歌劇「フィガロの結婚」を聴いて

坂口 慶樹

「明頭来、明頭打、暗頭来、暗頭打」

(「明頭に来れば、明頭に打し、暗頭に来れば、暗頭に打し」)

「臨済録」(勘弁七)に記されている、普化ふけという唐代の奇僧が、街中で鈴を振りながら唱えていた、という禅語がある。私は、十年程前、大阪勤務をしていた頃、京都の南禅僧堂へ定期的に、坐りに行っていた。これは、その時、僧堂の老師から教えられた言葉である。ただし、知識としてではなく、あくまで身体で悟得せよ、との親心であろう。その含意については、「明るい頭が来たら、叩く。暗い頭が来ても、叩く」という、読んで字の如く、という以上のことは、説かれないままとなっていた。

 

それと同じ頃から、毎夏、佐渡裕指揮、兵庫芸術文化センター管弦楽団によるオペラを聴きに行くようになった。最初の演目は、モーツァルトの「魔笛」。そのフィナーレでは、大祭司ザラストロに与えられた試練に耐えた、王子タミーノと夜の女王の娘タミーナ、さらには、鳥刺しパパゲーノとパパゲーナ、という二組が、波乱の末、めでたく結ばれる。それを祝福し、全員で声高らかに歌い上げる場面がある。そこで私は、不覚にも、涙が止まらなくなってしまった。楽器や歌手の口から発した音が、天上から、きらきらと降り注ぐ。私の全身が、その無数の音で、完全に包み込まれてしまったかのような感覚を、今でも鮮やかに覚えている。この世に生かされていることがありがたい、と心の底から感じた。モーツァルトから渡された、目に見えない強い力が、体中に湧いてきた。なぜ、彼の音楽には、ここまで人を虜にする力があるのだろうか、そんな自問も、以来、腹の中で持ち続けてきている。

そして、今夏も同様に、会場のある西宮へ向かった。演目は、あの夏と同じ作曲家、モーツァルトのオペラ「フィガロの結婚」。それだけに、期待感も大きく高まっていた。

 

ところで、小林秀雄先生が、オペラも含め、観劇をあまり好まれなかったことは、広く知られている。盟友、河上徹太郎氏との対談でも、氏に「君はオペラ嫌いだね。救えないよ」と言われ、「ほんとうに嫌いなんだよ。僕は大体芝居というものは嫌いだ」と率直に答えている(「美の行脚」、新潮社刊『小林秀雄全作品』第21集所収)。音楽は、声楽も含めて、全身で聴き入ることを第一義とされた先生は、「わが国では、モオツァルトの歌劇の上演に接する機会がないが、僕は別段不服にも思わない。上演されても眼をつぶって聞くだろうから。僕はそれで間違いないと思っている」(「モオツァルト」、同第15集所収)とまで明言されている。

そのことが念頭にあった私は、今回敢えて、普段の演奏会では、音響の観点からむしろ敬遠する、最前列中央の席に着いた。イタリア語上演のため、舞台上の両脇に日本語の字幕が出るが、それも視野に入らないで済む。目線を上にしなければ、オーケストラピットの指揮者や演奏家は目にしても、歌手の歌声も、音声として聴くことに専念できる。オペラは、視覚的にも愉しめるだけに、少し残念ではあったものの、歌手の動きや舞台装置は、努めて見ないようにした。このように、小林先生の教えに従い、すべての音を、純粋に音として、全身で聴くことに徹したのである。

 

Prestoという、速いテンポの指示記号が付いた、有名な序曲の演奏が、軽やかに、先を急ぐかのように始まった。そこから先は、まるでジェットコースターに乗ったように、あっという間の3時間半が過ぎて行った。今回の公演は、事前に丁寧な準備が行われていたことが察せられる、あらゆる点で見事な内容であった。そこであえて、私が最も感じ入ったことを、一語で言うならば、アンサンブルの美しさ、である。共鳴の美、と言い換えてもよい。オーケストラ内での演奏家同士の共鳴は言うまでもなく、歌声とオーケストラ演奏の共鳴。歌手による二重唱、三重唱、そして多重唱。レチタティーヴォ(歌うような会話)とチェンバロ(クラヴサン)の共鳴。このように、ありとあらゆる共鳴が、まさに「一幅の絵を見る様に完成した姿で」(同)次々に現れ、私の体の隅々に、沁み渡っていった。

なかでも、アルマヴィーア伯爵夫人役の並河寿美さんと、スザンナ役の中村恵理さんによるソプラノの二重唱は、声質が似ていることもあり、その共鳴の美しさに、大きく揺り動かされた(それぞれのアリア(独唱)の素晴らしさは、言うまでもない)。さらに、CDで聴いていたら、殆ど聴き逃してしまいそうな、チェンバロの通奏低音の演奏(ケヴィン・マーフィーさん)には、大きく目を見張るものがあった。指揮者、演奏家はもちろん、すべての関係者の方に、「ブラヴィシーモ!」と、改めて敬意を表したい。

 

さて、今回「フィガロの結婚」に推参するにあたっては、作曲家の、当時の心境に少しでも肉薄したいと思い、「モーツァルトの手紙」(岩波文庫、柴田治三郎編訳)を読み込んだ。まずは、モーツァルトのオペラ熱が、十一歳で劇音楽を書いて以降、終始冷めることのなかった点に、興味を惹かれた。手紙には、こういう言葉が踊る。

「ぼくはもう一度オペラを書きたいという何とも言いようのない欲望をもっています」

(1777年)

「オペラを書きたいというぼくの願いをお忘れなく、オペラを書く人はだれでも羨しく思います」(1778年)

そして、彼は、イタリア出身のロレンツォ・ダ・ポンテという作家に出会う。

「私はイタリア・オペラの畑でも、自分の腕前を見せてやりたいものです」(1783年)

「フィガロの結婚」の原作が身分制度への攻撃と見做されたことから、皇帝からの上演許可を得るのに時間を要したものの、二人はめげることなく策を講じ、なんとか許可を得ることができた。

1786年5月、ウィーンの宮廷劇場で無事に初演。以降、好評を重ね、翌年には、妻のコンスタンツェとともに、プラハでの上演に訪れる。

「じっさいここでは『フィーガロ』の話でもちきりで、弾くのも、吹くのも、歌や口笛も、『フィーガロ』ばっかり、『フィーガロ』の他はだれもオペラを観に行かず、明けても暮れても『フィーガロ』『フィーガロ』だ。たしかに、ぼくにとっては大いに名誉だ」

 

一方、本作が大好評を得るに至る、モーツァルトの実生活は必ずしも一筋縄では行かなかった。1778年の母の死以降、失恋、地元ザルツブルク司教との不和と決裂、最愛の父レオポルドとの不和、父の承認を得られない、コンスタンツェとの結婚の強行、長男ライムラントの早世、という出来事が、立て続けに起きる。気持ちの入った本作初演に向けては、作曲に集中したため、生活費が欠乏。知人への度重なる金策依頼の手紙が、驚くほど増えて行った。そういう疾風怒涛の中での、本作初演だったのである。

しかし、本作の成功で、必ずしも生活が楽になったわけではない。上記プラハ上演の年に父が死去。仲良しであった、実姉ナンナルとの不和も始まる。妻は病気がちになり、バーデンで療養。三男、長女、二女も早世。自身の健康も万全ではない。そんな状況で、金策の手紙は、終わる所を知らない。もちろん、自転車操業のような、膨大な量の作曲活動は、死の直前まで同時並行で続いた。

このようにモーツァルトは、実生活もまた、真面目に生きてきた。次々に襲いかかる試練から、決して逃れることなく、むしろ置かれた状況をそのまま受け入れて、不平も言わず、常に前向きに生きてきた。

ここで、小林先生の言葉を引いておきたい。

「不平家とは、自分自身と決して折り合わぬ人種を言うのである。不平家は、折り合わぬのは、いつも他人であり環境であると信じ込んでいるが。(中略)強い精神にとっては、悪い環境も、やはり在るが儘の環境であって、そこに何一つ欠けている処も、不足しているものもありはしない。(中略)命の力には、外的偶然をやがて内的必然と観ずる能力が備わっているものだ」(「モオツァルト」)

 

さて、小林先生が、二十代の頃、大事にしていたモーツァルトの肖像画の写真がある(ヨーゼフ・ランゲ、「クラヴィーアに向かうモーツァルト」国際モーツァルテウム財団所蔵)。私は、演奏会から自宅に戻ると、その肖像画と、久しぶりに、ゆっくりと向き合ってみた。人生経験の豊富に見える老練な男が、チェンバロと覚しきものの前に坐って、一心に何かを見つめている。いや、何か得体の知れぬものに出合い、驚愕に目を見張りつつも、やむをえない、と前向きに受け入れようとする気持ちも、僅かにあるようにも見える。ちなみに小林先生は、この画について、こんな感慨を記されている。

「名付け難い災厄や不幸や苦痛の動きが、そのまま同時に、どうしてこんな正確な単純な美しさを現す事が出来るのだろうか」(同)

 

さらにその画を、無心に眺めていると、こんなことを思った。

人は、年を経るほど、公私を問わない外的環境の変化に、その人生が大きく左右されるものである。「こんなことが起きていいのか……」という、嘆息を漏らさざるをえないような出来事が、一度のみならず、立て続けに起こることすら稀ではない。小林先生も言う。

「人生の浮沈は、まさしく人生の浮沈であって、劇ではない、恐らくモオツァルトにはそう見えた」(同)

それは、この我が身とて、例外ではない。

 

今回私は、オペラ「フィガロの結婚」を、室内楽を集中して聴くかのように、全身を耳と化して聴き入った。そうしてみたことで、モーツァルトの音楽の完成された姿を、美しいと観ずるだけではなく、何か不思議な力で体内が満たされた感じを覚える理由が、少しだけ腑に落ちた気がした。それは、モーツァルトの生身に、直に触れた、とでも形容できるような感覚である。

続けて、思う。演奏会場で次々と繰り出される、美しい「あらゆる共鳴」に、終始耳を奪われていた私は、もしかすると、あの肖像画中のモーツァルトと同じような表情と眼差しをしていたのかもしれない。

 

その瞬間、冒頭の禅語が、私の身体の中で、小林先生の言葉と共鳴した。

 

「明頭来、明頭打、暗頭来、暗頭打」

チリン、と鈴を振りながら、裸形の禅僧が、歩いている。

 

赤いフロックコートを脱ぎ捨てた、裸形の作曲家が、歩いている。

「モオツァルトは、目的地なぞ定めない。歩き方が目的地を作り出した」(同)

 

 

*参考文献

 「臨済録」(岩波文庫、入矢義高 訳注)

  唐代末期(?-867)の禅師、臨済義玄の言行を弟子の慧然が記したもの。

*参考CD

 MOZART, Le nozze di Figaro

 Erich Kleiber, Winer Philharmoniker,1955

小林秀雄先生に「微妙ということがわかっている。あいつは音楽を聴いているから」と評されたという新潮社の元編集者、齋藤十一氏の「愛聴レコード盤100」の一枚。齋藤氏は「エーリヒ・クライバーの演奏は、一つの理想を達成している」とコメントしている。最近、SACD版も発売された(タワーレコード限定)。

(了)