「本居宣長」第1章は、小林氏が宣長の「古事記伝」を読んで間もなくの頃、折口信夫氏を訪ねた際に自身の読後感のもどかしさを折口氏に吐露したところからはじまっている。……「宣長の仕事は、批評や非難を承知の上のものだったのではないでしょうか」という言葉が、ふと口から出て了った。折口氏は、黙って答えられなかった。私は恥ずかしかった。帰途、氏は駅まで私を送って来られた。道々、取止めもない雑談を交して来たのだが、お別れしようとした時、不意に、「小林さん、本居さんはね、やはり源氏ですよ、では、さよなら」と言われた……。
この折口氏の言葉を、小林氏は読者に投げかけるようにして、全50章の長い旅に出る。しかし、その折口氏からの言葉に対しての明確な答えは50章を通じて書かれていない。「古事記伝」を書いた宣長さんに関して水を向けた小林氏に対して、「源氏物語」について書いた宣長さんのほうに話題を転じた折口氏の、断定的な、深い確信を秘めた言葉は、私に限らず、本文を読み進める読者にとっては、大きな問いかけとして常に頭の片隅にひっかかっているのではないだろうか。
その問いかけに対して、答えの糸口が見えたかのように思えたことがあり、山の上の家で、私は以下のような趣旨の質問をした。
「源氏物語」の「蛍の巻」で、長雨に降りこめられ、所在なさに絵物語を読む玉鬘を、源氏が音ずれ、物語について話し合う。その二人の会話を、宣長は、紫式部がこの物語の本意を寓したものと見て、自身の「源氏物語」に関する書、「紫文要領」で、全文について精しい評釈を書いている。その中で、式部が源氏に言わせている、「(物語とは)神代よりよにある事を、しるしをきけるななり」という言葉に宣長が注目したのはなぜか、というのが私の質問であった。
私は、宣長がこの源氏の言葉に注目した理由として、宣長は、紫式部の「心ばへ」と、「古事記」の作者の「心ばへ」とを重ね、式部はそっくりそのまま「(物語とは)『古事記』のように、神代よりよにある事を、しるしをきけるななり」とさえ言いたい思いでここを書いたと宣長は「源氏物語」を読んだからではないか、ということを挙げた。つまり、宣長が「古事記」を読むその前の段階で、「源氏物語」から、「古事記」解読の糸口ともなり得るような言葉を見出していたのではないか、という質問である。
だが、この見解については、池田雅延塾頭から次のような指摘があった。
……「本居宣長全集」に収録されている宣長の年譜を辿ってみるかぎり、「紫文要領」を書いていた頃の宣長には、まだ「古事記」を本格的に読んでいた形跡がない、もっとも小林先生は第37章で、宣長は「紫文要領」より先に書いた「葦別小舟」でもう「歌の事」は「道の事」に直結すると考えていたと言われており、後年、「古事記」を本格的に読もうとした段階で宣長は「蛍の巻」の源氏の言葉を自ずと思い浮かべ、溝口さんが言うような、「古事記」の作者の「心ばへ」を紫式部の「心ばへ」に重ねて、ということがあっただろうとは言えると思う、しかし、「紫文要領」が書かれた時点に立って行う議論のなかでそこまで言ってしまうのは性急に過ぎるだろう、「紫文要領」の段階では、源氏が言った「(物語とは)神代よりよにある事を、しるしをきけるななり」は特に「古事記」を念頭においてのことではなく、一般論として「神代から世間で見られた事柄を」の意に解しておくのが物語論の読み方としては妥当と思う……。
また私はこうも質問した。光源氏の上記の言葉には続きがあり、「日本紀などは、ただ、かたそばぞかし、これら(物語)にこそ、みちみちしく、くはしきことはあらめ、とてわらひ給」――、ここで、「日本紀(「日本書紀」の類)などはほんの一端にすぎず…」と書かれているのは、宣長は「古事記」を評価する一方、「日本書紀」については否定的な態度をとっているが、もしや紫式部も宣長同様にその違いに気がついていて、あえてこの会話を「蛍の巻」に入れたのではないでしょうか……。
ところが、それも私の早とちりであったようだ。紫式部が生きていた当時、「古事記」はまったく読めないということもあって社会の片隅に追いやられ、顧みる者とてほとんどなかった、したがって、紫式部が「古事記」に触れ、その書かれた中身に接して論評できた可能性はきわめて低い、とのことだった。
これによって知ったことは、私が質問をするにあたっては、小林氏は「本居宣長」を書いていくうちに、宣長は「源氏物語」を読み込んでいた時点で「古事記」の読みすじをすでにたどりはじめていたのではないか、そして、宣長には「源氏物語」「古事記」、それぞれの作者の心映えが重なって見えていたと思われたのではないでしょうか、という趣旨の質問に仕立てなければいけなかったということだった。
池田塾頭は、「源氏物語」に身交った宣長の態度を、「古事記」に身交った宣長のそれと安直に結び付けてしまうことは、性急に過ぎる、と言われたが、今度の山の上の家での質問の内容に思いいたったことは、直観的で率直な私の感覚であることには違いない。だが、そこへ辿り着くには、時間をかけなければいけない、手順を踏まなければいけない、と言われているような気がした。そして、ふと、小林氏が本文で用いている、「先きを急ぐまい」という言葉に目がとまった。第13章の最後でこの言葉をわざわざ自らに言い聞かせるように書き、第14章の冒頭で小林氏は次のように述べる。……「源氏物語」が明らかに示しているのは、大作家(紫式部)の創作意識であって、単なる一才女の成功ではない。これが宣長の考えだ……。このことを指して、小林氏は……この大批評家は、式部という大批評家を発明したと言ってよい。この「源氏」味読の経験が、彼の「源氏」論の中核に存し、そこから本文評釈の分析的深読みが発しているのであって、その逆ではないのである。……と言っている。宣長による「物のあはれ」についての評釈の分析的深読みの話題に入る前に、この一節を書き加えた小林氏の本意を、直前の「先きを急ぐまい」という言葉がより際立たせている。
宣長は、「源氏」の味読によって、物語の登場人物を介して語られる式部の下心(本心)を見事にかたどり、あぶり出した。その宣長が「蛍の巻」の源氏と玉鬘との会話に、「物語の大綱総論」を読みとったのと同じ性質の注意力が、「帚木」の文章を……「見るに心得べきやうある也」として注目させている……、と第17章の冒頭に書かれているのを見て、私は、新潮日本古典集成『源氏物語』の「帚木」のページをめくり、頭注、傍注に助けられながら、あらためて声に出して読んでみた。
……
光源氏、
名前だけは立派だけれども、
人からけなされる、よからぬ行いが多いようだのに、
それに輪をかけて、
こんな浮気沙汰を
後世の人たちも聞き伝えて、
かるはずみな人物だという評判を
後々までも残すことになろうとは
秘密になさった内緒ごとまでも
語り伝えた人々のおしゃべりの
何とたちの悪いことなのでしょう。
とはいうものの、
源氏の君は大変にこの世を憚り、
まじめにと、心がけておられたから、
風情のあるお話などなくて
例えば、交野の少将の如き昔物語の好色家には笑われてしまうことでしょう。
……
声に出して読んでみると、その書きざまから、不思議なことに紫式部の溜息まじりの声が聞こえてくるようなのである。その経験はまるで、13章前半部分で紹介されている「玉のをぐし」において、宣長が非常な自信をもって言っている……此物がたりをよむは、紫式部にあひて、まのあたり、かの人の思へる心ばへを語るを、くはしく聞くにひとし……そのものであった。帚木の文章を音読した私には、その宣長の言葉がすっと自然に入ってきた。
小林氏は、宣長自身が説明しあぐねた、「源氏物語」の味読の経験を“一種の冒険”と言い、次のように書いている、……幾時の間にか、誰も古典と呼んで疑わぬものとなった、豊かな表現力を持った傑作は、理解者、認識者の行う一種の冒険、実証的関係を踏み超えて来る、無私な全的な共感に出会う機会を待っているものだ……。紫式部の声が耳元で聞えたような、まさに言葉の「ふり」がそのまま伝わってきた私の経験は、小林氏の言う、“無私な全的な共感”の一種なのではないだろうか、そして、次の文章は、小林氏により、“無私な全的な共感”から紡ぎだされた言葉なのではないか、という考えにいたった。……「帚木」発端の文を、「物語一部の序のごときもの」と言う宣長の真意は、この文の意味を分析的に理解せず、陰翳と含蓄とで生きているようなこの文体が、そっくりそのまま、決心し、逡巡し、心中に想い描いた読者に、相談しかけるような、作者の「源氏」発想の姿そのものだ、というところに根を下している……。この文は、宣長になぞらえて書かれてはいるが、私は小林氏自身が紫式部の物語の書きざまを見事に表現し得た、いわゆる「発明」であると思う。
……「源氏」による彼の開眼は、彼が「源氏」の研究者であったという事よりも、先ず「源氏」の愛読者であったという、単純と言えば単純な事実の深さを、繰り返し思うからだ……。小林氏が繰り返し述べている、宣長は研究者の前に愛読者であった、という言葉は、「源氏物語」を読んで、無私で全的な共感に出会う機会を得よ、と私たち読者に言いたげにも聞こえる。
無私で全的な共感、という冒険を経た大批評家、宣長の「源氏物語」の開眼の意味を得たとき、小林氏の脳裏には、あの日、折口信夫氏に言われた「……本居さんはね、やはり源氏ですよ……」という言葉が想起されていたのではないだろうか。
(了)