「古事記」と物のあはれ

櫛渕 万里

なぜ、「古事記」は誕生したのだろうか。池田塾の門を叩き、ずっしりと重みのある『小林秀雄全作品』第27・28集の「本居宣長」のページを恐る恐るめくりながら古人の言葉に耳をすませてみようと心を決めたときに、最初に私の関心事となったのはそのことであった。「世の初め」とはなんだろう。漠然と、とてつもない妄想に包まれながら、初めてみる本居宣長の言葉を追えば追うほどその思いは深まっていった。村々の由来にどんな神がいたのか、和訓の発明はいかなるものなのか、文化の曙とはどういうことか。「どこに行きつくのか、楽しみですよ」と池田雅延塾頭がにやりと目を細めて仰った姿を今でもはっきり覚えている。それから、6年が経つ。

 

「本居宣長」の第30章には「古事記」の誕生した背景が詳しく書かれている。私はおよそ1300年も前の時代に何度も吸い込まれていくのだが、さて、その時代にその立場であれば、誰でもが「古事記」の撰録を志しただろうかと当時を想像してみる。稗田阿礼に古語の暗誦を命じるという形で「古えの言語を失わぬ事を主とした」、その天武天皇の内なる意識の表れに、私はもっと近づいてみたいと。

その入口の扉ではないだろうかと思われる一文の前で私は立ち止まった。「歴史家としての天皇の『哀しみ』は、本質的に歌人の感受性から発していた」(同章)。これはどういうことだろう。天武天皇が詠歌の達人として自然に対する感情表現が豊かであったとは単純に読めない。わざわざ、歴史家としての天皇と、歌人としての天皇の感受性という二つのことが同時に言及されている。ここに、歴史と歌のあいだには何か共通する連なりのようなものが潜んでいるのではないかと私は予感した。

 

そもそも、天皇の『哀しみ』とは何であったろうか。当時、知識人たちのあいだに「口誦のうちに生きていた古語が、漢字で捕らえられて、漢文の格に書かれると、変質して死んで了うという、苦しい意識が目覚める。どうしたらよいか」。漢字に熟練すればするほど、漢字は日本語を書くために作られた文字ではないという意識が磨がれ、日本語に関する、日本人の最初の反省が「古事記」を書かせたという。そのような苦しい意識を受けて、天武天皇の『哀しみ』について、小林秀雄は次のように伝えている。「書伝えの失は、上代のわが国の国民が強いられた、宿命的な言語経験に基づいていた。宣長に言わせれば、『そのかみ世のならひとして、万ノ事を漢文に書キ伝ふとては、其ノ度ごとに、漢文章に牽れて、本の語は漸クに違ひもてゆく故に、如此ては後遂に、古語はひたぶるに滅はてなむ物ぞと、かしこく所思看し哀みたまへるなり』という事であった」。

 

当時の背景として、壬申の乱を収束させ、新国家の構想を打ち出さねばならなかった天武天皇の統治者としての意識の他に、「古語」が滅びかねず、それが失われれば「古の実のありさま」も一緒に失われるという哀しみのこころをうちに深められていたことに「古事記」誕生の本質があることを知る。そして、自国の言葉の伝統的な姿の目覚めを感じていた人々の心を共有され、その国語意識が、天武天皇の修史の着想の中核をなしていたことには何度でも注目しておきたいと思う。

 

宣長は、そのような歴史家として歌人としての天皇の『哀しみ』をどのように心のうちに迎え入れていったのだろうか。

 

「源氏物語」を読み、「もののあはれを知る」という道を得た宣長は、それまで誰も読めなかった「古事記」を解読して「自然の神道」を明らめ、「歌の事」を「道の事」へ発展させたことを小林秀雄は教えてくれている。『全作品』第23集「考えるヒント(上)」に収められている「本居宣長——『物のあはれ』の説について」に詳しいが、そこには『あしわけ小舟』を引用して、「吾邦の大道と云ときは、自然の神道あり、これ也、自然の神道は、天地開闢神代よりある所の道なり、今の世に神道者など云ものゝ所謂神道は、これにこと也、さて和歌は、鬱情をはらし、思をのべ、四時のありさまを形容するの大道と云ときはよし、吾国の大道とはいはれじ」と記され、宣長ははっきりと、歌の大道は吾邦の大道ではないと区別していることがわかる。

 

宣長は、若年の頃から、「神書といふすぢの物」に関心を持っていた、そのことは、「本居宣長」第5章にすでに書かれている。「人の万物の霊たる所以は、もっと根本的なものに基く、と自分は考えている。『夫レ人ノ万物ノ霊タルヤ、天神地祇ノ寵霊ニ頼ルノ故ヲ以テナルノミ』、そう考えている。従って、わが国には、上古、人心質朴の頃、「自然ノ神道」が在って、上下これを信じ、礼義自ら備るという状態があったのも当然な事である」。

 

「古事記伝」のめざすところは、もともと、「自然の神道」という吾邦の大道であったのだ。歌の大道ではなかった。その神道は、いわゆる現在の宗教者がいう神道とは異なるということも明らかにしている。ただ、二つの別の道であっても、歌は「もとより我邦自然の歌詠なれば、自然の神道の中をはなるゝにはあらず」とも言っているのである。ここに、歴史と歌のあいだに共通して連なるものが何か潜んでいるのではないかという私の予感に対して、宣長は「もののあはれを知る心」の働きは続いていると応えてくれているのではないかと感じられる。

 

「宣長が抱いたのは、復古主義、上代主義への憧れではない、それは一種の自然哲学への想いであった」と小林秀雄は強調している。それは既に在るのだとして、「無数の人々が、長い間、事に当たり、物を尋ねて、素朴に問い、素朴に答えられたと信じた跡があるのだ。これを『吾邦の大道と云ときは、自然の神道あり』と宣長は考えたのである。而も、誰もこの跡を明らめた者はないではないか。誰も、この原本に、先入主を捨て、『物のあはれを知る心』だけで近付こうとした人はないではないか」という強い口調は、「源氏物語」で「もののあはれを知る」という歌の道で得た心の営みが、のちに、歴史の行く道は即ち言辞の行く道であるという徹底した思想へ宣長を導いていったことをも示唆しているように私には思える。

 

宣長は、「古事記伝」を完成させた寛政十年九月の夜、次の一首を詠んでいる。

「古事のふみをらよめば いにしへの てぶり ことゝひ 聞見るごとし」

 

「古事記」という「古事のふみ」に記されている「古事」とは何か。それは、過去に起った単なる出来事ではなく、古人によって生きられ、演じられた出来事であると言う。古人が生きた経験を、現在の自分の心のうちに迎え入れて、これを生きてみるという事であり、それが自分の現在の関心のうちに蘇って自ずから新しい意味を帯びるとき、それが「古へを明らめる」という事であるという。言い換えれば、「それは、人間経験の多様性を、どこまで己の内部に再生して、これを味う事が出来るか、その一つ一つについて、自分の能力を試してみるという事だろう」と続けられている。

 

「源氏物語」の注釈書である「紫文要領」には「目に見るにつけ、耳に聞くにつけ、身に触るるにつけて、その万の事を心に味へて、その万の事の心をわが心にわきまへ知る、これ、事の心を知るなり、物の心を知るなり、物の哀れを知るなり」と書かれていることを、ここで、私は想起する。やはり、歌の大道と自然の神道という二つの道には「もののあはれを知る心」の働きが続いていて、「歌の事」から「道の事」へ発展したことを教えられる。

 

「古事記」が誕生したときには、「もののあはれを知る」という言葉も「道」という言葉もなかったが、天武天皇は、人間経験の多様性を己れの内部に再生してこれを味う事に照らし合わせてみるならば、まさに、情をわきまえた歴史家として、その心を備えた人だったのではないだろうか。

(了)