ゴッホ、ミレーにまねぶ

坂口 慶樹

雨混じりの、蒸し暑い日であった。

今年の8月初旬、七夕祭りで賑わいを見せている仙台に、私はいた。夕刻、授業を終えた予備校生達が、三々五々集まり、気付けば、大きな教室は一杯になっていた。河合塾仙台校が、放課後に開催している「知の広場」で、現代文講師の三浦武さんの進行により、池田雅延塾頭と杉本圭司さんによる講演「小林秀雄にまねび、まなぶ」が始まった(*)。

 

そこで、池田塾頭は、「学問」と「学習」の違いについて、概ね次のように説かれた。

「予備校生の皆さんが今やっているのは、『学習』であって、『学問』ではない。『学習』とは、人間社会で生きていく上でのルール、換言すれば、既に誰かが発見したもの、産み出したものを習うこと。一方、『学問』とは、人類の未だ知らないことを明らかにし、人類のために貢献することである。それでは、『学問』をしていく上で、一体どういう心掛けが必要になるのか。小林秀雄先生は、『本居宣長』第十一章(新潮社刊『小林秀雄全作品』第27集所収)の中でこう仰っている。

「宣長が、その学問論『うひ山ぶみ』で言っているように、『学問』とは、『物まなび』である。『まなび』は、勿論、『まねび』であって、学問の根本は模倣にあるとは、学問という言葉が語っている」

小林先生は、模倣の達人として、モーツァルトとゴッホを挙げておられる。モーツァルトは、あらゆる音楽的手法を、知識として知るだけではなく、真似して再現して見せた。ゴッホは、ミレーや、日本の浮世絵を、何枚となく模写した。

そういう、模倣に模倣を重ねた、その先においてこそ、自分の真の個性に出会うことができるのである」

塾頭は、真剣な眼差しで聴き入る予備校生達に対して、噛んで含めるように説き、こういう趣旨の言葉で、話を結ばれた。

「皆さんは、来春の目標を目指して、まずは『学習』に邁進してください。晴れて大学生になった暁には、思う存分『まねび』、『学問』を実践してください。健闘を祈ります」

その言葉を聞き、力強く頷いた予備校生達の姿を目の当たりにして、30年前、京都の予備校に通っていた私は、当時の心境を思い出し、胸がはち切れそうになっていた。

 

私は、東京に戻ると、早速ゴッホの書簡集を読み直してみた。

彼は、とても率直な人らしく、気になっていることが、そのまま文面に頻出する。例えば、「ゴーギャン」「芸術家組合」「ルーラン」「ミレー」「日本画」という言葉を何度も目にする。

ゴーギャンとは、アルルの黄色い家で共に暮らし、「芸術家組合」を作ることが、ゴッホの永年の夢であった。しかし、切なる夢は、切なすぎる思い出として霧消した。

ソクラテスによく似た、アルルの郵便配達夫「ルーラン」は、数少ない友人の一人であった。あの災厄のような発作が起き、ゴーギャンが去った後の、汚れてしまった部屋を掃除してくれたのも、また「まるで老兵が初年兵をいたわるような寡言な厳しさと思いやりをもって」親身に接し続けてくれたのも、ルーランであった。

そして、「ミレー」と「日本画」は、まさに先の塾頭のお話の通り、ゴッホの「まねび」の対象そのものであった。小林先生も、「ミレー」について、こう書かれている。

「僕は、彼の手紙に現れるミレーという字を、幾つも幾つも追い乍ら、ここには、何かしら運命的とも呼ぶべき、深い出会いがある事を感じた。絵も見ない前に、ミレーという画家が、ゴッホに、少なくとも絵に没頭して以来最初の、そして恐らくは最大の影響を与えて了った、そんな風に感じた」(「ゴッホの手紙」、同第27集所収)

 

ミレーは、日本での人気も高く、さる2014年には、生誕二百年を迎えたこともあり、多数の解説書が出版されている。しかし私は、敢えてそれらに目を通したい気持ちを抑え、山梨県の甲府に向かった。ともあれ、小林先生がそこまで明言するミレーの原作と一対一で向き合い、単純率直に、その場で直覚するものを大切にしたかったのだ。山梨県立美術館への道すがら、海原のように広がる葡萄畑では、翡翠のように綺羅めく果粒の一つひとつが、初秋の太陽の光を浴びて、うんうんと、収穫直前の最後の成長のひと踏ん張りをしているように見えた。

この美術館は、自然に恵まれた「農業県山梨」に相応しいと、農民を多く描いたミレーの代表作を収集してきており、今や知る人ぞ知る「ミレーの美術館」となっている。

ミレー館に入る。山梨らしい赤ワイン色の壁紙が、諸作と溶け合って心地よい。

しかし、最初の作品「ポーリーヌ・V・オノの肖像」(1841-42年頃)を観た途端、私は、彼女の瞳に、雷に打たれたように釘付けにされてしまった。彼女は、ミレーの最初の妻であったが、病弱のため、結婚の三年後に他界した。まるで瞳そのものが、生きている。涙を溜めているようでもある。見つめていると、画中の彼女は、必死に私に話しかけようとする。が、思い余りて言葉にならぬ。気付けば私は、不首尾を承知の上で、彼女との対話を幾度となく試みていた。

続いて「落穂拾い、夏」(1853年)を観る。思っていたよりも小品である。刈り取った穀物の穂が、高く高く積み上げられていく作業を遠景にして、前景の三人の女性が、地面に残してもらった落穂を無心に拾っている。三人とも、真下の大地を凝視する。うち二人の腰は、痛いほどに曲げられている。そして、そこに会話は、ない。

このように、ミレーの作品には、重力を感じさせるものが多い。彼ほど、画中の人物が、鉛直方向、つまり真下にある大地を向いている作品、また、そうではなくても、目には見えぬ、力強い垂直の軸を感じさせる作品が多い画家は、いないのではないかと思う。この感覚は、実際に農作業に従事しなければ出せない、作家の野性に由来するものであろう。このことは、有名な「晩鐘」でも同様であるし、その他「種をまく人」「くわを持つ男」「葡萄畑にて」等、枚挙に暇がない。加えて、画中の人物の多くは、仕事中の農民であり、作業に一心に集中し、無言を貫いている。辛かろうが、苦しかろうが、そこに誇張や感傷性の表現はない。あるのは、ただ静謐のみ、である。

その他の作品も丹念に観て回り、こう思った。「私は農夫中の農夫です」と語っていたミレーにとって、闘うべき、かつ、祈るべき対象は、彼の伝記を書いたロマン・ロランが言うところの「万物が生まれでて万物がふたたび帰ってゆく、原初的な『無窮の』存在物である」大地という自然であったのではあるまいか。

 

一方、ゴッホにも、農民の家族を描いた、有名な作品「馬鈴薯を食う人々」(1885年、同第20集口絵参照)がある。一日の労働を終えた一家五人が、暗く煤けたように見える部屋の中で、馬鈴薯を食べている。五人の視線は、交わらぬ。料理の品数のみならず、団欒にあるべき会話も、ひたすら乏しい。

私が、この作品を持ち出してきたのは、農民画家と世間に呼ばれてきたミレーを、単に画題としてゴッホが模倣した、という趣旨ではない。本作を描いた二年半前に、ゴッホが書いたとして、小林先生が引用されている手紙に注目したかったのである。

「どんなに文明人になってもいいが、都会人になってはならぬ、田舎者でなければならぬ。どうも正確な表現が出来ないが、口を開かせずに働かせる何かしらが、人間の裡になければならない。喋っている事を超えた或るもの、繰返して言うが、行為に導く内的沈黙というものがなければならぬ。立派なことを仕遂げるには、そういう道しかない。何故か。何が起ころうと驚かぬ或る感情を人間は持つからだ。働く―次は? 僕は知らない―」(No.333)

 

私は、ゴッホの画を観ていると、静物画や風景画であっても、独特の緊張感を覚えることがある。ましてや、自画像であれば、なおさらである。それは、小林先生が「ゴッホの手紙」の冒頭で触れている、上野の東京都美術館で、「烏のいる麦畑」の複製画を観て、その前にしゃがみ込んでしまった時に覚えられた感じに近いのかもしれない。

「僕が一枚の絵を鑑賞していたという事は、余り確かではない。寧ろ、僕は、或る一つのおおきな眼に見据えられ、動けずにいた様に思われる」(「ゴッホの手紙」)

 

併せて、ゴッホの手紙を読み進めて行くと、こんなことを思う。彼にとって、闘うべき、かつ祈るべき対象は、風景や生物や人物というものに始まって、大地から生れ出た、自分の肉体という自然に行き着いたのではあるまいか、と。

少し長くなるが、ゴッホが、サン・レミイの、鉄格子の嵌まった窓のある療養院にいた1889年9月、大地に帰る、十ヵ月前に書いた手紙を引いておく。

「治療法などないのである。もし一つでもあるなら、それは仕事に熱中するだけだ。この事を、僕は以前にも増してつくづく考え込んでいる。そして、病気が醸成されていたパリ時代の僕より、はっきりと病気になって了った現在の僕の方が増しであろうと思う様になった。今仕上げた背景に火の燃えている肖像を、パリ時代の僕の肖像と並べて掛けて見れば、その事が君にも解るだろう。現在の僕はあの時よりは健康に、ずっとずっと健康に見えるだろう。この自画像は、手紙より現在の僕を、恐らく君によく語っているだろう、君を安心させるだろう、とさえ僕は考えているのだ。描き上げるには、かなり苦しかったがね」(No.604)

 

ところで、そもそもヴィンセント・ヴァン・ゴッホは、ジャン・フランソワ・ミレーの何をまねび、まなんだのだろうか。もちろん、ゴッホは、「驚くべきミレーの描線」の模写を繰返した。確かに、素描の勉強を本格的に始めた当初は、画中の人物が真下を向く、ミレーらしき画を多数描いている。しかし、その答えは、後のゴッホの作品を観て一目瞭然、というように、俄かに了解できる類のものではあるまい。

 

小林先生が、「ミレーに関する限り、僕の判断は、すべてこの書に負うのである」と仰るように、先生をして、ミレーがゴッホに最大の影響を与えたと確信させた、ロマン・ロランによる書物がある(『ミレー』、蛯原徳夫訳、岩波文庫)。

その中にあるミレーの言葉を、心静かに、噛みしめたい。

 

「美をつくりだすものは、描かれた物そのものよりも、それを描かずにはいられなかったという気持ちの方が大切です」

「(私は、)何も口に出してはいないが、人生の過重を自覚し、苦しみながらも叫び声や不平などもらさず、人間の運命の法則を忍びつつ、しかもその償いなどを誰にも要求していない、あの画中の人物などを、愛した」

「私は苦しみをのがれようとは思わないし、私を禁欲的にしたり無関心にしたりする信条を見つけ出そうとも思いません。苦しみは芸術家にもっとも強い表現力を与えるものかもしれません」

 

分かりきったことを言うようであるが、これはゴッホの言葉ではない。ミレーの言葉である。

 

気付けば私の身体の中で、新たな欲求が、ふつふつと湧いてきた。

ゴッホは、一体、もう一つの模倣の対象であった、日本画の何をまねび、まなんだのか。無私なる精神とともに、ミレーや日本画等の模倣を繰返してきた末に、ゴッホの作品に立ち現れた、彼にしか表現し得なかったもの、そういう画家の魂に、直に触れてみたい。その魂とは、小林先生の言う、例えば、各人の鼻の形状が千差万別である、というような「単なる個人々々の相違という意味」での個性ではない。「個人として生まれたが故に、背負わねばならなかった制約が征服された結果」(「ゴッホの病気」、同第22集所収)として作品に立ち現れて来た、画家の真の個性そのものである。

 

今まさに、小林先生が衝撃を受けたという、上野の山の美術館では、「ゴッホ展 巡りゆく日本の夢」展が開催中である。

 

(*)当日の講演の詳細は、「Webでも考える人」(新潮社)で、池田塾頭が連載中の「随筆 小林秀雄」二十二「模倣について」を参照ください。     http://kangaeruhito.jp/articles/-/2183

 

【参考文献】
*「ゴッホの手紙(上、中、下)」(硲伊之助訳、岩波文庫)
*「ファン・ゴッホの手紙」(二見史郎編訳、圀府寺司訳、みすず書房)
【参考情報】
山梨県立美術館
「ゴッホ展 巡りゆく日本の夢」
 東京展:東京都美術館、2017年10月24日~2018年1月8日
 京都展:京都国立近代美術館、2018年1月20日~3月4日

(了)