いつものように小林秀雄の『本居宣長』をネタにおしゃべりをする四人の男女。今日は、最初の方、宣長の遺言書が話題のようだ。
元気のいい娘(以下「娘」) 大阪に行ってきたの?
江戸紫の似合う女(以下「女」) ええ、最近、人形浄瑠璃にはまってて。国立文楽劇場で、「曽根崎心中」を見て来たわ。
生意気な青年(以下「青年」) 近松門左衛門(一六五三~一七二四)ですか、今年は、没後三百年ですね。
凡庸な男(以下「男」) そうすると、近松は荻生徂徠(一六六六~一七二八)と同時代の人だね。
女 そうなの。それでね、徂徠も、近松は気に入っていたらしいのよ。
娘 えっ、ホント? ちょっと意外。
女 太田南畝(一七四九~一八二三)という天明期の文人が、『俗耳鼓吹』という随筆の中で書いてるの。「曽根崎心中」といえば、おはつ・徳兵衛の有名な道行があるでしょう。
青年 ああ、この世のなごり、夜もなごり、死にに行く身をたとふれば、あだしが原の道の霜、一足づつに消えて行く、夢の夢こそあはれなれ、と続く、あれですね。
女 希代の名文といっていいと思うけど、徂徠は「近松が妙處、此中にあり。外は是にて推はかるべし」と言ったらしいの(注1)。
男 さすが近松というところかな。
女 ええ。それでね、近松の名作は多々あるけど、辞世がまた、面白いの。
娘 辞世?
女 近松は、亡くなる数週間前に、礼装で端座している自らの肖像を描かせ、そこに辞世文を書いている。かいつまんで紹介すると、こうなのよ(注2)。
「代々甲冑の家に生まれながら武林を離れ」、高位の貴族に公家侍として仕えたが地位はなく、市井にただようも商売を知らず、「隠に似て隠にあらず、賢に似て賢ならず、ものしりに似て何もしらず、世のまがひもの」、和漢の教学、妓能・雜芸・滑稽の類まで「しらぬ事なげに、口にまかせて筆にはしらせ、一生を囀りちらし」ていながら、「いまはの際に言ふべく思ふべき真の一大事は一字半言も」ないというのは、恥ずかしい限りで、七十年余の歳月を思うももどかしいが、もし辞世をと問われれば、
「それぞ辞世 去るほどに扨も そののちに 残る桜か 花し匂はば」
また、戒名等を記したのち、末尾にこんな歌も書いている。
「残れとは 思うもおろか 埋み火の 消ぬ間あたなる 朽ち木書きして」
娘 意外と面白いじゃん。
女 「一生を囀りちらし」といって過去を笑い飛ばし、「残れとは 思うもおろか」だなんて今生への未練を感じさせない乾いた感じがあるわ。
娘 偉大な劇作家にこういう言い方は変かもしれないけど、芝居っ気があるね。
女 この辺は、宣長さんが、北条時頼の重々しい遺偈について、禅宗かぶれの連中は、「死なむとするきはに、かゝるさとりがましきいつはり言する」を立派な行いのように言うが、「いとうるさく、かつは、をこなるわざなりけり」と難じているのを思い出すわ(新潮社刊『小林秀雄全作品』第27集296頁)。
男 辞世だからといって、尤もらしいことを言おうとしないんだね。
女 宣長さんは、在原業平の「つひにゆく 道とはかねて 聞きしかど きのうけふとは 思はざりしを」という歌も、契沖の解に依るかたちで、「これ人のまことの心にて」と高く評価しているわ(同295頁)。
青年 業平とか、時頼とか、それって、小林先生が宣長さんの「やまとだましひ」について論じている箇所でしょう。あなたは、近松が「やまとだましひなる人」だと論証したいわけ?
女 まさか、そんなこと。そういう分析に、私は興味がないし、多分意味がないと思ってる。ただね、近松の辞世の、周りをけむに巻く感じが、宣長さんの遺言書を思い出させるなって思って。
娘 けむに巻く?
女 小林先生も、(遺言書は)「宣長の思想を、よく理解したと信じた弟子たちにも、恐らく、いぶかしいものであった」と書いているわ(同37頁)。遺言書のことだけでなく、宣長から墓地の見立てをしたいので同道するように言われた養嗣子大平が、宣長の平素の教えのとおり、自分の死後のことなど思い図るのはさかしら事で古意に反するのではありませんかと答えたが、黙殺されたであろう、と小林先生は書いているわね(同38頁)。
男 確かに、大平たちにしてみれば、けむに巻かれたような思いだったろうね。
女 遺言書に自分の葬式の手順やらお墓の仕様やらを事細かに記し、事前に墓所の下見までした宣長晩年の一連の言動を、小林先生は「その思想を一番よく判読したと信じた人々の誤読を代償として、演じられる有様」と評しているわ(同41頁)。
娘 「誤読を代償として」って、なんか、すごい。それ自体、謎めいている。
女 素朴に考えれば、大平たちが誤読するであろうことは覚悟の上で、書きたいことを書きたいように書いた、ということだろうけれど。
青年 でも、遺言書の中身は、事務的というか実務的と言うか、具体的な指示の羅列だし、しかも、小林先生は「検死人の手記めいた」と評しているけれど(同31頁)、曖昧さや冗長さのない、明晰な文章だよね。
娘 稲わらを紙にていくつもつつみ、棺の中ところどころ、死骸が動かざるように、つめもうすべし、みたいなことまで書いてある。
男 それも、ひしと詰めそうろうには及ばず、動き申さぬように、ところどころ詰めそうらえてよろしくそうろう、なんてね。かゆいところに手が届く。
娘 完璧なマニュアルだね。
青年 そうなんだ。その意味では、誤読のしようがない。しかし、それでは済まないよね。
男 息子たちにしても、父親がなぜこういうことだけをここまで事細かく書き、それ以外のことを書かないのか、不思議な感じは消えなかったろうね。
女 何かを演じようとしていて、それが、分かる人にはわかるような仕掛けになっている、ということかしら。
青年 人生の最後の最後に、大芝居を打ったっていうわけ?
女 大芝居っていうのは少し変かもしれない。でも、謎を残してくれたわね。
男 だけど、「常に環境に随順した宣長の生涯には、何の波瀾も見られない。奇行は勿論、逸話の類いさえ求め難い」(同46頁)という人なんでしょう?
女 ええ、大常識人という感じよね。生涯にわたり、世に学問程面白きものはなしという信念を貫いた人だけれど、だからといって家業を疎かにするとか、家産を傾けるようなことはない。
男 そうね、「あきなひのすじにはうとくて」、つまり商売には向いていないので、母親(恵勝大姉)の判断で、「京にのぼりて、学問をし、くすしにならむこそよかれ」ということになった(同44頁)。
青年 医師として生計を立てることに、なにか蟠りがあったのかな。「医のわざをもて、産とすることは、いとつたなく、こゝろぎたなくして、ますらほのほいにもあらねど」と書いているけど(同45頁)。
女 どうかしら。「われもしもくすしのわざを、はじめざらましかば、家の産絶はてなましを、恵勝大姉のはからひは、かえすがえすも、有りがたくぞおぼゆる」とも書いている(同44頁)。
男 そういえば、遺言書も、家門絶断これなきよう、永く相続のところ肝要にてそうろう、ご先祖父母への孝行、これに過ぎざりそうろう、と終わる(同36頁)。伝統墨守の決まり文句のようでもあるけど。
女 決まりきったことを斜に構えて蔑ろにするような人ではないと思うわ。それに、小林先生も、「彼が承けついだ精神は、主人持ちの武士のものとは余程違う、当時の言葉で言う町人心であったと言ってよい」と書いている(同43頁)。
青年 でも、やっぱり。遺言書としては、相当変わったものだよね。なんでこんなものを書いたんだろう。
女 小林先生は、この遺言書は心身に何らの衰えもない時点で書かれたもので、「自分で自分の葬式を、文章の上で、出してみようと」したものであり、「遺言書というよりむしろ独白であり、信念の披瀝」であると書いているわ(同37頁)。
青年 信念の披瀝って、どういうことかな。宣長さんも、自分の死後、近親者によって必ず読まれ、そのとおり実行されるというつもりで書いたわけでしょう。
娘 そうそう。棺の詰め物なんかは、書かれたその通り、実行できちゃうよね。
女 小林先生は、これを宣長の「最後の述作」と呼び、宣長という思想劇の「幕切れを眺めた」と書いているのよ(同40頁)。
青年 宣長の死生観が現れている、ということですか。
娘 死生観って、何それ。
女 遺言書なんだから、自分の死について考えて書いたものではある。でも、字面を追う限り、自分の死後、残された近親の者、つまり生きている者が、それをどう受け止め、どう行動してほしいか、祥月などに自分のことをどんなふうに思い出して欲しいか、そういうことが書かれている。
娘 理屈じゃないんだよね。自分の死後、人々が、遺言書に従って、どんな言葉を発し、どんなふうに体を動かすか、動画でもみてるように、ありありと目に浮かぶ感じだね。
男 その「動画」の背後に、何か深い思想のようなもの、宣長さんの思索の到達点のようなものがあるのかなあ。
女 あるのかもしれないけれど、でも、それがむき出しでは出てきていない。その「動画」こそが、人々にとっての、生と死の有様なんだわ。
青年 宣長さんのそういう語り方が、「自分の身丈に、しっくり合った思想しか、決して語らなかった」(同39頁)ということだといいたいわけ?
女 どうかしら、わからないわ。でも、禅宗の公案みたいな、もっともらしいけど曖昧模糊とした語り方とは対極よね。
娘 そこから何かを読み取って欲しかったのかなあ。
青年 そうかも。でもそれは簡単なことじゃないよ。
男 小林先生は、『本居宣長』の結びで、「私は、宣長論を、彼の遺言書から始めたが……ここまで読んで貰えた読者には、もう一ぺん、此の、彼の最後の自問自答が、(機会があれば、全文が)、読んでほしい、その用意はした、とさえ、言いたいように思われる」と書いているね(同、第28集209頁)。
女 小林先生には、宣長さんが遺言書に込めた何かが、きっと、見えていた、というか、あっ、宣長さん、そういうことですか、と腑に落ちるところがあったんだわ。だからこそ、読者に対しても、もう一度読むための用意はした、という言い方になるんじゃないかしら?
青年 で、あなた、何か分かったの?
女 いえ、まだまだ、そんな域には達してはいない。でも、宣長さんの晩年の歌に、「死ねばみな よみにいくとは しらずして ほとけの国を ねがふおろかさ」というのがあるでしょう(新潮社刊『小林秀雄全作品』第27集39頁)。こういう乾いた笑いと共通する、なにか醒めきったものを、宣長さんの遺言書にも感じる。
青年 小林先生は、「この人間の内部には、温厚な円満な常識の衣に包まれてはいたが、『申披六ヶ敷筋』の考えがあった」(同33頁)と書いているけど、そういうことがいいたいの?
女 そこまで背伸びするつもりはないけど、いまのところそんなような気がするの。でも、この遺言書には、検死人の手記ふうの乾いた部分だけでなく、桜への偏愛の部分もある。こちらはもう、さっぱりわからない。
娘 桜といえば、近松の辞世にも出てきたね。
女 それは、特に関係はないと思う。でも、「夢の夢こそあはれなれ」みたいに、死にゆく恋人たちの心情を情緒たっぷりと歌い上げた近松も、自らの死に臨んではとても醒めていて……。勝手な妄想だけど、宣長さんと似たものがあるような気がして、楽しくなるわ。
男 妄想ですか、やれやれ。
四人のおしゃべりは、とりとめもなく続いていくのであった。
(注1)太田南畝『俗耳鼓吹』(吉川弘文館刊『日本随筆大成』第3期第4巻所収)に、徂徠の晩年の門人である宇佐美恵助(1710~1770)の話として伝える(同書p.146)。
(注2)引用は、『近松門左衛門三百五十年』(和泉書房、2003)p.102の翻刻から。なお、和歌の表記については、新潮古典文学アルバム第19巻『近松門左衛門』(新潮社刊)p.108の年譜を参考にした。
(了)