似て非なるもの

安田 博道

「似て非なるもの」とはよく言われるが、誰もが知るように外見は似ているけれど本質は全く違うという意味である。『孟子』の尽心篇にある言葉で、そこでは「似て非なるものをニクむ」という強い言い方がされている。

ここで言われる「似て非なるものを悪む」という言い方は、わずかに「悪む」が加わっただけであるが、「似て非なるもの」とは微妙にニュアンスを異にする。普通には気が付かない違いだが、少なくとも本居宣長はその違いに敏感だったと思われる。彼にとってその違いは、まさに「似て非なるもの」だったのではないだろうか。

実は、それに気が付いたのは、宣長の次のような発言があったからだ。小林秀雄氏は、『くずばな』から宣長の発言を取り上げている。

 

「かの老荘は、おのづから神の道に似たる事多し、これかのさかしらを厭いて、自然を尊むが故也、かの自然の物は、ここもかしこも大抵同じ事なるを思い合すべし、但しかれらが道は、もとさかしらを厭ふから、自然の道をしいて立てんとする物なる故に、その自然は真の自然にあらず、もし自然に任すをよしとせば、さかしらなる世は、そのさかしらのままにてあらんこそ、真の自然には有るべきに、そのさかしらを厭ひ悪むは、返りて自然に背ける強事也、さて神の道は、さかしらを厭ひて、自然を立てんとする道にはあらず、もとより神の道のままなる道也、これいかでかかの老荘と同じからん、されど後世に至りて説くところは、かの老荘といとよく似たることあり、かれも自然をいひ、これも神の道のままなる由をいへば也、そもそもかくの如く、末にて説くところの似たればとて、その本をおなじといふべきにあらず、又似たるをしひて厭ふべきにもあらず、人はいかにいふ共、ただ古伝のままに説くべきもの也」(新潮社刊『小林秀雄全作品』第28集p.127)

(大意:老荘思想は、神の道に似ていることも多い。これは、さかしら(人の利口ぶった考え)を嫌い自然を尊ぶからである。自然はどこでも大体同じである、だが、老荘の道はさかしらを嫌うところから、あえて自然の道を立てようとしているので、その自然は真の自然ではない。もし自然に任せるのが良いのなら、世がさかしらな世界ならば、そのさかしらのままが真の自然ではないか。そのさかしらを嫌い憎むのは、却って自然とは違う無理強いになっている。神の道は、さかしらを嫌って自然を立てる道ではない。本来神の道のままの道である。これがどうして老荘と同じであるのか。しかし、後世に至って説くところは、あの老荘とよく似ていることもあり、老荘も自然を言って、こちらも神の道のまま(自然)を言うからであるが、そもそもこのように結果が似ているからと言って、本のところまでを同じと言ってはならない。また似ていることを無理に嫌ってもいけない。人はどのように言ったとしても、ただ古伝のままに説くべきである)

 

やや長い引用となってしまったが、ここに宣長の古道に対する認識と、彼の気質が同時に表現されている。特に注目して欲しいのは、宣長の「気質」のほうで、文の背後に微妙に見え隠れしている。まずは、何故このような発言が生まれたか、その背景をトレースしてみよう。

 

宣長に古道に入るきっかけを作ったのは賀茂真淵と言われている。真淵は常に古道理解のためには、からごころをはなれて、古言を明らかにするよう言っていた。それも、いきなり高い所(大義)を望むのではなく、低い所(古語の語彙)を学ぶように諭していた。その真淵が、晩年漢意に陥ってしまっていたという。宣長には、以下のような発言がある。

 

「そもそも此大人、古学の道をひらき給へる御いさをは、申すもさらなるを、かのさとし言にのたまへるごとく、よのかぎりもはら万葉にちからをつくされしほどに、古事記書紀にいたりては、そのかむがヘ、いまだあまねく深くはゆきわたらず、くはしからぬ事どもおほし、……又からごころを去れることも、なお清くはさりあへ給はで、おのづから猶その意におつることも、まれまれにはのこれるなり」(同第28集p.133)

(大意:そもそも真淵翁の古学の道を開かれた功績は、言うまでもないことだが、可能な限り「万葉集」に力を尽くされたことによって、「古事記」や「日本書紀」に至っては、その考えはまだひろく深くは行き渡らず詳しくないことも多かった……また、潔く漢意を去ることもなかったので、自ずからその意に陥ることもまれにはあった)

 

真淵が陥った「漢意」とは、老子であった。真淵によると、漢人(儒教)は人を貴いものと考える向きもあるが、真淵はそうは思わなくて、鳥や獣、魚虫、草木などは昔から変わらぬ姿であり、人だけは智を得たばかりにろくなことはしないという旨の、ほとんど老子の言葉とも取れるような発言をしている。さらに『国意考』では、「老子てふ人の天地のまにまにいわれし事こそ、天が下の道にはかなひ侍るめれ」と老子と古道が似ている事を指摘し、老子への共感を隠していない。

老子と言えば、有名な言葉に、「無為自然」があり、人間の作為をなくして自然のままであれという思想を持つ。老子の「人は地にのっとり、地は天に法り、天は道に法り、道は自然に法る」は、万物生成の最上位に自然を置くという思想であり、人はさかしらなことばかりするのでそれを戒め自然が最も貴いものとする教えである。老子の思想から感じるのは、人為道徳性を基とする儒教に対する意識であり、孔子の教えを覆す思想だったとも言える。このように、老子の自然と古道とが「似ている」なかで、冒頭の『くずばな』にある発言に繋がるわけである。

 

では、もう一度、『くずばな』での宣長の発言に戻ろう。宣長は、古道と老子との「自然」は、「似て非なるもの」と感じていた。結果は同じように見えるけれども、元々の自然の考え方が違うというのである。例えば、人為的であろうとそれを排除した自然であろうと、現実の世の中は、それらがあいまいにからみあっている世界である。むしろ世界を二つに分け、それらを対立して見せる事のほうが不自然ではないかと。対立を作ってその上下関係を逆転して自然を唱えてみても、それは宣長が見る自然ではない。宣長は、神の道はそれ(老子の自然)とは関係が無いと繰り返し言っている。

ところで、ここで注目して欲しいのは、老子の自然に異を唱えた発言に続く、「又似たるをしひて厭ふべきにもあらず」という条である。“似て非なるもの”と、老子の自然を斥けたすぐ後で、その見解に「しひて厭ふべきにもあらず」と続ける。今言ったばかりの見解を引っ込めるような発言であり、言い換えれば“似て非なるものだが、強いて悪むべきではない”と言っているのである。そこには自分の認識を押し通す主張がない。何故か。実はここに、宣長の「自然」を見る鍵がある。小林氏は、『本居宣長』で、宣長の思想に、あるいは古道についての宣長の説明を紹介する時に、「自ずから……」とか、「自然に覚る……」とか、「無理なく……」とか、物との親身な経験を重ねる事で「自然」に身に付く認識を語っているのが散見される。一例を挙げてみよう。

 

「宣長は、自然という語を、『おのづからしかあること』という国語の伝統的な意味合いから、逸脱しないように用いている。……それは『万葉』で、『自然』と書かれ、『おのづから』と訓まれているのと同じ古語なのである」(同第28集p.67)

 

宣長と老子の自然観を見ていると、ある種の寛容性の有無にその違いを感じる。宣長の自然観は(もちろん上代の人々の神を崇める自然観に通じているのだけれど)、古伝に対して「直く安らかに」見る態度があった。上代の人々は、自然に対し、畏怖と魅惑が入り交じった心をそのまま素直に感受していたが、これは、諦念とか憧憬とは微妙に異なるある種の寛容性を伴ったものだと感じられる。自分の運命は天与のものとして引受ける態度とも言えるが、宣長はその思想に心から共感していたと思う。宣長は、その「直く安らか」な古代人の生き方に「自然」を見たのではないだろうか。

 

「似て非なるもの」に戻ろう。宣長にとっては、老子の説く自然と古道とは、「似て非なるもの」だった。それは、先例にもある通りいたるところで発言していたようだ。ただし、宣長は「似て非なるものを悪む」という言い方は決してしなかったであろう。それは、『本居宣長』を何度か読むうちに自ずとそのような確信に導かれた。「似て非なるもの」は、人の“認識”を表す言葉であるが、「似て非なるものを悪む」は、人の“主張”となる。これまでみてきた通り、宣長はこの種の“主張”に極めて敏感であり慎重であった。

 

最後に、小林氏の言葉を紹介して終わりにしよう。

「彼(宣長)の思想は、戦闘的な性質の全くない、本質的に平和なものだったと言ってよい。彼は、自分の思想を、人に強いようとした事もなければ、退いてこれを固守する、というような態度を取った事もないのだが、これは、彼の思想が、或る教説として、彼のうちに打建てられたものではなかった事による。…(中略)…彼は『物まなびの力』だけを信じていた。この力は、大変深く信じられていて、彼には、これを操る自負さえもなかった。」(同第27集p.52)

(了)