小林秀雄「本居宣長」全景

池田 雅延

十九 契沖の明眼

 

1

 

第五章で語られる宣長の「好信楽」については、わずかながらもこの連載の第二回で見たが、その第五章の最後に、君子に「十楽」ありというようなことを言ってきた友人に対して、自分の言う「楽」は、弦歌などをのんびり楽しむ尋常の「楽」ではない、孔子が言った「学習之楽」であり、言わば「不楽之楽ヲ楽シム」といった趣のものだと答えたところ、友人は、君の言う「不楽之楽」は小生が言う「十楽」中の一楽だと返書があったらしく、これには宣長も閉口して、皮肉交りの文面を返した。が、この応酬によって、宣長自身、画期的とも言うべき自己発見の予感を得たようだ。君のおかげでよく合点がいった、と、これも皮肉っぽく書いたうえで、

―所謂不楽之楽トハ、コレ儒家者流中ノ至楽ナルノミ……

世に言う「不楽之楽」は、儒学者連中の間で最高とされている楽に過ぎないようだ、

―僕ヤ不佞、又、無上不可思議妙妙之楽有リ、カノ不楽之楽ノ比ニ非ザルナリ、ソノ楽タルヤ言フ可カラズ。……

僕は才知に乏しいが、不可思議なことこの上ないと言っていい素晴らしい楽がある、この楽は不楽の楽の比ではない、言いようもないほどの楽だ……。

この一幕を詳しく書いて、小林氏は言う、

―宣長が文字通り不佞で、口を噤んで了うところが面白い。「和歌ヲ楽ミテ、ホトンド寝食ヲ忘ル」という彼の楽が、やがて自分の学問の内的動機に育つという強い予感、或は確信が、強く感じられるからだ。……

―契沖は、既に傍に立っていた。……

「本居宣長」における、契沖の本舞台への登場である。

 

これを承けて、第六章は次のように始る。

―「コヽニ、難波ナニハノ契沖師ハ、ハジメテ一大明眼ヲ開キテ、コノ道ノインクワイヲナゲキ、古書ニヨツテ、近世ノ妄説ヲヤブリ、ハジメテ本来ノ面目ヲミツケエタリ、大凡オホヨソ近来此人ノイヅル迄ハ、上下ノ人々、ミナ酒ニヱヒ、夢ヲミテヰル如クニテ、タハヒナシ、此人イデテ、オドロカシタルユヘニ、ヤウヤウ目ヲサマシタル人々モアリ、サレドマダ目ノサメヌ人々ガ多キ也、予サヒハヒニ、此人ノ書ヲミテ、サツソクニ目ガサメタルユヘニ、此道ノ味、ヲノヅカラ心ニアキラカニナリテ、近世ノヤウノワロキ事ヲサトレリ、コレヒトヘニ、沖師ノタマモノ也」(「あしわけをぶね」)……

この引用に重ねて、小林氏は言う、

―彼が契沖の「大明眼」と言うのは、どういうものであったか。これはむつかしいが、宣長の言うところを、そのまま受取れば、古歌や古書には、その「本来の面目」がある、と言われて、はっと目がさめた、そういう事であり、私達に、或る種の直覚を要求している言葉のように思われる。「万葉」の古言は、当時の人々の古意と離すことは出来ず、「源氏」の雅言は、これを書いた人の雅意をそのまま現す、それが納得出来る為には、先ず古歌や古書の在ったがままの姿を、直かに見なければならぬ。直かに対象に接する道を阻んでいるのは、何をいても、古典に関する後世の註であり、解釈である。……

―「注ニヨリテ、ソノ歌アラレヌ事ニ聞ユルモノ也」(「あしわけをぶね」)、歌の義を明らめんとする註の努力が、却って歌の義を隠した。解釈に解釈を重ねているうちに、人々の耳には、歌の方でも、もはや「アラレヌ」調べしか伝えなくなった。従って、誰もこれに気が附かない。「夢ヲミテヰル如クニテ、タハヒナシ」、だが、夢みる人にとって、夢は夢ではあるまい。……

宣長の言う契沖の「一大明眼」は、一言では言い表せない、というより、別の言葉に置き換えることはとうてい不可能であるほどのいわば心眼が言われているのだが、その「明眼」の一口とばくち、あるいは一端を垣間見るに好適な事例はいくつかある。そのうちのひとつを見ていこう、小野小町の歌である。

花の色は うつりにけりな いたづらに わが身世にふる ながめせしまに

宣長が、京都で初めて接した契沖の本「百人一首改観抄」には、次のように説かれている。

―花のさかりは明けくれ花に馴れてなぐさむべき春を、世にふる習ひはさもえなれずして、いたづらに物思ふながめせしまに、まことにながむべき花の色ははやうつりにけりとなげく心也。また、ながめは春の長雨にかけて、世にふるといふ言葉も両方を兼ね、霖雨にまた花のうつろふ心をそへたり。……

この歌は、「百人一首」に採られるより早く、そもそもは「古今集」の「春歌下」に入っていた。宣長は、「百人一首改観抄」に続いて契沖の「古今余材抄」を読んだが、そこではこう言われている。

―花の盛りは明けくれ花になれぬべき身の、世にふるならひはさもえなれずして、いたづらに花の時を過しけるといふ也。ながめとは心のなぐさめかたき時は空をながめて物思ふさまをいふ。それを春の長雨にかけて世にふるといふ詞も両方を兼ねたる也。春の物とてながめくらしつ、春のながめぞいとなかりける、などよめる歌、皆両方を兼ねたり。……

「ながめ」は、物思いにふける意の「眺め」と「長雨」が掛詞になっていると言い、続けて、言う。

―さて、小町が歌に表裏の説ありなどいふこと不用。ただ花になぐさむべき春を、いたづらに花をばながめずして、世にふるながめに過したりといふ羲なり。……

「小町が歌に表裏の説あり」は、この歌は、花の盛りの時季、花に親しんで過ごすつもりであったのにそうはいかず、世過ぎのことにかまけているうち花は移ろってしまったという嘆きを詠んでいる、だがそれは表向きで、実は小町は花にことよせ、自分自身の容色の衰えを嘆いているのだとする解がある、という意である。この、「花の色」を「容色」と取る裏の歌意は、今日では広く流布して表の歌意よりはるかに優勢と言っていいほどだが、契沖はきっぱりと、裏の歌意は不用、つまり、採らないと言うのである。その理由を、「百人一首改観抄」でも「古今余材抄」でも契沖は示していないが、これは「古今集」の全体を子細に見通したうえで得た、「古今集」編者の編集理念に基づいての断定なのである。

契沖によれば、紀貫之らの「古今集」編者は、収録歌の一首一首について「本来の面目」を見定め、そのうえで「春歌」「夏歌」「賀歌」「恋歌」「雑歌」などの部立を設けて厳密に配列し、しかも、必要に応じて各歌に詞書を付し、その詞書も編纂の基本方針を厳密に守って掲げている。たとえば、貫之の歌、

ことしより 春知りそむる 櫻花 ちるといふことは ならはざらなん

に註して契沖は言う。

―此歌より次の巻に貫之の「水なき空に浪ぞ立ちける」といふ歌までは桜の歌なり。よりて歌に桜とよめり。桜とよまぬ歌は詞書に桜といへり。其中に、此巻には桜のさけるほどをいひ、次の巻はちるをよめり。平城天皇の御歌より後、貫之の「み山かくれの花を見ましや」といふまでは、詞書にも桜といはず、歌にも只花とのみよみたれば、よろづの花をよめり。後に花といひては桜ぞと心得るにはかはれり。……

小町の歌は、「春歌下」に収録されている。ということは、貫之たちは、この歌は春の歌として詠まれたものであると認識し、ゆえに春の歌として味わうべきものであると部立でまず示唆した。貫之たちが、裏の歌意を視野に取り込み、裏の歌意こそ小町の本意と解していたなら、配列は「春歌」ではなく「雑歌」の部となっていたはずであり、裏の歌意を明示する詞書が付されていたはずだと契沖は読んだのである。これが、「古歌や古書の在ったがままの姿を、直かに見」るということであり、「小町が歌に表裏の説ありなどいふこと不用」は、貫之たちの周到な「古今集」編纂方針を綿密に把握し、それらを総合して断じた言葉なのである。

宣長が「あしわけをぶね」で「注ニヨリテ、ソノ歌アラレヌ事ニ聞ユルモノ也」と言い、しかし契沖は、「古書ニヨツテ、近世ノ妄説ヲヤブリ、ハジメテ本来ノ面目ヲミツケエタリ」と言った「一大明眼」の一例がここにある。「古書ニヨツテ」は、単に古書を当面の語義闡明せんめいのための資料や傍証として用いてと言うだけではない、当該の古歌を収めた古書そのものに潜んでいる古人の思いを汲み取り、汲み上げ、の謂である。すなわち契沖は、一首一首の「古歌」そのものの解に直進するのではなく、その「古歌」を後世に伝えている「古書」の「本来の面目」をまず見究め、「古書の面目」から「古歌の面目」を照らし出すのである。先に引いた小林氏の言葉、「『万葉』の古言は、当時の人々の古意と離すことは出来ず、『源氏』の雅言は、これを書いた人の雅意をそのまま現す」に準じて言えば、契沖は「萬葉代匠記」を書いて得た「「『万葉』の古言は当時の人々の古意と離すことは出来ず」という強い確信で「古今余材抄」にも臨み、「『古今』の詩語はこれを編んだ人たちの詩心と離すことは出来ぬ」という直観から入ったのである。

その間の経緯は、新潮日本古典集成「古今和歌集」の、校注者奥村恆哉氏による解説から読み取れる。奥村氏は、「古今集」では桜を詠んだ歌は歌の中に桜とはっきり言っているか、歌中で桜と言っていなくても桜を詠んだ歌であることが明らかであれば詞書で桜と明言している、という契沖の分析を炯眼と讃えて敷衍し、「古今集」は、日本語の格調を守り、日本語表現の明晰を得ようとした史上唯一の歌集であるとして次のように言っている。

―表現の明晰を得ようとして、作者も撰者も、あらゆる努力を傾けた。どの歌もみな、主語・述語、修飾・被修飾の関係がはっきりしていて、飛躍がない。後代の「源氏物語」の文章や、「新古今集」の歌に比べても、さらにその後の諸作品に比べても、およそ比類のないことのように思われる。「古今集」が、古典語として長く後世の規範となり得た、理由の一つであろう。……

そして、言う、

―表現の明晰を期する努力は、語法には限らなかった。編纂の方針においても、それを充分見てとることができる。……

こうして契沖の「炯眼」は、「萬葉集」「古今集」に始って、あらゆる古歌を「アラレヌ事ニ聞」えさせてしまっていた註釈のしがらみから解き放ったのである。

再び小林氏の言うところを聞こう。

―古歌を明らめんとして、仏教的、或は儒学的註釈を発明する人々は、余計な価値を、外から歌に附会するとは思うまいし、事実、歌は、そういう内在的な価値を持つものとして、彼等に経験されて来たであろう。歌学或は歌道の歴史は、このようなパラドックスを荷って流れる。これを看破するには、契沖の「大明眼」を要した、と宣長は言うのである。「紫文要領」では、「やすらかに見るべき所を、さまざまに義理をつけて、むつかしく事々しく註せる故に、さとりなき人は、げにもと思ふべけれど、返て、それはおろかなる註也」と言っている。……

小野小町の歌に貼られた裏の歌意という註釈を、もう一度思い返しておきたい。小町の歌も、契沖によって「やすらかに」見られるときを、千年ちかく待っていたのである。

 

2

 

宣長に、君子に「十楽」ありというようなことを言ってきた友人に対する返書に、「僕ヤ不佞」とあったが、これを承けて小林氏は言っていた。

―宣長が文字通り不佞で、口を噤んで了うところが面白い。「和歌ヲ楽ミテ、ホトンド寝食ヲ忘ル」という彼の楽が、やがて自分の学問の内的動機に育つという強い予感、或は確信が、強く感じられるからだ。……

宣長が友人に向って言った「僕ヤ不佞」の「不佞」はいわゆる謙遜だが、この「不佞」を小林氏は本来の語義、すなわち無能の意で受け取って面白いと言っている。なぜか。宣長は、友人との議論を通じて、まだはっきりとは知らなかった自分を知った、それはどういう自分かと言えば、「和歌ヲ楽ミテ、ホトンド寝食ヲ忘ル」という「楽」にふける自分であり、その「楽」は「無上不可思議妙妙之楽」であり、「カノ不楽之楽ノ比ニ非ザルナリ、ソノ楽タルヤ言フ可カラズ」というほどであって、その「楽」が烈しく自分を学問に誘うようなのだ、その「楽」が「自分の学問の内的動機」となっていくらしいのだ、しかし、その確信にちかい予感をどう言い表せばよいか、いまはそれがわからない、そういう人知を超えて出来する自己認識の前では立ち尽すしかない人間の無力、小林氏は、「不佞」をそういう意味に解して「面白い」と言ったのである。むろんこの「面白い」は、「人生玄妙」の意である。

だが、厳密に言えば、「和歌ヲ楽ミテ、ホトンド寝食ヲ忘ル」という宣長の「楽」が、やがて宣長の学問の内的動機に育つという強い予感は、宣長がと言うより小林氏が抱いたのである。というのは、やがて宣長の前に契沖が現れ、契沖によって「和歌ヲ楽ミテ、ホトンド寝食ヲ忘ル」という「楽」にふけっていた宣長が、「和歌の楽」をそのまま学問にしていった道筋を、小林氏がすでに知っていたからである。したがって、

―或人、契沖ヲ論ジテイハク、歌学ハヨケレドモ、歌道ノワケヲ、一向ニシラヌ人也ト。予コレヲ弁ジテ云ク、コレ一向歌道ヲシラヌ人ノコトバ也。契沖ヲイハバ、学問ハ、申スニヲヨバズ、古今独歩ナリ。歌ノ道ノ味ヲシル事、又凡人ノ及バヌ所、歌道ノマコトノ処ヲ、ミツケタルハ契沖也。サレバ、沖ハ歌道ニ達シテ、歌ヲエヨマヌ人也。今ノ歌人ハ、歌ハヨクヨミテモ、歌道ハツヤツヤシラヌ也」(「あしわけをぶね」)……

に始まる歌学と歌道の相関論も、

―すべて人は、かならず歌をよむべきものなる内にも、学問をする者は、なほさらよまではかなはぬわざ也、歌をよまでは、いにしヘの世のくはしき意、風雅ミヤビのおもむきは、しりがたし」、「すべてよろヅの事、他のうへにて思ふと、みづからの事にて思ふとは、深浅の異なるものにて、他のうへの事は、いかほど深く思ふやうにても、みづからの事ほどふかくはしまぬ物なり、歌もさやうにて、古歌をば、いかほど深く考へても、他のうへの事なれば、なほ深くいたらぬところあるを、みづからよむになりては、我ガ事なる故に、心を用ること格別にて、深き意味をしること也、さればこそ師(真淵)も、みづから古風の歌をよみ、古ぶりの文をつくれとは、教へられたるなれ」(「うひ山ぶみ」)……

という、詠歌は歌学のきわめて大事な手段であるという論も、

―問題は、宣長の逆の考え方が由来した根拠、歌学についての考えの革新にあった。従来歌学の名で呼ばれていた固定した知識の集積を、自立した学問に一変させた精神の新しさにあった。歌とは何か、その意味とは、価値とは、一と言で言えば、その「本来の面目」とはという問いに、契沖の精神は集中されていた。契沖は、あからさまには語ってはいないが、これが、契沖の仕事の原動力をなす。宣長は、そうはっきり感じていた。この精神が、彼の言う契沖の「大明眼」というものの、生きた内容をなしていた。……

も、すべて宣長の「楽」が「学問」に育っていく道筋の追跡である。その究極が次に語られる。

―考える道が、「他のうへにて思ふ」ことから、「みづからの事にて思ふ」ことに深まるのは、人々の任意には属さない、学問の力に属する、宣長は、そう確信していた、と私は思う。彼は、「契沖ノ歌学ニオケル、神代ヨリタダ一人也」とまで言っている。宣長の感動を想っていると、これは、契沖の訓詁くんこ註解の、言わば外証的な正確に由来するのではない、契沖という人につながる、その内証の深さから来る、と思わざるを得ない。宣長は、契沖から歌学に関する蒙を開かれたのではない、凡そ学問とは何か、学者として生きる道とは何か、という問いが歌学になった契沖という人に、出会ったというところが根本なのである。……

歌とは何か、その意味とは、価値とは何か、歌の「本来の面目」とは何かという問いに、契沖の精神は集中されていた、これが契沖の仕事の原動力をなし、この精神が、契沖の「大明眼」というものの生きた内容をなしていた、と小林氏は言う。これはそのまま、「学問とは何か、学者として生きる道とは何か、という問いが歌学になった契沖という人」という小林氏の言葉に直結する。この、学者として、それも、歌学者として生きるという生き方の発明、そこにこそ契沖の「一大明眼」が最も鋭く働いた、小林氏はそう言っているのである。

ではこの「一大明眼」は、どのようにして契沖に具わり磨かれたか。宣長の言う「契沖ノ歌学ニオケル、神代ヨリタダ一人也」は、「契沖の訓詁くんこ註解の、言わば外証的な正確に由来するのではない、契沖という人につながる、その内証の深さから来る」と小林氏が言うのはどういうことだろう。

契沖には、歌学の先達であると同時に、かけがえのない歌友であった下河辺長流がいた。

(第十九回 了)