松阪へ、『恩頼図』の中へ

小島 由紀子

「宣長さんは、生涯ほとんど松阪の地を離れませんでした―」

三月十七日、松阪公民館で本居宣長記念館・吉田悦之館長のお声が響いた。『宣長学に魅せられた人々』と題し、宣長さんを巡る人々を約三十名も登場させたご講義終盤のことだった。江戸時代の松坂へと誘われタイムスリップした気分で、ふと資料最終ページの『恩頼図』を見ると、図の中央部の円がすうっと球体に膨らんだように見え、はっとした。

この『恩頼図』は、宣長さんの学問の系譜を表し、上中下と三つに分かれた瓢箪のような形をしていて、次のように名前や著作名が書かれている。

上部…先人や師の名前(堀景山、契沖、賀茂真淵、紫式部、藤原定家など)

中央…宣長さんの位置を示す円のみが中央に描かれている

下部…門人や著作の名前(棟隆、直見、大平、道麿、千秋、『古事記傳』、『玉勝間』など)

宣長さんの死後、養子の大平おおひらが門人に頼まれ図示したという。上部には十五、下部には六十二もの書き込みがあるが、中央の宣長さんの部分は空白になっている。その真っ白い平面の円がすうっと膨らむように見えたのだ。

 

ご講義の中で、吉田館長はこの『恩頼図』に書かれた人々の生身の声を、書簡や文献をもとに生き生きと蘇らせていかれた。

上部に書かれた師の堀景山は「この男は見所があるぞ」と直観し、『日本書紀』や契沖の『百人一首改観抄』を貸し与える。賀茂真淵は生涯一度の対面ながら、「万葉集を直接教えてやりたい。江戸に抜け出してこい」と訴え、自身の学問の継承を望む。

下部に書かれた門人は宣長さんの元に次々と押し寄せる。松坂の嶺松院歌会では、いながきむねたかが「なぜ人は歌を詠むのか、もののあはれとは何か」と問う。田中道麿は美濃から松坂まで一晩中歩いてきて「直接質問できたおかげで、生まれ変われた」と歓喜する。

横井千秋は「『古事記伝』を理解できたわけではないがこの世に広めたい、これこそ大事だ」と私財を投げうって刊行費を出資する。ほうらいひさたかは『古事記伝』を書き写し「古典の注釈でこれほど詳しく考えた人はいない、尊い世の宝となるはずだ」と確信する。

一方で、儒者のいちかわかくめいは、『古事記伝』の「なほびのみたま」の草稿「みちといふことあげつらひ」を批判した『まがのひれ』を刊行する。宣長さんは『くずばな』を書き、「『古事記伝』の中で都合の良いところだけ持っていくのは駄目だ、すべて是かすべて非かどちらかだ、『直霊』が分からなければ駄目なのだ」と激しく反論する。

小林先生は『本居宣長』第二章でこう書かれている。

「或る時、宣長という独自な生まれつきが、自分はこう思う、と先ず発言したために、周囲の人々がこれに説得されたり、これに反撥したりする、非常に生き生きとした思想の劇の幕が開いたのである……」

吉田館長もこの部分をご講義冒頭で読み上げられ、「まさに思想の劇なんです」とおっしゃった。

もう一度『恩頼図』を見ると、思想劇の中心である宣長さんを示す球体は、上部とも下部とも繋がりつつも、動じないような、それでいて内部は動き続けているような量感を感じさせた。

 

「ここが宣長さんの頭の中です」

翌日、吉田館長に記念館の収蔵庫に入れていただいた。厚い防火ドアを抜けると、左手には千数百枚もの版木が、中央や右手には膨大な書物や巻物が並んでいた。ここが『恩頼図』中央の内部……と思った瞬間、ほの暗く静謐な空間の先はどこまでも奥深く続き、その虚空にも多くのものが漂っているように見えた。

ここに飛び込んで小林先生は『本居宣長』を……、そして吉田館長は『宣長にまねぶ』を、池田塾頭は「小林秀雄『本居宣長』全景」をお書きになっている。ここにはどれだけの文字と、それを生み出した目に見えないものがあるのかと思うと足がすくんだ。

吉田館長が貴重な直筆の『枕の山』を開いてくださった。宣長さんが遺言書を書いた後、愛してやまない桜を詠んだ歌を三百首以上も綴ったものだ。その文字はごく小さくあまりに細く、だが絹糸のように生々しいものだった。ふとそこにあるすべての文字が脈打っているように感じた。

収蔵庫を出ると、その脈動に感応するかのように、来館者の方々が陳列ケースのガラスに額を押し当て資料に見入っていた。記念館主催の『古事記伝』素読会では、松阪の方々が難解な古語を朗々と読み上げていた。記念館近くの路上では、散歩中の男性二人が「おや、スミレが咲いてるよ」「これは、何のスミレかな?」と足を止めて語り合っていた。

「あ、宣長さん、須賀直見……」と思った。その姿に、吉田館長のご講義を思い出したのだ。

「須賀直見は『源氏物語』の読み合わせにも最初から参加し、信頼された弟子ですが、三十五歳の若さで亡くなりました。その三日前、宣長さんは枕元で『狭衣物語』を読み聞かせました。『我をおきて いづちにいけむ 須賀の子は 弟とも子とも 頼みしものを』という歌を詠んで嘆いていますが、ここまで激しく感情を表した歌は、ほかにありません。直見は野辺に咲くスミレを掘って庭に植えるほどスミレが好きでした。男性でスミレの花を愛おしむなど軟弱と見る向きもありますが、宣長さんは六十八歳で『源氏物語玉の小櫛』九巻を書き終えた末に、『なつかしみ またも来て見む つみのこす 春野のすみれ けふ暮れぬとも』と詠み、スミレの咲く春野を『源氏物語』にたとえて三十年以上も前に直見と読んだことを懐かしんでいます」

その時、宣長さんの眼差しが浮かんだ。自画像のきりっとした目元とは違ったものが見えた気がした。

「宣長さんは、生涯ほとんど松阪の地を離れませんでした――」

吉田館長のお言葉が蘇る。

「松阪に行くと、これからの学びが立体的になりますよ」

今回の松阪旅行幹事の山内隆治さんのお言葉も蘇る。『恩頼図』の中央内部で足がすくみはしたものの、宣長さんのことをもっと知りたいと思った。そして、ここ松阪に宣長さんはたしかに生きて、今も松阪のいたるところに……と実感した旅だった。

 

帰途につく前、松阪城址から宣長さんの眠る山室山の奥墓の方角を探し、皆でその方向をしばらく見やった。前日の奥墓でのことを思い出した。

池田塾頭が宣長さんの墓石の前でこうおっしゃった。

「では、しばらくそれぞれ目を閉じて……」

その言葉に、皆の呼吸がすっと揃った。次の瞬間、光が消え、音が失せ、無が広がった。思わずかすかに目を開けると、墓石と山桜の幹が見え、その空間を包むように立つ皆の気配を感じた。ふっと小林先生の『本居宣長』最終第五十章の一節が浮かんで、息がつけ、また目を閉じた。

「死は『千引石』に隔てられて、再び還っては来ない。だが、石を中に置いてなら、生と語らい、その心を親身に通わせても来る……此の世の生の意味を照し出すように見える」

第一章では、小林先生はこうお書きになっている。

「彼には塚の上の山桜が見えていたようである」

必ずまた松阪へ、山桜の頃に奥墓へ……と、思っている。

(了)