私の人生を変えた「好信楽」

森本 ゆかり

平成27年10月12日に行われた“第1回小林秀雄に学ぶ塾in広島”、これが小林秀雄氏との初めての出逢いでした。

 

そのときの池田雅延塾頭の講演の中で、最も印象に残ったのは「ユニバーサルモーター」のお話です。

「世界中のヨットというヨットが、ユニバーサルモーターを積んでいる。このモーターは、スピードは出ない、しかし絶対に壊れない。世界中のヨットがこのモーターを積んでいるのは、港を遠く離れた海上で帆柱が折れるといった緊急事態に陥ったときも、確実に港まで帰り着くためだ。各社競ってスピードの出るモーターを開発しているが、スピードの出るモーターは壊れやすい。ユニバーサルモーターだけが、絶対に壊れないモーターとして造られ続けているのだ……」と、小林秀雄氏がお話されていたという内容でした。これを聴いて、私は、正しい信念があれば、周りのスピードとは関係なく、真理に近づける、歩みは遅くてもいいんだ、と言われた気がしました。これからどうやって生きていけばいいのか、心の奥底で長い間ずっと求め続けていたものが見つかったという感動で全身に鳥肌が立ちました。

 

当時、愛犬の死を切っ掛けに始めた動物愛護活動を通し、私達人間は、多くの生き物の犠牲の上に生きていたんだということを目の当たりにしていた時期でもありました。また社会はそんなことを一々考える暇もなく、時代は猛スピードで駆け抜けていく。その速さには到底ついていけず、先行く人達を見ては、羨ましがったり妬んだりしている自分にも嫌気がさしていました。鍼灸を生業としている私は、何が正しくて、何が間違っているのかも分からない不安定な状態のまま、人の身体や心に触れる仕事をしている。「今のまま、この仕事を続けてはいけない……」と日々、悩んでいましたが、小林秀雄氏の思想に触れることで私の心の軸ができ、問題との向き合い方が見えてくると直観しました。

 

その後、“小林秀雄に学ぶ塾in広島”と鎌倉で行われている塾に参加するようになりました。しかし、本が難しくて読み進めることができなかった私は、懇親会の席で、池田塾頭に「小林秀雄氏の本が解るようになりたいのですが、難しくて読めないのです」という正直な気持ちを打ち明けました。すると塾頭は、とても穏やかに「読書は、意味を取ろうとしなくていい。景色や写真を眺めるように全体を眺めて、声に出して読むんだよ。意味は後からついてくるから」と読書の方法を教えて下さいました。早速、小林秀雄氏の「本居宣長」(新潮社刊「小林秀雄全作品」第27・28集所収)の素読みを始めました。

 

そのうち、正しい読書とは、鍼灸師の私にとって患者さんとの向き合い方の訓練なのだと感じるようになりました。鍼灸の施術は患者さんの訴える症状にだけ鍼や灸をするわけではありません。患者さんの心の訴えを感じ、その人の背景にある不安、考え方の癖、生まれつきの体質等を総合的に診て、その方に合うであろうツボの組み合わせ、鍼や灸の刺激量を変えていきます。同じ患者さんでも、日によって心身の状態は微妙に変化し、それを見逃さないように気をつけていないといけません。鍼灸師側が「きっとこの患者さんは、こういう人だろう」と思い込んで決めつけてしまうと、患者さんの心の声が聞えなくなってしまいます。鍼の技術の乏しい私には、心の声を感じるということは、とても大切な課題です。

 

そんなことを考えながら素読みを続けていると、気になる箇所が出てくるようになりました。

 

“自分のこの「好信楽」という基本的な態度からすれば、「凡百雑技」から「山川草木」に至るまで、「天地万物、皆、吾ガ賞楽ノ具ナルノミ」と言う。このような態度を保持するのが、「風雅ニ従」うという事である” (第5章)

 

“一体、人間が人間であるその根拠が、聖人の道にあるとはおかしいではないか。人の万物の霊たる所以は、もっと根本的なものに基く、と自分は考えている。「夫レ人ノ万物ノ霊タルヤ、天神地祇ノ寵霊ニ頼ルノ故ヲ以テナルノミ」、そう考えている。従って、わが国には、上古、人心質朴の頃、「自然ノ神道」が在って、上下これを信じ、礼儀自ら備わるという状態があったのも当然なことである。”(同)

 

“人々が、その限りない弱さを、神々の目に曝すのを見たわけだが、そういう、何一つ隠しも飾りも出来ない状態に堪えている情の、退っ引きならぬ動きを、誰もが持って生まれて来た情の、有りの儘の現れと解して、何の差支えがあろうか。”(第50章)

 

しかし、何故これらの箇所が気になるのか、自分にとって都合のよい所だけを引っ張ってきているだけではないのか、そもそも私は正しく読書ができているのか? と、考えれば考えるほど不安は大きくなる一方でした。

 

そんな時、広島の塾の主催者である吉田宏さんに背中を押して頂いたのが切っ掛けで、鎌倉の塾で質問に立つことになりました。早速、質問を池田塾頭にメールで送り、ご指導いただいたことは、「山の上の家で小生が求めている『質問』とは、小林先生の『本居宣長』のどこか一ヵ所を取上げ、その本文の行間で言われている深意について自問自答するというものです。今回の『質問』では第5章の『好信楽』という言葉が取り上げられていますが、300字という字数をフルに『好信楽』に宛て、この言葉に託した宣長の意志や覚悟を縦横に推察するということを試みて下さい。300字という限られた字数には森本さんの経験や感想を述べ立てている余裕はありません」という内容でした。

 

教えて頂いたことを頭に叩き込み、本と向き合った時、「質問締め切りまで、もう時間がない」という焦りから、私は、本居宣長の意志、覚悟は何か? と意味を取ろうとしてしまい、全く何も見えなくなってしまいました。ふと、「あ、これは患者さんと向き合う時にも、私が陥りやすい現象だ」という思いがよぎりました。落ち着いて池田塾頭から頂いたメールと塾でのノートを読み返しました。すると過去に教えて頂いた読書についてのメモが目につきました。意味を取ろうとせず、眺めるように、再度、素読みしていくと、「もしかして、こういうことかな」という答えが自然と見えてきました。

本居宣長の言う「好信楽」とは、趣味のような軽々しいものではなく、実生活で実践しながら学問するということであり、生半可な生き方をしていては到底出逢えるものではないのではないか、という、今までとは全く違った景色が見えてきたのです。得心がいった瞬間でした。

 

そこで、私が提出した質問は、“自分のこの『好信楽』という基本的な態度からすれば、『凡百雑技』から『山川草木』に至るまで、『天地万物、皆、吾ガ賞楽ノ具ナルノミ』と言う。このような態度を保持するのが、『風雅ニ従』うという事である” について、本居宣長の言う『好信楽』とは、実生活で実践しながら学問するということなのでしょうか? また “之ヲ好ミ信ジ楽シム” という、その対象と出逢うためには“凡百雑技”から“山川草木”に至る天地万物などの身の回りのもの全てが教えであり、“上古、人心質朴の頃”のような有るが儘の生き物としての自然な情の現れを知り、自分自身を、正しく、冷静な目で見つめなければならないということなのでしょうか? でした。

 

ところが、池田塾頭は、「森本さん、自答の最後の最後で気を抜いてしまったね。『自分自身を、正しく、冷静な目で見つめなければならない』というのは、現代社会で言われている通念です。現代社会の通念をここに持ち込んだのでは宣長が言わんとしている大事なことが宙に浮いてしまいます。宣長が言わんとしているのは客観の真反対の主観こそ大事ということで、小林先生が言われている「宣長の『好信楽』という基本的な態度」とは、何事にも自分自身の感性で……、ということは主観で向きあうという態度です。だから自答も原文を現代語に翻訳するのではなく、最後まで宣長の言葉に即して行わなければならないのです」、さらにその後の懇親会でも「森本さん、わかったかい? 最後が肝心なんだよ。『徒然草』の『高名こうみょうの木登り』だよ」と、今回の私の質問で足りなかった点について丁寧にご指導下さいました。「高名の木登り」の話は、「徒然草」の第百九段に出ていました。

 

私にとって「好信楽」とは、小林秀雄に学ぶ塾そのものです。ここで学ぶ事は、鍼灸の修行であり、人生の全てに繋がっています。これからも、塾での学びを深め、小林秀雄氏の思想に触れ、良い鍼灸師を目指し、学んだ事を一人でも多くの患者さんに活かしていきたいと思います。山の上の家では、かけがえのない時間を過ごさせて頂いています。池田塾頭はじめ、いつも優しくて親切な先輩方に出逢うことができ、私にはこれ以上の幸福はありません。

 

最後に、このような、奇跡的な御縁を作って下さった吉田宏さん・美佐さんご夫妻に心から感謝を申し上げます。

(了)