小林秀雄に学ぶ塾 同人誌
発行 令和六年(二〇二五)一月一日
発行人 茂木 健一郎
発行所 小林秀雄に学ぶ塾
副編集長
入田 丈司
副編集長・Webディレクション
金田 卓士
編集顧問
池田 雅延
小林秀雄に学ぶ塾 同人誌
発行 令和六年(二〇二五)一月一日
副編集長
入田 丈司
副編集長・Webディレクション
金田 卓士
編集顧問
池田 雅延
今号も、荻野徹さんによる「巻頭劇場」から幕を開ける。いつもの四人の対話は、「政治家がつく嘘」の話題から始まる。昨今のSNSの猛威とも関連して対話も急に熱を帯びる。今回は、はたしてどこから、「本居宣長」を精読中の、この四人ならではの話題に転じるのか…… そういう会話の流れや展開の妙もまた、読者諸賢に愉しみ、味わっていただきたい、荻野さんの対話劇の醍醐味である。
*
「『本居宣長』自問自答」には、鈴木順子さん、森本ゆかりさん、本多哲也さんが寄稿された。
鈴木さんは、小林秀雄先生が「宣長の学びの成長と精神を、躍動感のある言葉で説明している」と言う。「躍動感のある言葉」とは、具体的に「彼(宣長)の学問の内的必然の律動」そして「書物という対象のうちに、己れを捨ててのめり込む精神の弾力性」という言葉である。これらの言葉と向き合うなかで、鈴木さんの眼には「宣長の言葉を、全身全霊で受け止めている」小林先生の姿が映じているようだ。
森本さんは、このように述懐している。「自分の生き方と向き合い、私の身の回りで起こる出来事や人間関係の問題など、これは私の人生にとって、どのような意味があるのかを見つめるためには、小林氏の言われている歴史を見る眼が必要なのではないかと感じました」。質問にいたる池田雅延塾頭との対話を通じて、「『人間によって生きられた歴史を見る』という言葉の深さ」を体感されたようである。
本多さんの自問は、宣長が「古言のふり」を直知したことについて小林先生が書いている、「実証の終るところに、内証が熟した」とはどういうことか? である。本多さんは、そこで小林先生が言っている「実証」とは、私たちが現代的な通念で受け取りがちな「科学的とか客観的といった語」とは意味合いが異なることに注意を促したうえで論を進める。それでは一体どうすれば、内証は熟すのか?
*
今号では、石川則夫さんが、2023年夏号以来となる特別連載を寄稿された。副題は「徂徠の面影」である。もちろん「本居宣長」においても、荻生徂徠に関する話題の登場頻度は高く、いわゆる急所の一つだと思われる。本塾生の「自問自答」においても熟視対象として頻繁に取り上げられている。塾生はもちろん、徂徠への関心が高い読者諸賢にも、一読をお勧めしたい。
*
先だって開かれた、池田雅延塾頭が講師を務める「新潮日本古典集成で読む 『萬葉』秀歌百首」の新年一回目の講義では、「萬葉集」巻第一にある次の二首を味わった。
熟田津に 船乗りせむと 月待てば 潮もかなひぬ 今は漕ぎ出でな
(八、額田王)
海神の 豊旗雲に 入日さし 今夜の月夜 さやけくありこそ
(一五、中大兄)
古代朝廷が朝鮮対策の拠点としていた百済が、唐の力を借りた新羅に攻められ、援軍を求めてきたことを受け、斉明七年(六六一)正月六日、六十八歳の女帝を総帥に仰ぐ大和朝廷の軍団は、難波津を出航した。この二首はその航路上で詠まれたものと言われている。
「萬葉集釈注」(集英社)の著者である伊藤博氏は、後者の十五番歌は「萬葉集」中の「傑作中の傑作」と明言している。さらに「その味わいを現代語訳に置きかえるのは容易ではない」と前置きしたうえで、歌意は「おお、海神のたなびかしたまう豊旗雲に、今しも入日がさしている、今宵の月世界は、まさしくさややかであるぞ」と記されている。一つ前の十四番歌が、航路上から眼前に広がる「印南国原」、すなわち明石から加古川にかけての平原について詠まれた歌であることから、その付近で遭遇したのだろうか、西の空に赤くたなびく夕雲の姿に、向後の航路の無事を予祝する心持ちを託したのであろう。
前者の八番歌は、老女帝斉明の疲労を癒しつつ船団装備の充実の時間として、伊予の熟田津(松山市道後温泉あたり)に七十日ほど停泊し、三月末に出帆する際に詠まれた歌である。伊藤氏によれば「船出の刹那を待ち続け、ついにその時を得た宮廷集団のこころのはずみの上に発せられたこの歌には、息をのんで勢ぞろいする宮廷集団を、一声のもとに動かす王者の貫禄がみなぎっている」。まさしく額田王は、天皇になり代わって歌を詠む「御言持ち歌人」として、この重大な場面で歌を詠み上げ、「月も出た、潮の流れも最高だ。さあ、今こそ漕ぎ出そうぞ」と口火を切ったのである。
さて、わが塾の使命である「『本居宣長』精読十二年計画」も、いよいよ仕上げの時期を迎えている。しかしながら、私たちの学びは、これで歩みを止めるわけではない。小林秀雄先生に人生の生き方を学ぶ塾「私塾レコダ l’ecoda」での学びや各自の独習に、終わりはない。
「今は漕ぎ出でな!」という額田王の第一声の叫びをわが胸中におさめ、本年もまた学び続けて行こうぞ、そんな思いで、年のはじめのこの編集後記を書いている。
(了)
(追記)諸般の事情により、2025年春号は休刊します。2025年夏号より再開する予定です。
第三十章中天武天皇の哀しみ
第三十章は、「古事記」が撰録されるに至った理由はその「序」に明記されているが、「古事記伝」に見られる宣長の解に従ってまとめてみよう、と言って始められ、
――天武天皇の修史の動機は、尋常な、実際問題に即したものであった。即ち、諸家に伝えられた書伝えの類いは、今日既に「正実ニ違フ」ものとなっているので、その「偽リヲ削リ、実ヲ定メテ」これを後世に遺さねばならぬというのであった。私家の立場を離れ、国家的見地に立って、新しく修史の事を始めねばならぬという考えは、「日本書紀」の場合と同じであったが、この書伝えの失が何によって起ったか、従って、これを改めるのには、どうしたらよいかという点で、「古事記」撰録の場合、更に特別な考え方が加わっていた。それは、「書紀」の編纂者の思ってもみなかった事で、書伝えの失は、上代のわが国の国民が強いられた、宿命的な言語経験に基いていた。宣長に言わせれば、「そのかみ世のならひとして、万ノ事を漢文に書キ伝ふとては、其ノ度ごとに、漢文章に牽れて、本の語は漸クに違ひもてゆく故に、如此ては後遂に、古語はひたぶるに滅はてなむ物ぞと、かしこく所思看し哀みたまへるなり」という事であった。……
と、ここに言われている「上代のわが国の国民が強いられた、宿命的な言語経験」については、前回、粗方ながら観望したが、「如此ては後遂に、古語はひたぶるに滅はてなむ物ぞと、かしこく所思看し哀みたまへるなり」の「哀しみたまへるなり」を重く見て、小林氏は次のように言うのである。
――宣長が、天武天皇の「哀しみ」を言う時、天皇、阿礼、安万侶の三人の人物の、まことに幸運な廻り合いという、この事件の個性が、はっきりと感じとられていた、と見てよいであろう。宣長が見てとったところでは、歴史家としての天皇の「哀しみ」は、本質的に歌人の感受性から発していたが、又、これは尋常な一般生活人の歴史感覚の上に立ったものでもあった。「日本書紀」の伝えるところによれば、天武十年に国史編纂の計画があり、それが後の「日本書紀」の原撰と考えられている。従って、欽定の国史を、国文によって記述しようというような企ては、当時としては、全く異例な、大胆なものであった事を、天皇自身よく知っていた筈であろう。よく知った上での発想だったであろう。……
天武十年は西暦682年で、「古事記」が成った和同五年(712)からでは三十年前だが、その天武十年の国史編纂計画によって編まれた史書が今日の「日本書紀」の原型になっていると考えられ、そうであるならその原型書も先進国中国に倣った漢文表記であっただろうから、天武天皇の命によって新たに編む国史を漢文ではなく国文で記述するということは異例も異例、大胆も大胆な新機軸だったのであり、天武天皇自身、そのことはよく知っていたであろう、よくよく知った上での発想だったであろうと小林氏は言っているのだが、この天武天皇の「発想」の根は深かったのである。
小林氏は、続けて言う。
――天皇の「哀しみ」には、当時の政治の通念への苦しい反省はあったであろうが、感傷も懐古趣味もありはしなかったであろう。支那の正史の編纂方式を模倣して、漢文で立派な史書を物したところで、実際には誰がどんな風に読んでいたのか。これを読むものは、貴族にせよ、公民にせよ、極く限られた人々に過ぎず、それもただ、知的な訓読によって歴史の筋書を辿るに止まり、直接心を動かされる史書に接していたわけではない。そのような歴史を掲げ、これに潤色されている国家権威の内容は薄弱であった。これは覆い切れるものではなかったろう。天皇の「削偽定実」という歴史認識は、国語による表現の問題に、逢着せざるを得なかったのである。……
これが天武天皇の「発想」の根である、国語による表現の問題である。
(第三十章中了)
十四、「上に宗因なくんば……」
「上に宗因なくんば我々が俳諧、今以て貞徳の涎をねぶるべし。宗因は此道の中興開山也といへり」。芭蕉に師事した去来(*1)が記した「去来抄」(修行教)にある先師芭蕉の言葉である。芭蕉は俳論書の類いを一切残さなかったので、彼が西山宗因について語っている、この唯一の言葉は、よく味わっておきたいと思う。まずは当該箇所の全文を引用する。
「魯町曰、不易流行の句は古説にや、先師の発明にや。去来曰、不易流行は万事にわたる也。しかれども俳諧の先達是をいふ人なし。長頭丸已来手をこ(込)むる一体久しく流行し、角樽や かたぶけ飲ふ 丑の年、花に水 あけてさかせよ 天龍寺、と云まで吟じたり。世の人俳諧は如此ものとのみ心得つめぬれば、其風を変ずる事をしらず。宗因師一度そのこ(凝)りかたまりたるを打破り給ひ、新風を天下に流行し侍れど、いまだ此教なし。しか(然)りしより此かた、都鄙の宗匠たち古風を不用、一旦流々を起せりといへども、又其風を長く己が物として、時々変ずべき道を知らず。先師はじめて俳諧の本体を見付、不易の句を立、又風は時々変ある事を知り、流行の句変ある事を分ち教へ給ふ。しかれども先師常に曰、上に宗因なくんば我々が俳諧、今以て貞徳の涎をねぶるべし。宗因は此道の中興開山也といへり」(*2)。
魯町は去来の弟である。芭蕉に関してよく言われる「不易流行」論については、前述の通り本人が文字として遺した言葉はない。その論について、魯町が「古くからの説なのか、それとも先師が初めて説いたものなのか?」と尋ねた。去来が答える。「不易流行」は俳諧のみならず、あらゆる分野に通じるもの。しかし、俳諧の諸先輩で、このことを説いた人は見当たらない。長頭丸(松永貞徳)以降、例示した二句のように、言葉に技巧を凝らす句風が流行った。世人は、俳諧とはそんなものだと思い込み、新風を吹かせることなど思いもよらなかった。西山宗因師が出て、貞門の硬化を打破し新風を吹き込んだが、宗因が不易流行について説くことはなかった。それ以来、各地の宗匠たちは思い思いの流儀を興したが、各自の句風に停滞するだけで、変化も必要であることには気付かなかった。そこに先師芭蕉が現れた。師は俳諧の本質を発明し不易の句を樹立、一方句風には変化が必要なことを悟り、流行の句には変化が必要なことを教えられた。しかしながら、先師は日頃からこのように言っていた。「宗因が世に出ていなければ、我々は今もって、貞徳の亜流にとどまっていただろう。宗因は俳諧の中興開山と言うべきである」。
この芭蕉の言葉については、保田與重郎氏が次のように述べていることに、よく留意しておきたい。
「宗因を押しつめるなら、貞徳によつて結果的に殺されて了つた俳諧を甦らせ、貞門法式にしばられた俳人を開放すると共に、俳諧と共に彼らを無限の頽廃へ導くにすぎない。つまりその滑稽には、精神上の自信と安心はなく、ただ世俗一般の生活といふものが、滑稽を支へてゐるにすぎぬといふ、文芸の上から考えへると、はかない大衆文学的根拠しかもたなかつた。(中略)そこに止まる限りでは、何らいのちの秩序をもたない淵だといふことが、宗因の貞門に対する挑戦によつて芭蕉に知られた。芭蕉はこの時、宗因の形や跡を見たのではなく、己の心と俳諧の道を見たのである。即ち貞門と談林とを対決させて、終に真の道を知つたのであらう。流俗的な観念に挑戦する詩人の頽廃の諸相を、己の掌にひろげてゐた時、その間に一本の貫くみちを見る機縁を与へたことが、宗因は中興開山だと感謝した真意と思ふ」(「芭蕉」)。
去来は、いわゆる「不易流行」論の枠組みのなかで芭蕉の言葉を捉え、「去来抄」に記した。保田氏は、芭蕉が、貞門の俳諧にまねび宗因の俳諧にまねび、宗因の挑戦を目の当たりにするなかで「己の心と俳諧の道を見た」と言っている。そのうえで私は、芭蕉がよく言っていたというこの言葉の底の底には、芭蕉が宗因に直かに接したうえで感得していた宗因の人生の歩み方や、西山宗因という人物の人格的な気質への共感があったような気がしてならないのである。
宗因は、人生これからという二十九歳のとき主家改易という緊急事態に直面、先に「肥後道記」で精しく見たように、故郷の熊本を離れて単身上京、連歌一筋に精進し一流の連歌師として活躍した。晩年には、俳諧の道でも新たな挑戦を行った。貞門俳諧からの大反撥にも動じることはなかった。加えて、大名諸侯の求めに応じ全国各地を旅し、居所を定めない生き方を貫いた。最期の状況もよく分かっていない。
一方、芭蕉は、二十三歳のときに仕え、ともに俳諧に親しんでいた藤堂良忠(号は、蟬吟)を亡くし俳諧修行に専心した。二十九歳で東下し宗匠となった。三十七歳のときに「市中に住侘て、居を深川のほとりに移」(俳文「芝の戸」)した。その後は、故郷の伊勢はもちろん、関西、鹿島、奥州など全国各地への旅を続け、「旅に病んで 夢は枯野を かけ廻る」という句を遺し大阪の南御堂で、ついに逝った。宗因同様、俳論書の類いは一切残していない。
約四十歳の年齢差がある二人の間に、頻繁な交流があったわけではないようだ。しかし、去来が書いている「常に曰」という言葉をよくよくながめていると、芭蕉にとって宗因の存在はけっして小さくなかったように思われる。私には、芭蕉が人生いかに生きるべきかと、日々切実な自問自答を続けて行くうえで、宗因は偉大な人生の先達だったような気がしてならないのである。
十五、泉州万町の好会再考
「契沖と熊本」と題する論考であるにも拘わらず、ここまで西山宗因と松尾芭蕉らに紙幅を割いてきたのには、理由がある。第十二章「泉州万町での好会」において、和泉の国にあった伏屋重左衛門重賢邸の敷地内に、若き契沖と老境の宗因が宿泊し、場合によっては二人が対面していた可能性もあることに触れた。そこで引用した、契沖研究の泰斗、久松潜一氏の述懐、わけても氏が「無限の感慨」というまでの言葉を使った深意を、より深く噛みしめたかったからなのである。その内容を今一度引いておこう。
「宗因の宿った夜は契沖も宗因と会し、秋の一夜を重賢と三人で語り合ったと想像することも出来る。七十歳の宗因を中心として契沖と重賢とが語り合ったとすればそれは和歌や連歌・俳諧のことであったかも知れず、またあるいは没落した豊臣氏や加藤家に対する追憶であったかも知れぬ。とにかく和泉の山村の静かな秋の一夜のこの好会を想像して、私は無限の感慨を禁じ得ないのである」。
重賢の祖父、一安飛騨守は、太閤秀吉に仕えていた。宗因の父は加藤清正の家臣であり、祖父は大坂夏の陣の豊臣方の勇士、御宿勘兵衛正友と見られている。そして契沖の祖父、元宜(下川又佐衛門)は、清正に仕え熊本城留守居役であり、伯父の元真がその後を継いだ。
さらには、第一章でも触れたように、彌富氏論文(「契沖と熊本」快旭阿闍梨墓碑保存会)によれば、契沖の母方の祖母は、宗因が「たの(頼)む木陰」のような存在として仕えていた加藤右馬允正方(風庵)の姪にあたるという奇縁もあった。しかし久松氏は、このように豊臣氏や加藤家に縁のあった三人が敷地内に同宿したことや、連歌や俳諧について会話をしたことだけをもって「無限の感慨」と言われているわけではないように思うのだ。
言うまでもなく、西山宗因は、これまで精しく見てきた通り、のちに「元禄の三大作家」と呼ばれることになる松尾芭蕉と井原西鶴が仰ぎ見た大先達であった。そして契沖は、このあと、親友の下河辺長流(*3)亡き後を継いで「万葉代匠記」を著し、徳川光圀(*4)に献じることになる。契沖より前の「万葉集」の注釈が古注、以後の注釈が新注と呼ばれることからもわかるように、和泉の久井や万町で読み込んだ和漢書の知見も十二分に発揮して、現在にも通じる多くの新たな訓みを示すという画期的な成果を挙げた。さらには、その注釈の過程で得られた知見は、「和字正濫抄」に示された通り歴史的仮名遣いの原型の確立につながった。
しかしながら、契沖の功績は、そのような学問的知見に留まらなかった。わけても、その著作などを通じて大きな薫陶を受けた、若き日の本居宣長(*5)にとって契沖は、その後の学問に向き合う態度という意味で、かげがえのない存在であった。ここでは、第一章で引いた、宣長が若かりし頃の京都への遊学時代を思い出している件について、小林秀雄先生が語っているところに、今一度耳を傾けてみたい。
「たまたま契沖という人に出会った事は、想えば、自分の学問にとって、大事件であった、と宣長は言うので、契沖は、宣長の自己発見の機縁として、語られている。これが機縁となって、自分は、何を新しく産み出すことが出来るか、彼の思い出に、甦っているのは、言わばその強い予感である。彼は、これを秘めた。その育つのを、どうしても待つ必要があったからだ。従って、彼の孤独を、誰一人とがめる者はなかった。真の影響とは、そのようなものである」(「本居宣長」第四章、「小林秀雄全作品」第27集所収)。
宣長は、契沖について、このように述べていた。
「ココニ、難波ノ契沖師ハ、ハジメテ一大明眼ヲ開キテ、此道の陰晦ヲナゲキ、古書ニヨツテ、近世の妄説ヲヤブリ、ハジメテ本来の面目ヲミツエケタリ。大凡近来此人ノイ(出)ヅル迄ハ、上下ノ人々、ミナ酒ニエヒ、夢ヲミテヰル如クニテ、タハヒナシ、此人イデテ、オドロ(驚)カシタルユヘニ、ヤウヤウ目をサ(覚)マシタル人々モアリ、サレドマダ目ノサメヌ人々ガ多キ也、予サヒハイニ、此人ノ書ヲミテ、サツソク(早速)ニ目ガサメタルユヘニ、此道ノ味、ヲノヅカラ心ニアキラカニナリテ、近世ノヤウノワロ(悪)キ事ヲサト(悟)レリ、コレヒト(偏)ヘニ、沖師ノタマモノ(賜物)也」(「あしわけをぶね」)
ここで宣長が言っている、契沖の「大明眼」とはなにか? 「本居宣長」第六章などで詳述されているところだが、小林先生は「先ず古歌や古書の在ったがままの姿を、直かに見なければならぬ。直かに対象に接する道を阻んでいるのは、何を措いても、古典に関する後世の註であり、解釈である」と述べたあと、宣長の次のような言葉を引いている。「やすらかに見るべき所を、さまざまに義理をつけて、むつかしく事々しく註せる故に、さとりなき人は、げにもと思ふべけれど、返て、それはおろかなる註也」(「紫文要領」)。これは、「源氏物語」の従来の注釈書が、例えば「蛍の巻」の中で紫式部が使っている「仏のうるはしき心」という言葉について、仏教の教説にこじつけた解釈を施すことで、「式部の譬への本意と大きに相違して」結果的に読者を道に迷わせてしまっているような事例が数多あることに、注意を促している件である。先に引いた「酒ニエヒ、夢ヲミテヰル如クニテ」というのは、注釈者たちがそれぞれ我田引水な解釈を施し、作者の意とするところが置いてけぼりにされてしまっているという、嘆かわしい状況を例えていたのだ。
そして小林先生は、同章を次のように述べて締めくくっている。
「考える道が、『他のうへにて思ふ』ことから、『みづからの事にて思ふ』ことに深まるのは、人々の任意には属さない、学問の力に属する、宣長は、そう確信していた、と私は思う。彼は、『契沖ノ歌学ニオケル、神代ヨリタダ一人也』とまで言っている。宣長の感動を思っていると、これは、契沖の訓詁註解の、いわば外証的な正確に由来するのではない。契沖という人につながる、その内証の深さから来る、と思わざるを得ない。宣長は、契沖から歌学に関する蒙を開かれたのではない。凡そ学問とは何か、学者として生きる道とは何か、という問いが歌学になった契沖という人に、出会ったというところが根本なのである」。
その後宣長は、契沖から学んだ学問に向き合う態度で、かつ学者として生きる道とは何かという自問を抱きながら、「源氏物語」の本質に触れた。「ふる物語をみて、今にむかしをなぞらへ、むかしを今になぞらへて、よみならへば、世の有さま、人の心ばへをしりて、物の哀をしる」(「紫文要領」)。そういう基本的な態度そのままに、すべて漢字で記され長年にわたり読解困難となっていた「古事記」に向かい、前人未到の本格的な訓読を完遂し「古事記伝」として上梓したのである。
ここでまた宣長の声を聴いておこう。彼は「古事記伝」の冒頭でこのように言っている。「大御国にもと文字はなかりしかば、上ツ代の古事どもも何も、直に人の口に言ヒ伝へ、耳に聴き伝はり来ぬるを……」(文体の事)。大陸から漢字という文字が入ってくる以前のわが国では、言伝え、すなわち口頭言語のみでつつがなく生活が続けられていた。「古事記」には、天武天皇の強い志をもとにして、古人の「言語のさま」が遺されていたのである。今では、そんな「古事記」も、子ども向けも含めて誰もが読めるかたちで普及しているが、その原点には契沖がいた、と言っても過言ではないのである。
そうすると、延宝二年(一六七四)八月の西山宗因と契沖との好会は、松尾芭蕉と井原西鶴という元禄の二大巨星と、「源氏物語」で開眼し「古事記」を「やすらかに見」つめ訓み上げることで、文字なき時代の日本人の発声のすがたを再現しえた本居宣長という巨星につながる人物たちの邂逅と見ることもできるだろう。
いや、このような簡単な言葉だけでは、とても言い尽くすことなどできない。久松氏が覚えた「無限の感慨」の深淵は、途方もなく深いのである。
(*1)慶安四年(一六五一)~宝永元年(一七〇四)。向井去来。長崎生れ。聖堂祭酒・儒医向井元升の次男。貞享元年(一六八四)、其角を通して芭蕉に入門。
(*2)「去来抄・三冊子・旅寝論」穎原退蔵校訂、岩波文庫
(*3)寛永元年(一六二四)~貞享三年(一六八六)。江戸前期の国学者。著作に「万葉集管見」など。
(*4)寛永五年(一六二八)~元禄十三(一七〇〇)。水戸義公とも。「万葉代匠記」は光圀の依頼により執筆された。
(*5)享保十五年(一七三〇)~享和一年(一八〇一)。江戸中期の国学者。
【参考文献】
・岡本明「去来抄評釋」名著刊行会
・阿部喜三男「松尾芭蕉」吉川弘文館
(つづく)
【丸山眞男から小林秀雄へ――『考えるヒント』について】
前回稿まで、丸山眞男氏の『日本政治思想史研究』所収の論文に沿って、荻生徂徠について書いてきた。そして、丸山氏が描き出した「公私に分裂する」徂徠像を見たうえで、そうした分裂は徂徠本人に意識されていたことなのか、あるいは、そうした分裂的な性格を孕んだ徂徠の心中はどのような緊張状態にあったか、考えていきたいと、私は書いた。ここで、丸山氏からは離れ、いよいよ小林秀雄先生が徂徠にどう向き合ったか、を見て、思索を深めたいと思う。そこで、やはり取り掛かりとなるのは、本論考の表題にもなっている「懐に入り込む」という表現の出処、すなわち「哲学」である。
――丸山真男氏の、「日本政治思想史研究」はよく知られた本で、社会的イデオロギイの構造の歴史的推移として、朱子学の合理主義が、古学古文辞学の非合理主義へ転じて行く必然性がよく語られている。仁斎や徂徠の学問が、思想の形の解体過程として扱われている仕事の性質上、氏の論述は、ディアレクティックというよりむしろアナリティックな性質の勝ったものであり、その限り曖昧はなく、特に徂徠に関して、私は、いろいろ教えられる点があったが、私としては、ただ徂徠という人の懐にもっと入り込む道もあるかと考えている。(新潮社刊『小林秀雄全作品』第24集p.173~4)
この一節がどういう経緯で現れているのか、本論考でここまで明らかにしていなかったので、書いておきたい。「哲学」という随筆は、『文藝春秋』で『考えるヒント』と題された連載の一篇を成す。『考えるヒント』と題される連載は、昭和三十四年(一九五九)六月の「常識」が最初であり、昭和三十九年(一九六四)六月の「道徳」まで続いた。「哲学」は、昭和三十八年(一九六三)一月発表のものである。
『考えるヒント』は、その表題だけ一見すると、一般に随想録と呼ばれるような、多様な主題が並んでいる。『小林秀雄全作品』所収の表題名で列挙すると、昭和三十四年には「常識」「プラトンの「国家」」「井伏君の「貸間あり」」「読者」「漫画」「良心」、昭和三十五年に「歴史」「言葉」「役者」「或る教師の手記」「ヒットラアと悪魔」「平家物語」「プルターク英雄伝」、昭和三十六年に「忠臣蔵Ⅰ」「忠臣蔵Ⅱ」「学問」「徂徠」「弁名」、昭和三十七年に「考えるという事」「ヒューマニズム」「福沢諭吉」「還暦」「天という言葉」、昭和三十八年に「哲学」「天命を知るとは」「歴史」「物」、そして昭和三十九年「道徳」である。その表題順から察せられるように、また実際各篇を順番に読むとわかるのだが、当初まさに縦横無尽の感がある連載は、昭和三十六年の「忠臣蔵Ⅰ」を皮切りに、日本の近世、江戸時代を主題としてまとまりを持ち始める。とりわけ、近世の学問、その中でも儒学についての随筆が多くなっていくのである。この点、小林先生自身が「学問」の書き出しで次のように言っている。
――私の書くものは随筆で、文字通り筆に随うまでの事で、物を書く前に、計画的に考えてみるという事を、私は、殆どした事がない。筆を動かしてみないと、考えは浮かばぬし、進展もしない。いずれ、深く私の素質に基くものらしく、どう変えようもない。「忠臣蔵」について書き始めた際も、例外ではなく、まるで無計画で始めたのだが、やがて書いているうちに、我が国の近世の学問とか思想とかいう厄介な問題にぶつかるであろう、又、ぶつからなければ、面白くもあるまい、それ位な見当は附いていた。(新潮社刊『小林秀雄全作品』第24集p.11)
これは謙遜のない、告白と受け取れる。実際、「忠臣蔵Ⅰ」より前の連載は、各篇の前後で主題的に明白な繋がりを持っていないのである。ひとまず、ここでは、本論考にとって最重要な「哲学」が、『考えるヒント』の後半部、近世の学問や思想を主題の中心に据えた一連の連載の中で生まれたものであることを、確認しておきたい。
【『考えるヒント』の各主題に共通する思惟の型】
先に私は、『考えるヒント』において、「忠臣蔵Ⅰ」に至るまでは縦横無尽の感があると書いたが、これはあくまで表面上そう見えるという話であって、そう言って紹介程度に終わらせてしまったよいとは思えない。もとより、『考えるヒント』の一篇一篇について精しくすることは叶わないとしても、次のことは言っておきたい。
『考えるヒント』の前半部、すなわち「常識」から「プルターク英雄伝」は、各篇ごとに、異なる主題が選ばれている、とはこれまで述べてきたところだ。その内容だが、たとえば作品批評の類であれば、その対象は、プラトンやプルタルコスといった古代ギリシアの古典から、小林先生と同時代の作家であった河上徹太郎氏の「日本のアウトサイダー」という同時代の作品まで幅広い。「或る教師の手記」にいたっては、作家ではない、無名の中学校教師の手記を題材に書かれている。文学作品に限らず、「井伏君の「貸間あり」」や「ヒットラアと悪魔」のように映画作品が執筆の契機となっているものもある。「常識」や「良心」では、特定の作品ではなく、現代で言うところのコンピュータが話題となっているし、「役者」については、表題通り、文士劇で小林先生が役者を経験が主題である。こうして見るとますます『考えるヒント』前半部における小林先生の話題の豊富さに気づく。
しかし、これは、それぞれの話題ごとに完結するような随筆集とはまるで違う。むしろ、この話題の豊富さは、どの作品にも通底する何かを思わせ、小林先生が何を対象としても、共通する感じ方、考え方を抱いていたことを感じさせる。これは、『考えるヒント』を何度も読み直す読者には、自然なことに思える。それは公式というのとは異なる、武道家や将棋指しにとっての型のようなもの、あらゆる敵や盤を前にして、都度異なる相手の出方に合わせて向き合う、思惟の型とも表現できようか。私としては、本論考での相手は、ずっと変わらず荻生徂徠なのだが、この機に小林先生からこの型を学び、そうして会得した思惟の型に随って、再び徂徠に戻ってきたい、そういう思いがするのである。
そこで、まずは『考えるヒント』の中から一篇を選び、そこに現れた表現を、他の作品も踏まえて精読する。それによって、一作品だけでなく、連載を通して小林先生自身が深めたであろう思索の仕方を体験していきたい。ここでどの作品を選ぶか、であるが、ここまで言及してきた通り、『考えるヒント』の前半部では一篇一篇は主題としては繋がりを持たないが、その全体を通じて、さまざまな言葉がその意味を熟していくように書かれてきた。そうした言葉たちが、連載後半部において、近世の学問という各篇で共通する主題に対して、ぶつかっていき、さらに小林先生と読者の思索を深めていくのである。私が問いたい「徂徠の懐に入り込む」ということも、そうした連載前半で熟した思索を踏まえて、連載後半で出てくる表現なのである。そうであるならば、ここでまず訪ねるのに相応しいのは、連載の結節点と言える作品、「忠臣蔵Ⅰ」ではないかと思う。したがって、本稿の残りは「忠臣蔵Ⅰ」について書く。
【「忠臣蔵Ⅰ」について】
そもそも「忠臣蔵」について、簡単な説明をしよう。以下、『小林秀雄全作品第23集』「忠臣蔵Ⅰ」の脚注を参考にする。小林先生が言及する「忠臣蔵」は、「仮名手本忠臣蔵」の略称であり、赤穂浪士討入事件という実在の事件を題材にした人形浄瑠璃作品で、のちに歌舞伎にもなった。事件の発端は、元禄十四年(一七〇一)に起こる。時の赤穂藩主・浅野内匠頭長矩は、勅使饗応掛という役職に就いて、江戸城内にいたが、そこで、彼を監督する立場にあった吉良上野介義央に切りつけてしまう。浅野内匠頭は即日切腹を命じられる。これに対して、赤穂藩浅野家の家老・大石内蔵助良雄は、赤穂浪士四十六人を率いて、元禄十五年(一七〇二)、主君浅野内匠頭の恥辱を雪ぐため、吉良上野介の家へと討ち入った。
この事件について、小林先生は、「忠臣蔵Ⅰ」で次のように言う。
――私は、戦争中、或る学校で、「忠臣蔵」の史実について、講義というほどの事ではないが、引続き話をした事があるので、事件に関し少しばかり知識を持ち、興味を抱いているのだが、近頃の学校の歴史でも、又、最近広く読まれた日本史などを見ても、この事件は、歴史家によって全く軽んじられているように見える。どうも気の食わぬ思いがしている。(新潮社刊『小林秀雄全作品』第23集p.223)
そして、続く箇所で、たしかに、外的に見えるのは、浅野内匠頭と吉良上野介という「極くつまらぬ事から起った二人の武士の喧嘩」であり、それが大石内蔵助ら赤穂浪士四十七人が「人数を殖やした大喧嘩で始末をつけた」事件というだけのことではあるが、「大事なのは、一週間もしないうちに、事を扱った芝居が現れた、当時の知識階級の代表者達も、一斉に、事件を論評した事だ」と言っている。そうした小林先生の意には反して、現代の歴史家たち、あるいは歴史教育は、赤穂浪士事件を軽視あるいは黙殺している。なぜだろうか。小林先生は、事件と同じ元禄期の美術家である尾形光琳の「燕子花図屏風」は歴史教育でも必須の知識となっていることを踏まえて、次のように力強く問いを発する。
――そこで、日本史の再検討という事で書かれる、現代の日本史が、討入事件を軽視している理由を推察すれば、こういう事になるだろう。討入の精神上の影響力の甚大は認めるが、これは、現代では、もはや殆ど価値を認める事の出来ぬものになったという考えに基く。これに引きかえ、光琳の「かきつばた」の影響力は、現代の精神にも未だ訴える力を持っている、と。では大石良雄の封建的思想と尾形光琳の封建的美とは、それほど風の変ったものか。「かきつばた」の現した美が、今日も尚生き長らえているのは、その美は、封建的という言葉では言い尽くせぬものを持っていたからではないか。では、内蔵助の思想が古びたのはまさにそれが封建的思想で言い尽くせるものであったからか。芸術と思想とは、それほど異ったものか。(新潮社刊『小林秀雄全作品』第23集p.224~5)
ここで小林先生が、「封建的」という語を持ち出しているのは、現代の歴史家に合わせて、そう表現しているのだろう。小林先生は歴史家たちに問うている。君たちは赤穂浪士事件も光琳の屏風も、近世日本特有の「封建的」な特徴を有するというようなことを言うだろう、そして「封建的」という言葉をそれらに張り付けるとき、現代からすれば価値のない、古びたものだ、という印をつけるに等しい、しかし考えてみれば、もし光琳の屏風が「封建的美」と一言で片付くものなら、その美が現代において重視されることはなかっただろう、それを重視するのは、「封建的」などという言葉で言い尽くせぬものがあるからではないか、そうであるならば、赤穂浪士事件を「封建的思想」と一言で片して不要な知識とするのは、おかしな話ではないか。小林先生が憂いたのは、病んだ歴史風潮であった。
では、この歴史風潮が見落としている事件の真実とは何だろうか、その問いを、小林先生は、深めていこうとする。注目するのは、赤穂浪士事件の発端である、浅野内匠頭のことである。朝の十時頃に起こった内匠頭と上野介の喧嘩は、その日の暮方六時頃の内匠頭の切腹で一旦決着を見せた。それまでの時間の内匠頭の言動で「動かせぬ確証に基いて、言えるようなものは何一つない」のだが、切腹前に、内匠頭は、検使(切腹に立ち会う役人)に三つの発言をしており、云々、と逸話が紹介される。その後で、こう書かれる。
――こういう言い伝えが、みな本当だったとしても、又、この他に、もっと本当らしい言い伝えがいくつあったとしても、彼の心事を推測する足しになるだろうか。(中略)彼は、上野介に切付けた時、思い知ったかと大声を発したと言われるが、それが確かでないとしても、思い知ったのは当人であった事に、間違いはあるまい。ところで、彼は、何を思い知ったのか。(新潮社刊『小林秀雄全作品』第23集p.227)
小林先生が目を凝らすのは、浅野内匠頭の「心事」である。それを推測するに足る証拠はないし、仮にあったとして、それが何だというのだろうか。証拠の有無にかかわらず、内匠頭が上野介に切付けた瞬間から、切腹の直前まで、否が応でも「思い知った」ことがあるのは、確かに信じられる、と小林先生は言っている。これに続く箇所を、長くなるが引用する。
――ここに、歴史家が、素通りして了う歴史の穴ともいうべきものがある。穴は暗い。それは、あんまり個人的な主観的な事実で、詰っている。そのようなものにかかずらっていると、歴史の展望を見誤るおそれがある。それは一応尤もな事だが、もう少し正直に考えてみよう。穴は過去の歴史の上に開いているばかりではない。私達の現在の社会生活の何処にでも口を開けている。窮境に立った、極めて難解な人の心事を、私達の常識は、そっとして置こうと言うだろう。そっとして置くとは、素通りする事でも、無視する事でもない。そんな事は出来ない。出来たら人生が人生ではなくなるだろう。経験者の常識が、そっとして置こうと言う時、それは、時と場合によっては、今度は自分の番となり、世間からそっとして置かれる身になり兼ねない、そういうはっきりした意識を指す。常識は、一般に、人の心事について遠慮勝ちなものだ。人の心の深みは、あんまり覗き込まない事にしている。この常識が、期せずして体得している一種の礼儀と見えるものは、実際に、一種の礼儀に過ぎないもの、世渡り上、教えこまれた単なる手段であろうか。
一種の礼儀だとしても、この礼儀が人間社会に下した根はいかにも深いものと思われる。今日は、心理学が非常に発達し、その自負するところに従えば、人心の無意識の暗い世界もつぎつぎに明るみに致される様子であるが、だが、そういう探究が、人心に関する私達の根本的な生活態度を変える筈はない。変えるような力は、心理学の仮説に、あろうとも思えない。私達は、人の心はわからぬもの、と永遠に繰返すであろう。何故か。(新潮社刊『小林秀雄全作品』第23集p.227~8)
「歴史の穴」、小林先生にとって、内匠頭の心事は、まさにそう呼ぶしかないものであった。「歴史の展望を見誤るおそれがある」とは、歴史家たちがそう思っているであろうという表現だが、その危惧によって、むしろ素通りされている「穴」がある。歴史に限らない、「現在の社会生活」にも「穴」はあり、同様の扱いを受けている。この言い方に、私達は一度立ち止まって見るべきだろう。
歴史や社会と「人の心事」という問題は、『考えるヒント』ですでに主題の差を超えて流れ続けていたものであった。たとえば、次の二つの文を読んでみよう。
――私が文学批評を書き始めた頃、歴史的或は社会的環境から、文学作品を説明し評価しようとする批評が盛んで、私の書くものは、勢い、印象批評、主観批評の部類とされていたが、其後、私は、自分の批評方法を、一度も修正しようと思った事はない。(「井伏君の「貸間あり」」、新潮社刊『小林秀雄全作品』第23集p.56)
――人間の内部は、外部の物が規制するという考え方が、現代では非常に有力であるから、戦争と文学との関係も、もっぱらそういう展望の下に、見られ、論じられている。(中略)戦争は、文学を生む事は出来ないのは無論の事だが、文学を本質的に変化させる力も戦争にはない、何も彼も文学者たる自分の心がするのだ、そうはっきり考えて少しも悪い理由はない。(「読者」、新潮社刊『小林秀雄全作品』第23集p.66)
「歴史的或は社会的環境」が「文学作品」を説明し、「外部の物」が「人の内部」を規制するというものの見方、それは、「忠臣蔵Ⅰ」の先の一節で言うところの「歴史の展望」を見通すためにはあるいは有効かもしれない。しかし、小林先生が、自ら批評家として、あるいは文学の世界の者として、初めから一貫したのは、そうした見方と全く異なるものであった。これを踏まえて、「忠臣蔵Ⅰ」に戻ってみると、小林先生の批評家としての確信が、少なくとも通念に蔓延る歴史的あるいは社会的な分析の目は、人の心事という「穴」を見ることができない、と言っているように聞こえる。
それでは、まさにその名が示す通り、「心理学」は、人の心を覗うのに適した見方を私達に提供してくれるのだろうか。「忠臣蔵Ⅰ」の先の一節の中で、「今日は、心理学が非常に発達し、その自負するところに従えば、人心の無意識の暗い世界もつぎつぎに明るみに致される様子であるが」と小林先生は言っているが、この「心理学」というのも注意が必要だ。昭和三十八年の「歴史」から引こう。
――心理的という言葉は外的という言葉と同じ意味に使われている。観察されているのは、もっぱら心の解体現象である。そして、これをリアリズムと称している。(中略)私の心理学から言えば、彼等のリアリズムとは、自己との戯れの直訳に過ぎない。だが、まさしく其処に、彼等の自負がある。「冥府」(本多注:ここでは、フロイトが「人の心」をそう比喩したことを踏まえての表現)の合理的構造は明らかになった。それは社会の合理的構造に、同じ延長の上で直結している。(「歴史」、新潮社刊『小林秀雄全作品』第23集p.95~6)
「心理的という言葉は外的という言葉と同じ意味で使われている」、これは皮肉である。人の心事を、外から無理に説明しようとする、その意味では、社会学や歴史学と同様、心理学も、他人事な分析に相違ない。そうした分析が役に立つ場面は、それ相応にあるのだろうが、「人の心はわからぬもの」と言う私達の率直な感慨に応えるものではなかろう。
厄介なのは、こうした分析が、ある種の説得力をもって、私達が「穴」、「わからぬもの」と直観した人の心事という謎を、解き明かしてくれるかのように振る舞うことだ。あるいは、ついそう期待してしまうということだ。これは、風潮や流行の問題であろう。たとえば、「歴史」の中の別の一節に、「フロイディズムはこのフロイトという人間の心を欠いている」とある。フロイディズムとは、フロイト主義という意味だ。フロイトは、精神分析学の創始者である。一人の人間であるフロイトの思想が、本来「抑制」されたものであったと、小林先生は彼の自伝を読んで気づく。しかし、そうした努力は無視され、フロイディズムという「流行」になってしまっていた。そのことを指して、「フロイディズムはこのフロイトという人間の心を欠いている」と言っているのだ。改めて言葉を見てみれば、自称か他称かは知らないが、フロイディズムという呼称そのものが、フロイトという人を置き去りにして勝手に成長する、歪んだ有り様を示しているように見える。
「忠臣蔵Ⅰ」に戻ろう。
――未経験者は措くとして、人の心はわからぬものという経験者の感慨は、努力次第で、いずれわかる時も来るというような、楽天的な、曖昧な意味を含んではいない。これには、はっきりした別の含意があって、それがこの言葉に、何か知らぬ目方を感じさせているのである。それは、人の心が、お互に自他共に全く見透しのような、そんな化物染みた世間に、誰が住めるか、と言っているのだ。常識は、生活経験によって、確実に知っている、人の心は、その最も肝腎なところで暗いのだ、と。これを、そっとして置くのは、怠惰でも、礼儀でもない。人の意識の構造には、何か窮極的な暗さがあり、それは、生きた社会を成立させている、なくてはかなわぬ条件を成している、と。私は、わかり切った事実を言っている。あまりわかり切った事実で、これを承知している事が、生きるというその事になっている。従って、この事実への反省は稀れにしか行われない、と言っているのだ。
尋常な暮しのうちに尋常に生きている私達の心は、人間についての、あまり抽象的な説明に出会えば、そこで何か不正が行われているように、或は何か滑稽が演じられているように、実に鋭敏に反応するものだ。これは生活人の一種微妙な警戒心なのだが、心理学や社会学に制圧された現代の知識人は、人間生活に関する抽象的な、図式的な限定なり説明なりに対して、驚くほどこの警戒心を失って了っているように見える。「封建的なるもの」という言葉に対しても同じ事だ。強張った表情で対するだけで、まるで生きた反応を示していない。これは、精神の活力の或る衰弱を語るものではあるまいか。衰弱が、誇張された言論や、空威張りの行動となって現れるのも、見易い理ではないのか。(新潮社刊『小林秀雄全作品』第23集p.228~9)
「歴史の穴」の暗さは、「人の心は、その最も肝腎なところで暗い」、「人の意識の構造には、何か窮極的な暗さ」があるという事実に由来する。こうした事実を、「人間についての、あまり抽象的な説明」は看過する。そうした説明が横行している様はすでに見た通りだが、小林先生の言葉に従って改めて繰り返すなら、「心理学や社会学に制圧された現代の知識人」による、「人間生活に関する抽象的な、図式的な限定なり説明」の流行のことである。この一節自体は、あくまで「忠臣蔵」、赤穂浪士事件に関することだが、『考えるヒント』を通じて小林先生が痛感したのは、何を語ろうとしても、そうした説明が通念上まかり通っている現状があるということ、それが、私達と、本当の意味での社会や歴史、そして人の心事との出会いを阻んでいるということだったのではないか。
さて、「忠臣蔵Ⅰ」の一節を、それより前に書かれた『考えるヒント』の別の作品を重ねながら読むということを進めてきたが、もう一つ、上の引用内で熟視したい言葉がある。それは、「常識」である。これは稿を改めて思索することにしたい。
(つづく)
一 「あやしさ」の表情を見つめること
『本居宣長』も最終部に近づく四十三回は、「古事記伝」に現れた神についての「長々しい註釈文の姿は、神を論って、殆ど支離滅裂の体為にも見える」と述べて、この宣長による「迦微」という言葉を註釈した文章の奇妙さに、ことさらに注目している。そこで神を説くための言葉と文章が、このような「姿」になるのは何故なのか。つまり、人に合理的な理解を得られるような言葉、容易に共有化が可能なような、分かりやすい説明文にならないのは何故か。実はそのことを問いかけるのが「宣長の真意」であり、その難問を説き明かす言葉を紡ぎ出そうとしても、神とは何かを考える行為自体がこれを許さなかったという事態、いわばある特権的な経験を十全に象る表現方法の特殊性という微妙な問題への想像力を、読者に促しているようにみえる。そして、この本質的な難問への逆向きな考察例として、熊沢蕃山の「三輪物語」を批判した宣長の文章を引いていく。これは周知のように『玉勝間』(1)の五の巻冒頭部の「熊澤氏が神典を論へる事」、「あやしき事の説」、「また」、「漢籍と神御典とのけぢめ」という一続きの文章に展開される趣旨を踏まえているものである。神々の物語を叙述する手段として、「神書は、むかしの伝へをそのまゝかゝで、はるばる後の世に、寓言して書きたり」というのは、未開の古き世であったがためという不可抗力的な人智の限界を結論としてしまうこと。すなわち、「神書」の記す物語の「あやしさ」を、「理を明らか」にする術のない伝承者、書き手の知性の限界と表現技法の拙さに帰する儒学者の習癖に対して、宣長が言う「あやしきこと」とは何か、これをどう扱うのが適切なのかが説かれることになる。
まづ、神の御典を、いはゆる寓言也と見たるは、めづらしくもあらぬ、例のじゆし意や也、すべて儒者は、世中にあやしき事はなきことわりぞと、かたおちに思ひとれるから、神代の事どもを、みな寓言ぞ心得たり……(略)……人の智はかぎり有て、及ばぬところ多きことを、えさとらで、よろづの理を、おのがさとりもて、ことごとく知つくすべき物と思へる、からごころのひがごと也、すべて世中のことわりは、かぎりなきものにて、さらに人のみじかき智もて、しりつくすわざにあらざれば、神代の事あやしとて、凡人のいかでかはたはやすくはかりいはん……
(「熊澤氏が神典を論へる事」二三九)
「寓言」、たとえ話の向こう側には、必ずたとえられている事実が潜んでいる。そのどちらが主であるかと言えば、もちろん事実の方であり、それが合理的に解釈できれば「寓言」としての物語叙述のあり方は問題にされない、という受け止め方が「寓言」の「寓言」たる所以である。そしてこの読み方の前提こそが、世の事象の合理性には漏れも隙もないという思想であり、つまりは「理」から零れ落ちる謎や<怪>は一切あり得ない。それに対して、人智の限界を常に見据えている思想にとっては、拙き「寓言」と見えている物語叙述の<怪>は、それを遥かに遠ざけて見る合理論以前の、<怪>そのものが発動し、言葉を纏って象ろうとする表現動機の動きつつある形そのものを感じ取ろうとするだろう。さらに、こうした世界の合理的解釈の妥当性自体が時代や社会、文化によって相対的なものでしかなく、合理的解釈の納得の仕方や基準は、実はその時々で変化していること、すなわち、ある合理的解釈は厳密に言えばその時点での合理論に依存しているだけだということである。それは、たとえば近代哲学史を記した啓蒙書でも繙けば一目瞭然のはずなのだ。そうすると、この世の中に次々に現れる実に多様な<怪>も、ある合理的解釈に取り込まれたり、時を経れば他の合理的解釈へ回収されたりして、その了解の仕方は相対的と言わざるを得ない。つまり、今の「理」で解釈可能な<怪>は、その時には「事」として確認が可能であっても、時が過ぎれば「事」から再び<怪>へと変転する。そこを突いた宣長の批判が「あやしき事の説」の主眼なのである。
すべて神代の事どもゝ、今は世にさる事のなければこそ、あやしとは思ふなれ、今もあらましかば、あやしとはおもはましや、今世にある事も、今あればこそ、あやしとは思はね、つらつら思ひめぐらせば、世中にあらゆる事、なに物かはあやしからざる、いひもてゆけば、あやしからぬはなきぞとよ
(「また」二四一)
<怪>で満ち溢れ、それらが錯綜している世界こそが先験的に存在し、その中からその時の「理」が了解可能な有様を、しかし限定的に構成している。つまり、あたりまえであるモノ、改めて思い巡らす必要もなく普通であるモノ、それらを前提として思考を出発させて不都合とは思われないモノ。たとえば、そういう疑う余地のない現実世界に我々が生きているということ、それ自体が実は現在の「理」による暗黙の了解に過ぎないのではないか、そういう地点まで退いて、自明の現実としか思われない世界を点検すれば、なんのことはない硬く不変と思って来た現実世界とは、我々の「理」という思想が組織した構築物であったというわけである。あるいはそれを「日常」と言い換えてもいい。しかし、この「日常」は、人智の遥かに及ばない自然の強大な力の前では、いとも簡単に崩壊してしまうではないか。そして、こうした経験が現在の「理」では想像もつかないほど頻繁に出現していた時にあっては、この「日常」を突き動かし反転させる強大な力との出会いの衝撃から、この経験を認識しようとする努力、それと向き合おうとする言葉の発生を深刻に考えてみる必要があるだろう。
したがって、「神書」に描かれた「あやしき」物語とは、原初に発生した「あやしき事」の威力についての切実な経験が、いつしか、誰の、ということもない言葉となり、文章となり、遂には物語となって展開して来たものであるという受け取り方へ姿勢転換することを求めているということなのであろう。それでは、我々にどういう姿勢を取ることを要請しているのであろうか。もう言うまでもなく、「あやしき事」を別の事へ、明解な「日常」の事へ置き換えることで理解したと納得するのではなく、「あやしき事」が伝承されて来た過程において、その身に纏った言葉の姿形を見定め、その淵源から身を起こした動きそのものを掬い取ろうとする行為、その中で淵源の威力を見定めようという努力と実践をしなければならない。すなわち、合理論を廃棄し、すべては、<怪>でしかないという不可知論の徹底まで、いったんは退いた上で、その<怪>の淵源から積み重ねられて来た言葉、それが「あやしき」物語であるならば、その言語行為に寄り添い、模倣しようとするような行為論への転換を決断するということなのだ。
論の端緒に戻るなら、「世中にあやしき事はなきことわりぞと、かたおちに思ひとれる」という認識は、実は限定的な「理」の働きの結果に過ぎない。しかし、この「理」の中にいるということに気づかない限り、「あやしき事」は我々から遥かに遠ざけられ、日常世界の普通のモノへと対象化されてしまうのである。
さて、『本居宣長』四十三回の前半部に引用、言及された「玉勝間」の文章について考察して来たが、こうした「神書」への対応の仕方の転換を促すことを、この『本居宣長』の本文は、「神代の伝説は、すべて神を歌い、神を物語ったものだ。ただ、題を神に取っている点が、尋常な歌や物語と相違するのだが、そこが相違するからと言って、歌や物語でなくなるわけはない」とした上で、さらに次のように敷衍している。
歌の魅力が、私達を捕えるから、私達は歌に直かに結ばれるのであり、私達の心中で、この魅力の持続が止めば、歌との縁は切れるのだ。魅力の持続を分析的に言ってみるなら、その謎めいた性質の感触を失えば、古伝説全体が崩れ去るという意識の保持に他なるまい。それなら、そういう意識は、謎が、古伝説の本質を成す事を確かめるように働く筈だろうから、謎は解かれるどころか、むしろ逆にいよいよ深められる事になろう。
それが、宣長が「古事記」を前にして、ただ一人で行けるところまで行ってみた、そのやり方であった。彼は、神の物語の呈する、分別を超えた趣を、「あはれ」と見て、この外へは、決して出ようとはしなかった。忍耐強い古言の分析は、すべてこの「あはれ」の内部で行われ、その結果、「あはれ」という言葉の漠とした語感は、この語の源泉に立ち還るという風に純化され、鋭い形をとり、言わばあやしい光をあげ、古代人の生活を領していた「神しき」経験を、描き出すに到ったのである。
(四十三)
「あやしき」物語を「あはれ」と観じて、そのまま受け入れる行為を持続して行けば、その物語の<怪>は、遂に<神>の姿を帯びて見えてくるというのである。さらにこの「あはれ」の魅力に忘れずに保持する努力について、宣長が敢行したことが「自照を通じての「古事記」観照の道だった」とする。もちろんここで言う「自照」も「観照」も、通念的な意味合いで使用されているわけではない。向こう側に遠ざけられた対象を、主観を交えず冷静かつ客観的に観察する態度を言うのではない。この文脈においては、自らへの意識をそのまま深化させようとする努力の中で、「古事記」を観じていくという一連の行為においての動的認識を示唆しているのであって、ここでも、先に記した読書態度の転換へと我々を促し、我々を、読者を試みていると言うべきである。
二 文の表情を眺めること
この四十三回の後半では、宣長と真淵の関係についての「締め括り」を書くとして真淵の「国意考」に描かれた「古道」についての議論へ分け入り、宣長と真淵の学問の決定的な違いについて、四十七回までを費やして考察して行くことになる。そして、ここで問題となって来たのは、やはり「あやしき事の説」から身を起こした問題意識であり、真淵が「萬葉集」から「祝詞」へ、「万葉のますらをの手ぶり」からさらに遡って「人まろなどの及ぶべき言ならぬ」「上古人の風雅」を「祝詞」の文章表現に見て取って、自らの「古道」を解明しようとしたところへ言及していく。
「天下の人、大を好て、大を得たる人なし。故に、己は小を尽て、大に入べく、人代を尽て、神代をうかがふべく思ひて、今まで勤たり。……」
(四十三回)
真淵が宣長へ送った最後の書簡をこのように引用しつつ、晩年の真淵においては、追究した「国意」の核心をなすべき「古道」への憧れに集中する余り、それは人為、人智を廃し、「心のいにしへ」へ還ることに他ならないと主張することになったところに注目する。この真淵の思いが、天地自然の道に従うことを是としたために、老荘思想の「天地自然」の重視と神道との親和性へ言及していくが、しかし、実はそこに宣長との決定的な差異があると次のように指摘する。真淵の「国意考」と、宣長の「直毘霊」の近似性を認めつつも、真淵が提出した「原型」を「宣長流に模倣した」記述が現れてはいるが、「その機微は深く隠れていた」とする。それが「老荘の意は、神の道にかなうという真淵の考えに対し、宣長が称えた反対」に端的に示されていると、宣長の「くず花」を引用する。
「かの老荘は、おのづから神の道に似たる事多し。これかのさかしらを厭て、自然を尊むが故也、かの自然の物は、こゝもかしこも大抵同じ事なるを思ひ合すべし。但しかれらが道は、もとさかしらを厭ふから、自然の道をしひて立てんとする物成る故に、その自然は真の自然にあらず、もし自然に任すをよしとせば、さかしらなる世は、そのさかしらのまゝにてあらんこそ、真の自然には有べきに、そのさかしらを厭ひ悪むは。返りて自然に背ける強事也、さて神の道は、さかしらを厭ひて、自然を立んとする道にはあらず、もとより神の道のまゝなる道也、これいかでかかの老荘と同じからん、されど後世に至りて説くところは、かの老荘といとよく似たることあり、かれも自然をいひ、これも神の道のまゝなる由をいえば也、そもそもかくの如く、末にて説くところの似たればとて、その本を同じといふべきにもあらず、又似たるをしひて厭ふべきにもあらず、人はいかにいふ共、ただ古伝のまゝに説くべきもの也」
(四十三)
さて、上記のように真淵と宣長の「似て非なる」関係を叙述して来たところで、その主旨が真淵と宣長の思考の対比的な関係から、その是非を明らかにすることにあるのではないとする。つまり、「古道」と老荘思想との親和性を強調する真淵に対して、反論する宣長という構図を描くことが問題なのではないと、次のように続ける。
ここに、煩を厭わず、二人の曖昧な文を、幾つも挙げるのも、生きた思想の持つ表情を感じて欲しいと思うからで、この感じを摑まえていないと、古道に関する二人の思想が、どう出会って、突き当たり、受け継がれたかという、言わば、思想が演ずる劇とでも言うべきものを、語る事が出来ないからだ。
(四十三回)
実を言うと、私は、この先に記述されている一文に触発されて本稿を書き起こしていると言ってもいいので、この「生きた思想の持つ表情を感じ」取るとはどういうことか、それを目標に論を重ねて行くが、ここでまず、そのことを自ら証する文章として、引用文に続くところを確かめてみよう。
右の「くず花」中の文の表情を眺めていると、やはり宣長が、当時の儒家のうちで、最も重んじていた徂徠の顔が浮かんで来る事を、附記しておこう。……古道を言うのに、老子を持ち出すのは、賛成出来ないと言う宣長の口吻には、明らかに徂徠の老子観が感じられる。……
(四十三回)
真淵と宣長の「古道」、「神の道」の把握の仕方、その対照性について詳述しながらも、宣長の文章の深層に荻生徂徠の顔が透けて見えてくるという指摘は、しかし、単なる影響関係などという安っぽく稚拙な発想を述べているのではない。これは文の表情について眺め入るという経験に基づいて発想されていたことを、先の引用でも押さえたはずである。そして、「老子についての徂徠の考えは、既に書いたから繰返すまい」として、この四十三回は終わるのだが、このさりげない示唆に気づいた読者は、そのまま三十二回へ連れ戻されるのだ。そしてこのように必要に応じて読者に再読と熟考を促して止まないという文体の仕組みこそが、『本居宣長』全体を組み上げているのである。それは、本誌2022(令和4)年春号「<時間論>Ⅳ」の「三 旋回する文体」、また、同年夏号の「<時間論>Ⅴ」の最後に記した通り、「旋回する文体」の端的なあり方を示している。
三 徂徠の面影
『本居宣長』に荻生徂徠が登場するのは、四回、五回、九回、十回、十一回、三十二回、三十三回、三十四回そして先に引用した四十三回である。これらに記された徂徠の学問への言及と、そこに描かれた徂徠像について、実は本誌「好*信*楽」のバックナンバーにおいても多くの論考が重ねられて来ているので、まずは先行する諸論考について振り返ってみよう。
①坂口慶樹「「興」のはたらき・「観」のちから」(2018年2月号)、②安田博道「荻生徂徠が信じた[言葉]」(2019年9・10月号)、③小島奈菜子「言葉の世界で物を見る」(2020年1・2月号)、④池田雅延「小林秀雄「本居宣長」全景二十三「独」の学脈(中)」(2020年1・2月号)、以降、池田雅延の連載稿が続き、⑤「「本居宣長」全景」二十四「「独」の学脈(下)」(2020年3・4月号)、⑥「「本居宣長」全景二十六「言は道を載せて」」(2020年秋号)、⑦「「本居宣長」全景二十八「歌の事から道の事へ」」(2021年春号)、⑧「「本居宣長」全景三十二「反面教師、賀茂真淵(四)」」(2022年春号)の5本の論考がある。また同年同号には、⑨庄宏樹「なぜ「学問は歴史に極まる」のか」(2022年春号)があり、この次の号には、⑩小島奈菜子「「物」としての言葉」(2022年夏号)が掲載され、この後、小島論はこのテーマに関わる考察をさらに展開し、現在までこれを継続していると言って良いだろう。つまり、⑪「荻生徂徠の「物」と「心」」(2023年春号)、⑫「「興」――言語の本能としての比喩の働き」(2024年冬号)、⑬「「ながむる」――事物と人情が親和する行為」(2024年夏号)というように、2020年以降の小島論には荻生徂徠の言語論を『本居宣長』の全体を支える基本構造へ向けて拡張して行こうとする試みで一貫している。
これらの各論は、『本居宣長』に引用言及されている徂徠の言葉とその思想を、それぞれの論者が自らの言葉を傾けて、掴み取ろうとした試み。いわば、各々の<歌>の萌芽から紡ぎ出された文章に他ならないが、その要点のみを確かめておこう。
①坂口論は、『本居宣長』三十二回と三十四回に渡って言及される徂徠の言葉、特に『論語』陽貨第17の「詩」の「興」、「観」の機能の中、言語の本質としての「転義」の動きを見出すところ、「ここに何かがあると直覚した」というのは注目すべき表現である。②安田論は徂徠の言語論の核心部、「辞ハ事ト嫺フ」と命名行為の関係を考察する。③小島論は、「興」の効力から言葉としての名が「物」を喚起する過程を説き、ベルクソンの用語「イマージュ」へ展開する。徂徠の「物」を解こうとする序章であろう。さて、④から⑧まで徂徠に関わるすべてに目配りをした池田論中の白眉は⑤の「独の学脈(下)」である。吉川幸次郎の、解説の域を遥かに越えた、厖大にして緻密な「徂徠学案」(『荻生徂徠』日本思想大系36岩波書店所収)を繙きつつ、徂徠の編み出した「古文辞学」の方法の確認だけでなく、これを自らの文章として実践したものである。これは「古文辞」への関わり方、「今言ヲ以テ古言ヲ視ル」なという徂徠の言の「体翫」(仁斎)に他ならない。⑨庄論は、「徂徠先生答問書」の「学問は歴史に極まり候事に候」というその「歴史」の内実を探って、「礼楽」を尊重した徂徠は「幽蘭」なる古琴の曲の復元まで試みたことを紹介する。
そして、⑩から⑬の小島論は、徂徠の詩論「興」、「観」の考察から「名」と「物」との本来的な絆を浮き彫りにしようという姿勢で一貫している。そこで特筆すべきは⑪から⑬の近作で、『本居宣長』にて引用、言及されている徂徠の言葉、文章をもう一度徂徠の著した原典に戻り、周囲の文脈を改めて確かめつつ、そこから再び『本居宣長』の文章を見つめ直すという高密度な論を展開している。小島論の核心は、まずは徂徠から宣長に繋がる言語論を逍遥するかに見えるが、実はこれらの考察の深部には徂徠の表現した「物」という概念に潜んでいる大きな拡がりへ、その可能性への強い憧れが感じられる。
以上、『本居宣長』全体に見え隠れする徂徠の言葉に関わる言及を、本誌の先行諸論において、簡潔にではあるが確認したこととする。
では、ここで『本居宣長』以外の小林秀雄の批評作品に引用言及される荻生徂徠の姿を見渡してみれば、さらに遡って幾つも拾うことが出来る。これについては『好*信*楽』2022(令和4)年春号「<時間論>Ⅳ」に詳しく記したところであるが、1958(昭和33)年の「新潮」5月号から1963(昭和38)年同6月号で中断するまで書き続けられたベルグソン論、「感想」の連載中に、中江藤樹、伊藤仁斎、そして荻生徂徠に関わる批評作品を矢継ぎ早に発表していたのであった。なかでも荻生徂徠の学問への言及がもっとも充実した内容を持ち、費やした紙数ももっとも多いだろう。
「文藝春秋」での連載稿「考へるヒント」シリーズを中心に、徂徠に触れている文章が、もちろん深浅の別はあるものの、随所に現れている。1961(昭和36)年は、「忠臣蔵Ⅱ」、「学問」、「徂徠」、「弁名」。翌1962(昭和37)年は、「考えるという事」、「ヒューマニズム」、「天という言葉」、1963(昭和38)年は、「哲学」、「天命を知るとは」、「歴史」、「物」。そして1964(昭和39)年には「道徳」(6月)というように「感想」連載中から中断の後を貫き、1965(昭和40)年の「本居宣長」連載開始に到るまでの時間において、徂徠への言及は繰り返されていたことになる。そして、これらの中で先ず押さえておきたい文章が「考えるという事」である。そこに、荻生徂徠の著作の読後感が率直に記されている。
徂徠は、宋儒の理学に正面から衝突し、これを批判したから、彼の知性の動きは、明らさまに現れている。その分析力の精到は、「弁道」や「弁名」を読んでいて感嘆の情を禁じ得ない。同時に、私は、感嘆してみて、初めて感得出来る何かが其処にある事を知る。
(「考えるという事」)
小林秀雄が荻生徂徠の著作を手に取り、これを精読する契機となったのは、1961年の「学問」冒頭部に記されているように、「忠臣蔵」で山鹿素行の思想を追跡する結果として、その先に拡がって来たのが「我が国の近世の学問とか思想とかという厄介な問題」であったというが、1958(昭和33)年には「論語」と題する文章があり、翌1959(昭和34)年には「好き嫌い」で伊藤仁斎についての詳述が見えるし、1960(昭和35)年には「言葉」において本居宣長の言語観に言及している。つまり、1960年前後の時期にこれらの話題に集中して取り組んでいるからには、特に伊藤仁斎から荻生徂徠への儒学思想の流れについても視野に入っていたはずであるし、1960年には「本居宣長――「物のあはれ」の説について」という充実した宣長論が展開されており、この作品の核心部に、本居宣長が繰り返し論じた言葉、言語の捉え方、その生態についての洞察が示されていたことは看過できない。これを踏まえれば、「考えるという事」がこの作品の後に続く変奏の一つとしての意味を帯びて来る。すなわち、「物のあはれ」の説の中に、単なる感覚的な美意識を脱して、極めて動的な言語観を把握した深層には、宣長と徂徠の言語観が親和性をもって重なっているという直観が、この「考えるという事」に表現されていると考えられるのである。
「考えるヒント」という題を貰って、考えつくところを、こうして書いているわけだが、前に、徂徠の「弁名」にふれたので、宣長が、この考えるという言葉を、どう弁じたかを言って置く。
(「考えるという事」)
と開始されるが、つまり徂徠が実行した<弁名>という思考、儒教思想の依拠する概念語を改めて吟味するということを、宣長が「考える」という語の成立をどう解したか、そこに移行して確かめてみるということ。そして、それが「考える」という行為を正すことに繋がり、宣長自身の学問基盤を形成していたことを説きつつ、「この点では、徂徠も同様であったと見てよい」と言う。
彼の「弁名」によると、学問で貴ぶべきものは先ず「思」とか「思惟」とかの働きであるが、「思」とともに「謀」という働きを持たねば、学者としては駄目だ、と考えている。「思」は主として心に関して言われる言葉だが、「謀」とは、人の為に謀る、人に就いて謀ると言うように、主として営為、処置、術を指す言葉だ。「思」が精しくなり、委曲を尽せば、「慮」となり、「慮」を以って事に処せば、必ず「謀」となる。これは一貫した人間の働きであって、学者が、これを、ばらばらにしてよい訳はない。なるほど、これは、全く常識に適った見解である。宣長も徂徠も、この常識的見解を取って動かなかった思想家で、二人の眼には、当時の学問の大勢が、空漠たる物しりの多弁と映じていた。
(「考えるという事」)
というように「考える」という語の活動する領域を、「一貫した人間の働き」として把握するところに、宣長と徂徠の思想における根底の一致を見る。そして、宣長が「直毘霊」において「古の大御世には、道といふ言挙もさらになかりき、其はたゞ物にゆく道こそありけれ」と言い、古代の人々の生きる術が、それ自体として抽象化された概念である「道」などという言葉で表現されたことはなかったと注意を促す。そしてここでも宣長と徂徠との密接な関係に言及し、彼らの言語観を集約して説いている。
宣長の言う「物」には、勿論、精神に対する物質というような面倒な意味合いはないので、あの名高い「物のあはれ」の「物」である。宣長も亦徂徠の言う「世ハ言ヲ載セテ以テ遷ル」と言う事について、非常に鋭い感覚を持っていた。宣長は「下心」という言葉をよく使うが、言葉の生命は人が言葉を使っているのか、言葉が人を使っているのか定かではないままに転じて行く。これが言葉に隠れた「下ごころ」であり、これを見抜くのが言語の研究の基本であり、言葉の表面の意味は二の次だ、という考えである。……(略)……宣長にとって、「物」とは、考えるという行為に必須な条件なので、「物」という言葉は、そのように働けば、それで充分な言葉なのである。前に言ったように、「考える」とは、何かをむかえる行為であり、その何かが「物」なのだ。徂徠が、「物トハ教ヘノ条件ナリ」と言う時も、同じ事を言っているのである。
(「考えるという事」)
なお、この作品が書かれる少し前に「弁名」と題する文章を書いており、その終わり近くに徂徠の『弁名』の読後感を「徂徠の説くところは、生き生きとしていて、少しも古くなっていない。彼は言葉が、個人を越えた社会的事実である事を、はっきり見て取っていた」と述べ、「徂徠という人間が、言語問題の本質的な難解に当たって砕けている様が、躍如としているというところに「弁名」の魅力はある」と結んでいた。
もちろん、宣長と徂徠の関係、特に言語論的な親和性については夙に知られているところで、『本居宣長全集』第九巻の「古事記伝」の「解題」を草した大野晋(2)も、「今回の調査で判明した、宣長自筆の『徂徠集』と名づけた小冊」に言及し、「徂徠の学問の中心的な思想は、言は事であるという点にある。宣長は言葉によって事柄を明らかにするという徂徠の方法を、心の底深く学びとった。この方法が、後の、『古事記伝』全部を貫く基本的姿勢として確固と守り通されている」と指摘している。しかし、この「言は事」であるという言語論的思考の徹底性を具体的に、「歌」と「詩」という特殊な言語行為の中に探ろうという試みは、小林秀雄の『本居宣長』において、初めて精密かつ個性的な文体を以って実行された、というのが私の論点である。その四十三回の読解から、『本居宣長』以外の批評作品に荻生徂徠を説くところを見渡してみたが、それらの記述が、本居宣長の言語観と重なりあって『本居宣長』本文の大きな支えとなっているという構造を、改めて熟考すべきではなかろうか。
四 詩の機能
それでは、荻生徂徠を論じている小林秀雄の言葉に、さらに分け入って行こう。先に挙げた「弁名」の中には、徂徠の言語観を端的に把握した記述が見て取れるので、まずはそれを押さえておきたいが、「徂徠」において記された「古文辞学」の淵源、つまりは徂徠の学問の始発の動機が「四書五経素読の吟味役」を長く勤めた際に「本文ばかりを、年月久しく、詠め暮し」たという特殊な経験に胚胎しており、しかも、この経験の内実が経書の言葉自体についての学究的な指向性を有していたからではなく、それは「審美的な性質」(「弁名」)を帯びたものであり、それを考えなければ徂徠の創始した「古文辞の研究の筋道を、決して理解する事は出来ない」(同)とする。こうした言語、文章への向き合い方の示唆が『本居宣長』における「詩」についての考察へ向かって、小林秀雄の記述は進展して行ったように思う。
四書五経を、「見るともなく、読ともなく、うつらうつらと見居候内に」浮んだ様々な疑いを種として、経学とは、かくの如きものと合点するに至ったとまで極言している事は、既記の通りだが、このような書物に対する経験の性質について、こう言って誤解されなければ、その審美的な性質について、考えるところがなければ、彼の古文辞学の研究の筋道を、決して理解する事は出来まい。……(略)……
では、読むともなく、見るともなく、詠められた古文辞とは、徂徠にはどういう物であったか、無論、これは言い難い事だが、別段不思議な経験ではないだろう。例えば岩に刻まれた意味不明の碑文でも現れたら、これに対し、誰でも見るともなく、読むともない態度を取らざるを得まい。見えているのは岩ではなく、精神の印しに違いない。だが、印しは読めない。だが、又、読む事を私達に要求している事は確かである。言葉は、私達の日常の使用を脱し、私達から離れて生きる存在となり、私達に謎をかけて来る物となる。徂徠が、古文辞を詠め暮らして出会ったものは、そういう気味合いの言葉の現前であって、これが、彼が経学というものを合点する種となったと言うのは、この経験によって、言葉の本質に触れたと信じたという意味なのだ。
(「弁名」)
さらに、このことから「特定の古文辞に限らず、古い過去から伝承して来ている私達のすべての言葉には、みなその定かならぬ起原を暗示している意味不明の碑文の如き性質が秘められている事を知るであろう」と続け、それなら学問は「先ず言語の学でなければならぬ筈だ」と『弁名』という著作が文字通りに『弁名』と題された所以を指摘している。 この徂徠が「徂徠先生答問書」の下巻で、「朱子之新注」が「聖教のはしご」にはならないこと、そうした儒学の伝統的注釈を繙くことが、実は「古聖人之教」に近づく階梯ではないと答えた際に、それではどうすべきかと問者に示した自らの学に関わる経験を示す。素読の吟味で経書の本文だけを詠め暮らしていたことが自らの学問の動機になったこと、すなわち注釈に頼らず本文を見つめる読書を勧め、これを「愚老が懺悔物語」として自嘲気味に記している。これは先の「徂徠」に書かれたばかりではなく、『本居宣長』十回にも詳述されているが、重要なことは、「弁名」で徂徠の同じ経験を引き、そこに「審美的な性質」を見出したところである。
私達は、毎日、読んだり、話したりして生活している、つまり、私達が、社会生活に至便な言葉という道具を馳駆している限り、読むともなく、見るともなく、ただ、うつらうつらと書物を眺めるなどというような事は、ただぼ放心に過ぎまいが、徂徠が、自分が言葉というものについて自得するところがあったのは、この放心によった、と言うなら、話は違って来るだろう。話は逆になるだろう。
(「弁名」)
つまり、言語が情報伝達、言語的コミュニケーションの媒介としての記号である限り、あるいは、そのように我々の日常生活において運用されている限りは、我々は自ら馳駆している言葉、文章そのものに向き合うことをしない。一義的かつ透明な記号を使用していると思い込んでいる限りは、日常的コミュニケーションの場において、言葉はその度毎に消費され、伝達の機能を果たせばその場限りで雲散霧消してしまうのである。しかし、その眼前の言葉、文章が特定の指向対象と結合しない時、普通それは意味不明というケースとされ、それに対応する知識、意味をこちらが新たに補填して臨むという行為へ向かう。未知の単語にぶつかったら、辞書を調べてその意味するところを確認した後、再度読み直すというありきたりの作業をするわけだが、既定の意味なるもの自体が未知である場合にはお手上げということになる。確かに単語自体は新造語でない限りは意味の手がかりは得られるだろう。しかし、それが連なって現れる文章の発信元の明確な意思が露わになるような表現として構成されていない場合、発信元に送り返せない文章は、それ自体としての姿を我々に見せてくるばかりである。言葉そのものの姿形こそが露わになるような経験は、言い換えれば、日常の社会生活へ意味を還元するという言葉の通常の働きを諦めざるを得ない経験とは、とりもなおさず詩的言語との出会いという非日常的な世界を開く扉を押すことに他ならないのだ。
だから、「徂徠先生答問書」に記された徂徠の特殊な言語的経験は、詩の読み方を強いる経験だったというのであって、これこそが「言葉の本質に触れた」経験であり、しかもそれは「審美的な性質」のものだったと言うのである。
彼の語るところは、蕃山や仁斎とは又風が変わっていて面白い。いずれにしても、学問の方法を語るより、むしろその秘訣を語る。今言を以て、古言を視るなとは、言われればすぐ守れるようなやさしい忠告ではない。古言には古言に固有な姿がある。今言に代置されて会得されるのを拒絶している姿がある。これに出会うのがむつかしいと言うのである。
(「徂徠」)
こう記されているところから直ちに想い起こされるのは、『本居宣長』で論じられる「歌の事」であるが、これについては以前の拙稿でも書いたことであり、『源氏物語』の読解に関わる宣長の姿勢についても、『本居宣長』本文において繰り返し説かれ、「道の事」へ踏み込む準備として慎重に考察されているところであるから、ここで繰り返す必要もないと思う。しかし、荻生徂徠の詩論については、宣長と徂徠の言語観の重なりということを踏まえるなら、慎重に読み解いておかねばならないだろう。
「徂徠先生答問書」中巻で、最後の問者が、「詩文章ノ学ハ無益ナル儀」ではないかと問うのに対し、それは「宗儒ノ詞章記誦ナトト申候ヲ御聞入候事年久敷候故」の思い込みであり、つまりは「宋儒」の注釈学説等を記憶するばかりだから「詩文章」を侮る気持ちになるのだとして、「詩経」味読の効用を次のように述べる。
マツ五経ノ内ニ詩経ト申物御座候。是ハタタ吾邦ノ和歌ナトノヤウナル物ニテ、別ニ心身ヲ治メ候道理ヲ説タル物ニテモ、又国天下ヲ治候道ヲ説タル物ニテモ無御座候、古ノ人ノウキニツケウレシキニツケウメキ出シタル言ノ葉ニ候ヲ、其中ニテ人情ニヨクカナヒ言葉モヨクカナヒ、又其時其国ノ風俗ヲシラルヘキヲ、聖人ノ集メヲキ人ニ教ヘ給フニテ候、是ヲ学ヒ候トテ道理ノ便ニハ成申サス候へトモ、言葉ヲ巧ニシテ人情ヲヨノへ候故、ソノ力ニテ自然ト心コナレ、道理モネレ、又道理ノ上ハカリニテハ見エカタキ世ノ風儀国ノ風儀モ心ニ移リ、ワカ心ヲノツカラニ人情ニ行ワタリ、高キ位ヨリ賤キ人ノ事ヲモシリ、男ガ女ノ心ユキヲモシリ、又カシコキガ愚ナル人ノ心アハヒヲモシラルル益御座候。又詞ノ巧ナル物ナルユへ、其事ヲイフトナシニ自然ニ其心ヲ人ニ会得サスル益アリテ、人ヲ教ヘ諭シ諷諌スルニ益多ク候。殊ニ理屈ヨリ外ニ、君子ノ風儀風俗ト云モノノアル事ハ、是ヨリナラテハ会得ナリカタク候。(3)
この後には再び和歌に触れる箇所があるが、「此方ノ和歌ナトモ同趣ニ候得共、ナニトナク只風俗ノ女ラシク候ハ、聖人ナキ国故ト被存候」とだけ記している。
この徂徠の文章は、小林秀雄の諸作品にも引用されていないのだが、『本居宣長』三十二回冒頭で、村岡典嗣「徂徠学と宣長学の関係」中の「稿本」調査によって、宣長が徂徠の主要な著作を「京都遊学中に殆ど読まれていた事が確実になった」と記して、「今度、筑摩版全集で、未発表だった稿本に、初めて接した機会に、書いておきたい」としたその「稿本」に存在するものである。ここで言う「稿本」とは、筑摩版『本居宣長』全集第十三巻所収の未刊行の原稿「本居宣長随筆」を指しており、その中から「玉勝間」の項目へ採用された記述も多いものである。この随筆原稿に見える「詩」、「詩経」の項目にある徂徠『論語徴』からの引用については、『本居宣長』三十二回に明瞭だが、上の引用文は別の「詩」〔110〕に、「●答問書【荻生茂卿】曰、」と示されているように、「徂徠先生答問書」からの引用である。しかしこれは、『本居宣長』全五十回のどこに置かれていてもしっくり馴染む文章と思うのである。
(つづく)
【注】
(1)本居宣長『玉勝間』からの引用は、『本居宣長全集』第一巻(昭和43年5月筑摩書房)によった。
(2)大野晋「解題」(『本居宣長全集』第九巻 昭和43年7月筑摩書房)
(3)この荻生徂徠「徂徠先生答問書」からの引用文は、『本居宣長全集』第十三巻「本居宣長随筆」(筑摩書房 昭和46年9月)によっている。なお同文は『荻生徂徠全集』第一巻(みすず書房 昭和48年7月)所収の「徂徠先生答問書」においても漢字仮名遣いの別はあるが、すべて同文と確認できる。本文引用にあたっては漢字は新字に改めている。
○小林秀雄『本居宣長』と、その他の小林秀雄作品からの引用はすべて、『小林秀雄全作品』(新潮社)によった。
小林秀雄先生は「本居宣長」の冒頭で、次のように言っている。
――本居宣長について、書いてみたいという考えは、久しい以前から抱いていた。戦争中の事だが、「古事記」をよく読んでみようとして、それなら、面倒だが、宣長の「古事記伝」でと思い、読んだ事がある。(新潮社刊『小林秀雄全作品』第27集p.25)
そうして小林先生は、「古事記伝」について、宣長について、折口信夫氏と語った際、氏から「小林さん、本居さんはね、やはり源氏ですよ、では、さよなら」という言葉を受け取ったという。この話から始まる「本居宣長」は、宣長の遺書が示され、宣長の生い立ち、宣長に至るまでの近世学者たちの「学脈」、そして折口氏の言葉通り、「源氏物語」へと、話題が進んでいく。そうした経緯ののち、小林先生の中で、「古事記」について語る機がおのずと熟したのだろうか、第二十八章に至り、
――宣長は、「源氏」の本質を、「源氏」の原文のうちに、直かに摑んだが、その素早い端的な摑み方は、「古事記」の場合でも、全く同じであった。(同第27集p.310)
という書き出しで、「古事記」と、宣長の「古事記伝」についての本格的な記述が始まるのである。
その「古事記伝」について、第三十章で、小林先生は次のように言っている。
――なるほど古言に関しては、その語彙、文法、音韻などが、古文献に照して、精細に調査され、それが、宣長の仕事の土台をなしたのだが、土台さえあれば、誰でも宣長のように、その上に立つ事が出来たとは言えない。宣長が、「古言のふり」とか「古言の調」とか呼んだところは、観察され、実証された資料を、凡て寄せ集めてみたところで、その姿が現ずるというものではあるまい。「訓法の事」は、「古事記伝」の土台であり、宣長の努力の集中したところだが、彼が、「古言のふり」を知ったという事には、古い言い方で、実証の終るところに、内証が熟したとでも言うのが適切なものがあったと見るべきで、これは勿論修正など利くものではない。(同第27集p.344)
今回の自問自答では、この一節を熟視対象として、「実証の終るところに、内証が熟した」とはどういうことか、思索を深めたいと思う。
そもそも「古事記」とは、日本現存最古の歴史書であり、稗田阿礼が口誦したものを、太安万侶が書き写したと言われている。重要なのは、この「書き写した」というのが、現代日本の私たちの言語感覚に基づく口述筆記、すなわち話し言葉をそのまま文字に書き表すこととは、遠くかけ離れたものであったということだ。どういうことか。
――「古事記」の散文としての姿、宣長に言わすと、その地の文の「文体」は、「仮名書キの処」、「宣命書の如くなるところ」、「漢文ながら、古語ノ格ともはら同じき」処、「又漢文に引カれて、古語のさまにたがへる処」、そうかと思うと、「ひたぶるの漢文にして、さらに古語にかなはず」という個所も交って、乱脈を極めているが、それはどうあっても阿礼の口誦を、文に移したいという撰者の願いの、そっくりそのままの姿だ。
(同第27集p.342)
ここで「乱脈を極めている」と言われているのは、「古事記」の表記の複雑さである。「古事記」原文は、全て漢字で記されており、一見すると漢文、すなわち上代の中国語の文章だと誤解されうるが、そうではない。たしかに文字は漢字のみなのだが、それはいわゆる漢文調の訓読で済ませてよい文章ではないのである。漢字しか文字を知らない状況にあって、それでも何とかして「阿礼の口誦」という、純然たる話し言葉としての日本語を「文に移したい」という安万侶の願いが、一見奇妙な「文体」を生んだ。そうであるならば、「古事記」の読者には、その願いに応えることが、求められてくる。
――漢文で書かれた序文の方は、読者が、それぞれの力量に応じて、勝手に、これを訓読するのが普通だっただろうが、本文の方は、訓読を読者に要求していた。それも純粋な国語の訓法に従う、宣長の所謂「厳重」な訓読を求めていた。だが、勿論、安万侶には、訓読の基準を定め、後世の人にもわかるように、これを明示して置くというような事が出来たわけはなかった。(同第27集p.342~3)
「古事記」の「序」は、純粋な漢文である。だから、現代の漢文学習に従った言い方をすれば、レ点や一二点などの返り点を補う必要がある者はそれらを付して読めば良いし、漢文読解の熟達者であれば、いわゆる白文のまま、意味を取ることもできよう。「読者が、それぞれの力量に応じて」、訓読して構わない。(ただし、この「序」も軽率に読んでよいわけではもちろんなく、宣長はそこから「安万侶の肉声」を感じ取るように読んだ、ということが「本居宣長」の第二十八章には書かれている。それについては読者諸賢各人でお読みいただきたい)しかし、「古事記」の本文は、先述の通り、そもそも漢文ではないのであり、漢文読解の常套の手法は通用しないばかりか、それに従って読んではいけない。安万侶の願いに応えようとこれを訓むには「厳重な訓読」以外、方法はないのである。かと言って、書き記した当の本人である安万侶が、どう訓むべきかを明確に記し残してくれたわけでもない。そこで、である。宣長はどうしたか。ここからいよいよ「実証」と「内証」の問題に深く立ち入っていきたい。
――従って、撰者の要求に応じようとすれば、仕事は、「古事記」に類する、同時代のあらゆる国語資料に当ってみて、先ず「古語のふり」を知り、撰者の不備な表記を助け、補わなければならないという、妙な形のものになった。宣長は言う、「此記は、彼ノ阿礼が口に誦習へるを録したる物なる中に、いと上ツ代のままに伝はれりと聞ゆる語も多く、又当時の語つきとおぼしき処もおほければ、悉く上ツ代の語には訓ミがたし、さればなべての地を、阿礼が語と定めて、その代のこころばへをもて訓べきなり」(「古事記伝」訓法の事)と。(同第27集p.343)
「古事記」を訓むには、まず「同時代のあらゆる国語資料に当って」みる、これが宣長のしたことである。先の熟視対象ではより具体的に、「語彙、文法、音韻などが、古文献に照して、精細に調査され」と書かれていた。この文献参照、調査が「実証」であるとひとまず言えそうであるが、ここで現代的な通念に気をつけて読みたい。私たちは、日常で実証的という言葉を使うとき、それは科学的とか客観的といった語と近い意味合いだろう。しかし、宣長の学問は、いわゆる客観的ということとは程遠いものである。「資料に当る」というのは、客観的な証拠集めではなく、「古語のふり」を知ること、すなわち「直知する」「我が物とする」ことを主眼とするからである。その時に、空想や妄念を交えず、目はまっすぐ眼前の資料にのみ向けられている、その姿、仕事ぶりを指して、宣長の仕事は「実証」であったと言うことができる。
では、実証を進める宣長の心中には何があったか、このことについて、改めて熟視対象に戻ってみてさらに考えよう。「土台さえあれば、誰でも宣長のように、その上に立つ事が出来たとは言えない」という言い方がされている。客観的な証拠を集めれば、誰でもそこから正しく結論を出せるというような浅薄な考えは、宣長の仕事と何ら関係がない。
――すると、又ここで繰返したくなるのだが、先ず「なべての地を、阿礼が語と定めて」、仕事は始まったのである。言うまでもなく、これは、「阿礼が語」を「漢のふりの厠らぬ、清らかなる古語」と定めて、という意味だ。安万侶の表記が、今日となってはもう謎めいた符号に見えようとも、その背後には、そのまま古人の「心ばへ」であると言っていい古言の「ふり」がある、文句の附けようのなく明白な、生きた「言霊」の働きという実体が在る、それを確信する事によって、宣長の仕事は始まった。其処に到達出来るという確信、或は到達しようとする意志、そういうものが基本となっていると見做さないと、宣長の学問の「ふり」というものは、考えにくいのである。そういうものが、厳密な研究のうちにも、言わば、自主独往の道をつけているという事があるのだ。(同第27集p.348)
宣長の心中にあるのは、確信である。その確信とは、「古事記」を「なべての地を、阿礼が語と定め」たうえで、他の国語資料に当たる中で体得していった「古言のふり」をもって「古事記」本文と向き合えば、おのずと阿礼の肉声が聞こえ、「古語」は自らの心中に蘇るであろう、それに従えば「古事記」の「訓法」を決定できるだろうという確信のことだ。それが実証の仕事をする時に、常に宣長の心から離れない、確信はますます深まっていった、それが「内証が熟する」ということではないだろうか。
整理すると、「実証の終るところに、内証が熟した」というのは、「古事記」を読み、「古事記伝」を書くにあたって、宣長は、「古言のふり」を体得したいという強い意志、直観があり、それがどんな資料にあたる際にも学問の中心から外れない、それゆえに、膨大な資料を集めて調査するという「実証」は、宣長の心中で「古言のふり」、より具体的には阿礼の肉声が、より鮮明に疑いない姿となって再び命を得る、すなわち「内証が熟する」ことと常に結びついていた、ということなのではないか。
最後に、こうした宣長の学問姿勢が、いかに現代の歴史家たちのそれと異なるものであったか、それでも現代に生きる私たちが、宣長から学び、生きた学問を営むにはどうしたらよいのか、小林先生の言葉を聞いて終わろうと思う。
――凡庸な歴史家達は、外から与えられた証言やら証拠やらの権威から、なかなか自由になれないものだ。証言証拠のただ受身な整理が、歴史研究の風を装っているのは、極く普通の事だ。そういう研究者達の心中の空白ほど、宣長の心から遠いものはない事を思えばよい。と言って、宣長は、心のうちに、何も余計なものを貯えているわけではないので、その心は、ひたすら観察し、批判しようとする働きで充されて、隅々まで透明なのである。ただ、何が知りたいのか、知る為にはどのように問えばよいのか、これを決定するのは自分自身であるというはっきりした自覚が、その研究を導くのだ。研究の方法を摑んで離さないのは、つまるところ、宣長の強い人柄なのである。彼は、証拠など要らぬと言っているのではない。与えられた証言の言うなりにはならぬ、と言っているまでなのだ。(同第27集p.348~9)
――更に、これは先きに、別の言い方で言ったところだが、こういう事も考えていいだろう。過去の経験を、回想によってわが物とする、歴史家の精神の反省的な働きにとって、過去の経験は、遠い昔のものでも、最近のものでも、又他人のものでも、己れ自身のものでもいいわけだろう。それなら、総じて生きられた過去を知るとは、現在の己れの生き方を知る事に他なるまい。それは、人間経験の多様性を、どこまで己れの内部に再生して、これを味う事が出来るか、その一つ一つについて、自分の能力を試してみるという事だろう。こうして、確実に自己に関する知識を積み重ねて行くやり方は、自己から離脱する事を許さないが、又、其処には、自己主張の自負も育ちようがあるまい。(同第27集p.350~1)
(了)
「それと言うのも、恐らく(著者注;平田)篤胤の眼には、『直毘霊』は、あくまでも比類のない着想として、教学の組織を、そこから新しく展開すべき発想として、映じていたからだ。そして、その使命は自分に降りかかっていると信じたからである。烈しく宣長のうちに、自己を投影し、それを、宣長から選ばれたと信じた人とも言えるだろう。篤胤の考えでは、古道を説く以上、天地の初発から、人魂の行方に至るまで、古伝に照して、誰にでも納得がいくように、説かねばならぬ。古伝の解釈に工夫を凝せば、それは可能なのである。安心なきが安心などという曖昧な事ではなく、はっきりと納得がいって、安心するというものでなければならない」(新潮社刊「小林秀雄全作品」第27集p.292~p.293)
この一文を読んだとき、私は、人の言葉を受け取る際、篤胤と同様に、自分の思い込みによって言葉を聞き取り、相手はこう考えているに違いないと、決めつけをする癖があることに気付かされ、また、この癖は、どのようにして身に付いてしまったのかを考えたとき、これまでの自分自身の生き方と向き合う必要があるのではないかと感じました。
小林秀雄氏は、篤胤に対し「篤胤は、眼中人なしという概の、非常な自信家であったが、ただ宣長だけには、絶対的な尊敬の念を抱き、深い心情を傾けていた。山室山の宣長の墓に詣でた折に、詠んだ歌 ――『をしへ子の 千五百と多き 中ゆけに 吾を使ひます 御霊畏し』『我が魂よ 人は知らずも 霊幸ふ 大人の知らせば 知らずともよし』―― 篤胤にしてみれば、ただ在りのままを、素直に詠んだまでであって、言葉の上の飾りや誇張は全く考えられてはいなかった。彼は、鈴屋大人の御霊が幽冥界に坐す事を、少しも疑ってはいなかった。『霊の真柱』にあるように、死後は霊となって、師の墓辺に奉仕する事を信じていた。宣長と自分との間に、精神上の幽契が存するという事は、篤胤の神道の上からすれば、合理的に理解出来る動かぬ事実であった。私達は、これを疑うわけにはいかない。もし疑うなら、疑う人の眼には、篤胤という歴史上の人物の、形骸しか映じないであろう。人間によって生きられた歴史を見るむつかしさは、その辺りにある」(同p.290~p.291)と言われています。
なぜ小林氏は、向き合う相手の内面が、ここまでわかるのだろうかと不思議に思いました。
自分の生き方と向き合い、私の身の回りで起こる出来事や人間関係の問題など、これは私の人生にとって、どのような意味があるのかを見つめるためには、小林氏の言われている歴史を見る眼が必要なのではないかと感じました。
また、それを知ることで、相手の言葉をより率直に、より正確に受け取ることができ、自分の人生にとって大切なことを見逃さない眼を養うことができるのではないかと思い、令和五年十月の山の上の家の塾で、以下の質問を提出しました。
――「人間によって生きられた歴史を見るむつかしさ」について質問です。第二十五章に「例えば、ある歌が麗しいとは、歌の姿が麗しいと感ずる事ではないか。そこでは、麗しいとはっきり感知出来る姿を、言葉が作り上げている。それなら、言葉は実体でないが、単なる符牒とも言えまい。言葉が作り上げる姿とは、肉眼に見える姿ではないが、心にはまざまざと映ずる像には違いない。万葉歌の働きは、読む者の想像裡に、万葉人の命の姿を持込むというに尽きる。これを無視して、古の大義はおろか、どんな意味合が伝えられるものではない」とありますが、この事と同様に「人間によって生きられた歴史を見る」力をつけるには、言葉の姿、歌の姿を感じるという読書の経験が必要なのでしょうか。
この質問から、令和六年十月に行われた山の上の家の塾での
――「宣長と自分との間に、精神上の幽契が存するという事は、篤胤の神道の上からすれば、合理的に理解出来る動かぬ事実であった。私達は、これを疑うわけにはいかない。もし疑うなら、疑う人の眼には、篤胤という歴史上の人物の、形骸しか映じないであろう。人間によって生きられた歴史を見るむつかしさは、その辺りにある」と言われています。
「人間によって生きられた歴史を見る」には、「烈しく宣長のうちに、自己を投影し、それを、宣長から選ばれたと信じた」篤胤が、宣長との間に結んだ「精神上の幽契」を信じることで、小林秀雄さんの見た「人間によって生きられた歴史」は見えてくるのでしょうか。
という質問に至るまでに、池田雅延塾頭からご指導頂いたことは、以下の内容です。
・ 自問と自答が噛み合っておらず、自問に照応する自答を磨き上げる努力が必要であること。
・ 自分の思いつきを自答にしてはいけない。ここでは篤胤に即して人間全体の歴史を見るのは難しいと言っており、それが、どういう難しさなのかを考えること。
・ 小林氏は、上辺だけを搔い摘まんで語る、と言うことをしない。篤胤の行動の動機を知ろうとすれば、篤胤の歌や手紙を一つ一つ読み取り、内面を考えたり、本人の立場になって生きてみないと、その人間の歴史を知ると言うことができない。これが歴史に向かう態度、本文中の言葉に、一つ一つ丹念に向き合うこと。
・ 「人間によって生きられた歴史を見る」という言葉の深さを知ること。
・ 小林氏が直観した、篤胤の人物像は、どんな人物であったかが眼目。小林氏は、篤胤の内面を見るところまで深め、その姿の奥にある精神的な葛藤まで見ている。篤胤がどういう思考経路を辿ったのか、内面を見ているということ。
・ 篤胤の精神の内部に入り込むと、理屈に合った生き方、歴史を生きた人間の生き方の手本を示している。篤胤は、独りよがりの自信過剰のとんでもない弟子だった。自分は宣長の一番弟子だと言い張り、論を張った。宣長は、日常生活上の学びを学問だと言った。篤胤は、これに感動したが、宣長の学問を観念論にしてしまい、それを自分の弟子にも吹聴してしまったこと。
・ 篤胤の死後、弟子たちが、宣長の墓の敷地内に勝手に篤胤の墓を立ててしまったこと。
・ 小林氏は、この本(「本居宣長」)で、必ずしも篤胤に触れなくてもよかったが、歴史上から見ると、面白い悪役としての篤胤を深く知ることで、宣長の正しい学問がくっきり浮かび上がってくる。篤胤に対する一般人の誤解を解く必要があったこと。
・ 宣長への普通ではない篤胤の情熱に対し、疑って、鼻先でせせら笑って終わりにし、篤胤を排除すると、篤胤の歴史上の演技から学ぶところがなくなってしまうこと。
塾頭のご指導を受けながら、私は、日常生活でも、自分と価値観の合わない相手を、心の中で排除し、相手の内面を知るための努力を全くしておらず、また、身の回りで起こった出来事に対しても、感情的になり、物事の本質の外側ばかりに意識が向き、結果的に自分自身の生き方をとても狭いものにしていたことに気付きました。
今回の第二十六章からの質問でも、著者が言わんとすることの肝心要の理解ができず、無意識のうちに著者が言っていることを、自分にとって都合の良い言葉に置き換えてしまい、塾頭からご指導頂くまで、そのことにさえ気付かずにいました。
また、ご指導頂いたことを、頭では理解したつもりでも、いざ、実行しようと思った時、どのようにして読書や質問に反映すれば良いのか全くわからず、小林氏の言われている歴史の見方を早く知りたいという考えに囚われ、離れられずにいました。
質問には、私自身の日ごろの考え方の癖が現れてしまい、未だに、本文と向き合うということができずにいますが、本誌、前々号(「好・信・楽」2024年夏号」)でも触れた、「本も、絵を眺めるように読むのです、最初は文章の意味を取ろうなどとは思わず、小さくでいいから声に出して読むのです。こうして口を動かしていると、文章の意味は後からついてきます、本を書いた人の言おうとしていることが自然にわかってきます。つまり、『絵を眺めるように』とは、本の一行一行を最初から細切れに『読解』していくのではなく、まずはざっと全体を、無心で目にしていくということです、絵は、そこに描かれている山や海や花の全体をまずはざっと眺めるでしょう、それと同じように、本に書かれている文章をひととおり、声に出して読みながら眺めるのです。『声に出して読みながら眺める』とは、著者すなわち本を書いた人の気持ちを話し言葉として聴き取るということで、こうすれば、絵を見て絵描きさんの丹念な筆遣いや荒々しい筆遣いから絵描きさんの気持ちや意気込みが汲み取れ、それがその絵の目のつけどころとなるように、著者が言葉を強くしている箇所や、なぜだか口ごもっているように読める箇所やを聴き分けていけば、その本で最も読み取るべきことは何かがおのずとわかってくるのです」という本の読み方を、いつも忘れないように、読書や日々の生活を重ねることの大切さを、改めて実感しました。
文章を書くことは、とても苦手ですが、この「好*信*楽」への寄稿の機会を与えて頂いたことで、さらに思考を深めることができ、質問だけでは気付くことができなかった、新たな発見と学びがありました。塾頭、編集部の皆様に心より感謝申し上げます。
(了)
――私は、人の生きる姿を、心の葛藤に見てから、次第に、肉体と精神を意識するようになった。土、蜜蝋、油絵具などを使って、キャンヴァスに土台を作る行為は、アルキケミー、生命を与える儀式だった。木の枠を、骨、岩、自然界の構造と見立て、蝋を流すと、表面は皮膚に変容した。そこに、布、スポンジ、釘、金ブラシなど、普段は用いない道具を使うと、作品は、聞いたことのない言葉で語り始めた。柔らかい道具には、柔らかい、鋭く尖ったものには、尖ったエネルギーが現れた。開いた穴、引っ掻いた傷、塗られた白い薬のあり様は、七歳の時に、火傷を負い、治療を受けた皮膚に似ていた。イメージはどこから来るのだろうか。記憶からか。(1995年、展覧会への出展作品説明から)
小林秀雄先生の「本居宣長」との出会いは、私の意識下に眠っていた「精神」、「言葉」、そして「イメージ」を呼び起こした。
*
第十九章で、小林先生は、宣長の学びの成長と精神を、躍動感のある言葉で説明している。
――彼(著者注;宣長)の回想文のなだらかに流れるような文体は、彼の学問が「歌まなび」から「道のまなび」に極めて自然に成長した姿であり、歌の美しさが、おのずから道の正しさを指すようになる、彼の学問の内的必然の律動を伝えるであろう。(新潮社刊「小林秀雄全作品」第27集p.213、15行目〜)
――さて、宣長が回想文で、われ知らず追っているものは、言わば書物という対象のうちに、己れを捨ててのめり込む精神の弾力性であり、その動きの中で、真淵の「冠辞考」が、あたかも思いもかけず生じた事件の如く、語られている。そして、それが「歌まなび」から、「道のまなび」に転ずる切っかけを作ったと言うのだが、事件の性質については、はっきりした説明を欠いている。一体何が起ったのか。(同p.214、9行目〜)
ここで小林先生は、宣長の成長を「彼の学問の内的必然の律動」と言っている。その言葉を、簡単に捉えてはならない。宣長の学びは、問いを繰り返し、思索し、遂に到達する、そういうものであった。そんな自問自答の喜びは、一入だったであろう。また先生は、宣長が追っていたものは、「己れを捨ててのめり込む精神の弾力性」であったと言っている。「己れを捨ててのめり込む精神の弾力性」も同じだ。精神の弾力性は、強い意志と鍛錬が背景にあったに違いない。宣長は、経験から信念を持ち得たのであろう。小林先生の使う言葉は、学びの精神を鮮やかに表現する。宣長の言葉を、全身全霊で受け止めているのだ。
小林先生は、賀茂真淵が枕詞の語義について説いている「冠辞考」について説明した後、彼が抱いていた基本的な直観を、「今日普通使われている言葉で言えば、言語表現に於けるメタフォーア(*)の価値に関して働いていたと言ってよいであろう」と述べたうえで、「私達は言葉の意味を理解する以前に、言葉の調べを感じていた事に間違いあるまい。今日、私達が慣れ、その正確と能率とを自負さえしている散文も、よく見れば遠い昔のメタフォーアの残骸をとり集めて成っている。……素朴な心情が、分化を自覚しない未熟な意識が、具体的で特殊な、直接感性に訴えて来る言語像に執着するのは、見やすい理だが、この種の言語像が、どんなに豊かになっても、生活経験の多様性を覆うわけにはいかないのだから、その言語構造には、到るところに裂け目があるだろう、暗所が残っているだろう」と述べ、以下のように続けている。
――ところで、この種の言語像への、未熟なと呼んでも、詩的なと呼んでもいい強い傾きを、言語活動の不具疾患と考えるわけにはいかないのだし、やはりそこに、言語活動という、人々の尋常な共同作業が行われていると見なす以上、この一見偏頗な傾きも、誰にも共通の知覚が求めたいという願いを、内に秘めていると考えざるを得まい。この秘められた知性の努力が、メタフォーアを創り出し、言葉の間隙を埋めようとするだろう。メタフォーアとは、言わば言語の意味体系の生長発展に、初動を与えたものである。真淵が、「万葉集」を穴のあくほど見詰めて、「ひたぶるに真ごゝろなるを、雅言もて飾れ」る姿に感得したものは、この初動の生態だったと考えていい。(同p.220、3行目〜)
第十九章の後半では、「ひたぶる」という言葉が何度も繰り返され、真淵が見詰めた万葉歌人の、言葉を整えようとする姿が説明されている。人々の、誰にも共通の知覚を求めたいと創り出されたメタフォーアが、「言語の意味体系の生長発展に、初動を与えたもの」と言い表されている。小林先生の、言語に生命を観る鋭い感覚と、それを真正面から捉える様に圧倒される。先生は、言語を、生き物と考えていたのだろうか。
第三十二章に、荻生徂徠が、言語の働きを成立させている、基本的な二つの要素、則ち物の意味と形とに関する語の用法に注目したことについて詳しい記述がある。前者は「興の功」で「言語の本能としての比喩の働き」であり、後者は「観之功」で「人の心中に、形象を喚起する言語の根源的な機能」と捉え、「物の意味が、語るにつれて発展すれば、これと表裏をなして物の形は、『黙シテ之ニ存シ、情態目ニ在リ』」と書かれている。
――言語は物の意味を伝える単なる道具ではない。新しい意味を生み出して行く働きである。物の名も、物に附した単なる記号ではない、物の姿を、心に映し出す力である。そういう言語観に基いて、徂徠が、興観の功という言葉を使用しているのは、明らかであり、そういう働きとしての言語を、理解するのには、働きのうちに、入込んでみる他はあるまい。そういう事にかけては、言語を信じ、言語を楽しみ、ただその働きと一体となる事に、自足している、歌うたう者、或は、これに耳を傾ける者に、如くものはなかろう。この事を念頭に置いて、興観の功の説明を締め括る、徂徠の言葉を読むべきだ、と私は思う。(同第28集p.13、14行目〜)
注目したいのは、言葉には、意味を伝える働きだけではなく、新しい意味を生み出していく働きがあり、物の姿を映し出す力があると言っている点である。唐突だが、比喩の働きが、生命が在り続けるために必要だったと考えて良いだろうか。音楽や絵画はどうだろうか。音楽の音符や記号、絵画の色や形は、言語と似た働きをする。調べを伝え、物の姿を映し出す。言語、音楽、絵画を通じた比喩の働きは、共通の知覚を求めたいと願ってきた人々が、生命を繋いでいくために生まれたと考えて良いだろうか。
さらに小林先生は、第三十六章で、宣長は、歌の起こる所まで行き、歌の本義を求めたことを述べ、歌人らがどう言葉を整えたか、そこで行われている精神の自発性を解き明かしている。
――宣長は、「歌といふ物のおこる所」に歌の本義を求めたが、既述のように、その「歌といふ物のおこる所」とは、即ち言語というものの出で来る所であり、歌は言語の粋であると考えた事が、彼の歌学の最大の特色を成していた。「物のあはれにたへぬところよりほころび出て、をのづから文ある辞」(「石上私淑言」巻一)と歌を定義する彼の歌学は、表現活動を主題とする言語心理学でもあった。この心理の動きを、彼は「自然の事」とか「自然の妙」とか呼んだが、そういう時、彼が思い浮べていたのは、誰にも自明な精神の自発性に他ならなかった、……堪え難い心の動揺に、どうして堪えるか。逃げず、ごまかさず、これに堪え抜く、恐らくたった一つの道は、これを直視し、その性質を見極め、これをわが所有と変ずる、そういう道だ。力技でも難業でもない、それが誰の心にも、おのずから開けている「言辞の道」だ、と宣長は考えたのである。(同p.58、2行目〜)
ここで宣長は、歌の起こる所を「物のあはれにたへぬところ」と表現している。私達は、この世で物と出会う時、記憶の底にあったと思われるものが蘇り、情感が溢れることがある。この状態こそ「物のあはれにたへぬところ」だと想う。情感が、自ずから形象を整えようとするのは、精神の自発性に他ならない。所与の力であろう。古代から今に至るまで、一人ひとりが人生の中で直面する厳しい試練を経て、情の動揺を我がものとして来たと考えると、遺された言葉を前に、身が引き締まる。
さて、第十九章から複数の章を辿って得た学び、「精神」、「言葉」、そして「イメージ」を、私は、どう今後に生かしたら良いだろうか。第四十九章と、江藤淳氏との対談「『本居宣長』をめぐって」(同第28集)に、ヒントがあった。
――神々は、彼等(著者注;上古の人々)を信じ、その驚くべき心を、彼等に通わせ、君達の、信ずるところを語れ、という様子を見せたであろう。そういう声が、彼等に聞えて来たという事は、言ってみれば、自然全体のうちに、自分等は居るのだし、自分等全体の中に自然が在る、これほど確かな事はないと感じて生きて行く、その味いだったであろう。其処で、彼等は、言うに言われぬ、恐ろしい頑丈な圧力とともに、これ又言うに言われぬ、柔かく豊かな恵みも現している自然の姿、恐怖と魅惑とが細かく入り混る、多種多様な事物の「性質情状」を、そのまま素直に感受し、その困難な表現に心を躍らすという事になる。(同p.189、3行目〜)
江藤氏との対談で小林先生は、「古事記伝」の「性質情状」は、ベルグソンが言っている「イマージュ」としっくりくるのであり、それは「主観的でもなければ、客観的でもない純粋直接な知覚経験」と述べている。さらに先生は、宣長が見た神話の世界は、「『かたち』の知覚の、今日の人々には思いも及ばぬほど深化された体験だった」と、宣長は、ベルグソンが見ていた「無私な、芸術家によって行われる努力」を神話の世界に見ていたと付け加えている。
さあ、私は、第四十九章で言われているように「柔かく豊かな恵みも現している自然の姿、恐怖と魅惑とが細かく入り混る、多種多様な事物の『性質情状』を、そのまま素直に感受し、その困難な表現に心を躍らす」ことにしよう。これに尽きる。古今東西、この道の歩き方は尊い。生きる道標に、宣長と小林先生がいる。池田雅延塾頭、茂木健一郎副塾頭という先達がいる。道の険しさを共有する塾の同志がいる。そう思うと、心強い。
(*)隠喩。ある観念を表わすために、それに類似、共通した性質を示す別の観念を持つ言葉を用いることをいう。
(了)
いつものように『本居宣長』をネタにおしゃべりをする四人の男女だが、今日は、SNSが話題のようだ。
生意気な青年(以下「青年」) SNSが猛威を振るってるね。
凡庸な男(以下「男」) そうだね。ファクトチェックとか、エビデンスとか、昭和の時代 には耳にしなかった言葉が飛び交う世の中になったけど、かえって、何が正しいのか分からない時代になった。
江戸紫の似合う女(以下「女」) そういうことが背景にあるのかどうか、分からないけど、国内でも国外でもいろんな変なことが起きているわね。
元気のいい娘(以下「娘」) 例えば?
女 戦争とか、選挙とか。
男 そうそう。戦争をめぐる超大国の指導者の発言なんか、よく言うなって感じだよね。無理が通れば道理が引っ込む。
生意気な青年(以下「青年」) 超大国ばかりじゃないさ。中東をめぐる欧米の先進国の立場って、ダブルスタンダードだよね。
娘 政治家の言うことって、全然信用できない。
男 政治家と言えば、いろんな国でいろんな選挙があって、なんか、世界中荒れ気味だね。
女 日本国内でもそう。SNSの影響がすごいみたいね。
男 みんな何を考えているのか、さっぱりわからないな。
娘 政治家とか、マスコミとか、専門家とか、全然信用できない。だから、SNSに頼るんだよ。
青年 そう思いたくなるのも、当然だよ。自分で考え、自分で発信するのは悪いことじゃない。
男 でもそうやって、みんなが自分が正しいって言い募り、ほかの意見に耳を貸そうとしない。それでかえって、何が正しいのかさっぱり分からなくなる。
娘 普通の人だったら、それは仕方ないじゃない。政治家は別。政治家が、下心みえみえで、嘘をつくのは許せない。
女 政治家の嘘といえば、気鋭の政治学者五百旗頭薫さんが『<嘘>の政治史』(中公選書)という著書で、政治に嘘はつきものとはいうものの、バレるのを恐れながらも窮地を切り抜けるためにつく「必死の嘘」は、ときとして政治の妙手となりうるのに対し、はなからバレているのに平気で押し通す「横着な嘘」は、政治の腐敗を招くという趣旨のことを説いているの。
青年 嘘も方便っていうわけ、なんかいやだな。
女 でもね、ちょっと聞いてくれる。たとえば、色んな交渉事があるわね。交渉当事者の双方が、出身母体の利益を、外交でいえば国益を背負っている。双方とも簡単に譲歩などできない。そんなとき、双方がそれぞれ「自分たちが五一対四九の僅差で勝った」と思えるような妥協案が見つかれば、何とか交渉が成立するかもしれないわね。
娘 なんか騙されたようで、やーな感じ。
女 全面勝利でないものを受け入れるのだから、もやもやするのは分かるけど、そういう妥協を受け入れる内心の動き、そのための言葉の働きって、大切だと思うわ。
青年 でも、そういうのって、ある制約条件下での合理的な選択の問題だからでしょう。嘘とは違う。
女 そう割り切れれば、いいのだけれど、もう少し考えて欲しいの。
青年 どういうこと?
女 妥協イコール嘘って考える人も多いのよ。
男 確かに、その方が、潔癖な考え方かもしれないな。
女 ちょっと前のことだけど。トランプさんが最初に勝った二〇一六年のアメリカ大統領選挙。民主党はヒラリー・クリントンさんが候補者だったけど、候補者選びではサンダースさんという左派の人がかなり有力で、この民主党内の分裂がヒラリーさんの足を引っ張ったと思う。そしてサンダースさんの支持者が集会なんかでヒラリーさんを批判するときに連呼していたのが「妥協(compromise)」という言葉なの。
男 妥協によって物事を決めるワシントンのベテラン政治家は、嘘つきだってわけだね。
青年 その点は、共和党内でアウトサイダーだったトランプさんの支持者と同じだ。
娘 最近の日本の選挙にも、似たような雰囲気があるね。
女 政治家の嘘はないに越したことはないわ。でも、五百旗頭先生の言葉を借りれば、妥協案の説明というのは、支持者たちが認めたがらない自分たちの弱点にはあえて触れず、メリットだけを強調する類の「必死の嘘」。いったん隠した下心の部分をいずれどうするか、宿題となって残るのよ。言いっぱなしにはならないの。他方、「横着な嘘」というのは、平然と侵略を自国防衛と言い募る超大国の指導者の発言の類で、下心として隠しておいてよさそうな欲望を隠そうともしない。無理が通るだけ。そこは区別して考えられないかしら?
娘 なんか不純な感じだね、政治家って。
女 政治家って、そういう面倒な汚れ仕事を厭わない職人さんなのよ。小林秀雄先生がどこかで、「大臣という才能ある事務員」を支配人として選ぶ、と書いておられたけど、その通りだわ。事務員に純粋さを求めたら、開き直って、平然と下心を丸出しにした、というのでは元も子もないの。隠した下心をどうするか、言葉をどう使っていくか、微妙な問題なのよ。
青年 そういえば、『本居宣長』にも、「下心」という言葉はよく出て来るね。
娘 それも、大切なところに出てくる感じだね。
男 宣長さん自身が「下心」という言葉を使う場合、小林先生が宣長さんの気持ちを推しはかって使う場合、それに、小林先生がご自身の筆の進め方についてこの言葉を使う場合もあるね。
女 でも、「下心」についていえば、『本居宣長』(新潮社刊『小林秀雄全作品』第27集)の中で、圧巻っていうのもおかしいけれど、この言葉が大活躍するのは、紫式部について語る箇所じゃないかしら?
青年 そうだね、『本居宣長』で、「源氏物語」の「蛍の巻」で玉鬘と光源氏か物語についてかわす会話について宣長が書いた評釈に出て来るね。
男 「此段、表はただ何となく、源氏君と玉かづらの君との物語なれ共、下の心は、式部が此源氏物語の大綱総論也」、「表はたはむれにいひなせる所も、下心は、ことごとく意味あり」というんだな(同142頁)。
女 式部は、「源氏物語」の中で、人情の機微や、人々の喜怒哀楽の真実を、「そらごとのまこと」として著すことができると信じ、実践したのね。
青年 そして「めでたき器物」(同147頁)のごとき作品が仕上がった。
男 そういう作品としての出来ばえとは別に、宣長さんが強調しているのは、式部が「表はただ何となく、源氏君と玉かづらの君との物語なれ共、下の心は、式部が此源氏物語の大綱総論也」(同142頁)ということなんだね。
娘 大綱総論なんて、随分大げさだね。
女 式部は、単なる語りの名手、お話づくりの達人ではなくて、自身の才能を存分に発揮するためにはどうすればよいかに、自覚的だったんだわ。
娘 自覚的?
女 当時、知識人達は、物語は女童子の娯楽を目当てとする俗文学だと思っていた。そして、表面的には、そういう既成の常識に逆らわなかったの。むしろ、式部には「この娯楽の世界が、高度に自由な創造の場所と映じていた」(同143頁)ということよ。
青年 知識人たちは、まんまと騙されていたということかな。
娘 「源氏物語」といえば、後世には、紫式部堕地獄伝説なんてのが出てきたんだね。
男 「上流男女の乱脈な交会の道を、狂言綺語を弄して語った罪により、作者は地獄の苦患に在るのは必定であるから、供養してやらねばならない」(同175頁)というわけだ。
娘 ひどい言い方。でもそれだけ、多くの人に読まれていたということだね。
男 そうそう。高校の教科書なんかに出てくる「更級日記」の作者の少女時代の回想、「一の巻よりして、人もまじらず、几帳のうちに、うち臥して、ひき出でつつ見る心地、后の位も、何にかはせん」(同174頁)というのは、有名だね。
女 物語の魅力には抗しがたいものがあった。だから、堕地獄伝説なんかがでてきたこと自体が、「時代の通念に従い、婦女子の玩物として、『源氏』を軽蔑していながら、知らぬ間に、その強い魅力のいけどりになっている知識人達の苦境を、まことに正直に語っている」のね(同175頁)。
娘 式部は、そのあたりのことも、お見通しだったのかな。
青年 堕地獄云々は、後世の余計なお世話だけど、多くの人が娯楽として読むであろうことは、自覚していた。そのなかには、「更級日記」の少女のように無邪気に喜ぶ読者もいれば、建前上は軽視しつつ実は物語の魅力に抗しえなかったおじさん達もいただろう。
女 でも、そのどちらも、物語の運びの裏がわにいる作者式部の心のうちのことなんか、考えもしなかった。こういう構造を、式部は見抜いていたんだわ。そのうえで、物語をつづっていった。
娘 読者の無知や誤解を逆手に取ったということ?
女 そこまで性悪ではないと思うけど、宣長さんのような読み手が現れて初めて明らかになるような何かが、式部の内面には潜んでいたんじゃないかな。
青年 紫式部という大批評家の真意を、やはり大批評家である宣長さんが見抜いたということ?
娘 そういってしまうと、何か違うような気がするな。
女 式部は、一般読者の目には届かないけれど、心の奥底で突き動かされる何ものがあって、「源氏」を書いた、でも、独創性を発揮して文学史に名をとどめたいなんて思ってなかったはず。宣長さんにしても、従前の解釈をひっくり返して学問上の功績を上げようと力んだのではなく、まずは「源氏」をとことん愛読していったのよ。
男 小林先生も、宣長は、「先ず『源氏』の愛読者であった」(同181頁)と書いているね。
女 式部だからこそ、「源氏物語」によって、母国語の歴史のとても深い処に何かを埋めることになった。宣長だからこそ、その深い処まで掘り進め、その何かを掘り当てることができた、ということじゃないかしら。
男 二人とも、「源氏」の執筆や、その注解に、今でいうやりがいみたいなのは感じてたとは思うけど、何か目標を掲げてその実現を目指す、という仕事の仕方ではないと思うんだ。
青年 そういえば、小林先生は、「宣長は『下心』という言葉をよく使うが、言葉の生命は人が言葉を使っているのか、言葉が人を使っているのか定かでないままに転じて行く。これが言葉に隠れた『下ごころ』であり、これを見抜くのが言語の研究の基本であり、言葉の表面の意味は二の次だ、という考えである」と書かれているね(「考えるという事」新潮社刊『小林秀雄全作品』第24集59頁)。
女 式部や宣長という大天才を前提としてのことだけれど、国語が、式部を通じて、人情の機敏や人生の真実に形を与えた。それが「源氏物語」という物であった。そして国語は、宣長をして、そこから「あはれ」という物を見出させた、こういうことではないかしら。
青年 「人が言葉を使っているのか、言葉が人を使っているのか定かでない」って、面白いな。
娘 私心がない、というのはそういうことかな。
女 政治家であれ、式部や宣長であれ、俗と雅の違いはあっても、国語と言う大きな海の中で、言葉の下心に動かされているのかもしれないわね。
四人のおしゃべりは、とりとめもなく続いていくのであった。
(了)