言霊について

橋本 明子

毎朝、毎晩、小林秀雄先生の事を考えている。通勤電車で押し合いへし合いしながら、小林先生の『本居宣長』や、池田雅延塾頭の『随筆 小林秀雄』(『Webでも考える人』連載)を読む。読むたび、富士山の麓に立った小人の気持ちになり、到底、小林先生のように生きることはできないと悟るが、このように生きた先生に強い憧れを抱く。本物に触れながら「よく考え、よく生きる」、それはどのような事なのか、そうすることで何を見たり感じたりできるようになるのか、今さらだが私も、残りの人生で少しずつ、学びたいと思っている。

 

山の上の家で月に一度、池田塾に参加し、池田塾頭の言葉から、様々な私の間違った思い込みを知ることは、自身の無知を思い知らされて辛いものではあるが、本当に得難い経験である。知らなかった、気づかなかった世界へ、親切に導いていただいている。

 

例えば昨年(2017年)10月、私が初めて立った質問は、「言霊について」であった。池田塾頭は、言霊について、次のような説明を下さった。

 

「言霊とは、人間の言語活動を成り立たせているものであり、その場その場で、思いもよらない意思の伝達を成立させているものでもある。一方、人が成長の過程で、生まれた時とは違う自分を獲得するように、言霊も成長する。また、時代の変遷に伴い、言霊は従前の働きを失ったり、自身を鍛えて蘇ったりする。つまり、言霊は、日常性と歴史性を備えているものである」

 

こうして、10月の塾では、言霊には日常性のみならず、歴史性があることを知った。そして、翌11月の塾では「言語は主体的に生きている。辞書に載っている言葉の意味は、決して定まったものではない」、つまり、そこに言霊が存在していることを、より深く理解した。

 

同時に、生き物である言葉を、日頃無意識に使っていることを思って恐ろしくなり、時に無機質な物として、乱暴に扱ったことを深く反省した。続く午後の歌会では、池田塾頭の「(その言葉を使っては)情景を謳うのではなく、説明する日本語になってしまうよ」という、ある歌への一言から、これまで私は、何かを説明するための日本語しか使ってこなかったことを知って目が覚めた。

 

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その池田塾頭が11月の塾で、「小林先生を知るために、先生の生きた時代感を知ってほしい」と、お薦めになった特別展「没後10年 編集者・谷田昌平と第三の新人たち展」(於:町田市民文学館ことばらんど)に足を運んだ。池田塾頭は、この企画段階から力を入れて支援されたという。ご事情により行くことが叶わなかった方もいらっしゃると思うので、ここで少し展示の様子をご紹介したい。

 

会場最寄りの町田駅は、複数の路線が乗り入れる大きな駅だった。クリスマスの飾り付けが始まった商業ビル、人々で賑わう飲食街を抜け、「市民文学館」に辿り着いた。町田には古くから多くの文人が住んでいたことも開設の背景にあるのだろう、ここは、言葉や文学の魅力を伝えるための公共施設だという。1階には資料館、その左手の階段を上って2階の会場に一歩入ると、そこは、活気溢れる昭和の文学界だった。展示室には、言霊が満ちていた。

 

谷田氏は1923(大正12)年、神戸市生まれ。大阪府立池田師範学校、東京高等師範学校を卒業して、京都帝国大学文学部に進み、卒業論文として「堀辰雄論」をまとめた。「(当時の文学は)荒廃した戦後の文学愛好者の心を潤した」と、展示室の壁にあった。戦後とは、すべての国民が渇望を満たそうとした時代だった。

 

大学卒業後、谷田氏は、大阪府立桜塚高校の教諭として働き始める。一方で、堀辰雄研究をさらに進め、1953年(昭和28年)、「堀辰雄全集」の編纂に参加したのを契機に新潮社に入社、名編集者として歩み出す。池田塾頭も、後輩編集者として教えを受けたそうだ。

 

谷田氏が手掛けたのは、『武者小路実篤全集』、室生犀星『杏っ子』、幸田文『流れる』、安部公房『砂の女』、遠藤周作『沈黙』など、誰もが知る話題作であるという。展示室には、骨太で個性あふれる文豪らの写真と、当時発刊された本や、その原稿が並ぶ。原稿用紙の文字も、几帳面だったり芸術的だったり、それぞれ極めてユニークである。カメラが趣味だったという谷田氏撮影の写真の中で、文豪らは肩を近付け、打ち解けたおおらかな笑顔を見せたり、話す者を一心に見つめ、その言葉に耳を傾けたりしている。

 

展示室の壁に、遠藤周作の言葉があった。

 

「あの頃のことを思い出すと、皆、仲間の各作品に、注意ぶかく、それぞれ影響を与えたり、受けたりしたものである。少くとも私にはどんな日常的な話も、この会の連中の口から出ると、面白く感ぜられたものだ」(『構想の会のこと』より)

 

構想の会とは、後に「第三の新人」と呼ばれる小説家グループの母体である。遠藤周作が構想の会で抱いた心情は、まさに、私が池田塾で得たそれだと思った。人を信じ、「身交う(むかう)」場所、それが池田塾である。

 

私的な話で恐縮だが、谷田氏が特に活躍された昭和40年代、50年代は、私の幼少期に当たる。これまでの人生の中で最もゆっくり時間が流れ、若い家族が全員揃って笑って過ごした呑気な時代だ。展示された本の紙質、活字の大きさや形、装丁や挿絵の色やタッチ、すべてが当時そのもので、懐かしかった。

 

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私の今の職場は、リベラルアーツ、換言すれば、講義型ではなく対話型の、少人数による全人教育を中心に据える私立大学の事務室である。その大学の職員である私の勤務時間のほとんどは、次々に届くメールを捌いたり、運営上の仕組みを作るため打ち合わせたり、資料を作ったりするために充てられる。そこでは、効率的な手法と、平易で短い言葉がよしとされる。

 

その一方で職員には、人がよく生きるための教育とはどのようなものか、そのための組織や制度をどう組み立てるのかといった、教員の議論を支援する仕事もある。また、受験生や高校生、そして彼らの家族、母校を思う同窓生に、自学の現状や教育の意義を説く場面もある。時には、学生の悩みを聞くこともある。ところが、日頃、短い時間で合理的判断を繰り返すだけの頭では、「どのような教育を追求すべきか」について、よく考えることは難しい。学生に語りかける言葉も選べない。

 

私が池田塾への入塾を希望したのは、このような毎日を過ごす中で「若者の将来に責任を持つ者の端くれとして、日常とは違う視座を持たなくては」と、思うようになったからである。多くの社会人は、そのような事は重々承知で、多忙なスケジュールの合間を縫い、それぞれの方に合った様々な方法で、よく考え、よく生きるための努力を重ねてこられているのだろう。

 

最後に、ぜひ池田塾の皆様と共有したいことが一つある。私の勤める大学で、かつてプラトンを教えていた、学生から大変慕われた哲学の教員は、元旦には必ず本居宣長の『うひ山ぶみ』を読んでいたそうだ。私にこの事を教えてくれた教員は、所々鉛筆で書き込みのある『本居宣長』(昭和52年10月30日発行 昭和52年12月15日4刷)を見せてくれた。よく考え、よく生きることを志向する人の辿り着く先は、同じなのかもしれない。

(了)