要領」を書くことで得たというが、本稿でそこまで触れることは叶わない。『本居宣長』第十三章から第十八章、第二十四章などに詳述されている。
(了)
「本も、絵を眺めるように読むのです、最初は文章の意味を取ろうなどとは思わず、小さくでいいから声に出して読むのです。こうして口を動かしていると、文章の意味は後からついてきます、本を書いた人の言おうとしていることが自然にわかってきます。つまり、『絵を眺めるように』とは、本の一行一行を最初から細切れに「読解」していくのではなく、まずはざっと全体を、無心で目にしていくということです、絵は、そこに描かれている山や海や花の全体をまずはざっと眺めるでしょう、それと同じように、本に書かれている文章をひととおり、声に出して読みながら眺めるのです。『声に出して読みながら眺める』とは、著者すなわち本を書いた人の気持ちを話し言葉として聴き取るということで、こうすれば、絵を見て絵描きさんの丹念な筆遣いや荒々しい筆遣いから絵描きさんの気持ちや意気込みが汲み取れ、それがその絵の目のつけどころとなるように、著者が言葉を強くしている箇所や、なぜだか口ごもっているように読める箇所やを聴き分けていけば、その本で最も読み取るべきことは何かがおのずとわかってくるのです」。これは、以前開催されていた「小林秀雄に学ぶ塾㏌広島」の懇親会の席で、初めて私が、池田雅延塾頭に質問した際にご指導いただいたことです。
池田塾頭と出会うまで、小林秀雄氏の作品は一度も読んだことがなく、また文学とは縁のない人生を送ってきましたが、塾頭を通して聴く、小林氏の言葉が、これまでに経験したことのないほど、心に強く響き、ここでの学びは私の人生の軸となると直観しました。
読書についてご指導いただいてから、何年も経ったものの、いまだ小林氏の文章は難しく、度々立ち止まるという有り様ですが、くじけそうになるたびに、塾頭からご指導いただいたことを思い出し、小林氏の文章と向き合っています。
心から読書ができるようになりたいと、特に強く思うようになったのは、現在四歳の息子が、生後四ヶ月ごろから発症した、アトピー性皮膚炎がきっかけです。根本となる原因を改善していくために、信頼できる皮膚科の医師を探し、その指導のもと、薬や保湿剤は使用せず、睡眠、食事、運動などの生活リズムの改善と、皮膚をなるべく水で濡らさないこと、子どもの意欲を育てること、これだけを続けました。症状は体の成長とともに落ち着いてくるので、目に見えて変化が出るまでには半年から一年程かかります。私のこの治療方法は、アトピー性皮膚炎の標準治療とは異なるため、周囲の人達からは、なかなか理解されず、症状が改善するまでの一年間は、様々な心の葛藤が起こりました。我が子を人に見られることが恥ずかしいと感じ、子どもと向き合えなくなったり、批判的な意見をしてくる相手に強い怒りを感じ、攻撃的になったり……と、母親として、人間として、とても情けない自分の姿が嫌になり、このままの状態で、子育てをしてはいけないと感じました。
池田塾頭にご指導いただいた読書ができるようになることで、自分自身の弱さと正面から向き合い、受け入れられるようになるのではないかと思い、そういう意識で、「小林秀雄全作品」第27集を読むと、「自分自身の経験を重ね合わせて読む」ことと、「自分の価値観を通して読む」こととの違いは何か、という疑問が湧き、塾頭に質問したところ、「本を読むとき、自分の価値観は一切捨てること。池田の場合は、『小林先生なら、どう考えるのだろう?』ということだけを考える。私たち一人ひとりの価値観は、小さい、ちんけなものである。だから、本は、著者から何を教えてもらえるのだろうか、どんな話が聞けるのだろうか、という姿勢で読む。読んでいくうちに、『ここで著者が言っていることは、私にも何かしら覚えがある』という箇所に出会うとそこで立ち止まる、そしてその自分の経験を著者の言葉に照らし、『そうか、そういうことだったのか』と何かに思い当たる、これが『経験を重ね合わせる』ということです。ところが、最初から自分の経験の眼鏡をかけて読むと、自分だけの狭いフレームの中でしか著者の言うことが読み取れません。だから、ページを開いたそのときから、自分の枠の外に出ていること、これが肝要です」と、ご指導いただきました。
これを聞いて、私は、本に対してだけではなく、人や物事、我が子にさえも、自分の価値観を通してでしか向き合っていなかったと深く反省しました。そこで池田塾頭に言われた読書法をさっそく試みましたが、簡単にはできず、気がつくとまたしても自分の価値観を通して読んでしまっていて、そして、実生活の人間関係でも、そのことを思い知らされる出来事が続いていました。
どうすれば、自分の価値観という枠の外に出て物事と向き合えるようになるのだろう、と考えていると、「『物まなびの力』は、彼のうちに、どんな圭角も作らなかった。彼の思想は、戦闘的な性質の全くない、本質的に平和なものだったと言ってよい。(新潮社刊「小林秀雄全作品」第27集p.52)」の一文が気になり、なぜ、宣長さんは、それができたのだろうか、どうすれば私にもそれができるのだろうかと思い、次のような質問を提出しました。
――「『物まなびの力』は、彼のうちに、どんな圭角も作らなかった。彼の思想は、戦闘的な性質の全くない、本質的に平和なものだったと言ってよい。彼は、自分の思想を、人に強いようとした事もなければ、退いてこれを固守する、というような態度を取った事もないのだが、これは、彼の思想が、或る教説として、彼のうちに打建てられたものではなかった事による。そう見えるのは外観であろう。彼の思想の育ち方を見る、忍耐を欠いた観察者を惑わす外観ではなかろうか」とあります。宣長さんの思想の育ち方とは、人生いかに生きるべきかに関してであれ、「源氏物語」などの古典に対してであれ、まず何らかの価値観をもって臨み、その価値観の上に立った自説を日に日に強化して他人を説得したり服従させたりする学問ではなく、宣長自身に与えられた環境や宣長自身の心の動きに即した、自問自答による自己表現の学問によって育った、ということなのでしょうか。――
この質問に対して、池田塾頭からご指導いただいた内容は、以下の通りでした。
「宣長さんの思想の育ち方とは、自分に与えられた環境や宣長自身の心の動きに即した、自問自答による自己表現の学問によって育った、ということなのでしょうか」とした自答はたいへんよい。
しかし、この結論に至るまでの熟視が足りない。熟視対象にあげられている引用文――「『日記』を読むと、学問しているのだか、遊んでいるのだかわからないような趣がある。塾の儒書会読については、極く簡単な記述があるが、国文学については、何事も語られていない。無論、契沖の名さえ見えぬ。こまごまと楽し気に記されているのは、四季の行楽や観劇や行事祭礼の見物、市井の風俗などの類いだけである。『やつがれなどは、さのみ世のいとなみも、今はまだ、なかるべき身にしあれど、境界につれて、風塵にまよひ、このごろは、書籍なんどは、手にだにとらぬがちなり』(宝暦六年十二月二十六、七日)というような言葉も見られるほどで、環境に向けられた、生き生きとした宣長の眼は摑めるが、間断なくつづけられていたに違いない、彼の心のうちの工夫は、深く隠されている」(同p.58)――に、至るまでの宣長の生い立ちが重要で、宣長の『在京日記』の引用だけでは自答のピントが合っていない。宣長が、常日頃、親から授かった気質(父親から授かった仏教徒としての熱心さ、母親から授かった先々のことまで見通す賢さ)に基づいて生活していたことと、天から授かった気質である自分自身の自発性に身を預けていたこと、これが『在京日記』を読んで小林先生が言われている「彼の心のうちの工夫」であるが、自答にあたってはこの「彼の心のうちの工夫」という言葉をしっかり押さえておきたかった、ここが確と押さえられていれば、次に言われていることが宣長独自の思想の育ち方としてより明確に読み取れたであろう、――自分の人生を作るために持続して育んできた思想、すなわち、個人として、自分はこう生きたいという思いを持って古典を読んでいると、他人にもそれが当てはまると思うことはあった、しかしそれを教説として他人に訴えたりはせず、自分はこう思う、と手元で言うに留めた。他人と競合したり他人を説得したりするなど、外に意識を向けている暇はない、内的思想であった。――
今回の質問でも、私は、早く答えを知りたいと急いで本文を読んでしまい、「(本居)大平は、宣長の学問の系譜を列記した中に、『父主念仏者ノマメ心』『母刀自遠キ慮リ』と記入している。曖昧な言葉だが、宣長の身近にいた大平には、宣長の心の内側に動く宣長の気質の力も、はっきり意識されていた」(同p.53)という、大事な部分を見落としていました。
池田塾頭からご指導いただいたことを、一刻も早く身に着けたいと気持ちは焦るばかりですが、日常生活での日々のあらゆる出来事に一つ一つ丁寧に取り組んで行くことの積み重ねで、本当の読書に近づけるのではないかと思いました。
ここで改めて、池田塾頭、広島塾を立ち上げて下さった吉田宏さん・美佐さんご夫妻、そして塾生の皆様と出会えたことに心から感謝申し上げます。
(了)
小林秀雄氏は、「本居宣長」について、講演で、「宣長という人は、非常に論理的で、実証的な精神をもった学者であったが、それに反してしまいには狂信家になってしまった、と言う人たちがいる、……そんなばかなことはない、宣長さんという人は一人しかいないんだ、最後は狂信家になったというのもそう言っている人たちの目にはそう見えているというだけのことで、僕らが宣長さんの文章を一所懸命に読めば、きっとその一人しかいない宣長さんが現れて来るに違いない……、そう思って僕は僕自身が宣長さんの文章を一所懸命に読み、後にも先にも一人しかいない宣長さんとしっかり巡り合うまでのいきさつを本に書いたのです」(新潮CD「小林秀雄講演」第三巻『本居宣長』)と、話している。
その「いきさつ」の始めとして、小林氏は、折口信夫氏の大森のお宅を訪ねた時のことを、
「今、こうして、自ら浮び上がる思い出を書いているのだが、それ以来、私の考えが熟したかどうか、怪しいものである。やはり、宣長という謎めいた人が、私の心の中にいて、これを廻って、分析しにくい感情が動揺しているようだ。物を書くという経験を、いくら重ねてみても、決して物を書く仕事は易しくはならない。私が、ここで試みるのは、相も変らず、やってみなくては成功するかしないか見当のつき兼ねる企てである」(新潮社刊「小林秀雄全作品」第27集p.26)
と、「分析しにくい動揺する感情」で振り返り、それを書こうという、成功するかしないか見当のつき兼ねる「企て」を試みる、と宣言する。
そして、その「書く」ということは、「宣長自身にとって、自分の思想の一貫性は、自明の事だったに相違なかったし、私にしても、それを信ずる事は、彼について書きたいという希いと、どうやら区別し難いのであり」(同第27集p.40)と、「宣長の思想の一貫性を信ずる事」でもあると、小林氏は言う。そして、第二章の最後では、
「要するに、私は簡明な考えしか持っていない。或る時、宣長という独自な生れつきが、自分はこう思う、と先ず発言したために、周囲の人々がこれに説得されたり、これに反撥したりする、非常に生き生きとした思想の劇の幕が開いたのである。この名優によって演じられたのは、わが国の思想史の上での極めて高度な事件であった」。「宣長の述作から、私は宣長の思想の形体、或は構造を抽き出そうとは思わない。実際に存在したのは、自分はこのように考えるという、宣長の肉声だけである。出来るだけ、これに添って書こうと思うから、引用文も多くなると思う」(同第27集p.40)。
そう言って、「湊入りの 葦別け小舟 障り多み 我が思ふ君に 逢はぬころかも」(「万葉集」巻第十一)と「『万葉』に、『障り多み』と詠まれた川に乗り出した小舟」(同第27集p.41)さながらに、宣長の演じた思想劇を辿り始めたのである。だとすれば、その「いきさつ」を追い、一所懸命に小林氏の文章を読めば、今はまだ、宣長さんに「逢はぬころ」の読者にも、「宣長の思想の一貫性」が見えて来るに違いないし、宣長さんはきっと一人になって現れて来るだろう。それが、氏の「希い」ではないかと思う。
山の上の家の塾では、塾生が自問自答を行うスタイルを続けている。今年度は、いよいよ、それが十二年目となり、小林氏が、「本居宣長」を書くのに費やした年数になった。毎年、思想劇を辿り、いろいろな.自問自答を聞くことは、思いがけない気づきや刺激の連続ではあるが、本居宣長が荻生徂徠から大きな影響を受けていたこと、「彼(宣長)が『物』と呼んだ、その経験的所与の概念」(同第28集p.41)について教えてくれたのは、第三十四章周辺での小林氏による自問自答だ。宣長の「物」の概念というより、むしろ「『物』の経験とはどういうものであったか」(同第28集p.42)は、小林氏の「いきさつ」を追ううえで避けては通れないと思うので、ここにも引用しておきたい。これは、宣長が儒学者である市川匡の問いに答えている箇所である。
「余が本書(『直毘霊』)に、目に見えたるまゝにてといへるは、月日火水などは、目に見ゆる物なる故に、その一端につきていへる也、此外も、目には見えね共、声ある物は耳に聞え、香ある物は鼻に嗅れ、又目にも耳にも鼻にも触れざれ共、風などは身にふれてこれをしる、其外何にてもみな、触るところ有て知る事也、又心などと云物は、他へは触ざれども、思念といふ事有てこれをしる、諸の神も同じことにて、神代の神は、今こそ目に見え給はね、その代には目に見えたる物也、其中に天照大御神などは、今も諸人の目に見え給ふ、又今も神代も目に見えぬ神もあれ共、それもおのおのその所為ありて、人に触る故に、それと知ル事也、又夜見ノ国も、神代に既に伊邪那岐ノ大神又須佐之男ノ大神などの罷ましし事ノ跡あれば、其国あること明らか也(「くず花」下つ巻)」(同第28集p.42)。
その「物」について、小林氏の別の自問自答は、「私達が理解している『意識』という言葉と、宣長が使った意味合での『物』という言葉とを使って、こう言ってみてもよさそうだ、歌とは、意識が出会う最初の物だ、と」(同第27集p.263)と言い、それと一緒に、「悲しみを、悲しみとして受取る、素直な心さえ持っている人なら、全世界が自分一人の悲しみと化するような、深い感情の経験は、誰にでもあるだろう。詞は、『あはれにたへぬところより、ほころび出』る、という時に考えられているのは、心の動揺に、これ以上堪えられぬという意識の取る、動揺の自発的な処置であり、この手続きは、詞を手段として行われる」(同第28集p.58)という、「言辞の道」を教えてくれた。
荒唐無稽に見える「古事記」を受け入れることは、決してやさしいことではないし、「本居宣長」を一所懸命に読んでも、なかなか「一人の宣長さんが現れて来る」ものでもない。しかし、様々な自問自答に触れ、第五十章を繰り返し読んで、おぼろげに見えて来たのは、「世をわたらう上での安心という問題は、『生死の安心』に極まる」(同28集p.194)こと、死こそ、極めつけの「『物』の経験」をさせる「可畏き物」ではないか、ということだった。それなら、「古事記」にある「神世七代」の物語も、やはり、「言辞の道」の先にある「物」だと言えるのである。
死という「『可畏き物』に向い、どういう態度を取り、これをどう迎えようかという想いで、一ぱいだった」(同第28集p.201)古人たちが、「事物に即して、創り出し、言葉に出して来た、そういう真面目な、純粋な精神活動」(同第28集p.208)をしてきたことについて、小林氏は、次のように言っている。
「宣長は、『雲隠れの巻』の解で、『あはれ』の嘆きの、『深さ、あささ』を言っているが、彼の言い方に従えば、『物のあはれをしる情の感き』は、『うき事、かなしき事』に向い、『こゝろにかなはぬすぢ』に添うて行けば、自然と深まるものだ。無理なく意識化、或いは精神化が行われる道を辿るものだ、と言う。そういう情のおのずからな傾向の極まるところで、私達は、死の観念と出会う、と宣長は見るのである」(同第28集p.198)。
「そういう人々の意識は、悲しみの極まるところで、いよいよ鋭い形を取ったであろう。それが、無内容とも見えるほど純化した時、生ま身の人間の限りない果敢無さ、弱さが、内容として露わにならざるを得なかった。宣長は、そのように見た。『源氏』論に用意されていた思想の、当然の帰結であった、と見ていい」(同第28集p.201)。
「其処に、彼は、先に言ったように、人々が、その限りない弱さを、神々の目に曝すのを見たわけだが、そういう、何一つ隠しも飾りも出来ない状態に堪えている情の、退っ引きならぬ動きを、誰もが持って生まれて来た情の、有りの儘の現れと解して、何の差支えがあろうか。とすれば、人々が、めいめいの天与の『まごころ』を持ち寄り、共同生活を、精神の上で秩序附け、これを思想の上で維持しようが為に、神々について真剣に語り合いを続けた、そのうちで、残るものが残ったのが、『神世七代』の物語に他ならぬ、そういう事になるではないか」(同第28集p.202)。
そして、そのような古人達の「精神活動」の性質を明らめるのには、
「この活動と合体し、彼等が生きて知った、その知り方が、そのまま学問上の思惟の緊張として、意識出来なければならない。そう、宣長は見ていた。そういう次第なら、彼の古学を貫いていたものは、徹底した一種の精神主義だったと言ってよかろう。むしろ、言った方がいい。観念論とか、唯物論とかいう現代語が、全く宣長には無縁であった事を、現代の風潮のうちにあって、しっかりと理解する事は、決してやさしい事ではないからだ。宣長は、あるがままの人の『情』の働きを、極めれば足りるとした」(同第28集p.209)、と結論するのである。
そういう次第なら、「一人の宣長さん」に逢うのに、彼とは無縁の「観念論とか、唯物論とかいう」傍観的な現代語は役に立たないだろう。宣長は、作者達の精神「活動と合体し」、「あるがままの人の『情』の働きを、極め」た。それなら、私たち読者も同じように、小林氏の「企て」と合体し、生ま身の人間として、あるがままの読者の「情」の働きを、極めれば、「一人だけの宣長さん」に逢うのに足りるはずである。小林氏も、そうして、宣長と一体になったに違いないからだ。
(了)