十三
ソ連作家同盟の招待を受け、小林秀雄が安岡章太郎、佐々木其一とともに横浜港を出航したのは、昭和三十八年六月二十六日、結果的にこれが最後の回となったベルクソン論「感想」の第五十六回が『新潮』に掲載された月であった。安岡章太郎の『ソビエト感情旅行』によれば、津軽海峡を廻ってナホトカ港へ到着したのが二十八日、そこからシベリア鉄道支線の夜行列車でハバロフスクへと向かい、翌二十九日の夕方、当時世界最大の旅客機でモスクワへ飛んだ。ジェット機は西へ、つまり太陽を追いかけて飛んで行く。モスクワまでの八時間、機内には、いつまでも西日が射し続けていたという。
小林秀雄が、八ヶ月前に亡くなった正宗白鳥の言葉を思い出していたのは、そのモスクワへ向かう機中でのことであった。亡くなる数ヶ月前、雑談していると、何かのことでロシア旅行の話になった。すると八十を超えたこの老作家が、話の途中でふと横を向き、遠くの方を見るような目になって、「ネヴァ河はいいな、ネヴァ河はいいな」と独語するように言ったという。正宗白鳥が欧米漫遊の途についたのは、その四半世紀前のことである。無論、正宗さんの心中は知る由もなかったがと断りつつ、小林秀雄は、どうしてだか、「ああ、この人はラスコオリニコフのことを考えているのだ」と感じたという(「ネヴァ河」)。
夏の西日が充満するシベリアの上空で、ラスコーリニコフのことを考えていたのは、しかし小林秀雄の方ではなかったか。「七月のはじめ、猛烈に暑いさかりのある夕方ちかく」、S横丁の屋根裏部屋から表通りに出た一青年を追って、彼はこの国ヘ来たのである。モスクワへ到着し、ジャズの騒音と男女の踊りで賑わうペキン・ホテルの大食堂で、彼はネヴァ河を見たいとしきりに思っていた。
嘗て「聖ペテロの町」と名付けられ、当時「レーニンの都市」と呼ばれたロシア北西の街へ到着したのは、その五日後の七月四日、やはりギラギラとした西日が射す白夜の夜であった。連日の雨模様だったモスクワとは打って変わって、一夜明けると、レニングラードは一片の曇なき青空である。ところが、この旅行中いつも一番最後に起きてくる小林秀雄が、その日に限っていつまでたっても起きてこない。心配した安岡章太郎が様子を見に行くと、部屋は既にモヌケの殻であった。ガスパジン小林は今朝早い時刻に一人で出て行ったと鍵小母さんが言う。彼は六時前には起き出し、ひとりネヴァ河を見に行ったのだった。
一行が宿泊したホテル・ヨーロッパは、ネヴァ河から直線距離にして一キロ半余りのところにある。早朝、ホテルを抜け出した小林秀雄は右に折れ、ネフスキー大通りをデカブリスト広場まで一直線に歩いて行ったに違いない。二六〇年前、この街を建設した大帝の騎馬像が、その広場の中で、ネヴァ河に向かって躍り上がるように建っていた。
空は青く晴れ、ネヴァ河は、巨きな濁流であった。私は、デカブリストの広場に立ち、ペトロパヴロフスク要塞の石のはだを見ていた。背後には、名高い「青銅の騎士」が立っている。プウシキンが歌ったのは、この濁流だ。エヴゲニイをのみこんだこの同じ濁流である。それは、「青銅の騎士」という謎めいた詩に秘められている詩魂をながめるような想いであった。(「ネヴァ河」)
ソ連作家同盟からの慫慂を受けるにあたり、小林秀雄には、この閉された社会主義国家に対する政治的関心があったわけではなかった。彼に言わせれば、「漠然たる旅情の如きものが動いたというまでのこと」だった。だが、彼の中で動いたその「旅情の如きもの」とは、ただ外国を旅する者としてのそれではなかった。その「旅情」は、四十年近く歩み続けた彼自身の、文学の旅への情であった。さらに言えば、彼を文学者にしたところの西洋近代という異国に対する客愁であった。ソビエト旅行の真の目的を、彼は次のように書いている。
自分が文学者になったについては、ロシアの十九世紀文学から大変世話になった。この感情は、私には、きわめて鮮明なものであり、私には、私なりのロシアという恩人の顔が、はっきり見えていたのである。ネヴァ河が見たい、というのも、言うまでもなく、ここから発する。ドストエフスキイの墓詣りはして来たいものだ、そんな事を思う。(同前)
同じことを、彼は出発直前に行った鼎談(「文学と人生」)でも語り、帰国後に発表したもう一つの紀行文(「ソヴェトの旅」)にも書いている。そして、「ドストエフスキイという作家を読んで、私は、文学に関して、開眼したのです」とあらためて告白した。六十一歳の時であった。
戦前、中山省三郎に宛てた「私信」によれば、小林秀雄がはじめてドストエフスキーの重要作品に一通り接したのは、同人誌に小説を発表し始めた旧制高等学校時代であった。ところが批評家として文壇に出た頃、偶然の機会に「カラマーゾフの兄弟」と「白痴」を読み返し、まるで異なった人の手になる作品を読む思いがして、ほとんど赤面するほど驚嘆した。そして、ドストエフスキーの全集を熟読し、この作家についての長い評論を書こうと決心したのである。その「長い評論」が、その後どのような野心をもって書き始められ、書き継がれたかは、既に見たとおりである。彼は、モスクワのトレチャコフ美術館で観たペローフのドストエフスキーの肖像画の前で動けなくなったという。そしてレニングラードで案内されたこの作家の住居にも、ラスコーリニコフが斧を盗んだという門番小屋や「白痴」のラゴージンが住んでいた家の窓にも、同じように感動した。
アレクサンドル・ネフスキー大修道院内にあるドストエフスキーの墓にたどり着いたのは、白夜の日射しも弱まり、あたりに薄墨色の空気と赤みがかった光とが交差し合う時刻だったという。小林秀雄は、黒花崗岩の墓に、「極く自然に頭を下げた」とだけ記している。その時、同行した安岡章太郎が、墓の前に立つ彼を写真に撮ろうとしてカメラを向けた。ファインダーの中で、小林秀雄は、はじめ少し照れたような笑いを浮かべ、それから意識して口を固く結んだそうである。ここだと思って安岡はシャッター・ボタンを押したが、フィルムが切れて、シャッターは動かなかった。
早朝のサンクト・ペテルブルクを流れるネヴァ河の濁流を前にして、小林秀雄の心を領していたのは、「青銅の騎士」の詩人の詩魂だけではなかっただろう。先に引用したくだりに続けて、彼は、「プウシキンの詩魂は、ドストエフスキイに受け継がれた」と書いている。小林秀雄にとって、そのドストエフスキーの詩魂とは、「罪と罰」第二編第二章に現れる次のくだりに結晶するものであった。この長い一節を、彼は戦前と戦後に書いた二つの「罪と罰」論のいずれにも、自らの翻訳によって引用し、これを「ラスコオリニコフの歌」と呼んだ。その「歌」を、この時、彼が思い出さなかったはずはないだろう。あの一種鬼気に充ちた「壮麗なパノラマ」を眺めるために、この恐ろしく孤独な青年が百度は立ったというニコラエフスキー橋が、「青銅の騎士」を背後に立つ小林秀雄の左手に、はっきりと見えていたはずである。
彼は二十コペイカの銀貨を掌に握りしめて、十歩ばかり歩いてから、宮殿の見えるネヴァ河の流れへ顔を向けた。空には一片の雲もなく、水はコバルト色をしていた。それはネヴァ河としては珍らしい事だった。寺院の円屋根はこの橋の上から眺めるほど、つまり礼拝堂まで二十歩ばかり距てた辺から眺めるほど鮮やかな輪郭を見せる所はない。それが今燦爛たる輝やきを放ちながら、澄んだ空気を透かして、その装飾の一つ一つまではっきりと見せていた。鞭の痛みは薄らぎ、ラスコオリニコフは打たれた事などけろりと忘れて了った。ただ一つ不安な、まだよくはっきりしない想念が、今彼の心を完全に領したのである。彼はじっと立ったまま、長い間瞳を据えて遥か彼方を見つめていた。ここは彼にとって格別なじみの深い場所だった。彼が大学に通っている時分、大抵いつも――といって、おもに帰り途だったが――かれこれ百度くらいは、丁度この場所に立ち止って、真に壮麗なこのパノラマをじっと見た。そして、その度にある一つの漠とした、解釈の出来ない印象に驚愕を感じたものである。いつもこの壮麗なパノラマが、何んとも言えぬうそ寒さを吹きつけて来るのであった。彼にとっては、この華やかな画面が、口もなければ耳もないような、一種の鬼気に充ちているのであった――彼はその都度われ乍ら、この執拗な謎めかしい印象に一驚を喫した。そして自分で自分が信じられぬままに、その解釈を将来に残して置いた。ところが、今彼は急にこうした古い疑問と怪訝の念を、はっきり思い起した。そして、今それを思い出したのも、偶然ではない気がした。自分が以前と同じこの場所に立ち止ったという、ただその一事だけでも、奇怪なあり得べからざることに思われた。まるで、以前と同じ様に考えたり、つい先頃まで興味を持っていた同じ題目や光景に、今も興味を持つ事が出来るものと、心から考えたかのように……彼は殆ど可笑しいくらいな気もしたが、同時に痛いほど胸が締めつけられるのであった。どこか深いこの下の水底に、彼の足元に、こういう過去の一切が――以前の思想も、以前の問題も、以前の印象も、目の前にあるパノラマ全体も、彼自身も、何も彼もが見え隠れに現れた様に感じられた……彼は自分が何処か遠い処へ飛んで行って、凡百のものが見る見る中に消えて行くような気がした……彼は思わず無意識に手を動かしたはずみに、ふと掌の中に握りしめた二十コペイカの銀貨を感じ、掌を開いてそれを見詰めていたが、大きく手を一振りして、水の中に投げ込んで了った。彼は踵を転じて帰途についた。彼は、この瞬間、剪刀か何かで、自分というものを、一切の人と物とから、ぷっつりと切り放したような思いがした。(「『罪と罰』について Ⅱ」より)
脚下を流れるコバルト色のネヴァ河の深い水底に、ラスコーリニコフの過去の一切が見え隠れに現れたように、小林秀雄もまた、その濁流の水底に、それまでの彼の一切の思想や、問題や、印象や、そして「彼自身」が現れるのを見なかっただろうか。彼は、この「歌」に、ほとんどボードレールの抒情詩の精髄を感じると書いていた(「『罪と罰』について Ⅰ」)。小林秀雄を文学者にしたのは、ドストエフスキーであった。だがその彼を批評家にしたのは、ボードレールである。この十九世紀パリの詩人の著書を読んだという事は、「私の生涯で決定的な事件」(「ボオドレエルと私」)であり、「ボオドレエルという人に出会わなければ、今日の私の批評もなかったであろう」と彼は書いている(「詩について」)。一八二一年、奇しくも同年に生れたヨーロッパ近代文学の二人の「恩人」によって、小林秀雄は文学に開眼し、批評精神を眼醒まされ、「彼自身」になったのであった。
そしてその「彼自身」の、一切が、ネヴァ河の深い水底に揺らめくのを見た時、小林秀雄もまた、自分というものを、身を切る思いで何かから切り放さなかっただろうか。それは、彼がその中で生を受け、育まれ、またこれと闘い続けた、西洋近代という謎めいた「壮麗なパノラマ」そのものではなかったか。この旅行から帰国した後、彼は五年間連載し続けたベルクソン論を封印した。学生時代から愛読し、「私が熟読した唯一の西洋の大哲学者」(「ベルクソン全集」)と語ったこの思想家もまた、小林秀雄を「彼自身」にしたもう一人の「恩人」であった。そして同じく中絶したままとなっていた二度目の「白痴」論に、短い一章を加筆して、彼の言葉で言えば、「首のないトルソ」として上梓したのである。三十年間続いたドストエフスキーについての小林秀雄の「長い評論」は、ここで終止符が打たれた。その覚悟を定めたのは、彼が、「青銅の騎士」を背後にネヴァ河を眺めた時ではなかったか。
四日後、一行はレニングラードからヤルタへ飛び、そこからキエフへ廻って再びモスクワに戻った。その後、小林秀雄は安岡章太郎と佐々木基一をモスクワに残し、ひとりパリへ発った。彼が、モンパルナス墓地にあるボードレールの墓を訪れたかどうかはわからない。だがその後、パリからさらにザルツブルク、ウィーンを巡り、ワーグナーの「リング」を聴くために訪れたバイロイトにおいて、期せずしてこの詩人の墓の前に立つことになる。
(つづく)