小林秀雄「本居宣長」全景

池田 雅延

十八 気質の力(下)

 

 

前回、すでに見たが、小林氏は第三章に、次のように書いている。

―常に環境に随順した宣長の生涯には、何の波瀾も見られない。奇行は勿論、逸話の類いさえ求め難いと言っていい。松阪市の鈴屋遺跡を訪れたものは、この大学者の事業が生れた四畳半の書斎の、あまりの簡素に驚くであろう。……

そして、言う。

―彼は、青年時代、京都遊学の折に作らせた、粗末な桐の白木の小机を、四十余年も使っていた。世を去る前年、同型のものを新たに作り、古い机は、歌をそえて、大平おおひらに譲った。「年をへて 此ふづくゑに よるひると 我せしがごと なれもつとめよ」。勉強机は、彼の身体の一部を成していたであろう。……

続けて、言う。

―鈴の屋の称が、彼が古鈴を愛し、仕事に疲れると、その音を聞くのを常としたという逸話から来ているのは、誰も知るところだが、逸話を求めると、このように、みな眼に見えぬ彼の心のうちに、姿を消すような類いとなる。……

今回を始めるにあたって、いままた私がここへ立ち返るのは、小林氏が、宣長の書斎の「あまりの簡素に驚くであろう」と言い、「逸話を求めると、みな眼に見えぬ彼の心のうちに姿を消すような類いとなる」と言ううちのひとつ、宣長が死の前年、久しく使っていた簡素な勉強机を大平に譲ったという逸話の意味を読み取っておきたいからである。

一読したところ、この勉強机の話は、別段どうということもない一老人の身じまい話と映る。しかし、この逸話をここに配した小林氏には、然るべき意図があったはずだと思ってみる余地はあるのである。

氏は、早くから「歴史の瑣事さじ」を重視していた。昭和十五年(一九三〇)一月、三十七歳で発表した「アラン『大戦の思い出』」(新潮社刊『小林秀雄全作品』第13集所収)ではこう言っている。

―アランなどを読んでいて、いつも僕が感服するのは、彼の思想の頂と人生の瑣事との間を、一本の糸がしっかりと結んでいる点だ。……

また、同じ昭和十五年九月の『維新史』(同)ではこう言っている。

―歴史は精しいものほどよい。瑣事というものが持っている力が解らないと、歴史というものの本当の魅力は解らない様だ。……

小林氏は、アランに即して言ったことを、宣長についても感じていたのではないだろうか。アランは、その著「精神と情熱とに関する八十一章」を小林氏自身が訳しもしたフランスの思想家だが、ここのアランを宣長に置き換えてみれば、宣長の思想の頂と人生の瑣事、さしあたっては愛用の勉強机を大平に譲ったという瑣事との間を、一本の糸がしっかり結んでいるということになる。事実、宣長が勉強机に添えた歌、「年をへて 此ふづくゑに よるひると 我せしがごと なれもつとめよ」は、この机にまつわる出来事の二、三ヵ月前、宣長が書いた「うひ山ぶみ」を連想させるのである。

小林氏は、第六章に至って「うひ山ぶみ」に言及し、学問はどんな方法であってもよい、人それぞれであってよい、肝腎なことは、年月長く倦まず怠らず、励み努めること、これだけである、という弟子への諭しを強い語気で紹介する。これこそはのっぴきならない宣長の思想の頂である。大平に贈った歌の心は、まさに「年月長く、倦まず怠らず励み務めよ」なのである。

そして『維新史』で言っていたことは、「本居宣長」を『新潮』に連載していた当時もしばしば氏の口に上っていた。宣長の全貌に照らして言えば、勉強机のことは紛れもない瑣事である、しかしこの瑣事は、本居宣長という歴史の彫りを、いっそう深くして後世に伝えていると小林氏は見たのである。

そういう小林氏の歴史観を頭において、宣長の瑣事をもう一つ、味わっておこう。これも第三章に書かれている。

宝暦七年(一七五七)の秋、宣長は五年余りの京都遊学を終えて松坂に帰ったが、その途次、旅日記を書き続けた。小林氏は、「そういう旅の日記の中に、例えば、こんな事を書いている彼の心も面白い」と前置きして書いている。

―一向に見どころもない小川の橋を渡る時、川中に、佐保川と書いた杭の立っているのが、ふと眼についた、なるほどこの辺りには、名所が限りなくあるに違いない、而も、大方はこの類いの有様であろう、と彼の心はさわぐ。長谷寺に詣で、宿をとり、寝ようとして、女に夜着を求めたが、「よぎ」という言葉がわからぬ。「よぎ」を「ながの」と呼ぶのを知り、さまで田舎でもないのに、いぶかしいと、その語源について考え込んでいる。……

「佐保川」はいわゆる歌枕で、千鳥や蛍の名所として古歌に再々登場する。「夜着」を「ながの」と呼ぶのは方言だが、これを方言と聞き流さずに宣長は考えこむ。小林氏は、これらをいちいち記す宣長の心を面白いと言っている。この瑣事に、「生れついての学者、宣長」の気質が生き生きと脈打っているからである。

 

5

 

さて前回、宣長生来の学者気質を染めた「町人の血」のことを言い、「紫文要領」の「後記」に息づく「町人心」の気概を見たが、武士とは異なり「主人持ち」ではない町人宣長は、武士には見られぬ融通無碍の町人気質を具えていた。

寛政四年(一七九二)、六十四歳の年、加賀藩から仕官の話がもたらされた。藩校明倫堂の落成に際し、国学の学頭として如何かという照会であった。これに対し、宣長は、門人の名で答えた。

「相尋申候処、本居存心は、最早六十歳に余り、老衰致候事ゆゑ、仕官もさして好不申、まして遠国などに引越申候義、且又江戸を勤申候義などは、得致間敷いたすまじく候、乍去、やはり松坂住居、又は京住と申様成義にも御座候はば、品に寄り、御請申候義も可有之候、(中略)右之通、本居被申候義に御座候。左候へば、京住歟、又は松坂住居之まゝに御座候はゞ、被参候義可有之と奉存候。江戸勤は、甚嫌之由に、常々も被申候事に御座候、且又、御国に引越などの積りには、御相談出来申間敷候」

本人に尋ねたところ、もはや六十歳を超えて老い衰えているので仕官はさほどに好まず、ましてや遠国に引っ越したり江戸で勤めたりすることはできないと思います、しかし松坂に住んだままか、京都に住んでというようなことであれば、お話次第でお受けすることがあるかも知れません……、まずそう言って、念を押すように、というよりとどめをさすように言うのである、江戸勤めはこれを甚だ嫌う由を常々申しており、御国の加賀に引っ越してというおつもりであれば、ご相談には応じられないでしょう……。

これを読んで、小林氏は言う。

―加賀藩で、この返事をどう読んだかを想像してみると、こんな平凡な文も、その読み方はあんまり易しくないように思われる。当時の常識からすれば、相手は、ずい分ていのいい、あるいは横柄な断り方と受取ったであろうか。事は、そのまま沙汰止みとなった。しかし、現代人には、そのまことに素直な正直な文の姿はよく見える。それは、ほとんど子供らしいと言ってもいいかも知れない。先方の料簡などには頓着なく、自分の都合だけを、自分の言いたい事だけを言うのは、恐らく彼にとっては、全く自然な事であった。……

「こんな平凡な文も、その読み方はあんまり易しくないように思われる」には、文章は、書かれた事柄の意味だけでなく、常にそれを書いた人間の心中を読もうとする小林氏の姿勢が現れている。しかもここでは、それを読んだ相手の側から読み解こうとしている。ここにも「思想のドラマ」がある。

「現代人には、そのまことに素直な正直な文の姿はよく見える」と言っている「文の姿」は、これまでにも何度か言及された「文体」であり、「まことに素直な正直な」は宣長の気質を言ってもいる。小林氏は、古今を問わず「素直な、正直な」文体とその書き手を最も高く評価したが、この場合は、すなわち、宣長の加賀藩への返書の場合は、「当時の常識からすれば」そうそうはありえないことだった。小林氏は、その素直な、正直な文の姿は「現代人にはよく見える」と言っているが、これは当時とちがって封建道徳に縛られていない現代人には、というほどの意だと言うならそれはそうである、しかしいまは、もう一歩踏み込んでおきたい。宣長がこの返書を送った相手は知行石高百万石で聞こえた大藩、加賀藩である。小林氏にしてみれば、加賀藩というだけで、それが並々ならぬ大藩であったとは言わずもがなのことであっただろうが、加賀藩は、知行高のみならず、学術面でも並みの大藩ではなかったのである。

宣長が仕官の誘いを受けた寛政四年、藩主は第十一代治脩であったが、その年、藩校明倫堂が創設された。この藩校の設立は、第五代綱紀以来の悲願であった。綱紀は、水戸の徳川光圀の甥だったが、光圀の感化を受け、光圀と並んで元禄期を代表する向学大名として名を馳せた。この連載の第九回でも見たとおり、光圀は「大日本史」の編纂を進める一方で契沖に「萬葉集」の解読を委嘱するなど、文事の事業を続々敢行したが、その光圀と競うようにして綱紀は書物の蒐集、編纂、学者の招聘に努め、ついには新井白石をして「加賀は天下の書府なり」と言わしめるに至った。しかし、藩校の設立は、諸般の事情によって第十代重教、第十一代治脩まで待たなければならなかった。こうしてようやく設立された明倫堂は、士庶共学を標榜し、藩士の子弟に限らず庶民の入学を許した。この四民教導の思想は当時としては画期的であったと言われている。

加賀藩から宣長に届いた招聘状に、そこまで記されていたかどうかはわからない。だが宣長は、少なくとも五代藩主前田綱紀の名と、白石の讃辞「天下の書府」は仄聞していたであろう。恐らくはそれらのいっさい、承知のうえでの辞退だったのである。しかもその意思表示には、相手が大藩であることによる気後れも、「天下の書府」におもねる気遣いもない。小林氏は、「現代人には、そのまことに素直な正直な文の姿はよく見える」と言っているが、ではいざこういう文を書かねばならないとなったとき、むしろ現代人には宣長のような素直な正直な文は書けなくなっているのではあるまいか。したがって、素直な正直な文を素直で正直と見てとって、そこから素直で正直な人間をそれと認めることはできなくなっているのではあるまいか。これに続く小林氏の文章は、そこに注意して読む必要がある。

「自分の都合だけを、自分の言いたい事だけを言うのは、恐らく彼にとっては、全く自然な事であった」、この前に「先方の料簡などには頓着なく」とある。何事であれ他人との交渉に際して、こういう自分本位の態度や流儀を通すことも小林氏は高く評価した。これは、世にいう利己主義や自己主張ではない、自分を自分らしく現わそうとすれば、まずは他人を黙殺しなければならないということを、小林氏自身が美と交わった経験から会得していたからである。

昭和十七年五月、四十歳で書いた「『ガリア戦記』」(同第14集所収)でこう言っていた、

―美というものが、これほど強く明確な而も言語道断な或る形であることは、一つの壺が、文字通り僕を憔悴させ、その代償にはじめて明かしてくれた事柄である。美が、僕の感じる快感という様なものとは別のものだとは知っていたが、こんなにこちらの心の動きを黙殺して、自ら足りているものとは知らなかった。……

本居宣長も、小林氏には、「こちらの心の動きを黙殺して、自ら足りている」人間と見えていたであろう。

また『学生との対話』(新潮社刊)では、ベルグソンの逸話を語っている。ヘーゲルといえば、ベルグソンから見れば約九十年の先達で、世界に知られた大哲学者であったが、ベルグソンはある時、若い友人のクローチェに、僕はまだヘーゲルを読んだことがないのだと、恥しそうに言ったという。ベルグソンも哲学者であった。当時すでに、哲学者ともあろう者がヘーゲルを読んでいないなどは考えられないことであったが、小林氏はこういう面でもベルグソンに魅かれると言う。ベルグソンは、時代の潮流とか世評とかには目もくれず、自分に切実な問題だけを考え続けていた。小林氏の眼には、ベルグソンもまた、「こちらの心の動きを黙殺して、自ら足りている」人間と映っていたであろう。

 

6

 

こうして、加賀藩からの仕官話に関わる一件においても、宣長の「町人心」は鮮やかに躍っているのだが、ここまで語り終えて、小林氏は新たな命題の火蓋を切る。

―「物まなびの力」は、彼のうちに、どんな圭角けいかくも作らなかった。彼の思想は、戦闘的な性質の全くない、本質的に平和なものだったと言ってよい。彼は、自分の思想を、人に強いようとした事もなければ、退いてこれを固守する、というような態度を取った事もないのだが、これは、彼の思想が、或る教説として、彼のうちに打建てられたものではなかった事による。そう見えるのは外観であろう。彼の思想の育ち方を見る、忍耐を欠いた観察者を惑わす外観ではなかろうか。……

新たな命題は、「物まなびの力」である。この言葉は、第四章の冒頭に引かれた宣長の晩年の手記、「家のむかし物語」のなかに見えていた。次のようにである。

―のり長が、いときなかりしころなどは、家の産、やうやうにおとろへもてゆきて、まづしくて経しを、のりなが、くすしとなりぬれば、民間にまじらひながら、くすしは、世に長袖とかいふすぢにて、あき人のつらをばはなれ、殊に、近き年ごろとなりては、吾君のかたじけなき御めぐみの蔭にさへ、かくれぬれば、いさゝか先祖のしなにも、立かへりぬるうへに、物まなびの力にて、あまたの書どもを、かきあらはして、大御国の道のこゝろを、ときひろめ、天の下の人にも、しられぬるは、つたなく賤き身のほどにとりては、いさをたちぬとおぼえて、皇神たちのめぐみ、君のめぐみ、先祖たち、親たちのみたまのめぐみ、浅からず、たふとくなん……

これを承けて、まず小林氏は、「吾君のめぐみの蔭にかくれる」とは、寛政四年、紀州藩に仕官したことをさしていると言い、同じ年に加賀藩からも仕官の話があったと続けていて、その加賀藩からの仕官の話に私は先回りして深入りしたかたちになったのだが、紀州藩への仕官にしても加賀藩からの誘致にしても、「物まなびの力」の賜物であったことには変りがなく、そういう世間対応の言動においても宣長の「思想は戦闘的な性質の全くない、本質的に平和なものだったと言ってよい」のだが、それというのも、学者としての宣長の思想そのものが「戦闘的な性質の全くない、本質的に平和なもの」であり、宣長は「自分の思想を他人に強いようとしたこともなければ他人から固守しようとしたこともない」、そういう宣長の思想の性質と穏健な態度は、彼の思想がなんらかの教義や教説として打ち立てられたものではなかったことによっている。だが、思想というものの通念にとらわれ、宣長の思想もまたなんらかの教義や教説として打ち立てられたと解する者が少なくない、しかし、そう見えるのは、宣長の思想の外観に過ぎない、宣長の思想はどういうふうに育ったか、そこを忍耐強く見ようとしない単なる観察者が惑わされる外観である、と小林氏は言う。ちなみに、「なんらかの教義や教説として打ち立てられた」思想、すなわち、宣長とは対極に位置する思想の例としては、平田篤胤の「霊の真柱」を思い併せておいてもよいだろう。篤胤の思想については、第二十六章で詳述される。

では、なぜ、こういう忍耐を欠いた、外観に惑わされた解釈が横行するか。それは、得てして研究者というものは、宣長に限らず思想家と見ればただちにその思想の形体や型を掠め取り、論文という名の標本箱に収めて安心しようとするからである。

しかし、小林氏は、第二章では、

―宣長の述作から、私は宣長の思想の形体、或は構造を抽き出そうとは思わない。実際に存在したのは、自分はこのように考えるという、宣長の肉声だけである。出来るだけ、これに添って書こうと思う……

と言い、ここでは次のように言う。

―私には、宣長から或る思想の型を受取るより、むしろ、彼の仕事を、そのまま深い意味合での自己表現、言わば、「さかしら事」は言うまいと自分に誓った人の、告白と受取る方が面白い。……

自己表現、告白……、小林氏は、この二つの言葉を、形体、構造、型と対置して、特に読者の注意を促すというほどのこともなく出してきている。が、実はこの二語は、小林氏によって用いられるときは、よほどの注意が要るのである。しかもこの二語は、二語相俟って「本居宣長」を貫く龍骨である。二語ともに、ここが全篇通じての初出である。

 

近現代の学問は、理科系、文科系を問わず、客観的、実証的であることを絶対条件とし、したがって研究者の自己表現や告白などはもってのほかとされている。しかし、小林氏の言う学問、学者は、まったく逆である。「本居宣長」を『新潮』に連載していた昭和五十年九月、『毎日新聞』で行った今日出海氏との「交友対談」(同第26集所収)で、氏はこう言っている、

―長いこと「本居宣長」をやっているが、学者ということについていろいろ考える。宣長は学者に違いないが、今の学者とは初めから育ちが違う。これが本当に考えられていない。そういうことを考えないで宣長を研究し、今日の学者根性の方へあちらを引き寄せてしまう。……

さらに、

―今西錦司という人の書いた「生物の世界」という本が面白いから読んでみるよう知人に推められた。読んだら面白い。彼の学問上の仮説をとやかく言うことはできないが、門外漢にも面白く読めた。今西さんは、「これは私の自画像である」と書いている。これは今の科学ではない、私の科学、いや、私の学問だ、と言っている。私の学問がどこから出て来たかという、その源泉を書いた、とそう言うんだ。源泉とは私でしょう。自分でしょう。だから結局、これは私の自画像であると序文で書いている。面白いことを言う学者がいるなと思った。宣長の学問も自画像を描くということだったのだ……。

今西氏は、小林氏と同じ年、明治三十五年(一九〇二)に生れた生物学者、人類学者だが、今西氏が自分の学問の源泉を語って「私の自画像」と言っているのを承けて、小林氏は「宣長の学問も自画像を描くということだったのだ」と言っている。

「自画像」とは、とりもなおさず「自己表現」である。先の引用文に見られるとおり、小林氏にあっては「自己表現」と「告白」とはほぼ同義であるが、氏が言う「自己表現」、「告白」は、今日一般に言われている「自己表現」「告白」とはまるで違うということを、ここでもう知っておく必要がある。

氏は昭和十年、三十三歳で発表した「私小説論」(同第6集所収)で、正面から「告白」の問題に取り組んだが、一八世紀のフランスでジャン=ジャック・ルソーが書いた「告白録」(「懺悔録」)以来、欧米でも日本でも告白は文学表現の一大主流となり、わけても日本では田山花袋や島崎藤村らの自然主義文学でさかんに「私」の告白が行われた。それを端的に言えば、自然主義文学の告白にはまず「私」があり、その「私」が既成の「私」に閉じこもって「私」を誇示するのである。

だが、小林氏が言う「告白」は、そうではない。昭和二十三年、四十六歳で手を着けた「ゴッホの手紙」(同第20集所収)で氏はこう言った、

―これは告白文学の傑作なのだ。そして、これは、近代に於ける告白文学の無数の駄作に対して、こんな風に断言している様に思われる、いつも自分自身であるとは、自分自身を日に新たにしようとする間断のない倫理的意志の結果であり、告白とは、そういう内的作業の殆ど動機そのものの表現であって、自己存在と自己認識との間の巧妙な或は拙劣な取引の写し絵ではないのだ、と。……

ということは、自然主義文学の「告白」は、「自己存在と自己認識との間の取引の写し絵」だったのだが、ゴッホは、弟テオに宛てた何通もの手紙にそういう写し絵は描かず、常に自分が自分自身であるために自分自身を日に新たにしようとして続けた内的作業、その内的作業のほとんど動機そのものを書き送った、それが彼の「告白」だったと小林氏は言い、「本居宣長」でも氏は、「告白」という言葉を「ゴッホの手紙」と同じ語感で用いているのである。

したがって、「本居宣長」第四章で言われている、

―私には、宣長から或る思想の型を受取るより、むしろ、彼の仕事を、そのまま深い意味合での自己表現、言わば、「さかしら事」は言うまいと自分に誓った人の、告白と受取る方が面白い。……

の紙背には、「宣長の学問は、宣長が常に自分自身であろうとし、そのために自分自身を日に新たにしようとして続けた内的作業の動機そのものの表現である、そこでは、自己存在と自己認識との間の整合を図るような『さかしら事』は、一言も言われていない……」と書かれていると読んでよいのである。

小林氏は、続けて言う。

―彼は「物まなびの力」だけを信じていた。この力は、大変深く信じられていて、彼には、これを操る自負さえなかった。彼の確信は、この大きな力に捕えられて、その中に浸っている小さな自分という意識のうちに、育成されたように思われる。……

こうして宣長の学問は、言うは易く行うは難い、内的作業そのものであった。先に、「鈴の屋の称が、彼が古鈴を愛し、仕事に疲れると、その音を聞くのを常としたという逸話から来ているのは、誰も知るところだが、逸話を求めると、このように、みな眼に見えぬ彼の心のうちに、姿を消すような類いとなる」と言われていたのも、宣長の生き方の基本が、徹底した内的作業だったからだと言えるだろう。しかし、宣長の心のうちに姿を消す逸話にも、小林氏は宣長の強い意思を読み取っている。

―彼は、鈴の音を聞くのを妨げる者を締め出しただけだ。確信は持たぬが、意見だけは持っている人々が、彼の確信のなかに踏み込む事だけは、決して許さなかった人だ。……

「鈴の音を聞く」は「古人の声を聞く」であり、「確信は持たぬが、意見だけは持っている人々」とは、己れの内面を顧みようなどとは考えもせず、外に向かって「さかしら事」を口にし続ける「物知り」たちである。

小林氏の関心は、常に人間の内面にあった。ここでまた先回りするようだが、氏はこの先、第八章で、宣長の先蹤の一人となった中江藤樹に言及してこう言うのである。

―彼は、天下と人間とを、はっきり心の世界に移した。眼に見える下剋上劇から、眼に見えぬ克己劇を創り上げた。……

 

7

 

さて、先に小林氏は、宣長の思想は、忍耐強くその育ち方を見るということを行わなければ外観に惑わされるという意味のことを言ったが、第三章で宣長の出自から宣長の気質の育ち方を見た氏は、第四章で宣長の思想の育ち方を見ていくのである。さらに言えば、「本居宣長」という仕事の全体が、宣長の思想の育ち方をよく見よう、見届けようとしてのものだったと言えるのであり、第四章は、その生育劇の幕開きなのである。

 

小林氏はまず、宣長の養子、大平が書いた恩頼図に眼をやる。これは大平が同門の門人に与えた戯れ書きであるが、宣長の学問の由来や著述、門人等を図示したもので、系譜は徳川光圀、堀景山、契沖、賀茂真淵、紫式部、藤原定家、頓阿、孔子、荻生徂徠、太宰春台、伊藤東涯、山崎闇斎と多岐にわたっている。

しかし小林氏は、それらの名より、大平がこうして宣長の学問の系譜を列記した中に「父主念仏者ノマメ心」「母遠キオモンパカリ」と記していることに注目し、「曖昧な言葉だが、宣長の身近にいた大平には、宣長の心の内側に動く宣長の気質の力も、はっきり意識されていた」と言う。「父主」は宣長の父、定利、「母刀自」は宣長の母、勝であるが、大平は宣長の学問の系譜に宣長の両親も数え、宣長は仏教信者であった父定利の実直、母勝の深慮遠謀、そういう気質を受け継いでいたと言うのである。

そのうえで小林氏は、宣長の「玉かつま」から引く。

―おのれ、いときなかりしほどより、書をよむことをなむ、よろづよりもおもしろく思ひて、よみける、さるは、はかばかしく師につきて、わざと学問すとにもあらず、何と心ざすこともなく、そのすぢと定めたるかたもなくて、たゞ、からのやまとの、くさぐさのふみを、あるにまかせ、うるにまかせて、ふるきちかきをもいはず、何くれとよみけるほどに十七八なりしほどより、歌よままほしく思ふ心いできて、よみはじめけるを、それはた、師にしたがひて、まなべるにもあらず、人に見することなどもせず、たゞひとり、よみ出るばかりなりき、集どもも、古きちかき、これかれと見て、かたのごとく、今の世のよみざまなりき……

そして、氏は言う。

―ここで、宣長自身によって指示されているのは、彼の思想の源泉とも呼ぶべきものではないだろうか、そういう風に読んでみるなら、彼の思想の自発性というものについての、一種の感触が得られるだろう。……

宣長の思想は、「もののあはれ」の説にしても「直毘霊」の論にしても、外部からの働きかけを受けて、あるいは示唆を受けて成ったものではない、すべては宣長の内部に発した思想、すなわち、自発した思想であった。そういう宣長内部の自発ということの感触が、「玉かつま」に記されている「おのれ、いときなかりしほどより、書をよむことをなむ、よろづよりもおもしろく思ひて、よみける……」から得られると言うのである。

「源泉」の底から「自発」するもの、それはすぐには掬い上げることも掴みとることもできない、ただ感触が得られるだけである。小林氏は、晩年、「微妙」ということをしばしば口にしたが、ここで言われている「自発性というものについての感触」も、そういう「微妙」のひとつであろう。

だが、

―これには、はっきりした言葉が欠けているという、ただそれだけの理由から、この経験を、記憶のうちに保持して置くのが、大変むつかしいのだ。……

「この経験」とは、宣長の思想の自発性というものについて、一種の感触が得られたという経験である。ところが、この経験は微妙である、微妙であるがゆえに聞いた者それぞれの感触に留まって言語化できない、そのため、世の宣長研究者たちは早々とこの感触を忘れてしまい、ということは、宣長の思想の自発性ということは念頭から消してしまい、宣長の思想を解体し、抽象し、そこに外からの働きかけや示唆を想定してこれを理解しようとする。

なるほど、

―彼の学説の中に含まれた様々な見解と、これを廻る当時の、或は過去の様々な見解との間の異同を調べてみるという事は、宣長という人間に近附くのに有力な手段であり、方法であるには違いなかろう……

だが、この研究方法が、

―いつの間にか、方法の使用者を惑わす。言わば、方法が、いつの間にか、これを操る人の精神を占領する。占領して、この思想家についての明瞭正確な意識と化して居据る。……

方法というものは、どんな場合も、いつの場合も、その場しのぎのものである。当面の課題に対して当面の結果を得るために、人であれ物であれ相手の一側面を測るか削り取るかができるだけのものである。しかし方法の使用者は、そうこうするうちその方法を選んで駆使する自らの正当性を保持することに躍起になり、いつしか相手を自分の方法に従わせてしまう。そうして示された研究成果の中の研究対象は、もはや死物である。研究対象をこの世の存在物として存在せしめている所以も微妙そのものであって、研究者の方法の網の目にはかからないからである。

近現代の学問にあっては、研究対象をどう取り扱うのが望ましいかという、いわゆる方法論の議論が盛んである。この、学問における方法論の弊害ということも、「本居宣長」の重要なテーマであり、第六章であらためて精しく言及されるが、「本居宣長」を『新潮』に連載していたさなか、昭和五十年三月に行った講演「信ずることと知ること」(同第26集所収)もこのテーマから入り、学問の方法がその方法を操る学者の精神を占領し、方法が研究対象についての意識と化して居坐るさまを語ったベルグソンの講演を紹介した。

学問の対象を、この世の存在物として存在せしめている所以は微妙であり、それは学者が振り回す研究方法の網の目にはかからないと言ったが、宣長に即して言えば、その所以とは次のような気息のものであった。

―「あるにまかせ、うるにまかせて、ふるきちかきをもいはず、何くれとよみけるほどに」という宣長の個人的証言の関するところは、極言すれば、抽象的記述の世界とは、全く異質な、不思議なほど単純なと言ってもいい、彼の心の動きなのであって、其処には、彼自身にとって外的なものはほとんどないのである。……

「抽象的記述の世界」とは、大平の恩頼図に寄りかかってなされた後世の研究論文の世界である。文学を論じても思想を論じても、研究者の論文には、研究対象にとっては「外的なもの」が必ずと言ってよいほど交る。交るという以上に「外的なもの」の探索と付会が目的であるとまで言えるような論文が少なくない。たとえば先行文献の影響云々である、時代の風潮や事件の影響云々である。この「外的なもの」の問題も「本居宣長」の大きなテーマである。これも先回りして言えば「源氏物語」の研究における准拠の説である。第十六章で小林氏は厳しく追及する。

―彼の文は、「おのが物まなびの有しやう」と題されていて、彼は、「有しやう」という過去の事実を語るのだが、過去の事実は、言わばその内部から照明を受ける。誰にとっても、思い出とは、そういうものであろう。過去を理解する為に、過去を自己から締め出す道を、決して取らぬものだ。自問自答の形でしか、過去は甦りはしないだろう。もしそうなら、宣長の思い出こそ、彼の「物まなび」の真の内容に触れているという言い方をしても、差支えないだろう。……

一見、ここで言われている「思い出」にはさほどの意味はないように思える。しかし、「思い出」という言葉も、小林氏の文章に現れたときは必ず立止り、目をこらしてみる必要がある。目をこらしてみれば、ここでもやはり氏は、「思い出」に格別の意味をこめているのがわかるだろう。世間一般がふだん何とも思わずに使っている「思い出」という言葉は、実は人間誰もが自分自身を知るために与えられている先天的能力のひとつをさした言葉だとして小林氏は使っているのである。「過去の事実は、言わばその内部から照明を受ける」「過去を理解する為に、過去を自分から締め出す道を決してとらぬものだ」「自問自答の形でしか過去は甦りはしない」という言い方で言われている「過去」は、大平の恩頼図に見られる「外的なもの」の対極にあり、そういう過去はその経験をもった当事者にしか照らしだすことができない。「過去の事実は内部から照明を受ける」とは、過去の事実の当事者が、過去を顧みてその事実の意味や価値を認識する、見定めるということである。それなら「過去を理解する為に、過去を自分から締め出す道」をとることは決してないし、当事者が過去の事実の意味を自ら問い、自ら答の仮説を手探りするという「自問自答の形でしか過去は甦りはしない」のである。

小林氏が、ここで言っているような意味合で「思い出」という言葉を取上げた最初は、昭和十四年、三十七歳の年に刊行した「ドストエフスキイの生活」の「序(歴史について)」(同第11集所収)である。

―歴史は繰返す、とは歴史家の好む比喩だが、一度起って了った事は、二度と取返しが付かない、とは僕等が肝に銘じて承知しているところである。それだからこそ、僕等は過去を惜しむのだ。歴史は人類の巨大な恨みに似ている。若し同じ出来事が、再び繰返される様な事があったなら、僕等は、思い出という様な意味深長な言葉を、無論発明し損ねたであろう。後にも先きにも唯一回限りという出来事が、どんなに深く僕等の不安定な生命に繋っているかを注意するのはいい事だ。愛情も憎悪も尊敬も、いつも唯一無類の相手に憧れる。……。

以来氏は、人間とは何か、人生とは何かを言うとき、必ずこの「思い出」に足をおいてきた。

 

8

 

こうして、書を読むことを何よりも面白いと思って手当り次第に読んだ宣長は、二十三歳の年、京都に上り、医師になるための学問と、そのために必要とされた儒学に身を入れたのだが、

―さて京に在しほどに、百人一首の改観抄を、人にかりて見て、はじめて契沖といひし人の説をしり、そのよにすぐれたるほどをもしりて、此人のあらはしたる物、余材抄、勢語ぜいご臆断おくだんなどをはじめ、其外そのほかもつぎつぎに、もとめ出て見けるほどに、すべて歌まなびのすぢの、よきあしきけぢめをも、やうやうにわきまへさとりつ……

契沖との出会いは、こういう経緯によった。幼い頃から何くれとなく書を読んだが、これといった先生について意図的・意識的に学問をするということはなかった、十七、八歳の頃から歌を詠もうと思って詠み始めたが、これも先生について学ぶということはなかったと言い、そういう「物まなび」「歌まなび」のいずれにおいても独学を続けてきた宣長の前に契沖が立ったのである。

契沖については、すでに何度か述べたが、ここでもう一度振り返っておこう。契沖は、江戸時代の初期、元禄時代に生きた真言宗の僧であるが、早くから「大日本史」の編纂事業を進めていた水戸光圀の委嘱を受けて「萬葉代匠記」を著し、奈良時代の末期に成って以来約九〇〇年、誰にもほとんどまともに読めなくなっていた「萬葉集」の約四五〇〇首を独りで読み解いた大学者である。宣長の文に出ている「百人一首改観抄」は「小倉百人一首」の註釈書、「余材抄」は「古今余材抄」のことで「古今和歌集」の註釈書、「勢語臆断」は「伊勢物語」の註釈書であるが、これらはすべて、現代においてなお研究者必見の学績とされている。

小林氏は、この、契沖との出会いに刮目する。

宣長が、「はじめて契沖といいし人の説をしり、そのよにすぐれたるほどをもしりて……」と言うのを聞くと、すぐさま宣長は契沖の影響を受けたと言いたくなるが、小林氏は、そうではないと言う。

―たまたま契沖という人に出会った事は、想えば、自分の学問にとって、大事件であった、と宣長は言うので、契沖は、宣長の自己発見の機縁として、語られている。これが機縁となって、自分は、何を新しく産み出すことが出来るか、彼の思い出に甦っているのは、言わばその強い予感である。……

「契沖は、宣長の自己発見の機縁として、語られている」に注意しよう。小林氏は、「宣長は契沖の影響を受けた」とは言っていないのである。そしてその機縁とは、学問内容の機縁ではない、自己発見の機縁である。契沖の註釈の言葉は、「自分は何を新しく産み出すことが出来るか」と、宣長が宣長自身を省察する機縁になったと言うのである。

だが、宣長は、

―これを秘めた。その育つのを、どうしても待つ必要があったからだ。従って、彼の孤独を、誰一人とがめる者はなかった。真の影響とは、そのようなものである。……

宣長の思想は、日に新たに成長して留まるところを知らなかった。ゆえに誰それの影響などと言ってみても、ある時期の、ある側面に限っての相似、相通というに過ぎない。通りすがりの影響は、自発の根にふれることはできない。

むろん、影響と言うなら影響を受けたにはちがいないのである。しかし、その影響がどのようなものであったかはわからない。本人にも当初はある種の「予感」があっただけである。その予感が得心に変るためには時間がかかる、「その育つのをどうしても待つ必要が」ある。小林氏は、人生の大事は何事も時間をかけなければわからない、わからせてもらえない、だから急ぐなと言い続けていた。「真の影響とは、そのようなものである」も、そういう小林氏の人生経験に立って言われているのである。

 

宣長が京都に上り、身を寄せた先は堀景山の許であった。景山の身上は小林氏の本文に書かれているが、彼は元禄元年(一六八八)の生れであったから宣長が上洛した宝暦二年(一七五二)には六十五歳になっていた。名家の儒医、すなわち儒者でありまた医者である学者として京中に聞こえ、享保四年(一七一九)、三十二歳の年からは安芸あきの国の浅野家に召され、たびたび広島に赴いて進講してもいた。

宣長にとって景山との出会いは、やはり僥倖であった。本来なら医者に必要な知識を得るだけで十分だったはずだが、景山は「よのつね」の儒医ではなかった。小林氏によれば、景山は、

―当時の学問の新気運に乗じた学者であった。家学は無論朱子学だったが、朱子学に抗した新興学問にも充分の理解を持ち、特に徂徠を尊敬していた。塾生として、起居を共にした宣長が、儒学から吸収したものは、「よのつねの儒学」の型ではなかった。徂徠の主著は、遊学時代に、大方読まれていた。それよりも、この好学の塾生に幸いしたのは、景山が、国典にも通達した学者だった事だ。景山は、契沖の高弟今井かんの門人樋口宗武と親交があり、宣長の言う「百人一首改観抄」も、景山が宗武とともに刊行したものである。……

徂徠の主著は、遊学時代に、大方読まれていた……。「本居宣長」における荻生徂徠の名の初出である。しかしここでは、宣長が京都遊学中に徂徠を知り、契沖とともに徂徠もまた自己発見の契機となって胸中に秘められた、と認識しておくだけでよいだろう。むろんすぐにそれだけではすまなくなるのだが、契沖と並ぶ徂徠との出会いも、図らずもとはいえ景山が準備したのである。景山の許に寄寓していた五年間が、契沖、徂徠を知ってこの二人を熟読する歳月となったことは大きかった。逆にいえば、宣長に景山との出会いがなかったとしたら、後の宣長の「源氏物語」研究も「古事記伝」も、今日私たちが目にしているような姿では残されていなかったかも知れない、ということである。

と、こういうふうに見ていく先に、またしても頭をもたげてくるのが影響という言葉である、景山の宣長への影響如何という議論である。しかし小林氏は、こう言っている。

―景山に「不尽ふじんげん」という著作がある。宣長が、これを読んでいた事には確証があり、研究者によっては、宣長の思想の種本はここにあるという風に、その宣長への影響を強調する向きもあるが、私は、「不尽言」を読んでみて、むしろ、そういう考え方、影響という便利な言葉を乱用する空しさを思った。……

―「不尽言」から、宣長のものに酷似した見解を拾い出すのは容易な事である。古典の意を得るには、理による解を捨て、先ず古文の字義語勢から入るべき事、詩歌は人情の上に立つという事、和歌という大道に伝授の道はない事、わが国の神道というものも、日本の古語を極めて知るべきものであり、面白く附会して、神道を売り出すのは怪しからぬという事、等々。しかし、このような見解は、すべて徂徠のものであると言う事も出来るし、これに酷似した見解を、仁斎や契沖の著作から拾うのもまた容易なのである。……

―見解を集めて人間を創る事は出来ない。「不尽言」が現しているのは、景山という人間である。例えば、「総ジテ何ニヨラズ、物ノ臭気ノスルハ、ワルキモノニテ、味噌ノ味噌クサキ、鰹節ノカツヲクサキ、人デ、学者ノ学者クサキ、武士ノ武士クサキガ、大方ハ胸ノワルイ気味ガスルモノナリ」、そういう語勢で語る景山であって、その他の人ではない。……

「見解を集めて人間を創る事は出来ない」は、まずは「不尽言」に見られる「古典の意を得るには……」以下の景山の諸見解をもってこれが景山という人間だとは言えない、ということであるが、それ以上に、こういう諸見解が宣長の学問の素地になった、宣長という学者を創ったとは言えない、ということである。小林氏がここであえてこれを言ったのは、読者に対する警告である。景山は宣長に学問への便宜は与えたが、人間として影響を及ぼした、宣長という人間を創ったなどとは断じて言えない、見解の相似に眼を眩まされて宣長という人間を見誤ってくれるな、と言いたいがためである。景山の人間は、「不尽言」に見られる学者としての建前よりも、本音に現れている。小林氏は、宣長は「物ノ臭気」を嫌った学問上の通人、景山に、驚きを感じた事はなかったろうと言っている。

 

とはいえ、それまでの官僚儒学や堂上歌学から解放されて自由奔放になった通人景山に宰領された塾は、学問という規律さえも取り払われたかのような日常だった。小林氏は、宣長の「在京日記」を読むと、

―学問しているのだか、遊んでいるのだかわからないような趣がある。塾の儒書会読については、極く簡単な記述があるが、国文学については、何事も語られていない。無論、契沖の名さえ見えぬ。こまごまと楽し気に記されているのは、四季の行楽や観劇や行事祭礼の見物、市井の風俗などの類いだけである。……

さらには、

境界きやうがいにつれて、風塵にまよひ、このごろは、書籍なんどは、手にだにとらぬがちなり。……

というような言葉さえも見られるほどだと言う。

だが小林氏は、この「瑣事」を重く見る。学問を脇へ押しのけて遊興娯楽にうつつを抜かしていたかに見える「在京日記」の記事の行間に、

―間断なくつづけられていたに違いない、彼の心のうちの工夫は、深く隠されている。……

宣長の気質の頂と人生の瑣事との間を、しっかりと結んでいる一本の糸が見えるのである。

契沖との出会いもそうだった。契沖から与えられた「自分には何が出来るか」という予感、

―彼は、これを秘めた。その育つのを、どうしても待つ必要があったからだ。……

景山の塾での工夫も、契沖から得た予感も、宣長の心のうちに秘められた。これらもまた鈴の音の逸話と同じように、眼には見えない宣長の心のうちにひとたびは姿を消した。

いずれも、大平にははっきり意識されていたと小林氏が言った、宣長の心の内側に動く気質の力によったのであろう。わけても、宣長が母の勝から受け継いだ「遠キオモンパカリ」という気質が、自ずとそうさせたのであろう。

 

9

 

宣長の思想の育ち方を見るにあたって、小林氏は終始、「外的なもの」を峻拒した。その第四章の結語は、こうである。

―歴史の資料は、宣長の思想が立っていた教養の複雑な地盤について、はっきり語るし、これに準じて、宣長の思想を分析する事は、宣長の思想の様々な特色を説明するが、彼のような創造的な思想家には、このやり方は、あまり効果はあるまい。私が、彼の日記を読んで、彼の裡に深く隠れている或るものを想像するのも、又、これを、かりに、よく信じられた彼の自己と、呼べるように考えるのも、この彼の自己が、彼の思想的作品の独自な魅力をなしていることを、私があらかじめ直知しているからである。……

「直知」という言葉に、意を用いよう。小林氏は「直知」、または「直覚」「直観」ということをしきりに言ってきたが、昭和五十二年の秋、単行本『本居宣長』の刊行にあたって『新潮』誌上で江藤淳氏と対談し(同第28集所収)、雑誌連載の開始から刊行までに要した十二年余りを思い返してこう言っている。

―碁、将棋で、初めに手が見える、勘で、これだなと直ぐ思う、後は、それを確かめるために読む、読むのに時間がかかる、そういう事なんだそうだね。言わば、私も、そういう事をやっていたのだね。何しろ、こっちはまるで無学で、相手は大変な博学ですからね、ひらめきを確かめるのに、苦労したというところに、長くかかったという事の大半の原因がある……

この対談では「直知」「直観」という言葉は出していないが、「本居宣長」連載開始の四年ちかく前、昭和三十六年の夏、九州に出向いて学生たちを前に行った講義の後の質疑応答では、将棋の木村義雄名人の体験談を引き、「直覚」という言葉を使って同じ趣旨のことを語っている(『学生との対話』)。さらにその三年後、「本居宣長」の連載を始める約半年前の三十九年十月、「常識について」(同第25集所収)を発表し、哲学者デカルトは、最初に大発見をしておいて、それからそれを発見するにはどうすればよかったかを問う天才だ、こういう精神の進み方は一見矛盾したように見えるが、実は一番自然な歩き方だとベルグソンが言っている、と前置きして次のように言っている、

―大発見は適わぬ私達誰の精神にしても、本当に生き生きと働いている時には、そういう道を歩く。例えば碁打ちの上手が、何時間も、生き生きと考える事が出来るのは、一つ或は若干の着手を先ず発見しているからだ。発見しているから、これを実地について確かめる読みというものが可能なのだ。人々は普通、これを逆に考え勝ちだ。読みという分析から、着手という発見に到ると考えるが、そんな不自然な心の動き方はありはしない。ありそうな気がするだけです。……

「本居宣長」の雑誌連載は、十一年六ヶ月に及んだが、私が単行本編集の係として小林氏を訪ねるようになった昭和四十六年の夏は、その連載が結果的には半ばを過ぎた頃だった。当時、雑誌でも新聞でも、連載といえば一年、長くても二年か三年までがふつうで、五年が経ってなお終る気配がないというのは異例だった。別段それがどうこう言われていたわけではないが、小林氏の周辺では「いつまでやるんだ」とか、「何をぐずぐずしてるんだ」とかと、むろん親しい間柄ならではのことだが挨拶代りのからかいもあったらしい。

小林氏の係になって三年ほどしてからのある日、私が氏を訪ねると、応接室に現れるなり氏は、「昨日また言われちゃったよ」と苦笑まじりに口をひらき、「宣長さんは『古事記伝』に三十五年もかけたんだ、僕が宣長さんに五年十年かけたからってどうということはないのだ」と笑みを浮かべて言った。それを私は、迂闊にも「宣長さんのイメージが変ってきているのですか」と受けた。すると氏は、急に口許をひきしめ、「そうではない、宣長さんに対する僕の直観はまったく変っていない、変るのではない、精しくなるのだ」と言った。常々小林氏が口にする「精しくなる」には独自の含蓄があった。「詳しくなる」ではなかった。

―この言い難い魅力を、何とか解きほぐしてみたいという私のねがいは、宣長に与えられた環境という原因から、宣長の思想という結果を明らめようとする、歴史家に用いられる有力な方法とは、全く逆な向きに働く。これは致し方のない事だ。両者が、歴史に正しく質問しようとする私達の努力の裡で、何処かで、どういう具合にか、出会う事を信ずる他はない。……

「歴史に正しく質問する」という言葉の、特に「質問」にも注意が要る。昭和四十年八月、「本居宣長」の連載開始直後に数学者の岡潔氏と行った対談「人間の建設」(同第25集所収)でこう言っている、

―ベルグソンは若いころにこういうことを言ってます。問題を出すということが一番大事なことだ。うまく出す。問題をうまく出せば即ちそれが答えだと。この考え方はたいへんおもしろいと思いましたね。いま文化の問題でも、何の問題でもいいが、物を考えている人がうまく問題を出そうとしませんね。答えばかり出そうとあせっている……。

このベルグソンの言葉を敷衍し、昭和四十九年八月にはまた九州でこう言っている(『学生との対話』)。

―僕ら人間の分際で、この難しい人生に向かって、答えを出すこと、解決を与えることはおそらくできない。ただ、正しく訊くことはできる。質問するというのは、自分で考えることだ。おそらく人間にできるのは、人生に対して、うまく質問することだけだ。答えるなんてことは、とてもできやしないのではないかな……

第四章を締めくくる「歴史に正しく質問しようとする」も、同じ含みで言われているのである。

(第十八回 了)