クラシック、中でも、オーケストラを聴くのが好きで、時間を見つけては、できるだけコンサートに通っている。東京周辺にはコンサートホールがいろいろあって、どこもよい響きがするが、どのホールでも、お気に入りは二階の少し左か右に寄ったところだ。オーケストラ全体の響きを感じられるし、個々の楽器の音もよく聞こえてくる。加えて、ここでは、オーケストラ全体が見渡せるし、それでいて、指揮者と奏者のやりとりの様子もよく見える。そこが見えるには、正面よりも、右か左にずれているのがよい。
コンサートに行くこと、それは二度とない、かけがえのない時間のその場に立ち会うということだ。コンサートによっては、テレビやラジオ用に録画・録音され、放送されることもあるし、CDやDVDで発売されることもある。しかし、その場にいた時の感動の再現には程遠い。オーディオマニアの人は機器の問題というかもしれないが、どんな機器であったとしても、その日のその場に立ち会った感覚というものは決して再現できるものではない。なにより、オーディオによる再現性の高さ云々の議論は音楽そのものを味わうところとは遠いところにあると思う。
音楽を楽しむ上でも、この再現性の高さ云々ばかりを気にする鑑賞は、一つの妨げになる。これは再生装置の普及の影響かもしれない。今日のコンサートでは、第一楽章のあそこのソロで疵があったとか、トランペットのミスが多かったとかと、楽譜通りの音が出ていたかどうかばかりを言う人がいる。たしかにミスは無いほうがよい。しかし、それが、この日に演奏された音楽全体の美しさや楽しみをどれほど傷つけたというのだろうか。自分が気付いた疵の数ばかりを数えているような聞き方をしていて、今日ここにいて、何が楽しかったのだろう、芸術としての音楽のどんなところと出会ったのだろうと思わざるをえない。
やはり、コンサートは音楽そのものに耳を傾け、それ全体を受けとめ、二度とないその場に立ち会えること、言い換えれば、自らのあらゆる感覚を総動員して、奏者たちが作り出す音や響きそのものを楽しみ、うまくいけば、作曲家とも出会うことができる、そういうかけがえのない瞬間を味わうのがよいのではないだろうか。
最近、急に眼が悪くなったのか、これまで使っていた眼鏡ではステージの様子がぼんやりとしか見えなくなっていた。これでは車の運転も危ないので、レンズを替えることにした。なるほど、レンズを替えると別世界のように見え方が違う。どこでも格段によく見えるようになった。
さて、肝心のコンサート鑑賞である。よく見えるステージは格別だ。指揮者と奏者のやりとりはよく見えるし、それぞれの奏者の顔もよくわかる。楽しそうに弾いているのを見ているだけでこちらもなんだかうれしくなる。お気に入りの席の選び方からしても、よく見えることを大切にしてきたし、そもそも、音楽は体全体のあらゆる感覚で感じるものなのであって、耳で聴くだけのものではない。音楽体験というのは、聴覚だけではない。レンズを替えた当初はそんなうれしさでうきうきしていた。しかし、しばらく経って気付いたのは、音楽を聴く上での感動は、ぼんやりとしか見えていなかった以前と大きく変わりがないということだ。それぞれのやりとりや表情がわかるのはうれしい。音楽そのものは素晴らしい。しかし、音楽体験の根本のところはあまり変わらなかった。何かが深まったようには感じない。事前の思いからすると期待外れとでも言ってよいかもしれない。ふとした気付きは、聴くことそのものをあらためて考えるきっかけになった。
もしかすると、よく見えるようになったことで、聴くことが疎かになったのかもしれない。そこで思い出したのは、小林秀雄のこの一節だ。
――見るとか聴くとかという事を、簡単に考えてはいけない。ぼんやりしていても耳には音が聞えて来るし、特に見ようとしなくても、眼の前にあるものは眼に見える。(中略)見たり聞いたりすることは、誰にでも出来る易しい事だ。頭で考える事は難かしいかも知れないし、考えるのには努力が要るが、見たり聴いたりすることに、何の努力が要ろうか。そんなふうに、考えがちなものですが、それは間違いです。見ることも聴くことも、考えることと同じように、難かしい、努力を要する仕事なのです。
(「美を求める心」、新潮社刊『小林秀雄全作品』第21集所収 p.244)
ミスがあったかどうかに気付く耳は簡単だ。楽譜を覚えていて、その違いだけに集中していればよい。しかし、音楽を受けとめる耳とはそんなものではない。音楽そのものの美しさ、そこに込められた情景、そして、あらゆる心の揺らぎ、そういうものを聴きとる、受けとめるものでなければならない。小林秀雄の言葉を借りるならば、「何んとも言えず美しい」という美の体験の「何んとも言えないもの」(同p.247)こそ、音楽から受けとめたいものなのではないだろうか。
こうした美は、漫然としていても受けとめることはできない。しっかり受けとめるには、視覚の場合であれば、時間をかけることができるだろう。絵を見たり、本を読むのであれば、自分がふと感じたところで立ち止まり、時間をかけることができる。何か他人の言葉をあてはめてすぐに解ろうと焦るのではなく、言葉にならないことも含め、自分自身が何か受けとめた実感を得るまで待つことができる。また、その日に何かを感じなかったとしても、次の機会に繰り返しじっくり眺めるというやり方もある。
聴くことの場合、こうした時間をかけて、じっくりと眺めるということができない。音楽は流れていってしまうし、その瞬間はかけがえのないものだ。だからこそ、自らの聴覚を鍛え、研ぎ澄まして、その場に立ち会うことが求められる。音楽はその時ごとに異なるかもしれないが、何度も通い、自分自身の音楽体験を積み重ねることによって、耳は鍛えられていくし、通り過ぎていく音楽を摑む力もついてくるのかもしれない。
以前、ダイアログ・イン・ザ・ダークを体験した際に、「耳を澄ます」という感覚を思い起こすことができた。真っ暗闇の中での一時間半の冒険は、視覚を閉ざすことによって、聴覚はもちろん、臭覚、触覚、味覚、様々な感覚が覚醒する瞬間の連続だった。聴覚が視覚を補い、それだけで自分と周囲との位置関係を判断できるようになるとは考えもしなかった。いかに日頃の生活が視覚に頼り切ったものだったか、そして、自分自身の聴覚が持っていたはずの能力を使い切っていなかったかを認識することができた。おそらく、誰もが潜在能力として持っているのだろう。こうした自らが原始より授かった力に気付き、他の手段でごまかすことなく、聴くことが難しく、努力を要する仕事であると深く感じて考えることができれば、自らの聴く力を開花させ、育てることは誰でもできることなのだろう。
小林秀雄は、孔子の「論語」に書かれた「四十にして惑わず、五十にして天命を知る、六十にして耳順う」における「耳順」は、音楽がたいへん好きな孔子だからこその言葉だと思われると言い、私たちは、人の言うことの中身を単に聴き、頭で判断するよりも、それを話す相手の声の音や調子そのものをしっかりと聴くことが大切だと説いている。そして、その力は、音楽をよく聴くことによって鍛えられるとしている。
――自分(亀井注:孔子)は長年の間、思索の上で苦労して来たが、それと同時に感覚の修練にも努めて来た、六十になってやっと両者が全く応和するのを覚えた、自分の様に耳の鍛錬を重ねて来た者には、人間は、その音声によって判断出来る、又それが一番確かだ、誰もが同じ意味の言葉を喋るが、喋る声の調子の差違は如何ともし難く、そこだけがその人の人格に関係して、本当の意味を現す、この調子が自在に捕えられる様になると、人間的な思想とは即ちそれを言う調子であるという事を悟る、自分も頭脳的判断については、思案を重ねて来た者だが、遂には言わば無智の自覚に達した様である、其処まで達しないと、頭脳的判断というものは紛糾し、矛盾し、誤りを重ねるばかりだ……
(「年齢」、同第18集所収 p.96)
そういう人生の積み重ねができるのだろうか。音楽も人生も、言葉にならないことばかりだ。だから、僕は今日もコンサートに行く。
(了)