七
ブラームスの友人であり、八巻に及ぶ浩瀚なブラームス伝を書いた音楽評論家のマックス・カルベックによれば、ブラームスが第一シンフォニーの最初の着想を得たのは、一八五五年、二十二歳の時であった。
ブラームスは、作曲の際にとったノートやスケッチなどはすべて破棄してしまうのが常であり、音楽学者に対して、「私の死後、作曲の過程を勝手に推測しないでほしい」と要請するような人であったから、その二十二歳の時の着想が、現在の第一シンフォニーとどこまで関連があり、どのような経過を辿って最終的な形に至ったのかはほとんど何もわかっていない。しかし少なくとも、その頃からブラームスが交響曲を作曲するという大きな宿願を抱き、何度か作曲を試みながら挫折していたことは事実であった。たとえば一八五四年に作曲した二台のピアノのためのソナタを交響曲にしようとして、第一楽章をオーケストレーションするまでに至るが、結局断念してピアノ協奏曲に転換しているし、一八五九年には管弦楽のための四楽章のセレナードを交響曲に発展させようとして、やはりこれも果たせずに終わっている。
ブラームスの伝記に、現在の第一シンフォニーに直接繋がる記録が表れるのは、一八六二年、二十九歳の時である。六月、クロイツナッハ近くのミュンスター・アム・シュタインの山荘で共に休暇を過ごした友人のアルベルト・ディートリヒは、そこで草稿段階のハ短調の交響曲を目にしたと伝えている。またクララ・シューマンは、七月一日付のヨアヒム宛の手紙で、ブラームスから最初の交響曲の第一楽章のスコアを受け取った驚きを伝え、その冒頭部分をヨアヒムに紹介している。それは、後に完成する第一シンフォニー第一楽章の原型となるものであった。
その後十二年間、第一シンフォニーの作曲は、少なくとも歴史資料の上では中絶したかに見える。しかし出版社から「交響曲のことを忘れないように」との催促を受けていることや、作曲家マックス・ブルッフの書簡に、ブラームスの「交響曲のスケッチ」や「交響曲の楽章」についての言及が見付かるなど、その創作が水面下で進行していた痕跡は残されている。そして一八六八年九月十二日のクララの誕生日に、ブラームスは、アルプスで聴いたという角笛のメロディに歌詞をつけた楽譜をプレゼントするのだが、その旋律が、後に第一シンフォニー終楽章の冒頭で歌われるホルン主題となるのであった。
その第四楽章の作曲にブラームスが本格的に着手したのは一八七四年の夏になってからで、全四楽章が完成を見たのは、二年後の一八七六年九月、ブラームスが四十三歳の時であった。カルベックによって伝えられる最初の着想から数えると、実に二十一年の歳月をかけて作曲したことになる。しかも完成の数年前、ブラームスは、「私はけっして交響曲を作曲しないだろう」という言葉まで残しているのである。それ程までに、ブラームスにとって、ベートーヴェンの後に交響曲を作曲するということは、ほとんど実現不可能な大事業と思われたのだった。ある手紙の中で、彼は次のように告白している。
自分はベートーヴェンを大いに尊敬しており、ベートーヴェンがシンフォニーについてはすべてをやり尽くしたので、自分の背後にいるベートーヴェンを意識し、ベートーヴェンのシンフォニーを聴きながら、自分もシンフォニーを書くことは容易なことではない。
一方、最初の弦楽四重奏曲の成立についても、第一シンフォニーとまったく同じことが言える。ベートーヴェンの九つのシンフォニーが、交響曲というジャンルにおける前人未到の偉業であったのと同じように、ベートーヴェンの十六曲の弦楽四重奏曲もまた、この楽曲形式において「すべてをやり尽くした」と言っていい程の高みに達していた。もともとブラームスは、二十歳でシューマンを訪ねた時にすでに作曲済みの嬰ヘ短調とロ短調のカルテットを持参していたが、これは破棄された。現在のハ短調第一カルテットの起源、少なくともその要素は、この失われた最初のカルテットにあると見なされているが、ブラームスはその後も、少なくとも二十曲以上のカルテットを作曲し、破棄したと言われる。
第一カルテットは、一八六五年の末にはいったん初期稿が仕上げられ、翌年八月にクララの前で試演された。しかしその後も推敲が重ねられ、最終的に出版されたのは第一シンフォニーが完成する三年前の一八七三年、ブラームスが四十歳のときである(この時、イ短調のもう一つのカルテットと同時に出版された)。つまり弦楽四重奏というジャンルにおいても、その最初の一曲を産み落とすまでに、第一シンフォニーと同じく二十年の歳月を要したのである。
だが小林秀雄は、ブラームスがこの二曲をそれぞれ二十年もかけて完成させたという、その時間の長さだけをもって、ブラームスの「忍耐」と呼んだわけではなかった。また、ブラームスがベートーヴェンという偉大な先人に果敢に挑み、これを乗り越えようとしたところに「勇気」を見たということでもなかっただろう。「音楽談義」の中で、小林秀雄は、自分はもう世間を感動させるとか、これはちょっと上手いとかいうものは恥ずかしくて書けないと言い、ブラームスみたいに書きたいと思っているのはそういうことだと語っていた。つまりブラームスは、ベートーヴェン以上のものを作って世間を感動させてやろうとか、ベートーヴェンよりも上手いと言われるものを書こうとしたわけではないのである。第一シンフォニーと第一カルテットに費やした二十年とは、ベートーヴェンへの挑戦と超克の二十年ではなかった。少なくとも小林秀雄は、そうは考えていなかった。
指揮者のハンス・フォン・ビューローが、ブラームスの第一シンフォニーを「第十」と呼んで激賞したのは有名な話である。この音楽は、ベートーヴェンの九つのシンフォニーを継承する十番目のシンフォニーだというのである。しかしこの賛辞は、このシンフォニーが、ベートーヴェンの九つのシンフォニーの模造品であり、焼き直しであるとの批判と表裏一体でもあった。事実、この曲にはベートーヴェンのシンフォニーとのアナロジーが随所にあり、終楽章の主題がベートーヴェンの第九シンフォニー終楽章の主題とよく似ている点や、楽器編成や主題の扱いが第五シンフォニーを彷彿とさせること、何よりもハ短調で開始されてハ長調の勝利のコラールで終るという第五シンフォニーのイデー、「苦悩より歓喜へ」というベートーヴェンの音楽と思想の根幹を成す理念を再現しているという点で、正しくベートーヴェンの嫡子であり、模倣であった。そのことは、同じくハ短調で書かれ(この調性は、若い頃の小林秀雄の造語を借りれば、ベートーヴェンの「宿命の主調低音」であった)、ベートーヴェンのカルテットの書法を徹底的に研究した末に作曲された第一カルテットについても同様に言えるだろう。
ブラームスに対しては当時から、シューマンの「新しき道」に代表されるような「ベートーヴェンの再来」としての賞賛と期待が寄せられる一方で、新ドイツ楽派からの批判を中心に、「擬古典主義」とか「ベートーヴェンの二番煎じ」といった類の批判や皮肉が常にあった。今でも、四曲あるブラームスのシンフォニーの中で、ブラームスの本領が発揮されているのは二番以降のシンフォニーであり、ベートーヴェンの影が濃厚な第一シンフォニーには低い評価を与える専門家や好事家は少なくない。小林秀雄も、そのことはよく承知していただろう。しかし彼は、あくまでもベートーヴェンの模倣としての第一シンフォニーを取り上げ、この曲をブラームスが書き上げたことを讃え、ここにこの作曲家の忍耐と意思と勇気を観じて、幾度も聴き続けたのである。
「音楽談義」の最後のところで、「誰がわかるものか、ブラームスという人のね、勇気をね、君……」と呟いた後、小林秀雄は、「ブラームスだって、もっとすごい才能があれば、えらいことをしたでしょうけれども……」と付け加えている。それに続けて、「あとの兵六玉の……ではないですね……」と言っているようだが、聞き取れない。おそらく、彼が言おうとしたことは、次のようなことであったに違いない。
――もしもブラームスに、ベートーヴェンを凌駕する程の凄い才能が与えられていたとしたら、ベートーヴェンの音楽とは一線を画す革命的な音楽を発明して、音楽史を塗り替えようとしたかもしれない。しかしブラームスには、自分にはベートーヴェンを超えるような才能はないという非常に鋭い自意識があった。彼だけではない、そのような才能は音楽史上誰にも与えられてはいないという事実を誰よりも深く思い知っていたのである。それはまた、ブラームスのベートーヴェンに対する理解と尊敬の深度、すなわち彼の批評精神の鋭さの表れでもあった。同じくベートーヴェンに触発され、ベートーヴェンの音楽から出発したあらゆる浪漫派音楽家達、無数の「兵六玉」たちの中で、ベートーヴェンの音楽に対するブラームスの理解は群を抜いて深いものであった。だから彼は、リストやワーグナーのように、ベートーヴェンの先を行こうとする「未来音楽」を夢見たり、たとえばショパンやドビュッシーのようにベートーヴェンとは敢えて異なる道を歩いてみようとすることはできなかったのである。そして周りからは擬古典主義とかベートーヴェンの二番煎じと揶揄されながらも、ベートーヴェンが残した偉大な足跡と労苦の一つ一つを忠実に辿り、ベートーヴェンが実現した音楽の意味を完全に理解し、これを我が物とするところに自らの喜びを見出そうとした。言わば、「述ベテ作ラズ、信ジテ古ヲ好ム」の道を行くことが、作曲家としての自らの使命であり宿命であると自覚した人であったのだ。そういうブラームスの無私な努力の裡で、自ずとブラームス自身の真の個性が磨かれ、発揮され、遂にブラームスは、ブラームス以外の誰にも書けないような音楽を書き残すに至った。それが、ベートーヴェンと二十年間向き合った末に完成させた第一シンフォニーであり、第一カルテットであった。ここに、ブラームスの忍耐と意思と勇気のすべてがあるのだ。世間があっと驚くようなものを発明しようとすることや、他とは異なる個性を競うことよりも、それは遥かに勇気を要する仕事なのだ。だが世間は、これをベートーヴェンの模造品だと言うだろう。誰がわかるものか、ブラームスという人の勇気をね、君……。
(つづく)