俗こそ物のあはれを知るという道の始まり

橋本 明子

「小林秀雄に学ぶ塾」の令和元年は、「道」をテーマに「本居宣長」を読む一年である。「道」について思いを巡らすうち、宣長の言う「俗」とは何か、宣長はいつ何を契機に、「俗」こそ物のあはれを知る「道」の始まりと考えるようになったのか知りたい、という気持ちが膨らみ、去る七月、山の上の家の塾に、次のような自問自答を提出した。

 

全的な認識力をもって得た基本的な経験を損なわず維持し、高次な経験に豊かに育成する道、これこそが宣長が考えた、「物のあはれを知る」という「道」であると、小林秀雄先生は述べている。一方で、「卑近なるもの、人間らしいもの、俗なるものに、道を求めなければならないとは、宣長にとっては、安心のいく、尤もな考えではなかった」とある。後に「俗なるものは、自分にとっては、現実とは何かと問われている事」であり、「俗」こそ物のあはれを知るという「道」の始まりと、宣長に気付かせたもの、それが「源氏物語」であったと考えてよいのでしょうか。

 

この自問自答に際して、熟視対象本文として以下を引いた。

 

卑近なるもの、人間らしいもの、俗なるものに、道を求めなければならないとは、宣長にとっては、安心のいく、もっともな考えではなかった。俗なるものは、自分にとっては、現実とは何かと問われている事であった。この問いほど興味あるものは、恐らく、彼には、どこにも見附からなかったに相違ない。そうでなければ、彼の使う「好信楽」とか「風雅」とかいう言葉は、その生きたあじわいを失うであろう。

(『小林秀雄全作品』第27集「本居宣長(上)」127頁、11行目)

 

以上が私の自問自答だったのだが、「俗こそ物のあはれを知るという道の始まりと、宣長に気付かせたもの、それが『源氏物語』であったと考えてよいのでしょうか」という問いへの池田塾頭の答えは、「本文に忠実に、小林先生の思考手順に沿って読み進めれば、そうではありません」であった。その理由を、「宣長は『俗』について、『源氏』の前に、仁斎、徂徠に学んでいます。本文にある『俗』に、もっとしっかり喰らいつくべきでした」と、説明してくださった。

 

そして、私が熟視対象とした本文の拠り所として、『小林秀雄全作品』第24集「考えるヒント(上)」に収められた「学問」と「天という言葉」から、仁斎の学問についての考え方を紹介された。

 

小林先生は「学問」の中で、次のように述べている。「仁斎の言う『学問の日用性』も、この積極的な読書法の、極く自然な帰結なのだ。積極的という意味は、勿論、彼が、或る成心や前提を持って、書を料理しようと、書に立ち向ったという意味ではない。彼は、精読、熟読という言葉とともに体翫という言葉を使っているが、読書とは、信頼する人間と交わる楽しみであった。『論語』に交わって、孔子の謦咳を承け、『手ノ之ヲ舞ヒ、足ノ之ヲ踏ムコトヲ知ラズ』と告白するところに、嘘はない筈だ。この楽しみを、今、現に自分は経験している。だから、彼は、自分の『論語』の註解を、『生活の脚註』と呼べたのである」

 

仁斎は、孔子という一人の「人間の立派さを、本当に信ずる事が出来た者」であった(同「本居宣長(上)」110頁)。「時代の通念というものが持った、浅薄で而も頑固な性質」(同)を見抜き、門生の意見を受け入れる穏やかな人柄からも、俗を重んじる彼の心が見て取れる。人間に価値を認める仁斎は、「俗」、つまり日用、人間の日々の生活の中に「道」はあると考えたのである。

 

一方、「天という言葉」には次のようにある。「福沢」とは福沢諭吉である。「福沢の教養の根底には、仁斎派の古学があった。『天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず』を言う時、彼は、仁斎の『人の外に道なく、道の外に人なし』を想っていたと推測してもいいし、又、彼が、洋学を実学として生かし得たについては、仁斎の言う『平生日用之間に在る』『実徳実智』が、彼の心底で応じていたと想像しても少しも差し支えないだろう」。さらに小林先生は「本居宣長」の中で、仁斎から徂徠に受け継がれ徹底された考えは、「人ノ外ニ道ナシ」、或いは進んで「俗ノ外ニ道ナシ」であったとしている(同126頁)。

 

仁斎の一番弟子だった徂徠は、仁斎の考えをさらに深め、「人ノ外ニ道ナシ、俗ノ外ニ道ナシ」という考えに至った。徂徠の言う「俗」とは、生活常識、換言すれば経験的事実であった。徂徠は言った。「見聞広く、事実に行わたり候を、学問と申事候故、学問は歴史に極まり候事候」。その歴史とは、「天地も活物、人も活物に候故、天地と人との出合候上、人と人との出合候上には、無尽の変動出来り」、この「無尽の変動」そのものである、と小林先生は述べている(「徂徠」)。

 

「本居宣長」を始め、小林秀雄先生の作品を読み重ねた人にとっては当然の帰結だろうが、こうして一つひとつの言葉と文章を丁寧に追うことで、さらに納得が深まってゆく。

 

 

以上のように本文を追ううち、宣長の言う「俗」とはどのようなものか、具体的に知りたくなった。そこで、松坂・魚町の町中にあった、本居家に思いを馳せてみた。

 

道の両側に家々が立ち並び、本居家の向かいには、木綿問屋の豪商、長谷川邸がある。町では、商家の主人による歌会や古典を読む会がしばしば開かれ、歩けば琴の音が聞こえ、時に管弦の演奏会もあったという。往来絶えず、知と富が集まる、賑わって豊かな城下町である。「富裕な町人の家に生まれた彼(宣長)が、幼少の頃から受けた教養は、上方風或いは公家風とも呼ぶべき、まことに贅沢なものであった」(同「本居宣長(上)」124頁)。

 

その町中にある本居家は品のある佇まいで、当時にしては大きな家だと思うが、一階の三つの続き間は、医師・宣長の診察や調剤のための職場であり、五人の子供と夫婦が暮らす家であり、松坂のみならず、お伊勢詣での際に全国から講義を乞いに訪れる多様な人々との学びと交わりの場でもあったそうだ。仏間は、水屋や釜のある広い台所と接している。

 

宣長は生涯、基本的には松坂を動かず、普通の生活を送りながら学問に勤しんだ。よって、宣長が人生の多くの時間を過ごしたこの町と家は、宣長にとっての「俗」そのものであった。宣長はとても早足で、日々の仕事を抱えながら、膨大な学問の成果を残した。往診や散歩の折の歩きながらの思索や、中年になって実現した書斎で過ごす時間の中で、残すべき言葉が選ばれていった。せわしない日常から、真を見出したのだ。宣長の残した言葉は、混沌とした俗の世界から、宣長が批評家の眼を駆使して選び取った何本もの糸であると、池田塾頭は教えてくださった。その言葉の織りなす色こそが、宣長という人、そのものなのだろう。

 

 

この私が、人間とは何者か、考えを深めたいと願い、山の上の家での学びの場に参加させて頂き二年が経った。今夏の私の小さな気づきは、あまりにも当然のことであるが、俗つまり世の中には、他人と共に自分も存在していること、そして、俗に道を見出すのは誰でもない、自分であるということであった。

 

宣長は、「どんな『道』も拒まなかったが、他人の説く『道』を自分の『道』とする事は出来なかった。従って、彼の『雑学』を貫道するものは、『之ヲ好ミ信ジ楽シム』という、自己の生き生きとした包容力と理解力としかなかった事になる」(同「本居宣長(上)」125頁)。

 

「俗」こそ物のあはれを知るという「道」の始まり。物のあはれを知るためには、周りの人の心だけではなく、自分の心の動きにも敏感でなければと思う。宣長を知る旅は、私の心をよく見る旅とも重なって、これからも続く。

(了)