編集後記

池田 雅延

 

今号の「美を求める心」、坂口慶樹さんのタイトルは「ゴッホ、ミレーにまねぶ」で、ミレーを慕い、ミレーを真似ることに情熱を燃やしたゴッホは、ミレーの何をまねび、まなんだかに思いが馳せられている。

私たちの「小林秀雄に学ぶ塾」も、「小林秀雄をまねぶ塾」すなわち「模倣する塾」である。塾生の一人ひとりが、黙って何度も小林秀雄を読む、読みながら一人ひとりが自分の経験と工夫によって、どうすれば上手に小林秀雄になりきれるか、ということは、小林秀雄の生き方を真似しきれるか、そこに心を砕いている。そのそれぞれの工夫が、思いがけない小林秀雄となって現れる、それが小誌『好・信・楽』のエッセイである。

今月は、特にその思いがけなさがきわだった。村上哲さん「数式を詠む」は数学の学徒という自分が、越尾淳さん「本居宣長の冒険」は中央省庁の官僚という自分が、謝羽さん「悲しみはなぜ大切なのか」は星野道夫にも思い入れの深い自分が、いまこういうふうに小林秀雄になりつつあるということを書いてくれた。それは小林秀雄を鏡として、そこに自分自身を映し出すということであったが、数学と歌、官僚と「古事記」、星野道夫のアラスカと歌という、思いがけないといえば思いがけないアナロジーが示され、小林秀雄が新しい光のなかに浮かび上がった。

 

 

「小林秀雄 その古典との出会い―堀辰雄と林房雄を通して」を寄せて下さった石川則夫氏は、現代における小林秀雄研究の第一人者である。

十年ほど前のことだ、小林秀雄が昭和四十年の十一月、國學院大學で行った講演のテープが見つかっているが、これをどう扱うかについて相談したいと知人を介して打診があった。当時、石川氏と面識はなかった、しかし、どこにもまだ知られていない小林先生の講演テープが出てきたとなれば気が逸る。さっそく訪ねていって経緯を聞き、講演内容そのものを聞かせてもらって、「新潮CD 小林秀雄講演」への収録を提案した。

幸い、國學院大學と、小林先生の息女、白洲明子さんの同意も得られ、平成二十二(二〇一〇)年四月、同CDシリーズの第八巻「宣長の学問/勾玉のかたち」として発売した。言うまでもなく、石川氏に解説を書いてもらった。

以来、諸事にわたって一方ならぬご厚情をかたじけなくしているのだが、今回本誌にいただいた「小林秀雄 その古典との出会い」も格別である。これは、紛れもなく第一線の学界誌に載せられるのが至当と言えるほどの論考である。だが、学術論文の詰屈さはない。それどころか、小林秀雄に人生の舵を大きくきらせた二人、堀辰雄と林房雄のこなしや口ぶりまでもが生き生きと感じられ、「文壇思想劇」のさわりとも言いたくなるような臨場感がある。

ボードレール、ランボーなどのフランス文学でスタートを切り、ほとんど同時にロシア文学に立ち向かい、ドストエフスキーとの格闘は三十年にも及んだ小林秀雄であったが、四十歳前後から日本の古典に正対し、後半生は「無常という事」をはじめとしていわゆる日本回帰が顕著になり、最後は「本居宣長」まで行った。この西洋から日本の古典へという舵を、小林秀雄にきらせた動因は奈辺にあったか、これは小林秀雄研究者のみならず、読者にとっても大きな関心事であった。

しかしそこには、ずっと濃い霧がたちこめていた。石川氏の今度の論考によって、ずいぶん広く、また遠く、見通しがきくようになった。研究者の方々にはもちろんだが、十二年かけて小林先生の「本居宣長」を読んでいる塾生諸君には、ぜひとも読んでおかれるようにとお薦めする。

 

 

日本の古典といえば、私は入社以来十五年間、新潮社で「新潮日本古典集成」の編集にも携わった。古典は現代語訳で読んではいけない、古典は意味よりも姿である、姿に親しむことが大事である、現代語訳はその姿を隠してしまう、だからいけないと常々言われていた小林先生は、「新潮日本古典集成」の傍注方式をたいそう誉めて下さった。

傍注というのは、「源氏物語」なら「源氏物語」の本文のすぐ横に、現代人には見当のつかない言葉や章句に限って小字で現代語訳を添える、その現代語訳を言うのだが、小林先生は、刊行開始前からこの傍注に関心を寄せられ、刊行開始後は新刊が出るたび私に感想を語られた。

その「新潮日本古典集成」の企画立案者であり、傍注方式の導入者であった新潮社の元編集者、谷田昌平さんの展覧会が、東京・町田の「町田市民文学館ことばらんど」で催されている(「編集者・谷田昌平と第三の新人たち展」、12月17日まで)。谷田さんは、「古典集成」の前には「純文学書下ろし特別作品」のシリーズを成功させ、安部公房の「砂の女」、遠藤周作の「沈黙」など、今日では現代文学の古典とされている名作をいくつも世に送っていた。

私にとっては大先輩という以上に大恩人だが、小林先生たちが健在で、日々健筆をふるっていられたころ、谷田さんのような編集者は、出版各社に三人か四人、必ずいた。幸いにしてこの展覧会には、小林先生と同時代に生きて、先生を仰ぐとともに怖がっていた作家たちの手紙や原稿も展示されている。塾生諸君がこの展覧会を観ておいてくれれば、より濃厚な時代の空気感とともに小林先生の話を聞いてもらえるだろう。

作家の展覧会はけっこう催される。しかし、編集者が展覧会の対象になるということはめったにない。谷田さんのような展覧会は、空前と言っていいだろう。ではなぜ谷田さんの場合は可能だったのか。谷田さんが、敏腕の編集者であると同時に、最も知られた堀辰雄の研究家だったからである。戦後すぐ、諸人に先んじて堀辰雄研究を志し、手探りで作った年譜に堀辰雄自身の加筆を受けるなど、今日の堀辰雄研究の基礎を築いた。それが縁で「堀辰雄全集」を企画していた新潮社に呼ばれもした。そういう谷田さんであったから、自らの足跡保存も綿密だったのである。

 

今月は、図らずも堀辰雄によって大きく視界がひらけ、多くの思い出が油然とわいた。

(了)