文字への飛躍
    ―韻文から散文へ、国語表記の苦闘を辿る

小島 奈菜子

「そういうふうに抽象的な質問をなさるが、君はもういろんなことを信じていますよ。君、自動車に乗るでしょう? その時、君は運転手を信じているじゃないか。(中略)

君が本当は信じているのに、信じていることを知らないことがたくさんあるのではないかな。自分の目の前のことをよく調べなさい」

(新潮社刊 『小林秀雄 学生との対話』p.144~145)

 

あまりにも身近で「本当は信じているのに、信じていることを知らない」もの、その最たるものは言葉ではないだろうか。言葉なしには他人とのコミュニケーションはもちろん、自分一人で物事を考えることもできないが、にもかかわらず「言語の力を信じている」などと意識することもなく、私達は当たり前に言葉を使っている。ひとつの語に、ひとつまたは複数の決まった意味があるような、言語の記号としての側面は、知らない語を検索したり辞書を引いたりする自覚的な行為が伴うので意識に上るが、その都度固有の意味やニュアンスを含めて心情や意志を相手に伝えようとする、新たな表現行為としての側面は、自覚されない傾向が強い。言葉の意味が変化するのも、この行為が一度として同一ではないことに由来しており、自然な行為だからこそ、習慣化することでその都度表現として深く意識することなく行うことができる。我々はこの表現行為によって意志を伝達し合い、目的に向けて共に行動し、社会習慣を蓄積することで共同生活の基盤を築いているが、それが言語を抜きにしては考えられないこと、言語自体に対する態度がそこに現れてしまうことは、あまり自覚されていないのではないだろうか。

表現行為としての言語に注意を向けることが必要な理由は、「信じていることを知らないこと」に意識的になることによって、生活の中で言語が果たしている役割が再認識され、日々の行動が変化するからだ。言葉の意味は、語り合うことによって、文脈とともに生み出される。我々は古来から、「なぜ生きているのか」という根源的な問いに対する意味付けを、物語によって行ってきた。その日本で最古のものが「古事記」である。口承で語り継がれてきたこの歴史物語を、千三百年後を生きる私達が読むことができるのは、決して当たり前のことではない。文字を持たなかった我々の祖先が、漢字に出会い、自国語を書き記すことができるようになったその原動力は、何とかして当時の知恵を後世に遺そう、という人々の切なる希いだった。小林秀雄『本居宣長』は、江戸時代の国学者達の思想を通じて、こうした先人達の営みを描き出している。

「古事記伝」の「訓法ヨミザマの事」で本居宣長が言っているように、「古事記」が編纂されるきっかけとなったのは天武天皇の勅令で、その背景には、文字を使い始めたことによって、言語本来の意味が失われることへの強い危機感があった。記憶力に優れた舎人とねりである稗田阿礼ひえだのあれが古い記録を朗誦し、当時最高の知識人である太安万侶おおのやすまろが文字に書き記すことによって「古事記」が成立したが、そこに至るまでには、文字を使いこなすための数百年に亘る努力があったのである。その上、何とか「古事記」が成立した後も、誰も正確に読むことは叶わず、本居宣長という詩人と学者両方の才能を持つ傑出した人物が現れるまで、真に甦ることなく千年が過ぎた。なぜかと言えば、そもそも文字というものを知らず、中国語という全く別言語の文字、つまり漢字を使って書かなければならかったため、誰も見たことがないその表記を読みこなすためには、大変な知性と時間が必要だったからだ。

宣長自身が「古事記」の成立について語っている、「訓法ヨミザマの事」を冒頭から見てみよう。

 

  凡て古書は、語を厳重オゴソカにすべき中にも、此記は殊に然あるべき所由ユエあれば、ムネと古語を委曲ツバラカに考ヘて、訓を重くすべきなり、いで其所由ユエはいかにといふに、序に、飛鳥浄御原御宇アメノシタシロシメシシ天皇の大詔命オホミコトに、家々にある帝紀マタ本辞、既に実を失ひて、虚偽カザリおほければ、今その誤を正しおかずは、いくばくもあらで、其旨うせはてなむ、故帝紀をえらび、旧辞を考へて偽をのぞきすてて、マコトのかぎりを後世にツタへむ、と詔たまひて、稗田阿礼ヒエダノアレといひし人に、大御口オホミクチづからオホせ賜て、帝皇日継と、先代の旧辞とを、ヨミうかべナラはしむ、とあるをよくアヂハふべし、帝紀とのみはいはずて、旧辞本辞などいひ、又次に安万侶朝臣の撰述コノフミツクれることを云る処にも、阿礼がウカベたる勅語旧辞を撰録すとあるは、古語をムネとするが故なり、彼詔命オホミコトツツシミて思ふに、そのかみ世のならひとして、萬事を漢文に書伝ふとては、其タビごとに、漢文章カラコトバヒカれて、本の語は漸に違ひもてゆく故に、如此カクてはノチツヒに、古語はひたぶるにウセはてなむ物ぞと、かしこく所思看オモホシメカナシみたまへるなり、殊に此大御代は、世間ヨノナカ改まりつるころにしあれば、此時にタダしおかでは、とおもほしけるなるべし、さてを彼阿礼に仰せて、其口にヨミうかべさせ賜ひしは、いかなる故ぞといふに、の事は、コトにいふばかりは、フミにはかき取がたく、及ばぬこと多き物なるを、殊に漢文からぶみにしも書ならひなりしかば、古語ふることを違へじとては、いよゝ書がたき故に、まづ人の口にツラツラヨミならはしめて後に、其言のマニマカキシルさしめむの大御心にぞ有けむかし、【当時ソノカミ書籍ふみならねど、人の語にも、古言はなほのこりて、ウセはてぬなれば、阿礼がよみならひつるも、漢文の旧記に本づくとは云ヘども、語のふりを、此間ココの古語にかへして、口に唱へこゝろみしめ賜へるものぞ、然せずして、タダフミより書にかきうつしては、本の漢文のふりハナれがたければなり、(後略)

筑摩書房刊『本居宣長全集』第九巻 p.31

旧字体の漢字は新字体に置き換え、

カタカナルビは原文のママ、

ひらがなルビは引用者/以下同)

 

下線部で宣長は、「コト(話し言葉)を「フミ(書き言葉)に書きとることが難しい原因となっている、話し言葉にしかないものについて言っている。現代を生きる私達の日常会話の中にも存在する、いわゆる「言葉のあや」、「ニュアンス」がそれだ。例えば「おはよう」という、文字にすればまったく同じ挨拶であっても、言い方ひとつで実にさまざまなニュアンスを帯びており、毎回異なると言っても過言ではない。文字を使い慣れる前の時代、発話という表現行為しかない世界では、このひとつひとつのニュアンスこそが、未分化状態にある言語の意味だった。書かれることで言葉は、こうした細やかな意味合いを失う。詳しくは第三節で述べるが、先回りして言えば、このニュアンスを失うことによって、言葉の意味の本質である観念としての性格が明瞭になり、抽象的に構成し論理的に組み上げることができるのだ。表現行為から離れることで、言語を観念的操作の対象にすることが可能になった。これは大変大きな飛躍である。

一旦話を戻すと、表現行為としての言語しか存在しない段階では、言葉の意味は行為自体と切り離すことができない。意味は言い方のうちにしか存在せず、まさに今表現行為をしている人の胸の裡がわかることが、言葉の意味がわかるということだったのだ。だからこそ稗田阿礼は、文字に書き記す際に失われた意味を、みずから「よみならひ」、行為に還元することで再生させた。このことを宣長自身は、上記に続く文章の中で「古語ふることのふり」と言っている。

 

すべて人のありさま心ばへは、言語モノイヒのさまもて、おしはからるゝ物にしあれば、上代の萬の事も、そのかみの言語をよくアキらめさとりてこそ、知べき物なりけれ、漢文からぶみサマにかけるふみを、其ママヨミたらむには、いかでかは古の言語を知て、其代のありさまをも知べきぞ、古き歌どもを見て、皇国の古ココロコトバの、漢のさまと、イタコトなりけることを、おしはかり知べし、さてモハラ古語を以て訓むとするに、それいとたやすからぬわざなり、其故は、古書はみな漢文からぶみもて書て、マタく古語のまゝなるがければ、今イヅれにかよらむ、そのたづなきに似たり、たゞ古記の中に、往往ヲリヲリ古語のまゝにシルせる処々、さては続紀しょくきなどの宣命ミコトノリことば、また延喜式の八巻なる諸祝詞ノリトなど、これらぞツヅきざまもナニも、大方オホカタ此方ココの語のまゝなれば、まづこれらをウマヨミナラひて、古語のふりをば知べきなり、さて又此記と書紀とにれる歌、また萬葉集を、ウマヨミならふべし、殊に此記と書紀との歌は、露ばかりもカラざまのまじらぬ、古ココロコトバにして、いともゝゝゝタフトくありがたき物なり、

(同書p.33)

 

宣長は、萬葉仮名や宣命書きで書かれている祝詞のりと宣命せんみょう、そして「古事記」「日本書紀」「萬葉集」の歌を、自らの肉声で誦みあげて再生し習熟することで「古語のふり」を我が身に得ることができるとし、その意味と発声とが一体の表現行為、つまり話し言葉のことを「ココロコトバ」と言っている。そのように阿礼の口上に再現されたココロコトバを、安万侶が苦心を重ねて表記して成立したのが「古事記」なのだ。先に言ったように、阿礼が肉声で発した言葉と書き記された言葉との間には、大きな飛躍が存在する。現存している書物や文章は、当然だが文字を得てから記録されたものなので、漢字に出会う前の人々の言語生活は推察するしかないが、日本という文化圏においては、文字との出会いを通じて「言語とは何か」を自問自答する条件が揃っており、その飛躍に意識的にならざるを得なかった。文字に出会う以前の、「古事記」が語り継がれていた世界と、文字を得てからの世界が同時に経験されたのだ。自ら漢字を生み出し、文化の中心であり続けた中国とは異なり、日本語を母語としていた古人達は、話し言葉と書き言葉の間にある隔たりの切実さを身に沁みて感じていた。現在に至るまで日本語は、言文一致が叶っているとは言い難いが、その原因であり起源にあるのが、漢字の訓読という特殊な文字の受容なのだ。訓読の歴史は、自ら文字を発明しておらず、なおかつ最初に出会った文字が漢字という表語/表意文字である文化圏にしか存在しない。なぜ訓読が必要だったのか、そして訓み方はどのように定まって行ったのか。

 

 

一、訓読という発明

 

日本人が初めて漢字に出会った時、書かれていることの意味を知るために、その漢字が国語においてどの語にあたるのかを結びつけること、つまり和訓を発明する必要にまず迫られた。小林秀雄は『本居宣長』第二十九章で、その様子を次のように描いている。

 

話される言葉しか知らなかった世界を出て、書かれた言葉を扱う世界に這入はいる、そこに起った上代人の言語生活上の異変は、大変なものだったであろう。これは、考えて行けば、切りのない問題であろうが、ともかく、頭にだけは入れて置かないと、訓読の話が続けられない。言ってみるなら、実際に話し相手が居なければ、尋常な言語経験など考えてもみられなかった人が、話し相手なしに話す事を求められるとは、異変に違いないので、これに堪える為には、話し相手を仮想して、これと話し合っている積りになるより他に道はあるまい。読書に習熟するとは、耳を使わずに話を聞く事であり、文字を書くとは、声を出さずに語る事である。それなら、文字の扱いに慣れるのは、黙して自問自答が出来るという道を、開いて行く事だと言えよう。

言語がなかったら、誰も考える事も出来まいが、読み書きにより文字の扱いに通じるようにならなければ、考えの正確は期し得まい。動き易く、消え易い、個人々々の生活感情にあまり密着し過ぎた音声言語を、無声の文字で固定し、整理し、保管するという事が行われなければ、概念的思考の発達は望まれまい。ところが、日本人は、この所謂いわゆる文明への第一歩を踏み出すに当って、表音の為の仮名を、自分で生み出す事もなかったし、他国から受取った漢字という文字は、アルファベット文字ではなかった。図形と言語とが結合して生れた典型的な象形文字であった。この事が、問題をわかりにくいものにした。

漢語の言霊は、一つ一つの精緻せいちな字形のうちに宿り、蓄積された豊かな文化の意味を語っていた。日本人が、自国語のシンタックスを捨てられぬままに、この漢字独特の性格に随順したところに、訓読という、これも亦独特な書物の読み方が生れた。書物が訓読されたとは、尋常な意味合では、音読も黙読もされなかったという意味だ。原文の持つ音声なぞ、初めから問題ではなかったからだ。眼前の漢字漢文の形を、眼で追うことが、その邦訳語邦訳文を、其処に想い描く事になる、そういう読み方をしたのである。これは、外国語の自然な受入れ方とは言えまいし、勿論、まともな外国語の学習でもない。このような変則的な仕事を許したのが、漢字独特の性格だったにせよ、何の必要あって、日本人がこのような作業を、進んで行ったかを思うなら、それは、やはり彼我ひがの文明の水準の大きな違いを思わざるを得ない。

向うの優れた文物の輸入という、実際的な目的に従って、漢文も先ず受取られたに相違なく、それには、漢文によって何が伝達されたのか、その内容を理解して、応用の利く智識として吸収しなければならぬ。その為には、宣長が言ったように、「書籍フミと云物」を、「此間ココの言もて読なら」う事が捷径しょうけいだった、というわけである。無論、捷径しょうけいとはっきり知って選んだ道だったとは言えない。やはり何と言っても、漢字の持つ厳しい顔には、圧倒的なものがあり、何時の間にか、これに屈従していたという事だったであろう。屈従するとは、圧倒的に豊富な語彙ごいが、そっくりそのままの形で、流れ込んで来るに任せるという事だったであろう。それなら、それぞれの語彙に見合う、凡その意味を定めて、早速理解のうちに整理しようと努力しなければ、どうなるものでもない。この、極めて意識的な、知的な作業が、漢文訓読による漢文学習というものであった。これが、わが国上代の教養人というものを仕立てあげ、その教養の質を決めた。そして又これが、日本の文明は、漢文明の模倣で始まった、と誰も口先きだけで言っている言葉の中身を成すものであった。

(第二十九章 『小林秀雄全作品』第27集 p.333 1行目~)

 

日本に初めて漢字が渡ってきた時点で、中国には約二千年間の文化が蓄積されていた。文字という記録道具がなければ、人間には記憶力上の限界があるから、文字を持たなかった我が国の古代人達は、書物に出会ってその複雑多様さにさぞ驚いただろう。「古事記」の記述によれば、「論語」十巻と「千字文」一巻が初めにやってきたのである。最近の研究では「日本書紀」の記述にある博士の招聘が漢字伝来の最初であるなどとも言われるが(筑摩書房刊 沖森卓也『日本漢字全史』p28〜31などに詳しい)、いずれにしても「彼我ひがの文明の水準」の差がいかに大きなものであったかは、想像しようにもしきれない。漢字はその進んだ文明を取り入れるための、最も重要な入口だった。そうして必要に駆られて自然と発展したのが訓読であり、下線部にあるように音声は問題ではなく、書かれている意味内容を得ることが何より必要だった。そして訓読の過程を経た結果、文字の音声と意味とがはっきり分離したのである。

上記で引用されている宣長の「『書籍フミと云物』を、『此間ココの言もて読なら』う事」という言葉は、「古事記伝」の「文体カキザマの事」の中にある。

 

すべての文、漢文からぶみサマかかれたり、そもそも此記このふみは、もはら古語ふることを伝ふるをムネとせられたる書なれば、中昔ナカムカシの物語文などの如く、皇国みくにことばのまゝに、一もじもたがへず、仮字カナガキにこそせらるべきに、いかなれば漢文には物せられつるぞといはむか、いで其ゆゑを委曲ツバラカシメさむ、先大御国にもと文字はなかりしかば、【今神代の文字などいふ物あるは、後世人の偽作イツハリにて、いふにたらず、】上代の古事フルコトどももナニも、タダに人のクチに言、耳にキキ伝はりぬるを、やゝ後に、外国トツクニより書籍フミと云ワタリマヰて、【西土ニシグニの文字の、始て渡マヰつるは、記に応神天皇の御世に、百済クダラの国より、和邇吉師てふ人につけて、論語と千字文とをタテマツリしことある、此時よりなるべし、(以下中略)此間ココことばもて読ならひ、その義理ココロをもわきまへさとりてぞ、【書紀に、応神天皇十五年、太子の、百済の阿直岐又王仁ワニに、経典をならひて、よくさとり賜へりしこと見えたり、】其文字モジを用ひ、その書籍フミコトバカリて、此間ココの事をもカキシルすことにはなりぬる、【(中略)】されどその書籍フミてふ物は、みな異国アダシクニことばにして、此間ココことばとは、ツカヒサマもなにも、イタコトなれば、その語を借て、此間ココの事を記すに、マタ此間ココことばのまゝには、書がたかりし故に、よろず事、かの漢文からぶみサマのまゝになむ書ならひにける、故奈良の御代のころに至るまでも、物に書るかぎりは、此間ココの語のママなるは、をさゝゝ見えず、萬葉などは、歌のフミなるすら、端辞ハシノコトバなど、みな漢文なるを見てもしるべし、かの物語ブミなどのごとく、こゝの語のまゝに物カク事は、今京になりて、平仮字ヒラガナといふもの出来ての後に始まれり、

(筑摩書房刊 『本居宣長全集』第九巻 p.17〜18)

 

「古事記」は「一もじもたがへず、仮字カナガキにこそせらるべき」であったと宣長は言っているが、それが不可能であったことも当然よく知っていた。漢字は「異国アダシクニことばにして、此間ココことばとは、ツカヒサマもなにも、イタコトな」るので、そのまま日本語を書き取るためには使えないからだ。それが可能になったのは、「平仮字ヒラガナといふもの出来ての後」なのである。そしてその発明が成されるまでには、さらに数百年の時間が必要であった。

先述のように、まず意味を得ようとして文字とのつきあいは始まったが、この和訓が発明された過程を具体的に想像して、小林秀雄は先ほど挙げた第二十九章の少し前で、上記の「文体カキザマの事」を引用したあと次のように言っている。

 

和訓の発明とは、はっきりと一字で一語を表わす漢字が、形として視覚に訴えて来る著しい性質を、素早く捕えて、これに同じ意味合を表す日本語を連結する事だった。これが為に漢字は、わが国に渡来して、文字としてのその本来の性格を変えて了った。漢字の形は保存しながら、実質的には、日本文字と化したのである。この事は先ず、語の実質を成している体言と用言の語幹との上に行われ、やがて語の文法的構造の表記を、漢字の表音性の利用で補う、そういう道を行く事になる。これは非常に長い時間を要する仕事であった。言うまでもなく、計画や理論でどうなる仕事ではなかった。時間だけが解決し得た難題を抱いて、日本人は実に長い道を歩いた、と言った方がよかろう。それというのも、仕事は、和訓の発明という、一種の放れわざとでも言っていいものから始まっているからだ。

(第二十九章 『小林秀雄全作品』第27集 p.331 12行目~)

 

下線部で言われているのはどういうことか。例えば、「はなす」という用言(ここでは動詞)は、「はなさ(ない)」「はなし」「はなす」「はなせ(ば)」「はなそ(う)」といった風に活用するので、共通する語幹である「はな」に中国語で同じ行為を表す「話」という漢字を当てるといったような、語幹とその他の部分についての構造の認識である。そして漢字で表記できない語幹以外の部分(この場合さ/し/す/せ/そ)をどう表記するか悩み、仕方なく表音性だけを利用するに至った。一体どれほどの人々が、どれほどの知恵と時間を注いだことだろう。訓読の音を定める仕事は、中国文化を受容するときに一度離れた意味と肉声を、国語の上で再び結合し直すことだったと言える。なぜそれが求められたのか。文と言えば漢文しか存在しなかった当時、母国語を文字に残せない古代人の苦しみが「意識的な要求」を生んだ、と小林秀雄は次のように言う。

 

漢字を迎えた日本人が、漢字に備った強い表意性に、先ず動かされた事は考えられるが、表音性に関しては、極めて効率の悪い漢字を借りて、ことばアヤを写そうという考えが、先ず自然に浮んだとは思えない。これには、不便を忍んでも、何とかして写したい、という意識的な要求が熟して来なければならない事だし、当然、これは、詞のアヤを命とする韻文というものの性質についての、はっきりした自覚の成熟と見合うだろう。歌うだけでは不足で、歌のフミが編みたくなる、そういう時期が到来すると、仮字かなによる歌の表記の工夫は、一応の整備を見るのだが、それでも同じフミの中で、まるでこれに抗するような姿で、「かならず詞をアヤなさずても有べきかぎりは」漢文のサマに書かれているような異様な有様は、古学者たるものが、しっかりと着目しなければならぬところだ、と宣長は言いたいのである。

(第二十九章 『小林秀雄全作品』第27集 p.329 18行目~)

 

「歌のフミが編みたくなる時期」とは、「萬葉集」が成立した奈良時代末頃を指す。「萬葉集」の表記は「古事記」とは違い韻文なので、肉声から離れては意味を成さない。「表音性に関しては極めて効率の悪い漢字」を何とか使って表記しようという発想は、この苦しみから生まれた。そうして表記してみると、漢字だけが連なっていることによって、まるで「漢文のサマ」になってしまう。実際どういうことなのか、「萬葉集」からいくつか原文を漢字で見てみよう。

 

【巻第三 415 聖徳太子】

 家有者 妹之手将纏 草枕 客尓臥有 此旅人 怜 

(いへならば いもがてまかむ くさまくら たびにこやせる このたびとあはれ)

【巻第一 78 読み人知らず】

飛鳥 明日香能里乎 置而伊奈婆 君之当者 不所見香聞安良武

(とぶとりの あすかのさとを おきていなば きみがあたりは みえずかもあらむ)

 

『本居宣長』では、契沖や賀茂真淵がこうした表記に対する読み方をいかに探求したかが描かれているが、現在でも読み方が確定していない歌もあるように、当時の肉声における読み方が文字で完全に表記できているわけではない。一首目の下の句にある「 怜」をどう読むか考え、他の用例を吟味し、大和言葉の「あはれ」と読むのが妥当だろう、といった思考を経てひとつひとつの文字の訓が探求されたのは江戸時代、国学者たちが歴史に登場したあとのことだった。二首目の最後の五文字は、宣長の言う「端辞ハシノコトバ」で、すべて萬葉仮名で書かれているので、「てにをは」のニュアンスを正確に読むことができる。「かならず詞をアヤな」して書かなければ意味が不明瞭になるからこのように書かれたのだろう。だが、こうした表記が全てではなく、基本的には訓に頼っていることが見て取れる。

「古事記」表記における安万侶の苦労は、自身の手で「古事記」序文に遺されており、古語を漢字で書くことの難しさは「ことばこころならびすなほ(言葉もその意味も、人の生来自然の心のままに率直)であることに由来すると言っている。宣長の註釈とともに再び「古事記伝」を見てみよう。

 

 *( )内読み下し文は引用者追加、以下すべて同様

ルニ上-古之時、言意並ニシテフルコト

(然るに上古の時、ことばこころならびにすなほにして、文を敷き句を構ふること、字に於て即ち難し)

上古之時云々、此文を以見れば、阿礼がヨメる語のいとフルかりけむほど知られてタフトし、敷文構句とは、二にはあらず、共にたゞ文にかきうつすを云なり、即難とは、文に書がたきをいふ、文は漢文なればなり、【後世の如く仮字カナブミならむには、いかなる古言も、書がたきことなけれども、当時ソノカミはいまだ仮字のみを以て事を記す例はあらざりき、】上代のことなれば、こころことばも共にいと古くして、当時ソノカミのとは異なるが多かるべければ、漢文にはかき取がたかりけむことウベなり、【上古のは、ことばのみならず、こころすなほなりとあるをよく思ふべし、オクありげにコトワリめきたるすぢはさらになかりしなり、然るにかの漢文は、意にもイツハりかざりのみ多くて、其旨いたく異なるぞかし、】ココの文をよくあじわひて、撰者のいかで上代のこころことばタガへじ誤らじと、イソしみツツシまれけるほどをおしはかるべく、はた書紀などのゴト漢文をいたくかざりたるは、上代のこころことばウトかるべきことをもさとりつべし、【此記のごとかざることなくてすら、書ウツしがたしとある物を、況や漢文をいたくかざりたらむには、いかでか正実マコトのまゝには書取らるべき、】

(筑摩書房刊 『本居宣長全集』第九巻 p.75〜76)

 

宣長の注釈にあるように、安万侶の時代には仮字かなだけで物事を表記した文章は存在していなかった。文字表記によって表現行為から離れ、音声と意味が分かれた後の、反省を重ね知的に整理された言語体系とは異なり、「動き易く、消え易い、個人々々の生活感情にあまり密着し過ぎた音声言語」(前出 小林秀雄全作品27集『本居宣長』p333)には、自然に動く人の心そのままのありかたが生きていた。その隔たりを痛感した安万侶が「すなほ」と言ったのは、表現行為としての言語、つまりこころことばによって生活が成り立っている日常世界を自らも生きていたからだ。この点について、序文の注釈の最後に重要なことが書かれている。

 

-理ガタキ

(即ち辞の理見えがたきは、注を以て意を明す) 

理は意にて、即とある意これなり、叵字は、不可也と注して、難と同じく用ひたり、【(中略)】さて記中に種々クサグサの注ある中に、理をアカしたるはいとゝゝまれにして、只ヨムべきさまを教へたるのみ常に多かれば、ココは文のまゝに心得てはスコし違ふべし、たゞ大概オホカタにこゝろえてあるべきなり、

(同書 p. 77)

 

「理は意にて」とは「ここで言うことわりとは意味のことである」、「即」とは「意味を明らかにする」ということ。下線部に「ヨムべきさまを教へたるのみ」とあるのは、そういう散文的な語は漢字の訓で表記されているが、実際は仮名を使った読み方があるだけで、意味を詳しく記述したものはほとんどない、ということである。これは、その読み方(肉声のニュアンス、あや自体)がそのまま意味を表している、ということでもあるだろう。韻文、つまり歌や固有名詞のように、分解することが不可能な、「すなほ」で内省を経ていない、それ以上説明することのできない語ということではないだろうか。この「すなほ」という言い方について、小林秀雄は、安万侶のこの文章を引いて次のように言う。

 

なるほど、よく思えば、安万侶の「ことばこころならびすなほ」と言うのは、古語の表現形式、宣長の言い方では、古語の掛け代えのない「姿」を指して、すなほと言っているのだと解るだろう。表現力の豊かな漢文の伝える高度な意味内容に比べれば、わが国の、文字さえわきまえぬ古伝の語るところは、単純素朴なものに過ぎないという卑下した考えを、安万侶は言うのではない。そのような考えに鼓舞されて、漢文を正式の文章とする通念も育って来たのだが、言語の文化が、この一と筋道を、どこまでも進めたわけではなかった。六朝りくちょう風の書ざまに習熟してみて、安万侶の眼には、国語の独特な構造に密着した言いざまも、はっきりと見えて来たのであり、従ってすなほとは、すなほとでも言うより他はないその味わいだと言っていい。古語は、誰かが保存しようとしたから、保存されたのではない。私達は国語に先立って、どんな言語の範例も知らなかったのだし、私達は知らぬまに、国語の完成された言いざまの内にあり、これに順じて、自分達の思考や感情の動きを調ととのえていた。ここに養われた私達の信頼と満足とが、おのずから言語伝統を形成して、生きつづけたのは、当り前な事だ。宣長は、これを註して「貴し」と言うのである。

(第二十八章 『小林秀雄全作品』第27集 p.318 13行目~)

 

国語の言いざまによって「自分達の思考や感情の動きを調ととのえ」る働きは、人間にとってごく自然な、「すなほ」なものであり、表現した言葉を自ら「ながむる」ことで調える、この人と言語とのやりとりを積み重ねて「言語伝統」は形成されてきた(拙稿『好*信*楽』令和六年(2024)夏号「『ながむる』―事物と人情が親和する行為」」参照)。殊更に意識することもなく、私たちは国語を「信頼」し切っているのだ。その言い方のほかに言い換えたり説明したりすることのできない言葉だからこそ、現代から見れば「辞理をアカしたるはいとゝゝまれ」に見えるのである。こうした様を指して安万侶は「ことばこころならびすなほ」と言った。第二十八章から続きを見てみよう。

 

こうして生きてきた古語の姿が、そのまま漢字に書き移せるわけがない、そうと知りながら、強行したところに、どんな困難が現れたか。国語を表記するのに、漢字の訓によるのと音によるのと二つの方法があったが、どちらを専用しても、うまくいかない、と安万侶は言う。「已べタル、詞」とは、宣長によれば、「シカイフこゝろは、世間ヨノナカにある旧記どもの例を見るに、ことごとく字の訓を以て記せるには、中にいはゆる借字かりじなるが多くて、は其字の義、異なるがゆゑに、語の意までは及び至らずとなり」、そうかと言って、「全ネタル、事-趣更」。「シカイフこゝろは、全く仮字カナのみを以書るは、字数のこよなく多くなりて、かの述べたるに比ぶれば、其サラに長しとなり」、そこで、安万侶は「或一-句之中、-用音-訓、或一-事之内、全」という事で難題を切り抜けた。

(第二十八章 『小林秀雄全作品』第27集 p.319 8行目~)

 

下線部にあるように、借字かりじ、つまり漢字の音だけを借用した表記は、「字の義」が異なるので「意」まで表すことができないと宣長は言う。だからどうしても音の表記が必要なところ以外は訓によって書いたのだ。ここで引用されている安万侶の文章は、先ほど引いた序文にあり、次節で詳しく見ていくが、彼は音だけで記述することも考えていたことがわかる。だがそうしなかったのは、訓読の習慣が先に発達していたので、韻文である和歌や固有名詞以外には訓を使う、音と意味が一致した記述こそが文字の本来の使い方である、という意識があったゆえだった。音と意味とが一致した「真の文字」が「真字まな」であり、音だけを借りる万葉仮名での表記は「仮」だと考えていたのだ。この「仮字かな」と「真字まな」という字面にもその思想が現れている。真字まなから仮字かながどのように生まれたのか、もう少し詳しく辿りたい。

 

二、真字まな仮字かな

 

さきほど引いた『本居宣長』第二十八章で言われているように、「古事記」が編纂された時点で、漢字の音だけを利用して一音ずつ国語を表記する萬葉仮名はすでに使われていた。和訓を中心とした表記を選んだ安万侶自身も、「理窟の上では、全部仮字かな書にすればいい」と承知していたが、「真字まな」による表記を優先した、それが「当時の言語感覚」の「常識」であったからだ、と小林秀雄は次のように言う。

 

安万侶の言うところを、その語調通りに素直に受取れば、(それがまさに宣長の受取り方なのだが)、「全」と言うのが、彼の結論なのは明らかな事である。訓ばかりに頼ってはまずいところは、特に音訓を並用もしたが、表記法の基礎となるものは、漢字の和訓であるというのが、彼が本文で実行した考えである。言い代えれば、国語によって、どの程度まで、真字マナが生かされて現に使われているか、という当時の言語感覚に、訴えた考えである。それでも心配なので、「辞-理ガタキ以注」という事になり、極めて複雑な表記となった。

言うまでもなく、「古事記」中には、多数の歌が出て来るが、その表記は一字一音の仮字かなで統一されている。いわゆる宣命書センミョウガキも、安万侶には親しいものであった。しかし、宣長に言わせれば、歌は「ナガむるもの」、祝詞のりと宣命は「唱ふるもの」であり、仮字かなと言えば、音声のアヤに結ばれた仮字かなしか、安万侶の常識にはなかった。阿礼の誦み習う古語を、忠実に伝えるのが「古事記」の目的であるし、それには、宣長が言ったように、理窟の上では、全部仮字書にすればいいのは、安万侶も承知していたであろうが、実際問題としては、空言に過ぎないと、もっとよく承知していただろう。仮りに彼が常識を破って、全く音を以て連ねたならば、事の趣が更に長くなるどころか、後世、誰にも読み解けぬ文章がのこっただけであろう。阿礼の誦んだところは、物語であって歌ではなかった。歌は、物語に登場する人物によって詠まれ、物語の文を成しているので、歌人によって詠まれて、一人立ちしてはいない。宣長なら、「源氏」のように、と言ったであろう。安万侶の表記法を決定したものは、与えられた古語の散文性であったと言っていい。

(第二十八章 『小林秀雄全作品』第27集 p.320 6行目~)

 

「当時の言語感覚」で主流だったのは漢字の和訓であり、「仮字かなと言えば、音声のアヤに結ばれた仮字かなしか、安万侶の常識にはなかった」、つまり仮字かなはそれを読み上げる肉声と密着していて、表現行為から引き離すことができず、文字自体が表す意味とは結び付いていなかった。「真字マナ」は、『小林秀雄全作品』第27集p.319の注にあるように、漢字のことを指す語である。「仮字カナ」は文字通り「仮」の字であって、「仮字カナ」に対して「真字マナ」と言われているのは、音声だけを借用する「仮字カナ」における音声と字義との不一致が意識されていたということだ。宣長自身が「古事記伝」序文の注釈で「訓読は真字まななり」と言っているので、先ほど引いた二箇所の序文の間にある文章を、ここで全て読んでみたい。

 

べタル、詞

スデくんりてべたるは、ことば心におよばず)

スデニコトゴトクの意なり、とは、字の訓を取用ひて古語を記せるをいふ、いはゆる真字マナなりことばは、その述たる文なり、心は古語のこころなり、然言シカイフこゝろは、世間ヨノナカにある旧記どもの例を見るに、悉く字の訓を以て記せるには、中にいはゆる借字かりもじなるが多くて、は其字の義異なるがゆゑに、語のこころまでは及び至らずとなり、

ネタル、事-趣更

(全く音を以て連ねたるは、事のおもむき更に長し)

音とは、字音をカリて書るにて、即仮字カナなり、事趣は、ツラねたる文面をいふなり、然言シカイフこゝろは、全く仮字かなのみを以書るは、字数のこよなく多くなりて、かの述ベたるにクラぶれば、其サラに長しとなり、

-以今或一-句之中、-用音-訓

これを以て今あるは一句の中、音訓をまじへ用ひ)

こは上文にある如く、悉く訓により真字書マナガキにせるは、中に借字かりもじ多くて、語のこころさとりがたく、さりとてはた全く仮字書カナガキにしたるは、文こよなく長くなりてワヅラはし、故今はヨロしきほどをはかりて、二つをまじへ用ふとなり、

一-事之内、全

あるは一事の内、全く訓を以て録す)

全く真字書マナガキにても、古語とことばこころも違ことなきと、又字のまゝにめば、語は違へども、こころ違はずして、其古語は人皆知て、訓ることあるまじきと、又借字かりもじにて、こころは違へども、世にあまねく書なれて、人皆わきまへつれば、字にはまどふまじきと、これらは、仮字かな書は長き故に、簡約ツヅマヤカなる真字まな書の方を用ふるなり、一事といひ一句といへるは、たゞ文をかへたるのみなり、

(筑摩書房刊 『本居宣長全集』第九巻 p.76~77 文中【】内の註釈は省略)

 

彼によれば、文字の「こころ」は「語」るときの「こころ」にあたり、その音声に宿っている意味は、一文字ずつ音を借りて連ねることでは「義」と一致しない。文字には文字の形があり、本来の「義」がどうしても表れてしまうからだ。宣長の言葉では、「字の義(意味)異な」るものが「仮字カナ」であり、「意違は」ざるものが「真字マナ」であるということだ。それほど、文字自体が表している「義」の力は大きい。本来漢字は、一つの文字に中国語の一つの音声と意味とが対応している。それが文字の真のあり方であり、音と義(意味)と形(文字)が一致したものを「真字まな」と言う所以だ。読む時の肉声と文字が表す義とが一致しているのは、漢字の意味を元にして和語の音を当てた和訓なのであり、訓読は真字まななのである。

そもそも「仮字カナ」という語ははじめから、音だけを借りた仮のもの、という意味で生み出された。「古事記伝」の「文体カキザマの事」には、仮字カナが生れた歴史が次のように述べられている。

 

仮字カナとは加理那カリナなり、其字のココロをばとらずて、たゞ音のみをカリて、桜を佐久羅サクラ、雪を由伎ユキかくたぐひなり、は字といふことなり、字を古といへり、さて古仮字カナは、すべて右の佐久羅サクラ由伎ユキなどの如く書るのみなりしを、後に、書便タヨリよからむために、片仮字カタカナといふ物を作れり、作れる人はさだかならず、吉備大臣キビノオホオミなどにぞありけむ、かくて是片仮字カタカナナヅけしゆゑは、もとよりの仮字カナのかたかたをハブキて、伊を、利をと、カタカタをかくが故なり、此名は、うつほの物語クラビラキ国禅クニユズリ巻、又狭衣さごろも物語などにも見えたり、さて此片仮字カタカナもなほ真書にて、婦人ヲミナ児童ワラハベなどのため、又歌など書にも、なごやかならざるゆゑに、又草書をくづして、平仮字ヒラガナを作れり、是も其人はさだかならねど、花鳥余情に、弘法大師これを作るとあり、世にも然いひつたへたり、さもありぬべし、さてこれを平仮字ヒラガナといふは、片仮字カタカナムカへてなり、されど此名は、古き物には見あたらず、】

(同書 p.18)

 

カタカナは吉備真備が、ひらがなは弘法大師(空海)が作ったのではないかと言っているが、カタカナもまた「真書真字まな」であるからひらがなが生れた、というのが面白い。単に漢字の一部を省略しただけのものだからだろうか。「字」は古語では「名」である、というのは、物事の名前の認識、言語の記号としての側面の理解が文字から始まっている、ということではないか。いずれにしても、「なごやかならざる」真字まなであるカタカナは、歌を記録するのに向かず、人々はいっそう純粋な表音文字としてひらがなを求めた。「文体カキザマの事」の締めくくりには、「仮字カナ」のほかに「借字カリモジ」、「正字マサモジ」など、「文体カキザマ」には総合して四つの種類があり、音だけを借りて記す借字カリモジは、徐々に仮字カナと同じになる、と言っている。

 

さて又古言をシルすに、四種ヨクサの書ざまあり、一には仮字カナガキ、こは其言をいさゝかもタガへざる物なれば、あるが中にも(引用者注:読み方/音声表記は)タダしきなり、二には正字マサモジ、こは阿米アメを天、都知ツチを地と書たぐいにて、字のココロコトバの意に相当アヒアタリて、正しきなり、【但し天は阿麻アマとも曽良ソラともべく、地は久爾クニとも登許呂トコロともよむべきが故に、言の定まらざることあり、故仮字カナ書の正しきには及ばず、されど又、言の意をソナへたるは、仮字カナ書にまされり、】其中に、股に俣と書、【こは漢国籍カラクニブミになき文字なり、】橋に椅字を用ひ、【こは橋のココロなき字なり、】蜈蚣むかでを呉公とカケる【こはヘムハブける例なり、】たぐひは、正字マサモジながらコトなるものにして、又オノオノ一種ヒトクサなり、【其由どもは、オノオノその処々ところどころにいふべし、】三には借字カリモジ、こは字のココロを取らず、たゞ其ヨミを、アダシココロに借て書を云、序に、ブレ、詞とある是なり、神名人名地名などにことにおほし、其ホカのたゞの言にも、まれには用ひたり、平城ナラのころまでは、すべて此字に書る、常の事にて、もてゆけば、仮字カナと同じことなるを、後世になりては、たゞ文字にのみ心をつくる故に、これをいふかしむめれど、古コトバムネとして、字にはさしもカカハらざりしかば、いかさまにも借てかけるなり、四には、右の三種ミクサの内を、此マジへてかくるものあり、さて上の四くさの外に又、所由ヨシありて書ならへる一種ヒトクサあり、日下クサカ春日カスガ飛鳥アスカ大神オホミワ長谷ハツセ他田オサダ三枝サキクサのたぐひ是なり、

(筑摩書房刊 『本居宣長全集』第九巻 p.20)

 

正字マサモジについて言われているように、漢字の読み方は複数あり、その字ごとにどう読むのかは、使われるその都度記されてはいない。それでもやはり文字は「意をソナへ」ているのが本来のあり方であり、そのほうが読む人に正しく伝わるのであれば、古語のこころを正確に伝えんとしている安万侶が正字マサモジの表記を優先したのも当然だった。「字のココロコトバの意に相当アヒアタリて、正し」いものが「真字まな」なのだ。音で表記せざるを得ない固有名詞(決まった文字表記のないもの)は、借字カリモジで表すしかないが、そのとき「字のこころ」が一致していないことも同時にはっきりと意識されていた。仮字カナガキの例にあるような、神や人や土地の名といった固有名詞は、歌と同様に借字カリモジ仮字カナで書かれた韻文であるということだ(最後に挙げられている日下クサカ春日カスガなどは、例外的に決まった文字表記のある固有名詞ということになる。よく使われる固有名詞は、訓読のように訓みが定まっていたということか)。固有名詞以外の地の文は散文なので、和訓を使って表記された。韻文は仮字かな、散文は真字まなで記録したので「音訓を交へ用ひ」ることになったのだ。散文と韻文の違いについては重要なので、次節でもう少し深めたい。

 

 

三、散文と韻文

 

小林秀雄は、さきほど引用した『本居宣長』第二十八章で「阿礼の誦んだところは、物語であって歌ではなかった」、「安万侶の表記法を決定したものは、与えられた古語の散文性であった」と言っている(『小林秀雄全作品』第27集 p.321)。散文に対して韻文、つまり和歌や固有名詞は、「古事記」の中でも仮名で表記されていた。日本語における文字表記は、韻文が先行して発達したということだ。和歌よりも和文が後になったのは、肉声による表現行為に密着している韻文と、文字による形と意味の分離を経て初めて自覚される散文との性質の違いがあり、我が国最初の和文である「古今集仮名序」について、『本居宣長』第二十七章で次のように言及されている。

 

和歌の体と和文の体との基本的な相違は、声を出して歌う体と、黙って眼で読む体との隔りにあろう。歌は、必ずしも文字を必要としないが、文字がなくて、文はない。最初の国字と呼んでいい平仮名の普及がないところに、和文の体がどうのこうのという事はあり得ない。女手といわれているくらいで、国字は女性の間に発生し、女性に常用されていたのだから、国文が女性の手で完成したのも当然な事であった。「土佐日記」の作者には、はっきりした予感があったと見ていいのではあるまいか。「女もしてみむとてするなり」という言葉には、この鋭敏な批評家の切実な感じがめられていただろう。歌の力は、言葉が、音声の力を借りて調べを作るところにあるが、黙読を要求している文章に固有な魅力を言ってみるなら、それは、音声の拘束から解放された言葉の身軽さにあろう。身軽にならなければ、日記の世界などに這入っては行けまい。これは、言葉が、己れに還り、己れを知る動きだとも言える。言葉が、音声とか身振りとかいう言葉でないものに頼っている事はない、そういうものから自由になり、観念という身軽な己れの正体に還ってみて、表現の自在というものにつき、改めて自得するという事がある。貫之が、和文制作の実験に、自分の日記を選んだのは、方法を誤らなかったと言ってよい。何の奇もないが、自分には大変親しい日常の経験を、ただ伝えるのではなく、統一ある文章に仕立て上げてみるという事が、平凡な経験の奥行の深さを、しっかり捕えるという、その事になる。

「源氏」が成ったのも、詰るところは、この同じ方法の応用によったというところが、宣長を驚かしたのである。宣長は、「古今」の集成を、わが国の文学史に於ける、自覚とか、反省とか、批評とか呼んでいい精神傾向の開始と受取った。その一番目立った現れを、和歌から和文への移り行きに見た。この受取り方の正しさを保証するものとして、彼は「源氏」を読んだ。それが、「古今」の「手弱女たわやめぶり」という真淵の考えに、彼が従わなかった最大の理由だ。「やまと歌は、人の心を種として」と貫之は言ったが、から歌との別を言うやまと歌という言葉は、「万葉」時代からあったが、やまと歌の種になる心が、自らを省み、「やまと心」「やまと魂」という言葉を思いつかねばならないという事は、「古今」時代からの事だ。そういう事になるのも、から歌は、作者の身分だとか学識だとかを現すかも知れないが、人の心を種としてはいないという批評が、先ずなければなるまい。

(第二十七章 『小林秀雄全作品』第27集 p.308 13行目~)

 

下線部で言われている、言葉の「観念」としての本性については第一節で少し触れた。文字を受け容れる過程で、言葉の意味が一旦肉声から離れ、その観念としての性格が明確に意識され、それが「自覚とか、反省とか、批評とか呼んでいい精神傾向の開始」となったのである。小林秀雄が「歌は、必ずしも文字を必要としないが、文字がなくて、文はない」と言っているのは、次のようなことではないか。歌は表現行為のままの「ココロコトバ」であり、意識的な表現でもあるが、日常私たちは散文で会話をしており、歌よりも習慣的に、無意識的に言語を使用している。だからこそ散文は、文字による意識化、反省を経由しなければ文章に編むことができない、ということではないか。つまり散文を編むためには、一語一語の「用い方」に意識的になり、単語として切り出す過程を経た、用言に対する自覚が必要だったということではないだろうか。前節で書いたように、訓読が発達する過程で、動かぬ語幹と変化するその他の部分が意識されることで、初めてこの自覚が生まれた。文字表記の方法が定まってゆくとともに、「語る」とはどういうことであるか、という認識を得たのだ。散文を記述したい、という願いは、「平凡な経験の奥行の深さを、しっかり捕え」たい、細々こまごまとした生活の些事全ての上にある、人生の、ひとつの物語としての全体像を捉えたい、という欲求から生まれるものだろう。対して、韻文である歌や固有名詞(神の名)は体言であり、「自覚とか、反省とか、批評とか呼んでいい精神傾向」がなくても自然と、ひとつの区切りをもった発声行為として意識される。それに対して散文は、この精神的傾向が生まれた後で初めて、ひとつの統一あるまとまりとして意識することができるのではないか。行為としての言葉の意味は「よみざま」、つまり言い方そのものにあり、行為とともに現れては消えるその意味を保存する方法に、我が国の古人達は苦労せざるを得なかった。言文一致への希いはいまだに達成されたとは言えないだろうが、その起源にあるのが、この韻文と散文の隔たりなのだ。この「精神的傾向」について、第一節で引いた第二十九章から再び引用したい。

 

話される言葉しか知らなかった世界を出て、書かれた言葉を扱う世界に這入はいる、そこに起った上代人の言語生活上の異変は、大変なものだったであろう。これは、考えて行けば、切りのない問題であろうが、ともかく、頭にだけは入れて置かないと、訓読の話が続けられない。言ってみるなら、実際に話し相手が居なければ、尋常な言語経験など考えてもみられなかった人が、話し相手なしに話す事を求められるとは、異変に違いないので、これに堪える為には、話し相手を仮想して、これと話し合っている積りになるより他に道はあるまい。読書に習熟するとは、耳を使わずに話を聞く事であり、文字を書くとは、声を出さずに語る事である。それなら、文字の扱いに慣れるのは、黙して自問自答が出来るという道を、開いて行く事だと言えよう。

言語がなかったら、誰も考える事も出来まいが、読み書きにより文字の扱いに通じるようにならなければ、考えの正確は期し得まい。動き易く、消え易い、個人々々の生活感情にあまり密着し過ぎた音声言語を、無声の文字で固定し、整理し、保管するという事が行われなければ、概念的思考の発達は望まれまい。ところが、日本人は、この所謂いわゆる文明への第一歩を踏み出すに当って、表音の為の仮名を、自分で生み出す事もなかったし、他国から受取った漢字という文字は、アルファベット文字ではなかった。図形と言語とが結合して生れた典型的な象形文字であった。

(第二十九章 『小林秀雄全作品』第27集 p.333 1行目~)

 

下線部で言われているように、話し相手を仮想することによって反省的意識が生まれた。その契機となったのは、文字に出会って圧倒され、言語表現を意識化し、肉声を発する行為から離れた文字を使って、「自問自答」を黙って一人で行えるようになる、という変化だった。相手を仮想した対話が「考える」ということ、宣長によって「考ふ」の語源として示されている「かむかふ」、「身交むかふ」ということなのだ。固有名詞や歌といった韻文、つまり体言以外の言葉であるところの用言、無意識的に使っている散文の語について自覚することで、それまで意識の対象の範疇になかった己の心の動きが、初めて対象化された。だからこそ「動き易く、消え易い、個人々々の生活感情にあまり密着し過ぎた音声言語を、無声の文字で固定し、整理し、保管するという事が行われなければ、概念的思考の発達は望まれ」ないのである。このことは、「歌とは、意識が出会う最初の物だ」(第二十三章 第27集p263)という言い方でも言われており(言葉が物である、ということについては拙稿『好*信*楽』令和五年(2023)春号「「荻生徂徠の『物』と『心』」参照)参照)、第二十四章で描かれている、「源氏物語」が書かれた動機に重なる。

 

「見るにもあかず、聞にもあまる」ところを、誰も「心にこめがたい」、こんなわかり易い事はない。生活経験が意識化されるという事は、それが言語に捕えられるという事であり、そうして、現実の経験が、言語に表現されて、明瞭化するなら、この事は、おのずから伝達の企図きとを含み、その意味は相手に理解されるだろう。「人にかたりたりとて、我にも人にも、何の益もなく、心のうちに、こめたりとて、何のあしき事もあるまじけれ共」、私達は、そうせざるを得ないし、それは私達の止み難い欲求でもある、と宣長は言う。私達は、話をするのが、特にむだ話をするのが好きなのである。言語という便利な道具を、有効に生活する為に、どう使うかは後の事で、先ず何をいても、生まの現実が意味を帯びた言葉に変じて、語られたり、聞かれたりする、それほど明瞭な人間性の印しはなかろうし、その有用無用を問うよりも、先ずそれだけで、私達にとっては充分な、又根本的な人生経験であろう。

(第二十四章 『小林秀雄全作品』第27集 p.276 2行目~)

 

語りたいという欲求は「明瞭な人間性の印し」であり、それを語ったり聞いたりすることは「根本的な人生経験」なのだと小林秀雄は言っている。この、外に向けた欲求から己を知りたいという希いを得ること、これは「こころことば」、すなわち表現行為としての言語の力であり、このように言語観を変えることで、我々はこの力を取り戻し、己を知ることができるのではないか。徂徠が「真字まな」を古代中国語に、宣長が「真字まな」を古代日本語に還さんとしたのは、古代の人々が表現した言語行為を元の姿に還し、現代人が失った言語本来の力を再生するためだったのではないか。これについては、稿を改めて考えたい。

加えて考えたいのは次のようなことだ。日本人は「文字への飛躍」を経験し、自国語の表記が可能になるまでの過程を、意識的な努力によって困難を克服しつつ、文字表記を発展させてきた。苦闘の跡は、「古事記」や「萬葉集」といった古典に保存されているが、この足跡を辿り直すことで、文字というシンボルに出会う以前の、神話時代の思考や知覚のあり方が理解できるようになるのではないだろうか。急激に変化を経験した我が国の古人達が残した記録を、阿礼が行ったように自らの口で誦み再生することによって、その道が開けるのではないか、と私は考えている。どの国や文化においても、神話時代の物語は、理性的とは言い難い、荒唐無稽で野蛮なものに現代からは見えるが、一見非合理的に見えるその脈絡を掴むことができるようになることで、人が生きる上で欠かせない「意味の世界」の、ある種の合理性に得心がいくようになり、生きる意味を見失ったとき、こうした古代人の認識の仕方が役に立ってくれるのではないか。さらには、文字に出会う前の知覚のあり方、宣長が「神代の神は、今こそ目に見え給はね、その代には目に見えたる物なり」と言っている通り、心が肉眼に見せていた世界を甦らせることまでできるのではないか。そんな思いで、引き続き私は「古事記伝」を読んでいる。

(了)