その八 一瞬の閃光~ヨーゼフ・ハシド
彼は、その生涯を、たった八曲の小品に、合わせて三十分にも満たないその演奏時間に凝縮させて、二十六で死んでしまった。
わずかにレコード四枚八面、それも十六歳の録音である。そしてその十六歳が、彼の、そのヴァイオリニストとしての人生の最晩年であった。なぜなら彼は、そのレコーディングの後まもなく精神を失調し、ヴァイオリンも音楽も、自分自身をも否定したまま終わったから。それはいかにも傷ましい。天才であったからその早逝が惜しいというのではない。そういうことではなく、自分が自分として生きることを許されぬ人生とは何であるか……そんなことを思うのである。
1935年、ワルシャワの第一回ヴィエニャフスキ国際ヴァイオリンコンクール、それが首途であった。ヴィエニャフスキという人は、あの、周知の、というような音楽家ではないかも知れない。しかし、ピアノにフレデリック・ショパンがいるように、ヴァイオリンにはヘンリク・ヴィエニャフスキという、これもまた民族派の傑物がいる、それがポーランドという国なのである。その生誕百年を記念して創設されたコンクールの第一回は、周知のように、ジネット・ヌヴーの華々しい出現によって記憶されることになる。ソヴィエト連邦のダヴィド・オイストラフは、たしかに世界に向けて強烈なインパクトを与えたが、しかし第一位の栄光だけは、パリからやって来た十六歳の少女に譲ったのであった。ところで、その鮮烈な物語の傍らで、一人の、ちょっと内気な巻き毛の少年も、まことに印象的な演奏を披露していたのである。ヨーゼフ・ハシド十一歳。ディプロマ賞。地元ポーランド、ショパン音楽院の神童は、ワルシャワのユダヤ人コミュニティの英雄になった。
翌年、巨匠として世界を席巻してきたフーベルマンは、ハシドの演奏に立ち会い、直ちに稀代の名教師カール・フレッシュに入門すべきことを勧めた。故国に留まっていてはいけない。君は世界に勇躍すべきヴァイオリニストだ。それにファシズムの危機も迫っている。ブロニスワフ・フーベルマンもまた、ポーランド出身のユダヤ人であった。ところが、貧しいハシド家は、その忠告に従うことができない。希望は潰えたかにみえた。そこで、やはりポーランド生まれのユダヤ人で、既にフレッシュ門下にあったイダ・ヘンデルの父親が、幼い娘のライヴァルのために、師に推薦状を認め、学費の減免をも願い出てくれたのであった。
かつて見たことのない才能だ――フレッシュは感嘆した。その脳裡に幾人かの、かつての生徒の面影が映る。たとえばマックス・ロスタル、あるいはシモン・ゴールドベルク……両人とも、同じポーランド系のユダヤ人である。ロスタルはフレッシュの助手を務め、ゴールドベルクは十九歳でベルリンフィルのコンサートマスターに招聘された、疑いなく門弟中の双璧である。ただしもう一人、彼らに先立って活躍したヨーゼフ・ヴォルフスタールという青年のことも忘れてはならない。このウクライナ出身のユダヤ人は、素行に問題あって破門に遭い、しかも既に早逝していたが、もとはフレッシュの助手であり、居並ぶフレッシュ門下のなかでも、ひと際傑出した俊才であった。ともあれ、二十世紀のヴァイオリン界に確乎たる地位を占める、歴代の、まったく別格というべき高弟たち……この少年は、いつか彼らに伍する位置にまで昇りつめる、そんな日が来るのではないか。
ベルギーでのサマースクールで門下生となったハシドを、翌1938年、フレッシュはイギリスに呼び寄せた。その稀有の才能はまもなく噂となって大陸を巡り、ハンガリーのヨーゼフ・シゲティや、フランスのジャック・ティボーが、ロンドンのレッスン・スタジオに見物に来た。ポーランドの血を引くユダヤ人ヴァイオリニスト、皇帝フリッツ・クライスラーも、そこにやって来た一人だ。そのとき彼がもらした一言は、今日、ハシドについて語られるとき、必ず引用される言葉である。ハイフェッツのようなヴァイオリニストは百年に一人は現れるものだが、ハシドは二百年に一人だ――クライスラーは、この少年の遠からぬデビューのために、自分のヴァイオリン・コレクションの中から、ジャン・バプティスト・ヴィヨームを用意した。
1940年4月3日、ロンドンの聴衆は、戦火と迫害を逃れてポーランドからやって来たというヤング・ブリリアント・ヴァイオリニスト、ヨーゼフ・ハシドの、そのファースト・リサイタルに集まった。伴奏はジェラルド・ムーア。プログラムは、シューベルト「ソナチネ」、コレッリ「ラ・フォリア」、バッハ「無伴奏ヴァイオリン」より「アダージョ」と「フーガ」、ドビュッシー「ヴァイオリン・ソナタ」、サラサーテ「プライエラ」と「ザパテアド」、そして最後にパガニーニの変奏曲「イパルピティ」……古典から近代の曲まで、ヴァイオリンの精髄を問うような曲目が並んでいる。技量においても音楽性においても成熟したヴァイオリニストが選ぶプログラムだ。殊に最後の「イパルピティ」に興味を引かれる。あの妖しいほどの序奏と変奏……。それにバッハだ。アダージョに続くあの目くるめく遁走……。
何にせよ、デビューは上々であった。まもなくレコーディングも行われた。6月に、エルガー「気紛れ女」、チャイコフスキー「メロディ」、サラサーテ「ザパテアド」「プライエラ」、11月には、クライスラー「ウィーン奇想曲」、アクロン「ヘブライの旋律」、ドヴォルザーク「ユーモレスク」、マスネ「瞑想曲」――天才なのだ。こんな才能とは一緒にやったことがない……ジェラルド・ムーアの述懐である。前途は洋々であった。
そう。前途は洋々、順風満帆と見えた。
それに恋もしていた。同門のエリザベス・ロックハート。二つ年上の美しい少女。ベルギーでのサマースクール以来だろうか、良好な関係だった。
ところが、この頃からその雲行きが怪しくなる。おそらくヨーゼフの恋慕が性急で執拗だったのだ。ありそうなことだ。神童ヨーゼフ・ハシドは十歳で母を亡くしている。そしてまもなく人も知る「天才」となり、大人の、成熟したヴァイオリニストとして立たなければならなかった。そんな彼にとって、ちょっとだけ年上の少女への恋というのは、どんな意味をもっていただろう。ヨーゼフの激情が負担となってエリザベスは居所を変えるが、彼はそれをも追った。なぜ僕を避ける? 君は僕と一緒にいなけりゃならない人だ……そんな十七歳の恋の破局は、エピソードには止りえない。人生そのものの破綻になってしまうのである。
含羞と微笑を漂わせていたいつもの表情は失われ、陰鬱に閉ざされた無表情で、街をさまよい、あるいは部屋に籠った。それでもクイーンズ・ホールでは、ブラームスとベートーヴェンのコンチェルトで喝采を浴び好評を博した。が、本当は、そんなことにはもう関心がなかった。そもそも、ヴァイオリンに触れるのも忌まわしかった。ナイフをもって父親に躍りかかった。不治と診断され、病院に収容された。一時的に回復したこともあったが、それも一度きりだ。自分はユダヤ人ではないといい、ヴァイオリニストであることさえも、どうやら忘れてしまったようだ。十年の後、前頭葉を一部切除するというロボトミー手術を受け、その後遺症で亡くなったのだが、当人とすれば、何をいまさら、といったところかも知れない。
「早く快復するように、その若い意志の力の限りを尽くして、できることは何でもやりたまえ。再起することは、君のような偉大な芸術家の、この世界に対する義務なのだ。」
(カール・フレッシュの書簡 1943年6月6日)
師匠としては精一杯の激励であったろうが、ハシドは、読みもしなかったのではないか。読んだとしても、何の感慨も覚えなかったことであろう。たしかに自分は偉大な芸術家であったかも知れないが、それ以前にひとりの少年だったのだ。その少年に添えられるはずの手の温もりも優しい言葉も知らずに来てしまった。
ヨーゼフ少年を置き去りにして、天才ハシドは永遠になった。レコードから聴こえてくる、あの高く張り詰めた緊張、切実な響き……ちょっと類例がない。一音一閃、その極限値を追求し続けるような演奏は、まさに天才のものなのだろう。しかし、その種の天才は早逝を宿命としているのではないか。天才は、本当は、乗り越えられなければならないのではないか。そしてそれには歳月を必要とする。年齢を重ねて、命を磨いて、天分ははじめてその本来の姿を現す。
「よき細工は少し鈍き刀を使ふと言ふ」――兼好『徒然草』にある言葉だが、ハシドを二百年にひとりと言ったクライスラーこそは、そういうことをよくわきまえたヴァイオリニストであった。稀有の才能は、それだけで幸福というわけではない。むしろ警戒を要するのかも知れない。切れすぎる才能にこそ必要な「鈍き刀」……そうして手渡された1845年のヴィヨームで、しかしハシドは、徹底的にその音を研ぎ澄ましていった。「よき細工」たるべく、歳月をかけて命を育む余裕というものが、彼には最初から許されていなかったのかも知れない。それこそが、彼の天分であり、同時に不幸であった。だから、ハシドの音楽は、私にいささかでも享楽的な聴衆たることを禁じる。
――如何に倐忽たる生命の形式も、それを生きた誠実は、常に一絶対物を所有するものだ。
(小林秀雄「富永太郎」)
それは確かだ。しかしもう充分だろう。ハシドの音楽について語ることには、いつも後ろめたさのような感傷がつき纏うのである。
(了)