祖母のさくら

後藤 康子

落ちつきのない春である。暖冬異変で、花便りは疾うに聞かされていたのに、其の後の戻り寒で花も咲きそびれたようである。

バスの窓から眺めた花は、半分だけが先に咲いて、もはや、それが散って残りの半分が、やっと梢の先につきかけたような心もとなさで、とても、たわわな春は望めそうもないと思った。

ところが、その二、三日後の夕、前日の残り半分の桜の満開に出会うことが出来たのである。それも徐行する車の中からである。

小雨が降っていた。暮れかけた空は灰色、花も少ないせいか、白っぽい。濡れた枝と幹だけがくっきりと濃い墨色、灯に映る箇所だけがほのかなうすべに。光琳模様を“辻が花”染めにしたような、空もぼかし花もぼかし墨色の木かげに、花の精がひそんでいやしないかと思われるような妖しいあでやかさであった。

 

―これは、「花木で好きなものはと問われたら、平凡ながら一番に桜と言いたい」と、かつて書き残した私の祖母、佐藤正子の一文、「里謡大分」(※注1)という地方文芸誌に寄稿した、「桜」という題が掲げられたエッセイである。久々に取り出し、読み返してみたのだが、書かれたのは昭和50年代か。花が咲き始めてから冬に戻った、今年の桜模様をどこか思わせる。

そう、今年は春になってからが寒く、桜もいつ咲くべきか、いつ散るべきか迷っていたようであった。時折、何年かおきにある、戻り寒厳しき春の花時は長い。凍りつきそうな曇天のもと、晴れた日の蒼天のもと、月がおぼろな墨夜にも、霞とも雲とも見まごう桜景色を、存分すぎるほどに堪能できた。

 

大正生まれで、十年ほど前に米寿で他界した祖母、正子。宿を営みながら本を読み、文章を書き、自然の草木を愛した祖母が逝ったのは三月の終わりで、まさに桜の蕾ふくらむ早春のころであった。以来、春が兆すと、花の開花を待って浮き立つ心とうらはらに、どこか物狂おしいような気になってくる。桜ほどに、生と死、そして命そのものを想起させる花はないように思うからだ。

 

宣長翁は七十一歳の秋から冬にかけて、遺言書をしたためた後に桜の歌ばかりをいくつも詠み続けたという。遺言書と、「まくらの山」にまとめられたこれら桜の歌を詠んだ時期が、ほぼ同じであったということに、今までほとんど注意をはらっていなかったことは迂闊だった。

秋の夜長に、またしらじらと寒い早朝に、次々詠まれたという桜の歌三百余首。「物のあはれに、たへぬところより、ほころび出で、おのずからアヤある辞が、歌の根本にして真の歌也」と自ら述べた通り、「物のあはれにたへぬ」情が歌となり、幻視の樹上に満開になるまで咲かせていったのではないだろうかと、想像してみる。改めて一首一首を眺めてみると、翁の人柄や思いのすべてが三十一文字の背景に浮かび上がるようで、胸に深く響く。「如何に生くべきか」という命題が、「如何に死を迎えるべきか」とも、いつしか我が身に聴こえてくるようになったからだろうか。

 

遺言書と「まくらの山」、そして奥墓の用意、植える桜の指示、祀りの方法まで、万全を尽くし生をまっとうしたと思われる宣長翁。「本居宣長」を書き終えた後の小林先生もまた、私的な写真や手紙をすべて焼き払い、東慶寺に墓地を求め、鎌倉初期の五輪塔を墓石とされたと、池田塾頭にうかがった。

 

「如何に死を迎えるべきか」と頭に浮かべてはみても、哀しいかな何一つできはしないのだが、この自問自答にしかと向かい合った先達が、ごく身近にいた。私の祖母である。ふりかえってみれば祖母の最晩年は、潔く旅立ちの準備を重ね、限りある命をことさら丁寧に生きていった日々のように思える。

身内に負担はかけまいと、自らの遺体は献体することと決め、ひきとってもらう手筈を整え、葬式不要であること、戒名も自分でつけて書き残した。着物などの形見分けは生前にすませていたためか、没後、庭に臨む部屋に残されたものは、長年書き溜めた文章と日記のみ。この日記もまた、宣長翁の随筆をどこか彷彿とさせるほど、不運や辛苦の一切がっさいを胸にたたんだ、実にさっぱりとしたものであった。

 

しかし、そんな祖母にも、遺言めいたわずかばかりの願いがあった。それは、桜好きの祖母らしく、「あの桜のもとに遺灰をまいてほしい」ということだった。

 

「あの桜」とは、祖母が契りを交わした桜の木で、のどかな暮らしが今なお続く山あいの里の、古寺の境内にあった。献体後に荼毘にふされ、骨となって還ってきた祖母。残された私たちは、ちょうど町では染井吉野が満開のころ、花咲く寺へと向かった。

私がこの年、初めて見たその桜は、小ぶりの花が愛らしい枝垂れで、それはそれは美しかった。やや低めに翼のような枝を振り拡げ、人々をそのかいなで優しく包み込みこんでくれるような、親しみやすい佇まい。薄紅色の花を無数につけて垂れた花枝が、私たちのすぐ目の前で、春風にかすかに揺れていた。祖母がかつて眺めたように、この年も無事、華やぎの時を迎えたこの桜は、聞けば樹齢150年。花の滝のもとに集う人々は、しばし夢に酔っているようだった。

 

ハンカチにくるまれ運ばれた祖母の遺灰を少しずつ手に取り、舞う風にそおっと、のせていく。そのとき、どういうわけだろう、親族の一人から、「正子さんの灰を、あんた、少しなめてみらんね」とうながされた。今から思えば奇妙なことではあるが、その声に導かれるままに、私は素直に従った。

白く細かい粒子となった祖母。小指の先につけた祖母の遺灰は、胸が万力でしめつけられるほどに苦く、涙がにじむほどに塩辛く、けして忘れることはできない味だった。祖母の一生とその想いの重量が私の命に受け継がれたとも思え、五感に焼き付けられた記憶として、今も鮮烈に甦ってくる。

 

―山桜、里桜、枝垂れに八重咲き。根を張る土地も、花の色もかたちも多種彩々な桜に出逢うたび、私たちはどうしてこんなにも、さまざまなことを思わずにはいられないのであろうか。

古代より日本列島に自生する桜は、春の女神が降りたつ依り代でもあり、稲作の始まりを告げ、収穫の吉兆を占っていた花でもある。「万葉」の時代からあまたの歌に詠まれ、物語に登場し、書画に描かれ、花といえば、桜とされた。江戸期には絢爛たる品種が数多く生み出され、花見の名所が生まれ、明治からは染井吉野が多く植えられ、日本人の死生観を表しているとも言われてきた。

そんなことを知ってか知らずかその花は、厳寒の冬を忍んだ末に花開く。初花から散るまでの期間は、わずか十日あまりだろうか。爛漫の花時のために一年がかりで生気をため、全身全霊をかけて壮麗に咲きゆく桜。その一刻一刻がどんなに貴いものであるかを人は歳月をかけて知り、「如何に生くべきか」という問いの答えを、花の姿から優しく教えられる。これまでの千年も、これからの千年も、いかなる災害や試練があっても春になれば約束のように咲く桜。そこには自然の運動と永続性があり、その一部である私たちに時空を超えた永遠というものを信じさせてくれるような気もするのだ。

 

物のあはれを知る宣長翁が「あなものぐるほし」とまでに好んだ桜。小林先生が「本居宣長」を書くと決めたころから、七十九歳まで続けたという、全国を訪ね歩く桜行脚(※注2)。南から北へ桜前線が北上する列島に住まう誰もがきっと、毎年心待ちにしている花があり、共に見つめた人との思い出があり、花に映す人生があることだろう。

現在私が住んでいる集合住宅の中庭にも、なかなか枝振りのいい一本桜があり、密かに「おばあちゃんの桜」と名付け、独居の身を見守ってもらっている気になっている。

最後に今一度、幼い私に花の名を教え、読書の悦びを教え、畢竟、人はひとりでこの世に生まれ、ひとりで死んでいくのだと教えてくれた祖母が記した、桜の文と歌とをたどってみたい。

 

昨年は思いがけなく、満開の板山(※注3)の桜を見た。空港まで人を送るついでにはじめて通った道である。

水色に晴れたおだやかな日であった。はじめて見る板山の桜は枝元から梢の秀まで一せいに開いていた。その咲き盛った花びらの一枚もこぼすまいとするように千手観音が腕を拡げて支えているような枝の張り具合で、それは大きな花傘に見えた。このような、おごりの花を見ることの出来たひとときを至福と言うべきであろうか。

何時の春も、おもむきの異なる花をみる、杵築の城山の春は落花の舞であった。その時々に依って異なる花の姿に堪能する春は、やはり桜である。

風の行方に散る花びらに

うつゝ過ぎ行く春が逝く

 

※注1:「里謡」とは、室町時代ころに発祥したと言われる定型詩歌。「七・七・七・五」の二十六音詩で、明治時代に隆盛したという。古くから鳥追唄、舟歌などの労働歌、盆唄、子守唄などの情歌などがあり、一般大衆の歌心から生まれたとされる。

※注2: 池田塾頭の「Webでも考える人」連載「随筆 小林秀雄」。その「十三 桜との契り」に詳しい。

※注3: 大分県別府市亀川にある地名。坂道沿いに桜並木が続く。

(了)