萬葉集の恩人、契沖、仙覚

北村 豊

作品『本居宣長』(新潮社刊)には古典の大家が多く登場し、古典作品の学び方、味わい方を教えてくれる。その最も重要な方法が「模傚」である。「模傚される手本と模傚する自己との対立、その間の緊張した関係そのものが、彼らの学問の姿だ」と小林秀雄先生はおっしゃる。先生のいう「模傚」とは何かについて考えてみた。

宣長はもちろん、本書で登場する伊藤仁斎や契沖、荻生徂徠、賀茂真淵といった「学問界の豪傑」たちは皆この方法によって自らの研究を進めていった。ここで多くのページが割かれている契沖(1640-1701)は、萬葉研究者でかつ真言宗僧侶であり、たまたま、私自身が仕事で最もふれる機会が多かったのが「萬葉集」と「真言密教」であったので、関連した知識が今回「模傚」を考えてみる上で少しは役に立つかもしれないと思った。

契沖は、宣長の自己発見の機縁となった人であり、学問とは何か、学者として生きる道とは何かをその著書に示した人である。

昨年、本誌の2018年(平成三十年)8・9月号で「やすらかにながめる、契沖の歌」という坂口慶樹氏の文章を読み、大いに触発されて、まず久松潜一著『契沖』(吉川弘文館)を買い求め、通読し、そしてすぐに私も大阪の、契沖が住職をつとめた妙法寺と隠棲した円珠庵を訪れてみた。久松博士は、私が長年編集担当した中西進氏の指導教授としてお名前は存じ上げていたが、はじめて手にする本だった。円珠庵には契沖の墓があるが一般の人は中に入れず、外からお参りした。妙法寺には契沖の供養塔と慈母の墓があり、こちらもお参りさせていただいた。お墓参りが趣味というわけではないが、鎌倉東慶寺の小林秀雄先生のお墓はもちろん、二十数年前には導かれるように松阪樹敬寺の本居宣長の墓に参っている。墓参りをするとその人と通じ合えるように感じる。

坂口氏は大阪の契沖遺跡に足を運ぶのみならず、契沖が生涯にわたって詠み続けてきた歌を収めた『漫吟集類題』(契沖全集 第十三巻)を入手し、六千首もの和歌に目を通して小林先生のいわんとすることを感じ取ろうとされていた。こうした態度がまさに「模傚」することなのだろうと私は理解した。池田雅延塾頭もご指摘下さる、「模傚」すること、徹底的に真似をすることで自我がなくなることを「無私を得る」と小林先生はおっしゃっているのではないかと。「無私を得んとする努力」すなわち「模倣」によって自らの学問は深まっていくのではないかと。

本居宣長にとって契沖はまさに「模傚」の対象であった。契沖について第一人者の久松博士は次のようにおっしゃる。

‥‥古典そのものを科学的に扱い、自由な討究精神によって古語を明らかにしようとしたのが契沖である。‥‥近世の黎明は契沖らによって開かれている。‥‥

 

ここで少し廻り道をする。新元号「令和」が発表されて間もない平成三十一年四月七日、鎌倉駅にほど近い妙本寺に立ち寄った。海棠の花を見るためだ。小林秀雄「中原中也の思い出」の舞台だった。

‥‥晩春の暮れ方、二人は石に腰掛け、海棠の散るのを黙って見ていた‥‥

この文章に魅かれてのことだ。鎌倉駅から妙本寺までは歩いて十分ほど。ここの住職であった仙覚(1203-1273)は、萬葉研究者として知られた人だとこの時はじめて知る。この場所で萬葉集諸本の校合を行ない、それをもとに注釈を加えた『萬葉集註釈』を後に刊行する。境内には仙覚の業績を讃える「萬葉集研究遺跡」と記された石碑があった。『仙覚全集』を編纂した佐佐木信綱博士(1872-1963)は「仙覚の仕事がなければ、萬葉集の全体像は今日に伝来することはなかっただろう」という。

新元号「令和」は萬葉集を典拠とすると発表されて以来、萬葉集の詠まれた故地や、編者大伴家持や、その父旅人の赴任先はこの日大いに賑わったとニュースで出ていた。

寺を出てしばらく歩いてふと思い出した。この妙本寺の住職は私が長らく勤めていた出版社の最初の支援者ではなかったかと。すぐ調べてみるとやはりその通りだ。現在が八十二代目、支援者が七十九代目であった。ここは本山なので世襲ではなく、日蓮宗内の有力寺院の住職が貫主として晋山して勤め上げる。その出版社で萬葉学者、中西進氏の著作集三十六巻を上梓したが、中西氏当人は今年、新元号「令和」の発案者であろうと話題になっていた。

こうしたこともあり仙覚についてもっと詳しく調べたいと思った。小林先生、本居宣長関係で探してみる。そして本誌『好・信・楽』2018年2月号所載の「小林秀雄『本居宣長』全景」九で池田塾頭の文章に行き当たる。

‥‥特筆されるのは鎌倉時代の僧、仙覚である。仙覚は十三歳で「萬葉集」の研究を志し、四十四歳の年に諸本を見る機会を得て校訂本をつくり、それまでは点(漢文訓読の補助記号、または注釈)のついていなかった一五二首に訓をつけた。その後も校訂作業を続けて仙覚新点本を完成させ、最後は「萬葉集註釈」を著して難解歌八一一首に注を施すなどした。この仙覚の校訂事業と注釈は、「萬葉集」の享受・承継史上、不滅の意義をもつとされている。

 

それ以降、鎌倉を訪れるたびに、妙本寺を訪れるようにしている。本堂の裏あたりに葬られているとの記述があったので、境内で出会った副住職と役僧であろう人に確認をした。そのように伝えられているとのことだったので、そこで毎回手を合わせている。この人物がいたからこそ萬葉集が現代に伝わっているのだ。

久松潜一『契沖』によると、契沖の学問を代表する『萬葉代匠記』では、初稿本では(下河辺)長流の説を多く引いているが、それは精撰本ではすべて削り、顕昭や仙覚の説を多く引用している。また方法の上にも仙覚の道理と文証という方法をうけついだとされる。

この内容を読んで、さらに仙覚について知りたくなる。現在、仙覚について研究をされている方はいるのか。検索してみると、青山学院大学教授小川靖彦さんがいらっしゃった。小川氏は中学生の頃、中西進氏の『天智伝』に感銘を受けてすぐに会いにいったというエピソードの持ち主で、私も原稿執筆をお願いしたことで面識のある方だった。著書『萬葉学史の研究』にも仙覚についての踏み込んだ考察がなされているようなので、『仙覚全集』とあわせて、今後の楽しみとし、「模傚」を実践してみたい。

 

この夏、「新潮CD 小林秀雄講演」を聴くことにした。一度に全巻は購入できないので、最初の一巻は何を買うか迷った。最終的にはジャケットで決めた。夏だから海の写真の第八巻「宣長の学問/勾玉のかたち」にした。当たりだった。昭和四十年・國學院大學での講演で、講師紹介を行っているのが久松潜一博士だった。小林先生も学生時代に講義を受けていたようだ。まさか久松博士の声としゃべりが聴けるとは思わなかった。しかも本巻CDの解説を書いているのが池田塾頭の「新潮講座」等でお世話になっている國學院大學教授の石川則夫さんだった。前回私が執筆した原稿(本誌2019年1・2月号所載)同様、石川さん、坂口さんには今回も拙文に登場していただくことになった。偶然である。昨秋、下諏訪温泉のコンビニ近くのベンチに三人すわり缶ビールを飲んだひとときが懐かしい。

(了)