小林秀雄「本居宣長」全景

池田 雅延

十三 起筆まで(上)

 

1

 

この小文も、連載を始めて満一年になった。「『本居宣長』全景」と題して書き始めたが、最初の一年は全容のデッサンを進めるつもりでいた。そこで、「思想」「劇」「道」「もののあはれ」「詞花言葉」といった、小林氏が特に力をこめて語っている言葉とその周辺のスケッチから手を着けたのだが、これから二年目、三年目、四年目と何度も同じ言葉に立ち返り、それらの線を強めていくとともに、初めのうちはあえて写し取ることを控えて通った言葉の姿も順次描き重ねる、そういうふうに進めていこうと思っていた。

ところが、この一年、全容のデッサンを進めているうち、いまさらのように強く思い当ることがあった。「本居宣長」は、小林氏六十年の批評活動の集大成であると言われ、私ももちろんそう思っていたが、今回、所どころをわずかに写し取ってみるだけでも、この言葉は小林秀雄山脈のあの峰でも光っていた、この言葉はあの山裾で咲きかけていた、そういう心当りが相次ぐのである。そうした折々の心当りが、この小文にボードレールやワグナーや自然主義やといった、本居宣長とはおよそ無縁と思われる人や事柄をいきなり呼び込むことになったのだが、前回、紫式部の「詞花言葉」とワグナーの「音の行為」のことを書いていたとき、小林氏が「本居宣長」の第一章で言っている次の言葉が浮んだ。

―宣長自身にとって、自分の思想の一貫性は、自明の事だったに相違なかったし、私にしても、それを信ずる事は、彼について書きたいという希いと、どうやら区別し難いのであり、その事を、私は、芸もなく、繰り返し思ってみているに過ぎない。宣長の思想の一貫性を保証していたものは、彼の生きた個性の持続性にあったに相違ないという事、これは、宣長の著作の在りのままの姿から、私が、直接感受しているところだ。……

小林氏にとって、自分の思想の一貫性は自明の事だったに相違なかったし、私にしても、それを信じる事は、氏の「本居宣長」について書きたいという希いと区別し難いのである。だから、この小文には、まだまだ意想外の人や事柄が参入すると思われるのだが、これも元はといえば、小林氏が本居宣長と出会うに至った氏の個性がそうさせるのである。

そういう次第で、この一年、私はひたすら「本居宣長」の全容に向きあってきたが、満一年の節目を機とし、今回と次回、小林氏が「本居宣長」を『新潮』に書き始めた昭和四十年から約三十年を遡り、氏が「本居宣長」の筆を起すに至ったその道を辿ってこようと思う。

 

2

 

小林氏の「本居宣長」は、

―本居宣長について、書いてみたいという考えは、久しい以前から抱いていた。……

と始まり、

―戦争中の事だが、「古事記」をよく読んでみようとして、それなら、面倒だが、宣長の「古事記伝」でと思い、読んだ事がある。……

と続く。

まずは、この文中の「戦争中」である。今日では「戦争」は昭和十六年(一九四一)十二月からの太平洋戦争と受け取られるのがふつうだが、ここで言われている「戦争中」は、太平洋戦争より四年早く、日中戦争が勃発した昭和十二年七月からの時代を指している、と解し得るのである。

昭和十七年六月、小林氏が『文學界』に載せた「無常という事」に、次のように書かれている(新潮社刊『小林秀雄全作品』第14集所収)。

―晩年の鷗外が考証家に堕したという様な説は取るに足らぬ。あの厖大な考証を始めるに至って、彼は恐らくやっと歴史の魂に推参したのである。「古事記伝」を読んだ時も、同じ様なものを感じた。解釈を拒絶して動じないものだけが美しい、これが宣長の抱いた一番強い思想だ。解釈だらけの現代には一番秘められた思想だ。……

「無常という事」のこの一節が、小林氏が本居宣長に言及した最初である。「鷗外」は森鷗外、「あの厖大な考証」とは、「澁江抽斎」「伊沢蘭軒」など鷗外が晩年に著した史伝のことだが、ここから推せば、小林氏は遅くとも昭和十七年五月には「古事記伝」を読んでいた。しかしその読み始めは、太平洋戦争が始った昭和十六年十二月より後ということはないだろう。「古事記伝」は、本居宣長が三十五歳の年から六十九歳の年まで、三十年以上もの歳月を注いだそれこそ膨大な注釈書である、半年やそこらで読んだと言えるような本ではない。したがって、小林氏は、昭和十六年十二月より前にこれを読んだと思われるのだが、そのことは、「無常という事」の、「『古事記伝』を読んだ時も、同じ様なものを感じた」という、いくらか時間の経った過去を振り返る口調からも言えるだろう。

 

ではその日中戦争のさなか、何が小林氏に「古事記」を読もうと思わせたかである。

氏自身は、「古事記」を読もうとした動機を一言も書き残していないが、少なくとも読書の一環としてとか、文筆家の教養としてとかといったことからではなかっただろう。昭和九年三十二歳の四月、雑誌『若草』のアンケート「わが愛読の日本の古典」に答えて、「愛読出来る程日本文学の古典には親しんでおりません」とそっけなく言っているが、実際この頃、小林氏の頭はドストエフスキーでいっぱいだった。同年二月から七月にかけては「『罪と罰』についてⅠ」を発表し、九月から翌十年七月にかけては「『白痴』についてⅠ」を発表、十年一月、『文學界』の編集責任者となり、自ら「ドストエフスキイの生活」を十二年三月まで連載した。これを見るだけでも、日中戦争より前の時期、小林氏には興味も意識も「古事記」に振り向ける余裕はなかったと思われるのだが、その小林氏が、日中戦争が始ってからの時期、「古事記」を読んだのである。しかも、「よく読んでみようとして」、「それなら、面倒だが、宣長の『古事記伝』で」と、わざわざ手間暇のかかる読み方で読んだのである。

小林氏が言っている「戦争中」に、「日中戦争」の含意はあるか、それとも単に時期を言っているだけかということはあるが、氏が昭和十二年の夏以降、日中戦争を背にして発表した「戦争について」「杭州」「満洲の印象」「事変の新しさ」といった戦地の探訪記や社会時評を見るかぎり、少なくとも「古事記」への志向を間接的にも窺わせるような記述はない。したがって、そこはひとまず措き、別の目で年譜を追ってみると、昭和十二年四月、「ドストエフスキイの生活」の雑誌連載を終えた翌月に、「『日本的なもの』の問題Ⅰ」と「同Ⅱ」を相次いで書いている(同第9集所収)。そしてその「Ⅰ」では、「最近盛んに日本的なものとか、日本の民族性とかに就いて文壇で議論が行われている」「大事な点は問題自体にあるより問題の起り方にあるのであって、民族性とは何かという様な抽象的な問題ではない。/その起り方を考えると『日本的なるもの』という今日の問題は『大衆的なるもの』という問題と引離しては考えられぬ。純文学者達の『大衆的なるもの』に就いての様々な苦痛と離しては考えられぬ」と言い、結論としてこう言っている。

―最近の外来文学思想は、わが国の文学の封建的残滓ざんしと戦うにはまことに有力な武器として役立った。その意味での「日本的なるもの」の克服の為に新しい文学は苦労して来たのだが、この武器は民衆の獲得というそれ以上積極的な仕事では皆失敗して了ったのである。そういう最近の文学運動を既成概念なしに反省してみた処に、学んだ文化と現実の文化との食違いが明かに浮び上り、何も彼も僕等の手で作り直さねばならないという気運が生じたのであって、この点「日本的なるもの」の問題は新しい人間観念の確立という「ヒュウマニズムの問題」とも関聯かんれんしているし、又一方かかる気運が未だ明日への可能性の範囲に止り、何等なんら確固たる主張の上に立っていない点で、「現代の不安」の問題にも関聯している。だが今日の「日本的なるもの」の問題は、独り文壇に止まらずあらゆる文化の分野に同様な気運が動いている以上、日本人が日本人として再生する為に、この問題は、僕等が協力して発展させねばならぬものを孕んでいるのである。……

ここで言われている「わが国の文学の封建的残滓」とは、主には坪内逍遥が「小説神髄」で否定した勧善懲悪小説と、黄表紙、洒落本、滑稽本など戯作と呼ばれた小説類の名残りと解していいだろう。

そして「Ⅱ」では、「四月号の雑誌には、所謂『日本的なもの』に関する論文が非常に多かった」と書き起し、三木清の「知識階級と伝統の問題」等の数篇を次々論評して、「僕は、今日の日本的なものの問題も、現代の不安という問題の一環として考えざるを得ない」と再び言い、次いでこう言っている。

―民族性がどうの伝統がどうのと議論してみても、文学者がそういうものについて己れ独特の文学的イメエジを抱いていなければ空論に過ぎまい。日本というものの自分独特のイメエジを信じ、これを作品によって計画的に証明しようと努めている作者は、少くとも新しい文学者の間では林房雄一人きりだ。そして彼の仕事は今始ったものではないし、成しとげられるのに未だ長い時間を要する。……

林房雄は、小林氏とともに『文學界』創刊に力を尽すなど、氏と肝胆相照らす仲の作家だった。

それまで、日本の古典には親しんでいないと言っていた小林氏を、突如「古事記」へと駆り立てたものは、このあたりに潜んでいたかと想像してみることは許されるだろう。小林氏は、「古事記」をよく読んでみることで、「現代の不安」という問題に向き合い、小林氏自身の「文学者としての日本についての創造的なイメエジ」を抱こうとしたのではなかったかということである。

 

3

 

「無常という事」は、ある日、比叡山に行き、山王権現のあたりをうろついていると突然「一言芳談抄」の一節が心によみがえり、その文章の節々が心に滲みわたったという小林氏自身の体験から書き起されている。

「一言芳談抄」の一節とは、こうである。

―「或云あるひといはく、比叡の御社に、いつはりてかんなぎのまねしたるなま女房の、十禅師の御前にて、夜うち深け、人しづまりて後、ていとうていとうと、つゞみをうちて、心すましたる声にて、とてもかくても候、なうなうとうたひけり。其心を人にしひ問はれていはく生死しやうじ無常の有様を思ふに、此の世のことはとてもかくても候。なう後世ごせをたすけ給へと申すなり。云々。……

「かんなぎ」は、神楽を奏するなど神に仕えることを務めとする者、「なま女房」は若い女、「十禅師」は「比叡の御社」すなわち日吉山王ひえさんのうの七社権現のひとつ、十禅師社のことである。

「一言芳談抄」のこの文が、突然小林氏の心によみがえった。氏はその体験を、自分自身でも不思議がり、あれやこれやとひとしきり思い返していくのだが、その直後に文体を一変させて言う。

―歴史の新しい見方とか新しい解釈とかいう思想からはっきりと逃れるのが、以前には大変難かしく思えたものだ。そういう思想は、一見魅力ある様々な手管めいたものを備えて、僕を襲ったから。一方歴史というものは、見れば見るほど動かし難い形と映って来るばかりであった。新しい解釈なぞでびくともするものではない、そんなものにしてやられる様な脆弱なものではない、そういう事をいよいよ合点して、歴史はいよいよ美しく感じられた……。

この文章に、先ほど引いた、「晩年の鷗外が考証家に堕したという様な説は取るに足らぬ。あの厖大な考証を始めるに至って、彼は恐らくやっと歴史の魂に推参したのである。『古事記伝』を読んだ時も、同じ様なものを感じた。解釈を拒絶して動じないものだけが美しい、これが宣長の抱いた一番強い思想だ。解釈だらけの現代には一番秘められた思想だ……」が続くのである。

 

小林氏が、日本の歴史に真剣に取組み始めたのは昭和十年頃のことである。氏は、ボードレール、ランボーをはじめとするフランス文学や、ドストエフスキーをはじめとするロシア文学に熱中して青春時代を過ごしたが、三十代に入るや日本の歴史をまったく知らずにきた自分を恥じ、自分自身が日本史を勉強しようと昭和十一年、教鞭を執っていた明治大学で「日本文化史研究」を開講した。氏自身の勉強は、主として吉田東伍の「倒叙日本史」を熟読することによって行われたと私は氏から直かに聞いた。

小林氏の日本への急旋回、これには、島崎藤村の「夜明け前」が与っていたかと思える節もある。「夜明け前」は、昭和七年一月に第一部が刊行され、昭和十年十一月に第二部が刊行されて完結したが、小林氏は翌十一年五月、『文學界』の編集責任者として同誌に同人による「夜明け前」の合評会を載せ、編集後記として「『夜明け前』について」を書いた(同第7集所収)。「夜明け前」は、明治維新前後の動乱期に、平田篤胤の国学を信奉する知識人として信州馬籠に生き、ついには時代に抗しえず狂死した藤村の父をモデルに描いた長篇小説だが、小林氏は、「『夜明け前』について」で、

―この小説は詩的である、この小説に思想を見るというよりも、僕は寧ろ気質を見ると言いたい。作者が長い文学的生涯の果てに自分のうちに発見した日本人という絶対的な気質がこの小説を生かしている。……

と言い、作者が日本という国に抱いている深い愛情が全篇に溢れていること、歴史の複雑な流れが綿密に客観的に描かれていることに感服したと言っている。

そして、事のなりゆきから言えば、小林氏が後年、「古事記」を読もうとして宣長の「古事記伝」で読んだという経緯には、「夜明け前」に描かれていた平田篤胤の国学が作用したかとも考えられなくはない。

 

それとは別に、昭和十三年十月、「歴史について」を『文學界』に書き、同十四年五月、これに加筆して全五章とした新たな「歴史について」を『文藝』に発表、この全五章の「歴史について」を序として、『ドストエフスキイの生活』を刊行した。

「無常という事」で、「歴史の新しい見方とか新しい解釈とかいう思想からはっきりと逃れるのが、以前には大変難しく思えたものだ。そういう思想は、一見魅力ある様々な手管めいたものを備えて、僕を襲ったから」と言っている「以前」は、ほぼ昭和十年一月、「ドストエフスキイの生活」を書き始めてから十四年五月、『文藝』に「歴史について」を書くまでの間のことと受け取ってよいように思われる。「ドストエフスキイの生活」は、ひとくちでいえばドストエフスキーの評伝である。ということは、「ドストエフスキーの歴史」である。全五章の「歴史について」を書き上げ、これを「ドストエフスキイの生活」の序に据えることによって、小林氏は歴史とは何かをはっきり腹に入れたのである。

宣長の「古事記伝」も、おそらくはこれと並行して読まれたと思われるのだが、「無常という事」の四か月後、昭和十七年十月、『文學界』に載った座談会「近代の超克」ではこう言っている。

―僕はここ数年、日本の歴史を読んで、歴史の解釈だとか、歴史観だとか、そういう風なものがみんな詰らなくなってきた。われわれの解釈だとか、あるいは史観というようなものではどうにもならんものが歴史にある。歴史というものはわれわれ現代人の現代的解釈などでびくともするものではない、ということがだんだん解ってきたのです。そういうところに歴史の美しさというものを僕ははじめて認めたのです。……

―たとえば鎌倉時代というようなものがどういう時代で、平安時代という時代のどういう結果で生じて、それがその次の時代にどういう風に影響していった、という風に歴史を観てもとうてい鎌倉時代というものは解ることができないので、鎌倉時代という一つの形が、僕らのそういう風な因果的解釈にしろ、弁証法的解釈にしろ、どういう解釈でもいいですが、そういう風な解釈で如何に説明してもびくともしないような、なんというのかなァ、鎌倉時代というものの形ですよ。それが感じられるということが大事だということが解ってきたのです。……

―富士山をどのように解釈しようが、あの富士山の形は動かすべからざるものだということが画描きには必要なことでしょう、それと同じく歴史的の事実というものもそういう風に見えてこないといかんという非常に大事な秘密があるので、鎌倉時代の美術品がわれわれの眼の前にあってその美しさというものはわれわれの批判解釈を絶した独立自足している美しさがあるのですが、そういう美術品と同じように鎌倉時代の人情なり、風俗なり、思想なりが僕に感じられなければならぬ。そしてそれは空想でも不可能事でもない。……

 

小林氏は、歴史というものが、こういうふうにわかったと言うのである。だが、氏が、「無常という事」でも「近代の超克」でも言っている「歴史の形」「歴史の美しさ」には、なおかつ戸惑いが消せない向きも少なくないだろうと思う。小林氏は、「歴史の形」も、「動かし難い形」と言うのだが、私たちには歴史は流動する、あるいは激動する、そういう「動」の観念が先にある、ということもある、またたしかに「歴史のロマン」などという言い方をして、歴史に一種の郷愁ともいえる「美」を覚えることはあるが、小林氏に「歴史は美しい」といきなり言われても、どこをどう見れば美しいのかと、すぐさま共感、納得とはいかないというのが本音だろう。

小林氏の文章には論理の飛躍が多く、それが氏の文章が難解とされる要因のひとつだとはよく言われるところだが、たとえばここでの「動かし難い形」、そして「動じないものだけが美しい」という言葉の出方を指して論理の飛躍が言われるのであれば、それはそうかも知れない。だが小林氏の文章は、散文と見えはするが詩や音楽として書かれている。個々の言葉の語意によってではなく、複数の言葉の共鳴や交響によって、一語一語では現わしきれない感動や思想を伝えようとする。「無常という事」は、そういう小林氏の手法を一番に代表する作品なのである。

それと同時に、「無常という事」は、その一と月前、昭和十七年五月に同じ『文學界』に書かれた「『ガリア戦記』」(同第14集所収)が序説となっている、ということも重要だ。「無常という事」は、「『ガリア戦記』」との共鳴、交響を聴いて初めて聞える音楽なのである。少なくとも小林氏の論理の糸は、「『ガリア戦記』」に発している。氏の文章は、そういう読み方を求めてくるところがある。氏は、「ガリア戦記」を、昭和十七年二月に岩波書店から翻訳が出たのを機に初めて読んだと言っている。

 

「ガリア」は、古代ローマの時代に、ほぼ今日のフランス領にあたる地にあったケルト人の居住域で、「ガリア戦記」はローマの武将ジュリアス・シーザー(ユリウス・カエサル)が、そのガリアを討つため向かった遠征の報告書である。ということは、「ガリア戦記」は歴史の記録であるのだが、「『ガリア戦記』」の冒頭、小林氏はこれを初めて読んで面白かったと言った後、次のように言っている。

―ここ一年ほどの間、ふとした事がきっかけで、造形美術に、われ乍ら呆れるほど異常な執心を持って暮した。色と形との世界で、言葉が禁止された視覚と触覚とだけに精神を集中して暮すのが、容易ならぬ事だとはじめてわかった。……

―美の観念を云々する美学の空しさに就いては既に充分承知していたが、美というものが、これほど強く明確な而も言語道断な或る形であることは、一つの壺が、文字通り僕を憔悴させ、その代償にはじめて明かしてくれた事柄である。美が、僕の感じる快感という様なものとは別のものだとは知っていたが、こんなにこちらの心の動きを黙殺して、自ら足りているものとは知らなかった。美が深ければ深いほど、こちらの想像も解釈も、これに対して為すところがなく、あたかもそれは僕に言語障碍を起させる力を蔵するものの様に思われた。……。

ここで言われている、「美が深ければ深いほど、こちらの想像も解釈も、これに対して為すところがなく……」が、「無常という事」では「解釈を拒絶して動じないものだけが美しい」となるのである。

―さて、「ガリア戦記」について書き始めたのを忘れたわけではない。それは、文学というより古代の美術品の様に僕に迫り、僕を吃らせたので、文章がおのずからこんな風な迂路を描いた。……

―シイザアの記述の正確さは、学者等の踏査によって証明済みだそうだが、彼等が踏査に際し、地中から掘起して感嘆したかも知れぬロオマの戦勝記念碑の破片の様に、戦記は僕の前にも現れた。石のザラザラした面、強い彫りの線、確かにそんな風に感じられる、現代の文学のなかに置いてみると。……

―昔、言葉が、石に刻まれたり、煉瓦に焼きつけられたり、筆で写されたりして、一種の器物の様に、丁寧な扱いを受けていた時分、文字というものは何んと言うか余程目方のかかった感じのものだったに相違ない。今、そういう事を、鉛の活字と輪転機の御蔭で、言葉は言わば全くその実質を失い、観念の符牒と化し、人々の空想のうちを、何んの抵抗も受けず飛び廻っている様な時代に生きている僕等が、考えてみるのは有益である。……

以来、小林氏は、歴史の記録や古典と向きあうときは、それらを云々するための言葉探しを急がず、それらが美術品、たとえば一個の壺と同じように見えてくるまでただ見続ける、眺め続けるという態度に徹するようになった。

歴史の記録や文学は、言葉でできている。したがって、それらについて何か言おうとすれば、糸口はすぐ見つかる。相手の言葉がすべて糸口になる。俗に言う「相手の言葉尻を捉える」のと同じ原理で、気の利いた一言二言は容易に言えるのである。だが、壺は、言葉でできてはいない。だから当然、言葉を発しない。にもかかわらず美しい壺は、優れた文学とまったく同じに自分を捉えて組み敷く。組み敷いて超然としている。この不可思議な美の力を前にしては一言も発しえない。そういう無力を棚上げにしたまま文学を云々するなどは烏滸おこのきわみである。小林氏は、この強いられた沈黙に、前人未到の批評の可能性を予感したのである。

おそらく、「ガリア戦記」を読んで、「無常という事」を書く頃には、小林氏には「古事記」も「ガリア戦記」と同じように見えていただろう、「ガリア戦記」が「文学というより古代の美術品のように」迫ってきたのと同様に、「古事記」は日本古代の縄文土器や埴輪のように見え始めていただろう。

 

4

 

そういう次第で、小林氏が「無常という事」で言っている「動かし難い形」とは、石器や土器や美術品に通じる「物」の形である。歴史もそういう「物」だと言うのである。だから歴史は、「見れば見るほど動かし難い形と映って来る」のであり、「いよいよ美しく」感じられるのであるが、では、歴史が「物」であるとはどういうことだろう。

先に引いた「『日本的なもの』の問題Ⅱ」で、小林氏は「民族性がどうの伝統がどうのと議論してみても、文学者がそういうものについて己れ独特の文学的イメエジを抱いていなければ空論に過ぎまい」と言ったが、「無常という事」の翌年、昭和十八年十月に発表した「文学者の提携について」ではこう言っている。

―伝統に還れという声が高い。しかしそういう高い声のうちに、伝統はまるで生きていない。どうしてそういうことになったかというと、伝統は観念じゃない、伝統は寧ろ物なのであるという簡単な事実を皆忘れているところから、そういうことになると僕は思う。……

そして、こう言う。

―伝統は物だ、と僕は申し上げたが、伝統は物質だと言うのではない。物という字は元来、存在という意味の字です。伝統は物であるとは、伝統とは存在する形だという意味であります。……

小林氏が、何に拠って「物という字は元来、存在という意味の字です」と言っているかはいまのところ定かでないが、氏が常に座右に置いていたと思われる『言海』は、「物」を説明して、「凡ソ、形アリテ世ニ成リ立チ、五官ニ触レテ其ノ存在アルヲ知ラルベキヲ称スル語」と言っている。ここから推せば、小林氏の言わんとするところは、「『物』とは、現実に、具体的に、存在するものという意味だ」となるだろう。したがって、氏が歴史は物だというときの「物」も、現実に、具体的に存在し、私たちの五感で捉えられるもの、という意味である。

 

こうして小林氏は、自分が会得した歴史に対するこの感覚を、何とか周囲にわかってもらおうと、歴史を古代ローマの遺物に譬えたり、鎌倉時代の美術品に譬えたりしているのだが、最後に到達して最も自信に満ち、最も語気を強めて言っているのは「死んだ人間」という「物」、および「死んだ人間」の「形」である。

「無常という事」は、「解釈を拒絶して動じないものだけが美しい、これが宣長の抱いた一番強い思想だ。解釈だらけの現代には一番秘められた思想だ。そんなことを或る日考えた」と言った後、さらにもう一度、次のように転調する。

―又、或る日、或る考えが突然浮び、偶々たまたま傍にいた川端康成さんにこんな風に喋ったのを思い出す。彼笑って答えなかったが。「生きている人間などというものは、どうも仕方のない代物しろものだな。何を考えているのやら、何を言い出すのやら、仕出来しでかすすのやら、自分の事にせよ他人事にせよ、解った例しがあったのか。鑑賞にも観察にも堪えない。其処に行くと死んでしまった人間というものは大したものだ。何故、ああはっきりとしっかりとして来るんだろう。まさに人間の形をしているよ。してみると、生きている人間とは、人間になりつつある一種の動物かな」……

これを承けるようにして、「近代の超克」ではこう言うのである。

―歴史を如何に現代的に解釈しても、批判しても、歴史の美というものには推参することはできない。歴史が美しいのは、歴史がつまり、楠正成という死んだ人間が、われわれの解釈を絶した形で在ったということなのです。そういう風な形が見えて来ることが歴史がわかるという事だ。……

ここで氏は、「歴史がつまり、楠正成という死んだ人間が……在ったということなのです」と言っている。歴史とは、死んだ人間のことだと言うのである。しかもその人間は、「いた」のではない、「在った」と言うのである、すなわち、「物」として「存在していた」「存在している」と言うのである。

そこを、「無常という事」では、次のように言った。

―歴史には死人だけしか現れて来ない。従って退きならぬ人間の相しか現れぬし、動じない美しい形しか現れぬ。……

「無常という事」の翌月、昭和十七年七月に発表した「歴史の魂」には、これが講演録であるということもあって「無常という事」の趣旨がより平易に説かれているのだが、そこでは鷗外の「伊沢蘭軒」に関してこう言っている。

―伊沢蘭軒という何物にも動じない、びくともしない形がある。(蘭軒は)そういう形をちゃんと歴史の上に残して死んでしまったのです。今更もうどうすることも出来ない。彼等の遺した姿は儼然としているのです。……

歴史とは、「死んだ人間」のことである、その「死んだ人間」が、どういうふうに死んでいるか、そこに目を凝らせば、たしかに歴史は「物」だと見えてくる。ところが、現代人は、「死んだ人間」を見ようとはしない。これが、「無常という事」の結語になる。

―この世は無常とは決して仏説という様なものではあるまい。それは幾時如何いついかなる時代でも、人間の置かれる一種の動物的状態である。……

「仏説」とは仏教の教義ということで、仏教では、万物は生滅・変化し、永遠に変らないものはないということを「無常」と言う。またそこから派生して、人の世の変りやすいこと、人の命のはかないことをも「無常」と言う。このいわゆる「無常観」は、津々浦々まで浸透し、「無常」と聞けば誰もが仏教を想起するほどだが、小林氏は、そうではないと言う。この世は無常であるとは、人間がこの世を生きるとはどういうことか、それを言い当てた生々しい言葉だと言うのである。

仏説は、ひとことで言えば物事の終焉あるいは消滅に焦点を絞っているが、小林氏は、今まさに生きている人間が、生きているがゆえに置かれている一種の動物的状態、無秩序状態、それが「無常」ということだと言うのだ。「一種の動物的状態」とは、氏が川端康成に話した、「生きている人間というものは仕方のない代物だ。何を考えているのか、何を言い出すのか、しでかすのか、自分の事にせよ他人事にせよ、解った例しがない」、そういう人間の生かされ方である。生きている人間は、寸刻といえども同じ様態で安定することはない、すなわち、ずっと変りがない、一定不変である、という意味での「常」が「無い」、これがすなわち「無常」ということだと小林氏は言うのである。

だが、そういう人間にも、安定するときがくる。人間は、死ぬや否や、本来の意味で豹変する。生きている人間に比べて、「死んでしまった人間というものは大したものだ。何故、ああはっきりとしっかりとして来るんだろう。まさに人間の形をしているよ」、それほどの豹変ぶりを見せるのである。

しかし、

―現代人には、鎌倉時代の何処かのなま女房ほどにも、無常という事がわかっていない。常なるものを見失ったからである。……

鎌倉時代の若い女が、なぜそんなことをするのかと人に問われて答えた言葉、「この世のことはとてもかくても候。なう後世ごせをたすけ給へと申すなり」は、脈絡もなく秩序もなく、自分で自分がわからないまま生きていくしかないこの世のことはもうどうでもよい、でもどうか、死んだ後の来世では、心も身体も人間としてしっかり出来上がった私にして下さい、そういう祈りであると小林氏は読んだ。

「常なるもの」は、もはや言うまでもあるまい、「死んだ人間」である、しっかりと人間になった人間の形である。それを現代人は見失った。なぜか。歴史を因果的解釈だの弁証法的解釈だのといった現代の歴史観で、あるいはそれほど大掛かりではなくとも現代人の理解の及ぶ範囲でのみ好き勝手に解釈し、そういう解釈に解釈を重ねるばかりで、歴史に現れている退っ引きならない人間の相、人間として完成し、もはや微動だにしない人間の形、それを思い出そうとはしなかったからである。この「思い出す」ということについては、次回、稿を改めて見ていくことにする。

 

宣長は、そういう解釈をいっさい排して「古事記」を読んだ。「古事記」のなかで、「死んだ人間」はどういうふうに死んでいるか、そこをしっかり思い出すためにおよそ三十五年をかけた。小林氏が「本居宣長」を単行本として世に送ったのは昭和五十二年である、氏が「無常という事」を書いて初めて「古事記伝」に言及した昭和十七年から数えるなら、氏も三十五年をかけて本居宣長を読んだのである。

(第十三回 了)