セザンヌの「実現レアリザシオン」、リルケの沈黙

坂口 慶樹

きみはボードレールの「腐肉」という前代未聞の詩のことをおぼえているかね。今なら僕はあの詩がわかると言いきれるかもしれない。……この恐ろしいもの、一見ただ胸の悪くなるようなものの中に、存在するすべてのものに通じる<永遠に存在するもの>を見ること、これが彼に課せられた使命だったのだ。
ライナー・マリア・リルケ「マルテの手記」(*1)

 

「実に不思議なことだ」。

この言葉が、ずっと気になっている。小林秀雄先生が、永井龍男さんとの対談で繰り返している、セザンヌ(1839-1906)についての発言である。

「セザンヌという人は、死ぬまで、まっとうな職人で押し通したんだ。芝居っ気なんか、てんでないね。まわりを見まわすようなところはないですね。考えているのは、要するにかんなのことだけだよ。どういうふうに刃を入れたら柱に吸い付くか、また吸いつかないかって、それだけですよ。死ぬまでそれだけですよ。……特にいい画をかき出してから、世間なんかと何の関係もないです。弟子もなし、友人もなし。世界の情勢も、フランスの情勢も何にも彼は知りはしなかった。全然引っこんでいて、画は出来上がったんです。そんなものがどうして全世界に訴えるのかね。と考えこまない奴は、僕は馬鹿だと思う」(「芸について」、新潮社刊『小林秀雄全作品』第26集所収、傍点筆者)

 

 

2019年夏、東京、上野の国立西洋美術館は、「松方コレクション展」で沸いていた。三年前にフランスから帰還し、修復を受けたばかりのモネ「睡蓮、柳の反映」を目玉に、マネ、ドガ、ルノワール、ゴッホ、ムンク等の作品が目白押しであった。

そんな名作が並ぶなか、ごく小ぶりの水彩画三点に強く惹き付けられた。セザンヌの水彩画である。いずれも、デッサン(素描)と色彩が気持ちよく溶け合っている。その一つ、「水差しとスープ容れ」は、容器や果物様の丸みの集合だけで構成されている。丸みと丸みがやさしく共鳴し、中身のスープの香りさえ伝わってくるようだ。縦横の明確な直線も見られず、必ずしも細部まで描き込まれていないにも拘わらず、自然な奥行を感じるなか、静物一つひとつの質量とともに、作品全体としての確たる安定感と統一感を覚える。

セザンヌの晩年の手紙には「実現レアリザシオン」という言葉が頻出するが、まさにこれだと直観した。小林秀雄先生は、「近代絵画」(「セザンヌ」、同第22集、以下、「本作」)でこう述べている。

「彼の語るところ、自然の研究とか感覚のréalisationとかいう言葉が、しきりに現れるが、それは、当時の常識的な意味とはよほど異ったものだと考えられるので、彼が自然の研究という時に、彼が信じていたものは、画家の仕事は、人間の生と自然との間の、言葉では言えない、いや言葉によって弱められ、はばまれている、にある、そして、それは決して新しい事ではない、そういう事だったと言えるだろう」(傍点筆者)

 

そんなセザンヌの水彩画に触れた感想を、小林先生が、「恐ろしく鋭敏な詩人」と評するリルケ(1875-1926)は、手紙にこう記している。

「なにもかもすべてを呼びさましてくれました。実に美しいものです。油絵と同様に確かなもの、油絵は重厚ですが、軽やかです。数枚の風景画、ごく軽く鉛筆の輪郭、そのところどころにいわばアクセントをつけ、確認したものとして、たまたま色彩いろがつけられています。一列に斑点が並んでいますが、それは見事なものでして、筆のタッチは確実、旋律がひとつ映っているようでした」(*2)

リルケが、セザンヌの画と本格的に向き合い始めるのは、彼の死の一年後、1907年の10月に開催されたサロン・ドトンヌ(*3)での「セザンヌ回顧展」からであるため、これは、その直前の、あくまで直観的な感想ということになる。

 

 

昨秋は、横浜美術館で、セザンヌの「りんごとビスケット」という静物画を見た(*4)。台上には14個の果物、右端には、淡い色合いのビスケットが2枚載った皿が半分だけ描かれている。まずは近接して見る。果物のみならず、台、皿、床、壁も含めて、画面の殆どが、小林先生も本作で紹介している「画面に平行した、平たい、段階をなして並列している小さなプランである」独特の筆触タッチから出来ている。その面が、一つの塊をなして大きな面を形作り、それらの組み合わせにより、自然な立体感が創出されている。

逆に少しずつ画面から離れて見ると、タッチの跡は消えて、果物の重量感が増してくる。引き込まれ無心に見ていると、赤や黄色、そしてオレンジ色の果物一つひとつが鳴り始める。室内楽の合奏のように、調和ある響きが心地よく聞こえてくる……

小林先生は、このような感覚を読者に伝えようと、「リルケの言葉を借りたくなる」としてこう言っている。

「リルケは、セザンヌの絵の魅力を夫人に説明しようとして、いろいろな風に手紙で書いているが、それは、いつも色と色との純粋な関聯かんれんという一と筋の道を辿たどって書いている。彼の言葉はあたかもセザンヌの辿った道を極力模倣しようと努めている様に見えるが、リルケは、遂に、『色の内分泌作用』という面白い言葉を見附けている」(同前)

リルケは、あたかも、生物の消化器官内で、食物の内容に応じて無意識的に行われる消化酵素の分泌調整機能のように、「それぞれの色の内部で、他の色との接触に耐える為に、強化と弱化との分泌が、実に自然に行われている様だと言う」のである。

 

 

さて、小林先生が、本作の要所で、その直覚したところを取り上げるリルケは、プラハ生れのオーストリアの詩人である。二十代前半から欧州諸国を旅し、パリでは、1903年に、心酔した彫刻家ロダン(1840-1917)の評伝を発表。邸宅に寄宿するなど親密にしていたリルケが、ロダンに宛てたこんな手紙が残っている。

「いかに生くべきか? そして貴方は答えて下さいました、『仕事をすることによって』と」(*5)

ロダンに、質朴な手仕事の粋を見出し、芸術家として生きる態度を学んだリルケが、次に傾倒することになるのが、当時、既に他界していたセザンヌであった。つまり、先に紹介した、リルケの手紙は、まさにそういう時期にしたためられたものだったのである。そこで、リルケは、セザンヌの何を模倣しようと努めたのか。小林先生の言葉に耳を傾けてみよう。

「リルケの考えでは、画家にしても詩人にしても、存在とか実存とか呼ばれているものに対する態度によって、その真偽がわかるのである。これは態度であり良心であって、単なる観察ではない。『存在するもの』に、愛らしいものも、いとわしいものもない。選択は拒絶されている。『腐肉』(*6)も避けられぬ。だから、大画家にとって、見るとは自己克服の道になる。熟考も、機知も精神的自由さえ安易な方法と思われる様な職人的な努力になる。セザンヌが、自然の研究だ、仕事だ、と口癖の様に言っていたという事は、画家は、識見だとか反省だとかいうものを克服してしまわねば駄目だという意味なのである。これは、意志とか愛とかいうものの、一種れつな使用法の問題だとも言えるので、リルケはいかにもリルケらしい言い方で、それを言っている。『私はこれを愛する』と言っている様な絵を画家は皆描きたがるが、セザンヌの絵は『此処にこれが在る』と言っているだけだ、と言う」(同前)

 

 

上野の東京都美術館では、本作でも紹介されている「カード遊びをする人々」(カルタをする二人の男)と、じっくりと向き合う時間を持つことができた。(*7)

不思議な画である。背広、机、そして奥の壁など、一つひとつの物は、必ずしも明度の高い色ではない。にも拘わらず、光が溢れている。遠くから離れて見ても、その輝きは変わるところがない。「光は絵の内部からやって来る様だ。……凡ては色の関係から来る。全体の調和が、画面を万遍なく巡回する光を生む」(同)。これもまた「内分泌作用」の一つなのであろう。

改めて画面と向き合ってみる。カード遊びに興じる二人の会話が聞こえてくる…… さらに時間をかけて向き合う。会話は途絶え、無言のゲームが続く。私は沈静感に浸り、画面に吸い込まれる。自らの感覚も無くし、ただ静寂のみが、そこに在る……

 

このような感覚を、小林先生は、こう表現している。

「彼等は画中の人物となって、はじめてめいめいの本性に立ち返った様な様子であるが、二人はその事を知らず、二人の顔も姿態も、言葉になる様なものを何一つ現してはいない。ただ沈黙があり、対象を知らぬ信仰の様なものがあり、どんな宗教にも属さぬ宗教画の感がある」(同)

 

展示室のこの画の前には、大きな人だかりができていた。観客一人ひとりが、近くのパネルにある詳細な解説文の内容も忘れてしまったかのように、無心に視入っていた、いやむしろ、画面に視入られていた、とさえ私には見えた。観客たちは、セザンヌが、「感覚の実現レアリザシオン」すなわち、言葉が阻んでいる、自然との「直かな親近性の回復」、「直かな取引」を行うさまに見入っていたように感じたのである。それは、セザンヌの心眼に映じていたものに見入ること、セザンヌ本人と一体化することであるとも言えよう。

リルケもまた、同様にセザンヌの作品と向き合った。その時リルケは、何を思っていたのか? 鋭敏な彼は、小林先生のように「実に不思議なことだ」と考え込まなかったであろうか?

 

ちなみに、同じ部屋の片隅では、セザンヌが、画家のベルナールに宛てた手紙の肉筆にも触れることができた。野外での製作中、雷雨に打たれたことが原因でその生涯を閉じることになる約二年前、当時65歳のセザンヌは、このように認めていた。

「画家は自然の研究のために全身全霊をささげ、教えとなるような絵を制作するよう努めなければなりません。芸術についてのお談義はほとんど無用です。仕事をすることで固有の技能が進歩します。それだけで、世の馬鹿者どもに理解されないことの十分な埋め合わせになります」(*8)

あたかも一つの絵画作品のような、しっかりとした筆記体の姿が美しかった。ベルナールに導かれて書いた、という面もあったのかもしれないが、その手跡から、人間と自然との間には、私心も言葉も介在無用だという、彼の強い信念を汲み取ることができた。

 

 

その後リルケは、「むろんぼくには大変な魅力のある試み、セザンヌについて書くという試みには慎重であらねばならないのだ」(*9)と手紙に書いていた通り、ロダン論に続けてセザンヌ論を著すことを断念するに至る。それに続く言葉にも注目したい。

「私的な観点から絵を理解する人間は、絵について書く資格はないのだ。事実以上のことや、事実以外のことをその絵で体験したりすることもなく、こころ静かにその絵があるがままにあるその存在を確認することを知っているならば、その絵にたいし、もっと正当な立場にあることは確かなことだろう」

 

詩人リルケは、セザンヌ論について「正当な立場」を堅持し、沈黙を守った。

1910年には、セザンヌの作品に出会う前の1904年、ローマの仮寓で最初の一行を書き始めてから少しずつ執筆を進めてきた「マルテ・ラウリツ・ブリゲの手記」(通称「マルテの手記」)が出版された。見ること、生きること、愛すること、及びそれらに胚胎している死というものについて、身を以て綴った書である。彼は、ひそかにこんな手紙を残していた。

「ブリゲの死、それこそセザンヌの生、晩年三十年の生に当る」(*10)

この書は、一世紀以上を経た今でも多くの読者を得て、世界中で読み継がれている……

 

(*1) リルケ「マルテの手記」高安国世訳、講談社文庫、「腐肉」については、(*6)を参照。

(*2) 「リルケ美術書簡」、塚越敏編訳、みすず書房
パウラ・モーダーゾーン-ベッカー宛、1907年6月28日付

(*3) ベルギーの建築家ジュールダン、ルドン、カリエール、ボナール、ドニ、ルオー、マチスらによって、国民美術協会による「サロン・ナシオナル」の保守性に対抗し、1903年に結成された「秋の展覧会」

(*4) オランジュリー美術館コレクション「ルノワールとパリに恋した12人の画家たち」

(*5) アンジェロス「リルケ」富士川英郎・菅野昭正訳、新潮社

(*6) ボードレールの詩集「悪の華」に収録された詩。真夏に恋人と見かけた、道端で腐敗しつつある動物の死体を歌う。「セザンヌは、この詩を好み、晩年に至っても、一語も間違いなく暗誦していた」。(本作)

(*7) コートールド美術館展。本作で紹介されているものは、ほぼ同じ構図のオルセー美術館蔵のもの。ちなみに同展は、愛知県美術館(2020年1月3日~3月15日)、神戸市立博物館(同3月28日~6月21日)でも開催予定。

(*8) 1904年5月26日付、「エミール・ベルナールに宛てたセザンヌの手紙」永井隆則訳、『コートールド美術館展 魅惑の印象派』図録、朝日新聞社・NHK・NHKプロモーション

(*9) 同前、当時の妻クララ宛、1907年10月18日付

(*10) クララ宛、1908年9月8日付

 

【参考文献】

リルケ「マルテの手記」大山定一訳、新潮文庫

高安国世「わがリルケ」新潮社

 

(了)