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奥付

小林秀雄に学ぶ塾 同人誌

好・信・楽  二〇一八年三月号

発行 平成三十年(二〇一八)三月一日

編集人  池田 雅延
発行人  茂木 健一郎
発行所  小林秀雄に学ぶ塾

編集スタッフ

坂口 慶樹

渋谷 遼典

小島奈菜子

藤村 薫

岩田 良子

Webディレクション

金田 卓士

 

編集後記

2018年も、早や3月号の発刊を迎えた。

先日、富士山麓にあるクレマチスの丘を訪れた。冷たい風が吹きつけるなか、いまだ冬枯れしている芝生のなかに見つけたクロッカスは、黄色のつぼみを大きく膨らませ、春を今かと待ちながら、優しく微笑んでいるように見えた。私たちの塾でも、この時季恒例の入塾募集を終え、4月からの新しい仲間との出会いを、首を長くして待っているところである。

まさに今回の巻頭随筆には、入塾を希望されている方や、入塾後間もない方のことも念頭に置きながら、塾生最若手の一人である原弘樹さんが、この塾で自問自答を行う、ということについて、自身の実体験を通じて体感・体得したことを、率直に記された。

 

 

今号の「本居宣長『自問自答』」には、金田卓士さんと小島奈菜子さんが、山の上の家での質問内容をもとに、さらに一歩思索を深めた成果を寄稿された。

小島さんは、小林先生が使っている「しるし」という言葉の意味について、以前より自問自答を続けている。自ら声を発し、自らその声を聞く。発声したものを心にぴたりと合致させる努力が結実した時に、言葉という「徴」が生まれるのではないかと、そんな思索を重ねる小島さんのすがたを見ていると、「之ヲ思ヒ之ヲ思ヒ、之ヲ思ツテ通ゼズンバ、鬼神将ニ之ヲ通ゼントス」という荻生徂徠の言葉が聞こえてきた。

金田さんは、今回の自問自答を通して、大学時代に荻生徂徠の『論語徴』について教えを受けていた恩師が、化するがごとく、音楽や絵画などの「物」に直に触れるという体験の大事を、身をもって教えてくれていたことを思い出し、恩師への感謝の念を、そして、もの学びへの思いを新たにされている。

 

 

今月は、教鞭をとっておられるお二方にも寄稿頂いた。

大島一彦さんは、大学で英文学を研究されている。親しく教えを受けたという松原正氏は、小林秀雄先生とも交流があった。今回は、松原氏から聞いたその交流の具体的な様子について、以前発表されていたエッセイを、本誌に転載頂いた。思えば、3月1日は、小林先生のご命日である。塾生にとって、先生のありし日の姿は、今となっては想像するしかないのだが、大島さんの文を読んでいると、小林先生の姿がまざまざと映じ、あの甲高い肉声も、直に聞こえてくるようである。

「人生素読」の長谷川雅美さんは、大学院のゼミで学びつつ、高校で国語を教えておられる。池田塾頭による新潮講座にも長く通っており、小林先生の文章の素読を通じて自得したことも踏まえて、授業に工夫を凝らしておられる。長谷川さんと生徒達との教室での生き生きとしたやりとりが鮮明に活写されており、その場にいるかのような心持ちになる。

 

ちなみに、新潮講座は、現在「小林秀雄の辞書」というテーマで、毎月第一木曜日に開講中である。小林先生の文章中にある言葉を、毎回2語ずつ取り上げ、それがどのような意味合いで使われているか、池田塾頭が厳選された、その語が使われている文章を素読し、参加者どうしの対話も含め、味読を深めつつ体得していく場となっている。塾生及び本誌読者の皆さんのご参加をお待ちしている。詳しくは、以下のURLをご参照ください。

https://passmarket.yahoo.co.jp/event/show/detail/01k3a4zccv2i.html

 

 

謝羽さんは、本誌初となる小説を寄せられた。謝さん自身としても初めて書いた小説になる。大江匡衡おおえのまさひら赤染衛門あかぞめえもん、とくれば、舞台は平安中期であろうか、もはや塾生には馴染みの人物であろう。次号との2回分載であり、早くも次号の展開が気になるところではあるが、まずは今号をじっくりとお愉しみ頂きたい。

 

 

以上のように、今月は、塾生最若手の一人である原さんに始まり、新潮講座に参加されている長谷川さん、そして、謝さんの小説、というように、全体として新しい動きも感じられる誌面になったように思う。

まだまだ寒い日もあるが、ひと作品ずつ味読頂くとともに、誌面からわき上がる、あの、浮き浮きするような春の香を、その萌しのようなものを感じ取って頂ければ幸いである。

(了)

 

小林秀雄「本居宣長」全景

十 詞花をもてあそぶべし

1

 

藤原定家が「源氏物語」について言った「可翫詞花言葉」―詞花言葉をもてあそぶべし、は、宣長が詠歌の師と仰いだ定家自身によって、また歌学の師とした契沖を介して、宣長にもたらされた。この「可翫詞花言葉」を、宣長はどう解してどう実行したか、そこを前回、小林氏が第六章に引いている「あしわけ小舟」の一節で見た。

―源氏ヲ一部ヨクヨミ心得タラバ、アツパレ倭文ワブンハカカルル也、シカルニ今ノ人、源氏見ル人ハ多ケレド、ソノ詞一ッモ我物ニナラズ、今日文章カク時ノ用ニタタズ、タマタマ雅言ヲカキテモ、大ニ心得チガヒシテ、アラレヌサマニ、カキナス、コレミナ見ヤウアシク、心ノ用ヒヤウアシキユヘ也、源氏ニカギラズ、スベテ歌書ヲ見ルニ、ソノ詞一々、ワガモノニセント思ヒテ見ルベシ、心ヲ用テ、モシ我物ニナル時ハ、歌ヲヨミ、文章ヲカク、ミナ古人トカハル事ナカルベシ……

これに続けて小林氏は、―宣長の古典研究の眼目は、古歌古書を「我物」にする事、その為の「見やう、心の用ひやう」にあった、と言っている。ここから「翫ぶ」を一言で言えば、宣長にあっては習熟するということだろう。それも、読めるようになるだけではない、読んだ言葉を自在に使いこなして、文章が書けるまでになるということだ。この宣長の言うところに、現代の私たちの外国語学習の経験を取り合せてみてもあながち場ちがいではあるまい。英語、フランス語、ドイツ語等の文章を読むとき、初学者はまず「文章カク時ノ用ニ」立てようという「心ノ用ヒヤウ」などはなしで読み始める、が、そうして読んでいって、読むことは読めるようになっても、それだけではその英語なりフランス語なりがわが物になったとは言えない。宣長が定家と契沖に言われて実行した「翫詞花言葉」は、「文章カク時ノ用ニ」立てるというところまで心を用いた「源氏物語」の読み方であった。「源氏物語」の「詞一々、ワガモノニセント思ヒテ見ル」読み方であった。

 

2

 

定家の言った「可翫詞花言葉」が、「本居宣長」に姿を見せるのは第十七章である。これに続いて小林氏は、第十八章で「宣長の可翫詞花言葉」を丹念に追う。

―「定家卿云、可翫詞花言葉。かくのごとくなるべし」という契沖が遺した問題は、誰の手も経ず、そっくりそのまま宣長の手に渡った。なるほど契沖の遺したところは、見たところほんの片言に過ぎない。宣長は、言わば、契沖の片言に、実はどれほどの重みがあるものかを慎重に積ってみた人だ。そうでも言うより他はないような厄介な経験に彼は堪えた。「源氏」を正しく理解しようとして、堪え通してみせたのである。宣長の「源氏」による開眼は、研究というよりむしろ愛読によった、と先きに書いた意味もここにつながって来る。……

宣長は、「可翫詞花言葉」を確と腹に据えて「源氏物語」を愛読した。その愛読の「愛」がまず向かった先は、当然のことに「源氏物語」の詞花言葉、すなわち紫式部の言葉づかいであった。ところが、今日、

―専門化し進歩した近現代の「源氏物語」研究には、詞花を翫ぶというより詞花と戦うとでも言うべき図が形成されている。近現代の研究者たちは、作品感受の門を一度潜ってしまえば、あとはそこに歴史学的、社会学的、心理学的等々の補助概念をしこたま持ち込み、結局はそれらの整理という別の出口から出て行ってしまう。それを思ってみると、詞花を翫ぶ感性の門から入り、知性の限りを尽して、また同じ門から出て来る宣長の姿が、おのずと浮び上って来る。出て来た時の彼の感慨が、「物語といふもののおもむきをばたづね」て、「物のあはれといふことに、心のつきたる人のなきは、いかにぞや」(「玉のをぐし」一の巻)という言葉となる。……

宣長の時代にも、有力な補助概念はあった、儒教道徳、仏教思想等がそれである。しかし宣長は、それらをいっさい持ち込まず、徹頭徹尾、詞花を翫んだ、そうすることで、「物語というもののおもむき」は「もののあはれ」にあると気づいたというのである。

では宣長の詞花の翫び方は、どれほどのものであったか。

―「源氏ヲ一部ヨクヨミ心得タラバ、アツパレ倭文ハカカルル也。シカルニ今ノ人、源氏見ル人ハ多ケレド、ソノ詞一ツモ我物ニナラズ、(中略)源氏ニカギラズ、スベテ歌書ヲ見ルニ、ソノ詞一々、ワガモノニセント思ヒテ見ルベシ」。これは「あしわけ小舟」の中にある文で、早くから訓詁くんこの仕事の上で、宣長が抱いていた基本的な考えであった。彼の最初の「源氏物語」論「紫文要領」が成った頃に、「手枕たまくら」という擬古文ぎこぶんが書かれた。……

「擬古文」とは、古い時代の語彙や語法を用いて作る文章だ。「源氏物語」に、六条ろくじようの御息所みやすどころという女性が登場する。彼女は「物の」の役をふられて物語に深く関係してくるのだが、「夕顔」の巻で光源氏の枕上に突然「いとをかしげなる女」の姿で坐る。だが、読者はもちろん、光源氏にもその正体はわからない。源氏との間にあったはずの過去については何も書かれていない。そこから宣長に、「夕顔」の前にもう一巻、挿入できるであろうという想像が浮かび、それが「手枕」制作の動因になったと思われるのだが、それとともに「手枕」の動機は、「源氏物語」の詞花言葉をより本格的に翫ぼう、「源氏」の言葉を自在に使いこなしてみようとしたところにあったようなのだ。

 

3

 

小林氏が、第十八章で言っている趣旨を、さらに汲んでいく。

―宣長は、「源氏物語」を「歌物語」と呼んだが、これには宣長独特の意味合があった。「歌がたり」とか「歌物がたり」とかいう言葉は、歌に関わりのある話を指して言う「源氏」時代の普通の言葉であったが、宣長は、「源氏物語」をただそういう物語のうちの優品と考えたわけではない。宣長の「源氏物語」の詞花に対する執拗な眼は、「源氏物語」という詞花による創造世界に即した真実性を何処までも追い、もし本質的な意味で歌物語と呼べる物があるとすれば、「源氏物語」こそがそうである、他にはないと、そう言ったのである。……

「源氏物語」という詞花による創造世界に即した真実性……、小林氏のこの言い方に注意しよう。

―作者は、「よき事のかぎりをとりあつめて」源氏君を描いた、と宣長が言うのは、勿論、わろき人を美化したという意味でもなければ、よき人を精緻に写したという意味でもない。「物のあはれを知る」人間の像を、普通の人物評のとどかぬところに、詞花によって構成したことを言うのであり、この像の持つ疑いようのない特殊な魅力の究明が、宣長の批評の出発点であり、同時に帰着点でもあった。……

「物のあはれを知る」人間の像を、詞花によって構成した……に注意しよう。

―彼の言う「あはれ」とは広義の感情だが、先ず現実の事や物に触れなければ感情は動かないとは言えるが、説明や記述を受付けぬ機微のもの、根源的なものを孕んで生きているからこそ、不安定で曖昧なこの現実の感情経験は、作家の表現力を通さなければ、決して安定しない。その意味を問う事の出来るような明瞭な姿とはならない。宣長が、事物に触れて動く「あはれ」と、「事の心を知り、物の心を知る」こと、すなわち「物のあはれを知る」こととを区別したのも、「あはれ」の不完全な感情経験が、詞花言葉の世界で完成するという考えに基く。……

不安定で曖昧なこの現実の感情経験は、作家の表現力を通さなければ安定しない、その意味を問う事の出来るような明瞭な姿とはならない、「あはれ」の不完全な感情経験が、詞花言葉の世界で完成する……に注意しよう。

 

4

 

見てきたとおり、本居宣長の代名詞と言っていいほど人口に膾炙している「もののあはれ」の説は、藤原定家と契沖によって示唆された「可翫詞花言葉」、この「心ノ用ヒヤウ」を徹底させて「源氏物語」を読むことで、宣長自身、初めて感じ取った「物語というもののおもむき」だったと小林氏は言うのである。

この、それまで誰の目にも映ることのなかった物語のおもむきを、宣長が初めて見てとるに至る道の出発点で、小林氏は、―「定家卿云、可翫詞花言葉。かくのごとくなるべし」という契沖が遺した問題は、誰の手も経ず、そっくりそのまま宣長の手に渡った、契沖の遺したところは、見たところほんの片言に過ぎない、宣長は、この契沖の片言に、どれほどの重みがあるものかを慎重に積ってみた人だ……と言っていた。だが、実を言えば、この契沖の片言に、どれほどの重みがあるものかを慎重に積ってみたのは、小林氏自身だったのである。

 

小林氏は、第十七章で、契沖の「源註拾遺」に言及し、契沖の在来の「源氏」注釈に対する批判を紹介したあと、―だが、それなら、此の物語を、どう読んだらいいかということになると、「定家卿云、可翫詞花言葉。かくのごとくなるべし」と言っただけで、契沖は口を噤んだ……と書いていたが、「源註拾遺」そのものを開いてみると、「定家卿云。可翫詞花言葉。かくのごとくなるべし」は、正面きって言われているわけではないのである。

「源氏物語」を中国の春秋の筆法で論じるのは見当ちがいだ、「源氏物語」の書き方は一人の人間に美もあれば醜もあり、善もあれば悪もあるというのであり、この人物は善だ、この人物は悪だと峻別するような書き方はされていない、と言った後に、今度は「詩経」の詩との比較で、「此物語」すなわち「源氏物語」は、「人々の上に美悪雑乱せり。もろこしの文などになずらへてはとくべからず」と同様の趣旨を述べ、それに続けてこの項の最後に「定家卿云。可翫詞花言葉。かくのごとくなるべし」と書かれているのである。しかもこの文言は、後から補入されたかたちになっている。たしかにこれは、「見たところほんの片言に過ぎない」のだ。この「片言」に目をとめ、小林氏は、「この片言にどれほどの重みがあるものかを慎重に積ってみた」のである。その結果が先に見た第十八章の記述となったのである。

ということは、小林氏は、契沖の「片言」を針小棒大に解して振り回し、小林氏自身の解釈を宣長に押しつけたということなのか。むろんそうではない。小林氏の身体組織の重要な一部となっていた言語感覚が契沖の片言の含蓄をたちどころに察知し、その含蓄が宣長の仕事に一貫して認められるということを言ったのである。それというのも、すでに半世紀以上に及んでいた氏の批評活動は、常に言葉というものに対する批評活動でもあったからである。

 

小林氏が、昭和四年、二十七歳の秋、文壇に打って出た「様々なる意匠」は、こう書き出されている。

―吾々にとって幸福な事か不幸な事か知らないが、世に一つとして簡単に片付く問題はない。遠い昔、人間が意識と共に与えられた言葉という吾々の思索の唯一の武器は、依然として昔ながらの魔術を止めない。劣悪を指嗾しそうしない如何なる崇高な言葉もなく、崇高を指嗾しない如何なる劣悪な言葉もない。而も、し言葉がその人心眩惑の魔術を捨てたら恐らく影に過ぎまい。……

以来、小林氏は、ここで言っている言葉の人心眩惑の魔術に翻弄され続けるのだが、この言葉の人心眩惑の魔術という表現はけっして比喩ではない。青春時代、ボードレールの「悪の華」を読み続けていた小林氏の前に立ち現れ、立ちはだかった現実であり、小林氏はその現実の言語経験を告白したと思ってみてもいいのである。

氏の青春時代と言えば、まず第一にランボーが思い浮かぶが、ランボーと出会う前の小林氏はボードレールだった。「ランボオⅢ」(新潮社刊『小林秀雄全作品』第15集所収)に書いている、

―当時、ボオドレエルの「悪の華」が、僕の心を一杯にしていた。と言うよりも、この比類なく精巧に仕上げられた球体のなかに、僕は虫の様に閉じ込められていた、と言った方がいい。その頃、詩を発表し始めていた富永太郎から、カルマンレヴィイ版のテキストを、貰ったのであるが、それをぼろぼろにする事が、当時の僕の読書の一切であった。……

ボードレールの「悪の華」を、ぼろぼろにすること、それはまさに、ボードレールの詞花言葉を翫ぶことだったと言っていい。ここには、これに続けて「僕は、自分に詩を書く能力があるとは少しも信じていなかったし、詩について何等明らかな観念を持っていたわけではない。ただ『悪の華』という辛辣な憂鬱な世界には、裸にされたあらゆる人間劇が圧縮されている様に見え、それで僕には充分だったのである」と言われていて、宣長が言った「スベテ歌書ヲ見ルニ、ソノ詞一々、ワガモノニセント思ヒテ見ルベシ」までは必ずしも行ってはいなかったようだが、契沖の「定家卿云。可翫詞花言葉。かくのごとくなるべし」を目にした瞬間、小林氏がボードレールの「悪の華」と共にあった日々に思いを飛ばしたと想像してみることはできるだろう。

 

昭和二十五年、四十八歳の年の「表現について」(同第18集所収)には、ボードレールの象徴詩を論じてこう書いている。

―ボオドレエルの「ワグネル論」のなかに、こういう言葉があります。「批評家が詩人になるという事は驚くべき事かも知れないが、一詩人が、自分のうちに一批評家を蔵しないという事は不可能である。私は詩人を、あらゆる批評家中の最上の批評家とみなす」。これは、次の様な意味になる。……

近代は、様々な文化の領域を目指して分化し、様々な様式を創り出す傾向にあるが、詩人たちもまた科学にも歴史にも道徳にも首をつっ込み、詩人の表現内容は多様になったが、詩人には何が可能か、詩人にしかできないことは何か、という問題にはまともに向き合っていない、散文でも表現可能な雑多の観念を平気で詩で扱っている。

―それというのも、言葉というものに関する批判的認識が徹底していないからだ。詩作とは日常言語のうちに、詩的言語を定立し、組織するという極めて精緻な知的技術であり、霊感と計量とを一致させようとする恐らく完了する事のない知的努力である。それが近代詩人が、自らの裡に批評家を蔵するという本当の意味であって、若し、かような詩作過程に参加している批評家を考えれば、それは最上の批評家と言えるであろう。恐らくそういう意味なのであります……

ではこの詩作という、「日常言語のうちに、詩的言語を定立し、組織するという精緻な知的技術」であると同時に、「霊感と計量とを一致させようとする知的努力」はどういうふうに行なわれるのか。

―詩人は自ら創り出した詩という動かす事の出来ぬ割符わりふに、日常自らもはっきりとは自覚しない詩魂という深くかくれた自己の姿の割符がぴったり合うのを見て驚く、そういう事がやりたいのである。これはつまる処、詩は詩しか表現しない、そういう風に詩作したいという事だ。……

詩人は、ある閃きに突き動かされて言葉を集め、その言葉の組合せや配列を様々に試み、入れ替え、並べ替え、取り替えを無心に繰り返して詩という言葉の彫刻を得る、そして詩人は、そうして自ら彫り上げた言葉の彫刻を目にして驚く、それは、それまで自分自身でもはっきりとは自覚したことのない自分の姿、日頃は自分の内側に深く隠れていて一度も見ることのなかった自分の姿であると疑いもなく思われるからだ。すなわち、象徴詩の誕生である。

割符とは、コインを二つに割り、二人の人間が一片ずつ持ち、必要となったときそれらを合せてみて、それぞれの持ち主が正当な当事者であることの証としたものである。古代ギリシャではこれをsymbolonと言った、このsymbolonがフランス語ではsymboleとなり、日本では「象徴」と訳された。

 

5

 

恐らく、小林氏の脳裏では、定家と契沖が言った「詞花言葉」に、ボードレールが咲かせた象徴詩の詩語が連想されていただろう。すなわち、ボードレールの「『悪の華』という辛辣な憂鬱な世界」は、「裸にされたあらゆる人間劇が圧縮されてい」た「詞花言葉の世界」であり、さらに言えば「詞花による創造世界」だったのである。

この世界は、当然ながら現実の世界とは異なる。だが人間は、この、現実を超えた「詞花言葉の世界」を欲しがるように造られている、なぜなら、

―生活しているだけでは足りぬと信ずる処に表現が現れる。表現とは認識なのであり自覚なのである。いかに生きているかを自覚しようとする意志的な意識的な作業なのであり、引いては、いかに生くべきかの実験なのであります。こういうところで、生活と表現とは無関係ではないが、一応の断絶がある。悲しい生活の明瞭な自覚はもう悲しいものとは言えますまい。人間は苦しい生活から、喜びの歌を創造し得るのである。環境の力はいかにも大きいが、現に在る環境には満足出来ない、いつもこれを超えようとするのが精神の最大の特徴であります。……

これも、「表現について」で言っている。実生活は、実は何物でもない、捉えどころがないからだ、実生活は言葉で捉えられて初めて所を得る、これはまさに、小林氏が「本居宣長」の第十八章で言ったことと符合する。要点をもう一度引く。

―彼(宣長)の言う「あはれ」とは広義の感情だが、不安定で曖昧なこの現実の感情経験は、作家の表現力を通さなければ、決して安定しない。その意味を問う事の出来るような明瞭な姿とはならない。宣長が、事物に触れて動く「あはれ」と、「事の心を知り、物の心を知る」こと、すなわち「物のあはれを知る」こととを区別したのも、「あはれ」の不完全な感情経験が、詞花言葉の世界で完成するという考えに基く。……

文中の「作家」を「詩人」と読み替えれば、紫式部が「源氏物語」に傾けた「歌物語」の努力は、ボードレールが傾けた象徴詩の努力と相呼応するものだったと言えるだろう。小林氏は、常に人間がこの世に生きている、生かされている、その万人共通の基本構造を見出し見届けようとした。その人間の基本構造には洋の東西も時代の新旧もない、そういう意味において言葉の魔術、小林氏が「様々なる意匠」の冒頭で言った「遠い昔、人間が意識と共に与えられた言葉という吾々の思索の唯一の武器は、依然として昔ながらの魔術を止めない……」は、一様に紫式部も宣長も、ボードレールも見舞っていた、むろん小林氏も見舞われていた、ということなのである。

「表現について」と同年に書かれた「詩について」では、こう言っている。

―私が象徴派詩人によって啓示されたものは、批評精神というものであった。これは、私の青年期の決定的な事件であって、し、ボオドレエルという人に出会わなかったなら、今日の私の批評もなかったであろうと思われるくらいなものである。……

小林氏は、終生、このボードレールに教えられた「言葉というものに関する批判的認識」に心を砕いた。よく知られた氏の言葉に、「批評とは他人をダシにして己れを語ることである」があるが、氏の言う「批評」は二重の意味から成っている。他人という言及対象に対する批評と、その批評を表現する自分の言葉に対する批評とである。氏の眼は複眼なのである。

 

そういう小林氏の前に、本居宣長が現れたのである。宣長は、国学者と呼ばれる古典学者であった。「源氏物語」の研究者であり、「古事記」の研究者であった。しかし、それらすべてを貫いていたのは「言辞学」であった。言葉というものの使われ方を明らめることで人間が人間本来の生き方で生きた道を跡づける、それが宣長の学問であった。小林氏が、批評文を書いて追究してきたこともそれだった。小林氏が、本居宣長を生涯最後のダシとしたのは、そういう言葉のえにしによったのである。

 

小林氏は「本居宣長」で、根本的には「人間にとって言葉とは何か」を書こうとしたのである。「もののあはれ」とは何かについても、氏は宣長の言う「もののあはれ」は紀貫之とはどう違っていたかを言うだけで、この小文の第五回で見たような、「源氏物語事典」や「日本古典文学大辞典」で言及されている貴族の嗜み、知恵教養としての「もののあはれ」は見向きもしなかった。「もののあはれを知る」についても、第六回で見た江戸期の庶民感情、すなわち、日常生活で求められる他人への心づかいや同情心を意味する言葉としての「もののあはれ」には目もくれない。

宣長にとって、というより小林氏にとって、「もののあはれ」も「もののあはれを知る」も、詞花言葉による創造世界である「歌」の真実性、「物語」の真実性、それだけが重要なのであり、「本居宣長」の全五十章を通して、小林氏の主題は人間にとって言葉とは何か、そこに集中しているのである。

 

宣長が「源氏物語」に見たと小林氏が言った「詞花言葉による創造の真実」、この真実を、小林氏自身が氏の批評文で示した一例を挙げておく。よく知られた「モオツァルト」(同15集所収)の一節である。

―スタンダアルは、モオツァルトの音楽の根柢はtristesse(かなしさ)というものだ、と言った。正直な耳にはよくわかる感じである。浪漫派音楽がtristesseを濫用して以来、スタンダアルの言葉は忘れられた。tristesseを味う為に涙を流す必要がある人々には、モオツァルトのtristesseは縁がない様である。それは、凡そ次の様な音を立てる、アレグロで。……

そう言って、「ト短調クインテット、K. 516.」(弦楽五重奏曲第四番ト短調)の第一楽章第一主題の譜を引いて言う。

―ゲオンがこれをtristesse allanteと呼んでいるのを、読んだ時、僕は自分の感じを一と言で言われた様に思い驚いた(Henri Ghéon; Promenades avec Mozart.)。確かに、モオツァルトのかなしさは疾走する。涙は追いつけない。涙の裡に玩弄するには美しすぎる。空の青さや海の匂いの様に、「万葉」の歌人が、その使用法をよく知っていた「かなし」という言葉の様にかなしい。こんなアレグロを書いた音楽家は、モオツァルトの後にも先きにもない。まるで歌声の様に、低音部のない彼の短い生涯を駈け抜ける。……

 「allante」はフランス語、「aller」(行く)の現在分詞で、活動的な、溌溂とした、などが原義である。

(第十回 了)

 

ブラームスの勇気

終戦翌年の暮れに「モオツァルト」を世に問い、翌年三月には三度目となるランボー論(「ランボオ Ⅲ」)を発表した半年後、小林秀雄は『夕刊新大阪』に「文芸時評について」という一文を寄せ、その最後に次のように書いた。

 

僕が文芸時評を中止しているのは、批評の形式による文学作品の確立という考えに、この数年来取りつかれているが為である。出来るか出来ないかやるところまでやってみねばならぬ。二兎は追えぬ。サント・ブウヴの大才を以ってしても「ポオル・ロワイヤル」を書く為には「ランディ」を止めねばならなかった。

 

「ポール・ロワイヤル」は、この修道院を中心とする十七世紀のジャンセニストの歴史を描いたサント・ブーヴ畢生の大著である。一方「ランディ(月曜)」とは、「月曜閑談」と題して毎週月曜日の新聞紙上に二十年近く発表された、この批評家のいわゆる「精神の博物誌」としての文芸評論を指す。戦前長らく続けられた小林秀雄の「ランディ」としての文芸時評は、昭和十六年八月の『朝日新聞』に発表された<長編小説評>(現行題「文芸月評 XXI―林房雄の『西郷隆盛』」)を最後に「中止」された。そして二ヶ月後、彼の「ポール・ロワイヤル」たるドストエフスキー論が、「カラマアゾフの兄弟」の連載として新たに開始されている。

ただし右の一文で言われた「批評の形式による文学作品の確立」という彼の考えには、ドストエフスキー論を最初に企図した頃の、批評的創作として作家の像を手ずから創り上げるという野心に加えて、もう一つの新たな創作要求が加わっていた。それは、「批評文も亦一つのたしかな美の形式として現れるようにならねばならぬ」という要求であった。これは、「モオツァルト」発表の十ヶ月前、文字通りの戦後第一声となった「コメディ・リテレール」座談会で言われた言葉である。小林秀雄は、「文学は又形である、美術でもある」とも言い、自分がこのように考えるようになったのは、造形美術に非常に熱中したからでもあると語った。

小林秀雄がいつその「造形美術」つまり骨董の世界に足を踏み入れ、親しむようになったのかは、単なる年譜的事実として一口に語れる問題ではないが、彼自身は、後に「骨董」と題するエッセイで、「狐がついた」時のことを次のように回想している。ある日、青山二郎に連れられて行った日本橋の古美術店「壺中居」で、鉄砂で葱坊主を描いた李朝の壺がふと眼に入った。するとそれが烈しく彼の所有欲をそそり、我ながらおかしい程逆上して、数日前に買ったばかりのロンジンの時計と交換して持ち還った、というのである。それは昭和十三年の秋頃、ないしはその年の十月から十二月にかけて満州、朝鮮、中国に渡った帰国後間もない頃の出来事であった。

前回触れたように、「ドストエフスキイの生活」の序文の前半二章(昭和十三年十月)と、後半三章を含めた全文(昭和十四年五月)が、その二ヶ月間にわたる大陸渡航にまたがるようにして発表されている。つまり骨董の「狐」たるこの「葱坊主」は、小林秀雄が、当時の彼にとっての「殆ど唯一の思想の淵源」(「『ドストエフスキイの生活』のこと」)を掘り進め、「歴史とは何か」の問いに突き当たった時に、「美とは何か」というもう一つの大きな問いとして突如彼の前に現れ、謎をかけ、取り憑いたということになる。「ドストエフスキイの生活」が刊行された翌月、小林秀雄は「慶州」という紀行文を発表し、朝鮮旅行中に訪れた仏国寺石窟庵の圧倒的な美しさの印象について語ったが、これもまた同じ時機に彼を見舞った「美とは何か」の謎かけであったと言えるだろう。「天井を穹窿状に畳んだ円形の後室」に鎮座する白い花崗岩の釈迦像と、同じく白色のドーム壁面に彫り込まれた菩薩の美しさに打たれる小林秀雄は、あたかも「葱坊主」の壺中に佇みながらその白磁の内壁を見上げているかのようである。

その小林秀雄が、骨董への傾倒についてはじめて語ったのは、それから三年余り経った昭和十七年五月、「『ガリア戦記』」というエッセイにおいてであった。

 

ここ一年ほどの間、ふとした事がきっかけで、造形美術に、われ乍ら呆れるほど異常な執心を持って暮らした。色と形との世界で、言葉が禁止された視覚と触覚とだけに精神を集中して暮らすのが、容易ならぬ事だとはじめてわかった。今までいろいろ見て来た筈なのだが、何が見えていたわけでもなかったのである。文学という言葉の世界から、美術というもう一つの言葉の世界に時々出向いたというに過ぎなかった。そしていつも先方から態よく断られていたのだが、無論、そんな事はわからなかった、御世辞を真に受けていたから。と、そんな風にでも言うより他はない様な或る変化が徐々に自分に起った様に思われる。美の観念を云々する美学の空しさに就いては既に充分承知していたが、美と言うものが、これほど強く明確な而も言語道断な或る形であることは、一つの壺が、文字通り僕を憔悴させ、その代償にはじめて明かしてくれた事柄である。

 

この一節では、「ここ一年ほどの間、ふとした事がきっかけで」とあり、また「が、文字通り僕を憔悴させ」とも書かれていることから、あたかも「壺中居」での「葱坊主」との邂逅はこの一年前の出来事であり、そこから一気に彼の眼が開かれ、骨董熱が昂じたように見える。しかし実際には、昭和十三年の秋から暮れ頃までの間に「葱坊主」を衝動的に買った後(正確に言えば「時計と交換した」後)、青山二郎を指南役とした一、二年の「苦行時代」(青山二郎「小林秀雄と三十年」)があったのであり、「ガリア戦記」が書かれる一年前の昭和十六年頃になって、ようやく、「『眼が見える』と言う所まで来」た(同)ということだったらしい。彼自身書いている通り、その変化は「徐々に」起こったのである。それがまた、右の一節で、「今までいろいろ見て来た筈なのだが、何が見えていたわけでもなかった」、「既に充分承知していたが……はじめて明かしてくれた」という言い方が執拗に繰り返された所以でもあった。文はさらに次のように続いている。

 

美が、僕の感じる快感という様なものとは別のものだとは知っていたが、こんなにこちらの心の動きを黙殺して、自ら足りているものとは知らなかった。美が深ければ深いほど、こちらの想像も解釈も、これに対して為すところがなく、恰もそれは僕に言語障害を起こさせる力を蔵するものの様に思われた。それでも眼が離せず見入っていなければならないのは、自分の裡にまだあるらしい観念の最後の残滓が吸い取られて行くのを堪えている気持ちだった。

 

しかし「『ガリア戦記』」において、小林秀雄が語ろうとしたのは、右で言われた骨董への開眼という事実そのものではなかった。彼が伝えたかったのは、骨董への開眼によってもたらされた、文学に関するある新たな啓示についてであった。重要なのは、十年余り続けてきた文芸時評の舞台を彼が降りたのが、「ここ一年ほどの間」であったという事実なのである。

 

文学に興味を持ち出して以来、どの様な思想もただ思想としては僕を動かした例しはなかった。イデオロギーに対する嫌悪が、僕の批評文の殆どただ一つの原理だったとさえ言えるのだが、今から考えるとその嫌悪も弱々しいものだった様に思われる。好んで論戦の形式で書いたという事が既にかなり明らかな証拠だろう。そして今はもう論戦というものを考える事さえ出来ない。言葉と言葉が衝突して、シャボン玉がはじける様な音を発するという様な事が、もう信じられないだけである。(同)

 

六年前、「様々な評家が纏った様々な意匠に対する反駁文」(「私信」)としての批評文、右の言葉で言えば「イデオロギーに対する嫌悪」をほとんど唯一の原理とする批評に飽き足らなかった小林秀雄は、「ある作家並びに作品を素材として創作する」ことを企図した。それが当時彼が目論んだ「本当の批評文」であり、その野心の結果生み落とされた批評作品が「ドストエフスキイの生活」であった。ところがその脱稿とほぼ時を同じくして彼に取り憑いた骨董への異常な執心が、彼に「言語障害」を起こさせ、彼の裡にあった「観念の最後の残滓」を吸い取り、美とは「言語道断な或る形」であるという事実を身をもって思い知らせた。この美の経験の渦中で、何よりも彼を驚かせたのは、たまたま手に取った「ガリア戦記」という古代ローマ文学が、あたかも古代ローマの美術品の様に彼に迫り、沈黙を強いたという事実である。それは文学というよりも、地中から掘り起こされた戦勝記念碑の破片のように現れ、石のザラザラした面や強い彫りの線として感じられた。それまで「文学という言葉の世界から、美術というもう一つの言葉の世界に時々出向いたというに過ぎなかった」小林秀雄の中で、言わばいうことが起こったのである。

そして彼は呟くのだ、「文学というものは、元来君等が考えているほど文学的なものではないのだ」と。これは、骨董という「狐」の存在なしには決して吐き得なかった台詞であり、「文学的な、あまりに文学的な」近代ヨーロッパ文学によってこの世界に眼を開かれ、批評家となった小林秀雄にとって、文学に関するコペルニクス的大転回であった。この時期、小林秀雄は西洋から日本へ回帰したということが言われるが、むしろ彼は、観念から形へ回帰したと言った方がよい。あるいは観念から形へ回帰するというその心の傾斜の在り様が、いかにも日本的なのである。しかもこの啓示の中の「文学」という言葉が、翌月発表された「無常という事」においては、そのまま「歴史」に置き換えられる。歴史もまた、彼にとっては、美しく感じられる「動かし難い形」として立ち現れるようになるのである。「ドストエフスキイの生活」の執筆によって、「批評とは何か」の問いが、「歴史とは何か」の問いに呑み込まれていったように、今また骨董との出会いにより、「歴史とは何か」の問いが、「美とは何か」という問いに包摂されてゆく。「批評文も亦一つのたしかな美の形式として現れるようにならねばならぬ」という彼の要求は、この三つの問いの衝突と融合のダイナミズムから生れたものであり、それはつまり、彼を憔悴させた一口の壺のように、「強く明確な而も言語道断な或る形」としての批評を生み出したいという欲求なのであった。

「『ガリア戦記』」が書かれた昭和十七年から翌十八年にかけて、『文學界』を舞台として発表されたエッセイ群、とりわけ日本の古典をめぐって書かれた諸篇は、すべてこの「言語道断な或る形」としての歴史と文学を主題としながら、これを綴る彼の批評文それ自体が「言語道断な或る形」であることを願っている。世阿弥の「美しい『花』」も(「当麻」)、歴史という「解釈を拒絶して動じないもの」も(「無常という事」)、「『平家』という大音楽」も(「平家物語」)、兼好の「物が見え過ぎる眼」も(「徒然草」)、西行が詠んだ「いかにかすべき我心」(「西行」)や、実朝の歌が伝える「悲しい調べ」の数々も(「実朝」)。これら白洲正子が「きらきらした」と評した一連の散文は、「コメディ・リテレール」座談会が発表された五日後に、『無常という事』として創元社から上梓された。新作の批評作品という意味では、小林秀雄の戦後第一作は「モオツァルト」であったが、刊行に際して入念に手を入れたその推敲の跡を見れば、昭和十八年の秋以降長らく沈黙していた小林秀雄が、戦後最初に世に問うたのは『無常という事』であったとも言える。そしてこの『無常という事』諸篇の背後で構想し続け、四年の歳月をかけて書き上げた「モオツァルト」において、彼が目論んだ「たしかな美の形式」としての批評文学は一つの極点に達した。

続けて取り組まれた「ゴッホの手紙」の連載において、彼のこの新たな野心が、この画家の苛烈なまでの「無私」に触れることによって次第に消失していったことはすでに見た。だがまたそれは、彼の骨董の「狐」が落ちたということでもあったのだ。小林秀雄が骨董についてその事実を明かしたのは、昭和二十六年一月に発表した「真贋」においてであるが、『文體』で連載開始された「ゴッホの手紙」が雑誌廃刊とともにいったん中断され、一年半の期間をおいて『芸術新潮』であらためて再開されたのも、同じ昭和二十六年一月のことであった。

(つづく)

 

ゴッホ、日本にまねぶ

2017年の後半は、日本画、特に浮世絵師による肉筆画を、積極的に観て廻った。

8月、箱根の岡田美術館では、喜多川歌麿の大作「雪月花」三部作を観た。「深川の雪」(同館)、「品川の月」(フリーア美術館)、そして「吉原の春」(ワズワース・アセーニアム美術館、今回は複製画展示)という、いずれも横幅が約3m、縦が約1.5mという、大型の肉筆画を、三作同時に観ることができる貴重な機会であった。なかでも、最晩年に描かれた「深川の雪」の美しさは、忘れることができない。

料亭の中庭には、真白な雪がうっすら積もっている。屋内には、芸者衆と女中、計26人の女性が連なる。芸者衆は、辰巳芸者と呼ばれた粋筋で、着物も落ち着いた深い色合いなだけに、真白な顔の連なりが、新雪のように鮮やかで美しい。外に手を出して沫雪を摑もうとする女、旨そうな平目の煮付を運ぶ女、寒い寒いと火鉢から離れない女、というように、一人ひとりの動きが生き生きと描き出されている。眺めていると、彼女たちの喧しい声と、三味の音が、心地よく聴こえてくる。そんな風景を、歌麿自身が愉しんでいたに違いあるまい。

ちなみに本作は、フランスの小説家エドモン・ド・ゴンクールも、パリの東洋美術商ジークフリート・ピングの店で見せられた、と書き残している(「歌麿」平凡社東洋文庫)。

 

10月、大阪、天王寺の、あべのハルカス美術館で観た、葛飾北斎の「なみ図」(小布施町上町自治会)もまた、忘れられない。本作は、同町にある祭屋台の天井画であり、「男浪」と「女浪」と言われる二枚からなる。彼の代表作の一つである「富嶽三十六景神奈川沖浪裏」(大英博物館)でも見られる、今まさに獲物を捕らえんとする、猛禽類の爪のような形をした波頭も、もちろん恐ろしい。が、より不気味に引き込まれるのは、らせん状に奥深く続く波の深淵である。手前の波の薄緑は、奥になるほど青く変わり、濃紺の闇へと移りゆく。見入っていると、自分の身体は、その深淵の中に閉じ込められてしまうかのようである。

会場隣のモニターで流れていたNHKのドキュメンタリー「北斎“宇宙”を描く」によれば、彼の画が、観る者に、そういう身体感覚を覚えさせるのには、理由があるという。

色彩の違いは、波長の違いでもある。可視光は、波長の長い順に、赤、橙、黄、緑、青、藍、紫となる。私達は、その波長差により、藍よりも青、青よりも緑が、より近くにあると感じる。北斎は、色彩をそういう順に描き分けることで、立体感や深淵性を表現していたのだ。彼は、生涯を通じて水、特に波の動きに大きな興味を持っていた。現代科学の知見に引けを取らない描写力は、長い時間をかけて波を凝視し、我が物となしえた成果なのであろう。

 

11月、東京、原宿の太田記念美術館で、北川英山えいざんの特別展を観た。知名度は高くないが、歌麿と、渓斎けいさい英泉えいせんや月岡芳年らの幕末の絵師達をつないだのが、英山である。「懐中鏡を見る美人」という画があった。町娘なのか、落ち着いた赤茶色の着物を粋に着こなした若き女性が、左手を頬に当てながら、右手に持つ小さな鏡に一心に見入っている。着物の裾から僅かに見える両足の指先の様子から、緊張の色がうかがえる。これから大切な人と会うのかもしれない。その姿は、鏡をスマホに変えれば、現在、私たちが電車の中や街角でよく見かける女性の姿に重なる。彼が、文政年間のモデルに観て取ったのは、そういう女性の変わらぬ心のあり様だったのではなかろうか。

 

さて、本稿では、前稿(本誌2017年12月号「ゴッホ、ミレーにまねぶ」)に続き、ゴッホのまねびについて取り上げる。日本画の模写を繰返し、また自室の壁を、日本画で一杯にして愉しんでいたゴッホが、日本画の、そして日本人の何をまねび、まなんだのかについて、小林秀雄先生の言葉にも寄り添いつつ思いを馳せてみたい。

 

そもそも小林先生は、「ゴッホについて」という講演のなかで、ゴッホが弟テオを中心に宛てた書簡集の内容を踏まえずに、彼の絵を見ることは不可能であって、絵では現しきれない不思議な精神は手紙の方に現れている、手紙の方にも現しきれなかったものが、絵に現れている、ということを言っている(「小林秀雄講演」第七巻 新潮社)。

まずは、先生が「比類のない告白文学」と呼ぶ、その書簡集の言葉から始めよう。

1886年3月、ゴッホはパリに居を移し、前述の画商ピングの店で大量の浮世絵に接し、多数の模写を残している。現在、京都で開催中の「ゴッホ展 巡りゆく日本の夢」(以下、本展)でも観られる「花魁(渓斎英泉による)」(ファン・ゴッホ美術館)もその一つである。歌麿や北斎等、日本画への傾倒はやまず、1888年2月には、彼のなかで憧れの日本そのものでもあった南仏、アルルへ移った。

「この地方が空気の透明さと明るい色彩の効果のために僕には日本のように美しく見える……(中略)水が風景のなかで美しいエメラルド色と豊かな青の色斑をなして、まるで日本版画のなかで見るのと同じような感じだ」(B2、友人のE.ベルナール宛)

そこでは、「『色彩のオーケストレーション』に心労するゴッホに、日本の版画の色彩の単純率直なハーモニーが、いつも聞こえてい」た(「ゴッホの手紙」、新潮社刊『小林秀雄全作品』第20集所収)。

小林先生は、ベルナール宛ての手紙にある「日本人は、反射を考えず、平板な色を次々に並べ、動きと形とを捕える独特の線を出しているのだ」(B6)というゴッホの言葉を紹介した上で、ゴッホが日本の絵から直覚したところ、として次の手紙を引いている。

「日本の芸術を研究していると、賢者でもあり哲学者でもあり、而も才気煥発かんぱつの一人の人間が見えて来る。(中略)彼は、ただ草の葉の形をしらべているのだよ。併しこの一枚の草の葉から、やがて凡ての植物を描く道が開かれる、それから季節を、田園の広い風景を、動物を、人間を。彼の生活は、こうして過ぎて行く。(中略)自ら花となって、自然の裡に生きている単純な日本人達が、僕等に教えるものは、実際、宗教と言ってもいいではないか。(中略)僕等は、この紋切型の世間の仕事や教育を棄てて、自然に還らなければ駄目だ。……僕は日本人がその凡ての制作のうちに持っている極度の清潔を羨望する。決して冗漫なところもないし、性急なところもない。彼等の制作は呼吸の様に単純だ」(No.542)

確かに、本展でも観たアルル時代の作品「タラスコンの乗合馬車」(ヘンリー&ローズ・パールマン財団)と「寝室」(ファン・ゴッホ美術館)には、平板な色遣いや構図に、浮世絵の跡を追うこともできるし、「糸杉の見える花咲く果樹園」(クレラー=ミュラー美術館)に見られる、鮮烈な花の白さに、私は完全に心を摑まれてしまった。

 

続いて、「放談八題」という、小林先生と井伏鱒二氏、そして洋画家でゴッホ書簡集の翻訳もあるはざま伊之助氏との座談(同、第18集所収)にある先生の発言にも注目したい。

「これは僕の想像だけど、彼(坂口注:ゴッホ)が日本の版画なんかに影響を受けたのはわかりきっているし、自分でも書いていますが、たとえば水墨なんかも見ているんじゃないかな。雪舟と同じような巌を描いている」

本展においても、その指摘に該当するとおぼしき「渓谷」という作品があった(クレラー=ミュラー美術館)。渓谷を歩く二人の女性は、もはや岩の中に溶け込み、画面中央には、雪舟の「慧可えかだん図」の岩にある、髑髏しゃれこうべの眼窩のような黒い穴が口を開けている。

先生が雪舟の画に見たものは、「恐らく作者の精神と事物の間には、曖昧なものが何もないという事だろう。分析すればするほど限りなく細くなって行く様なもの、考えれば考えるほどどんな風にも思われて来るもの、要するに見詰めていれば形が崩れて来る様なもの一切を黙殺する精神」であった(「雪舟」、同第18集所収)。

加えて、この文章とほぼ同時期に書かれた「私の人生観」(同第17集所収)のなかで、釈迦に始まる仏教者の観法が、わが国の、雪舟をはじめとする水墨画家の画法に通じており、そこには、芭蕉の言う、其貫道する物は一なり、ということ、換言すれば「何々思想とかイデオロギイとかいう通貨形態をとらぬ以前の、言わば思想の源泉ともいうべきもの」が、雪舟ら達人の手によって捕まえられていた、と言う。先生の言葉を借りて敷衍しよう。

「(近代科学の言う)因果律は真理であろう、併し真如しんにょではない、truthであろうが、realityではない。大切な事は、真理に頼って現実を限定する事ではない。在るがままの現実体験の純化である。見るところを、考える事によって抽象化するのではない、見る事が考える事と同じになるまで、視力を純化するのが問題なのである」

すなわち、室町時代のわが国の水墨画家にとっては、「画筆をとって写す事の出来る自然というモデルが眼前にチラチラしているなどという事は何事でもない」のであって、彼らはあくまで宋代・元代の舶来画を観て、精神の烈しい工夫を重ね、在るがままの、真如としての自然に迫ったのである。

 

さらに先生は、其貫道するところの一つとして、正岡子規が好んで使った「写生」という言葉も取り上げ、斎藤茂吉の「短歌写生の説」(鐵塔書院)を参考に、こう書いている。

「写生とはsketchという意味ではない、生を写す、神を伝えるという意味だ。この言葉の伝統を段々辿って行くと、宋の画論につき当たる。つまり禅の観法につき当たるのであります。だから、斎藤氏は写生を説いて実相観入という様な言葉を使っている。(中略)空海なら、目撃と言うところかも知れない、空海は詩を論じ、『すべからく心を凝らして其物を目撃すべし、便すなわち心を以て之を撃ち、深く其境を穿れ』と教えている。そういう意味合いと思われるので、これは、近代の西洋の科学思想がもたらしたrealismとは、まるで違った心掛けなのであります」

なるほど、私達が、例えば小中学校の写生大会、と言う時には、子規や茂吉が言う意味の「写生」として使っていることは、ほとんどないのではなかろうか。これに関しては、前述の「放談八題」の中で小林先生は、「ゴッホとセザンヌには、日本人の感覚で、非常によくわかるはずのものがある」という、ドイツの建築家ブルーノ・タウトによる見解を披露しているが、そのタウトが、著書「日本文化私観」(講談社学術文庫)の中で、日本の小学校の、あるクラス全員の絵を見せてもらった時のことを、次のように指摘しているのが興味深く、読者の皆さんにも思い当たる節があるのではなかろうか。

「皆景色を描いたものであって、どれもこれも退屈な、外国風な描き方のものばかりで、それだけに上手に描けていればいる程、ますます面白みがなくなっているという始末であった。このように、小学校時代に子供達から内的な絵、つまり子供達のあの純真な、自然な感覚を刈り取ってしまえば、換言すれば子どものように純真であり、自然でもある、偉大な日本文化をおさない人達の前で否定してしまえば、その結果は彼等を、ただに自然の奴隷にしてしまうばかりでなく、全く行き当りばったりなお手本の奴隷にしてしまう他はないのである」

 

さて、ゴッホ自身も、書簡集のなかに以下のような言葉を残しており、「雪舟と同じような巌を描いている」という小林先生の「想像」の跡を追って、おぼろげながら見えてきたものと重なり合うところもある。

「画家は自然の色から出発するのではなく、自分のパレットの色から出発するのがよい(中略)色が自然のなかでよく映えているのと同様、それらが僕のカンヴァスの上でよく映えているなら、僕の色が文字通り正確に忠実であるかどうかはそれほど気にしない」(No.429)

「正確な素描、正確な色彩、これは多分追及すべき本質的なものではない。なぜなら鏡のなかの現実の反映は、たとえ色彩その他すべてによってそれを定着することが可能だとしても、それはけっして絵ではないし、写真以上のものでもない」(No.500)

「北斎は、君(坂口注:テオ)に同じ叫びをあげさせる――だが、この場合、君が手紙で『これらの波は鉤爪だ。船がそのなかに摑まえられた感じだ』と言うとき、それは彼の線、彼の素描によってなのだ。そこで、たとえ、全く正確な色彩とか全く正確なデッサンで描いたとしても、こうした感動を与えることはあるまい」(No.533)

 

しかしながら、前稿に続き、ゴッホのまねびについて筆を進めてきて、私の中では、こんな思いが強くなるばかりである。ゴッホが、日本の何をまねびまなんだのか、という問いを分析的に深め、切り分けて見せるようなことは、これ以上意味をなさないのではあるまいか。それは、汲んでも汲んでも、汲みつくせないのではなかろうか……

「ゴッホの手紙」の終盤において、小林先生の言葉は消え、ほぼ書簡からの引用に終始している。ただ、本文の最後に「論評を加えようが為に予め思いめぐらしていた諸観念が、次第に崩れて行くのを覚えた」と記された。

ゴッホは、私が箱根で観た歌麿の「深川の雪」をパリで観たのかもしれない。北斎による、波の繊細な画法も、渓斎英泉の美人画も、まねびまなんだのだろう。しかし、彼の作品が、日本画や日本人からまなんだものだけで出来上がっているわけではない。彼の画と手紙を丹念に眺めてみると、ミレーにも、ドラクロアにも、レンブラントにもまなんでいる。ボリナージュ地方(ベルギー)の炭坑での伝道活動と伝道師資格の剥奪。ハーグ(オランダ)での身重の娼婦との生活と別れ。夢にまで見たゴーギャンとの共同生活と訣別。とにかく優しく接してくれる、アルルの郵便配達夫ルーラン。まるで贈答歌のような、弟テオとの頻繁な手紙のやり取りは、最期まで途切れることがなかった。そして、そういう過去の記憶ではち切れんばかりになった、いつ発作に襲われるかわからぬ、自らの肉体との対峙。

そんな彼の人生の一切合切が、画にもなり、手紙にもなった。それらのすべてに、彼の精神が、生ま生ましい味わいを湛えている。私は今、小林先生が、画と手紙の両方に当たらなければその精神は理解できないと言った真意を、自身の言葉を抑えざるをえなかった先生の心の動きを、加えてそれらの重量を、全身で感じている。

 

【参考文献】

 *「ファン・ゴッホの手紙」(二見史郎編訳、圀府寺司訳、みすず書房)

【参考情報】

 *「ゴッホ展 巡りゆく日本の夢」

  京都展:京都国立近代美術館、2018年1月20日~3月4日

 

共に読むということ

私は現在、都内2校の私立学校で国語科の講師として勤めながら、國學院大學大学院の文学研究科の聴講生として、近代文学のゼミに所属しています。そのゼミの活動の一環として新潮講座に参加し、皆さんと一緒に小林秀雄の言葉を読み、池田雅延講師から、生きた小林秀雄の姿をうかがってきました。そのように過ごすうち、ゼミや講座で学んだことを、どのように仕事に生かせるだろうかと自然と考えるようになります。また、授業をしながら小林秀雄のあの言葉はこういうことだったのかと気付かされることも、小林秀雄を読みながら授業での体験が思い出されることも多々あります。そういった体験や思いを講座でぽつぽつとお話ししたところ、今回『好*信*楽』に書かないかとお声掛けいただきました。大変恐縮しておりますが、有難い機会です、少し聞いていただけると嬉しいです。

 

昭和35年4月、雑誌『文藝春秋』に発表された「或る教師の手記」という小林秀雄のエッセイがあります。〈考えるヒント〉シリーズの一篇であるこのエッセイは、「ある都市の、生徒二千名をかかえた中学校で、最近まで、十年間、実地教育に専念した」教師の手記を読んだことで、当初の予定を変更してこれについて書く気になってしまった、と始まります。文章全体の主眼はおそらく違うところにあるのですが、途中こんな言葉があります。

 

生活経験の質、その濃淡、深浅、純不純を、私達は、お互に感じ取っているものだ。敢えて言えば、その真偽、正不正まで、暗黙のうちに評価し合っているものだ。それが生活するものの知慧だ。常識は、其処に根を下している。だからこそ、常識は、社会生活の塩なのだ。無論、分析の適わぬものだ。

(引用は新潮社刊『小林秀雄全作品』第23集p.140)

 

日常の人間関係のうちで、私たちの「生活経験の質」はその内容いかんに関わらず、相手に感じ取られ、それは、「濃淡、深浅、純不純」という相対的な尺度から、「真偽、正不正」といった評価にまで達していくとあります。尺度が相対的なのは、相手の評価の基準もまたその各人の「生活経験」によるものだからでしょう。しかもその評価基準は、観察や分析の末に頭で作りあげたものではなく、自然と身に付いたその人の「常識」として、無意識的に、相手の人性を直観する。これを読むと、私ははっとします。生徒たちが私に向ける視線や言葉が、強い意味を持って立ち上がってくるのです。

 

私は、以前は常勤講師として、授業はもちろんのこと、生徒の生活指導、部活動、生徒会活動、学校行事、PTA活動、入試関係業務、その他の分掌業務などに尽力していました。しかし勤めるなかで、自分は何の教員なんだろうかと悩むことが多くなり、その高校を退職して別の学校で非常勤講師になりました。高校生に国語を教えるということがどういうことなのかをもっと考えたかった。そこから、教科指導を通して、生徒たちと関係を結ぶことを目指すようになりました。そもそも、国語の講師として契約を交わしお給料をいただいている限りは、それを全うしないで、授業中に「人生とは、青春とは、平和とは……」などと演説するのは、社会人として不誠実だと思います。もちろん雑談を交えることはありますが、あくまで授業のメインは教科指導であるべきです。

教壇に立つようになって7年。たった7年ですが、ひとつ見つけた大切にしたいことがあります。それは、現代文・古文・漢文、どの授業でも教材でも、文章をその最初から読むことです。できる限り、生徒と一緒に。なぜかと言えば、まずは目の前の本文をできる限り正確に読んでほしいからです。言葉がどのように連なり、文になり、段落を構成して、ひとまとまりの文章になっていくのか、その過程をじっくりと追ってほしいのです。文章をその初めから順に読むことができない生徒はたくさんいます。だったら、私が一緒に読めばいい。

教科書を開き、一文一文を辿り、語意や指示内容を確認し、その言葉が本来持っている意味を無視しないよう、現代文なら語彙の、古文漢文ならば文法事項の確認をする。例えば、「風立たぬ時」と「風立ちぬ」の「ぬ」の違いは、と問いかける。生徒は文法書やノートを振り返りながらなんとか説明しようとする。みんなで要素を出し合いながら、解答を整えていく……。私の授業の大部分はこういった作業に費やします。そのようにして本文の内容を整理するうちに、不思議となんだか説明がつけられない感想のようなものが出てくるのです。自分はこの言い回しが好き、いやこの書き振りは鼻につくなど、レトリックへの感覚的な反応を見せる生徒が出ると胸が躍ります。

そうやって授業を進めていると、授業準備のために読んだときとは違う読み筋の可能性に気付いて説明が止まったり、思ってもみなかった読み筋が生徒から出てきて板書を修正したり、私の説明にムラが出てくるのです。私の読めなさを発見すると、先生もわからないことあるんだねえ、自分たちもがんばるから先生もがんばれ、と笑う生徒もいます。ごめんね、ありがとね、と応えるくらいしかできませんが、生徒たちは寛容です。ですが、その反対の事態も起こります。授業を淀みなく進めることができたと思っていたら、今日の授業はつまらないと生徒に言われる。なぜかと問うと、先生の解説を自信満々に聞かされているだけだったからだ、全然頭を使わないので眠くてたまらなかったと、ため息交じりにこぼされたりする。試験前で範囲を進めなければいけなかった、書いてある内容がわかりづらいのでシンプルに整理したかった、など、ほとんどの場合、自分に思い当たる節があるのです。そういうときは本当に情けなくて、恥ずかしくなってしまう。

 

「或る教師の手記」の言葉は、こういった経験を私に思い出させます。生徒たちは、学校という生活の場で、身近な大人である教師が自分たちをどんなふうに見ているかを感じ取っています。上から目線、というのを生徒たちは本当に嫌がります。先生は自分が一番正しいと思っているという理由で教師に反抗する生徒を、私は何人も見てきました。もちろん我儘勝手は許してはいけませんが、教師がどんな姿勢で授業に臨み自分たちに向かっているのか、生徒たちはちゃんと見ている。教師だって、生徒たちがどんなふうに授業に取り組んでいるのか、目を向けなければならない。でも、これって尋常な人間関係ではありませんか。

高校時代、教師になろうと考えたことはありませんでした。いろいろな出逢いや巡り合わせのなかで、気付いたらなってしまったのですが、でも、なってよかったと思っています。以前それを話したとき、先生は先生になってよかったと思う、先生と一緒に読んでると、難しいけど楽しいよ、と言ってくれる生徒がいました。思い出すたび背筋が伸びる、あの評価に恥じないよう、今日も明日も頑張らなければなりません。

(了)

 

春、帰りなむ(前編)

しゃ ゆう

1

 

どこからであろうか、懐かしい音が聞こえて、衛門えもんはまぶたを薄く閉じてじっと耳をすませた。ひそひそとした話し声や、木の車輪がきしむ音や、ゆっくり響く微かな足音が、風の音と混ざり合いながら少しずつ大きくなってくる。

夫である大江匡衡おおえのまさひらに伴って、赤染衛門あかぞめえもん尾張おわりに下ったのは、これが二度目のことだった。

かつて藤原道長の妻、倫子りんしに仕えていたころ、夜毎日毎よごとひごと牛車ぎっしゃの音は聞こえていた。

とくに思い出深いのはある春、一条院へと花見の会へゆく際に、和泉式部とともに乗った牛車である。それは屋根に檳榔びろうをあしらった四人乗りの牛車で、まだ新しい車輪がてらてらと光っていた。あの日の一条院には、人が降りられないほど牛車がつめかけ、従者が芋を洗うようであった。

音はさらに近づいて来て、それからぴたりと止まった。目頭に涙を浮かべていた衛門は、そのとき我に返った。

どうやら衛門を訪れる客のようであった。
 「衛門さまは病を得られて」

奥の間に聞こえたのはそこまでで、あとは風の音にかき消されてしまった。病と聞いて、対面は望めぬと思ったのであろう、牛車は離れていった。強い風がひとすじ、奥の間まで届いた。衛門はやや肩を縮め、身をすくめた。しばらくすると、ふみとともに、両手にしっかりと抱えねばならぬほどの大きな包みが衛門に手渡された。衛門は娘を枕元に呼び、包みを解かせた。とたんに、鼻がつんとする香りが、辺り一面にたちこめた。
 「まあ、これは何の香りでしょう」
 「これは丁子ちょうしですよ。こちらは甘松かんしょうね」

都でもなかなか手に入らない、珍しい香の原料が少しずつ、丁寧に包まれていた。貴族たちはこれらを調合して薫物にする。衛門はかつて、倫子が調合した香を分けてもらうために仲間の女房たちと列に並んだことを思い出し、口元がほころんだ。
「どなたがくださったのでしょう」

興味深そうに顔を床に近づける娘に、衛門はすぐには答えず、静かに文を広げた。案の定、見慣れた字があった。
 「三河守みかわのかみですよ」

三河守となった菅原為理ためよしは、かつて衛門の妹のもとに長らく通っていた。その縁で三河国へと下る道すがら、衛門のところへ立ち寄ったのは、梅の咲き始めのころであった。いまや風がさすように冷たくなってきたとは、早いものだ。妹が亡くなったのは五年前、為理が通っていたのはさらに昔のことだ。
 「あの方が生きていたら、尾張と三河は近くてよかったのですが」

為理はそう言い残し、任地へと下っていった。

為理は、妹のほかに多くの通いどころがあった。人が悪いわけではないのだが、あまりに風流に生まれつき、ごく自然な成り行きで、あちこちの女に心が移る質だったのだろう。妹が深く悩むうちに病で亡くなったのには、この方も一役買っているような気がして、為理との付き合いは気後れがした。病と伝えてよかったと衛門は思った。季節の変わり目に咳を少しわずらったが、すでにあらかた治っていた。

ところがしばらくして、衛門は小刻みに肩をゆらしはじめた。隣にいる娘がはっと気がついたときには、声さえもらして笑った。

為理の文には、歌が詠まれていた。

 

唐国の 物のしるしの くさぐさを やまと心に  乏しとやみむ

(唐のものをいろいろとお贈りしたことを、やまと心が足りないとご覧になりますか)

 

目を丸くして驚いている娘を見ても、衛門は緩んだ顔を引き締めることができなかった。やまと心をこのように話題にするとは、あの歌のことを聞き知ったに違いない。衛門はこれまで一度も、そのことを人に話したことはなかった。きっと夫が、どこかで話題にしたのだろう。衛門は心が温まった。月日はほんとうに早い。あの歌を贈ったばかりのころ、もはや夫婦の契りもこれまでかと衛門は覚悟していた。それはちょうど今と同じ、美しい虫の音が、木枯らしでかき消される、冬の初めであった。

 

2

 

 「お白湯さゆをお持ちしました」

丹後たんごのささやくような声が頭の上で聞こえたので衛門は頷いた。赤ん坊をあやしながらも、目は文机ふづくえに置かれた文の字を追っていた。文の主は藤原倫子、かつて衛門が仕えていた、藤原道長の妻である。

丹後が椀を持っていてくれるので、衛門は体を動かすことなく白湯をひと口啜った。顔を上げると、丹後が心配そうな顔でのぞきこんでいる。
 「早く乳母が見つかるといいのですがね……」

丹後はなんでも察しがよく、衛門は嬉しくなった。しかしそれもつかの間のこと、考え出すとため息がもれる。倫子からの文には、娘の彰子しょうしの女房としてそなたを召したいと書かれており、いつ京に戻れるのかと促すものだった。衛門としても、はやく倫子の役に立ちたい。だが、幼子につける乳母がいなくては、叶うはずもなかった。
 「あの人の赤子はもう、生まれたころでしょうか」

少し前までは、衛門の姪が乳母をしていた。しかし衛門の娘が生まれてから一年も立たぬうちに姪にも懐妊のきざしが見え、すぐ里帰りさせてしまった。丹後はその娘のことを言ったのである。
 「ええ、この間、たよりが来ました。女の子だそうよ」

かわりの乳母を、親類じゅう当たって探させてはいるが、すぐには見つからなかった。たとえふさわしい人が見つかっても、たやすく決まることはないだろう。
 「あの方は、旦那様がようやく首を縦に振ったというのに……」

衛門はしばらく返事をしなかった。

衛門の夫、大江匡衡は、学者であった。学者というものが、ここまで気難しいものだということを知ったのは、子が生まれてからのことであった。
 「姪は少し若すぎたのです」
 「けれどあの方は朗らかで、歌もお上手だったようなのに」

衛門は姪を思い出したようで言葉に詰まった。ため息がもれた。
 「歌が得手でも仕方がないのでしょう」
 「いいえ。そのようなことはございません。なんといっても旦那様は、歌では衛門さまには勝てないですもの」

これには衛門は笑ってしまった。丹後もつられて笑ったが、思い出したようにおもむろに白湯を衛門の口元に運んだ。
 「さあ、もう一口おあがりください」

衛門は若いころから和歌の名手だった。大臣家の歌合の歌は必ず評判になったものだ。

一方、夫の大江匡衡はもともと和歌が好きではなかった。一通り学びはしたものの、和歌を詠む暇があるならば、少しでも多く漢文の聖典にふれていたかった。その態度を一変させたきっかけが、衛門への恋であった。

 

匡衡

恋わびて 忍びにいづる 涙こそ 手に貫ける 玉と見えけん

(恋に悩み、人知れずこぼれる涙が、手に通した数珠の玉のように見えます)

 

数珠とともに贈られた歌に、衛門はすぐさま返事をした。

 

赤染衛門

ちづらなる 涙の玉も 聞こゆるを 手に貫ける 数はいくらぞ

(千にも連なる涙と世間では言いますが、あなたの手に連なる涙の数はいくつでしょうか)

 

手ひどく返しても間もなく歌はふたたび贈られてきた。

 

匡衡

あら浪の うち寄らぬまに 住の江の 岸の松影 いかにしてみん

(荒波が打ち寄せないうちに 住の江の松の姿をなんとかして見たいものです)

 

返し
赤染衛門

住の江の 岸のむら松 陰遠み 浪寄するかを 人は見きやは

(住の江に群れて生える松は、その姿を遠方から見るので、波が寄せるかどうかは見えないものです。あなたは見たのですか、見てはいないでしょう)

 

匡衡

岩代の 松にかかれる 露の命 絶えもこそすれ 結びとどめよ

(岩代の松にかかっている露のように儚い私の命が消えてしまいそうです。つなぎとめてください)

 

返し
赤染衛門

結びても 絶えんを松の はばかりに かけばにで見る 露の命ぞ

(露なら結んでも消えるものです。まして松の葉などにかけるというのでは、なおさらはかない露の命ですね。つなぎとめられません)

 

苺を檜破籠ひわりごに入れて
匡衡

紅の 袖匂ふまで ける玉 なにのもるとも 数へかねつつ

(紅に映える袖になるまで、血の涙の玉が貫いたのです。檜破籠に何が盛ってあるにしても、数は数えられないでしょう)

 

返し
赤染衛門

もりつらん 物はことにて 紅の 袖にはなにの 玉か数えん

(盛ってある物はさておいて、もともと紅色をした袖で何の玉を数えればいいのでしょう)

 

衛門とのやりとりをするうちに、匡衡は歌に深入りしていった。明らかに和歌においては、衛門のほうが数段上だということを、匡衡は認めざるをえなかった。幼いころから秀才と呼ばれ、周囲の期待を集めてきた匡衡にとって、勝てないものがあるというのは、それだけで心が惹きつけられた。いくら歌を贈っても、返ってくるのはつれない歌ばかりだった。しかし衛門は必ず返歌を寄こした。まるでつれない素振りさえ、どこか楽しんでいるかのようであり、それが匡衡を次の歌へとかきたてた。

 

泣き声が聞こえて来た。つい物思いにふけったかと、衛門は思わず腕のなかの赤ん坊を見たが、すやすやと眠り続けている。どうやら声の主は外にいるらしい。丹後はすぐに立った。
 「様子を見てまいります」

衛門の腕に力が入った。

戻ってきた丹後は困ったような顔をして、言葉も発しないので、衛門が急かすと、小さな声でぼそぼそと言った。
 「旅のお方だそうです。今夜一晩、泊めてさしあげてもよろしいでしょうか」

丹後が御簾を上げると、親子らしき姿があった。

女童めのわらわは十歳ほどだろうか、しゃがみこんで泣いていた。女童の背中をやさしくさするたびに、母親の薄い背中で幼子が大きく揺れた。
 「お嬢さんが足をくじいてしまったそうなのです」

子を見つめる母親のほうも顔が青ざめていた。衛門はわが子をおいて親子のほうへと近づいていった。
 「どちらからいらしたのですか」
 「近江でございます」

娘がこれから世話になる人に会いにきたのだが、ようやく京に入ったところで、当の娘がどうしても歩けなくなってしまったという。外は暗くなりつつあり、このままでは外で夜を越すことになるだろう、丹後が思わず声をかけたのも無理はない。衛門がうなずくと、丹後の声が弾んだ。
 「さあ、お上がりください」

母親は背中の幼子を下ろし、腕にしっかりと抱えながら幾度も礼をした。立ち上がっても小柄なその若い母親は、名を伊香いかといった。いい名だと伝えると、父が住んでいた近江の地名なのだという。丹後はすぐに女童をおぶって奥へと連れていった。伊香がおもむろに歩きはじめたとき、衛門は声をかけた。
 「外にいる方もお入りになって」

伊香は驚き、身をすくめた。
 「あれは外でいいのです」

伊香は旅に男衆を連れていることを言わないようにしていたが、この女主人は、広い心の持ち主だったようである。
 「このあたりは、夜とても冷え込みますから」

そう言い残して衛門は奥に下がっていった。その背に向けて、伊香はもう一度深々と頭を下げた。

 

3

 

翌朝、衛門が起きてみると、炊事場のほうから話し声が聞こえた。甲高い声が交っている。昨夜足を痛めていたという女童めのわらわが何か手伝いをしているようだった。

こちらの気配を察したのであろう、お目ざめになりましたか、と丹後に声をかけられた。その横から、元気そうな女の子がちょこんと顔をだした。
 「昨夜はどうもありがとうございました」

お辞儀をしてすっと上げた顔は、かすかに赤みがかっていた。

足の痛みはもういいのか、少女は素早く動き回っていた。頰と同じ、紅葉のような赤い小袖が似合っていた。
 「母は、今、水を汲みにいっています」
 「お断りしたのですが、どうしても行くといって」

お優しい方です、と丹後は独り言のように言って食事の支度を続けた。

少女は何かを見つけたのか、目を細めてつぶやいた。
 「紫に染まるかしら」

丹後はかまどに薪をくべていて、少女の声が届いていないようだった。視線の先を追うと、庭に残っていた朝顔が、光のなかで揺れていた。

井戸から帰ってきた伊香は、衛門の姿を見つけると、大切そうに水を抱えて庭のほうへやってきた。衛門が尋ねると、娘は生まれつき手先が器用で、裁縫や染物がことのほか好きなのだと話しはじめた。
 「最初に気がついたのは、私が着物のほつれを直しているときでした」

伊香の背中の赤子は、人形のように静かだった。
 「縫い物をしながらつい、うとうとしていたところ、娘が残りを縫ってしまったのです。八歳のときでした。見様見真似で覚えてしまったのでしょう。その場では叱りましたが、嬉しい思いでした。それからいつだったか、一度花染めを見せてからは、一緒に野山に出かけては植物をとってきて、始終染物をしています」

衛門が見やると、少女と朝顔がじっと見つめあっていた。
 「着物も自分で染めたのですか」
 「ええ」

きれいに染まっていると伝えると、伊香は明るい声になった。
 「椿です。何日も野をかけまわったり、ご近所にも頼み込んだりして、落ちた花をたくさん集めて、ひとりで染めたのです」
 「名残の紅葉のようですね」

伊香は嬉しそうに頷いた。娘の手による染物が季節に合っていると褒められるのはこのうえもない喜びのようだった。
 「いまは庭の朝顔を見て、考えているようですね」

伊香は頷いた。
 「紫は、娘の憧れの色なのです。花染めで濃い紫色を出すのは難しく、すぐ色あせてしまうのですが」

娘がこちらにやってきて、母の膝へ甘えるように顔をうずめた。
 「お母さま、私、いつかはあんな色も染められるかしら」
 「紫草むらさきで染めればきっと美しいわ。都へいけば、紫草で染めることができるかもしれないと楽しみにしていたのよね」

娘の顔はとたんに輝いたが、次の瞬間、眉間にも口元にもしわを寄せて衛門を驚かせた。
 「きっととっても冷たいわ」
 「お水のことね」

娘は大きく頷いて、まるで冷水のなかに両手を入れたかのように身を震わせた。衛門は笑った。
 「花染めは、温めた色水に浸してから、冷水の中で生地を洗うのを、何度も繰り返すことで、少しずつ色づいて、むらなく美しく染まります」

それは初耳だと衛門が伝えると、伊香は恥ずかしそうに微笑んだ。
 「何度もしているうちに娘が自分で気がついたのです」

伊香の誇らしげな姿に、衛門も心が浮き立つのを覚えた。まるで自分の娘が育ってゆく喜びを、先取りしたかのようだった。
 「これだけ好きで得手なことを持って生まれたのだから、何か縁があるに違いないと、いつも思っておりました」
 「それで京まで旅をされたのですね」

伊香はうなずき、これまでの旅のことを一通り語った。
 「夫の親戚に、代々着物の仕立てを生業なりわいとする家の主人がいるのです」

それは衛門も噂で聞いたことがあった。貴婦人たちはたいてい、みずからの着物を仕立ててもらうため、針仕事や染物を担う女房を抱えるものだが、急な入り用に間に合わぬときや、凝った仕立てを頼むときは、そういった家に頼むことがあった。伊香は、娘をその家の針子にしようというのだろう。
 「幾度となく頼んでも、なかなか聞き入れてくださいませんでした。でも夫が亡くなった際、ようやく文をくださって」

それで丸一日かけて、念願の都へと旅をしてきたのだと話し終えると、伊香は黙って、娘の着くずれを直した。衛門は、少女が去ったあとの朝顔を見つめ、あのような濃い紫の生地は、都でもなかなか手に入らないことを思った。花は、前に見たときより色が深まっていた。

 

赤ん坊の声がした。まるで話の区切りを待っていたかのような間の良さだった。

 

衛門は机の前に向かい、倫子への返事を書く準備を始めた。

硯に水をさし、墨をなじませて幾度か磨ってから、大きな木箱を開けて、紙を出そうとして、衛門は思わず苦笑をした。さきほどとは別の角度から泣き声が聞こえた。衛門の娘が起き出したようであった。

衛門は丹後を呼び、持ったばかりの筆を置いた。そして昨夜からやや痛む腰をようやくあげたころ、几帳を隔てた隣の部屋から、赤ん坊を抱えた母親がこちらをのぞいた。遠くから、お乳をさしあげてもいいでしょうか、と声が聞こえる。そばに来た丹後が、是非そうさせてあげてください、と言葉を添えた。
 「そうはいっても……」

伊香は小柄で、どちらかというと痩せていた。旅の疲れからか顔色も芳しくなかったので、食事を多めにするように丹後に言いつけたほどだった。傍目からはどう見てもふたり分のお乳が出るようには思えなかった。
 「何かお礼がしたいと、昨日から口を開くとそればかりで」

衛門が小さく頷き、無理はせぬように伝えてほしいと言った。衛門は筆を持ったが、幾度か字を書き損じた。泣き声の合間から、「伊香さん、しっかり」と励ます声がした。風で持ち上がった几帳の隙間から、背中をさする丹後の手が見えた。しばらくして泣き声は風とともに消え、鈴虫の声が聞こえて来た。

 

親子はその日のうちに用をすませ、伊香は夕方、衛門の家にもう一度立ち寄った。今朝の女童はおらず、背中の赤ん坊がすやすやと眠っていた。静かな人だと衛門は思った。

深々と礼をしたのちに顔を上げると、伊香は衛門の顔をまっすぐに見つめた。
 「見知らぬ私どもを泊めてくださって、なんとお礼を申し上げたらよろしいのか……その上で、このようなことを申し上げるのは、まことに無礼だと存じてはいるのですが」

一瞬の沈黙の間に、深い呼吸が聞こえてきそうであった。声が震えていた。
 「乳母として、このお家においていただけないでしょうか」

娘と一緒に都へ来たのは、自分も雇ってはもらえまいかと考えていたからだったようだ。しかし娘の奉公先では、人手は足りており、用がなかったのだという。
 「あの子は、ほんとうは姉の子なのです。姉は産後すぐに亡くなったので、私が育てようと決めたのです。母のふりをするうちに、本当のことは言えなくなりました」

伊香は、そっと背中のほうへ目をやった。
 「この子が産まれてから、今度は夫が亡くなりました」

今にもこぼれ落ちそうな涙に、伊香は耐えていた。
 「あの子がひとりで食べていけるとわかるまで、見届けてやりたいのです」

先に声を出したのは丹後であった。
 「衛門様、あの……」

衛門は微笑みながら、言葉を重ねた。
 「実は困っていたのです。今朝も助かったの」

幼子の母は、絞り出すような声でお礼を言い、赤ん坊を起こさないようにと、それ以上は話そうとしなかった。突然、強い風が吹きぬけていった。
 「さあ、もう遅いですから、おあがりなさい」

風は、暖かくなった衛門の心にまで吹き込んだように思えた。誰にもわからぬよう、衛門は小さくため息をこぼした。

(つづく)

 

松原正先生と小林秀雄

「今度の松原の文章はなかなかいい」と、或るとき小林秀雄が云つた。僕が何でそんなことを知つてゐるかと云ふと、松原先生から直接伺つたからである。先生は師の福田恆存から聞いたらしい。福田恆存が何かの用で小林秀雄に会つたとき、たまたま小林は「中央公論」に載つた松原先生の文章を読んでゐて、福田恆存にさう云つたのだと云ふ。先生はその話を僕になさつたとき、羞みながらも嬉しさうであつた。先生は晩年、小林秀雄の仕事に全面的には共感してゐなかつたやうであるが、小林秀雄その人に対する敬愛の念は最後まで揺るがなかつた。

先生は学生時代に縁あつて福田恆存に師事することになつたが、当時は小林秀雄に心酔してゐて、福田恆存は名前を知つてゐるぐらゐだつたと云ふ。それで最初の頃は小林秀雄に会はせてくれと大分師に強請つたらしい。師にしてみればあまり面白い話ではなかつたらうが、それでも師は苦笑ひするだけで、別に嫌な顔はしなかつたと云ふ。先生が学生時代に実際に小林秀雄に会ふ機会が得られたかどうかは聞洩らしたが、何れにせよ、卒業後師の紹介で東京創元社に勤めることになり、そこで念願が叶ふことになつた。当時小林秀雄は創元社の編輯顧問をしてゐたからである。

尤も先生は師に親炙するにつれて狐が落ち、創元社に勤める頃はさほど熱狂的な小林フアンではなくなつてゐたと云ふ。それでも流石は小林だなと思はせられることが何度かあつた。

或る日、先生は特にやることもないので、社の与へられた机に向つてT・S・エリオツトの「古典とは何か」と云ふ本を読んでゐた。小林は二週間に一度社にやつて来たが、たまたまその日が出社日で、先生に「何を読んでるんだい」と声を掛けた。先生が本をお見せすると、「面白さうだな。貸してくれ。俺英語も読めるんだよ」と云ふので、お貸しした。二週間後に「いかがでしたか」と訊いたら、「贅沢なことを云つてやがんな」と云ふのがその返辞だつたと云ふ。

先生は小林のこの返辞に驚き、いたく感服したと云ふ。エリオツトによれば、イギリスの本当の古典文学はイギリスにはなく、古代のギリシアとロオマの文学、特にウエルギリウス、さらには中世のダンテがそれに当る。従つてイギリスの文学者はそれらを研究してそこから養分を吸収しなくてはならない。それがイギリスに於いてヨオロツパの伝統を活かすと云ふことだ。先生の見るところ、我が国にはどう逆立ちしてもそんな伝統はない。にもかかはらず、西洋の文学や哲学を研究する者の中に「贅沢なことを云つてやがんな」と云ふ苛立ちを感ずる者もゐない。先生は、一読でその苛立ちを覚えた小林の鋭敏な感性に驚き感服したのである。

先生は創元社に二年ほどゐて退社なさつたが、その際に鎌倉の小林家へ後輩の編輯者を連れて挨拶に伺つた。晩御飯を御馳走になつたあと、大分聞し召した小林が「おい、モオツアルトを聴かしてやらうか」と云ふので、「お願ひします」と答へると、書斎からSPレコオド用の手巻蓄音機を持つて来て、自分で巻いて、有名な嬉遊曲のメヌエツトをかけてくれた。聴きながら小林が「どうだ、いいだらう」と云ふから、先生が「いいですね」と相槌を打つと、急に小林の顔色が変つて、「てめへらに藝術なんか解つてたまるか」と云つたと云ふ。先生は内心、ほら来た、小林の取巻連中はみんなこれでやられるんだ、と思つたが、どうせ自分は社を辞めるんだし、何も遠慮することはないと思ひ直して、「しかし先生、モオツアルトは藝術のつもりで書いたのでせうか」と口答へした。次にどんな言葉が出て来るかと緊張したが、案に相違して小林は口を噤んで何も云はなかつた。ただ黙つて酒を飲んでゐた。その姿を見たとき、先生はやつぱり小林は偉いなと思ひ、人徳を感じたと云ふ。若造の云ふことでもそのとほりだと思へば一切言訳をしないと云ふのは、さう誰にでも出来ることではない。

僕はこの話を先生から伺つたとき、先生も偉いと思つた。これが俗な心の持主なら、天下の小林秀雄を相手に一本取つたと得意になるところだらうが、そこに相手の偉さと人徳を認めた先生も偉かつたのである。

先生は晩年小林秀雄の仕事に全面的には共感してゐなかつたと先に書いたが、それは小林が晩年本居宣長に入れ揚げて西洋から足を洗つた(と先生に見えた)ことが不満だつたからである。先生は西洋の精神と日本の精神の根本的な違ひを最後まで論じ、その違ひを認識した上で常に両者から眼を離さずにゐることの大事を説いて倦まなかつた。勿論、先生も本居宣長は偉い人だと思つてゐたし、小林秀雄がキリスト教は解らないと告白したことも率直な人徳のなせる業だと認めてゐた。しかし今日の日本の置かれた状況を考へれば、本居宣長だけでは救ひにならないと云ふのが先生の考へであつた。先生が最後に向つたのが、西洋精神と最後まで対峙しつづけた夏目漱石であつた理由はそこにあつた。しかし小林秀雄がドストエフスキイ論を完結させ得なかつたやうに、先生の夏目漱石論も完結はしなかつた。そこに、戦後日本の精神状況を見据ゑつつ、絶えず難問にぶつかつては誠実に考へようとした一人の日本人の、誠実なるがゆゑの精神の苦渋を見るのは決して僕だけではないであらう。

以上、折に触れて松原先生から伺つたいろいろなお話の中から、小林秀雄に関するものに焦点を当ててみた。先生はのちに講演でもここに採上げた話題の幾つかに触れられ、その記録は「福田恆存の思ひ出」の題で先生の全集第二巻に収められてゐる。また、小林がエリオツトの「古典とは何か」を読んで「贅沢なことを云つてやがんな」と云つた「贅沢なこと」については、岡田俊之輔氏が「習慣、伝統、正統―T・S・エリオツトと小林秀雄」と云ふ論文(「英文学」第九十四号)で詳述してゐるので、参照されたい。

―もう何年前になるのだらうか、小林秀雄が亡くなつたとき、或る日松原先生にお会ひすると、先生は「つひにゆく道とはかねて聞きしかどきのふけふとは思はざりしを」と云ふ在原業平の歌を口にされて、「死ぬと云ふのは結局かう云ふことなんだらうね」と感慨深げに仰有つた。勿論これは先生がまだまだお元気だつた頃の話である。先生が亡くなられたと聞いたとき、妙にこのときのことが思ひ出され、業平の歌が数日脳裡を離れなかつた。

(『英文学』<早稲田大学英文学会>第百三号<平成二十九年三月>より転載)

 

【編集部注】

松原正氏は早稲田大学名誉教授、2016年、86歳で死去。専門は英米文学。保守派の評論家としても活躍した。圭書房から全集が刊行中。

なお、本稿の転載については、筆者大島一彦氏の許諾を得ています。

 

しるし」という語をめぐって

「徴」という語は、小林秀雄『本居宣長』で描かれる言語の力、その謎の極点に現れる。本居宣長という人物をめぐって展開する大きな思想劇の中、言語が本来持つ表現力の謎に迫る一幕で、宣長自身の語であることを断った上で初めてこの語が登場する。

 

“有る物へのしっかりした関心、具体的な経験の、彼の用語で言えば、「微」としての言葉が、言葉本来の姿であり力であるという事だ。見えたがままの物を、神と呼ばなければ、それは人ではないとは解るまい。見えたがままの物の「性質情状アルカタチ」は、決して明らかにはなるまい。直かに触れて来る物の経験も、裏を返せば、「徴」としての言葉の経験なのである。両者は離せない。どちらが先きでも後でもない。”

(新潮社刊『小林秀雄全作品』第28集p.44 15行目~)

“言語共同体を信ずるとは、言葉が、各人に固有な、表現的な動作や表情のうちに深く入り込み、その徴として生きている理由を、即ち言葉のそれぞれのあやに担われた意味を、信ずる事に他ならない(中略)この言語の世界の、感得されてはいるが、まことに説明し難い決定的な性質を、宣長は、穏やかに、何気なく語っている”

(同p.49 6行目〜)

 

一般に「徴」という語は、目に見えない物事のあらわれ、目には見えたとしてもたった今眼前には無い物事の表現、という意味で用いられる。だが私は、ここで使われている「徴」という言葉には、それ以上の、特別な意味が込められているように感じる。

ふたたびごく一般的な考え方を持ちだすと、言葉には「意味」と、それを担う「形」とがある。「形」は、具体的には文字や声のことだ。文字は元を辿れば声を記録したものであるから、声を発する行為が本来である。声に限らず、表情や体の動きにも内面があらわれており、これらも同じく一種の言葉だ。それらすべての行為全体が「形」であり、それに伴って伝わる心のあり様が「意味」である。

上記の引用の中で言われているのは肉声としての言葉だ。あやとは、音の上げ下げや強弱、抑揚などの工夫によってつくられる声の形、またそれに伴う行為の総体のことだ。つまり言葉の「形」である。例えば、「おはよう」という単語は同じであっても、笑顔であるか下を向いているか、高い声で言うか淡々と抑揚なく言うかなどによって、それぞれが表す心のあり様は違う。伝えようとする行為全体がすなわち文なのだ。「おはよう」という、文字にしてしまえば同じ4つの音でも、表し方を工夫することで、無限に違う「意味」をやりとりしているのである。あらためて考えてみればとても不思議なことだ。我々は何をもって言葉を「同じ」「違う」と判断しているのか、そのこと自体も不思議だが、今回そこまで触れることは叶わない。

 

上記の引用文がある第34〜35章にかけて、『古事記』における神の名は、古人たちの心の「徴」であることが言われている。生活の裡で出会う物事の不思議さ、宣長の言葉で言う「可畏かしこ」さに出会って心が動き、なんとかその動揺を見定めんとする彼等の努力の跡が、神の名にあらわれているのだ、と。神代記の神々の名は、長い時を経て口承で伝わってきた肉声である。それぞれの神の名がもつ肉声のあやが、その意味を担っている。宣長は35年かけてこの物語を愛読し、残された「徴」から肉声を聞き、その身ぶりまでを見ていた。『本居宣長』全50章の中に、宣長自身が「徴」という語を使った文章の引用はないが、『本居宣長補記Ⅱ』の締めくくりに次のような言及がある。

 

“彼(本居宣長)の熟考された表現によれば、水火ヒミズには水火の「性質情状アルカタチ」があるのだ。彼方に燃えている赤い火だとか、この川の冷い水とか言う時に、私達は、実在する「性質情状カタチ」に直かに触れる「徴」としての生きた言葉を使っている(「有る物の徴」という言葉の使い方は「くず花」にある)。歌人は実在する世界に根を生やした「徴」としての言葉しか使いはしない。”

(同p.389 7行目〜)

 

『補記Ⅱ』の後半3〜4節は、本編50章のうち、言葉を主題とする第32〜39章の、テンポの速い変奏曲のような構成だ。その結語の直前に上の一節がある。ここに到って私には、この『補記Ⅱ』が、小林がみずから『本居宣長』を再読し、言葉について考えを深めるうち、ふたたび自ずと創作に誘われて誕生した作品のように思われた。その「くず花」の中で、「徴」という語はどのように使われているか。

 

“星の始をいはざるは、返て神代の傳え事の正実まことなる徴とすべし”

(筑摩書房版『本居宣長全集』第8巻 p.131)

 

「くず花」は、『古事記伝』の中の『直毘霊なおびのみたま』に対する市川匡の論駁『末賀能比連まかのひれ』への返答として書かれた。論争の元となった『直毘霊』の中で「徴」は次のように現れる。

 

“天津日嗣の高御座は、(中略)あめつちのむた、ときはにかきはに動く世なきぞ、此ノ道のあやしくくすしく、異國アダシクニの萬ヅの道にすぐれて、正しき高きたふとき徴なりける”

(筑摩書房『本居宣長全集』第9巻 p.56)

 

これら、宣長自身による「徴」の遣い方は通常の意味合を出ないように見えるが、宣長の全文章を通読味読している小林は、通常の意味にとどまらない、深い心のうちを読み取っているようだ。先に挙げた『補記Ⅱ』の文章の直前で、言葉の力だけが成しうる「飛躍」について、次のように語られる。

 

“欲から情への「わたり方」、「あづかり方」は、私達には、どうしてもはっきり意識して辿れない過程である。其処には、一種の飛躍の如きものがある。一方、上手下手はあろうが、誰も歌は詠んでいる。一種の飛躍の問題の如きは、事実上解決されているわけだ。これは、大事なことだが、宣長にとって、難題とは、そういう二重の意味を持ったものであった。それは、観察の上で、直知されている、欲から情への飛躍という疑うことの出来ない事実が、そのまま謎の姿で立ち現れたという事であった。”

(新潮社刊『小林秀雄全作品』第28集p.367 5行目〜)

 

言葉の謎の核心をなしているこの「欲から情への飛躍」は、詠歌においては解決されているという。その飛躍を今まさに行っている歌人の胸の内がつぶさに描かれた「あしわけをぶね」の重要な一節が続く。

 

“「詠歌ノ第一義ハ、心ヲシヅメテ妄念ヲヤムルニアリ、然シテソノ心ヲシヅムルト云事ガ、シニクキモノ也。イカニ心ヲシヅメント思ヒテモ、トカク妄念ガオコリテ、心ガ散乱スルナリ。ソレヲシヅメルニ大口訣クケツアリ。マヅ妄念ヲシリゾケテ後ニ案ゼントスレバ、イツマデモ、ソノ妄念ハヤム事ナキ也。妄念ヤマザレバ歌ハ出来ヌ也。サレバソノ大口訣トハ、心散乱シテ、妄念キソヒオコリタル中ニ、マヅコレヲシヅムル事ヲバ、サシヲキテ、ソノヨマムト思フ歌ノ題ナドニ、心ヲツケ、或ハ趣向ノヨリドコロ、ことばノハシ、縁語ナドニテモ、少シニテモ、手ガヽリイデキナバ、ソレヲハシトシテ、トリハナサヌヤウニ、心ノウチニウカメ置キテ、トカクシテ、思ヒ案ズレバ、ヲノズカラコレヘ心ガトヾマリテ、次第ニ妄想妄念ハシリゾキユキテ、心シヅマリ、ヨク案ジラルヽモノ也。サテ案ズルニシタガツテ、イヨゝゝ心スミコリテ、後ハ三昧サンマイニ入タル如クニシテ、妄念イサヽカモキザヽズ、食臥しょくがヲワスルヽニイタリ、側ヨリ人ノモノイフモ、耳ニイラヌホドニナル也。コレホドニ心上スミキラズンバ、秀逸ハ出来マジキ也。シカルヲ、マヅ心ヲスマシテ後、案ゼントスルハ、ナラヌ事也。情詞ニツキテ、少シノ手ガヽリ出来ナバ、ソレニツキテ、案ジユケバ、ヲノヅカラ心ハ定マルモノトシルベシ。トカク歌ハ、心サハガシクテハ、ヨマレヌモノナリ」(「あしわけをぶね」三七)

言葉というものの謎を見詰め、これをどう説いたものかと、烈しく言葉を求めているところに、「口訣」という言葉が閃き、筆者に素早く捕えられているところが面白い。”

(同p.367 13行目〜)

 

ここに描かれているのは、動揺にとらわれた心を、何とかしずめようとする、意識的な行為である。欲に突き動かされている間は受身だが、言葉を得ようと努力するうちに心は鎮まり、歌という形となる。こうして整えられた言葉が、「徴」としての力を持つ。つまり「徴」は単なる「あらわれ」ではなく、努力の結果生み出される「表現」であるということだ。第34〜35章では、神の名について「徴」という語が使われていたが、ここでは同じことが詠歌について言われる。神の名を得る言語の力は、歌をかたちづくる力と同じ、「徴」を生み出すはたらきなのだ。小林は言葉を継ぐ。

 

“言葉の発生を、音声の抑揚という肉体の動きに見ていた宣長としては、私達に言語が与えられているのは、私達に肉体が与えられているのと同じ事実と考えてよかったのであり、己れの肉体でありながら、己れの意のままにはならないように、純粋な表現活動としての言霊の働きを、宰領していながら、先方に操られてもいる、誰もやっている事だ。己れの生きている心を語ろうとする者は、通貨の如く扱われている既製の言語を、どう按排してみても間に合わない事を、本能的に感じているから、おのずから生きた言語の源流に誘われ、言語との、そういう極めて微妙な関係が、知らぬ間に結ばれるのである。その場合、自分の感動の動きを現に感じている事と、これを言葉にして表現する事とは離す事が出来まい。それは、この上なく親身な、たった一つの言語経験の表裏であろう。”

(同p.372 10行目〜)

 

「自分の感動の動きを現に感じている事」と、「これを言葉にして表現する事」は、音声の抑揚を工夫するというひとつの行為の表裏だ。先に言葉の意味と形という一般的な見方を持ち出したが、前者が意味に、後者が形に、やがて分かれて固定されてゆくとしても、はじめは分割できないひとつの行為なのである。

あしわけをぶねの「妄念ヲヤムル」大口訣のくだりは、本編では第36章にその一節が引用されている。その直後の一文を引用したい。

 

“自己認識と、言語表現が一体を成した、精神の働きまで遡って、歌が考えられている事を、しっかり捕えた上で、「人に聞する所、もつとも歌の本義」という彼の言葉を読むなら、誤解の余地はない。「人に聞する所」とは、言語に本来備わる表現力の意味であり、その完成を目指すところに歌の本義があると言うので、勿論、或る聞いてくれる相手を目指して、歌を詠めというような事を言っているのではない。なるほど、聞く人が目当てで、歌を詠むのではあるまいが、詠まれた歌を、聞く人はあるだろう。という事であれば、その聞く人とは、誰を置いても、先ず歌を詠んだ当人であろう。宣長の考えからすれば、当然、そういう事にならざるを得ない。”

(同p.59 13行目〜)

 

最後にある「宣長の考え」とは、先に挙げた「大口訣」のことだ。この飛躍こそ、言葉の謎の極みである。端的に言えば「認識」のはたらきだ。認識という行為はまずもって、言葉という「徴」を得る努力なのである。既に完全な言語組織を持っている私達の日常では、目や耳があれば見える、聞こえる、と思いがちだがそうではない。歴史の始めを生きた古人達にとって、言葉を得る努力が即ち認識する行為であった。今も本質は変わらない。

声を発するとき、同時に私はその声を自分で聞く。発する行為と、受け取る行為は同時である。実際に声を出さずともそれは同じだ。このとき私は両方の「割符わりふ」をどちらも持っている。「割符」とは、ふたつの物が、もともとひとつのもののようにぴたりと合う物のことだ。コインなどを割って作り、後日合わせることで、物事の証明として使われた。声を発し、自ら聞く。発する側と受け取る側、ふたつの「割符」を合わせる努力が結実してはじめて、言葉という「徴」が生まれる。「表現について」(同第18集p.29〜)などにその詳細がある。宣長の言う「妄念ヲヤムル」大口訣は、まさにこの行為を指している。この努力の末に、言葉は「徴」としての力を持つ。古人の心を実証などできないが、小林はそこまで言っているように思われる。

(了)