ヴァイオリニストの系譜―パガニニの亡霊を追って

三浦 武

その一 ヴァイオリニストの話をする前に

 

「休日は ?」「クラシック音楽を聴いています」「ほぉ ! いいですねぇ」……どこかひっかかる。たしかに「クラシック音楽」は「いい」。ところが、「いい」というそのニュアンスに抗う気分もこちらにはある。ロックにもジャズにも「いい」ものはあるし、クラシックにも、こういっちゃなんだがどうでも「いい」ようなものがたくさんあるような気がするし。そもそも「クラシック音楽」が豊かな趣味的生活の、さらには、ひょっとしたら、その趣味的生活を支える富裕な経済的生活の、その象徴みたいになっていないか。それが「いい」か?

「午後のひととき、クラシック音楽をお楽しみください」……こんな文句がラジオから聞えてきたこともあった。そのとき一緒にいたK君は不自然に黙った。K君は西洋美術史を専攻する若い研究者だが、話が音楽、ことにクラシックになると、哲学者の顔で語り始め、しばしば止まらなくなるので、K君の前でクラシック音楽を話題にするときにはしかるべき覚悟を要するのである。そんなK君の沈黙だ。私は傍らにあって彼の不機嫌を悟った。

「午後のひととき、か」

「僕はそんなふうに音楽を聴いたことはありません」

「同感。では ?」

「ええと……人生の一瞬 !」

 

最小限の食物が一個の身体を支えるとき、丹念に嚙みしめられる二百グラムのパンは、深く痛切な祈りがこめられた物となる。二百グラムの重さのまま、それをはるかに越えたいわば根柢的な重さを獲得する。

(『小さなものの諸形態』市村弘正)

 

その「深く痛切な祈り」へと飛翔する想像力がなければ、人は一切れのパンがもつ「根柢的な重さ」などに気づかぬまま、それを単なる消費物へと貶めてしまうだろう。現に今日、パンならぬ芸術でさえ、少なくともこの「豊かな」国では、人々のひとときの感傷に応えるだけの、果敢ない役を担わされていないか。ベートーヴェンが、南京虫に食われながら命がけで音楽を創り、吹雪の日に雷鳴とともに死んだのは、そんなもののためだったのか。そんなはずはないのである。芸術とは、その創造にせよ、あるいはその享受にせよ、人間が人間として生きるために必須の何かだったのである。それともそんなことは、私の狭隘な芸術観に過ぎないのだろうか。

 

そうかも知れない。しかしながらたとえば、二次大戦中のベルリンでのある出来事は、芸術というものの一つの可能性についてよくよく考えさせてくれるもののように思われる。

1945年1月23日、連日の空襲で壊滅寸前にあったナチス政権末期のこの都市にあって、ベルリン・フィルハーモニーは、なお定期演奏会を開催している。それは政権の矜持を懸けたプロパガンダではあっただろうが、そうした為政者の意図を超え、民衆の切実な思いの凝縮される場にもなっていたであろう。その演奏会は日常として継続されねばならなかった。ただ、一年前の空襲でフィルハーモニーの建物が破壊されたために、演奏会場だけはアドミラルパラストという赤い絨毯の敷かれた劇場に変更されていた。モーツァルトの歌劇「魔笛」より「序曲」、同じく「交響曲40番ト短調」、そしてブラームスの「交響曲1番ハ短調」、以上が当日のプログラムである。指揮、ヴィルヘルム・フルトヴェングラー。

既に前年、フルトヴェングラーは、自らの名がゲシュタポのブラックリストに加えられていることを知らされていた。また、ヒトラー側近の建築家として首都ベルリンの設計を担っていた閣僚アルベルト・シュペーアから、ただちに亡命すべきことを示唆されてもいた。そんな差し迫った状況に彼はあった。

連夜の空襲で、その日の開演も午後三時に繰り上げられていた。そしてプログラムはモーツァルトの「交響曲40番」へと滞りなく進んでいた。ところがその第二楽章でのこと、突然、館内は闇に閉ざされた。照明が落ちたのだ。空襲 ? だがフルトヴェングラーは陶酔から覚醒しなかった。突然の停電にもかかわらず、タクトは振り続けられた。団員たちは、一人また一人と弓を持つ手をおろし、口もとから管を離していった。もとよりそれもやむを得ないことであった。暗闇のなか、非常灯がいくつか青く光っている。第一ヴァイオリンだけが少し長く演奏していたようだが、それも束の間のことだった。やがて完全な静寂が訪れ、フルトヴェングラーの視線は音楽家たちの上にさまよい、次に背後の聴衆に振り向けられた。タクトはおろされた。それは……それは何かの敗北であった。

舞台裏にさがった団員たちは、ひとかたまりに佇んだ。その沈黙の真中にフルトヴェングラーは悄然と立っていた。聴衆は数人ずつになってロビーや中庭に散っていた。いつか夜になっていた。煙草に火を点け、手を擦り合わせながらひそひそと言葉を交わすが、彼らには何のあてもなかった。が、会場を離れる者もいなかった。皆、瓦礫を踏み越えてきたのである。これが最後だ、誰もがそう感じていたのである。

おおむね一時間の後、送電の復旧を待たずに、フルトヴェングラーは決断した。団員は持ち場に帰った。灯りのない舞台の上で、振り上げられるタクトがかすかな光芒となり、最後の音楽の最初の音が響いた。ティンパニーによる「運命」の鼓動。それは中断したモーツァルトではなく、プログラムの最後、ブラームスの「交響曲1番」第一楽章であった。それはいかにも必然的な選択であった。居合わせた人びとには、ブラームスを媒介とした沈黙の連帯こそが求められていたのである。フィナーレには黎明の旋律が「歓喜」の楽章のように流れ、聴衆は、おそらく、ベートーヴェンを起源として育んできたドイツ的伝統に陶酔したことであろう。そして緘黙の裡に熱狂したことであろう。と同時に音楽は、生存の意志を訴える叫びともなって、全楽章を貫いたのであった。

 

ブラームスは、この最初の交響曲の創作に、着想からおおむね20年の歳月を要した。ベートーヴェンの九つの交響曲があったからである。その九曲の正統に続く一曲、「第九」のあとの一曲を音楽史上に現す……ブラームスにとって、少なくとも交響曲を作曲するということは、そういうことに他ならなかった。それゆえ、数年に及んだ推敲を経てようやく発表されたこの作品には、自らベートーヴェンの後継たらんとし、歴史に推参せんとしたブラームスの、その芸術家としての人生を賭した格闘の痕跡があるはずである。ハンス・フォン・ビューローは、この一曲を「ベートーヴェンの十番目の交響曲」と称賛した。「ドイツ3B」だの「新約聖書」だのと、とかく気の効いた言い回しが印象的なビューローの言葉であるから、そのまま受け取るべきではないかも知れないが、またこの言葉によってブラームスはかえって迷惑を被ることもあったであろうから、「交響曲10番」みたいな言い方はやめておくのが賢明だろうが、それでも、そういいたくなるような鼓動は、たしかに音楽の底に脈打っているように思われる。ブラームスは1897年に没したが、その魂はベートーヴェン以来のドイツ音楽史に融け合って生き続けていたかも知れない。そして常に深い畏敬の念と謙譲とを以て史上の作曲家に向き合い、その作品を、既に存在するものとしてではなく、その都度生成されるべきものと考えたフルトヴェングラーが、いま、それを現前させた。ドイツに留まらざるを得ない多くの同胞のために、奈落にあっても生きるべき一つの根拠を提示し続けるために、亡命を選ばず母国に留まったフルトヴェングラー。そのベルリンでのフィナーレに立ち合った聴衆は、演奏会場の外で確実に進行する亡国の激浪に翻弄されながらも、信頼に足る唯一の実在である音楽に依ってそれに耐え、ドイツ民族の系譜に自らを見出したのではなかったか。

 

1945年のこのブラームスの1番は、フルトヴェングラー専属のレコード・エンジニアであり盟友ともいうべきフリードリヒ・シュナップ博士によって、停電復旧後の第四楽章のみではあるが、録音されている。

 

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注)

1945年1月23日……この日、同じベルリンで、ベートーヴェン「皇帝」も録音されている。ピアノ、ヴァルター・ギーゼキング。最初期のステレオ録音として再生音楽史に遺るものだが、そんなことより、背後に、高射砲か何かの不穏な音が聞こえるのである。

 

ヴィルヘルム・フルトヴェングラー(1886~1954)……ベルリン生まれ。1922年ベルリン・フィル常任指揮者に就任。ハンス・フォン・ビューロー、アルトゥール・ニキシュの後継である。1933年に帝国音楽院副総裁(総裁リヒャルト・シュトラウス)の地位に就くなど要職にはあったが、ヒンデミット事件での振舞い等から、単純にナチス側の人間だとは断定するわけにはいくまい。しかしながら、大戦勃発後もドイツに留まったということもあって、戦後は所謂「非ナチ化」のための裁判を闘わねばならなかった。アルトゥール・トスカニーニやヴラディミール・ホロヴィッツ、ナタン・ミルシテイン等のユダヤ系の音楽家による批判はその後も続いたが、イエフディ・メニューヒンはユダヤ人ながら、フルトヴェングラーを擁護したのであった。戦後のメニューヒンは「落ちた」との評判が専らだが、少なくともフルトヴェングラーとの共演は、そんなことはない。

 

ハンス・フォン・ビューロー(1830~1894)……フリードリヒ・ヴィーク(クララ・シューマンの父)、ついでフランツ・リストの就いて学んだピアニストであるとともに、リヒャルト・ワーグナーの高弟として近代的指揮法を創始した指揮者でもあった。ワーグナーの楽劇「トリスタンとイゾルデ」「ニュルンベルクのマイスタージンガー」の初演を担当。ベルリン・フィル常任指揮者。むろんワーグナー派に属したが、妻(リストの娘コジマ)がワーグナーのもとに走った頃から、徐々に一派を離れ、古典派ブラームスに与するようになった。バッハ、ベートーヴェン、ブラームスを「ドイツ3B」と名付けたり、またバッハの平均律クラヴィーアがピアノの「旧約聖書」であるのに対し、ベートーヴェンの三十二のソナタは「新約聖書」であると称賛したり、なかなかうまいことを言う、おそらくは当代きっての教養人であったと思われる。ブラームスの交響曲1番を「ベートーヴェンの10番」と賛辞を送ったのも彼だが、それをブラームスの驕りであるかのごとく受けとめる向きもあっただろう。

 

フリードリヒ・シュナップ(1900~1983)……音楽学を修めた哲学博士。実際の演奏の緊張や均衡を活かすべく、ただ一本のマイクロフォンの絶妙な配置によって優れた録音を実現した。フルトヴェングラーは「何も行わない」シュナップを信頼し、戦中録音のほとんどを委ねている。戦後は北西ドイツ放送局に移り、1951年にもフルトヴェングラーの指揮でブラームスの1番を録音した。このときのコンサート・マスターは、シュナップと同様にベルリンから北西ドイツ放送交響楽団に移籍していたエーリッヒ・レーンであった。1945年1月23日の演奏会のコンサート・マスターは、このレーンか、ゲルハルト・タシュナーか、ということになるのだが、私にはちょっとわからない。タシュナーはチェコの人であるし、1941年に入団したばかりであるから、あのライヴの民族的高揚ということを考えると、やはりレーンか……などと考えてみたくもなるが、根拠があって言うのではない。なおジネット・ヌヴーのソロとハンス・シュミット・イッセルシュテットの指揮によるブラームスのヴァイオリン協奏曲のライヴ録音があるが、それも、その音質の傾向から、シュナップ博士による録音ではないかと、私は想像している。無私の録音技術こそが、きわめて個性的な表現を実現するという逆説であるか。「そういう風にはみえないでしょうが、私は内気な人間なんです。出しゃばるのが嫌いなんですよ」。

(了)