平成30年3月1日、
小林秀雄先生没後35年。
春の嵐の予報を裏切り、北鎌倉の東慶寺には、柔らかな日差しがたっぷりと降り注いでいた。明け方の激しい雨が洗った空、真っ黒な土の上に椿、風が運ぶ梅の香――小林秀雄先生のご命日の朝、墓前で、小林家ご家族が再会された。ご家族とは、墓中の小林先生の父豊造さんと母精子さん、小林先生と喜代美夫人、そして、墓前に立つご長女・白洲明子さんと、明子さんのご長女・千代子さん、親子四代、6名である。すらり長身の明子さんと千代子さんは、ささっと手際よく、枝ぶりのよい桜と瑞々しい菜の花を墓前に生け、線香を手向けられた。今年の墓参には、池田雅延塾頭と塾生十余名が、お供した。
その後、山の上の家まで徒歩で約20分。歩き慣れた道を足早に進む母娘と、その前後に塾頭、塾生の一団。左に折れる道の角で、所用で東京に向かう千代子さんと別れ、明子さんは上り坂をスタスタと進む。1年ぶりに訪れた山の上の家の門の前に立ち、溌剌とした声で「昔は、この坂道を上がって山越えすると、建長寺に出たのよ」と、幼い頃の思い出を教えてくださる。
明子さんが山の上の家に住んだのは、昭和23年(11歳)から40年(28歳)までの17年間。ちょうど思春期、そして自立を志して東京で働き出した頃だった。学校や職場から帰ると、いつも父・秀雄は、応接間の長椅子に寝転び、レコードを聴いていた。
平成30年を生きる私たちも、明子さんを囲んで、塾生三浦武さんの選んだレコードを3枚、昭和4年(小林先生文壇デビューの年)に作られた蓄音機に載せて聴いた。1枚のレコードが終わるまでの時間は、約4分。明子さん曰く「レコードはCDと違って短い時間で終わるのね。昔、レコードを替えるのは、私の役目だったのよ。だから、せっかちになったのかもしれないわね」。そして、2枚目のレコードに針が落ちた。音の一つひとつ、言霊ならぬ音霊が、イングリッシュ・ブラウン・オークの蓄音機を震わせ、日本家屋を抜けて、開け放たれた窓から庭に流れ出す。その先、遥かに見えるのは、いつもの、波がきらきらと光る海。
「私が小学生の頃、夏は毎日のように、一緒に海に行きました。そのころ住んでいた扇ヶ谷の家からは、私の足では海まで何十分もかかりましたよ」。冬に雪が降れば、鎌倉の坂道は住民たちの簡易ゲレンデとなった。気まぐれなスキーヤーが去った後、登校前の雪かきは、明子さんの仕事だった。「当時はどこの家でもそうでしたけど、我が家の前で転ぶ人が出てはいけない、と言われていたからね。踏み締められた後の雪かきは大変だったけれど、そのうち楽しくなりました」。父はかつて、野球少年でもあった。「キャッチャーミットなんてない時代に、キャッチャーを任されて。練習が終わった頃には、手がぱんぱんに腫れてしまったそうよ」と、活動的な一面を紹介してくださった。
明子さんは他にも、小林家の日常の風景を、次々に、いくつも語ってくださった。
山の上の家での父の朝は書斎の窓辺で執筆、お昼は近くに食べに行ったり自宅で摂ったり。夜には、小林家の離れに一時期一家で住まわれていた大岡昇平さんや、鎌倉在住の文士や編集者らとの一献の時間があった。酒を間に置いて議論の尽きない面々の側で、幼い明子さんは寝ていた。「客間は、家の中で一番あたたかい部屋だったからね」。だから明子さんは、批評家としての父の顔も知っている。
一方で、ごく普通の、父娘の暮らしもあった。
せっかちな父娘が道を歩いていると、近所の人に「どこに行くの」と尋ねられ、「散歩です」と答えたところ、「その早足で」と驚かれたこと。父は、考え事をすると周りが見えなくなるため、よく置いてけぼりにされたこと。開館したばかりの県立近代美術館に、しばしば二人で絵を観に行ったこと。だから今も、美しいものが好きなこと。山の上の家の水道は、当時は十分な水圧がなく、夜だけちょろちょろと蛇口から流れる水道水をやかんや鍋に溜めておいて飲み水にしていたこと。父は毎日一升瓶2本を背負い、小町通り交差点傍にある鎌倉十井の一つ「鉄ノ井」まで水を汲みに行き、家に戻ると、「うまいぞ」と言って、その水を飲ませてくれたこと。飲み水以外は、敷地にあった井戸を使い、雨水はすべて地下に溜めてそれも使っていたこと。宿題を教えてと頼むと、ううむ、と真剣に考え始めてしまい、しびれを切らした明子さんが遊びに出て帰ってくると、奥から「わかったぞ」と声がして解き方を教えてくれたこと。小さい頃は時に父の雷が落ち、大きくなれば娘が父を叱った日もあったこと。
そして、父は生涯、家族を守ったこと。
戦時中も、小林家は鎌倉で暮らした。戦況が悪化し、鎌倉の住民のなかには一家で疎開したり、年寄と子供だけを疎開させたりする家もあった。年寄と子供を抱えたわが家はどうすべきかを考えるために、父は市内を見渡せる山に登った。そこから見下ろした鎌倉にはたくさんの谷戸(山と山の間の谷)があって、その谷に点在する家は空からの集中砲火を浴びることはまずあるまいと思ったのだと、後に明子さんに話したそうだ。また、文士の妻は質屋通いが当たり前の時代、父は締切りを必ず守り、妻は質屋通いをせずにすんだらしい。「無茶苦茶していたけれど、考えることは、考えていたんだね」と、明子さんは思っている。
最後に、今も心に残る、父の姿を教えてくださった。
扇ヶ谷時代、母屋と父の書斎とは濡れ縁でつながっていた。暗くなってそこに置きっぱなしになっていた芝刈鋏を踏みつけ、幼い明子さんが踵をざくりと切ったことがあった。救急病院などない時代だ。驚いた父は、何時間も明子さんの傷口に手をかざしていた。そのうち、気がつくと、噴き出ていた血は止まっていた。その姿を見て、「あぁ、父親なんだな、と思ったのよね」。それは、大事な娘の怪我を、何とか治したいという、強い気持ちの表れだったのだろうが、「父は、晩年の母の心を支えるため、母が信じていた、いわゆる『お光さま』に入信していましたから、あれは、お光さまの手当てだったのでしょう」。この思い出話を語っていた明子さんは、ふいに「まぁ、父の心には、確かに神様はいましたよ」と言った。その時、何が明子さんの心に浮かんだのだろうか。
目の前の父のあるがままを、そのまま受け止め生きてこられた、明子さん。率直にお話くださる、伸びやかで寛容な心。小林先生が大切に育てられた明子さんは、人として大切にすべきことを、私共に丁寧に伝えてくださった。
明子さん、貴重なひと時を、どうもありがとうございました。
(了)