宣長の遺した言葉うた

村上 哲

先日、機会があり、宣長の自画自賛の肖像画を二つ、すなわち、四十四歳の自画像と六十一歳の自画像を、思い浮かべる事があった。

その時、しばらく二つの絵を心に浮かべ、比べるともなしに眺めていると、不意に、もう一つ、そこに浮かび上がってくる映像があった。

それは、『本居宣長』の単行本第一章にも載せられた、宣長の墓石の向こうで山桜がほころぶ、「本居宣長奥津紀」の絵だ。

あるいは、あの絵もまた、宣長の自画像だったのではあるまいか。

 

勿論、宣長の二つの自画自賛像と、あの奥津紀の絵が、同じだと言いたいわけではない。そも、同じか否かを言うならば、四十四歳の自画像と六十一歳の自画像からして、同じなどとは到底言えないだろう。そうでなくとも、二つとして同じ歌などないように、二つとして同じ絵など、ありはしない。

では何故、奥津紀のあの絵が、宣長の二つの自画像に引き寄せられるように浮かんできたのか。その事については、自画像、それも、自画自賛の自画像、すなわち、自分の姿を描き、そこに自分で言葉を書き入れるという、改めて考えればなかなかに不思議な一連の行動へ、思いを馳せなければならないだろう。

それに当たり、先ずは、宣長自身の言葉を引いておこう。なお、読み易さや活字による表記のため、濁点や句読点の挿入などを行っており、原文のままでない事は断っておきたい。

 

―めづらしき こまもろこしの 花よりも あかぬいろ香は 桜なりけり、こは宣長四十四のとしの春、みづから此かたを物すとて、かゞみに見えぬ心の影をもうつせるうたぞ。

 

これは、宣長四十四歳の自画像に残された賛である。「みずから此かたを物」した自画像へ書き入れた「心の影をもうつせるうた」が桜への愛着であるのは、如何にも宣長らしいのだが、ここで注目したいのは、「かゞみに見え」る自身の姿をうつした絵は、しかし、決して現実の鏡に映った姿の写しではないという事だ。

それは、この、四十四歳の自画自賛像が、単純に鏡を見ながら書いた構図ではないという事以上に、そこに置かれた小道具、即ち、花瓶にさした花盛りの桜の枝とそれを眺める宣長の間に置かれた、ひときわ目を引く朱色の机が、現実の宣長の元にあったそれとはまったく別のものである事からも、明らかだ。

当然、これは単純な技術や技量の話ではない。むしろそれは、およそ表現というものに対する、宣長の確信からきた差異というべきだろう。歌や物語の「まこと」を安易に現実と馴れ合わせるような「さかしら事」は、本居宣長という人が最も嫌った行いだ。宣長四十四歳の自画像は、宣長が「みずから此かたを物」す上で、言うなれば「絵のまこと」が、宣長の心中で自ずから実を結んだ姿なのだ。

そしてそれは、自画像に残されたこの「賛」も、例外ではない。

「かゞみに見えぬ心の影」は、なるほどこの絵に描かれてはいないかもしれないが、しかし、この絵を見た人は、桜を眺める宣長の心中を思わずにはいられないだろう。絵に工夫を凝らし、また、歌学者として、或いは古学者として、物された表現を受け取るという事に強い意識を向けていた宣長が、そこへ思い至らないはずがない。それでも、宣長は、「かゞみに見えぬ心の影をもうつせるうた」を、残さずにはいられなかった。絵を見た人へ答えるためではない。宣長は、実利など知らぬところで表現を求めて止まぬ人の心、即ち自分の心の不思議に逆らう必要などあるはずもなく、また、心の求めた表現を整えたならば、それが歌の形を取る事も、歌好みを性といい癖ともいった宣長にとって、至極当然の成り行きだった。無論、画賛に詩文を置く伝統に強いて逆らう理由もまた、宣長にはなかっただろう。

 

さて、宣長四十四歳の自画自賛の自画像について、宣長の心中を思いながら書き進めてきたが、これを思いながら、今度は宣長六十一歳の自画自賛の自画像を眺めてみると、自画自賛の自画像というものについて、また一段と、趣の深まるところがある。

こちらも、まずは賛を引かせてもらいたい。

 

―これは宣長六十一寛政の二とせいふ年の秋八月に手づからうつしたるおのがゝたなり

 

ここまで右上に書かれ、胡坐姿の宣長だけが描かれた自画像の上に空白を挟み、左上に

 

―筆のついでに、しき嶋の やまとごゝろを 人とはゞ 朝日にゝほふ 山ざくら花

 

こうして見ると、なんともそっけない画賛と見えるだろう。自画像の方も、背景は勿論、小道具らしい小道具もなく、まさに、「かゞみに見え」たままのような姿で、宣長だけが描かれている。構図や工夫を言ってみたくなるような四十四歳の自画自賛像と比べるまでもなく、画も賛も、最小限に削ぎ落とされて見えるだろう。

勿論、それは一見そう見えるというだけで、宣長という人に強く興味を持って見たならば、むしろより興味を引かれる絵なのだが、逆に言えば、こちらから働きかけなければ、その絵は何も話しかけてはこない、そんな絵だ。少なくとも、桜を眺め、歌を掲げた宣長の心中を思いたくなるような四十四歳の自画自賛像とは、そのあり方が明らかに異なっている。

当然、六十一歳の自画自賛像に工夫がないと言いたいのではない。その最小限に抑えられた姿は、むしろ、辛抱強く心を尽くした結果だろう。この絵において、宣長の心中は、実に慎重に秘められている。

そこに残された画賛についても、先ほど見たように、絵が成立した時節と簡素極まる説明を置き、一端は終わってしまっている。では、筆のついでと最後に添えられたうたは、いったい、どのように詠まれているのか。

「しき嶋の やまとごゝろを 人とはゞ 朝日にゝほふ 山ざくら花」

なるほど、このうたには、宣長の山桜への愛情が、この上なく現れている。だがそれは、四十四歳の画賛の冒頭に置かれたような、「かゞみに見えぬ心の影」をなぞり出そうとして詠まれたうたというより、まさに、「筆のついでに」こぼれ出たような姿をしている。

正直、このうたの意図や内容について話をしようとしても、言葉に窮してしまう。どうとでも言えてしまう気もするし、どう言っても間を違えてしまう気がする。だが少なくとも、この、絵に残されたうたを眺めた時、そこに見えてくるものは、自画像を描き、賛を入れたら、「筆のついでに」山桜のうたを添えたくなった、そんな、本居宣長という人の姿だ。

 

 

さて、自画自賛の自画像というものについて、宣長の凝らした工夫を思い、書き連ねてみたが、そろそろ、冒頭に置いた疑問へ、話を戻したい。

すなわち、宣長の遺言書に遺された「本居宣長奥津紀」の絵が、宣長の自画像なのではないか、という問いかけだ。

と言っても、ここまでに書いた事柄が、それを裏付ける論証になったとは思わない。というより、そもそも、論理や分析は、答えに近付く手段であり、誤りを正す方法ではあっても、正実へ行き着く道筋ではない。その本質は近似であり、近似とは『答えと見定めたところ』へ近付く事だ。

だから、ここからはむしろ、私が『答えと見定めたところ』から、逆様に眺めさせてもらいたい。即ち、「本居宣長奥津紀」の絵が、宣長の自画像であると見れば、どうなるか。いや、本居宣長の遺言書それ自体が、『本居宣長晩年の自画自賛の自画像』であると見たならば、どうなるか。

当然、遺言書の文章を賛というのは無理があるだろうし、どちらかと言えば、「本居宣長奥津紀」の絵の方こそ、「筆のついで」というべきだろう。墓の設計は、本居宣長の葬儀に関して微に入り細を穿つ描写が為されている遺言書の本文の中でしっかりと指定されているし、そこには、より簡素に分かりやすく描かれた地取図も添えられている。この遺言書に、「本居宣長奥津紀」の絵を描き入れる尋常な理由など、本来、なかったはずだ。

ならば、この、「本居宣長奥津紀」の絵こそ、表現を求めて止まぬ宣長の心が描き出した、「かゞみに見えぬ心の影」なのではないだろうか。

勿論、宣長の「かゞみに見えぬ心」は、絵の背面に隠れ、深く秘められている。では、「かゞみに見え」る、宣長の「おのがゝた」はというと、遺言書の本文、写実的という形容がこれ以上なく似合うほど丁寧に描写された葬儀の様子、その文体の背面に、隠れてしまっている。絵巻物でも転がすかのようにつらつらと描写されている葬儀の進行は、しかし、当然の事ながら、私達の肉眼に、宣長の姿をうつしてはくれない。だが、間違いなく、そこには宣長の姿がある。

私は、最初、「本居宣長奥津紀」の絵が、宣長の自画像なのではないかと言ったが、それは、間違いだったかもしれない。

実は、この遺言書の本文こそ、宣長が、晩年の「おのがゝた」を物した、描線なき自画像なのではないだろうか。

ならば、「本居宣長奥津紀」の絵は、「かゞみに見えぬ心の影をもうつせる」、宣長の声なき「うた」なのかもしれない。

 

 

何故、宣長はこの遺言書を書いたのか。

勿論、医を生業とし、古伝説を学び、和歌のみならず、孔子の礼楽や、仏説までもを好んでいた宣長が、自分の死というものを意識していなかったはずがない。だが、もし万が一、宣長が自分の死を予感し、必要にかられて遺言書をしたためたのなら、外診のために講義を中座するほど家の産を怠る事のなかった宣長が、ただ自分の葬礼を微細に書き表しただけの、身勝手とすら言えるような言葉を、遺したはずがない。

何故、宣長はこの遺言書を物したのか。

そこに尋常な理由を求める事は、無駄であるばかりか、全くの筋違いであろう。それは宣長の心中に端を発し、ただ宣長の心中にのみ起こり得た、そういう種のモノに違いない。

だからこそ私は、この、慎重に秘められた宣長の姿に、そして、そこにほころんだ山桜の影に、思いを搔き立てられるのだろう。

(了)