小林秀雄先生の姿が写った、忘れられないモノクロ写真がある。仏閣境内の六地蔵の前を腕組みして歩いておられる。地面を向き口元が引き締まっている。一心に考え事をされているようだ。これは「芸術新潮」2013年2月号に掲載されたもので、仏閣とは、鎌倉市二階堂、薬師堂ケ谷にある古刹、覚園寺である。撮影時期は1962年。「本居宣長―『物のあはれ』の説について」に続く、「学問」、「徂徠」、「弁明」等、後に連載される「本居宣長」に向けた助走も始まっていた。
覚園寺は1296年の開山である。境内に初めて入った時のことも忘れられない。しとしと降り続く雨の中、両側に山が迫る薬師堂ケ谷の緩い坂道を登っていく。青葉に降り注ぐ雨音が心地よい。翠雨に佇む茅葺き屋根の薬師堂は、只管打坐する僧そのものだ。灯のない堂内に入る。本尊の薬師三尊が、見上げた眼に飛び込む。漏れそうになる驚歎を押し殺す。暗いだけに、その姿は大きく浮かび上がる。袖と裾先が長く下に垂らされていることで、天界からの来迎感も増しているように感じた。
しかし、私の眼を最も釘付けにしたのは、薬師三尊ではなかった。それは、三尊の右手奥、窮屈な空間に押し込められた阿弥陀如来坐像、通称「鞘阿弥陀」である。
真正面を見据える眼差しは鋭い、と同時にやさしく微笑む。これこそ坐禅中の僧がそのまま仏に化したよう。来迎や救済という作為を感じない、人間らしい御仏である。明治期の廃仏毀釈により廃寺となった、近隣の理智光寺の本尊からの客仏であり、鎌倉から室町期にかけて作られた。
そんな鞘阿弥陀は、理智光寺の本尊として、一体何を見つめてきたのか?
かつて同寺があった場所には石碑のみが立ち、こんな碑文が刻まれていた。
「此所は……五峯山理智光寺の址なり 建武二年淵辺伊賀守義博は足利直義の命を承け 護良親王を誅し奉りしが 其御死相に怖れ 御首を傍らなる薮中に捨て去りしを 当時の住僧拾い取り 山上に埋葬し奉りしといふ」
1335年、前幕府末期の執権の子、北条時行らが反乱を起こし鎌倉に迫っていた。尊氏の弟直義は、多勢を前に西走を決断したが、同時に監禁中の護良の処置を忘れることなく、配下の淵辺をして斬らせた。親王28歳の夏の事である。
後醍醐天皇の皇子大塔宮護良は、監禁以前、鎌倉幕府討幕のため執拗なゲリラ戦を続けてきた。そこに1333年、後醍醐軍を討伐せんとしていた足利尊氏が突如後醍醐側に寝返り、事態が急転。尊氏は護良軍と連合して北条氏配下の六波羅探題を撃破する。しかし護良は尊氏に幕府再興の野望ありと反発。一方、天皇専制という建武新政の本質を徹底したい後醍醐は、護良の軍事力をなんとか直接支配下に移行したい。
そんな三つ巴の混沌が続く中、後醍醐は、護良に謀反の計画あり、という尊氏からの上奏を契機に、鎌倉流罪を決めた。護良は、実父である後醍醐に必死の武功を認められることなく、直義の監視下で禁固の身となっていたというわけである。
「太平記」には、その夏の兇行場面が精しく描写されている。
淵辺が刀で首を掻こうとする刹那、護良は刃先をガシリと噛む。刀は切っ先一寸を口中に残し折れた。淵辺は改めて首を掻く。ぼとり、と落ちたその首は、咥えた刀を絶対離すまいと、淵辺を睨視する。そんな首を献上できるか、淵辺は藪にうち捨てて去った……
まさにその首を拾い弔ったのが理智光寺の住職であった。ちなみに、護良の墓は同寺跡のすぐ横の山上に、今もある。鬱蒼と茂る木々の中を、まっすぐな階段が154段。かなりの急登である。
「ここまで高い場所に埋葬しなければならなかったのか……」
私は山上まで一気に登ると、整わない息で、そんな言葉を漏らしていた。
「太平記」は、この場面もそうであるように、国内外の故事と関連付けられた記述も多く留意を要するが、その現場に立った私には、護良の亡骸に接した住職たちの祈りが静かに捧げられてきたことは、間違いないことのように感じられた。
さて、冒頭に紹介した写真が撮影された1962年7月前後の先生の著作には、ある表現がよく目に付く。(「小林秀雄全作品」第24集、新潮社刊、傍点筆者)。
「……眼前に在るのは、或る歴史の一時期の、或る民族の創った或る様式の建築物には違いないが、そういうこちら側から、先方に話しかける言葉が、いかにも空しいものと感ずる。向うから話しかけられる言葉を聞くからだ」(「ピラミッドⅡ」)
「(徂徠は)歴史とは何かと問うより、むしろ歴史の方から、君達は何かと問われている言葉を聞き別けようと覚悟した人だったと言ってもよい」(「考えるという事」)
そして、撮影直前の6月に発表された「鐔」ではこう言っている。
「私の耳は、乱世というドラマの底で、不断に静かに鳴っているもう一つの音を聞くようである」
いずれも、向き合う事物、わけても歴史という過去の事物に対しては、こちら側から積極的に語りかけるよりも、むしろ自然に聴こえてくるのを待つ、そんな態度を強調している。これを、池田塾頭による本誌「小林秀雄『本居宣長』全景(十三)」にある「現在と過去、自分と他者、それらが渾然一体となった」意味での「思い出す」ということ、と言い換えてもよいだろう。
それらの言葉を念頭におきつつ、鞘阿弥陀や「太平記」ともう少し向き合ってみよう。
「太平記」の当該箇所を読むと、王朝による直轄専制への武士の不安、戦の論功行賞や土地の所有権をめぐる雑訴判断等について、人々の不満暴発が近いことをひしひしと感じる。
「世の盛衰、時の転変、歎くに叶はぬ習ひとは知りながら、今の如くにて公家一統の天下ならば、諸国の地頭・御家人は皆奴婢・雑人の如くにてあるべし。……忠ある者は功をたのんで諛はず、忠なき者は奥に媚び竈を求め……」(巻12)
この雰囲気は、「京童ノ口ズサミ」を綴ったという「二条河原落書」とも共鳴する。
「此頃都ニハヤル物…俄大名…キツケヌ冠、上ノキヌ……賢者ガホナル伝秦ハ 我モ我モトミユレドモ……関東武士ノ籠出仕……諸人の敷地不定……朝に牛馬ヲ飼ナカラ、夕ニ賞アル功臣ハ……サセル忠功ナケレトモ、過分ノ昇進スルモアリ……」(「建武年間記」)
これは、京や鎌倉という都だけの話ではない。日本全土が恩賞の具と化し、目まぐるしい中央の動きは地方にも素早く波及した。そんな不穏かつ不安定な空気に覆われていた中でも、理智光寺の住職たちは、鞘阿弥陀への祈りを、「此頃都ニハヤル」世人の不安や不満を黙殺するように、ひたすら続けていたのであろう。
「鎌倉廃寺事典」(有隣堂刊)によると、理智光寺はその後衰微し、江戸期には東慶寺に属した。同書には、理智光寺が廃寺となる直前、江戸末期の状況を知る人の、貴重な語りが残されていた。
「山田時太郎氏は『……理智光寺はその石段前に二間に三間位の大きさの庫裏があり、隣にお婆さんが留守居をしてゐて、手習師匠でした。私共も習ひに通つたものです。廃寺となつたのは鎌倉宮(*)御造営の頃で、当時安置されてゐた安(阿)弥陀尊像は覚園寺に移されました』と語っている」。
私は、小さな庫裏の中の鞘阿弥陀の姿を、そして本尊を守ることを天命と知ったお婆さんがひとり祈りを捧げている姿を、思い浮かべてみる……。
お婆さんは、自らの現生の救済や後生の平安を頼んでいたのではない、極楽往生というような宗教思想とは無縁に、朝な夕なと無私無心に掌を合わせていた、ただそれだけではなかったか。
私は、紅葉しつつある木々に包まれた覚園寺を改めて訪れ、ひんやりとした薬師堂に佇む鞘阿弥陀を眼の前にして、自ずとそんなことを思い出していた。
後日談がある。鎌倉市立図書館で出会った、覚園寺の元住職、大森順雄氏の著書「覚園寺 不忘記」に、鞘阿弥陀の逸話があるので紹介したい。
1951年、大森氏が薬師三尊の修理費捻出に苦心していた頃、戦災で焼失した芝増上寺の本尊の代わりとして、鞘阿弥陀に白羽の矢が立った。下見に来た増上寺の管長さんに値段を尋ねられた大森氏は、腹中「たとえ覚園寺が貧乏していても仏を売って修理費を捻出しようとは毛頭思っていない。もしそんなことをしたならば、この寺の歴史にぬぐうことの出来ない汚点を残すことになる」と思い、即座に断った。
ただ、管長が帰った後もその是非に悩み、堂内で鞘阿弥陀と長い時間向き合ってみた時のことを、「……その時、『縁があれば行くさ、縁がなければ残るさ』という声をきいた。そしてあとは成行にまかせた。この鞘阿弥陀は鎌倉を去るのはお嫌だったのであろう。また御縁もなかったのであろう」と述懐している。
私は、鞘阿弥陀について、本稿始めに「来迎や救済という作為を感じない、人間らしい御仏」と書いたが、そう感得した理由が少しは分かったように思う。
小林先生は、「信仰について」(同第18集)のなかで、このように言っている。
「私は宗教的偉人の誰にも見られる、驚くべき自己放棄について、よく考える。あれはきっと奇蹟なんかではないでしょう。彼等の清らかな姿は、私にこういう事を考えさせる、自己はどんなに沢山の自己でないものから成り立っているか、本当に内的なものを知った人の眼には、どれほど莫大なものが外的なものと映るか、それが恐らく魂という言葉の意味だ、と」。
先生の言葉を借りれば、私がその御仏に見たものは、ただ真率に生き、静かな祈りを捧げる、理智光寺の住職や手習師匠のお婆さん、そして大森住職たちの魂だったのかもしれない。
いや、容易く分かった気になってはいけない。小林先生の言う「乱世というドラマの底で、不断に静かに鳴っているもう一つの音」を聴くには、まだまだ足りない。耳を澄ませて、上手に思い出すことが必要なのだ。もっと、もっと……。
(*)鎌倉宮は、主祭神を護良親王として明治天皇の勅命により造営された。鎌倉市役所の解説「かまくら観光」によると、明治新政府が「王政復古」のスローガンのもと、中央集権国家の形成に邁進していく上で、楠木正成に次いで取り上げたのが護良親王であった。ちなみに、建武新政以前の北条氏との戦闘のなかで、護良が奈良、般若寺に潜伏中、追手の捜索に遭うも仏殿の大般若経を収めた箱に隠れたため事なきを得たという逸話が、「般若寺の御危難」として「尋常小學読本」巻九(1918年発行)に、英雄譚のように掲載されていた。
【参考文献】
井上章『覚園寺』中央公論美術出版
佐藤進一『南北朝の動乱』(「日本の歴史9」)中公文庫
山下宏明校注『太平記』(「新潮日本古典集成」)新潮社
(了)