歌の生まれ出づる処

本田 正男

昨年、年明け間もない頃、父を見送った。

遡ることさらに一年程前の年末、父は、母と一緒に居られる場所を確保できたことから、都内にある住み慣れた自宅を後にし、鎌倉山にある介護付きの住居型施設に夫婦揃って移り住んだ。しかし、3か月が経ち、新しい生活にも少し慣れてきたかと思っていた春先、体調を崩し、母が歩いて行ける距離にある病院へ父だけ移らざるを得なくなってしまった。そのため、父が入院してからというもの、横浜に暮らす私は、毎週鎌倉山に母を訪ね、その足で母と一緒に山道を下り、時間の許す限り父を見舞うという週末の生活が始まった。

などと書くと何か随分と孝行息子のようにも聞こえてしまうけれど、この親不孝者は、お見舞いなどといっても母を連れて行くだけのことしかせず、病室でも、いつも決まってキーボードを叩き始め、忙しいからと傍らで仕事を続けていた。最初に父が入った部屋は、私に付いてきた子どもたちが遊ぶことのできる程の、都内の病院なら3人は詰め込まれそうな広さだったが、一人部屋で、MacBookがあれば、十分な音量で音楽を響かせることができた(結局一年近く、病室へ通ったわけだが、音楽をかけていたことは勿論、電源を拝借していたことすら、注意されたことはなかった)。そして、病室の窓からは、手が届くのではないかと錯覚するほどの近さに桜が咲き、モノレールの音はしたが、その後には、いつも鳥の声が緑の風に運ばれていた。

父は、元々糖尿持ちで、晩年はインスリン注射を欠かせなかったが、入院してすぐの検査の結果、施設で体調を崩し誤嚥したのは、脳梗塞が原因だったことが解り、その時点で、口から栄養を摂ることはもはや叶わない状態にあることが医学的には確定した。もう十分ですとこちらから切り出したくなるほどに丁寧な女性医師の説明から、この後、父の身体がどのようになってゆくのか、母にも理解できた筈だが、少なくとも、その頃の父は、まだはっきりと自分の意志を伝えることができたし、母には、残された最後の治療である管で栄養を補給するという方法を採る以外の選択肢はなかった。母と父は、日々の大半の出来事が一反ほどの面積の中に収まっていた時代に、群馬の片田舎で幼馴染だった頃からの付き合いで、お互い寄りかかり、共に支え合ってきた文字通りの伴侶なので、もう零れ落ちるほど沢山の思い出を抱えていたとはいえ、いや、そうであるからこそ、これで終わりにはしたくないという気持ちになるのは自然なことだった。

当時、母は、すでに八十の坂を登っていたが、気が張っていたせいか、三つ違いの父とは比べものにならぬ気丈さでベッドの傍に立ち続け、横で音楽を聴きながら、普通に仕事をしている息子の分まで、ここで音が止まってしまったら、命が尽きてしまうかのように、父に向かって間断なく喋り続けていた。

医学的にはまったく絶望的な状況下で、春の日、母は、あたかも草木が成長するように、寝たきりになった父の身体にもまだ伸び代があると繰り返し言い聞かせていた。私は病室に差し込む夕映えの光で橙色になった病室に、いつの頃からか、決まって、ルービンシュタイン(Arthur Rubinstein)の弾くショパンの全集を流すようになった。ノクターンから始まって、後期のマズルカに差し掛かる頃、また来るからと父に告げ、毎週病室を後にしていた。何か、しんみりしたいのだけれど、でも、余り湿っぽくない、そんな音楽を聴きたい気分だった。梅雨時、母は、雨が降れば、また草木も潤う、貴方の身体も蘇ると話しかけていた。盛夏の頃、私が娘に浴衣を着せて病室に連れて行くと、もっと涼しくなれば、もっといい気候になれば、貴方もきっと元気になると耳元で繰り返していた。小春日和の日曜日、何時間でも子どもたちとキャッチボールのできる病院の駐車場で、最初は長男が、しまいには、次男が、もういいと言い出すまで繰り返し空に向かってボールを投げた後、病室に戻ると、母は、私が子どもたちを連れ出したときと同じ姿勢で、硬くなった父の脚をさすっていた。

祖母が癌で闘病していた私の子どもの頃には、寝たきりになると、すぐに床ずれを起こし、それが治療以上に大変なことだったと記憶しているのだが、器具も工夫され、一定の時間ごとに姿勢を変える行き届いた昨今の医療のお陰で、父の身体はついに床ずれを起こすことはなかった。しかし、比較的太い血管に入れる管でも、届けることのできる栄養は成人が身体を維持するのに十分な量には満たない。父は下半身から次第に痩せ、冬の足音が聞こえる頃になると手を動かすことさえ難しくなってきた。

父は、上の階へ移動したが、変わらず手厚く気持ちの良い医療が提供されていた。寒さは増してきていたが、病室内は常に暖かく、外の様子などはベッドの上では感じることはできなかったに相違ない。それでも、母は、春になれば、また暖かくなる、草木も命も芽吹くと何度もなんども同じ言葉を重ねていた。年末になると、父はほぼ寝入ったままの状態となったが、母は、今度は、年が改まれば、気持ちも変わる、新しい年がもうすぐやってくると飽きもせず続けていた。年の暮れ、ノクターンを背景に、父に語りかける母の逆光のシルエットは、二つとない美しい画のように思われた。

 

小林先生は、その「本居宣長」の中で、「激情の発する叫びもうめきも歌とは言えまい。それは、言葉とも言えぬ身体の動きであろう。だが、私達の身体の生きた組織は、混乱した動きには耐えられぬように出来上がっているのだから、無秩序な叫び声が、無秩序なままに、放って置かれることはない。私達が、思わず知らず『長息』をするのも、内部に感じられる混乱を整調しようとして、極めて自然に取る私達の動作であろう。其処から歌という最初の言葉が『ほころび出』ると宣長は言うのだが、或は私達がわれ知らず取る動作が既に言葉なき歌だとも、彼は言えたであろう」と、歌の生まれ出ずる瞬間を描写している《「本居宣長」第23章、新潮社刊『小林秀雄全作品』第27集、261頁》。

「『歌』『詠』の字は、古来『うたう』『ながむる』と訓じられて来たが、宣長の訓詁くんこによれば、『うたう』も『ながむる』も、もともと声を長く引くという同義の言葉である。『あしわけ小舟』にあるこの考えは、『石上私淑言いそのかみささめごと』になると、更にくわしくなり、これに『なげく』が加わる。『なげく』も『長息ナガイキ』を意味する『なげき』の活用形であり、『うたふ』『ながむる』と元来同義なのである」と《同258頁》。

 

小林先生は続ける。「誰も、各自の心身を吹き荒れる実情の嵐の静まるのを待つ。叫びが歌声になり、震えが舞踏になるのを待つのである。例えば悲しみを耐え難いと思うのも、裏を返せば、これに耐えたい、その『カタチ』を見定めたいと願っている事だとも言えよう。捕らえどころのない悲しみの嵐が、おのずからアヤある声の『カタチ』となって捕えられる」《同264頁》。

 

正直に言ってしまえば、私は、当初、母の言動は尋常ではないと思ったし、母の中で知性に匹敵する何かが失われてしまったのではないか、とすら考えた。しかし、今思えば、母は自分に言い聞かせてもいたのだろう。そうでもしなければ、やはり、母は耐えられなかったのだ。私が思春期の頃、母は私が父を批判することを滑稽なほど絶対に許さなかった。そこまで、頼り切っていた夫が今や話すことさえ儘ならない。そんな事実は遣り切れない。紛れもなく、自分のために、ただ黙々と励まし続ける母の言葉は、他人からすれば、ほとんど荒唐無稽であったかも知れない。けれども、淀みなく、淡々と、できるだけ抑揚をつけず、繰り返される母の発声の表現の真実さは、やがて、私に、母の言葉をとてもよくできた嘘なのだと納得させる力を持っていた。考えてみれば、私たちはいつも生活の中で言葉を交わし合っている。結ばれた二人には、末長くお幸せにと、遠方の友との別れ際には、いつまでもお元気でと、そして、年の瀬には、どうぞ良いお年をと。母の発したものは、それと少しも変わらない。

 

昔私が手を引かれ通っていた幼稚園では、登園の時間に毎朝シューベルトの「ます」が流れていた。そのため、年間聞かされ続けた私は、不意に何処かであの歌曲の主題に出くわしたりすると、未だに身体が何かを思い出したような不思議な感覚に襲われるのだが、ショパンのノクターンもまた私に特殊な感情を呼び起こす特別な音楽になってしまった。

 

小林先生は、同じ箇所で、再び「あしわけ小舟」から本居宣長の言葉を引用している。「カナシミツヨケレバ、ヲノズカラ、声ニアヤアルモノ也。ソノアヤト云ハ、哭声ノ、ヲヽイヲヽイト云ニ、アヤアル也。コレ巧ミト云ホドノ事ニハアラネド、又自然ノミニモアラズ、ソノヲヽイヲヽイニ、アヤヲツケテ、哭クニテ、心中ノ悲シミヲ、発スル事也。モトヨリ、外カラ聞ク人ノ心ニハ、ソノ悲シミ、大キニフカク感ズル也。カヤウノ事ハ、愚カナル事ノヤウナレドモ、サニアラズ」《同263頁》。

 

所謂「好楽家」からすれば、ただの通俗名曲の一つに数えられるショパンのノクターンも、私にとっては、あの日々の母の声のアヤそのものだった。父の一周忌を終えた今でも、ルービンシュタインの紡ぎ出すピアノの音は、私の中で、夕映えの橙色の画に重なり、人生のように美しく響く。インテンポに弾くほど、響きは却ってしみ入ってくる、と聴こえるのは、私の空耳なのかも知れないが……。

(了)