昭和52年に出版された「本居宣長」は、当時四千円の本で、貧乏中高生だった私は安価な第四次全集版で読んだ。読んだと言いつつ、私にとっては非常に難解な著作で、読み進むのに大変苦労した。第五章までは宣長の伝記的記述が多いが、その後、契沖あたりから、無学な私には途端に読みにくくなった。後に出た『小林秀雄全作品』(第六次全集)と異なり、第四次全集は注釈など一切無い。よって何度も挫折した。正直、告白すると、私が「本居宣長」をまともに読んだのは、『全作品』が出てからである。
裏を返せば、第五章辺りまでは当時から繰返し読んだ。特に第三章は、医師としての宣長の記述があり、親近感を持った。私は医学部を目指していたのである。小林先生がその後、昭和57年から大病をされたことは全く知らなかったが、私は医学生になっていた。たしか、亡くなる前日に危篤である旨の新聞記事が出て、その後、死亡が伝えられた。当時購読していた新聞にも大きく報道された。私はその時の記事の切り抜きを今でも大切に持っている。また、当時のマスコミがこぞって追悼特集を出したのは周知の通りである。
今、実際に医師になってみて「本居宣長」を通読してみると、現代医学との関連を想起させる箇所があちこちに見られる。平成28年10月の池田塾で口頭質問させていただいたが、もう一度振り返ってみたい。この時に私が注目したのは、第二十五章の「才」と「大和魂」「大和心」についてである。これは小林先生の講演にも出てくる有名な言葉であるが、『全作品』第27集から見ていく。まずは「源氏物語」である(278頁)。
「猶、才を本としてこそ、大和魂の世に用ひらるる方も、強う侍らめ」――「才」は学才、学問の意味だ。学問という土台があってこそ、大和魂を世間で強く働かすことも出来ると、光源氏は言う。すなわち「大和魂」は、「才」に対する言葉で、意味合が「才」とは異なるものとして使われている。「才」が、学んで得た智識に関係するに対し、「大和魂」の方は、これを働かす智慧に関係する。
これを現代医学に当てはめると、「才」とは、科学的医学理論であり、統計学的有意を証明した医学論文であり、論文に基づく診療ガイドラインであり、人間を臓器に分割した専門分化であり、「個」を無視した最大公約数的な一般論であろう。今の時代、科学的理論や統計学やガイドラインや一般論だけを武器にして、機械的に臨床に従事する医師の何と多いことか。
しかし、個々の患者というのは、言うまでもなく、生身の人間である。生き物である。昔は「臨床医は患者から学べ」と盛んに言われたものだが、最近はそういう謙虚さを忘れ、「臨床医は各種データ(証拠)から学び、それを目の前の患者に当てはめる」ことが主流の時代になってしまった(Evidence-based medicine;EBM)。私が思うに、そんな時代だからこそ、臨床医は「才」を本としながらも、患者一人一人の個別性を感じ取り、親身になって全人的に診ようとする「大和魂」の心持ちが必要なのではないだろうか。
次は、「今昔物語」である(279頁)。
明法博士、善澄の家に強盗が押入った。善澄は、彼等が立去ると、後を追って門前に飛び出し、おのれ達の顔は皆見覚えた、検非違使の別当に訴え片っ端から召し捕らせる、とわめき立てた、これを聞いた強盗達は、引返して来て、善澄を殺した。物語作者は附言している、――「善澄、才ハメデタカリケレドモ、露、和魂無カリケル者ニテ、此ル心幼キ事ヲ云テ死ヌル也」、善澄は、学問は立派だったが、大和魂を少しも持ちあわせていなかった、そのためこういう幼稚なことを言って殺されたのである……、と。「大和魂」という言葉は、ここでも学問を意味する「才」に対して使われている。机上の学問に比べられた生活の智慧、死んだ理窟に対する、生きた常識という意味合である。両者が折合うのはむつかしい事だと、「今昔物語」の作者は言いたいのである。
この「才」と「大和魂」とが折合うのが難しいという現実は、現代の臨床医たちにも当てはまっていると思われる。最先端の医学知識に精通した医師と、生きた智慧を持った医師とを兼ねることは、実際には難しいことなのである。なぜ難しいのか。医学部での医学教育や医師国家試験は自然科学の上に立脚しており、「才」のみ重視する医師が量産されている現実がある。宣長は「うひ山ぶみ」で、「やまと魂を堅固くすべきこと」を繰返し強調しているが、実際には漢意儒意(才)に惑わされて「やまと魂」がかたまりにくいことを指摘している(284頁)。今の臨床医たちも、押し寄せる医療情報の大群に妨げられて大和魂が固まらない。才さえあれば、とりあえず医者はできる。新たな才を発見すれば医学学会で評価もされる。しかし、臨床医として真に理想とすべき姿は、やはり才を本として大和魂を用いることであろう。
続いて、小林先生は赤染衛門の歌を読ませる(281頁)。
文章博士、大江匡衡の家で乳母を雇ったが、その乳母の乳が乏しい。そこで匡衡は、こういう歌を詠んで妻赤染衛門に贈った、――「果なくも 思ひけるかな 乳もなくて 博士の家の 乳母せむとは」、満足に乳が出ないというのに、知の家である我が家の乳母になろうなどとよくも思ったものだ……。これに対して赤染衛門はこう返した、――「さもあらばあれ 大和心し 賢くば 細乳に附けて あらすばかりぞ」、大和心が賢い女なら、無学でも、子供に附けて置いて、一向差支えないではありませんか……。人間は、学問などすると、どうして、こうも馬鹿になるのか、この女流歌人も、学者学問に対して反撥する気持を少しも隠そうとはしていないと小林先生は言っている。
上古の日本人の生き方を理想とした小林先生は、現代医学の科学的側面を全否定し、名医の直観や自然治癒を大切にされたという。自然治癒は、特にウイルス性疾患にはとても大切なことで、風邪をひくと寝室にひきこもり、西洋薬には頼らなかったという先生の療養態度は、逆説的だが、実は合理的なのである。先生が身体を張って体感したこの常識は、現代医学も後追いの形で保証をしたのである。「本居宣長補記Ⅰ」(『全作品』28所収)で言われている、宣長の「真暦考」に現代天文学が決定的な表現を与えたのと同じであった。
人間は、大きな力に生かさせてもらっている以上、それに協力することが大切であり、人為的医療が万能と考えるのは人間の傲りであろう。医学的俗言の中には迷信も混じってはいるが、小林先生が終始心がけられたという「頭寒足熱」のように、いわゆるホンモノも数多くあるのである。患者側も、データしか見ないような医師に頼り切るのではなく、自分の命を守るためには、自分自身の身体の仕組みや体調の変化を、小林先生のように、もっと真剣に「感じ取る」べきである。
小林先生の存命時と比べて、今の医療はさらにデータが重視される時代になった。医療だけではない。あらゆる分野で「才」や「証拠」が重用されている、と言ってもよい。そんな大和心を捨てた現代人に対し、先生はどんな眼差しを向けられ、どんな言葉を発せられるであろうか。こういう想像にこそ、現代を生きるヒントがあるように、私には思われる。
(了)