小林秀雄「本居宣長」全景

池田 雅延

七 「源氏物語」味読による開眼

1

 

前回、宣長は、平安時代からずっとあり、宣長の時代にもごくありふれた言葉としてあった「もののあはれを知る」を、独自の思想で染めたと書いた。その「独自の思想」は、どういうふうに彼に生じ、どういうふうに育ったのだろう、それが今回の主題である。

すでに述べたところと重複するが、まずは要点を辿り直すことから始めようと思う。宣長二十九歳の年の「安波礼弁あわれのべん」に藤原俊成の歌が取り上げられ、「本居宣長」の第十三章に引かれている。

―俊成卿ノ歌ニ、恋セズハ、人ハ心モ無カラマシ、物ノアハレモ、是ヨリゾシル、ト申ス此ノアハレト云フハ、如何ナル義ニハベルヤラン、物ノアハレヲ知ルガ、即チ人ノ心ノアル也、物ノアハレヲ知ラヌガ、即チ人ノ心ノナキナレバ、人ノ情ノアルナシハ、タダ物ノアハレヲ知ルト知ラヌニテ侍レバ、此ノアハレハ、ツネニタダ、アハレトバカリ心得ヰルママニテハ、センナクヤ侍ン。……

宣長は、二十八歳の年に京都遊学から松坂へ帰った。「安波礼弁」はその翌年である。彼は、もうここで、「もののあはれを知る」を平安時代の貴族たちとはまったくちがった関心で受取っている。すなわち、平安時代の貴族たちにとっての「もののあはれを知る」は、日常生活において求められる美的情操としての趣味を解し、その方面の知恵教養を身につけることであった、が、宣長にあってはそうではない、人間の心というものの深さ、広さ、さらに言えば不可思議、そこに驚き、そこを見つめることが「もののあはれを知る」ということだと解しているのである。

そして宣長は、和歌史の上での「あはれ」の用例を調査して、先ず次のことに読者の注意を促すと前置きし、小林氏は第十四章に、「石上私淑言いそのかみのささめごと」の巻一から引いている。

―「阿波礼といふ言葉は、さまざまいひかたはかはりたれ共、其意は、みな同じ事にて、見る物、きく事、なすわざにふれて、ココロの深く感ずることをいふ也。俗には、ただ悲哀をのみ、あはれと心得たれ共、さにあらず、すべてうれし共、おかし共、たのし共、かなしとも、こひし共、情に感ずる事は、みな阿波礼也。されば、おもしろき事、おかしき事などをも、あはれといへることおほし」(「石上私淑言」巻一)……

だが、しかし、である。

―「あはれ」と使っているうちに、何時の間にか「あはれ」に「哀」の字を当てて、特に悲哀の意に使われるようになったのは何故か。「うれしきこと、おもしろき事などには、感ずること深からず、ただかなしき事、うきこと、恋しきことなど、すべて心に思ふにかなはぬすぢには、感ずること、こよなく深きわざなるが故」(「玉のをぐし」二の巻)である、と宣長は答える。「石上私淑言」でも同じように答えて、「新古今」(「新古今和歌集」)から「うれしくば 忘るることも 有なまし つらきぞ長き かたみなりける」を引用し、「コレウレシキハ、情ノ浅キユヘナリ」と言っている。……

―この考えは、彼の「物のあはれ」の思想を理解する上で、極めて大事なものと思える。彼は、ただ「あはれ」と呼ぶ「ココロウゴき」の分類などに興味を持ったわけではない。「阿波礼という事を、情の中の一ッにしていふは、とりわきていふスヱの事也。そのモトをいへば、すべて人の情の、事にふれて感くは、みな阿波礼也」(「石上私淑言」巻一)……

「あはれ」を、「哀しい」「かわいそう」というような、悲哀の心の動きに限って解するのは、この言葉の一面を取り立てているに過ぎない。これらは所詮、「あはれ」という言葉の一端である。この言葉の根幹は、うれしい、おもしろいなどもすべて含んで、人の心が物事にふれて様々に動くことにある、それらのすべてが「あはれ」なのである。

問題は、人の心というものの一般的な性質、さらに言えば、その基本的な働き、機能にあった。「うれしき情」「かなしき情」というのも、

―「心に思ふすぢ」に、かなう場合とかなわぬ場合とでは、情の働き方に相違があるまでの事、と宣長は解する。何事も、思うにまかす筋にある時、心は、外に向って広い意味での行為を追うが、内に顧みて心を得ようとはしない。意識は「すべて心にかなはぬ筋」に現れるとさえ言えよう。心が行為のうちに解消し難い時、心は心を見るように促される。……

すなわち、物事が思いどおりに運ぶときは、それをそうしたいと思った心はそれをそうする行為に取って代られ消えてしまう。しかし、物事が思いどおりに運ばないとき、心が行為に取って変られることのないときは、最初にそれをそうしたいと思った心を別の心が責めたりあらためたりする。そこに「意識」というものが現れる、つまり、

―心と行為との間のへだたりが、即ち意識と呼べるとさえ言えよう。宣長が「あはれ」を論ずる「本」と言う時、ひそかに考えていたのはその事だ。生活感情の流れに、身をまかせていれば、ある時は浅く、ある時は深く、おのずから意識される、そういう生活感情の本性への見通しなのである。放って置いても、「あはれ」の代表者になれた悲哀の情の情趣を説くなどは、末の話であった。そういう次第で、彼の論述が、感情論というより、むしろ認識論とでも呼びたいような強い色を帯びているのも当然なのだ。彼の課題は、「物のあはれとは何か」ではなく、「物のあはれを知るとは何か」であった。……

こうして宣長は、平安時代からずっとあり、彼の時代になってもごくありふれた言葉としてあった「もののあはれを知る」を、独自の認識論で染めた。そして彼は、「もののあはれを知る」ことで人の心のあるがままをあるがままに認識する、それが、人生いかに生きるべきかの要諦と確信したのである。

 

2

 

宣長の「石上私淑言」は、「安波礼弁」の五年後に成ったと見られているが、「石上私淑言」が成ったと見られる宝暦十三年には、宣長の「源氏物語」論「紫文要領しぶんようりょう」が成った。「紫文」とは「紫式部の文章」の意で、「源氏物語」の雅称である。小林氏は、先に引いた「彼の論述が、感情論というより、むしろ認識論とでも呼びたいような強い色を帯びているのも当然なのだ。彼の課題は、『物のあはれとは何か』ではなく、『物のあはれを知るとは何か』であった」に続けて、「紫文要領」巻下から引いている。

―此物語は、紫式部がしる所の物のあはれよりいできて、(中略)よむ人に物の哀をしらしむるよりほかの義なく、よむ人も、物のあはれをしるより外の意なかるべし。……

「源氏物語」は、読者に「もののあはれ」というものを知ってもらう、それが作者、紫式部の執筆意図である、だから読者も、この物語によって「もののあはれ」を知る、大事なことはそれだけである……。

では、「もののあはれを知る」とはどういうことか。

―目に見るにつけ、耳にきくにつけ、身にふるるにつけて、其よろづの事を、心にあぢはへて、そのよろづの事の心を、わが心にわきまへしる、これ事の心をしる也、物の心をしる也、物の哀をしる也、其中にも、なほくはしくわけていはば、わきまへしる所は、物の心、事の心をしるといふもの也、わきまへしりて、其しなにしたがひて、感ずる所が、物のあはれ也」(「紫文要領」巻上)……

これを承けて、小林氏は言った。

―明らかに、彼は、知ると感ずるとが同じであるような、全的な認識が説きたいのである。知る事と感ずる事とが、ここで混同されているわけではない。両者の分化は、認識の発達を語っているかも知れないが、発達した認識を尺度として、両者のけじめもわきまえぬ子供の認識を笑う事は出来まい。子供らしい認識を忘れて、大人びた認識を得たところで何も自慢になるわけではない。……

ここで小林氏が言っている、「宣長は、知ると感ずるとが同じであるような、全的な認識が説きたいのである」に関して、前回、氏における認識という言葉の根を見たが、ここでもう一度立ち止まり、氏が、「子供らしい認識を忘れて、大人びた認識を得たところで何も自慢になるわけではない」と言っていることの根もよく見ておこうと思う。というのは、小林氏が、「宣長は知ると感ずるとが同じであるような、全的な認識が説きたいのである」と言っている「認識」と、今日、私たちが言っている「認識」との間には相当のひらきがあり、そのため、ややもすると、小林氏がわざわざ「子供らしい認識」「大人びた認識」と並置して言ったところを読み落す恐れがあるからである。

そのひらきを一口で言えば、小林氏が言いたい「認識」は、「感じる」と「知る」とが常に同時に、一体で作動する「子供の認識」である。しかし、私たちがふだん、別段そうとも思わずに行っている「認識」は、私たちが子供から大人へと成長する間に「感じる」と「知る」とが分化し、「知る」が「感じる」を伴うことなく行われるようになっている「認識」である。「子供の認識」では、感受性と判断力とが常に一体であるが、「大人びた認識」は判断力すなわち理性が感性・感受性を押しのけて幅をきかす、そういう認識である。つまり「大人びた認識」は、自分自身の五官・五感はほとんど働かさず、外部からの情報を頭で分析し、それだけで「解った」としてしまう認識である。

小林氏は、終生、批評という文筆表現によって人生いかに生きるべきかを問い続けたが、その答は早くに出ていたと言ってよい。人間という生き物は、どういうふうに造られているか、その造られ方に副って生きる、これである。人間の造られ方に背いたり、抗ったりして生きようとしても生きられない、生きられたとしても、その人がこの世に生きる意味が自得され、心の幸福に到達するような生き方にはならないと言っていた。

しかし、人間という生き物は、ひいては自分という人間は、どういうふうに造られているか、これは誰にも明かされていない。一人一人が生きてみて、経験してみて、こうかこうかと仮説を積み上げ、日々を生きるという実地の実験と観察とで一つひとつ仮説を裏づけ、そのうえで自分には何ができるか、何をなすべきかを工夫する、それしかない、そしてこれが生きるということである。したがって、人生とは、死の瞬間まで人生とは何か、いかに生きるべきかという謎との格闘である、これが小林氏の人生観であった。

そういう人生観に立って、小林氏がまず確信に達していたことのひとつは、人間誰しも、死ぬまで半分は子供である、だからいくつになっても半分は子供でいようとしなければならないということであった。生きるために、生活するために、私たちは誰もが大人にさせられてしまうが、大人として生きるに必要な能率優先の即物的直観力とは別に、人生とは何かを正しく見てとる哲学的直観力は子供の頃の直観力に源泉がある。ところが大人になると、誰も彼もが子供であった頃の自分を見くびったり忘れてしまったりし、大人になってからこそ必要な「子供」を迷子にしてしまっていると小林氏は言うのである。

何事も、原初のありかたこそが真のありかたなのだ。「認識」もそうである。「知る」と「感ずる」とが同じであるような「子供の認識」、これが自分自身の、自分だけの人生をいかに生きるべきか、その仮説を積み上げるに不可欠の「認識」なのである。小林氏が、宣長の言う「もののあはれを知る」を前にして、「彼は、知ると感ずるとが同じであるような、全的な認識が説きたいのである。知る事と感ずる事とが、ここで混同されているわけではない……」と言った行間には、これだけのことが言われていたのである。

 

「知る」と並べて言われた「感じる」も同様であった。子供が大人になって、大人の分別でどうとでもなるような「感じる」を小林氏は言っているのではない。「子供らしい認識を忘れて、大人びた認識を得たところで何も自慢になるわけではない」と言ったあとに、すぐ続けて言っている。

―「感ずる心は、自然と、しのびぬところよりいづる物なれば、わが心ながら、わが心にもまかせぬ物にて、悪しくよこしまなる事にても、感ずる事ある也、是は悪しき事なれば、感ずまじとは思ひても、自然としのびぬ所より感ずる也」(「紫文要領」巻上)、よろずの事にふれて、おのずから心がウゴくという、習い覚えた知識や分別には歯が立たぬ、基本的な人間経験があるという事が、先ず宣長には固く信じられている。心というものの有りようは、人々が「わが心」と気楽に考えている心より深いのであり、それが、事にふれて感く、事に直接に、親密に感く、その充実した、生きたココロの働きに、不具も欠陥もある筈がない。それはそのまま分裂を知らず、観点を設けぬ、全的な認識力である筈だ。……

人間の心は、心そのものが全的認識能力を完備している、だから、わざわざ観点というものを設けて何かを見る、何かを観察するといった、人為的な使い方は必要ないのだと言うのである。だが、私たちは、またしても科学的なものの見方であるとか、歴史に対する史観であるとか、何彼につけて観点を設け、天与の全的認識能力を損ないがちだ。そこを衝いて小林氏は言う。

―問題は、ただこの無私で自足した基本的な経験を、損わず保持して行く事が難かしいというところにある。難かしいが、出来る事だ。これを高次な経験に豊かに育成する道はある。それが、宣長が考えていた、「物のあはれを知る」という「道」なのである。彼が、式部という妙手に見たのは、「物のあはれ」という王朝情趣の描写家ではなく、「物のあはれを知る道」を語った思想家であった。……

その「全的認識能力」を馳駆して宣長が見てとった「源氏物語」の作者、「『物のあはれ』という王朝情趣の描写家ではなく、『物のあはれを知る道』を語った思想家であった」紫式部に、私たちも会いに行くのである。

 

3

 

小林氏は、第十三章に入って、「もののあはれ」という言葉に正面から向きあう。「通説では、『もののあはれ』の用例は、『土佐日記』まで溯る」とまず言い、平安時代に、紀貫之が「土佐日記」に残した「もののあはれ」について言う。

鹿児かこの崎を船出しようとして、人々、歌を詠みかわし、別れを惜しむ中に、「楫とり、もののあはれも知らで、おのれし酒をくらひつれば」とあるその用法で、貫之が示したかったのは、「もののあはれ」と呼べば、歌の心得ある人は、誰も納得すると彼が信じた、歌に本来備わる一種の情趣である。……

紀貫之は、承平四年(九三四)十二月、土佐守の任期を終え、京へ向かって土佐(今の高知県)を船出した。「土佐日記」はその道中の日記風紀行文で、「楫とり」は貫之たちが乗った船の船頭である。

―「もののあはれ」という言葉は、貫之によって発言されて以来、歌文に親しむ人々によって、長い間使われて来て、当時ではもう誰も格別な注意も払わなくなった、極く普通な言葉だったのである。彼(宣長)は、この平凡陳腐な歌語を取上げて吟味し、その含蓄する意味合の豊かさに驚いた。……

―貫之にとって、「もののあはれ」という言葉は、歌人の言葉であって、楫とりの言葉ではなかった。宣長の場合は違う。言ってみれば、宣長は、楫とりから、「もののあはれ」とは何かと問われ、その正直な素朴な問い方から、問題の深さを悟って考え始めたのである。……

―「あはれ」という歌語を洗煉するのとは逆に、この言葉を歌語の枠から外し、ただ「あはれ」という平語に向って放つという道を、宣長は行ったと言える。貫之は「土佐日記」で、「楫とり、もののあはれも知らで」と書いたが、一方、楫とり達の取り交わす生活上の平語のリズムから、歌が、おのずから生れて来る有様が、鮮やかに観察されている。……

「平語」とは、日常の言語、普段の言葉である。宣長は、貫之が頑なに歌語と考えていた「もののあはれ」を、平語のなかに解き放つという道を行った。なぜかと言えば、貫之に「もののあはれも知らずに」と侮蔑気味に言われた楫とりたちであったが、その実、彼らの日常普段の言葉のリズムで、いくつもいい歌が生まれている。そのさまを、貫之が見てとってもいる、歌を詠むには必須と思われていた情趣「もののあはれ」であった、にもかかわらず……なのであった、これはいったいどういうことか、「もののあはれ」とは何なのか……。宣長は、楫とりの身になって考え始めたというのである。

 

小林氏は、そこまで言って、

―さて、ここで、「源氏物語」の味読による宣長の開眼に触れなければ、話は進むまい。……

と、「土佐日記」に注いでいた視線を、「源氏物語」に転じる。

これが、「源氏物語」という作品が、「本居宣長」に登場する最初である。小林氏は、第十一章を書き上げた後、雑誌連載を半年休み、「小林さん、本居さんはね、やはり源氏ですよ」という折口信夫の言葉を鼓膜に留めて「源氏物語」を熟読した。雑誌に復帰し、満を持して、第十三章のペンを握って、こう言ったのである。

氏の文章を読んでいこう。

―開眼という言葉を使ったが、実際、宣長は、「源氏」を研究したというより、「源氏」によって開眼したと言った方がいい。彼は、「源氏」を評して、「やまと、もろこし、いにしへ、今、ゆくさきにも、たぐふべきふみ(匹敵する書)はあらじとぞおぼゆる」(「玉のをぐし」二の巻)と言う。異常な評価である。冷静な研究者の言とは受取れまい。率直は、この人の常であるから、これは在りのままの彼の読後感であろう。彼は「源氏」を異常な物語と読んだ。これは大事な事である。宣長は、楫とりの身になった自分の問いに、「源氏」は充分に答えた、と信じた、有りようはそういう事だったのだが、問題は、彼自身が驚いた程深かったのである。……

したがって、小林氏の言う「開眼」は、比喩ではない。宣長の一生を画した事件、そうまで言っていいほどに、「源氏物語」の味読は痛切な経験だったのである。歌人であった紀貫之に、「もののあはれも知らずに」と蔑まれた楫とりの側から、「楫とりの身になって」、「もののあはれ」という言葉を見直してみれば、果たして楫とりたちは「もののあはれを知らない」と言ってしまえるのだろうか、実は、それどころではないのではないか、これが宣長の抱いた問いであった。

―「土佐日記」という、王朝仮名文の誕生のうちに現れた「もののあはれ」という片言かたことは、「源氏」に至って、驚くほどの豊かな実を結んだ。彼は、「あはれ」の用例を一つ一つ綿密に点検はしたが、これを単に言語学者の資料として扱ったわけではないのだから、恐らく相手は、人の心のように、いつも問う以上の事を答えたのであろう。ここでも、彼自身の言葉を辿ってみる。―「すべて人の心といふものは、からぶみに書るごと、一トかたに、つきぎりなる物にはあらず、深く思ひしめる事にあたりては、とやかくやと、くだくだしく、めめしく、みだれあひて、さだまりがたく、さまざまのくまおほかる物なるを、此物語には、さるくだくだしきくまぐままで、のこるかたなく、いともくはしく、こまかに書あらはしたること、くもりなき鏡にうつして、むかひたらむがごとくにて、大かた人のココロのあるやうを書るさまは、―」という文に、先きにあげた「やまと、もろこし」云々の言葉がつづくのである。……

―してみると、彼の開眼とは、「源氏」が、人の心を「くもりなき鏡にうつして、むかひたらむ」が如くに見えたという、その事だったと言ってよさそうだ。その感動のうちに、彼の終生変らぬ人間観が定著した―「おほかた人のまことのこころといふ物は、女童めのわらはのごとく、みれんに、おろかなる物也、男らしく、きつとして、かしこきは、実の情にはあらず、それはうはべをつくろひ、かざりたる物也、実の心のそこを、さぐりてみれば、いかほどかしこき人も、みな女童にかはる事なし、それをはぢて、つつむとつつまぬとのたがひめばかり也」(「紫文要領」巻下)。……

宣長の開眼は、人の心に向ってだった。

―彼は、非常な自信をもって言っている、「此物がたりをよむは、紫式部にあひて、まのあたり、かの人の思へる心ばへを語るを、くはしく聞クにひとし」、「作りぬしの、みづから、すぐれて深く、物のあはれをしれる心に、世ノ中にありとある事のありさま、よき人あしき人の、心しわざを、見るにつけ、きくにつけ、ふるるにつけて、そのこころをよく見しりて、感ずることの多かるが、心のうちに、むすぼほれて、しのびこめては、やみがたきふしぶしを、その作りたる人のうへによせて、くはしく、こまかに書顕かきあらはして、おのが、よしともあしとも思ふすぢ、いはまほしき事どもをも、其人に思はせ、いはせて、いぶせき心をもらしたる物にして、よの中の、物のあはれのかぎりは、此物語に、のこることなし」(「玉のをぐし」二の巻)。宣長は、此の物語をそういう風に読んだ。……

これが、まず第一の開眼である。人間の心は、一概にこうとは言い切れず、千変万化の現れ方をする。それを「源氏物語」は細大漏らさず描き出している。その、人の心の微妙な陰影までが描き出されているこの物語は、一点の曇りもない鏡を見るように鮮やかで、ここまで見事に人の心が描かれているさまは較べるものとてない。しかも、そこに描かれた人の心のさまは、作者自身がすぐれて深く「もののあはれ」を知ることのできる人であり、そういう作者が、見聞きしたり経験したりして心に感じたことを自分の心のうちには留めておけなくなって、自らつくりだした作中人物に託して詳しく細かに書き表したものである、この世の「もののあはれ」は、すべてここに尽くされている……。

 

 

「開眼」は、宣長の二つの大きな驚きによって成った。一つは、人の心とはこれほどまでに広大なものか、しかもこれまで思いこまされがちだった心のありかたとは真反対で、心は本来弱々しいことかぎりなく、だらしないほどのものだという驚きである。そしてもう一つは、そういう心のありさまを隅々まで知って、それを生き生きと言葉に写し出した紫式部という天才がいた、という驚きである。

この宣長の二つの驚きが、「もののあはれ」という言葉を歌語から平語へと解き放ち、人間の生活感情すべてを言い表す言葉として「もののあはれ」をまったく新たに迎え入れたということであった。紫式部は、「もののあはれ」の何たるかのみならず、「もののあはれ」はそれをそうと知ることによって人生のよすがとなるということを「源氏物語」によって示してくれた、宣長は、その「源氏物語」を味読することによって、「もののあはれ」とは、「もののあはれを知る」とはをどっしりと腹に入れた、これが「源氏物語」を味読することによってもたらされた宣長の開眼であった。

しかし、宣長が、「源氏物語」の味読によって「もののあはれ」の指すところを知り、「もののあはれを知る」ことの真意を解するに至ったのは、物語を読むより先に歌を詠むという、十九歳の頃に目覚めてこのかたの、宣長自身の切実な衝動が先にあったからである。「紫文要領」から「あしわけ小舟」へ遡るときである。

(第七回 了)