十六 遺言書を読む(下)
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――山頂近く、杉や檜の木立を透かし、脚下に伊勢海が光り、遥かに三河尾張の山々がかすむ所に、方形の石垣をめぐらした塚があり、塚の上には山桜が植えられ、前には「本居宣長之奥墓」ときざまれた石碑が立っている。簡明、清潔で、美しい。……
小林氏は、「本居宣長」の執筆開始に先立って松阪を訪ね、山室山の宣長の墓に詣でた。第一章で、そこまでの経緯をひととおり書いて右のように言い、
――この独創的な墓の設計は、遺言書に、図解により、細かに指定されている。……
そう言って、氏は、すぐさま宣長の遺言書を私たちに読んで聞かせるのだが、氏のまぢかで私たちもその遺言書を読んでいくために、氏が引いている宣長の原文を、ここにも随時掲げていく。が、それらの表記については、適宜、漢字を仮名に改める、漢字に送り仮名を補い、漢文的表記は訓み下す、などの措置を講じることにする。明治に生れた小林氏は、正字・歴史的仮名遣いで教育を受け、漢文脈の語法も自ずと幼年時から身につけていた、だから、宣長の遺言書も、さほど苦にせず読んでいったと思われるのだが、昭和の戦後から平成の世に生れ、正字からも歴史的仮名遣いからも漢文脈からも遠ざけられてしまった私たちには、宣長の心意はむろんのこと、小林氏の思考を読み取ることが宣長の原文そのままでは心許ない、したがって、この措置は、私自身が宣長の原文を丁寧に読み、宣長と小林氏の心意を余さず汲んでいこうとしてのことである。
小林氏は、宣長自身が描いた墓の設計図ともいえるくだりをまずなぞり、次いで言う。
――葬式は、諸事「麁末に」「麁相に」とくり返し言っているが、大好きな桜の木は、そうはいかなかった。これだけは一流の品を註文しているのが面白い。塚の上には芝を伏せ、随分固く致し、折々見廻って、崩れを直せ、「植ゑ候桜は、山桜の随分花の宜き木を吟味致し、植ゑ申すべく候、勿論、後々もし枯れ候はば、植ゑ替へ申すべく候」。それでは足りなかったとみえて、花ざかりの桜の木が描かれている。遺言書を書きながら、知らず識らず、彼は随筆を書く様子である。……
宣長は、遺言書を書いているはずである、なのに、墓碑の背後に山桜を植えよと指示してそこに花ざかりの木を描き、あたかも随筆のような趣きになっている、と小林氏は言う。前回も言ったが、「遺言書」という言葉は人の死と結びついているため、この言葉を耳にしたり目にしたりするだけで私たちは多少なりとも身構える。が、小林氏は、宣長の遺言書は、世に言う遺言書とはちがう、宣長は、世間一般で見られる遺言書のようにはこれを書いていないとまず見て取るのである。墓碑の背後に植える桜の木を指定し、事後の世話まで指示し、花ざかりの木を書き添えまでする宣長の筆づかいが氏におのずと随筆を思わせたのだが、それというのも宣長には、別途に「玉かつま」と題した随筆集があり、小林氏は、そこに書かれている一文をも想起した。
――花はさくら、桜は、山桜の、葉あかくてりて、ほそきが、まばらにまじりて、花しげく咲たるは、又たぐふべき物もなく、うき世のものとも思はれず。……
山桜は、葉と花が同時に出る。長楕円形で紅褐色の新葉とともに淡い紅色の花がひらく。
――以上、少しばかりの引用によっても、宣長の遺言書が、その人柄を、まことによく現している事が、わかるだろうが、これは、ただ彼の人柄を知る上の好資料であるに止まらず、彼の思想の結実であり、敢て最後の述作と言いたい趣のものと考えるので、もう少し、これについて書こうと思う。……
宣長の遺言書は、彼の思想の結実である、遺言書と言うよりあえて述作と言いたいと小林氏は言う。「随筆」よりも踏み込んで、思想の成果が盛られた「述作」、すなわち「著作」ですらあると言うのである。氏が、四半世紀にもわたって心に得体の知れない動揺を強いられてきた宣長という謎と、いよいよ正対するに際して最初に宣長の遺言書を繙いたわけは、ここで言われている「思想の結実」「最後の述作」という言葉に集約されていると見てよいであろう。宣長の遺言書は、宣長の全著作の結語であり縮図であると小林氏は言うのである。
――遺言書は、次の様な文句で始まっている。書き出しから、もうどんな人の遺言書とも異なっている。「我等相果て候はば、必ず其日を以て、忌日と定むべし、勝手に任せ、日取を違へ候事、これあるまじく候」、書状が宛てられた息子の春庭も春村も、父親の性分と知りつつも、これには驚いたかも知れない。……
そして、葬式の段取りになる。
第一条には、宣長が息を引き取ってから葬送までの手順と心得が記され、次の条には、遺体を洗い浄める沐浴から鬚を剃り髪を結い、時節の衣服に麻の十徳を着せて木造りの脇差を腰に差し、と事細かに指示される。「十徳」は羽織に似た男性用の外出着で、宣長の時代には医師や儒者、茶人などの礼服だった。
続いて、納棺の要領である。
――沐浴は世間並みにてよろし、沐浴相済み候はば、平日の如く鬚を剃り候て、髪を結ひ申すべく候、衣服はさらし木綿の綿入壱つ、帯同断、尤も袷にても単物にても帷子にても、其の時節の服と為すべく候、麻の十徳、木造りの腰の物、尤も脇指計にて宜しく候、随分麁末にて、只形計の造り付にて宜しく候、棺中へさらし木綿の小さき布団を敷き申すべく候、随分綿うすくて宜しく候、惣体衣服、随分麁末なる布木綿を用ふべく候……
続いて、言う。
――扨、稿を紙にて、いくつも包み、棺中所々、死骸の動かぬ様に、つめ申すべく候、但し、丁寧に、ひしとつめ候には及ばず、動き申さぬ様に、所々つめ候てよろしく候、棺は箱にて、板は一通リの杉の六分板と為すべく、ざつと一返削り、内外共、美濃紙にて、一返張申すべく候、蓋同断、釘〆、尤もちゃんなど流し候には及ばず、必々板等念入候儀は無用と為すべく候、随分麁相なる板にて宜しく候……
「ちゃん」は木材に用いる防腐用塗料のことだが、ここまで読んで小林氏は言う、
――この、殆ど検死人の手記めいた感じの出ているところ、全く宣長の文体である事に留意されたい。……
「検死人」は変死者、または変死の疑いのある死体を調べる医者や役人のことだが、その検死人の手記とは、死体の有り様を克明に観察し、わずかな変事も見逃さずになされる記録である。宣長の遺言書は、そうした検死人の手記を思わせるというのである。それも、文体がである。遺体の身拵えから納棺の要領に至るまで、細々と指示する気の配り方、目の走らせ方はもちろんだが、小林氏が特に感じ入っているのは、たとえば木綿の肌合い、稿の手ざわりといった生活感覚が隅々まで行き渡り、淡々とはしているが気迫に満ちた語り口で指示されている、そこであろう。実際、宣長の遺言書のこのくだりは、生きている宣長が死んだ宣長の部屋へ通り、沐浴から納棺へと運ぶ手順を具体的に、てきぱきと差配している、そうも言いたいほどにその場がありありと目に浮かぶのだが、先に小林氏が、宣長の遺言書は彼の思想の結実であり、あえて最後の述作と呼びたいと言った所以の第一は、この「殆ど検死人の手記めいた感じの出ている」宣長の文体であろう。小林氏にこう言われて、「紫文要領」の文体、そして「古事記伝」の文体を思い浮かべてみる。
「文体」という言葉も、「謎」という言葉と同じように、小林氏の場合はかなりの奥行があるのだが、思想というなら「文体」も思想であろう。ここでまた思い返しておきたいが、かつて「思想」という言葉をめぐって小林氏は、「イデオロギー」との対比において「思想」の意義を明らかにした。「イデオロギー」は、人間が集団で行動するための原理であり論理であるが、「思想」はそうではない、――僕の精神は、何かを出来上らそうとして希望したり、絶望したり、疑ったり、信じたり、観察したり、判断したり、決意したりしているのだ、それが僕の思想であり、また誰にとっても、思想とはそういうものであろうと思う……(「イデオロギイの問題」、『小林秀雄全作品』第12集所収)、つまり、「思想」とは個人のもの、人間一人ひとりのものだと小林氏は言うのである。
ここから敷衍すれば、宣長の「紫文要領」は「源氏物語」を、「古事記伝」は「古事記」を、宣長が正しく読もうとして「希望したり、絶望したり、疑ったり、信じたり、観察したり、判断したり、決意したり」した宣長の思想の軌跡であり、その「希望したり、絶望したり、疑ったり、信じたり、観察したり、判断したり、決意したり」した精神のその時々の起伏が言葉に乗って外に現れたときの弾力感や速度感、それが文体である。そうであるなら文体は、思想そのものであるだろう。そういう宣長独自の文体が、「遺言書」にも顕著である、これから宣長の学問を読んでいくにあたり、まずはそこに心を留めておいてほしい、小林氏はそう言っているのである。
――扨て死骸の始末だが、「右棺は、山室妙楽寺へ、葬り申すべく候、夜中密に、右の寺へ送り申すべく候、太郎兵衛並びに門弟のうち壱両人、送り参らるべく候」とある。……
宣長の遺言書は、どんな人の遺言書とも異なっていると小林氏は言ったが、最も異なっている、と言う以上に、異様とさえ思わせられるのはこの遺体に関わる指示であろう。この指示は、沐浴から納棺までのことを言った第三条の直後、第四条にある。
本居家の菩提寺は樹敬寺と言い、松坂の中心部にあって本居家代々の墓もここにあったが、宣長はこれとは別に、自分ひとりのための墓を造ろうとした、それが今回の冒頭で見た山室山の奥墓である。「山室妙楽寺」と言われている「妙楽寺」は、樹敬寺の前住職が隠居所としていた寺で、山室山の中腹にあり、その住職の世話で宣長は山室山に墓所を得ることができたのだが、当時は遺体を埋葬する「埋め墓」と、墓参のための「詣り墓」、この二つの墓を造ることはふつうに行われていた。後にこの風習は、両墓制と呼ばれるようになるが、いずれにしても宣長が、樹敬寺の墓に加えて妙楽寺に墓を造ろうとしたこと自体は別段特異なことではなかった。しかし、遺体の扱い方は特異だった。
宣長自身、「送葬の式は、樹敬寺にて執行候事、勿論なり」と書き、「右の寺迄、行列左の如し」と言って葬列の組み方を詳しく図解するまでしている。棺に納められた遺体はまずは樹敬寺へ運ばれ、そこで葬儀を執り行い、そのあと「埋め墓」の地の山室山に移して埋葬される、それが通例の段取りであった。ところが、宣長の指示はそうではなかった。自分の遺体は、樹敬寺で行う葬儀の前の夜中、内々で妙楽寺へ運べ……、そして、葬儀当日の葬列を事細かに指図した最後に、「已上、右の通りにて、樹敬寺本堂迄空送也」と記している。
小林氏は、これを承けて言っている。
――葬式が少々風変りな事は、無論、彼も承知していたであろうが、彼が到達した思想からすれば、そうなるより他なりようがなかったのに間違いなく、それなら、世間の思惑なぞ気にしていても、意味がない。遺言書の文体も、当り前な事を、当り前に言うだけだという、淡々たる姿をしている。……
どういう葬式にしようとも、「彼が到達した思想からすれば、そうなるより他なりようがなかったのに間違いなく……」、ここに私は、小林氏が宣長の遺言書は彼の思想の結実であり、あえて最後の述作と呼びたいと言ったについての第二の所以を見る。
宣長は、自分の遺体は葬儀の前夜、秘かに山室の妙楽寺へ送れと書いた後、「右の段、本人遺言致し候旨、樹敬寺へ送葬以前、早速に相断り申さるべく候、右は、随分子細はこれ無き儀に候」と言っている。「随分子細はこれ無き儀に候」は、けっしてこれといった事訳があってのことではない、というほどの意で、「子細」は「格別の事情」「なんらかの訳」といった意味合だ。
――ところが、やはり仔細は有った。……
小林氏がこう転じた「仔細」は、「支障」「不都合」「異議申し立て」等の意である。
――村岡典嗣氏の調査によれば、松坂奉行所は、早速文句を附けたらしい。菩提所で、通例の通りの形で、葬式を済ませた上、本人の希望なら、山室に送り候て然るべしと、遺族に通達した。寺まで空送で、遺骸は、夜中密に、山室に送るというような奇怪なる儀は、一体何の理由に由るか、「追而、いづれぞより、尋等これあり候節、申披六ヶ敷筋にてこれあるべく存じられ候」というのが、役人の言分である。……
「いづれぞより」は、どこかから、とおぼめかして言っているが、ここは、御奉行様から、の婉曲な言い回しと解していいだろう。宣長の思想の前に、世の通念が立ちはだかった。小林氏は、ここに宣長の真骨頂を見た。
――実際、そう言われても、仕方のないものが、宣長の側にあったと言えよう。この人間の内部には、温厚な円満な常識の衣につつまれてはいたが、言わば、「申披六ヶ敷筋」の考えがあった。……
これが、小林氏が宣長の遺言書を読んで、最も読者に訴えたかったことである。宣長の遺言書を、彼の思想の結実であると言い、あえて最後の述作と呼びたいと言った言葉の源泉である。
「申披六ヶ敷筋」の「申披」は弁明あるいは釈明、「六ヶ敷」は難しい、「筋」は事柄、つまり、遺体を直接妙楽寺へ、それも夜中に人目を忍んでなどという振舞いは、どう釈明しようとも御奉行様に聞き入れてもらうことは難しい、役人はそう言ったのだが、この「申披六ヶ敷筋」は、宣長の全生涯において、急所と思える局面での言動には悉く言えることであった。わけても、「古事記伝」に代表される古学の見解・見識は、「申披六ヶ敷筋」そのものであった。小林氏は、ここではそこまで言ってはいないが、第四十章以下に精しく記される上田秋成との論争が、このとき氏の念頭にあったと思ってみることは許されるだろう。第四十章は、次のように書き起されている。
――宣長の学問は、その中心部に、難点を蔵していた。「古事記伝」の「凡て神代の伝説は、みな実事にて、その然有る理は、さらに人の智のよく知るべきかぎりに非れば、然るさかしら心を以て思ふべきに非ず」という、普通の考え方からすれば、容易には宜えない、頑強とも見える主張で、これは、宣長が生前行った学問上の論争の種となっていたものだが、これを、一番痛烈に突いたのは、上田秋成であった。烈しい遣り取りの末、物別れとなったのだが、争いの中心は、古伝の通り、天照大神即ち太陽であるという宣長の説を、秋成が難じたところにあった。……
小林氏は、「葬式が少々風変りな事は、無論、彼も承知していたであろうが、彼が到達した思想からすれば、そうなるより他なりようがなかったのに間違いなく……」と言った。だとすれば、自分の遺体の扱いについての法外な指示も、天照大神すなわち太陽であるという宣長の到達した思想の延長上にあったと言ってもいいことになるが、むろん小林氏は、ここではそこまで話を広げようとしているわけではない。ただあえて今、私がこういう並置を試みたのは、こうしてみることによって小林氏の言わんとしていること、すなわち、宣長の内部には、外からは想像できないほどに「申披六ヶ敷筋」の考えがあったということ、そのことがずしりと腹に入ると思ったからである。
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「申披六ヶ敷筋」の「申披」は、奉行所の役人が言った意味ではこの言葉本来の「弁明」あるいは「釈明」だが、宣長の上田秋成との論争にあっては「説明」あるいは「説得」になる。宣長は、自分が到達し、手中にした古学の確信を秋成に説明し、説得し、納得させようとしたが、それは竟に出来ずに終った。しかしこれは、宣長の説得能力や手法に難があった、不手際があったというような次元の話ではない。問題自体の本質的な難しさであった。手を変え品を変え、宣長は精魂こめて説得に努めたのだ、にもかかわらず事は成らなかった、なぜならそれは、はじめから他人を説得できるような、他人を承服させられるような性質の事柄ではなかったからだ。他の誰でもない、宣長なればこその直観力が観じとり、洞察力が見透しはしたが、その有り様を、世人にも合点させるに足るだけの言葉を人間は持たされておらず、宣長といえども立往生するしかなかった、あとは世人が信じるか信じないか、それしかなかった、ここぞと言うときの「宣長の考え」は、それほどの極限までつきつめられた「申披六ヶ敷筋」であった。
第二章に入って、小林氏は言う。前回も引いたが、
――明らかに、宣長は、世間並みに遺言書を書かねばならぬ理由を、持ち合せていなかったと言ってもよい。この極めて慎重な生活者に宰領されていた家族達には、向後の患いもなかったであろう。だが、これは別事だ。遺言書には、自分の事ばかり、それも葬式の事ばかりが書いてある。彼は、葬式の仕方については、今日、「両墓制」と言われている、当時の風習に従ったわけだが、これも亦、遺言書の精しい、生きた内容とは関係がない。私が、先きに、彼の遺言書を、彼の最後の述作と呼びたいと言った所以も、その辺りにある。彼は、遺言書を書いた翌年、風邪を拗らせて死んだのだが、これは頑健な彼に、誰も予期しなかった出来事であり、彼の精力的な研究と講義とは、死の直前までつづいたのであって、精神の衰弱も肉体の死の影も、彼の遺言書には、先ず係わりはないのである。動機は、全く自発的であり、言ってみれば、自分で自分の葬式を、文章の上で、出してみようとした健全な思想家の姿が其処に在ると見てよい。遺言書と言うよりむしろ独白であり、信念の披瀝と、私は考える。……
宣長が、遺言書を認めた時期の前後から見て、宣長に世間並みの遺言書を書かねばならない必然性はなく、そこから推せばこの遺言書は、人生いかに生きるべきかを七十年にわたって考え続けてきた宣長が、その必然として「自分で自分の葬式を、文章の上で、出してみようとした」思想の所産である、したがってこれは、遺言というより宣長の信念の披瀝と言えるものだと小林氏は言う。
氏はこれまで、宣長の遺言書は宣長の思想の結実であると言ってきた、それを一歩も二歩も進めて、ここでは「信念の披瀝」であると言っている。ではその「信念」とはどういうことだろう。「遺言書には、自分の事ばかり、それも葬式の事ばかりが書いてある」という指摘と、この後さらに続く小林氏の文意に照らせば、「信念」とは宣長自身の死に対する安心、ひいては死後の安心ということのようである。だが……、
――しかし、これは、宣長の思想を、よく理解していると信じた弟子達にも、恐らく、いぶかしいものであった。……
「申披六ヶ敷筋」の線上で、小林氏が目を凝らしたのはここであった。自分の遺体は夜、内々に妙楽寺へ送れ、この指示も訝しかったが、「遺言書」にはこうも書かれているのである。
――妙楽寺墓地の儀は、右の寺境内にて、能き所見つくろひ、七尺四方計の地面買取候て、相定め申すべく候……
この一条は、樹敬寺での葬儀と墓の設え、そして戒名についての指示を終え、新たに山室山に造る墓についての指示を始めたその最初に書かれている。
宣長の門弟は、全国に約五〇〇人いたというが、身辺には実子の春庭、春村とともに、宣長の家学を継いだ養嗣子大平がいた。その大平が、日記に書いている。寛政十一年の秋、ということは、宣長が遺言書を書く約一年前だが、宣長は大平にこう言った、自分の墓地を見立てたいので、近日中に門弟一人か二人を伴って山室の妙楽寺近辺へ行きたい……、これに対して大平は、こう答えた、この世に生きている者が、死んだ後のことを思い量っておくのはさかしら事、古意に背くのではありませんか……、しかし結局九月十七日、宣長は十人余りの弟子たちと出かけていき、山室山のなかによい地所を見立てた……。
小林氏は、以上の次第が記された大平の日記を読者に示して言う。
――大平の申分は尤もな事であった。日頃、彼は、「無き跡の事思ひはかる」は「さかしら事」と教えられて来たのである。大平の「日記」は、彼の申分が、宣長に黙殺された事を示している。無論、大平は知らなかったが、この時、既に遺言書(寛政十二年申七月)は考えられていたろう。妙楽寺の「境内にて、能き所見つくろひ、七尺四方計の地面買取候て、相定め申すべく候」と認めたところを行う事は、彼にとって「さかしら事」ではなかったのだが、大平を相手に、彼に、どんな議論が出来ただろうか。……
――彼は、墓所を定めて、二首の歌を詠んだ。「山むろに ちとせの春の 宿しめて 風にしられぬ 花をこそ見め」「今よりは はかなき身とは なげかじよ 千代のすみかを もとめえつれば」。普通、宣長の辞世と呼ばれているものである。これも、随行した門弟達には、意外な歌と思われたかも知れない。……
「大平を相手に、彼に、どんな議論が出来ただろうか」とは、まさに山室山に墓所を求めたという自分の振舞い、この一件については、常日頃から自分のことをよく知ってくれているにはちがいない大平が相手であろうと、詰まるところは「申披六ヶ敷筋」であったということだ。一言で言えば、宣長の墓所取得は、言行不一致なのである。宣長がこれまで門弟に説いてきたことと大きく矛盾するのである。そこは宣長自身、十分に心得ていただろう。
それまで、宣長は、大平たちにこう教えていた。いずれも第五十章に引かれている宣長の古道論「直毘霊」からである。
――人は死候へば、善人も悪人もおしなべて、皆よみの国へ行ク事に候、善人とてよき所へ生れ候事はなく候、これ古書の趣にて明らかに候也、……
――御国にて上古、儒仏等の如き説をいまだきかぬ以前には、さやうのこざかしき心なき故に、たゞ死ぬればよみの国へ行物とのみ思ひて、かなしむより外の心なく、これを疑ふ人も候はず、理窟を考る人も候はざりし也、さて其よみの国は、きたなくあしき所に候へ共、死ぬれば必ゆかねばならぬ事に候故に、此世に死ぬるほどかなしき事は候はぬ也、然るに儒や仏は、さばかり至てかなしき事を、かなしむまじき事のやうに、いろいろと理窟を申すは、真実の道にあらざる事、明らけし。……
人は、死ねば誰もが皆「よみの国」へ行く、古代にはそれを疑う者も理屈を言う者もいなかった……、そう教えてきた宣長が、いまは「よみの国」をさておいて、死後の住み家としての墓を建てようとしているのである、しかも、そのための土地を贖って詠んだ歌は、
――山むろに ちとせの春の 宿しめて 風にしられぬ 花をこそ見め
――今よりは はかなき身とは なげかじよ 千代のすみかを もとめえつれば
というのである。「山むろに ちとせの春の 宿しめて……」では、自分の死後の住み家がついに得られたことを手放しでよろこんでいる。というのも、それまでの宣長は、自分もやがては死ぬ、所詮は「はかない身」だと秘かに「なげいて」いた、だがもう嘆かなくてよくなった、未来永劫までの住み家がこうして自分のものになったからだと、これまでの宣長とは真反対ともいえる心の内を告白したかたちになっている。
随行した門弟たちには、意外な歌と思われたかも知れない、と小林氏は言っている。まちがいなく門弟たちは戸惑っただろう。この門弟たちだけではない、宣長の一番弟子をもって任じた平田篤胤も理解に窮し、この宣長の二首は、宣長がそれまでに表明した思想の不備や矛盾を自覚し、これを解決したものと解したという。
しかし、小林氏は、この二首はそういう筋の歌ではないと強く言い、重ねてこう言う。
――山室山の歌にしてみても、辞世というような「ことごとしき」意味合は、少しもなかったであろう。ただ、今度自分で葬式を出す事にした、と言った事だったであろう。その頃の彼の歌稿を見て行くと、翌年、こんな歌を詠んでいる、――「よみの国 おもはばなどか うしとても あたら此の世を いとひすつべき」「死ねばみな よみにゆくとは しらずして ほとけの国を ねがふおろかさ」、だが、この歌を、まるで後人の誤解を見抜いていたような姿だ、と言ってみても、埒もない事だろう。……
「よみの国 おもはばなどか うしとても……」は、よみの国のことを思えば、憂わしく疎ましく思えるばかりのこの世であるが、だからと言ってどうしてこの世を捨てられようか……だが、「死ねばみな よみにゆくとは しらずして……」は解を示すまでもあるまい、いずれも「よみの国」の存在を諾い、一身を託そうとする歌である。先の二首とはまた真反対の歌であるが、この二首を、まるで後人の誤解を見抜いていたような歌だと言ってみたところで意味はないと小林氏は言う。
今日、学者としての宣長に対する評価は不動と言っていいが、後続の研究者にとって始末に困る二つの顔が宣長にはある。実証的学問の先駆者・確立者としての顔と、その実証的研究の先で「神意」や「妙理」を強弁した神秘主義者・国粋主義者としての顔との不整合である。その後続研究者の当惑の代表的な例を、小林氏は明治生れの国学者で日本思想史学の開拓者、村岡典嗣に見てこう言っている。
――村岡典嗣氏の名著「本居宣長」が書かれたのは、明治四十四年であるが、私は、これから多くの教示を受けたし、今日でも、最も優れた宣長研究だと思っている。村岡氏は、決して傍観的研究者ではなく、その研究は、宣長への敬愛の念で貫かれているのだが、それでもやはり、宣長の思想構造という抽象的怪物との悪闘の跡は著しいのである。……
こうした後続研究者の当惑と悪闘、これらはすべて、宣長をその表面において誤解したことによるものであり、これを視野に入れて宣長の歌を読めば、「よみの国 おもはばなどか うしとても……」「死ねばみな よみにゆくとは しらずして……」の二首は、宣長が、後世の人間たちはこの宣長を、実証主義者であるか神秘主義者であるかと判断に迷って騒ぐであろうと、早々と見越して詠んだ歌とさえ受け取れるが……、とまず小林氏は言い、しかしそんなことは言ってみたところでどうと言うことはない、と言う。なぜなら、
――私に興味があるのは、宣長という一貫した人間が、彼に、最も近づいたと信じていた人々の眼にも、隠れていたという事である。……
本人を直かには知らない後世人が、頭でわかろうとして誤解するのは当然と言えば当然だ、だからそんなことは取るに足らない、だが宣長は、同じ時代に生きてすぐそばで寝起きしていた人々にさえ誤解されていた。これこそは宣長の宣長たる所以である。宣長をほんとうに知ろうとするなら、私たちも宣長のすぐそばで寝起きして、宣長を大平たちのように誤解する、そこまで行かなければ嘘である……。
そして氏は、これに続けて、すぐに言う。
――この誠実な思想家は、言わば、自分の身丈に、しっくり合った思想しか、決して語らなかった。その思想は、知的に構成されてはいるが、又、生活感情に染められた文体でしか表現出来ぬものでもあった。この困難は、彼によく意識されていた。だが、傍観的な、或は一般観念に頼る宣長研究者達の眼に、先ず映ずるものは彼の思想構造の不備や混乱であって、これは、彼の在世当時も今日も変りはないようだ。……
だとすれば、人が死後のことを思い量るのはさかしら事で、古意に背くと常日頃教えていた宣長が、最後は自らの死後を思い量って墓所を贖い墓を建てようとした、これこそは「彼の思想構造の不備や混乱」の最たるものであろうが、小林氏はその不備や混乱を論おうとはしない。宣長の不備や混乱を、そのまま読者に見せただけである。なぜか。
――宣長自身にとって、自分の思想の一貫性は、自明の事だったに相違なかったし、私にしても、それを信ずる事は、彼について書きたいという希いと、どうやら区別し難いのであり、その事を、私は、芸もなく、繰り返し思ってみているに過ぎない。宣長の思想の一貫性を保証していたものは、彼の生きた個性の持続性にあったに相違ないという事、これは、宣長の著作の在りのままの姿から、私が、直接感受しているところだ。……
――彼は、最初の著述を、「葦別小舟」と呼んだが、彼の学問なり思想なりは、以来、「万葉」に、「障り多み」と詠まれた川に乗り出した小舟の、いつも漕ぎ手は一人という姿を変えはしなかった。幕開きで、もう己れの天稟に直面した人の演技が、明らかに感受出来るのだが、それが幕切れで、その思想を一番よく判読したと信じた人々の誤解を代償として、演じられる有様を、先ず書いて了ったわけである。……
これが、小林氏の、宣長の遺言書を読み上げてのひとまずの結論である。宣長は、その思想を一番よく判読したと信じた人々をさえ誤解させた人なのだ、謎に満ちた人なのだ。小林氏は、その謎を解こうというのではない。謎のすぐそばで暮してみようというのである。――人生の謎とは一体何んであろうか、それは次第に難かしいものとなる、齢をとればとるほど、複雑なものとして感じられて来る、そして、いよいよ裸な、生き生きとしたものになって来る……サント・ブーヴのこの言葉が、いままた氏の耳に聞こえていただろう。
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さて、前後したが、宣長の遺言書を読んだ小林氏には、もう一件、どれほどの紙幅をさいてでも書いておかずにはいられなかったことがあった。宣長が、山室山の墓碑の背後に植えてほしいと言っていた山桜のことである。
遺言書の終りの方は、墓参とか法事とかに関する指示であるが、「毎年祥月、年一度の事でいいが、妙楽寺に墓参されたい」「これとともに、家では、座敷床に、像掛物をかけ、平生自分の使用していた机を置き、掛物の前正面には、霊碑を立て」「日々手馴れた桜の木の笏を、台に刺して、霊碑に仕立てる事、これには、後諡、秋津彦美豆桜根大人を記する事」と小林氏は宣長の言葉を写していったあとにこう言う。
――ここに、像掛物とあるのは、寛政二年秋になった、宣長自画自賛の肖像画を言うので、有名な「しき嶋の やまとごゝろを 人とはゞ 朝日にゝほふ 山ざくら花」の歌は、その賛のうちに在る。……
――だがここでは、歌の内容を問うよりも、宣長という人が、どんなに桜が好きな人であったか、その愛着には、何か異常なものがあった事を書いて置く。……
――宣長には、もう一つ、四十四歳の自画像がある。画面には桜が描かれ、賛にも桜の歌が書かれている。「めづらしき こまもろこしの 花よりも あかぬ色香は 桜なりけり」、宣長ほど、桜の歌を沢山詠んだ人もあるまい。宝暦九年正月(三十歳)には、「ちいさき桜の木を五もと庭にうふるとて」と題して、「わするなよ わがおいらくの 春迄も わかぎの桜 うへし契を」とある。桜との契りが忘れられなかったのは、彼の遺言書が語る通りであるが、寛政十二年の夏(七十一歳)、彼は、遺言書を認めると、その秋の半ばから、冬の初めにかけて、桜の歌ばかり、三百首も詠んでいる。……
――この前年にも、吉野山に旅し、桜を多く詠み込んだ「吉野百首詠」が成ったが、今度の歌集は、吉野山ではなく「まくらの山」であり、彼の寝覚めの床の枕の山の上に、時ならぬ桜の花が、毎晩、幾つも幾つも開くのである。歌のよしあしなぞ言って何になろうか。歌集に後記がある。少し長いが引用して置きたい。文の姿は、桜との契りは、彼にとって、どのようなものであったか、或は、遂にどのような気味合のものになったかを、まざまざと示しているからだ。……
こう言って、およそ一二〇〇字にも及ぶ「まくらの山」の後記が全文書き写される。書き出しはこうである。
――これが名を、まくらの山としも、つけたることは、今年、秋のなかばも過ぬるころ、やうやう夜長くなりゆくまゝに、老のならひの、あかしわびたる、ねざめねざめには、そこはかとなく、思ひつゞけらるゝ事の、多かる中に、春の桜の花のことをしも、思ひ出て、時にはあらねど、此花の歌よまむと、ふとおもひつきて、一ッ二ッよみ出たりしに、こよなく物まぎるゝやうなりしかば、よき事思ひえたりとおぼえて、それより同じすぢを、二ッ三ッ、あるは、五ッ四ッなど、夜ごとにものせしに、同じくは、百首になして見ばやと、思ふ心なむつきそめて、よむほどに、……
こういう文体で、切れ目なく歌集「まくらの山」の由来が記されるのだが、この文章の姿を、小林氏は、「桜との契りは、彼にとって、どのようなものであったか、或は、遂にどのような気味合のものになったかを、まざまざと示している」と言い、それに先立って、「まくらの山」の歌が詠まれたのは、寛政十二年の夏に遺言書を認めた直後、秋の半ばから冬の初めにかけてであったと言う。
遺言書には、こう書かれていた。
――墓地七尺四方計、真中少ㇱ後ㇿへ寄せて、塚を築き候て、其上へ桜の木を植ゑ申すべく候、植ゑ候桜は、山桜の随分花の宜き木を吟味致し、植ゑ申すべく候、勿論、後々もし枯れ候はば、植ゑ替へ申すべく候……
そう書いたすぐそばに、花ざかりの木が描かれていた。
小林氏は、墓に桜の木を植えよと言った遺言書のくだりとは別に、法事の手筈を指示したくだりに出る像掛物、そこに見える山桜の歌に即して再び桜を話題にし、これに続けて「まくらの山」へと話を進めるのだが、こうして「まくらの山」の後記を読ませてもらってみると、この後記の引用は、遺言書の桜の木を植えよと言ったくだりに施された小林氏の註釈、そういうふうにも読めてくる。氏にそのつもりはなかったとしても、「まくらの山」の後記を読んで遺言書を読み返せば、山桜を植えよと言った宣長の思いの深さ烈しさがいっそう妖しく立ってくるのである。宣長は、塚の上の山桜を、装飾として望んだのではない、目に見えるところに山桜がない、もう山桜は見られない、そうなってしまうのでは死ぬに死ねない、それほどに切実な願いであった。それはまさに、後記の最後で言われる「あなものぐるほし」、とても心を正常には保てない、気が変になってしまいそうだ、それほどの願いだったのである。
さらに言えば、宣長には、「源氏物語」も「古事記」も、山桜と同じように見えていたのではあるまいか。――山桜の、葉あかくてりて、ほそきが、まばらにまじりて、花しげく咲たるは、又たぐふべき物もなく、うき世のものとも思はれず……。「まくらの山」の後記を読んで、ふと私はそう思った。
小林氏は、昭和三十七年、六十歳の四月、信州高遠城址の桜を見に行って以来、毎年各地へ桜の名木を訪ねていった。福島県三春の「滝桜」、岩手県盛岡の「石割桜」……と、「本居宣長」連載中の十一年間、ほとんど止むことなく出かけて行き、昭和五十六年、死の二年前に訪ねた山梨県北杜の「神代桜」が最後になった。
昭和三十七年四月といえば、「本居宣長」を『新潮』に連載し始める三年前である。このときはまだベルグソン論「感想」を『新潮』に連載していた。したがってそれ以前には、宣長の「まくらの山」を読んではいたとしても実感には遠かったかも知れない。しかし、「本居宣長」の連載を始めた昭和四十年、岐阜県根尾谷の「淡墨桜」を訪ねた。「本居宣長」の第一回は、同年五月発売の『新潮』六月号に載った。第一回とあってその原稿は二月初旬に書き始められ、四月二十日頃に書き上がったと見られる。「淡墨桜」の見頃は年によってかなりの開きがあるが、多くは四月の初めから半ばないし半ば過ぎである。そうとすれば小林氏は、「本居宣長」第一回の原稿執筆最終盤の時期に「淡墨桜」を訪ねたことになる。「淡墨桜」はヤマザクラではなくエドヒガンだが、いずれにしても小林氏は、樹齢一五〇〇余年とも言われる「淡墨桜」を見るという自らの高揚感のなかで「まくらの山」を読んだ、その高揚感が「後記」の全文書写となって現れた、そうも考えられる。
翌四十一年は、秋田県角館へであった。毎年この木と決めて訪ねて行った桜の下で、氏は毎回、宣長と一緒にその花を見上げている気持ちになっていただろう。「あなものぐるほし」と言った宣長の心は、そのまま自分の心になっていることにそのつど思い当っていたであろう。
(第十六回 了)