1 ふたつの晩年
宣長は、晩年、自らの学者人生を回顧し、「おのれは、道の事も歌の事も、あがたゐのうしの教のおもむきによりて、ただ古の書共を、かむがへさとれるのみにこそあれ」、「人にとりわきて、殊に伝ふべきふしもなし」と述懐している(小林秀雄「本居宣長」第12章。新潮社刊『小林秀雄全作品』第27集128頁。以下、引用はすべて同全集からである)。これについて、小林秀雄先生は、平明な文ではあるが「文体というものは、はっきり割り切れた考え方では捕えられぬ、不透明な奥行を持つ」ものであり、「宣長の晩年の淡々たる口調」ないし語調には、「学問というものは広大なものであり、これに比べれば自分はおろか、師の存在も言うに足りないという考えが透けて見える」と指摘する(27集129頁)。
対するに、師である真淵は、宣長への最後の手紙の末尾にこう書くのだ。「人代を尽て、神代をうかがふべく思ひて、今まで勤たり」、しかし「今老極、憶事皆失、遅才に成候て、遺恨也」。悲痛な叫びが聞こえてくるようだ。半年後真淵は没し、その訃に接した宣長は、日記に「不堪哀惜」とのみ記す。小林先生は、「真淵晩年の苦衷を、本当によく理解していたのは、門人中恐らく宣長ただ一人だったのではあるまいか」と看破する。(27集224頁・230頁、28集124頁・133頁)。
2 はきはきと語る真淵
真淵は、「古学の上で、道が開けてくるのを思えた」という田安家の知遇を得たころ(28集130頁)、ふるき史に書かれている神や神代について、次のように述べている。
「はつ国しらす天皇よりこのかた、此御事をのたまひ挙つゝ、かくまでたえさせ給はぬ御すゑなれば、ふるき史にまかせて、しるしとせんぞ、民を教ふる大なる道にも侍らまし。もろこしとても、いとあがりたる代の事は、まことゝしも覚えぬことのみ多きを、信じていにしへを好むと聖ものたまひしは、人をみちびかん為にこそ侍らめ」(28集137頁)。
「信じていにしへを好む」とは孔子の言葉である。聖人孔子ですら掌に載せて論じるがごとき真淵の物言いは、自信に満ちているようにも見えるが、小林先生の筆は容赦ない。
「はきはきした物の言い方は、言わば見せ掛けだけで、露わに見える表現が圧し隠している内容の曖昧さを、読む者は見過ごすわけにはいかないだろう。そして、曖昧さは、何処から来ているかという事になると、これは考え詰めて行けば、どうしても、彼の携わっている問題自体の暗さに行き着かざるを得まい」(28集137頁)
これはどういうことか。小林先生の追及の跡をたどってみたい。まずは、真淵の見かけ上の「はきはきさ」とは、こういうことだ。
「彼にとって、『万葉』を学んで、これに熟するとは、古道の精神が、原理的に明らかになるという事であった」(28集138頁)。その上で、「自分が『万葉』から学んだところは、古道の『天地古今の本意』と、呼べば呼べる」という自信のもと、『ふるき史』に記された『真としも覚えぬ事』も、そのまま、『ふるき史にまかせて』、彼の自信の『しるし』として、知的な整理を受ける事になった」(28集138頁、139頁)。こうして真淵は、後世の人にとっては奇異に見える、ふるき史に記された神や神代について、当今すなわち真淵と同時代の人々が知的に理解できるよう説明することができると考えた。
しかし真淵は、上代について、一体何を語ったのであろうか。
3 真淵の曖昧さ
真淵は、度々「はらへ」や「みそぎ」に言及し「古道の本意」について原理的に論ずるが、それは、「はらへ」や「みそぎ」を行った上ッ代の人々の「信仰経験の内容の方を向いた言葉ではない」(28集140頁)。祝詞を重視はするが、彼にとって祝詞は、「その調べがいよいよ純粋になるにつれて、その内容は無色透明なものとなる」(28集140頁)ものに過ぎない。そして、「『祝詞考』という最後の仕事に到って」も、「その『序』の言う『なほく明らに、天地にかなふ上つ代の道』は、中空になった神という言葉を得て、合理的な一種の敬虔主義として、完結」(28集140頁・141頁)してしまう。結局、「古伝説に現れた上代の人々の神や信仰に出会った、という形はとっているものの」(同)、どのような出会いがあったかは明言されない。真淵が何を考えていたのか、その「内容の曖昧さ」は否定しがたい。
真淵の曖昧さはどこから来るのか、小林先生は見抜いてしまう。
「或る人の物の言い方が、直ちにその人の生き方を現わす、という宣長の徹底した考え方が、真淵には見られないのである。真淵には、神の古義はかくかくのものと、分析的に規定してみせるところで、足を止め、言葉の内部に這入り込もうとしないところがある」(28集141頁)。そして、「神という古言の、古人の生活に即した使い方の裡に入り込み、その覚束ない信仰を、そのまま受入れて、これにかかずらうというような事は、古道について目覚めた、彼の哲学的意識の許すところではなかった、とも言えようか」(28集141頁・142頁)。
そうすると、真淵の曖昧さは、宣長との個性の相違に由来するのであろうか。それだけではあるまい。「曖昧さは、何処から来ているかという事になると、(略)彼の携わっている問題自体の暗さに行き着かざるを得まい」(28集137頁)。「簡単に割り切ってみても片の付かぬものが、其処には残った」(28集142頁)のである。
4 暗い奥の方に残ったもの
残ったものは何か。「真淵自身、漠然と感じてはいたが、はっきりと意識出来なかった、その携わっていた問題に、言わば本来備わっていた暗さ、問題の合理的解決などには、一向たじろがぬ本質的な難解性」、これが、「暗い奥のほうに残った」(28集142頁)。
難解性とはすなわち「『古事記』に特有な言語表現、異様な内容を擁して、平然たる言語表現」といかに向き合うかにほかならない。宣長は、訓詁という仕事を忍耐強く続けることによって「古事記」という「古えよりの言い伝えに忠実な言語表現」に向き合った。言葉が生まれ育つ長い道のりの一番奥の方で、「上ッ代の事物の、あったがままの具体性或いは個性」が言葉という形をとった。その形から、人々は「事物の意味合なり価値なり」を直観した。「その『形』こそ、取りも直さず『上ッ代の実』と呼ぶものであり」、「これは、誰が工夫し、誰が作り上げた『形』でもない。人々に語り継がれて行くうちに、自らの力で、そういう『形』を整えたのである」(28集154頁)。
宣長は、それを直観したが、真淵の眼は「言語の働きそのものに向うより、むしろ、言語の使用に随伴する心の動き方を見ていた」(28集142頁・143頁)。真淵は、言葉を操ることによって言葉を純化させ、混じりけのない上古の人々の心に迫ろうとするのだが、言葉が形を整えようとする暗い奥の方まで見通すことはできなかった。
5 真淵は隠している
このような真淵の限界を、宣長は見逃さない。「古事記」や祝詞の註解に関し、「万世までの師と仰ぐべき人すら、なほかかれば、古へを知るはいよいよ難きわざになん」、「猶いにしへごころの、明らかならざらむことの、うれたさに、えしももださざるになむ」などと難じているのだ(28集144頁・146頁)。
しかし、問題はそこにとどまらない。小林先生の筆は容赦なく、「宣長は暴露する」とまで書くのだが、真淵の誤りの内容以上に重要なのは、真淵の誤りの生じた所以と、それを真淵が隠していたことだ。古言に鋭敏な真淵が「上代の人々の間で取交わされた言葉」をそのままに読みさえすれば生じるはずのない誤りが、なぜ生じたか。真淵自身が、古言は「不合理であるという考えからすっかり脱却できずにいる」からなのだ(28集146頁・147頁)。これが本心だとすれば、下心として暗いところに隠しておくほかはない。
6 宣長に見えていたもの
どうしてこんなことになったのか。
「古事記」の言葉は、事物の定義や説明や分析ではない。「『古事記』に記された言辞の『形』そのままが、『神の世の事ら』であった」のである。宣長は、言葉の操作により明らかに説明し尽くすことが本来困難であるような暗い世界に身を潜め、訓詁の仕事の末、直観により、上古の人々のありようを心に思い浮かべるに至った。
対するに、真淵にとって「古道を明らめるとは、古人の心詞を知る事であり、古人の心詞を知るとは、……、その『もはら』とする『しらべ』を得る事」(28集150頁)であった。「万葉集」において「いにしえ人のなほくして、心高く、みやびたる」しらべを見出したと自負する真淵は、このように「極度に純化された『しらべ』」(同)こそが古人の心詞であり、これにより「古事記」を読み解こうとしたが、果たさなかった。真淵にとって、上ッ代の「『こと』も『ありさま』も、『心こと葉』から推し量れるもの、或いは推し量れば、それで済むものであった」(28集156頁)。結局のところ、「自分の使っている『心こと葉』という言葉のうちに、閉じ込められている」のである。これでは、『古事記』を読むことはできない。「いかにも真淵の『しらべ』は、『古事記』に充満している『事』を処理するには、無力であった」のである(28集151頁)。
明るいところから暗がりの中は見えないが、暗がりに身を潜めれば、明るいところは見透かしになる。明晰な論理の世界ではきはきと言葉を操る真淵には、言葉以前の暗い世界で難問と格闘する宣長の姿など窺い知れない。逆に、暗がりに身を潜める宣長には、真淵の学問上の限界が、そして、自ら限界に半ば気づきつつ押し黙っている真淵の心中までが、まざまざと見えてしまっていた。哀しい話ではないか。
(了)