ヴァイオリニストの系譜―パガニニの亡霊を追って

三浦 武

その五 パリのヴァイオリニスト~ジネット・ヌヴー

 

新しい靴かチョコレートか……靴にしろと親父はいう。チョコレートは食っちまえばそれで終わりだ。だが、その、食っちまえば終わりのチョコレートこそが13歳の少年を魅惑するのだ。困惑のあまり彼は泣きだした。主催者は、身体は逞しいがどうにも幼い、アルジェリアからやって来たらしいこの少年に、靴とチョコレートの両方を手渡して片目をつぶった。KOできるのに攻め切れなかった。優しい子だ。だが、たしかにいいパンチをもっている。こいつは強くなるぞ……マルセル・セルダンの初めての「ファイト・マネー」である。

カサブランカでの「デビュー」から十数年、セルダンは連戦連勝のプロボクサーになり、アフリカ北部に駐留した連合軍の兵士らによって、その「怪物」の噂は大西洋を越えた。北アフリカだけじゃない、ヨーロッパでも敵なしさ。前のめりの凄いファイターだ。負けたのは二回きりでそれも反則負け、もう百勝以上も稼いでいるらしいぜ。ウェイト?ウェルターかミドル。ミドルならトニーが相手だ。鋼鉄の男トニー・ゼール。さすがにトニーには……。

1948年9月21日ニュージャージー州ジャージーシティ、「伝説」は「歴史」になる。鮮烈な左フック、かろうじて立ち上った王者トニー・ゼールだが、次の第12ラウンド、開始を告げるゴングが鳴ってもコーナーに座ったままだった。チャンピオン・ベルトははじめてフランスにもたらされた。パリは熱狂した。セルダンこそ英雄だ。あのカルパンティエが出来なかったことをやったんだ。

ところが初防衛戦には敗れてしまう。1949年6月デトロイト、「レイジング・ブル」のジェイク・ラモッタ戦であった。激戦最中に肩を負傷、肝心の左が使えない。そして第10ラウンド、試合の続行は、最早不可能だった。

むろん、このままでは終われない。セルダンは再戦を望んだ。そして新チャンピオンはそれを受け入れた。勝つか、死ぬかだ……セルダンは、雪辱のチャンスに恵まれた喜びをそう表現した。

 

セルダンに会ってはいけない、あなたがいないと何もできない男になってしまうから……占い師にそう言われた。「だから彼から離れないの」。エディット・ピアフは男から離れられない女だ。そして離れずには済まない女だ。

パリ20区ベルヴィル地区の路上で生まれた女。アクロバットの大道芸人とカフェを流す歌手が両親だったが、若すぎる母親に棄てられて、祖母の手で、ノルマンディーの娼婦の街で育てられた。ある日突然目が見えなくなった幼い彼女に、たくさんの歌を教え、光が戻るように祈ってくれたのは娼婦たちだ。やがて奇跡のように視力が戻り、貧しい街角で、小さなからだを震わせて、雀のように歌っていた。

そんな彼女にも幸運は廻って来た。二十歳になる頃だ。シャンゼリゼ通りでナイトクラブを経営するルイ・ルプレの目に留まり、その店「ジェルニーズ」で歌えるようになった。ピアフという芸名はルプレにつけて貰ったものだ。翌年にはレコーディングもした。それからたくさんの恋をし、別れ、その度に泣いた。彼女にとって恋は、いつもひとときの、せつない、悲しい物語だった。

悲しみに暮れて歌うピアフに、パリは喝采を贈り続けた。彼女の歌には人生の真実がある。コクトーもボーガットもピアフのために書こうと思った。

たくさんの歌手を育てもした。イヴ・モンタン、シャルル・アズナヴール、ジルベール・ベコー……。イヴ・モンタンとの出会いは、パリ解放の1944年、モンマルトルのムーランルージュだった。この子はうまくなる。共演者に抜擢し、アパルトマンの部屋に呼び入れて、一緒に暮らして歌を仕込んだ。そして稀代のシャンソン歌手イヴ・モンタンが誕生した。と同時に、ピアフは身を退こうと思った。彼と暮らした日々―薔薇色の人生! それは郷愁ではない。楽観でも、希望でさえもない。決意である。私はこの人生をこそ薔薇色だというのだ。

 

ある晩、楽屋にやって来たのは、がっしりした体格の、優しい目をした男だった。なぜ悲しい歌ばかり歌うんだい? なぜ人を殴るの? ピアフは欧州チャンピオン、マルセル・セルダンを知っていた。それからは毎晩のように手紙を書いた。

その後、セルダンはアメリカで世界チャンピオンになり、まもなくアメリカでベルトを失う。雪辱を期したリベンジ・マッチはニューヨーク、1949年12月2日に決まった。

「はやく会いたい。飛んで来て」。試合までにはまだ日があった。セルダンはニューヨーク近郊に籠って、人生を賭けた一戦に万全を期すつもりであった。途を急ぐわけではないのだが、ちょうどニューヨークにいたピアフの、その電話の声には、なにか胸がしめつけられるものがあった。航路の予定を急遽変更し、オルリー空港に向かった。はやく行ってやらないと。

しかし、ピアフは既に「別れ」を思っていた。彼にはカサブランカに家族がある。いつまでも一緒にいてはいけないのだ。彼が世界チャンピオンに返り咲くとき、そっと彼から離れよう。それは別離を急ぐかのような電話だった。「もう待っていられない」。この青空が崩れ落ちても、この大地が割れてしまっても、あなたの愛さえあれば、わたしはかまわない……《愛の讃歌》は、本当は「おわり」の歌だ。あなたが死んで遠くへ去っても、あなたの愛があるなら、わたしはかまわない、そのときわたしも死ぬから……。

 

ジネット・ヌヴーは、ドラクロアの絵画に描かれたマリアンヌに似ている。それは民衆を導く「自由」、フランスの象徴である。

音楽を宿命として生れて来た。曾祖父にシャルル=マリー・ヴィドールがいる。ヴィドールは、セザール・フランクの後任としてパリ音楽院オルガン科の教授になった人であり、ダリウス・ミヨーやマルセル・デュプレの師である。ヌヴーの母親はヴァイオリンの教師、父親もヴァイオリンを弾き、兄はピアノを学んだ。5歳でエコール・シュペリウール・ド・ミュジークのマダム・タリュエルに入門、はじめての演奏会でシューマンの《コラールとフーガ》を披露した。公式のデビューは7歳、パリのサル・ガヴォーでブルッフの協奏曲を弾いた。その二年後にはパリ高等音楽院一等賞とパリ市名誉賞を受賞し、スイスの公演では「ペティコートをつけたモーツアルト」と称えられた。さらに、ジョルジュ・エネスコのレッスンを受けた10歳のとき、この偉大な師の助言を、「私は自分で理解したようにしか弾かない」と言って撥ねつけ、エネスコ先生が微笑んで許した話、その三年後、これもまた偉大な教師カール・フレッシュに入門した際、「君には天から授かった才能がある、私はそれには触れたくない、私にできるのは純粋に技術的な忠告だけだ」と言わしめた話……ヌヴーの少女時代は、栴檀の双葉の頃の芳しさを語る逸話に事欠かないのである。

エネスコもフレッシュも、この少女には、何か既に確定した音楽的性格というものがあると判断したのではないかと思う。彼女はそれを表現するしかないのだし、またそうしなければならないのである。それは信念とか信仰と呼ばれる態度に近い。音楽家としての出発点に当って、その表現を志すべく許されたのは、ヌヴーにとっていかにも幸福なことであっただろう。後年、ジャック・ティボーは、ヌヴーを「女司祭」と評している。また、同じフレッシュ門下のイダ・ヘンデルが、ヌヴーを称して「カリスマ」だったと言っている。ヌヴーが弾くと、それが正しいのだと皆信じてしまうのだ、と。その悪魔的な感化力は、ヌヴーその人の、溢れんばかりの情熱と揺るぎない確信とに由来していたに違いないのである。

もっとも、信念と情熱だけでは、一時代のヴァイオリニストたるには不足だろう。カール・フレッシュに入門する前、ヌヴーは11歳でパリ音楽院のジュール・ブーシュリのクラスに入り、わずか八か月でプルミエ・プリを獲得している。これはヘンリク・ヴィエニャフスキ以来の快挙であって、ヌヴー神話の頂点をなすエピソードだ。しかしながらその翌年のウィーンのコンクールでは4位に敗れるのである。ヌヴーの母親はそれを不当だと言っているが、審査員であったカール・フレッシュは、ヌヴーが滞在するホテルに手紙を届け、自分のレッスンを受けるように促し、同時にその将来を約束したのであった。入門は、ヌヴー家の経済的な事情で二年後になったが、その際のフレッシュの言葉が、先に紹介した、技術的な忠告云々であったということには、見逃せない意味があったわけだ。事実ヌヴーは、ベルリンやブリュッセルで、約四年にわたってフレッシュのレッスンを受けた後の1935年、ワルシャワの第一回ヴィエニャフスキ国際コンクールでは、大本命ダヴィド・オイストラフ、地元ポーランドのアンリ・テミヤンカ等を抑えて優勝したのである。それはヌヴーが何かを克服したことを意味するだろう。とはいえヌヴーの本領は、やはりその憑依的な雰囲気だ。バッハのシャコンヌ、ヴィエニャフスキの嬰ヘ短調協奏曲、その他の課題曲、そしてラヴェルのツィガーヌ……2位に甘んじたオイストラフは妻に宛てて、ヌヴーの演奏を評して「悪魔的にすばらしい」と書いた。若い日のオイストラフの、あの繊細な技巧と圧倒的なスケールを上回るものがヌヴーにあったとすれば、それはやはり、その「カリスマ」的な「感化力」だったのではないか。

そしてこのときから、ジネット・ヌヴーは「フランスのヴァイオリニスト」になるのである。ジャック・ティボーが、ヌヴーの師ジュール・ブーシュリに宛てた手紙がある。そこに、この16歳の少女にかけられた期待の大きさと性格とがうかがわれようというものだ。

 

旅行から戻り、ワルシャワで開催されたヘンリク・ヴィエニャフスキ生誕百年を記念する国際コンクールで、我々の愛しきフランス人少女ジネット・ヌヴーが成し遂げた快挙を伝える『ル・モンド・ミュジカル』誌の記事を読ませてもらった。この記事は我が国の輩出した新進気鋭の若手演奏家を正当に評価する一方で、この成功が全面的にはフランスのものではないかのようにほのめかしている。というのも貴誌によれば、ジネットが我々の最上の友人で極めて偉大な二人の芸術家、ジョルジュ・エネスコとカール・フレッシュのもとでコンクール曲に磨きをかけたとされるからだ。……しかしながら私は、彼女が我々の偉大なフランス学派の申し子であると認識している。彼女の本当の指導者であるジュール・ブーシュリが、パリ音楽院の優秀な一等賞受賞者の一人に育て上げたからだ。……ジネット・ヌヴーの輝かしい優勝はまさにフランスのものであり、そのように万人の心に刻まれるべきだ。……

(ジャック・ティボー ジュール・ブーシュリ宛書簡 1935年4月22日) 

 

以後のヌヴーは、往くとして可ならざるはないといった趣である。ハンブルク、ベルリン、ミュンヘン、モスクワ、アムステルダム、もちろんパリ……バロックから現代曲まで、何処で何を弾いても絶賛された。大西洋も渡った。アメリカで、カナダで……モントリオールでは《ラ・マルセイエーズ》に迎えられた。レコーディングも行われた。1938年ベルリンでのことだ。ジョセフ・スークの小曲やリヒャルト・シュトラウスのソナタ、そしてタルティーニのヴァリエーションに大好きなショパンのノクターン、そんな演奏が稀少なSP盤に遺されている。しかし1940年、ナチス・ドイツが侵攻しフランス第三共和政が崩壊すると、ヌヴーはドイツ軍からの演奏要請をすべて拒絶して、民衆の前から姿を消し、自宅アパルトマンに蟄居したのであった。その間のヌヴーの生活はわからない。彼女は音楽を自らの宿命としていたであろうから、その意味をあらためて考えていたかも知れぬ。単に音楽一族に生まれた、というようなことではなく、まさに民衆の生きる糧としての音楽、それを担わねばならぬという覚悟を生きること、それこそが「フランス流」の宿命であり、ヌヴーはそれを責務として、自らにあらためて課したのではなかったか。

1944年8月、パリ解放。ヌヴーも解き放たれて、旺盛な演奏活動に戻る。1945年11月から翌年8月にかけて、ロンドン・アビィロード・スタディオで録音された、シベリウスとブラームスのコンチェルトを含む9曲は、ジネット・ヌヴーというヴァイオリニストが、音楽の使徒として、全身全霊をうちこんで、民衆に伝え、未来に遺そうとした人生の記録である。どの一曲どの一小節にも、「ジネット・ヌヴー」が貫かれている。

ところで、幾つか遺されたライヴの音源は、それらを凌いで一層見事であるように私には思われる。ヌヴーはやはりライヴの人だ、と言いたくなる。たとえば、1948年5月3日ハンブルクでのブラームスのコンチェルト、1949年1月2日ニューヨークでのラヴェル・ツィガーヌ……それらは凄まじいばかりのコンセントレーションで、聴く者たちを圧倒する。常軌の裡にはらまれた奔放の気配……破壊と創造が一体となって押し寄せて来るのである。

「ヴァイオリンは私の職業ではない。使命です」。その使命を果たさんがために、ヌヴーは世界を駆け廻った。そしてパリに戻った1949年秋、10月20日はサル・プレイエルでの演奏会であった。プログラムには、バッハ、ヘンデル、ラヴェル、それにシマノフスキの名が並ぶ。バッハのシャコンヌは、あの幼い日、エネスコ先生の「伝説の」レッスンで「自分が理解したように」弾き、ワルシャワのコンクールではイザイ以来の名演と激賞された曲だ。ラヴェルのツィガーヌも、やはりワルシャワで熱狂の渦を作り出したにちがいない、ヌヴーのいわば代名詞だ。

ところでこの演奏会は、特にConcert d’adieuと題されていた。「さよなら演奏会」。ヌヴーは一週間後に訪米をひかえていたのである。

 

空港に到着するや、セルダンはすぐに新聞記者たちに取り囲まれた。船での渡米と聞いていましたが?―急ぎの用事だ。小さな雀を放っておけないんだ。―ピアフさんですね?―そう。彼女もラガーディア空港まで羽ばたいて来るよ。ニューヨークからね。―世界再挑戦に向けてコメントを。―勝つか、死ぬか、だ。それがチャンスをくれたチャンピオンに対する礼儀だろう。……あそこにも記者諸君が集まっているようだが……。―ジネット・ヌヴーさんです。―これは光栄だ。ニューヨークでコンサートなんだね。私もこの次はカーネギーホールで防衛戦かな。道を教えてもらわなくちゃ。

……こんばんは!ヌヴーさん。ボクシングのマルセル・セルダンです。奇遇ですね。演奏会ですね?―ええ。コンサートです。兄のジャンと。―これはこれは。私はマディソン・スクエア・ガーデンで試合です。もっとも少し先なのですが。演奏会はやはりカーネギーホール?まだ行ったことがないのですが、どうやって行くのでしょう?地下鉄?バス?―練習!ものすごく練習するんです!―ははあ。なるほど。僕も今回はずいぶん練習したから、行けるかな。―行けますとも!でもその前にヴァイオリンをお持ちにならないといけませんね……ご覧になります?―それは是非!……これが?―ええ、ストラディヴァリウス。ストラディヴァリウス・オモボーノ。1730年につくられたそうです。―ほお……それにしても随分小さいし華奢なものですね。こんな手で持ったら壊してしまいそうだ。―だいじょうぶですよ。お持ちになってみて!―いいのですか……感激だなあ。これからあんなに素敵な、しかも大きな音が出るんですね。雀みたいに……

実際にどんな会話が交わされたのか、それはわからない。が、冗談好きのセルダンと快活なジネットのあいだのやり取りが髣髴とするような写真がある。セルダンがヴァイオリンを持って、いたずらっぽい目をして何か話している。ジャンはこみあげてくるような笑顔でセルダンを見ている。ジネットはその話に惹きこまれたり、破顔一笑したり。それはひとときの、まことに和やかな光景であった。

 

この直後の奇禍については人も知る通りである。10月27日21時、ニューヨーク・ラガーディア空港行エール・フランス国際定期便ロッキード・コンステラシォン機は、定刻通りパリ=オルリー空港を発った。が、数時間後の翌28日未明、経由地のポルトガル領アゾレス諸島サンタマリア空港から60マイルほど離れたサンミゲル島の山麓に墜落し、11人の乗員と37人の乗客は残らず死んでしまったのであった。午後、空港には、ピアフが、恋人を迎えるべくやって来た。親友マレーネ・ディートリッヒが先に来て彼女を迎えた。それが「救い」だ。

 

ジネット・ヌヴーの墓所は、パリ20区ペールラシェーズにある。小高くなった所に、やや湾曲した長方形の、白く簡素な墓碑が立っており、横顔が彫られた円形のブロンズが、その中央にはめ込まれている。足許には、十字とヴァイオリンのレリーフが施された、墓碑と同じ石材の白い棺、その両側は小さな赤い実をつけた常緑の低木が、包むように、斑の入った葉を繁らせている。清潔で慎ましい風情である。幼い彼女が「悲しいのが好き」と言って愛したショパンの墓もごく近い。

エディット・ピアフも、1963年10月、このペールラシェーズにやって来た。パリで最も愛された二人の女性の、14年目の邂逅だ。こちらは黒の御影石。平らな広いところに横たわり、棺の上にはいつも、パリの誰かが手向けた、赤い薔薇である。

 

 

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ジネット・ヌヴー……Ginette Neveu 1919-1949 フランスのヴァイオリニスト。

マルセル・セルダン……Marcel Cerdan 1916-1948 フランス領アルジェリア出身のボクシング選手。

ジョルジュ・カルパンティエ……Georges Carpentier 1894-1975 フランスのボクシング黎明期の英雄。ライトヘビー級世界チャンピオン。ヘビー級のタイトルを賭けてジャック・デンプシーに挑み、4ラウンドKO敗戦。美しい容貌と華麗なステップで「蘭の男」と呼ばれた。なんと10月28日に亡くなっている。

エディット・ピアフ……Edith Piaf 1915-1963 フランスのシャンソン歌手。しばしばパリ20区ベルヴィル地区の路上で生まれたとされるが、病院での出生が書類の上では確認されている。「ピアフ」は俗語で「雀」。

ジャン・コクトー……Jean Cocteau 1889-1963 フランスの詩人、作家。ピアフの死に衝撃を受け、その晩、心臓発作で死去。

ジャック・ボーガット……Jacque Bogut ? フランスの詩人。

ジョルジュ・エネスコ……Georges Enesco 1881-1955 ルーマニア出身のヴァイオリニスト、作曲家。

カール・フレッシュ……Carl Flesch 1873-1944 ハンガリー出身のヴァイオリニスト。

ジュール・ブーシュリ……Jules Boucherit 1877-1962 フランスのヴァイオリニスト。

ジャック・ティボー……Jacques Thibaud 1880-1953 フランスのヴァイオリニスト。カール・フレッシュ、ジョルジュ・エネスコ、ジャック・ティボーは、パリ音楽院マルタン・マルシック教授の同門である。

イダ・ヘンデル……Ida Haendel 1925- ポーランド出身のヴァイオリニスト。

ヘンリク・ヴィエニャフスキ……Henryk Wieniawski 1835-1880 ポーランド出身のヴァイオリニスト。

ハンブルクでのブラームスのコンチェルト……ハンス・シュミット=イッセルシュテット指揮、ハンブルク・北ドイツ放送交響楽団。

ニューヨークでのラヴェル・ツィガーヌ……シャルル・ミュンシュ指揮、フィルハーモニック交響楽団。

 

(了)