1
どこからであろうか、懐かしい音が聞こえて、衛門はまぶたを薄く閉じてじっと耳をすませた。ひそひそとした話し声や、木の車輪がきしむ音や、ゆっくり響く微かな足音が、風の音と混ざり合いながら少しずつ大きくなってくる。
夫である大江匡衡に伴って、赤染衛門が尾張に下ったのは、これが二度目のことだった。
かつて藤原道長の妻、倫子に仕えていたころ、夜毎日毎に牛車の音は聞こえていた。
とくに思い出深いのはある春、一条院へと花見の会へゆく際に、和泉式部とともに乗った牛車である。それは屋根に檳榔をあしらった四人乗りの牛車で、まだ新しい車輪がてらてらと光っていた。あの日の一条院には、人が降りられないほど牛車がつめかけ、従者が芋を洗うようであった。
音はさらに近づいて来て、それからぴたりと止まった。目頭に涙を浮かべていた衛門は、そのとき我に返った。
どうやら衛門を訪れる客のようであった。
「衛門さまは病を得られて」
奥の間に聞こえたのはそこまでで、あとは風の音にかき消されてしまった。病と聞いて、対面は望めぬと思ったのであろう、牛車は離れていった。強い風がひとすじ、奥の間まで届いた。衛門はやや肩を縮め、身をすくめた。しばらくすると、文とともに、両手にしっかりと抱えねばならぬほどの大きな包みが衛門に手渡された。衛門は娘を枕元に呼び、包みを解かせた。とたんに、鼻がつんとする香りが、辺り一面にたちこめた。
「まあ、これは何の香りでしょう」
「これは丁子ですよ。こちらは甘松ね」
都でもなかなか手に入らない、珍しい香の原料が少しずつ、丁寧に包まれていた。貴族たちはこれらを調合して薫物にする。衛門はかつて、倫子が調合した香を分けてもらうために仲間の女房たちと列に並んだことを思い出し、口元がほころんだ。
「どなたがくださったのでしょう」
興味深そうに顔を床に近づける娘に、衛門はすぐには答えず、静かに文を広げた。案の定、見慣れた字があった。
「三河守ですよ」
三河守となった菅原為理は、かつて衛門の妹のもとに長らく通っていた。その縁で三河国へと下る道すがら、衛門のところへ立ち寄ったのは、梅の咲き始めのころであった。いまや風がさすように冷たくなってきたとは、早いものだ。妹が亡くなったのは五年前、為理が通っていたのはさらに昔のことだ。
「あの方が生きていたら、尾張と三河は近くてよかったのですが」
為理はそう言い残し、任地へと下っていった。
為理は、妹のほかに多くの通いどころがあった。人が悪いわけではないのだが、あまりに風流に生まれつき、ごく自然な成り行きで、あちこちの女に心が移る質だったのだろう。妹が深く悩むうちに病で亡くなったのには、この方も一役買っているような気がして、為理との付き合いは気後れがした。病と伝えてよかったと衛門は思った。季節の変わり目に咳を少しわずらったが、すでにあらかた治っていた。
ところがしばらくして、衛門は小刻みに肩をゆらしはじめた。隣にいる娘がはっと気がついたときには、声さえもらして笑った。
為理の文には、歌が詠まれていた。
唐国の 物のしるしの くさぐさを やまと心に 乏しとやみむ
(唐のものをいろいろとお贈りしたことを、やまと心が足りないとご覧になりますか)
目を丸くして驚いている娘を見ても、衛門は緩んだ顔を引き締めることができなかった。やまと心をこのように話題にするとは、あの歌のことを聞き知ったに違いない。衛門はこれまで一度も、そのことを人に話したことはなかった。きっと夫が、どこかで話題にしたのだろう。衛門は心が温まった。月日はほんとうに早い。あの歌を贈ったばかりのころ、もはや夫婦の契りもこれまでかと衛門は覚悟していた。それはちょうど今と同じ、美しい虫の音が、木枯らしでかき消される、冬の初めであった。
2
「お白湯をお持ちしました」
丹後のささやくような声が頭の上で聞こえたので衛門は頷いた。赤ん坊をあやしながらも、目は文机に置かれた文の字を追っていた。文の主は藤原倫子、かつて衛門が仕えていた、藤原道長の妻である。
丹後が椀を持っていてくれるので、衛門は体を動かすことなく白湯をひと口啜った。顔を上げると、丹後が心配そうな顔でのぞきこんでいる。
「早く乳母が見つかるといいのですがね……」
丹後はなんでも察しがよく、衛門は嬉しくなった。しかしそれもつかの間のこと、考え出すとため息がもれる。倫子からの文には、娘の彰子の女房としてそなたを召したいと書かれており、いつ京に戻れるのかと促すものだった。衛門としても、はやく倫子の役に立ちたい。だが、幼子につける乳母がいなくては、叶うはずもなかった。
「あの人の赤子はもう、生まれたころでしょうか」
少し前までは、衛門の姪が乳母をしていた。しかし衛門の娘が生まれてから一年も立たぬうちに姪にも懐妊のきざしが見え、すぐ里帰りさせてしまった。丹後はその娘のことを言ったのである。
「ええ、この間、たよりが来ました。女の子だそうよ」
かわりの乳母を、親類じゅう当たって探させてはいるが、すぐには見つからなかった。たとえふさわしい人が見つかっても、たやすく決まることはないだろう。
「あの方は、旦那様がようやく首を縦に振ったというのに……」
衛門はしばらく返事をしなかった。
衛門の夫、大江匡衡は、学者であった。学者というものが、ここまで気難しいものだということを知ったのは、子が生まれてからのことであった。
「姪は少し若すぎたのです」
「けれどあの方は朗らかで、歌もお上手だったようなのに」
衛門は姪を思い出したようで言葉に詰まった。ため息がもれた。
「歌が得手でも仕方がないのでしょう」
「いいえ。そのようなことはございません。なんといっても旦那様は、歌では衛門さまには勝てないですもの」
これには衛門は笑ってしまった。丹後もつられて笑ったが、思い出したようにおもむろに白湯を衛門の口元に運んだ。
「さあ、もう一口おあがりください」
衛門は若いころから和歌の名手だった。大臣家の歌合の歌は必ず評判になったものだ。
一方、夫の大江匡衡はもともと和歌が好きではなかった。一通り学びはしたものの、和歌を詠む暇があるならば、少しでも多く漢文の聖典にふれていたかった。その態度を一変させたきっかけが、衛門への恋であった。
恋わびて 忍びにいづる 涙こそ 手に貫ける 玉と見えけん
(恋に悩み、人知れずこぼれる涙が、手に通した数珠の玉のように見えます)
数珠とともに贈られた歌に、衛門はすぐさま返事をした。
ちづらなる 涙の玉も 聞こゆるを 手に貫ける 数はいくらぞ
(千にも連なる涙と世間では言いますが、あなたの手に連なる涙の数はいくつでしょうか)
手ひどく返しても間もなく歌はふたたび贈られてきた。
あら浪の うち寄らぬまに 住の江の 岸の松影 いかにしてみん
(荒波が打ち寄せないうちに 住の江の松の姿をなんとかして見たいものです)
住の江の 岸のむら松 陰遠み 浪寄するかを 人は見きやは
(住の江に群れて生える松は、その姿を遠方から見るので、波が寄せるかどうかは見えないものです。あなたは見たのですか、見てはいないでしょう)
岩代の 松にかかれる 露の命 絶えもこそすれ 結びとどめよ
(岩代の松にかかっている露のように儚い私の命が消えてしまいそうです。つなぎとめてください)
結びても 絶えんを松の はばかりに かけばにで見る 露の命ぞ
(露なら結んでも消えるものです。まして松の葉などにかけるというのでは、なおさらはかない露の命ですね。つなぎとめられません)
紅の 袖匂ふまで 貫ける玉 なにのもるとも 数へかねつつ
(紅に映える袖になるまで、血の涙の玉が貫いたのです。檜破籠に何が盛ってあるにしても、数は数えられないでしょう)
もりつらん 物はことにて 紅の 袖にはなにの 玉か数えん
(盛ってある物はさておいて、もともと紅色をした袖で何の玉を数えればいいのでしょう)
衛門とのやりとりをするうちに、匡衡は歌に深入りしていった。明らかに和歌においては、衛門のほうが数段上だということを、匡衡は認めざるをえなかった。幼いころから秀才と呼ばれ、周囲の期待を集めてきた匡衡にとって、勝てないものがあるというのは、それだけで心が惹きつけられた。いくら歌を贈っても、返ってくるのはつれない歌ばかりだった。しかし衛門は必ず返歌を寄こした。まるでつれない素振りさえ、どこか楽しんでいるかのようであり、それが匡衡を次の歌へとかきたてた。
泣き声が聞こえて来た。つい物思いにふけったかと、衛門は思わず腕のなかの赤ん坊を見たが、すやすやと眠り続けている。どうやら声の主は外にいるらしい。丹後はすぐに立った。
「様子を見てまいります」
衛門の腕に力が入った。
戻ってきた丹後は困ったような顔をして、言葉も発しないので、衛門が急かすと、小さな声でぼそぼそと言った。
「旅のお方だそうです。今夜一晩、泊めてさしあげてもよろしいでしょうか」
丹後が御簾を上げると、親子らしき姿があった。
女童は十歳ほどだろうか、しゃがみこんで泣いていた。女童の背中をやさしくさするたびに、母親の薄い背中で幼子が大きく揺れた。
「お嬢さんが足をくじいてしまったそうなのです」
子を見つめる母親のほうも顔が青ざめていた。衛門はわが子をおいて親子のほうへと近づいていった。
「どちらからいらしたのですか」
「近江でございます」
娘がこれから世話になる人に会いにきたのだが、ようやく京に入ったところで、当の娘がどうしても歩けなくなってしまったという。外は暗くなりつつあり、このままでは外で夜を越すことになるだろう、丹後が思わず声をかけたのも無理はない。衛門がうなずくと、丹後の声が弾んだ。
「さあ、お上がりください」
母親は背中の幼子を下ろし、腕にしっかりと抱えながら幾度も礼をした。立ち上がっても小柄なその若い母親は、名を伊香といった。いい名だと伝えると、父が住んでいた近江の地名なのだという。丹後はすぐに女童をおぶって奥へと連れていった。伊香がおもむろに歩きはじめたとき、衛門は声をかけた。
「外にいる方もお入りになって」
伊香は驚き、身をすくめた。
「あれは外でいいのです」
伊香は旅に男衆を連れていることを言わないようにしていたが、この女主人は、広い心の持ち主だったようである。
「このあたりは、夜とても冷え込みますから」
そう言い残して衛門は奥に下がっていった。その背に向けて、伊香はもう一度深々と頭を下げた。
3
翌朝、衛門が起きてみると、炊事場のほうから話し声が聞こえた。甲高い声が交っている。昨夜足を痛めていたという女童が何か手伝いをしているようだった。
こちらの気配を察したのであろう、お目ざめになりましたか、と丹後に声をかけられた。その横から、元気そうな女の子がちょこんと顔をだした。
「昨夜はどうもありがとうございました」
お辞儀をしてすっと上げた顔は、かすかに赤みがかっていた。
足の痛みはもういいのか、少女は素早く動き回っていた。頰と同じ、紅葉のような赤い小袖が似合っていた。
「母は、今、水を汲みにいっています」
「お断りしたのですが、どうしても行くといって」
お優しい方です、と丹後は独り言のように言って食事の支度を続けた。
少女は何かを見つけたのか、目を細めてつぶやいた。
「紫に染まるかしら」
丹後はかまどに薪をくべていて、少女の声が届いていないようだった。視線の先を追うと、庭に残っていた朝顔が、光のなかで揺れていた。
井戸から帰ってきた伊香は、衛門の姿を見つけると、大切そうに水を抱えて庭のほうへやってきた。衛門が尋ねると、娘は生まれつき手先が器用で、裁縫や染物がことのほか好きなのだと話しはじめた。
「最初に気がついたのは、私が着物のほつれを直しているときでした」
伊香の背中の赤子は、人形のように静かだった。
「縫い物をしながらつい、うとうとしていたところ、娘が残りを縫ってしまったのです。八歳のときでした。見様見真似で覚えてしまったのでしょう。その場では叱りましたが、嬉しい思いでした。それからいつだったか、一度花染めを見せてからは、一緒に野山に出かけては植物をとってきて、始終染物をしています」
衛門が見やると、少女と朝顔がじっと見つめあっていた。
「着物も自分で染めたのですか」
「ええ」
きれいに染まっていると伝えると、伊香は明るい声になった。
「椿です。何日も野をかけまわったり、ご近所にも頼み込んだりして、落ちた花をたくさん集めて、ひとりで染めたのです」
「名残の紅葉のようですね」
伊香は嬉しそうに頷いた。娘の手による染物が季節に合っていると褒められるのはこのうえもない喜びのようだった。
「いまは庭の朝顔を見て、考えているようですね」
伊香は頷いた。
「紫は、娘の憧れの色なのです。花染めで濃い紫色を出すのは難しく、すぐ色あせてしまうのですが」
娘がこちらにやってきて、母の膝へ甘えるように顔をうずめた。
「お母さま、私、いつかはあんな色も染められるかしら」
「紫草で染めればきっと美しいわ。都へいけば、紫草で染めることができるかもしれないと楽しみにしていたのよね」
娘の顔はとたんに輝いたが、次の瞬間、眉間にも口元にもしわを寄せて衛門を驚かせた。
「きっととっても冷たいわ」
「お水のことね」
娘は大きく頷いて、まるで冷水のなかに両手を入れたかのように身を震わせた。衛門は笑った。
「花染めは、温めた色水に浸してから、冷水の中で生地を洗うのを、何度も繰り返すことで、少しずつ色づいて、むらなく美しく染まります」
それは初耳だと衛門が伝えると、伊香は恥ずかしそうに微笑んだ。
「何度もしているうちに娘が自分で気がついたのです」
伊香の誇らしげな姿に、衛門も心が浮き立つのを覚えた。まるで自分の娘が育ってゆく喜びを、先取りしたかのようだった。
「これだけ好きで得手なことを持って生まれたのだから、何か縁があるに違いないと、いつも思っておりました」
「それで京まで旅をされたのですね」
伊香はうなずき、これまでの旅のことを一通り語った。
「夫の親戚に、代々着物の仕立てを生業とする家の主人がいるのです」
それは衛門も噂で聞いたことがあった。貴婦人たちはたいてい、みずからの着物を仕立ててもらうため、針仕事や染物を担う女房を抱えるものだが、急な入り用に間に合わぬときや、凝った仕立てを頼むときは、そういった家に頼むことがあった。伊香は、娘をその家の針子にしようというのだろう。
「幾度となく頼んでも、なかなか聞き入れてくださいませんでした。でも夫が亡くなった際、ようやく文をくださって」
それで丸一日かけて、念願の都へと旅をしてきたのだと話し終えると、伊香は黙って、娘の着くずれを直した。衛門は、少女が去ったあとの朝顔を見つめ、あのような濃い紫の生地は、都でもなかなか手に入らないことを思った。花は、前に見たときより色が深まっていた。
赤ん坊の声がした。まるで話の区切りを待っていたかのような間の良さだった。
衛門は机の前に向かい、倫子への返事を書く準備を始めた。
硯に水をさし、墨をなじませて幾度か磨ってから、大きな木箱を開けて、紙を出そうとして、衛門は思わず苦笑をした。さきほどとは別の角度から泣き声が聞こえた。衛門の娘が起き出したようであった。
衛門は丹後を呼び、持ったばかりの筆を置いた。そして昨夜からやや痛む腰をようやくあげたころ、几帳を隔てた隣の部屋から、赤ん坊を抱えた母親がこちらをのぞいた。遠くから、お乳をさしあげてもいいでしょうか、と声が聞こえる。そばに来た丹後が、是非そうさせてあげてください、と言葉を添えた。
「そうはいっても……」
伊香は小柄で、どちらかというと痩せていた。旅の疲れからか顔色も芳しくなかったので、食事を多めにするように丹後に言いつけたほどだった。傍目からはどう見てもふたり分のお乳が出るようには思えなかった。
「何かお礼がしたいと、昨日から口を開くとそればかりで」
衛門が小さく頷き、無理はせぬように伝えてほしいと言った。衛門は筆を持ったが、幾度か字を書き損じた。泣き声の合間から、「伊香さん、しっかり」と励ます声がした。風で持ち上がった几帳の隙間から、背中をさする丹後の手が見えた。しばらくして泣き声は風とともに消え、鈴虫の声が聞こえて来た。
親子はその日のうちに用をすませ、伊香は夕方、衛門の家にもう一度立ち寄った。今朝の女童はおらず、背中の赤ん坊がすやすやと眠っていた。静かな人だと衛門は思った。
深々と礼をしたのちに顔を上げると、伊香は衛門の顔をまっすぐに見つめた。
「見知らぬ私どもを泊めてくださって、なんとお礼を申し上げたらよろしいのか……その上で、このようなことを申し上げるのは、まことに無礼だと存じてはいるのですが」
一瞬の沈黙の間に、深い呼吸が聞こえてきそうであった。声が震えていた。
「乳母として、このお家においていただけないでしょうか」
娘と一緒に都へ来たのは、自分も雇ってはもらえまいかと考えていたからだったようだ。しかし娘の奉公先では、人手は足りており、用がなかったのだという。
「あの子は、ほんとうは姉の子なのです。姉は産後すぐに亡くなったので、私が育てようと決めたのです。母のふりをするうちに、本当のことは言えなくなりました」
伊香は、そっと背中のほうへ目をやった。
「この子が産まれてから、今度は夫が亡くなりました」
今にもこぼれ落ちそうな涙に、伊香は耐えていた。
「あの子がひとりで食べていけるとわかるまで、見届けてやりたいのです」
先に声を出したのは丹後であった。
「衛門様、あの……」
衛門は微笑みながら、言葉を重ねた。
「実は困っていたのです。今朝も助かったの」
幼子の母は、絞り出すような声でお礼を言い、赤ん坊を起こさないようにと、それ以上は話そうとしなかった。突然、強い風が吹きぬけていった。
「さあ、もう遅いですから、おあがりなさい」
風は、暖かくなった衛門の心にまで吹き込んだように思えた。誰にもわからぬよう、衛門は小さくため息をこぼした。
(つづく)