遺言書へむかう道

溝口 朋芽

小林秀雄氏の「本居宣長」で、いきなり第1章から紹介されている宣長の遺言書は、読むものを仰天させるような特異な内容となっている。冒頭の書き出しからして奇妙で、忌日や時刻の定め方に始まり、小林氏が「殆ど検死人の手記めいた感じ」と表現する、遺体の取り扱い方、その始末等々が続き、山室の妙楽寺に埋葬を指定し、さらに菩提寺である樹敬寺には空送カラタビとすること、妙楽寺の墓については仔細に墓所地取図まで描き、桜を植えること、等々、読み手はどう捉えてよいものか戸惑う、大きな謎である。

そして、「本居宣長」の、遺言書について書かれた章の最後は次のような言葉で締めくくられている。彼の最初の著述である「葦別小舟アシワケヲブネ」に、「もう己の天稟に直面した人の演技が、明らかに感受出来る」のだが、「幕切れで、その思想を一番よく判読したと信じた人々の誤解を代償として、演じられる有様を、先ず書いて了ったわけである」、こう言って第2章が終わる。

宣長の残した遺言書を謎と受取ったのは、私だけではなく、宣長のそばにいた人々をも誤解させるようなものだった、ということのようだ。そしてますます疑問が深まる中で、第50章まで読み進めた最後にはこう言われている。「もう、終りにしたい。結論に達したからではない。私は、宣長論を、彼の遺言書から始めたが、このように書いて来ると、又、其処へ戻る他ないという思いが頻りだからだ」。なぜ小林氏はこう言わざるを得なかったのであろうか。

 

「本居宣長」の最終章である第50章の冒頭では、宣長が古学の上で窮めた、上ツ代の人々の「世をわたらふ」にあたっての安心について、門人達に説明することの難しさがつづられている。門人達の質疑に答えたところを録した「答問録」では、「小手前の安心」というものだけは得たいと思う門人に対して、「小手前の安心は無い」としか言いようがない宣長が「くだくだしい」物の言い方をしている。道の問題は、詰まるところ、生きて行く上で、「生死の安心」が、おのずから決定して動かぬ、という事にならなければ、これをいかに上手に説いてみせたところで、みな空言に過ぎない、と宣長は考えていて、神道にあっては、「安心なきが安心」それこそが「神道の安心」である、と言い切る。つまり、上古の人々の心には「私」はなく、ただ「可畏カシコき物」に向かっており、測り知れぬ物に、どう仕様もなく捕えられていると考えていた。その上古の人々の示した「古事記」の「神世七代」を読み終え、宣長は「感嘆した」と書かれているが、「神世七代」に到達する、その途上で、「源氏物語」についてのもうひとつ重要な見解がある。

 

光源氏の死を暗示する表題があるだけで、本文の存在しない巻である「雲隠の巻」について、何故、作者の紫式部は、物語から主人公の死を、黙って省略して、事を済まさず、「雲隠の巻」というような、有って無きが如き表現を必要としたのか、という問いの姿に、宣長は見入った、と書かれている。この巻で主人公の死が語られることはなかったが、その謎めいた反響は、物語の上に、その跡を残さざるを得なかった。宣長は著書「玉のをぐし」で、この問題について独特な二つの見解を述べている。一つは、光源氏というよき事のかぎりを尽した人の“衰えた様子”や“死”を書くことを避けたのではないか、ということ。二つ目は、「物のあはれ」をもっとも深く知る源氏の君自身が死んでしまうということは、そのかなしみをほかの誰にも語りつくすことはできない、という考えから、何も書かれていない、ということである。

読者に「物のあはれを知る」ということを伝えるという作者、紫式部の心ばえは、「此世」の物に触れたところに発しているはずだとすると、はたして「死」とは「此世」のものなのか、と小林氏は問い、「われわれに持てるのは、死の予感だけだと言えよう。しかし、これは、どうあっても到来するのである。(中略)愛する者を亡くした人は、死んだのは、己れ自身だとはっきり言えるほど、直かな鋭い感じに襲われるだろう。この場合、この人を領している死の観念は、明らかに、他人の死を確める事によって完成したと言えよう」と述べている。では、此世のものではない「死」を「認識する」とはどういうことか。紫式部が「雲隠の巻」に込めたこの「死の観念」に宣長は出会ったのである。

 

そうした「源氏物語」を経て「古事記」の「神世七代」を読むに至って、宣長の「死の観念」は、次のように発展していることを小林氏は指摘している。「伊邪那美神の死を確める事により、伊邪那岐神の死の観念が『黄泉神ヨモツカミ』の姿を取って、完成するのを宣長は見たのである」。彼(宣長)は何を見たか。「神世七代」が描きだしている、その主題のカタチである。主題とは、「生死の経験に他ならない」と書かれている。「神世七代」で宣長が得た啓示とは、「人は人事ヒトノウエを以て神代をハカるを、我は神代を以て人事を知れり」であった。「測り知れぬ物に、どう仕様もなく、捕えられていた」上古の人々が抱いていた生死観が、「神世七代」において「揺るがぬ」ものとなり、それを受けて宣長は「奇しきかも、霊しきかも、妙なるかも、妙なるかも」と感嘆している。そして「死の観念」を確かに「神世七代」から受け取った宣長をさらに驚かせたのは、「源氏物語」では名のみの巻であった「雲隠の巻」は、「神代を語る無名の作者達にとっては、名のみの巻ではなかった」ことであった。伊邪那美命の嘆きの中で、この女神が、国に還らんとする男神に、千引石チビキイワを隔ててノタマう「汝国ミマシノクニ」という言葉に宣長は次のように註を施している。「汝国とは、此の顕国ウツシクニをさすなり、ソモソモミズカラ生成ウミナシ給る国をしも、かくヨソげにノタマふ、生死の隔りを思へば、イト悲哀カナシき御言にざりける」。上古の人々は「汝国」という、黄泉ヨミの国の女神が万感を託したこの一と言を拾い上げたことで、「名のみの巻」に「詞」を見出したのである。その一と言で、宣長には、「天地の初発ハジメの時」の人達には自明だった生死観が鮮やかに浮び上がって来たに違いない、と小林氏はみた。

 

「人間は、遠い昔から、ただ生きているのに甘んずる事が出来ず、生死を観ずる道に踏み込んでいた。この本質的な反省のワザは、言わば、人の一生という限定された枠の内部で、各人が完了する他はない」、と宣長は考えていた。ではどのように「完了」し得るのか。「死を目指し、死に至って止むまで歩きつづける、休む事のない生の足どりが、『可畏カシコき物』として、一と目で見渡せる、そういう展望は、死が生のうちに、しっかりと織り込まれ、生と初めから共存している様が観じられて来なければ、完了しないのであった」とある。まさに上古の人々は「死」というものに直面し、測り知れぬ悲しみに浸りながら、千引石を置く、という「死のカタチ」を、死の恐ろしさの直中から救い上げ、「生死を観ずる道」を「完了」したのである。

 

このありさまを受けとめ、「妙なるかも」と感嘆した宣長は、自身の精神に照らして、この「生死を観ずる道に踏み込」み、そして「完了する」という行為を、言葉にした。それが、あの「遺言書」なのではないだろうか。そして、小林氏が「遺言書」を宣長の「最後の述作」と呼んだ意味が、第50章の最後にあるこの文章にあらわれているように思う。「宣長が、此処に見ていたのは、古人達が、実に長い間、繰り返して来た事、世に生きて行く意味を求め、これを、事物に即して、創り出し、言葉に出してきた、そういう真面目な、純粋な精神活動である。学者として、その性質を明らめるのには、この活動と合体し、彼等が生きて知った、その知り方が、そのまま学問上の思惟の緊張として、意識できなければならない。そう、宣長は見ていた」……

(了)