小林秀雄に学ぶ塾 同人誌
発行 令和六年(二〇二四)十月一日
発行人 茂木 健一郎
発行所 小林秀雄に学ぶ塾
副編集長
入田 丈司
副編集長・Webディレクション
金田 卓士
編集顧問
池田 雅延
小林秀雄に学ぶ塾 同人誌
発行 令和六年(二〇二四)十月一日
副編集長
入田 丈司
副編集長・Webディレクション
金田 卓士
編集顧問
池田 雅延
今号も、荻野徹さんによる「巻頭劇場」から幕を開ける。いつもの男女四人の対話は、元禄期の三代文豪の一人である近松門左衛門の人形浄瑠璃「曾根崎心中」を観てきた、江戸紫の似合う女が口火を切る。彼女によれば、太夫と三味線と人形遣いが一体となって魅せる浄瑠璃の演目もさることながら、近松が遺した辞世がまた面白いのだという。はたして、何がいいのか? そこに、「本居宣長」を熟読中の四人は何を思ったのか?
*
「『本居宣長』自問自答」には、松広一良さん、越尾淳さん、森本ゆかりさん、そして入田丈司さんが寄稿された。
松広さんは、中江藤樹の学問に向かう態度に関する熊沢蕃山の言葉を受けて、小林秀雄先生が書いている「書を読まずして、何故三年も心法を練るか。書の真意を知らんが為である」という言葉を熟視した。そのうえで、「心法」、「読む」という言葉について、それぞれ、小林先生の他の作品とも向き合い、先生がその一文に込めている深意をくみ取ることに努めた。その成果がここにある、じっくりと味読いただきたい。
越尾さんは、伊藤仁斎、荻生徂徠、本居宣長といった学問上の「豪傑」たちのことを思い続けるにつけて、彼らが世界を席巻しているK-POP(韓国のポピュラー音楽)グループのような「かっこいい」存在に感じられてきた、と言う。彼らは、なぜかっこいいのか。その理由は、「豪傑」たちの、当時の「常識」をはるかに超越した学問上の態度にあった。はたして、その態度とは? 越尾さんの語るところに耳を傾けてみよう。
前号に続き寄稿された森本さんの自問自答は、宣長が「模俲される手本と模俲する自己との対立」をどのように受け入れ、自分のものにしたのだろうか、という疑問から始まった。事前に相談をした池田雅延塾頭からは、「対立とは何か」をしっかり押さえること、本文中の抽象的な言葉も、具体的な言葉に落とし込み、著者のいいたいことの肝心要を自得すること、というアドバイスを得た。それは、自身の読書も含め、日常生活上のヒントにもなったようだ。
入田さんが熟視しているのは、「誠に『物のあはれ』を知っていた式部は、決してその『本意』を押し通そうとはしなかった。通そうとする賢しらな『我執』が、無心無垢にも通ずる『本意』を台なしにして了うからである」という小林先生の言葉である。さらに先生は、宣長が言うところの「よろずの事にふれて、おのずから心が感」いた経験を「高次な経験に豊かに育成する道はある」と言っている。新たな自問が生まれた、「高次な経験」とは何か?
*
ここで、今号の「『本居宣長』自問自答」に寄稿された皆さんが、主として熟視された言葉を、今一度振り返ってみたい。松広さんは「心法」と「読む」、越尾さんは「豪傑」、森本さんは「対立」、そして入田さんは「高次の経験」という言葉である。それぞれの言葉に向き合った皆さんの文章を読んでいると、その一言一言に、小林先生がどれだけ心血を注ぎ、深意を込めたのかが、肌感覚として伝わってくるようだ。もちろん、そこに到るまでに、寄稿者の皆さんがじっくりと向き合った、長い時間があったことは、言うまでもない。
そんなことを思っていると、小林先生が、読書について、このように述べている件を思い出した。
「読書百遍という言葉は、科学上の書物に関して言われたのではない。正確に表現する事が全く不可能な、又それ故に価値ある人間的な真実が、工夫を凝した言葉で書かれている書物に関する言葉です。そういう場合、一遍の読書とは殆ど意味をなさぬ事でしょう。そういう種類の書物がある。文学上の著作は、勿論、そういう種類のものだから、読者の忍耐ある協力を希っているのです。作品とは自分の生命の刻印ならば、作者は、どうして作品の批判やら解説やらを希う筈があろうか。愛読者を求めているだけだ。生命の刻印を愛してくれる人を期待しているだけだと思います。忍耐力のない愛などというものを私は考える事が出来ませぬ」(「読書週間」、新潮社刊「小林秀雄全作品」第21集所収)。
私たち「小林秀雄に学ぶ塾」の塾生による、「本居宣長」精読十二年計画も最終年度に入り、いよいよ年度としての第二コーナーを回ったところまで来た。残すところ、あと六か月である。ここで改めて、小林先生が言うところの忍耐力のある愛読者として、「本居宣長」という作品に、そこに登場する「豪傑」たちに、そして小林秀雄という大先達に向き合い、最終ゴールのテープを切るまで、集中力を保ち力強く走り続けることを、ここで改めて誓い合いたい。
(了)
第三十章上日本人の宿命的言語経験
1
今回から、第三十章である、次のように書き出されている。
――既に触れたが、「古事記」撰録の理由は、その「序」に明記されているのだが、「古事記伝」に見られる宣長の解に従って、ここでもう一遍註釈風にまとめてみよう。……
そして、言われる、
――天武天皇の修史(歴史書の編修/池田注記)の動機は、尋常な、実際問題に即したものであった。即ち、諸家に伝えられた書伝えの類いは、今日既に「正実ニ違フ」ものとなっているので、その「偽リヲ削リ、実ヲ定メテ」これを後世に遺さねばならぬというのであった。……
この条は、先に第二十八章に、「そこで、『記の起り』についてだが、これは宣長の訓みに従って、『序』から引いて置くのがよいと思う」と前置きして、次のように言われていた。
――「是に天皇詔りしたまはく、朕れ聞く、諸家のもたる所の、帝紀及び本辞、既に正実に違ひ、多く虚偽を加ふと。今の時に当りて、其の失を改めずば、未だ幾ばくの年をも経ずして、其の旨滅びなむとす。斯れ乃ち、邦家の経緯、王化の鴻基なり。故れ惟れ帝紀を撰録し、旧辞を討覈して、偽りを削り、実を定めて、後葉に流へむとすとのたまふ。……
「もたる」は持ってきて差し出す、「帝紀」は歴代天皇とその関連事項の記録、「本辞」は一般的事項の伝承、であり、
「邦家の経緯」は国家の基幹、「王化の鴻基」は天皇政治の基礎、「討覈して」は、詳しく調べて、であるが、第三十章で言われる「諸家に伝えられた書伝え」とは、主には当時の名家旧家に写本の形で伝わっていた「帝紀」や「本辞」であり、そこには家々の家譜、すなわち「私家の立場で記された歴史」も混じっていただろうが、当然と言えば当然のことに家譜は今日風に言うなら「手前味噌」や「我田引水」にも走って「正実ニ違フ」ものとなっていただろう、天武天皇は家々から差し出されたそれらについての報告を受けて、「諸家に伝えられた書伝え」の「偽リヲ削リ、実ヲ定メテ」後世に遺そうとした、とまずは解されるのである、だが、それだけではなかった。
――私家の立場を離れ、国家的見地に立って、新しく修史の事を始めねばならぬという考えは、「日本書紀」の場合と同じであったが、この書伝えの失が何によって起ったか、従って、これを改めるのには、どうしたらよいかという点で、「古事記」撰録の場合、更に特別な考え方が加わっていた。……
「日本書紀」は、「古事記」に先立つこと八年、天武天皇の第三皇子、舎人親王が主裁して養老四年(七二〇)に成った日本最初の勅撰の歴史書である。「漢書」「後漢書」など中国の正史(国家によって編纂された正式の歴史書/池田注記、『大辞林』による)に倣い、日本の正史たる「日本書」を目指して編まれていた。
ところが、その「日本書紀」にも「書伝えの失」の痕はあった。初歩的な「失」としては誤字脱字など書写者の過失があり、次いでは故意の舞文もあったであろう、しかし、天武天皇自らが見分して狼狽し、焦燥を覚えた「失」、
――それは、「書紀」の編纂者の思ってもみなかった事で、書伝えの失は、上代のわが国の国民が強いられた、宿命的な言語経験に基いていた。……
と小林氏は言い、
――宣長に言わせれば、「そのかみ世のならひとして、万ノ事を漢文に書キ伝ふとては、其ノ度ごとに、漢文章に牽れて、本の語は漸クに違ひもてゆく故に、如此ては後遂に、古語はひたぶるに滅はてなむ物ぞと、かしこく所思看し哀みたまへるなり」という事であった。……
と言う。
2
古代、日本に久しく文字というものはなかったが、近代と言われる今日からすれば一五〇〇年前とも二〇〇〇年前とも想定される古代のある時期、中国から漢字が渡来し、日本人は漢字という文字の羅列に目を奪われるとともに、今日言われる文化文明が中国には豊かに花開いているらしいと推察し、その中国の文化文明も招来しようと漢字漢文の習得に躍起となった、そういう日本の文字文化の発育期を、宣長は「そのかみ世のならひとして、万ノ事を漢文に書キ伝ふ」と言っているのだが、中国から漢字を受け入れた日本人は、その漢字を解読することによって何よりも中国の先進文明を会得しようとし、そこに印されている事柄の意味内容を把握するための手段として和訓(漢字・漢語に対応する固有の日本語をあてて読むこと、「山」をやま、「人」をひと、と読む類)というものを発明したが、漢字漢文解読の最大の動機は中国の先進文明を取得するところにあったから、彼らは和訓を発明するとともに漢文の記述法を正確に体得しようともしただろう、したがって、「諸家に伝えられた書伝え」の日本語は、そういうふうにして体得された漢字・漢文の記述法で書かれていたのである。
ところが、こうして彼らが「万ノ事を漢文に書キ伝」えているうちに、困ったことが起っていた。文字がなかった時代の日本語はすべて話し言葉であった、だが、そういう話し言葉の日本語を漢字漢文に写し取って書き留めるとたちまち表音・表意文字である漢字に引きずられて意味内容が中国風になり、このままでは日本語は消滅してしまうと天武天皇は憂慮し哀しまれたのだと宣長は言っている、「古事記」撰録の理由はこうして完全消滅の危機に瀕していた古代日本語の保持にあった、しかもこの「古事記」の撰録理由、撰録動機は「日本書紀」の編纂者の思ってもみなかった事だったと小林氏は言うのである。
そこをさらに踏み込んでみると、天武天皇が言った「諸家に伝えられた書伝え」の「失」は、漢字が「図形と言語とが結合して生まれた象形文字」(このことは第二十八章で言われている/池田注記)であることによって一文字ごとに字義が対応している、そのため、漢字に移しとられた日本語はそういう漢字の表意性に引きずられて意味内容の文が中国風になり、日本語が日本語として読まれなくなって日本の歴史も日本の歴史ではなくなってしまうというところに急所があった。第二十九章では次のように言われていた。
――口誦のうちに生きていた古語が、漢字で捕えられて、漢文の格に書かれると、変質して死んで了うという、苦しい意識が目覚める。どうしたらよいか。……
この「失」に気づいた天武天皇は、今すぐここを、こここそを正しておかなければ日本の歴史は誤って後世に伝わると直感し、「諸家に伝えられた書伝え」の「偽リヲ削リ、実ヲ定メ」るために国家的事業としての修史を、すなわち歴史書の編修を決意したというのである。しかも、決意しただけではなかった、「偽リヲ削リ、実ヲ定メ」るために、天皇はとてつもない一計を案じた、その一計とは……。
(第四十回第三十章上 了)
十二、泉州万町での好会
連歌師としてのみならず自由と破格の俳諧師として、西山宗因の人気が急騰する一方、古格を破られた側になる、松永貞徳を祖とする貞門俳諧からの手厳しい反発が起きていた延宝二年(一六七四)の八月、宗因は、高野山への参詣を行った。
八月三日、大阪天満を出発、和泉国万町という山里に宿泊した。伏屋重左衛門重賢邸である。さっそく重賢に所望され、こう詠んだ。
いなばもる 里や泉州 万町楽
その重賢とともに高野山へ出立。途中で吉田清章と合流、五日には高野山に入り、弘法大師が入定している奥之院の「御廟をおがみ奉りて、亡親ならびに六親万霊に水を手向、香をひねりて、西方浄土の願後仏出世の暁をいのりて」(「高野山詣記」)、同行三人で俳諧に興じた。
大徳院に二泊し、七日に下山。その後、七世紀半ばに有間皇子が、中大兄皇子と蘇我赤兄に仕組まれ絞殺された藤代御坂をはじめ(*1)、紀三井寺、玉津島神社などを経て、九日には泉州尾崎村の清章邸に到着。二日ほどゆっくりして、俳諧に興じつつ帰阪した。
その高野参詣への往路、老境七十歳の宗因が万町重賢邸に宿泊したとき、同じ敷地の離れに、一人の青年が滞在していた。
その青年は、十一歳で尼崎にあった父母の家を離れた。当時、父は尼崎城主青山大蔵少輔幸成に仕えていた。けっして晴れやかではなかった家庭の事情によったのか、兄弟は散り散りになった。彼は大阪の寺での修行後、十三歳で剃髪、高野山に入り本格的な修行を積んだ。二十三歳の年に山を下り、若くして大阪の別寺で住持となる。翌年には阿闍梨位も得た。しかし数年後、何らかの理由で寺から姿を消した。その後は、奈良の長谷寺や室生山の辺りを彷徨っていたようだ。弟子筋の僧が残した文章によれば、「室生山南ニ、一厳窟有リ。師ソノ幽絶ヲ愛シ、以為、形骸を棄ツルニ堪ヘタリト、乃チ首ヲ以テ、石ニ触レ、脳血地ニ塗ル、命終ルニ由ナク、已ヲ得ズシテ去ル」(「録契沖遺事」)。
青年は死にきれず、その場を去った。彼の名は、契沖である。
ここで、第二章でも触れた彼の家族について、振り返っておこう。父元全は、熊本城主加藤清正の片腕であった下川又左衛門元宣の末子であり、二代目又左衛門となった元真の弟である。契沖は、加藤家改易後、元全が青山幸成公に仕えていた頃に尼崎で生まれたのである。
さて、室生の地を去った契沖が、そこで詠んだ歌をながめて、彼の心持ちを体感しておきたい。
旅にして 今日も暮れぬと 聞くもう(憂)し 室生の寺の 入相の鐘
たれかまた 後も籠りて 独り見む 室生の山の 有明の月
夕闇迫るなか、晩鐘が響きわたる、胸に沁み入る……
夜明けて残る月、自分のような若僧が、同じように一人きりで見入ることになるのだろうか……
彼は、その後再び高野に上ったが、今度はすぐに下山し、山中で出会った、和泉の久井村の辻森吉行邸に滞留した。水戸彰考館(*2)の安藤為章(*3)が記した伝記によれば、「錫を泉州久井里に掛く。山水幽奇を愛し、居ること数歳なり。三蔵を護り悉曇に通ず、旁ら諸宗章疏を窺ひ、十三経に至る。史・漢・文選・白氏文集、跋渉せざる無し」とある。辻森家の書庫には、漢籍や仏典が豊富にあり独習には困らなかったようだ。加えて、悉曇、いわゆるサンスクリット語を表記する梵字にも、高野山におけるのと同様に精励する時間を得たのであろう。
ちなみに、辻森家は、のちに辻井家と改名して今もある。久松潛一氏によれば、井水は清く香気あり、契沖が深く愛したことが改名の理由だという。現在でも、その井戸は「僧契沖遺愛の井戸」(和泉市文化財保護委員会指定)として、丁寧に保存、整備されており、直かに見ることができる。
契沖は、久井の地で五年ほど過ごしたあと、延宝二年、三十五歳の年に万町の伏屋重左衛門重賢邸に転居した。より詳しく言えば、重賢邸内にある養寿庵という離れに住んだ。久松氏によれば、伏屋家を訪れた際に見せてもらった摺物があり(「和泉国池田郡万町伏屋氏圍内契沖法師寓庵幣垣舎(しでがきのや)図」)、このように書かれていた。「(坂口注;契沖)師の祖父元宜下川又佐衛門、加藤家に仕ふ。父元全下川善兵衛、青山家に仕ふ。重賢の祖父一安飛騨守、豊太閤君に仕ふ。父竹麿泉州池田家を嗣伏屋氏と改む。其祖よりのしたしみの因により、師も亦ここに来る」。
重賢の祖父も太閤秀吉に仕えていたのであり、その縁があってこそ契沖は、当地に住むことになったのだ。その摺物には、西山宗因のことも記されている。契沖がいた養寿庵のすぐそばに「梅の屋跡」という庵があり、「梅の屋に西山梅翁遊宿す」と書かれていた。
その宗因は、第八章で触れたように、加藤清正の家臣であった西山次郎左衛門の子であるが、祖父は、大阪夏の陣の豊臣方の勇士、御宿勘兵衛正友と見られている(*4)。野間光辰氏によれば、勘兵衛は、北条氏の重臣に仕えて数々の戦功をあげたあと、いったんは徳川家康の旗下に入ったものの、家康に恨むところあり、一時高野山に身を隠した。その後、越前黄門結城秀康の執りなしにより越前家に召し抱えられ、勘兵衛改め御宿越前と称した。秀康の没後は不遇をかこっていたようだが、東西での風雲急を告げるなかで豊臣方に招かれ大阪に入城、大野主馬治房隊に属した。
慶長二十年(元和元年、一六一五)四月六日、家康は諸大名に出陣を命じ、大阪夏の陣が始まった。大阪城の南側に広がる上町台地一帯で、徳川軍十五万五千、豊臣方五万五千の兵が激突した。岡山口では、大野治房隊が将軍徳川秀忠の本陣近くまで迫る一方、天王寺口では、真田幸村隊が、大御所徳川家康の本陣に突入し、家康をあと一歩のところまで追い詰めた。
しかしながら、御宿越前は、大阪城本丸に乱入した越前勢の旧友、野木右近の手にかかって討死。一方、「日の本一の兵」「日本ニハタメシ(例)ナキ勇士」と絶賛された真田幸村も、力尽き田んぼの畔に腰を下ろしているところを、越前勢の西野久作(仁左衛門)に首を取られた(「慶長見聞書」)。野間氏によれば、「茶臼山の本陣に、真田幸村と御宿越前の首級を実検した家康が、『さてさて御宿めは年の寄たる事かな』といい、また後に『御宿が若き折ならば、あの者などに首をとらるる事にてはなき』と側近に洩らしたそうである。恐らく当時すでに、鬢髭を黒く染めて出陣した斎藤別当実盛(*5)を思わせるような老武者であったことだろう」。
さて、ともかくも当夜は、それぞれの祖が豊臣家と縁の深かった三名が、泉州の一つの敷地に滞在していたことになる。この奇遇については、契沖研究の泰斗である久松氏が、このように述懐している。
「宗因の宿った夜は契沖も宗因と会し、秋の一夜を重賢と三人で語り合ったと想像することも出来る。七十歳の宗因を中心として契沖と重賢とが語り合ったとすればそれは和歌や連歌・俳諧のことであったかも知れず、またあるいは没落した豊臣氏や加藤家に対する追憶であったかも知れぬ。とにかく和泉の山村の静かな秋の一夜のこの好会を想像して、私は無限の感慨を禁じ得ないのである」。
その和泉の山村も、今では開発が進み、養寿庵跡は、泉北高速鉄道の一大ターミナル駅である和泉中央駅から歩いて約十分のところにある。土壁が残り「史跡 契沖養寿庵跡」という石碑が立てられていて、往時を偲ぶことができる。
ちなみに契沖は、その好会の場所で、こんな歌を詠んでいた。
和泉の国いつみのこほり、池田河といふ河の流れ来る岸に、ある人のつくり
おける庵をかりて住みけるころ、その河のいとおもしろく流るる、嶋めいたる
処に梅ありて、月夜ににほひ来けるを読る
夕月夜 梅が香おくる 河風に 岸根の草の 身をぞ忘るる
若くして阿闍梨位も得、住持となった身であったにも拘わらず、三十代半ばの彼にとって、いまだ我が身は岸根の草、すなわち川岸近くに生えてすぐ水に浸かってしまう草のような存在だった。これはけっして謙遜ではなかろう。
十三、松尾桃青
西山宗因は、契沖が滞在していた和泉の山村を経て、高野山への参詣を行った翌年の延宝三年(一六七五)四月下旬、親交が続いていた岩城平藩主、内藤風虎の江戸屋敷に招かれ、約二ケ月間にわたり江戸に滞在し、俳席に招かれた。宗因の東下を心待ちにしていた俳人の田代松意らは、宗因からの発句を掲げて「江戸誹諧 談林十百韻」を制作出版、全国的に大きな反響を巻き起こした。
当時の江戸において、松意一派は「(江戸)談林」と呼ばれており、宗因は発句に敬意を込めたのだろう。ところが、この句をもって「宗因派」による江戸での旗揚げ宣言とみなす誤用が広がり、宗因風がすべて「談林」と呼ばれるようになったことには留意が必要である(*6)。第十一章でも見たように、宗因には、一派を立ち上げようなどというつもりはなく、これは、当時の商業出版の隆盛に周囲の取り巻きが乗じて起きた、意図せざる事象の一つであった。
同年五月には、本所猿江の大徳院で、宗因歓迎の百韻の俳席が催された。発句は主賓の宗因である。
これは「源氏物語」の「若紫」にある「いと尊き大徳なりけり」(「大徳」は高徳の僧の意)を踏まえた句であり、当院の住職、蹤画への表敬の念が込められている。脇(句)は住職が付け、第三以降が続いた。脇は、「宗」と「因」という字面の通り、宗因への尊崇と感謝の気持ちの表明でもあろう。
さてここで、第四を詠んだ桃青という人物に注目しよう。彼こそ、郷里の伊賀から江戸に移住して二、三年目(*7)、三十二歳の松尾桃青、のちの松尾芭蕉である。芭蕉は十代の末頃から、藤堂藩伊賀付の侍大将五千石の藤堂新七郎家の嫡子、主計良忠に出仕していた。この良忠が俳諧をたしなみ、北村季吟(*8)に師事し蟬吟と号していたことから、芭蕉も俳諧に親しむようになった。ところが、寛文六年(一六六六)、二十三歳のとき、二歳年上の蟬吟が病死してしまう。それがための没頭なのか、翌寛文七年(一六六七)から、季吟編「続山の井」など句集への入集が活発になっていく。季吟は、松永貞徳の直門として「貞門の新鋭」と言われていたほどだから、芭蕉も当初は、貞門風の歌を詠んでいたのである。しかし、そこに変化が現れる。大徳院での宗因歓迎の俳席の連衆として加わったころから、いわゆる談林風の俳諧の傾向が見えるようになる。すなわち芭蕉は、後年、いわゆる蕉風を確立する前までには、貞門風の句や談林風の句を詠んでいたのである。
ここでは、麻生磯次氏による「若き芭蕉」(新潮社)という伝記的物語(*9)を参照しながら、芭蕉の成長の軌跡を、彼が詠んだ句を通じて直かに体感しておきたい。
彼が、若い頃、宗房と号していた時代に詠んだ句がある。
萩が風に吹かれて音を立てている。これこそ秋風が、口移しに伝えた声だろう、という意である。ところで、季吟が季語を集録しつつ付句の心得や発句の作例を示した、俳諧を嗜む者には必携の書「山の井」によれば、「萩は風に応へて声のあなれば、秋風の口まね、定宿などともいひ……」とあり、「あき風の 口まねするや 萩の声」という例句が挙げられている。まさに芭蕉は、師事した季吟の教えを忠実に実践することで、貞門の俳風に追随していたのである。
次に、こんな句を詠んでいた。
楚々とした女郎花の風情に、その美しさに、ただただ心動かされるばかり…… という意である。「我折る」とは、我執を去るという意味の俗語である。僧正遍照の「名にめでて 折れるばかりぞ 女郎花 われ落ちにきと 人にかたるな」(巻第四、秋歌上)を踏まえたうえで、「我折る」という言葉を使い卑俗的なおかしみを醸し出している。ここには、芭蕉の句が貞門風から談林風に一歩進み出した感がある。
宗因と初対面した翌年、延宝四年(一六七六)には、親友山口信章(素堂)と両吟で天満宮奉納百韻を二つ興行した。
「梅」という言葉には、「梅翁」と号した宗因が暗示されている。宗因は言うまでもなく大坂天満宮連歌所の元宗匠であった。見事な梅花に、鶯はもちろん、天満宮となじみ深い牛までも初音の心持ちで鳴くだろう、という意である。梅なら鶯と来るべきところに、牛をもってきた点が談林風を感じさせる。次の信章の句は、紀貫之「古今和歌集」仮名序の冒頭にある「花に鳴く鶯、水にすむ蛙の声を聞けば、生きとし生けるもの、いづれか歌をよまざりける」を踏まえたものである。
芭蕉と信章による両吟の、もう一つの百韻は、こんな発句と脇で始まっている。
信章は、端的に宗因の俳風が俳壇を風靡していると詠んだ。続けて芭蕉も、その俳風に接し、おかげで我々のような者でも、この時を謳歌しているという。麻生氏の言っているように「談林の俳風に対する傾倒ぶりが露骨に示されている」とともに、「宗因の俳風が芭蕉や信章にとって大きな魅力であったことが思いやられる」。
このように、貞門風を脱し、宗因風に寄っていた芭蕉であったが、延宝年代の終わりごろから、そこから離れようとする傾向が見てとれるようになる。
延宝八年(一六八〇)に、次のような句を詠んでいる。
蜘蛛よ、どうだい、この秋風が吹くなかで、お前はなんと鳴くのかい? という句意である。「枕草子」にある、蓑虫が逃げ去った親を慕い、秋風が吹くと「ちちよ、ちちよ」と鳴く、という件を踏まえている。麻生氏によれば「黙りこくっているのは蜘蛛だけではなく、芭蕉自身の孤独の姿でもあった。芭蕉は次第に談林の浮華を離れて、真実なものを求めようとしていたのである」。
同じ時期に詠まれた、虫にまつわる句が、もう一つある。
水に落ちた桐の葉に、虫がすがりついていた。ここでも、寄る辺のない虫に自らの姿を重ねたのであろうか。その虫のさまを「旅寝と言ったところに、談林らしい誇張が見られるが、その虫をあわれに思う心が寓せられているのであって、談林特有のふざけたものではない」。
同年の冬に、芭蕉は、江戸市中から深川に住まいを移した。その草庵は、徳川家康が江戸の城下町整備のなかで開削した水路、小名木川が隅田川と合流する辺りにあった。現在は、地下鉄の森下駅もしくは清澄白河駅から十分ほど歩いた住宅地のなか、芭蕉庵史跡展望庭園として整備されている。夜には、ライトアップされた萬年橋と清州橋をともに見ることができる夜景スポットにもなっている。しかしながら当時は、葦などの生えた水辺で、人家もまばらな、わびしい場所だったようである。
その芭蕉庵での隠棲生活について、彼はこんな句を詠んでいた。
月をわび、身をわび、拙きをわびて、わぶと答へむとすれど、
問ふ人もなし、なほわびわびて
「月侘斎」とは、茶人めかした架空の人物であろうが、芭蕉自身を思わせる。また、「奈良茶歌」とは、にぎやかな酒席の歌ではなく、奈良茶漬を食べながら、わびしく口ずさむ歌をいう。「侘テすめ」の「すめ」に、「澄め」と「住め」を掛け、奈良茶歌の歌声が侘しく澄むように、侘に徹して今の境遇に安住せよ、と自らに言い聞かせる句意である。
また、大風がひどく吹く夜があった。海抜が低い土地柄、浸水も気掛かりだった。そこで、こんな句を詠んだ。
外では嵐のなか、門人の李下が植えてくれた芭蕉の葉が、ばたばたと音を立てている。庵のなかでは雨漏りの水が、用意した盥に、ぽたりぽたりと滴る。「芭蕉は草庵の夜の底にじっと身を沈めて、自分の姿をみつめ、自分をとりかこむ自然の動きに耳を傾けていた」。
このように三十代半ばを過ぎた頃の芭蕉の句に垣間見ることのできる、世俗を離れ孤独に徹しようとする心境、そして、自然の動きにひたすら耳を傾ける態度は、そのまま後年の俳風にも通じているようには感じられないだろうか。
う(憂)き我を さびしがらせよ 閑古鳥
閑さや 岩にしみ入る 蝉の声
さて、ここまで、芭蕉が松永貞徳や北村季吟ら貞門に学び、西山宗因に学び、いよいよ自身の本領を発揮せんとする入口に立つまでの軌跡を振り返ってきた。ここで、保田與重郎氏が紹介している「往時の俳諧師の考へた、俳諧変遷史についての思想を云うに適した文章」(*10)があるので、引いておきたい。
「(松永)貞徳亡後(松永)維舟(北村)季吟両氏、先師の風体を弥ほどこす(中略)(安原)貞室松賢両士洛に居て貞徳伝来の誹諧より他事なく専ら行ひければ、此門に遊ぶ誹士あまたなりしに、(中略)摂州大坂に西山宗因といへる豪傑の士出て、連歌を里村家に学び、誹諧は(山崎)宗鑑が遺風を慕ひ、自分の風流を潤色して専ら行ふ、その後武州に下向し、談林軒(田代)松意といへる誹士の方に寄宿して大に行ふ、松意が軒号より思ひ付、仏家の檀林に附会して、これを世俗談林誹諧といふ、武江此一風に流行す。亦摂州に戻り大にふるふ。既に後水尾院にも、貞徳流を遊されしかども、談林風のさかんなりしを、ゑいりよにかけさせられ、いでや談林の誹諧を遊しける。(中略)ここにおいて貞徳流の古風を荒廃して、誹諧宗因に一変す。宗因門人に井原西鶴といへる英雄有りて、一日に二万三千句独吟す。談林かく盛んに成し時、桃青といへる誹士(中略)宗因が行ふ所の談林の当風になびき居て、ほどなく工夫をこらし、悟道して、当流をうとみ、季吟門人なれども、古風にもよらず、発明して一派を行ふ。都会の人々次第にここに集り門人市をなす。芭蕉洞の庵なるを、世人終に芭蕉庵と号し、亦芭蕉翁と称し、東府に盛なりし宗因の弘めし談林誹諧大におとろ(衰)ふ」(八文字屋瑞笑「俳論. 卷之1-3 / 秋月下白露 編輯」早稲田大学図書館蔵)。
天和二年(一六八二)、芭蕉が三十九歳、西鶴が四十一歳の春、宗因は逝った。しかし、どこでどう逝ったのか、精しいところは不明なようだ。今も、大阪市の天満からほど近い兎我野町の西福寺にお墓はある。ただし墓石には、息子の宗春らの名前と合わせるかたちで「実省院円斎宗因居士」という法名が表に刻まれており、宗因が実際に大阪で亡くなりこの地で眠っているのかどうか、定かではない。私はその墓前に立ち、居所を定めず「一生旅程雲水」のごとき七十八年の生涯を貫いた、「肥後牢人」西山宗因らしいお墓だと感じ入った。
(*1)宗因は、前章で紹介した「肥後道記」のなかで、有間皇子が紀伊への護送中に詠んだ歌を踏まえた歌を詠んでいる。
(*2)明暦三年(一六五七)、徳川光圀が「大日本史」編纂のために設立した施設。
(*3)江戸前期の儒学者、国学者。万治二年(一六五九)~享保元年(一七一六)。
(*4)野間光辰「宗因と正方」、「談林叢談」岩波書店
(*5)平安末期の武将で保元・平治の乱で活躍、源平合戦のはじめ木曽義仲と戦い壮絶な死を遂げた。
(*6)第一章で便宜的に「談林派」と記載しているが、事情の詳細は本文に記した通りである。
(*7)芭蕉の東下の時期については、諸説ある。
(*8)江戸前期の歌人・俳人・和学者。寛永元年(一六二四)~宝永二年(一七〇五)。
(*9)麻生氏には、「既に研究ずみの材料を土台にして、生き生きとした芭蕉の姿を刻み上げようとした」「物語ではあるが虚構の物語ではなく、従来の芭蕉の研究を吟味した上で、自由に構想をめぐらした」「芭蕉物語」という著作がある。「若き芭蕉」は、同様の手法によって「芭蕉が真に芭蕉らしくなり、蕉風を樹立するまでの苦悩を描こうとした」作品である。
(*10)保田與重郎「芭蕉」、講談社学術文庫
【参考文献】
・小林秀雄「本居宣長」、新潮社刊「小林秀雄全作品」第二十七集所収
・久松潛一「契沖」、「人物叢書」吉川弘文館
・北川央「大阪城をめぐる人々」創元社
(つづく)
【(承前)丸山論文に沿って その五 徂徠の「歴史意識」】
前回の小文において、徂徠の「歴史意識」についてより精しくしたいと私は述べたが、早速今回は、この「歴史意識」のことから書きたいと思う。前回「歴史意識」について述べるにあたって、丸山眞男氏が徂徠をどう読んだかについては、氏の論文から引用したが、肝心の徂徠の原文については、触れていなかったので、まずは徂徠の言葉に耳を傾けることから始めたいと思う。
――それ古今は殊なり。何を以てかその殊なるを見ん。ただそれ物なり。物は世を以て殊なり、世は物を以て殊なり。けだし秦漢よりして後は、聖人あることなし。然れどもまたおのおの建つる所あり。ただその知、物に周からず。聖人なき所以なり。然りといへども、すでに物あれば、必ずこれを志に徴してその殊なるを見る。殊なるを以て相映じて、しかるのち以てその世を論ずるに足る。しからずして、一定の権衡を懸けて、以て百世を歴詆するは、また易易たるのみ。これ己を直くしてその世を問はず。すなはち何ぞ史を以てなさん。故に今を知らんと欲する者は必ず古に通じ、古に通ぜんと欲する者は必ず史なり。史は必ず志にして、しかるのち六経ますます明らかなり。六経明らかにして、聖人の道に古今なし。それ然るのち天下は得て治むべし。故に君子は必ず世を論ず。またただ物なり。(岩波書店刊『日本思想大系36荻生徂徠』「学則」p.193)
これは、徂徠の「学則」からの引用である。徂徠の「歴史意識」をより精しくしたい私としては、徂徠の書いた一節を省かずにおきたく、このように引用したが、丸山氏が引いているのは下線を付した箇所のみである。まずは丸山氏の論文に沿って、下線部分を軸に考えてみよう。
この一節で重要な語は「殊」である。前回稿で、丸山氏が徂徠の「歴史意識」について述べた際に、私はその「歴史意識」とは「古代と現在とが全く異なるものであるという認識のこと」であると書いた。それをここでも繰り返したいのだが、徂徠にとって、あらゆる「世」すなわち時代で、「物」は、「殊」すなわち特殊なものであり、これが何よりの大前提なのである。「志」とは、丸山氏の注釈によれば、「誌即ち記録」、『日本思想大系36 荻生徂徠』の注釈によれば、「広義的には記録・文献、狭義的には史書で文物制度を事項別に記した篇」のことであり、「志に徴して」、すなわち各時代の記録を見ることで、時代ごとに制度文物が「殊なる」ことは明らかではないか、と徂徠は言っている。それにもかかわらず、「一定の権衡を懸けて、以て百世を歴詆」しようとするとは何と浅はかなことか、「易易たるのみ」という徂徠は呆れているが、その相手は、「理」によって万物を説明せんとする朱子学派であるというのは、これまで見てきた通りである。「殊」を捉えることが「史」を捉えることだと徂徠は言いたいのであり、それが丸山氏の言葉を借りれば「歴史意識」だと言えよう。
この「学則」の一節を踏まえ、徂徠の別の著作「答問書」と合わせて、丸山氏は次のように言う。
――彼が歴史においてなにより求めるのは「事実」である。従つて「朱子流の理窟」を「古今の事跡の上へおしわたし」、「事実に構はず、只聞済よき様にと心懸」ける如き非実証的な態度は峻厳に拒否されねばならぬ。徂徠が儒教の古典としての六経について主観の混入を排したことは既に縷説した如くである。それは聖人と聖人の道を信仰にまで絶対化したことの反面であつた。しかるにこの実証的精神はここに儒教古典の範囲を超えて一切の歴史的事象にまで拡張されるに至つた。(東京大学出版会刊『日本政治思想史研究』「近世儒教の発展における徂徠学の特質並にその国学との関連」p.101、なお以下では単に「第一論文」と表記)
歴史を正しく見るとは、「殊なる」事実が時代ごとに現れることの素直な認識である。主観を交えず事実を見ることを、丸山氏は「実証」という語で言い換えているが、その意味で、徂徠の「歴史意識」は「実証的精神」であると言えよう。ここでも前回稿の振り返りも兼ねて書くが、徂徠は「道」の意味を「六経に記された制度文物」という具体的事物に限定し、朱子学の「理」による解釈、概念的な理解をはねのけていた。書かれていることにひたすら目を凝らすのが、徂徠の「古文辞学」である。だから、事物にこだわる「実証的精神」は、そもそも「儒教古典」に対しては当然行われていたのだが、それと同じ向き合い方が「一切の歴史的事象」にまで広げられているところに徂徠の特質があることを、丸山氏は言いたいのである。反対に、「理」を万能とする朱子学は、「理屈から考えるなら現実はかくあるべし」という思惟が先だって、現実を見る目は曇ってしまう。これは「非実証的な態度」と言うべきものになる。
こうした「歴史意識」あるいは「実証的精神」を持った徂徠の学問はどうなるのか。
――徂徠において元来「学とは先王の道を学ぶを謂ふなり。先王の道は詩・書・礼・楽にあり。故に学の方も亦詩書礼楽を学ぶのみ」(弁名下)であるべき筈であるのに、いまや「一定の権衡」乃至「道理」の覊束から徹底的に解放された精神は、「見聞広く事実に行わたり候を学問と申事に候故、学問は歴史に極まり候事に候」(答問書上)といひ、「学問は只広く何をもかをも取入置て、己が知見を広むる事にて候」(同上)といふ言葉となつて、彼の学問的関心をも無限の曠野に駆り立てるのである。(「第一論文」p.102)
前回稿まで追ってきた徂徠の学問は、「六経」(この引用箇所では、「詩書礼楽」と書かれている)という「先王の道」が記されたものに限定されていた。朱子学においては、「理」によって全てのことを語ってしまおうとするので、このように学問対象を限定する必要ははなから存在しなかったわけだが、徂徠はそうではなく、「道」の学問は、あくまで経典という古文辞と向き合う、それ以上のものになり得ないのだ。これが、丸山氏の言い方では、「元来」の徂徠学なのだが、そこで終わらない。これまで述べた徂徠の「歴史意識」が、先王がすでにいなくなってから後の、あらゆる時代の「殊なる物」について、「広く」見て知ろう、考えようとする。このとき、朱子学流の「理」などのように、彼を縛るものは何もない、そのことが「無限の曠野に駆り立てる」という喩えで表されている。「実証的精神はここに儒教古典の範囲を超えて一切の歴史的事象にまで拡張されるに至つた」という先の引用と同じことが、ここで再度言われているのである。
【丸山論文に沿って その六 徂徠学の「公私の分裂」】
以上のように、徂徠の学問が、「道」だけに限られないことが示され、丸山氏は続ける。
――聖人の道を一切の対立から超越せしめたことは、はしたなくも彼(本多注:徂徠)の学問対象をして、直接治国平天下を目指す経学の方面と、「見聞広く事実に行わたり」、「只広く何をもかもを取入れん」とする方向とに分岐せしめるに至つたのである。われわれは前者を公的な側面、後者を私的な側面と呼び、進んでその意味を追究することによつて、かかる公私の分岐が実は徂徠学全体を貫く根本的性格なる所以を明かにしよう。(「第一論文」p.102-3)
「徂徠学における公私の分岐」というのが、ここから先、丸山氏の最も強調したいところであり、「第一論文」においてこれまで描かれてきた徂徠像の仕上げの一筆になることが窺える。ここで、公私とは何を表しているのか、これまでの丸山氏の論を振り返りつつ、精しくしよう。
上の一節で「公的な側面」とされているのは「直接治国平天下を目指す経学の方面」のことである。「経学」は、その字が示す通り、「六経」についての学問である。「六経」に記されているのは、動かすことのできない「聖人の道」であり、その本質は「治国平天下」に限られる。そして、この「道」は、現代にそのまま適用できる「規範」ではなく、「一切の対立から超越」した絶対的な「存在」である、丸山氏の言い方に沿えば「ゾルレン」ではなく「ザイン」である、というのが前回稿までの確認である。
一方で、「私的な側面」とされているのは何か。それは、経学以外の全ての学問のことであると言ってよいだろう。すでに述べた通り、徂徠の学問的関心は、時代時代で「殊なる」あらゆる事実、一言で言えば「歴史」に及ぶ。「道」を明らかにしようとしても、歴史を知ることにはならない。歴史を学ぶには、「見聞広く」「只広く」という態度が必須である。仮に、道を知ることすなわち歴史を知ることだと言ってしまえば、それは朱子学流の「理」万能主義への安直な回帰になってしまう。こうして、丸山氏は、ここで徂徠学における「公私の分岐」を明言するのである。
――道の外在化によつて一応ブランクとなつた個人的=内面的領域を奔流の様に満すものは、朱子学の道学的合理主義によつて抑圧された人間の自然的性情より外のものではありえない。(「第一論文」p.109-10)
「道の外在化」とは、「道」は中国古代のある一時期にのみ現れた、偉大な存在であり、それゆえに現代の人間に対して、何ら直接の規範にならないという意味で、先の引用における「超越」と重なる。それゆえ、万物の運動から人間の内心までを通貫する朱子学の「理」のような窮屈なものは存在しなくなり、人間の内面は「ブランク」すなわち空白、完全に自由の状態となる。そこを満たすのは「人間の自然的性情」のみである、と丸山氏は言う。
ここまで踏まえれば、丸山氏がとりわけ力を込めて書いた、以下の一節は、もはや細かな注釈がなくとも、言うところを明らかにして聞き取れよう。
――かくて徂徠学における公私の分裂が日本儒教思想史の上にもつ意味はいまや漸く明かとなつた。われわれがこれまで辿つて来た規範と自然の連続的構成の分解過程は、徂徠学に至つて規範(道)の公的=政治的なものへまでの昇華によつて、私的=内面的生活の一切のリゴリズムよりの解放となつて現はれたのである。(「第一論文」p.110)
【問いを精しくする】
さて、ここで一度立ち止まりたい。丸山氏は徂徠学に「公私の分裂」を見た。そこに至るまでの道程を追ってきた一読者としては、その鮮やかとも言える論理に、なるほどと思わされる。ただ同時に、次ようにも思うのである。この「分裂」は徂徠自身には「分裂」と意識されていただろうか。
もう一度、冒頭で少し長く引いた「学則」からの引用を読んでみよう。丸山氏の、公私の分裂という結論に向かう論理の筋から一度外れて、以下の部分を見つめ直したい。すでに引いた箇所だが、繰り返す。
――故に今を知らんと欲する者は必ず古に通じ、古に通ぜんと欲する者は必ず史なり。史は必ず志にして、しかるのち六経ますます明らかなり。六経明らかにして、聖人の道に古今なし。それ然るのち天下は得て治むべし。故に君子は必ず世を論ず。またただ物なり。
この「今を知る」と「古に通ずる」ということの、複雑な絡み合いとでも表現したくなる言い回しが、徂徠の本心であるという気がする。つまり、公私の学問それぞれの両極にまっすぐ向かっていくような、単純な分裂ではないのではないかと、私には感じられる。このことは、たとえば丸山氏も、徂徠が私的領域である詩について述べている箇所で、「詩によつて人情を知ることは先王への道への必須の道程だ、といふ様に、結局先王の道へ関係づけられてゐる」(「第一論文」p.111)と書いていることから、公的な領域と私的な領域が、全く無関連であるとはそもそも書かれていない。とはいえ、やはり論文全体の主眼は、徂徠学が公私に分裂していることを強調する方に向いていることは否めない。
ここまで「第一論文」から引いてきたのは、「第三節 徂徠学の特質」であったが、その次節「第四節 国学特に宣長学との関連」の中に、次の一節がある。
――しかし蘐園学派そのものに於ても、もはや徂徠学以上の理論的発展は見られなかつた。それどころか、蘐園がその黄金時代を誇つた頃、すでに、外面的な隆盛の蔭には徂徠学の分裂が進行してゐた。(「第一論文」p.142)
「蘐園学派」とは、荻生徂徠の門下生たちの総称である。朱子学が官学として幅を利かせていた時代に、荻生徂徠はいわば私学の雄として注目を集め、丸山氏の表現を借りれば、「思想界に絶大な共鳴を呼んだ」のであるが、そうとなれば、当然、彼に入門を請う者も多く、「当時第一流の俊才を以て目すべき人物」たちが蘐園学派を構成した。しかしながら、彼らが徂徠に次ぐ「理論的発展」を見せることはなく、むしろ彼らによって「徂徠学の分裂」が進んだ、と丸山氏は言うのである。具体的には、
――徂徠学の分裂はまづ人格的な分裂として表面化したのである。徂徠学の公的な側面と私的な側面は蘐園門下において夫々異つた担ひ手を見出すこととなつた。(「第一論文」p.143)
とあり、前者の例に太宰春台、後者の例に服部南郭などの学者の名前が挙がり、この春台と南郭の「喰ひ違ひ」の例が示されるのだが、ここではそれを深追いしない。ここで言いたいのは、丸山氏は、徂徠の学問において生まれた公私の分裂が、蘐園門下の分裂となって表出する様を描き出しているということだ。そしてこれは、反対の見方をすれば、次のように言えまいか。蘐園学派の分裂という明らかな事象から遡って、その契機が徂徠の思惟にすでに胚胎していた、という筋道を立てるために、先に第三節において徂徠学における「公私の分裂」を殊更に強調していた、それが丸山氏の意図なのではないか。
この観点で翻ってみると、先に引用した一節の中に、「われわれがこれまで辿つて来た規範と自然の連続的構成の分解過程」と記されている箇所がある通り、丸山氏は、論文全体の構成において、朱子学から徂徠学、そしてさらに後続の学問へ、という一連を「分解過程」として描いているのであった。それならば、徂徠の思惟における公私の分裂の強調は、当然のことであると言える。
ここまで考えて、この論考の中心にある問い、すなわち「徂徠の懐に入り込む」とはどういうことかという問いを、今一歩精しくすることができるように思う。徂徠の思惟に、丸山氏が「公私の分裂」と表現した性格があることは認めたうえで、むしろそうした性格を孕みながらも、その複雑さが保たれていること、そこにあるはずの徂徠の心中の努力を、私は想いたい。丸山氏は、徂徠学の分裂した性格にもかかわらず、それが徂徠自身においてはある統一性を持っていた理由として、徂徠学の「体系的統一性が同時に人格的統一性を伴ひうるのは、徂徠の殆んど超人的な博学多識を俟つてはじめて可能だった」と述べている。なるほど「博学多識」も重要な要因には違いなかろうが、私としては、それ以上に、徂徠の精神の緊張状態を想像し、それはいかなるものだったのかと問うていきたいと考えている。
(つづく)
小林秀雄さんの「本居宣長」を読んでゆくなかで、どのように読み取ったらよいのか、考え込んできた箇所がある。まず、その文章を引用しよう。
この評釈で、宣長が出会っているもう一つの困難がある。彼は確かに、「物の哀をしる」とは、いかに深く知っても、知り過ぎる筈のない理想と見極めたのだが、現実を見下す規範として、これを掲げて人に説くという事になれば、嘘になり、空言となる。これも式部がよく知っていた事だ、と彼は解する。だから、「式部が心になりても見よかし」と言うのである。誠に「物のあはれ」を知っていた式部は、決してその「本意」を押し通そうとはしなかった。通そうとする賢しらな「我執」が、無心無垢にも通ずる「本意」を台なしにして了うからである。(新潮社刊『小林秀雄全作品』第27集p.158、8行目~、「本居宣長」第十四章)
小林秀雄さんは宣長の考えに沿い、「誠に『物のあはれ』を知っていた式部は、決してその『本意』を押し通そうとはしなかった。通そうとする賢しらな『我執』が、無心無垢にも通ずる『本意』を台なしにして了うからである」、と書かれている。これは何故なのだろう。
この問題のヒントになるところは、第一には、次の文章ではなかろうか。
「感ずる心は、自然と、しのびぬところよりいづる物なれば、わが心ながら、わが心にもまかせぬ物にて、悪しく邪なる事にても、感ずる事ある也、是は悪しき事なれば、感ずまじとは思ひても、自然としのびぬ所より感ずる也」(「紫文要領」巻上)、よろずの事にふれて、おのずから心が感くという、習い覚えた知識や分別には歯が立たぬ、基本的な人間経験があるという事が、先ず宣長には固く信じられている。心というものの有りようは、人々が「わが心」と気楽に考えている心より深いのであり、それが、事にふれて感く、事に直接に、親密に感く、その充実した、生きた情の働きに、不具も欠陥もある筈がない。それはそのまま分裂を知らず、観点を設けぬ、全的な認識力である筈だ。問題は、ただこの無私で自足した基本的な経験を、損わず保持して行く事が難かしいというところにある。難かしいが、出来る事だ。これを高次な経験に豊かに育成する道はある。それが、宣長が考えていた、「物のあはれを知る」という「道」なのである。彼が、式部という妙手に見たのは、「物のあはれ」という王朝情趣の描写家ではなく、「物のあはれを知る道」を語った思想家であった。(同、第27集p.151、18行目~)
「感ずる心は、自然と、しのびぬところよりいづる物なれば、わが心ながら、わが心にもまかせぬ物」と言う宣長の言葉は、踏み込んで言えば、人の心はことに触れて自然と動き感じてしまうもの、知識や世の習いといった自分の意思では制御できぬもの、ということだろう。それは心の基底を成すものであり、人の内面はそのようにできている、としか言いようのないもの、ということでもあろう。同時に、本来の感ずる心は、先入観を持たずに見通す全的な認識力でもあると、小林秀雄さんは書かれている。
そうであれば、小林秀雄さんが述べるとおり「心というものの有りようは、人々が『わが心』と気楽に考えている心より深い」も得心できるが、この“心の深さ”はどのようにとらえたらよいだろうか。思うに、人は何かを感ずる心の動きを、望遠鏡あるいは顕微鏡で見るように言わば高い解像度で、自ら意識し把握できるのだろうか。私も時に、僕の心は……と独り言を呟くこともあるが、自分の心の内や心の動き(小林秀雄さんが「感き」と表記されているもの)など底の見えない深海のようで、どれだけ見つめても意識で捉えることなどできないのが実感である。誰もが、そう感じていることだろう。そして、その心が動き感ずる時は確かに、生の感覚としか言いようのないものが湧き起こる。ただ、その心の動きは、そのままでは何も形をとっておらず、とても移ろい易い。
心が直接に感じ取ったものに形を与え、意識がそれをしっかりと見定めるには、言葉をはじめ、何らかの表現をおこなうことが必要なのだ。小林秀雄さんが「これを高次な経験に豊かに育成する道はある」と述べているのは、このことであろう。
では、言葉による表現によって、人が心で感じ取ったことや、心の動きが完全な形として見えるようになるだろうか。いや、人の感ずる心の深さは、言葉に書き尽くすことなどできないものだ、と言えるのではなかろうか。例えば、秋の夕焼けとそよ風に自分のこれからを思う心持ちを言葉で表しきれるか、あるいは、初恋でも伴侶でも誰かに惚れた想いではどうか、それは誰もが言葉にしても表しきれないと直観していることだろう。
それは、物語を書くときも、歌を詠む時も、同じことではないか。物語に登場させた人物の心の有り様を描こうと丁寧に言葉を紡ぎ出しても、心の有り様はどこまでも深遠であって、言葉で尽くせるものではないだろう。ならば、宣長の言う「物のあはれを知る道」として、紫式部は物語り、歌人は歌を詠み、と言葉を駆使して描き表しても、やはり言葉で描き尽くせぬものが在り続ける、すなわち「物のあはれを知る」とは「いかに深く知っても、知り過ぎる筈のない理想」ということだろう。そして、紫式部はよくこれを知っていたと宣長は解しているのだ。
そうすると、物語として全てをあからさまに言葉にしさえすれば、より深く「物のあはれを知る」とはならないだろう。書き手としては、どこかで書き表すことをやめ、限られた文章を読み手が味わい、奥深い世界を垣間見ることに委ねる他ないのではなかろうか。それを示すかのように、小林秀雄さんの「本居宣長」の中に次のような文章がある。
なるほど物語には、「もののあはれしり過ぐす」という用例が見られるが、これは、物語という制約の命ずる心理的な用例であって、作者の「本意」は、裏面に隠れて了っているのである。そこに着目し、作者の「本意」を汲めば、「過る」という言葉の意味合は、「よろづの事に、物の哀をしりがほつくりて、けしきばみ、よしめきて、さし過たる事也。それは、誠に物の哀しれるにはあらず。必しらぬ人に、さやうなるが多きもの也」と解すべきものだと、宣長は言う。(同、第27集p.158、2行目~)
ここまで来てようやく、冒頭の問題に対して私なりに読み取った答え、が書けると思う。
紫式部は、「物のあはれを知る」とは、いかに深く知っても知り過ぎる筈のない理想であって、言葉で書き尽くすことなどできないとよく知っていた。それゆえ、式部は『本意』である、「物のあはれを知る」ということについて、「源氏物語」でひたすら書き尽くしたいという思いを、押し通す書き方はしなかった。自分の思いを押し通そうと執着し、書き尽くそうと際限なく綴ったならば、むしろそのことが、先入観なく無垢に物のあはれを書き表そうという『本意』自体を壊してしまうことになる。このことを式部はよく理解していたのだ、と言えよう。
ここまで、「物のあはれを知る」という、知り過ぎる筈のない理想について、精読をしてきた。ここに至って、私には新たな問いが芽を吹き始めている。物のあはれをよく知るために、また読み手に伝えるためには、言葉でどのようにどこまで描くことがよいのだろうか。紫式部は物語の描き方をどのように考えて書き進め、宣長はどのように受けとめたのだろうか。これに対するヒントは、「本居宣長」に散りばめられているように直覚するが、やはり、さらなる読み込みが必要なのは当然である。「本居宣長」を巡る私の旅は、これからも続いてゆく。
(了)
本誌前号(「好*信*楽」2024年夏号)に掲載された「弱さと向き合う」でも触れたように、小林秀雄氏の文章を読む際、「自分の価値観を一切捨てて文章を読む」ということが難しく、なかなか実践できずにいました。
過去に、山の上の家の塾で提出した、自問自答形式の質問について、池田雅延塾頭からご指導頂いたことと、日常生活で私が抱えている問題で改善すべきことが不思議なほどに共通していたため、文章と向き合う時だけではなく、日常生活でも私自身の考え方の癖を直すことで、読書について何か掴めるのではないかと思いました。
令和六年七月七日に行われた、山の上の家の塾に向けて提出した質問は、今、私が直面している子育てにおいて、自分の価値観を通してでしか、子どもと向き合っていなかったことを思い知らされた出来事がきっかけでした。
この出来事を通して、これまで何年も山の上の家の塾で学んできたにもかかわらず、私は、未だに「読書」に近づくどころか、どんどん遠ざかっているようで、本当に情けなくなり、落ち込んでいた時、塾頭から「第一章から第十五章でも、自問自答がさらに整えられるなら追加してお送りください」という内容の言葉を頂きました。偶然頂いた言葉ですが、この章の中に、今の私に必要な学びがあるのだと直感し、対象章を読み進めてみると、今回の質問として提出した「模される手本と模俲する自己との対立」(新潮社刊「小林秀雄全作品」第27集p.122)の一文が気になりました。
宣長さんは「模俲される手本と模俲する自己との対立」をどのように受け入れ、自分のものにしたのだろうと思い、次のような質問を提出しました。
――「模俲される手本と模俲する自己との対立、その間の緊張した関係そのものが、そのまま彼等の学問の姿だ。古書は、飽くまでも現在の生き方の手本だったのであり、現在の自己の問題を不問に附する事が出来る認識や観察の対象では、決してなかった」について質問です。「模俲される手本と模俲する自己との対立」と、宣長はどのように向き合ったのでしょうか。
「彼は、どんな『道』も拒まなかったが、他人の説く『道』を自分の『道』とする事は出来なかった」とあります。宣長は、自己の生き生きとした包容力と理解力によって、古書と向き合い、「模俲される手本と模俲する自己との対立」によって、現在の自己の問題を知り、己れを知るに至ったのでしょうか。
この質問については、何度か改訂・再提出し第四版で完成となりましたが、完成に至るまで塾頭からご指導いただいたことは、まず「模俲される手本と模俲する自己との対立」を、誰が見てもわかるように、藤樹、仁斎、徂徠、宣長の中から、本文中で言われている内容を踏まえて具体的に説明し、「対立とは何か」をしっかり押さえること。また、私の質問文は、具体性を欠いており、本文で言われている抽象的な言葉をそのまま質問文のなかで使ってはいけない。その言葉の、具体的な中身の理解と説明、わけても著者が言わんとしている肝心要の理解が大切である。そのうえで、
・ 「対立」とは、真似できない個体差、信念の相違である。
・ 徂徠が模俲したものは、古文辞であり、これについて辞書で調べること。
・ 「惣而学問の道は文章の外無レ之候。古人の道は書籍に有レ之候。書籍は文章ニ候。能文章を会得して、書籍の儘済し候而、我意を少も雑え不レ申候得ば、古人の意は、明に候」(「答問書」下、同、p.115)は、徂徠の学問の中心軸であり、この具体的な説明を本文から探し、自答に盛り込むこと。
・ 「過去の人間から呼びかけられる声を聞き、これに現在の自分が答えねばならぬと感じたところに、彼等の学問の新しい基盤が成立した」(同、p.120)は、徂徠が古典を模倣すると言うことであり、これも盛り込むこと。
・ 「彼等の遺した仕事は、新しく、独自なものであったが、斬新や独創に狙いを附ける必要などは、彼等は少しも感じていなかった。自己を過去に没入する悦びが、期せずして、自己を形成し直す所以となっていたのだが、そういう事が、いかにも自然に、邪念を交えず行われた事を、私は想わずにはいられない」(同、p.120)から、私が第三版での質問文に入れていた「自省による批判」と言うことの具体的な説明を探すこと。
以上のように、塾頭に、自答の導き方まで、丁寧にご指導頂き、次の第四版の質問文で完成となりました。
――「模俲される手本と模俲する自己との対立、その間の緊張した関係そのものが、そのまま彼等の学問の姿だ。古書は、飽くまでも現在の生き方の手本だったのであり、現在の自己の問題を不問に附する事が出来る認識や観察の対象では、決してなかった」について質問です。
「模俲される手本と模俲する自己との対立」とは、「近世の訓詁の学の自立と再生とに、最も純粋に献身した学者達」が行ってきた、「自己を過去に没入」し「自己を形成し直す」ということであり、徂徠は古文辞を模俲することによって、「学問は歴史に極まり候事ニ候」「惣而学問の道は文章の外無レ之候。古人の道は書籍に有レ之候。書籍は文章ニ候。能文章を会得して、書籍の儘済し候而、我意を少も雑え不レ申候得ば、古人の意は、明に候」という、歴史を深く知るために、「過去の人間から呼びかけられる声を聞き、これに現在の自分が答え」る努力によって古文辞学を発展させたのでしょうか。
今回の自問自答では、塾頭からご指導頂くまで、古文辞という肝腎要なことが、私の意識には入っておらず、それが何なのか、どういう事なのかの理解もできていませんでした。
「大辞林(三省堂)」で、古文辞、古文辞学の意味を調べてみると「【古文辞】①古代の文章の言葉。②中国で、秦・漢以前の文、盛唐以前の詩の総称。【古文辞学】荻生徂徠が唱えた儒学。宋学を否定し伊藤仁斎の古義学や明の古文辞派の影響を受けつつそれを批判し、中国古代の言語(古文辞)と制度文物の研究によって六経に記載された先王の道を知ろうとするもの。その思想と方法論は本居宣長などの国学に影響を与えた。徂徠学」とあり、古文辞という漢字の中に、これ程、大きな意味があったことを知り感動しました。
今まで「読書ができるようになりたい」と言いながら、自分の狭い価値観の範囲でしか小林氏の文章を読もうとせず、また、知るための努力も全くしていなかったことに、さらには、子育てや日常生活の場でも、同じ姿勢で向き合っており、相手が発する言葉や行動の中には、沢山の意味や背景があるのに、私は自分にとって都合のよい部分だけを切り取り、そこから相手を判断していたことに改めて気づかされたのです。
塾頭から繰り返しご指導頂き、また、この度の「好*信*楽」への寄稿の機会を頂いていたお陰で、第十一章の自問自答を完遂することができました。
貴重な学びの機会を下さり本当に有難うございました。
(了)
昨年の「『本居宣長』自問自答」においては、生成型AI(人工知能)への驚きを契機として、人にとって「考える」こととは何なのかについて考えてみた。このような根本的な問いは答えの出るものではなく、人生をかけて考え続けるものだと思っている。ただ、そうした重い問いと並行して、小林秀雄先生が記した中江藤樹、伊藤仁斎、契沖、荻生徂徠、賀茂真淵、本居宣長といった学問上の豪傑たちのことを思い続けるにつけて、だんだん彼らが世界を席巻するK-POP(韓国のポピュラー音楽)グループのような「かっこいい」存在に感じられてきた。何故彼らはかっこいいのだろう。先回りして言ってしまうと、それは他人や時勢に合わせない、おもねらない、自主独立の道を行ったからだと思う。五十歳を過ぎてもなお、変わっている、天の邪鬼と言われて生きてきた私が彼らに惹かれない訳がない。
と、ややくだけた書き出しになってしまったが、せっかくいただいたこの機会に、彼ら豪傑たちになぜ惹かれるのか、そしてそのかっこよさはどこから来ているのかについて書いてみたい。
当時のいわゆる「学問」とはどのようなものであったか。具体例として、「古今伝授」と言われるものがある。これは「古今和歌集」の読み方や解釈を秘伝として相伝したものだ。当然、当時には録音や録画はないから、口伝や文書で伝えていくしか方法はない。しかし、「古今和歌集」の成立から百年も経つと歌の本文や解釈に疑問が生じ、様々な解釈が行われるようになった。これを、現在の岐阜県郡上市辺りを治めていた東氏の九代当主、常縁が切紙による伝授方法を取り入れた古今伝授の形式を確立したと言われている。
この古今伝授がいかに高い権威を持っていたかを示すのが、以下の戦国時代の逸話だ。東常縁の後、古今伝授はいくつかの流派に分かれるが、慶長年間に細川幽斎が分かれた古今伝授を集大成する。その後、慶長五年(1600)に幽斎は時の智仁親王に古今伝授を始めるが、関ケ原の戦いを控え、幽斎は居城としていた田辺城へ戻る。その城を敵方である石田三成方が包囲した。この時、古今伝授の断絶を恐れた後陽成天皇が勅命を発し、城の包囲が解かれたという。
歴史的なエピソードとしては確かに面白いが、では古今伝授そのものに藤樹らが行った「学問」があったか、と言えばそうではないだろう。古今伝授は、それを行う貴族など高位の者たちが自分たちの特別な地位を保つためのアクセサリーのようなもので、中身ではなく、身につけていること、秘中の秘として代々伝えていくことに重きが置かれていた。
しかし、豪傑たちはそんなことはしなかった。小林先生は言う。
「彼等が、所謂博士家或は師範家から、学問を解放し得たのは、彼等が古い学問の対象を変えたり、新しい学問の方法を思い附いたが為ではない。学問の伝統に、彼等が目覚めたというところが根本なのである。過去の学問的遺産は、官家の世襲の家業のうちに、あたかも財物の如く伝承されて、過去が現在に甦るという機会には、決して出会わなかったと言ってよい。「古学」の運動によって、決定的に行われたのは、この過去の遺産の蘇生である。言わば物的遺産の精神的遺産への転換である。過去の遺産を物品並みに受け取る代りに、過去の人間から呼びかけられる声を聞き、これに現在の自分が答えねばならぬと感じたところに、彼等の学問の新しい基盤が成立した。今日の歴史意識が、その抽象性の故に失って了った、過去との具体的と呼んでいい親密な交りが、彼等の意識の根幹を成していた」(新潮社刊『小林秀雄全作品』第27集119ページ)
ここに記されている豪傑たちの学問上の態度は、官家や博士家のそれとは全く異なるものであることが分かる。子孫や弟子のためなどではなく、客観主義といった分析めいたものもない。自分の内面から湧き上がる使命感に基づき、歴史からの呼びかけに身一つで応じる姿がそこにある。まるで一対一の真剣勝負のような姿が目に浮かぶ。
「ここで既に書いた徂徠の言葉を思い出して貰ってもいいが、彼は、歴史は『事物当行之理』でもなく『天地自然之道』でもないという、はっきりした考えを持っていた。彼に言わせれば、歴史の真相は、『後世利口之徒』に恰好な形に出来上っているものではないのであった。これは、歴史の本質的な性質が、対象化されて定義される事を拒絶しているところにある、という彼の確信に基く。この確信は何処で育ったかと言えば、それは、極く尋常な歴史感情のうちに育ったと言うより他はない。過去を惜しみ、未来を希いつつ、現在に生きているという普通人に基本的な歴史感情にとって、歴史が吾が事に属するとは、自明な事だ。自明だから反省されないのが普通だが、歴史がそういうものとして経験される、その自己の内的経験が、自省による批判を通じて、そのまま純化されたのが徂徠の確信であった、と見るのが自然である」(同、第27集118ページ)
現代に生きる私でも持っている、人として生きていればごく普通の歴史感情が、彼らが学問へ向かって駆動するエネルギーの核となっているということに素直に感動を覚える。それは私自身も彼らと同じ核を持っているならば、彼らの学問をする姿勢を真似ることはできるように思えるからだ。
一方で、同じようなことができた学者が他にたくさんいたわけではない。小林先生の言う豪傑たちが他の学者と違うことができたのはなぜだろうか。そこに豪傑とそうでない人を分ける秘密があるのではないか。
続けて小林先生はこう記している。
「彼等の遺した仕事は、新しく、独自なものであったが、斬新や独創に狙いを附ける必要などは、彼等は少しも感じていなかった。自己を過去に没入する悦びが、期せずして、自己を形成し直す所以となっていたのだが、そういう事が、いかにも自然に、邪念を交えずに行われた事を、私は想わずにはいられない。彼等の仕事を、出来るだけ眼を近附けて見ると、悦びは、単に仕事に附随した感情ではなく、仕事に意味や価値を与える精神の緊張力、使命感とも呼ぶべきものの自覚である事が合点されて来る」(同、第27集120ページ)
誰に強制されたものでもない。名を成したいというものでもない。家業のためでもない。ただただ己の身一つで歴史へ真っ直ぐに身を投じるその自発性や内発性から学びに対する強い使命感が生じ、彼らの身体中が緊張で漲っていながらも悦びに満ちていることが感得される。これこそが凡百の学者連中と豪傑を分けるポイントに違いない。小林先生はそう感じ取ったのではないだろうか。そう思い至ることができたのは、他でもない小林先生自身の歴史との向き合い方が彼らと同じだったからではないか。だからこそ、「私は想わずにはいられない」という強い共感を感じさせる言葉を用いて記されているのではないだろうか。私にしてみれば、小林先生が記した豪傑たちのリストに小林先生ご自身を付け加えたい。
翻って考えてみると、自分の人生における学びというのは、受験であったり、進級であったり、資格取得であったり、就職であったりと何らかの具体的利益を目的として行ってきたことが大半だということに改めて気づき、愕然とする。ただ、小林先生の記すような本来の学問の姿に立ち返っていることがあるとすれば、私にとっては読書がそうかもしれない。
暇つぶしのための読書がないわけでもないが、今までの人生を振り返れば、小林先生をはじめとして、太宰治、三島由紀夫、安部公房、大江健三郎、三浦哲郎……自分は何で生きているのか、どう生きればいいのか、そんな時に手に取った本はその後も何度も手に取って、眺めるともなく読んでいることを思い出す。これらの本の中に「答え」が書かれていないことを私は知っている。しかし、これらの本と素直に向き合うたびに、「人生如何に生きるべきか」という答えの出ない問いとともに、前を向いて生きていく力が湧いてきたことが何度もあった。私にはぼんやりとしかできないこの行為をずっと真剣に、一途に持続して実行できたのが、小林先生の言う豪傑なのではないだろうか。
「本居宣長」の中で、宣長の「源氏」による開眼は、研究ではなく、愛読であったという単純な事実の深さを繰り返し思う、とも小林先生は記している。豪傑たちと同じスタートラインには立てても、到底彼らの到達点にはたどり着けない。同じ人間として生まれても、ポップスターにはなれないのと同じように。だが、彼らのかっこよさの秘密は分かったように思える。例え豪傑にはなれなくても、愛読という行為は私にも可能だ。日々の様々な事を言い訳にせず、豪傑たちにまねび、愛読し、考えるということをもっと真剣に行いたい。今年の「読書の秋」をそのまたとない機会にしたい。
(了)
小林秀雄氏(以下、氏と略)の著書「本居宣長」(新潮社刊「小林秀雄全作品」第27集所収)の第九章に「書を読まずして、何故三年も心法を練るか。書の真意を知らんが為である。それほどよく古典の価値は信じられていた事を想わなければ、彼等の言う心法という言葉の意味合はわからない。……心法を練るとは、古典に対する信を新たにしようとする苦心であった」とあり、続いて「仁斎は『語孟』を、……宣長は『古事記』をという風に、学問界の豪傑達は、みな己れに従って古典への信を新たにする道を行った。彼等に、仕事の上での恣意を許さなかったものは、彼等の信であった。無私を得んとする努力であった」とある。以上を読んで疑問に思ったのが「書の真意を知らんが為」に「書を読まずして」「心法を練る」とは具体的に何をすることかということだった。
上述のように「心法を練るとは、古典に対する信を新たにしようとする苦心」とあり、さらに「書を読まずして」とあれば、「心法を練る」とは、書を前にしてその書を全く読むこともなく、精神論ばかりを唱えているだけであるかのように思われる。そこで「書を読まずして」における「読む」という言葉について考えてみた。その意味は「論語よみの論語しらず」にある「よむ」と同義ではないか、つまり書を読んだにも拘らず、表面的な理解に止まり、その本質がわかっていない状況と同じなのではないか、同第九章にあるように「『論語』に読まれて己れを失って」いるのと同じなのではないか、と考えた。要するに「心学をよくつとむる賤男賤女は書物をよまずして読なり。今時はやる俗学は書物を読てよまざるにひとし(『翁問答』改正 篇)」における「賤男賤女」にならなければいけない、「今時はやる俗学」に浸ってはならないことだと考えた。
また「心法を練る」における心法とは、同第九章に「真知は普遍的なものだが、これを得るのは、各自の心法、或は心術の如何による。それも、めいめいの『現在の心』に関する工夫であって、その外に、『向上神奇玄妙』なる理を求めんとする工夫ではない」とあり、その内容は各人各様なのだった。そして仁斎の場合は「書が『含蓄シテ露ワサザル者』を読み抜く」、あるいは「眼光紙背に徹する」ための「心の工夫」のことを指すと言われていた。つまり仁斎において「心法を練る」とは、書を前にしてそれを全く読むこともなく、精神論ばかりを唱えているだけというのでは決してなく、読んでその本質を見極めることを意味するのだった。
この仁斎の読書法に関し、氏の「学問」という論考(同、第24集所収)では「文章の字義に拘泥せず、文章の語脈とか語勢とか呼ぶものを、先ず掴」む、「先ず、語脈の動きが、一挙に捕えられてこそ、区々の字義の正しい分析も可能」と言われていた。「歌に動かせぬ姿がある如く、聖人の正文にも、後人の補修訂正の思いも寄らぬ姿がある」からだった。これを「『心目の間に瞭然たらしむる』心法」と呼び、これにより仁斎は「語孟」を読んで同第九章にあるように「六経ハナホ画ノ猶シ、語孟ハナホ画法ノ猶シ」なる言を残すとともに、「大学」が孔子の遺書ではないと見破ることができた、「『語孟』への信が純化した結果、『中庸』や『大学』の原典としての不純が見えて来た」といえたのだった。
宣長における「心法を練る」とは「無私な全的な共感に出会う」、そういう心法であり読み方だった。同第十三章にあるように、「理解者、認識者の行う一種の冒険、実証的関係を踏み超えて来る」ものであり、「彼の心のうちで、作者の天才が目覚める、そういう風に読」むものであって、「分析の近附き難い事柄」なのだった。また、それには同第十章にあるような「思い出すという心法」も不可欠だったろう。とくに「古事記」を読むにあたっては「古事記」の表記上の形式を予め「古事記」序に従ってしっかり押さえておく必要があった。すなわち同第二十八章にあるように、一句を表現するのに漢字の音と訓を並用したり、場合によってはすべて訓を使用し、分かり難い場合には注を付加するといった表記形式を踏まえたうえで「古事記」を読み解き、古語を再現しなければならなかった。しかし一朝一夕にそれが進んだとは思えず、まずは同第十章にあるように「『見るともなく、読むとなく、うつらうつらと』詠める」という段階があったであろう。しかも、それは「古事記」への「信」を弁え、自身は「無私を得んとする努力」を怠らないということも必須だった。
「読む」という言葉について、氏の「読書について」という論考(同、第11集所収)では「人間から出て来て文章となったものを、再び元の人間に返すこと、読書の技術というものも、そこ以外にはない」と言われていた。そこで、この「人間」とは「古事記」の場合誰になるのかについて考えてみた。それは、恐らく読み進めていく最初の段階では太安万侶であろうと思われた。その後、繰り返し読むにつれて稗田阿礼、さらに天武天皇という具合になったのではないか。つまり最初の段階は、太安万侶の記述内容を上述のような表記上の形式に沿って読み解くことが第一になる。表記上の形式も太安万侶によるものだからだった。しかし読みはすんなりとは進まず、突っ掛かりながら進まざるを得なかったはずであり、しかも何度も繰り返したはずだ。それを経ることにより徐々に読み取りの理解が進んでいったのではないか。「古事記」の概要が見えてきたら、稗田阿礼が誦んだところの勅語の旧辞の内容が次第に明らかになってきたはずであり、古人の語りかけてくるものが直に感じられるようになっていったであろう。そして究極として天武天皇の「古事記」編纂の思想が直に見えてきたのではないか、以上のように推察した。氏はこれを同第二十八章にあるように、宣長は「『古事記』のうちにいて、これと合体していた」と表していた。
(了)
いつものように小林秀雄の『本居宣長』をネタにおしゃべりをする四人の男女。今日は、最初の方、宣長の遺言書が話題のようだ。
元気のいい娘(以下「娘」) 大阪に行ってきたの?
江戸紫の似合う女(以下「女」) ええ、最近、人形浄瑠璃にはまってて。国立文楽劇場で、「曽根崎心中」を見て来たわ。
生意気な青年(以下「青年」) 近松門左衛門(一六五三~一七二四)ですか、今年は、没後三百年ですね。
凡庸な男(以下「男」) そうすると、近松は荻生徂徠(一六六六~一七二八)と同時代の人だね。
女 そうなの。それでね、徂徠も、近松は気に入っていたらしいのよ。
娘 えっ、ホント? ちょっと意外。
女 太田南畝(一七四九~一八二三)という天明期の文人が、『俗耳鼓吹』という随筆の中で書いてるの。「曽根崎心中」といえば、おはつ・徳兵衛の有名な道行があるでしょう。
青年 ああ、この世のなごり、夜もなごり、死にに行く身をたとふれば、あだしが原の道の霜、一足づつに消えて行く、夢の夢こそあはれなれ、と続く、あれですね。
女 希代の名文といっていいと思うけど、徂徠は「近松が妙處、此中にあり。外は是にて推はかるべし」と言ったらしいの(注1)。
男 さすが近松というところかな。
女 ええ。それでね、近松の名作は多々あるけど、辞世がまた、面白いの。
娘 辞世?
女 近松は、亡くなる数週間前に、礼装で端座している自らの肖像を描かせ、そこに辞世文を書いている。かいつまんで紹介すると、こうなのよ(注2)。
「代々甲冑の家に生まれながら武林を離れ」、高位の貴族に公家侍として仕えたが地位はなく、市井にただようも商売を知らず、「隠に似て隠にあらず、賢に似て賢ならず、ものしりに似て何もしらず、世のまがひもの」、和漢の教学、妓能・雜芸・滑稽の類まで「しらぬ事なげに、口にまかせて筆にはしらせ、一生を囀りちらし」ていながら、「いまはの際に言ふべく思ふべき真の一大事は一字半言も」ないというのは、恥ずかしい限りで、七十年余の歳月を思うももどかしいが、もし辞世をと問われれば、
「それぞ辞世 去るほどに扨も そののちに 残る桜か 花し匂はば」
また、戒名等を記したのち、末尾にこんな歌も書いている。
「残れとは 思うもおろか 埋み火の 消ぬ間あたなる 朽ち木書きして」
娘 意外と面白いじゃん。
女 「一生を囀りちらし」といって過去を笑い飛ばし、「残れとは 思うもおろか」だなんて今生への未練を感じさせない乾いた感じがあるわ。
娘 偉大な劇作家にこういう言い方は変かもしれないけど、芝居っ気があるね。
女 この辺は、宣長さんが、北条時頼の重々しい遺偈について、禅宗かぶれの連中は、「死なむとするきはに、かゝるさとりがましきいつはり言する」を立派な行いのように言うが、「いとうるさく、かつは、をこなるわざなりけり」と難じているのを思い出すわ(新潮社刊『小林秀雄全作品』第27集296頁)。
男 辞世だからといって、尤もらしいことを言おうとしないんだね。
女 宣長さんは、在原業平の「つひにゆく 道とはかねて 聞きしかど きのうけふとは 思はざりしを」という歌も、契沖の解に依るかたちで、「これ人のまことの心にて」と高く評価しているわ(同295頁)。
青年 業平とか、時頼とか、それって、小林先生が宣長さんの「やまとだましひ」について論じている箇所でしょう。あなたは、近松が「やまとだましひなる人」だと論証したいわけ?
女 まさか、そんなこと。そういう分析に、私は興味がないし、多分意味がないと思ってる。ただね、近松の辞世の、周りをけむに巻く感じが、宣長さんの遺言書を思い出させるなって思って。
娘 けむに巻く?
女 小林先生も、(遺言書は)「宣長の思想を、よく理解したと信じた弟子たちにも、恐らく、いぶかしいものであった」と書いているわ(同37頁)。遺言書のことだけでなく、宣長から墓地の見立てをしたいので同道するように言われた養嗣子大平が、宣長の平素の教えのとおり、自分の死後のことなど思い図るのはさかしら事で古意に反するのではありませんかと答えたが、黙殺されたであろう、と小林先生は書いているわね(同38頁)。
男 確かに、大平たちにしてみれば、けむに巻かれたような思いだったろうね。
女 遺言書に自分の葬式の手順やらお墓の仕様やらを事細かに記し、事前に墓所の下見までした宣長晩年の一連の言動を、小林先生は「その思想を一番よく判読したと信じた人々の誤読を代償として、演じられる有様」と評しているわ(同41頁)。
娘 「誤読を代償として」って、なんか、すごい。それ自体、謎めいている。
女 素朴に考えれば、大平たちが誤読するであろうことは覚悟の上で、書きたいことを書きたいように書いた、ということだろうけれど。
青年 でも、遺言書の中身は、事務的というか実務的と言うか、具体的な指示の羅列だし、しかも、小林先生は「検死人の手記めいた」と評しているけれど(同31頁)、曖昧さや冗長さのない、明晰な文章だよね。
娘 稲わらを紙にていくつもつつみ、棺の中ところどころ、死骸が動かざるように、つめもうすべし、みたいなことまで書いてある。
男 それも、ひしと詰めそうろうには及ばず、動き申さぬように、ところどころ詰めそうらえてよろしくそうろう、なんてね。かゆいところに手が届く。
娘 完璧なマニュアルだね。
青年 そうなんだ。その意味では、誤読のしようがない。しかし、それでは済まないよね。
男 息子たちにしても、父親がなぜこういうことだけをここまで事細かく書き、それ以外のことを書かないのか、不思議な感じは消えなかったろうね。
女 何かを演じようとしていて、それが、分かる人にはわかるような仕掛けになっている、ということかしら。
青年 人生の最後の最後に、大芝居を打ったっていうわけ?
女 大芝居っていうのは少し変かもしれない。でも、謎を残してくれたわね。
男 だけど、「常に環境に随順した宣長の生涯には、何の波瀾も見られない。奇行は勿論、逸話の類いさえ求め難い」(同46頁)という人なんでしょう?
女 ええ、大常識人という感じよね。生涯にわたり、世に学問程面白きものはなしという信念を貫いた人だけれど、だからといって家業を疎かにするとか、家産を傾けるようなことはない。
男 そうね、「あきなひのすじにはうとくて」、つまり商売には向いていないので、母親(恵勝大姉)の判断で、「京にのぼりて、学問をし、くすしにならむこそよかれ」ということになった(同44頁)。
青年 医師として生計を立てることに、なにか蟠りがあったのかな。「医のわざをもて、産とすることは、いとつたなく、こゝろぎたなくして、ますらほのほいにもあらねど」と書いているけど(同45頁)。
女 どうかしら。「われもしもくすしのわざを、はじめざらましかば、家の産絶はてなましを、恵勝大姉のはからひは、かえすがえすも、有りがたくぞおぼゆる」とも書いている(同44頁)。
男 そういえば、遺言書も、家門絶断これなきよう、永く相続のところ肝要にてそうろう、ご先祖父母への孝行、これに過ぎざりそうろう、と終わる(同36頁)。伝統墨守の決まり文句のようでもあるけど。
女 決まりきったことを斜に構えて蔑ろにするような人ではないと思うわ。それに、小林先生も、「彼が承けついだ精神は、主人持ちの武士のものとは余程違う、当時の言葉で言う町人心であったと言ってよい」と書いている(同43頁)。
青年 でも、やっぱり。遺言書としては、相当変わったものだよね。なんでこんなものを書いたんだろう。
女 小林先生は、この遺言書は心身に何らの衰えもない時点で書かれたもので、「自分で自分の葬式を、文章の上で、出してみようと」したものであり、「遺言書というよりむしろ独白であり、信念の披瀝」であると書いているわ(同37頁)。
青年 信念の披瀝って、どういうことかな。宣長さんも、自分の死後、近親者によって必ず読まれ、そのとおり実行されるというつもりで書いたわけでしょう。
娘 そうそう。棺の詰め物なんかは、書かれたその通り、実行できちゃうよね。
女 小林先生は、これを宣長の「最後の述作」と呼び、宣長という思想劇の「幕切れを眺めた」と書いているのよ(同40頁)。
青年 宣長の死生観が現れている、ということですか。
娘 死生観って、何それ。
女 遺言書なんだから、自分の死について考えて書いたものではある。でも、字面を追う限り、自分の死後、残された近親の者、つまり生きている者が、それをどう受け止め、どう行動してほしいか、祥月などに自分のことをどんなふうに思い出して欲しいか、そういうことが書かれている。
娘 理屈じゃないんだよね。自分の死後、人々が、遺言書に従って、どんな言葉を発し、どんなふうに体を動かすか、動画でもみてるように、ありありと目に浮かぶ感じだね。
男 その「動画」の背後に、何か深い思想のようなもの、宣長さんの思索の到達点のようなものがあるのかなあ。
女 あるのかもしれないけれど、でも、それがむき出しでは出てきていない。その「動画」こそが、人々にとっての、生と死の有様なんだわ。
青年 宣長さんのそういう語り方が、「自分の身丈に、しっくり合った思想しか、決して語らなかった」(同39頁)ということだといいたいわけ?
女 どうかしら、わからないわ。でも、禅宗の公案みたいな、もっともらしいけど曖昧模糊とした語り方とは対極よね。
娘 そこから何かを読み取って欲しかったのかなあ。
青年 そうかも。でもそれは簡単なことじゃないよ。
男 小林先生は、『本居宣長』の結びで、「私は、宣長論を、彼の遺言書から始めたが……ここまで読んで貰えた読者には、もう一ぺん、此の、彼の最後の自問自答が、(機会があれば、全文が)、読んでほしい、その用意はした、とさえ、言いたいように思われる」と書いているね(同、第28集209頁)。
女 小林先生には、宣長さんが遺言書に込めた何かが、きっと、見えていた、というか、あっ、宣長さん、そういうことですか、と腑に落ちるところがあったんだわ。だからこそ、読者に対しても、もう一度読むための用意はした、という言い方になるんじゃないかしら?
青年 で、あなた、何か分かったの?
女 いえ、まだまだ、そんな域には達してはいない。でも、宣長さんの晩年の歌に、「死ねばみな よみにいくとは しらずして ほとけの国を ねがふおろかさ」というのがあるでしょう(新潮社刊『小林秀雄全作品』第27集39頁)。こういう乾いた笑いと共通する、なにか醒めきったものを、宣長さんの遺言書にも感じる。
青年 小林先生は、「この人間の内部には、温厚な円満な常識の衣に包まれてはいたが、『申披六ヶ敷筋』の考えがあった」(同33頁)と書いているけど、そういうことがいいたいの?
女 そこまで背伸びするつもりはないけど、いまのところそんなような気がするの。でも、この遺言書には、検死人の手記ふうの乾いた部分だけでなく、桜への偏愛の部分もある。こちらはもう、さっぱりわからない。
娘 桜といえば、近松の辞世にも出てきたね。
女 それは、特に関係はないと思う。でも、「夢の夢こそあはれなれ」みたいに、死にゆく恋人たちの心情を情緒たっぷりと歌い上げた近松も、自らの死に臨んではとても醒めていて……。勝手な妄想だけど、宣長さんと似たものがあるような気がして、楽しくなるわ。
男 妄想ですか、やれやれ。
四人のおしゃべりは、とりとめもなく続いていくのであった。
(注1)太田南畝『俗耳鼓吹』(吉川弘文館刊『日本随筆大成』第3期第4巻所収)に、徂徠の晩年の門人である宇佐美恵助(1710~1770)の話として伝える(同書p.146)。
(注2)引用は、『近松門左衛門三百五十年』(和泉書房、2003)p.102の翻刻から。なお、和歌の表記については、新潮古典文学アルバム第19巻『近松門左衛門』(新潮社刊)p.108の年譜を参考にした。
(了)