奥墓考 ―書斎と奥墓の位置関係

鈴木 美紀

宣長の書いた遺言書は、なぜこんな風になったのか。奥墓おくつきの場所はどうして山の上を選んだのか。

 

宣長という人の不思議、宣長の残したものが含有するものを少しでも分かりたい……と、これまで小林秀雄の「本居宣長」を読み続けてきて次第に強く思うようになってきた。そして現時点においては、宣長の奥墓に関しての問いを続けながら読んで行けば、何かしっくりくる、まとまった思いが湧き上がってくるかもしれない、という淡い期待のもと、自分の考えの及ぶところから、ゆっくりと納得のいく思いを繋いで行こうと考えている。

 

今回は、宣長の書斎を一つのきっかけとして、書斎と奥墓の位置関係を考えてみた。宣長の作ったものに思いをめぐらせることで、何か見えてくるものがあるのではなかろうか。以下はその視点から連想された、取り留めのない言葉のかけら群である。なお宣長に関しての情報は、本居宣長記念館のホームページや吉田悦之館長著の『宣長にまねぶ』(致知出版社)を元とした。

 

奥墓は松阪のはずれの山室山の頂ちかくにある。山の上というのは、どういうところか。様々な形容する言葉が出てくるが、一つしか選べないのであれば、今の私は「高い」を選ぶ。高いという言葉が示す徳はなんだろうか。子供は大きくなりたいと望み、遊びとして木に登る。鳥を眺めてあんなふうに空高く飛んでみたいなぁと思う……といったことは、人に備わった普遍的な自然な欲求ではないだろうか。もちろん、高所恐怖症の人もいるわけだけれど。

 

宣長は若かりし頃、よく四五百よいほの森に行ったらしい。往診にかこつけて、薬箱を下げながら森を歩いて思索したこともあったという。五十代のとき、宣長は書斎を作った。中二階の四畳半の小部屋で、階段はごみ箱になっていて取り外しが可能だった。歩きながらから、座しての思索に変化した。本人は座したとしても、人の思いは常に移ろうものだ。言葉は漂う。思考も漂う。階段を外した書斎は、中空に浮かぶ「思索の神殿」のようである。洋の東西を問わず、天へ思考を飛ばす感覚があるのだろうか。バベルの塔の発想も、考え方の根っこは同じように思える。出雲等の神も高床だ。何となく幽体離脱のイメージも浮かぶ。後の世から見ると、ついつい余計なことを引き合いに出してしまう。でも逆に、宣長が自ら作った書斎が、色々に見えてくること自体がすでになかなか面白い。宣長の家は松坂の魚町にあり、先代からある屋敷であって宣長自身が建てたわけではない。しかし書斎は宣長が自ら望んで自分好みに作り上げたものだ。以前、松阪に行ったとき、鈴屋すずのや遺蹟の書斎を見てまず思ったことは、すっきりしていていいなぁということだった。しつらえは簡素だが、柱や壁板に桜の木をつかうなどのこだわりがあるという。シンプルだからこそ、見る側の想いが映るのか。色々に見立ててしまえるのである。魚町にあった当時は、書斎の窓をあけると四五百の森が見えたという。若き時代の思索の場と書斎が視覚を通じて繋がるのだ。日々、実際にその森を自らの目を通じて眺める時、空間的・時間的に思想が錯綜することもあったのではなかろうか。そして春には四五百の森の桜を愛でた。書斎を新築した時のお披露目は、桜が咲くのを待って行われたという。余談だが、当時の松坂においては、自分好みの書斎を作り、人に披露することは珍しいことではなかったらしい。

 

一階に居ては見えないが、書斎に登れば四五百の森までの眺望が得られる。宣長はもともと高い所が好きだったという。富士山に登ったこともあるし、京都に行けば清水寺の舞台からの眺めを楽しんだ。東寺の五重の塔にも登ったことがあるらしい。高みにのぼる書斎を作った、そしてその書斎は階段を外すことで切り離された空間にもなった、という書斎の姿には、宣長らしさというものがあるのかもしれない。宣長らしさというのは、これまた難問ではあるけれど。

 

書斎を作った前後で、宣長は自画像を描いた。四十代の時と、六十代の時に描かれている。宣長は京遊学から帰る際、温厚で円満な常識の衣として、早々と薙髪になり十徳に袖を通して帰郷した。自ら着るものを選び、そこに憂いや迷いはすでにない。その後、医師はもとより本居家の主、歌人、源氏物語講義者、古事記読解者など様々な顔を幾つも持つ。そんな中で描かれた自画自賛像は、自分はただ桜の好きな宣長という名前の一人の人間であるという宣言に見えなくもない。賛を読めば桜好きと分かる。四十代の自画像には桜や机を描きこんでいるが、六十代の自画像は本人と賛のみになり、年月を経て、すっきりしていくところが面白い。体現したものがいつのまにか学問となったひとりの人間の姿であり、自画自賛像は彼の自発的行為の一つである。そうさせたのは彼の充実した自己感であろう。医業できちんと家族を養い、学問の著作も着々と完成させていた。

 

自画像といえば、以前、山の上の家の塾において皆で自画像の話をした時、塾生の村上哲さんが「遺言書の奥墓の絵は、宣長の未来の自画像だ」と言った。なるほど……そう言われてからは、今はそうとしか思えなくなっている。

 

すっきりというのは宣長を巡るひとつのキーワードに思える。小林先生は、宣長の奥墓を見て、「簡明、清潔で、美しい」と書いた。「本居宣長」には、小林先生の感想めいた言葉はほとんど無いから、この一文はすごく印象的だ。でも、これはなにも奥墓だけにとどまらず、宣長の自画像、書斎にも当てはまる。そして「簡明、清潔で、美しい」とは、宣長の暮らし、仕事ぶり、全てに当てはまる言葉だとも思っている。「古事記伝」は大作だが、その手書きの文字は整然としていて美しい。吉田館長の『宣長にまねぶ』にも同じことが書いてあった。「源氏物語」が「もののあわれ」を知ることをはちきれんばかりに語ったものなら、宣長の人生は「簡明、清潔で、美しい」をはちきれんばかりにしているものがあるかもしれない。宣長は自身の死の直前に、知らせを受けてやって来た長女を見て「さっぱり、美しゅうなった」という言葉をかけたという。父からこの言葉をもらった娘の心中は、いかばかりであっただろうか。

 

宣長は書斎で思索して、「古事記」の神代の時代にまで自力で辿りついてしまった人だ。宣長が生身の肉体を持ち生きていた時は、神代へ通じる道は書斎という中空に浮かぶ小部屋が起点だったと言えるかもしれない。死してからは奥墓を起点にしようと思ったのであろうか。宣長の奥墓は山の上にある。つまり、宣長の肉体が眠る奥墓の地下は書斎よりも高い位置にある。死してなお、さらに高い所に行きたかったのだろうか。

 

そもそも「古事記伝」は、「あめつちのはじめのとき……」と始まる。奥墓のある山の上は、まさにその天と地の境を体感できるような場所だ。生きている人間が日々目にする、人の営みの周囲を取り囲む世界である。宣長はそういう起点にずっといたい、と思ったのであろうか。山室山の上からは海がみえる。富士山も見えることがあるという。宣長は松坂に生まれ育ち、仕事をし、そしてそこで死した人だ。そんな人が眠る墓から、自分が暮らした町のみならず、海も富士山も一望できるなんて、なんて素敵な場所を見つけたのだろうとつくづく思う。宣長の戒名は「高岳院石上道啓居士」である。「石上」は号で、「道」は代々本居家当主の戒名に付くらしい。戒名にも「高」を入れる宣長は、相当に高い所好きに思われる。宣長は高い所だけでなく、地図も好きだった。本居宣長記念館で見た、若い頃に描いたという「端原氏城下絵図」はすごかった。宣長は江戸や京都には行ったことあるが、日本の土地すべてに行ったわけではない。しかし、土地々々の言葉を探求しながら言葉の日本地図を通じて縦横無尽に国中を旅している。松坂のみならず、海も、日本一高い山も見えるような、そして天地に抱かれるような場所で、誰にも邪魔されず永遠の眠りにつく。高い所好き、地図好きの人の墓として、奥墓のある場所は一つの理想ではなかろうか。そういう場所に、宣長は自分だけの墓を作ることにした。宣長とはそういう個性の持ち主である。墓を通じて、後の人に見せたいものは、天地が始まるところに桜が咲いている景色だけなのかもしれない。家に置く位牌には「秋津彦美豆桜根大人」と記すよう指示した。

 

両墓制という風習は当時近畿地方を中心にあったようである。遺体を埋葬する埋め墓とまいり墓に分けるのが基本的な考え方の様だが、宣長の奥墓は逆である。土葬の時代は、朽ちていく遺体を人里離れた遠くに埋葬して、お参りするための墓を別に作るということは、衛生面などにおいても、長年の暮らしの知恵として意味のあることだったかもしれない。しかし、宣長は通常の発想とは逆で、遺体のある方を、家族とは別の独自の詣り墓として、奥墓に参るよう望んだ。山室山を選んだきっかけは、山室山の妙楽寺が本居家と縁の寺だったらしいので、その近くで……というようなごく単純なものだったかもしれないが、奥墓の完成形の姿の中には実に様々な意味が詰まっているようにも感じる。初めは山の中腹を選んだが、最終的には眺望のいい頂ちかくとなった。偶然の成り行きだったのかもしれないが、でもなにか必然的なものを感じる。このように、後の世の我々は、勝手にはちきれんばかりによけいな意味合いを見出そうとしてしまう。でも、仕掛けられている、とも思えるのだ。

 

日本は海に囲まれた島国だが、実はとても山国だ。山を越えないと違う土地には行けない。雪解け水は山にしみこみ、地下水が恵みとなり里を潤す。山が御神体という発想も多い。今回は「高い」ということを手掛かりに書斎から奥墓へと考えてみたが、「山」ということをめぐっても、いずれもっと考えなければならないだろう。漕ぎ手は一人の宣長は、川に乗り出した。その小舟は、どっちに向かって漕ぎ出たか。上流に向かって、源流に向かって漕いだであろう。下流に向かうなら漕ぐ必要はない。時代の流れをさかのぼり、言語というものを手掛かりに、「古事記」の世界を目指した人は宣長だけではないが、自力で行って来てしまった人は宣長だけである。宣長の肉声は、神代見聞録でもあるかもしれない。「古事記伝」を書きながら時間的には神代にまで、言葉の地図作りや言語研究で空間的には日本全国を、肉体が及ぶところを超越して、彼方此方隈なく旅をした、そういう宣長が獲得した死生観を、これからも考え続けてみたいと思っている。

(了)