ドガの絶望

坂口 慶樹

お前のベッドに求めるのは、夢など見ない 重い眠りだ、
後悔なんぞ 知るよしもない カーテンの下に 漂う眠り、
そいつはお前も、陰惨な 嘘八百のその後で 味わうやつ、
虚無ならば、お前のほうが、死者たちよりも 遥かに知る。
ステファヌ・マラルメ「不安」(抜粋)

 

いわゆる「印象派」と呼ばれている画家たちを中心とする「グループ展」は、1874年から84年にかけて、計8回開催された。彼らが、まだ危険な前衛派と見做されていた時代である。その過程で織りなされた画家たちの交流や時代の雰囲気が丹念にまとめられた、島田紀夫氏による「印象派の挑戦 モネ、ルノワール、ドガたちの友情と闘い」(小学館)を面白く読んだ。

この「グループ展」のすべての回に参加したのは、ピサロ一人であり、次いで7回参加したのは、ドガとベルト・モリゾ、そしてアンリ・ルアールであった。展名は、都度変更された。第三回の「印象派画家たち(アンプレッショニスト)展」という名称に強く反発し、第四回を「独立派(アンデパンダン)展」としたのは、ドガの熱意であった。そのため、第五回展には、ルノワール、シスレー、セザンヌ、そしてモネが参加を見送った。逆に、第七回では、ドガとセザンヌを除く、第一回展の主要メンバーが久しぶりに一堂に会した。

「グループ展」は、もともと、当時の美術に関する権威的団体である美術アカデミーや、それにより主催されるサロン(官展)が保守的な基準に固執していることに反発し、「国家の保護なしに画家自身が組織した『私的な落選者展』という意味を持」って船出をしたものであった。ところが、同展に対する考え方は、とくにサロンとの距離感について、画家一人ひとり異なっており、その溝は回を追うごとに深まっていった。とりわけ、ドガの主張は一貫して強硬で、当初はドガの芸術に傾倒していたカイユボットですら、「……ドガが私たちのなかに不和を持ち込んだのです。彼にとって不幸なことですが、彼の性格は善良とは言えません」という手紙をピサロに書くような始末であった。

 

そんな「グループ展」の第三回に展示されたと考えられている、ドガ(1834~1917)による作品「リハーサル室での踊り子の稽古」を、東京丸の内の三菱一号館美術館で開催されていた「フィリップス・コレクション展」(*1)で観た。色彩は抑えられており、水墨画のような印象さえ受ける。小さな作品ではあるが、眺めていると、我が身は、自ずとリハーサル室の中に引きずり込まれる。大きな窓から差し込む光のなか、中央にポワント(つま先立ち)の姿勢をとる踊り子。その奥で、ポーズをとり稽古をつける先生、談笑する踊り子たち、練習用のバーに腕を乗せて何か考え込むようなしぐさの踊り子も。その場の、動と静のすべてがまさに眼前で繰り広げられているように感じ、見飽きることがない。ドガらしい、動き(ムーヴマン)に満ちた静止画である。

小林秀雄先生も「近代絵画」(新潮社刊『小林秀雄全作品』第22集所収)に書いている通り、ドガはアングル(1780~1867)を非常に尊敬しており、「なんでもいいから、線を引く勉強をし給え。……出来るだけ沢山の線を引いてみる事だ」というアングルの言葉を金科玉条として、アングルが強く惹かれていたイタリアのルネッサンスに傾倒し、レオナルド・ダ・ヴィンチやラファエロなど巨匠の作品の模写を数多く重ねていた。

イタリア留学からパリに戻ったドガは、キャフェ・ゲルボアでマネやモネといった新進画家たちと出会う。ただ、彼らが官設のサロンに抗するように見出した、戸外での風景画制作に魅かれることはなかった。小林先生は言う。

「真に新しい仕事が起るのは、古い仕事への反抗によるものでもなければ、新しい個性の自己主張によるのでもない。古いものの実りある否定は、その徹底的な理解を通じてなされるより他はない。自己を実現することでもそうである。自己が徹底的に批判されていなければ、個性とは一種の弱点に過ぎない。ドガは、そういう芸術家の仕事に必至なパラドックスに悩んでいた。そういう時だ、ドガが馬と踊子という題材に出会ったのは」(同)

私が長く見入ってしまったのも、そんな踊り子作品の一つだった。

 

 

一連の「グループ展」もあえなく雲散霧消してしまうと、1892年の展覧会を最後に、ドガが作品を公開展示することは途絶えてしまった。その翌年、ルアール宅で知り合い、亡くなるまで交際が続くことになったのが、詩人で思想家のポール・ヴァレリイ(1871~1945)である。彼によれば、ドガは「偉大な、そして潔癖な芸術家であり、本質的に意識家であって、類なき、活気ある、精妙な、それ故に少しも休めない頭脳の持主であった。彼は頑固な意見や峻烈な批判の蔭に、何か言いようのない自分への疑惑と、自分の欲する通りに完全には為し得ない絶望とを隠していた」(「ドガ・ダンス・デッサン」吉田健一訳、新潮社版)

ドガの姪であるジャンヌ・フェブルによると、ドガは、友人の画家に宛てた手紙の中で、自らのことについて、こう告白している。

「私は、私自身に対して特別に厳しかったのです。……私はすべての人に対して、また私自身に対してさえ満足したことがなかったのです。この呪われた芸術のもとに、もし私が貴方の大変高貴で知的な精神を、そして恐らく、貴方の心さえも傷つけたとしたら、私は本当に貴方の許しを請わなければなりません」(「ドガの想い出」東珠樹訳、美術公論社)

ここに、周囲にはとげとげしく思われていたドガの、実体温を微かに感じないだろうか。そんなドガであるから、「制作の方法は、絶えずやりなおすということでした。ある動きのあるポーズを捕えるために、彼は二十回もデッサンをくり返し、カンヴァスや紙の上に幾度も幾度も描きなおすのでした」と、姪は思い出し、ヴァレリイもこう振り返る。

「ドガにとって一つの作品とは、無数の下絵と、それから又逐次的に行った計算との結果であった。そして彼には、或る作品が完成されるということは考えられなかったのに相違ないし、又画家が暫く立ってから自分が書いた絵を見て、それに再び手を入れたくならないでいられるということも、彼には想像出来る筈がなかった」

 

 

丸の内の美術館には、もう一枚、ドガの絵があった。

縦横ともに、1メートルを超える大きな作品、「稽古する踊り子」(*2)である。展示室に入ると、画中の壁のオレンジ色と、踊り子たちが身に着けたチュチュ(スカート)の水色のコントラストが、気持ちよく眼に飛び込む。二人は、練習用のバーに片足をかけて身体を伸ばしている。それぞれの足と手が左右対称をなし、構図としての安定感も心地よい。踊り子のひねった身体の動きとチュチュのふんわりとした感じに立体感を、手前の踊り子が画面から飛び出してきそうな錯覚さえおぼえる。

ただ、よくよく眺めていると、奇異な部分があることに気付く。左側の踊り子の左腕が二本。さらには、右側の踊り子の右腕の上にも、もう一本。二人が着地している足にも、どこか落着かない感じが残る。さらに時間をかけて見ていると、チュチュも、その外縁にうっすらと同じような形が見えてくる……

実は、これらのすべてが、ドガの修整の軌跡であった。本作は、彼が亡くなった時にアトリエの中にあったというから、私の眼が追っていたものは、まさに幾度も書き直され、逐次的な計算が行われていた跡だったのである。制作年表示には、「1880年代はじめ-1900年頃」とあったので、もしやと思い美術館に確認したところ、そんな背景を踏まえたもの、という回答であった。描き直しは、20年にも及んでいたのである。私は、今でも彼がその絵の前に立ち、黙々と修整を重ねている姿が見えたような気がした。

 

小林先生も触れているように、ドガは、十四行詩(ソンネ)をよく書いた。詩人のステファヌ・マラルメ(1842~1898)とも交流があり、手ほどきを受けた。ヴァレリイによれば、ドガがマラルメに対して、詩の制作の苦しさを訴えた時、マラルメは穏やかにこう答えたという。「だけど君、詩というのは思い付きで作るものじゃないんだ。……言葉でもって作るものなんだ」

このやりとりを踏まえて、ヴァレリイはこう言っている。

「ドガは、デッサンとはと言い、マラルメはことを教えたが、二人のこれ等の言葉はその各々の芸術に就て、それを『既に知っている』ものでなければ完全には、又有益には理解出来ないことを要約しているのである」

ドガによる習作過程は、「形式の見方」を、デッサンを通じて積み重ねていく訓練だったのであり、彼は、ソンネを制作する上でも同じように、脚韻や構成に関する約束事の中で最適な言葉を紡ぎ出していく作業を、一心に続けていったのではあるまいか。

姪によれば、ドガの詩作の努力が開花したのは、1890年前後、つまり彼が60歳の時であった。その頃になると、外出は減り、わずかな友人と会うだけで、大好きだったダンスの楽屋に通うこともなくなってしまう。大切な視力も、すでに落ち始めていた。

 

 

1912年、区画整理のため、25年間住んでいたアトリエからの強制的な立ち退きを余儀なくされると、ドガは完全に仕事を断念してしまった。78歳の彼は、既に全盲となり、聴力も低下した。彼は、友人のド・ヴァレルヌに宛てた手紙にこんな言葉を残していた。

「私は最後の日まですべてを見ることのできるあなたの目をうらやましく思います。私の目は、そのような喜びを与えてくれません。……」

一方、ヴァレリイは、末期のドガを思い出し、こう述懐している。

「ドガは常に自分のを感じ、又孤独さのあらゆる形態によってそれを感じていた人間であった。彼は性格から言ってであり、彼の性質の気品と特異さとによってであり、彼の誠実さによってであり、彼の驕慢な厳密さと主義や批判の不屈さとによってであり、彼の芸術によって、即ち彼が自分自身に要求したことに於てであった」

 

私は、ちょうどその頃に撮影されたと思われる、病床にあるドガの一枚の写真を見て、強い印象を受けた。天井を一心に見つめているようだ。見えていたのか…… いや、見えていた。彼は習作を続けていた。踊り子のデッサンを描いては消し、描いては消し……

彼は未完のデッサンを続けている。黙々と。今も、孤独と絶望のなかで。

 

 

(*1) 2019年2月11日で終了。

(*2) 本作と同様の構図のデッサン「踊り子のデッサン」(1900、オタワ・ナショナルギャラリー蔵)を、「近代絵画」(同前)の口絵で見ることができる。

 

【参考文献】

『マラルメ詩集』渡辺守章訳、岩波文庫

アンリ・ロワレット『ドガ――踊り子の画家』、創元社

(了)