都会の夏、8月の炎暑が漸く鎮まって、初秋の気配に包まれる頃になると紺碧の秋空にこころ惹かれてしかたがなくなる。しかしそれはいつでも信州の秋の澄み切った、どこまでも遙かに高い大空なのだ。中学生からの山好きだったところから、北、南、八ヶ岳といった高山の気が身体のどこかにしみ込んでいるのかなとも思うが、山々の頂から天空へと拡がる蒼天への憧れは齢を重ねても消えることはない。だから、世間の夏休みが終わり、残暑も漸く落ち着いたころ、つまり9月の半ばを過ぎるとなんとなくそわそわしてしまう。中央線でも、中央自動車道でも、立川、八王子を離れていよいよ山に向かっているといつでも気分の高揚を禁じ得ない。さて、秋の信州のどこかへ行きたいな、と思いつつ温泉情報など見ていると、そういえば下諏訪温泉に小林秀雄お気に入りの宿があったはずだと思い出した。「別冊太陽」か「芸術新潮」あたりだと思っていて探してもそれらしい記事は見当たらず、いろいろ探索した末に『作家と温泉♨️ お湯から生まれた27の文学』(河出書房新社 2011・1)なる小冊子に掲載されているのを見出した。「小林秀雄と美と温泉」の3ページ分の文章に、奥湯河原の加満田、湯布院の玉ノ湯、そして下諏訪温泉のみなとや旅館、この3軒がごく簡単に紹介されていた。
下諏訪温泉のみなとや旅館には、「諏訪には京都以上の文化がある、下諏訪には鎌倉に似たよき路地がある」という小林秀雄自筆の書が掲げられているとあり、さらにこの宿の温泉を「綿の湯」と命名したとも書かれている。このことは長い間なんとなく気にはなっていたものの、訪れる機会もないまま何年も経ってしまっていた。長野県、というより信州といえば軽井沢から上田、佐久近辺の文学館や美術館に立ち寄ることはたまにはあって、そこで食事となるとやはり自然に蕎麦を、という流れで、いろいろな店を巡りつつ山々と高原の景物に親しんだことはあるし、諏訪大社の四社を巡ったこともあったが、諏訪周辺に宿泊しようという気持ちには到らなかった。そうしたところ、昨年の9月末に信州のどこかに1泊して、たまにはのんびりと未知の温泉巡りでもしようと思い立った。そこでせっかくの機会、それでは小林秀雄ゆかりの温泉を訪ねてみようという気になったわけである。
上田菅平インターを降りて千曲川を渡り、松本街道143号線を道なりに青木村を過ぎるころ、田沢温泉という島崎藤村ゆかりの宿がある、その裏手に有乳湯という共同湯(午前6時から営業!)があり、これがツルツルヌルヌルの名湯で、大のお気に入り、上田駅からはクルマで3、40分ほどかかるが絶対にオススメである。ゆっくり浸かってから下諏訪へ向かう。沓掛温泉、鹿教湯温泉を通過して長門町から中山道142号線へ入って南下、和田峠を旧道トンネルでくぐり抜け、水戸天狗党の浪人塚を過ぎて降っていくと左手に諏訪下社の御柱祭で注目される木落し坂がある。さらに降ると下社春宮、そのまま進めば下社秋宮に出るが、直前のかめや旅館の手前を右折すると、下諏訪温泉みなとや旅館に着く。以上は私の寄り道ルートだから、中央線利用ならば下諏訪駅下車で徒歩10分の距離である。下社秋宮の門前に位置する温泉宿は5~6軒はあるだろうか。それぞれが古い歴史を感じさせる旅宿、旅籠という姿で、ここが中山道と甲州街道の合流点となっている。往時の中山道を往き来する者にとって、街道中唯一の温泉宿であり、難所である和田峠を越えてきた旅人にはなによりの湯浴みであったろうことは想像に難くない。下社秋宮の大鳥居下には神湯なる温泉が湧き出していて、この豊富な源泉が各旅館にも引かれているようである。
さて、みなとや旅館は木造2階建てのすっきりした姿である。部屋は2階に5つあるようだが、現在は3部屋3組のみで満室となる。この日は他に1組だけ。期待の温泉、小林秀雄命名するところの「綿の湯」へは順番に案内があってから入浴する。部屋はごくふつうの和室、冷蔵庫はなく、トイレと洗面所は共同である。だから、こうした施設だけみれば一昔前の商人宿に近いので何も知らない一見の客は驚くであろう。しばらくして入浴の時間、若女将さんが案内してくれる。玄関を出て庭の中へ入っていくと湯殿がある、庭湯という湯槽は1つのみだから、まぁ家族風呂というところである。扉を開けて入ると目の前に3畳弱ほどの広さの湯槽があるのみ、手前に脱衣場がありシャンプー類もおいてはあるが、カランもシャワーもないので手桶で湯槽から湯を浴びるしかない。無色透明の湯が溢れだしている湯槽の底には白い玉石が敷き詰められていて清らかである。やや熱めの湯は、たしかにやわらかくしっとり肌に馴染む感じがして大変心地よい。そして、この湯殿には屋根がかかっているのみで玄関、脱衣場以外の3方周囲には壁がない。簾がかかっていたものの、つまりは広めの庭に湯槽が切ってあるだけなのである。風通しはすこぶる良すぎて9月末くらいでちょうど良いのだから、冬になったらどうなるのかと心配になるようなお風呂である(この正月に宿から年賀状が届いたら「内湯ができました」とあった)。「綿の湯」をすっかり堪能して夕食。予備知識皆無だっただけにそのメニューに一驚した。メインは馬肉料理、馬刺しと桜なべでご飯。そして他のおかず類はすべて地の物である。諏訪湖のワカサギ、鮒の甘露煮、山菜の煮付けなど数種類、蜂の子に蝗にザザ虫、川エビなどなど。少しずつだが種類豊富で馬刺しの量が多めなのもあって満腹になる。どこの旅館でも出てくるマグロやサーモンの刺身類、天ぷら類、焼き物やら茶碗蒸しの類いなどいっさい出さないという潔い食事。ほぼ年間通して同じメニューだそうで、今なら地産地消などと言ってエコを気取る風があるが、みなとやは諏訪湖と周囲の山の物しか料理にしないのである。酒類は、エビスビールの大瓶とお酒(燗酒)のみの模様で、日本酒の銘柄も告げられないがおいしい酒だった。ちなみにザザ虫のなんたるかはよく知っていたけれど、販売しているものを見たこともなかったので初めて食し、こんなに美味いものかと感心した。1~3月の漁期にだけ採取できるという。
さて食事が始まると、テーブル横に女将さんが自分用の椅子を寄せて坐り、給仕と会話の相手をしまいまで続けるのである。白洲次郎、正子夫婦のことから里見弴、岡本太郎、永六輔などなどしゃべりだしたら止まらない。「小林秀雄先生には申し訳ないことをしました。お電話をいただいても満室でお断りしなければならないことの方が多かった」と言う。秋深くなると「山のきのこが食べたいのだが」と電話が来たとのこと。女将は昭和2年生まれの小口芳子さん。白洲次郎が初めて来たときに「君たちの仕事はこの諏訪湖をきれいにすることだ!」と言われたのが忘れられないとも話された。昭和の高度成長期には諏訪湖周辺にも大きな工場が出来てきて、諏訪湖が非常に汚れていたのだと言う。白洲夫妻の住まいである鶴川の武相荘や、鎌倉の小林邸、里見邸へもたびたび招待されたこと。小林邸(山の上の家でない方)へ行ったらルオーのパレットの絵を見せられて「良いだろう」って言われたけれど、自分には善し悪しが全然分からないのでずっと黙っていたこと。小林先生が亡くなられた際には弔問に訪れたが、ちょうどおおぜいの客が帰ったところに上がったので、奥様としんみりお話ができたこと等々、女将さんの昔話は夕餉の時間では終わらない。翌朝、まず「お風呂どうぞ」の電話で起こされて入浴の後、朝食、これも地の物尽くしで蕎麦の実の粥が美味、この時も給仕されながら昔の話は延々と尽きない。
ところで先の小林秀雄の言葉「諏訪には京都以上の文化がある」のエピソードは、宿のホームページに紹介されている。
小林……諏訪には京都以上の文化がある。
白洲(正子)……小林さん今、えらいこと言ったわよ、これは、あなたの家のことを言ってるのよ。証拠に書いとくから、紙もっていらっしゃい。(昭和55年5月)
おそらく夕食をしながらの会話だろうか。この、ふとした小林のつぶやきを白洲正子が聞き逃さずにいたおかげで、この言葉はみなとや旅館に残されているのであった。
では、仮にその時を夕食時としておくと、先に紹介したこの宿の料理に端を発した感想だという想定ができるかもしれない。一見したところ地味で、特別なところも見えない食材やその調理のしかたなどは、この諏訪の人々の長年の暮らしからごく自然に産み出されて来た調理方法で完成されたものであり、その結果としての味覚の数々なのだ。どこぞの名高い遠方からわざわざ手間暇かけて運び込んだ高級食材をふんだんに使用しているような、たとえば超一流の料亭料理とはまったく逆を向いた料理と言える。諏訪の気候風土に逆らわずその季節ごとの旬の食材を収穫し、そのたびごとに保存調理したり、その時にすかさず味わったりという工夫はこの土地で暮らしている人々の知恵として育まれてきた生き方そのものであったはずだ。
つまり、こうした人間の自然な生き方に寄り添った食事というものこそが文化というものなのだ、ということなのかもしれない。この諏訪と京都とを、「文化」を軸として対照させて述べるところ、「えらいこと言ったわよ」と受け止めた白洲正子の直観は誤っていない。
もちろん食事のことに止まらないとも言えよう。諏訪大社の存在、「地響きたてて曳かれる御柱は巨竜のようだ」と岡本太郎が感動して通い詰めた御柱祭のことは言うまでもないが、「京都以上の文化」というのは、諏訪四社を核として長大な時間を貫流している文化総体をも含み込んでいるのかもしれない。もし、この諏訪という土地に折り重なった膨大な時間の源を思うならば、京都という場所は、やはり東京と同じ一つの人為的な都市に過ぎないのであろう。
みなとやの夕食を終えてもう一風呂入った後に、丹前を着込んで秋宮前の大社通りをぶらぶら下り、路傍のベンチに座って夜景を眺めながら缶ビールを飲んでいると、ぽつりぽつりとこの町の人々が行き過ぎていく。ふと見ると手に懐中電灯を持ち、足下を照らしながら歩いて行くのである。夜道は闇のままなのだ。
翌朝出立の時、見送ってくれた女将さんに四社巡りをすると言うと、上諏訪大社の前宮と本宮の間にある資料館を是非見ろと言われた。言われるがまま訪ねてみて、また一驚した。そして文化というものについて何かを突きつけられた想いがしたのであった。これについてはいろいろ込み入った話になるので稿を改めて書いてみたい。
(了)