二十五 精神の劇
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前回、荻生徂徠の「古文辞学」のことをよく知ろうとして、第十章の次の文章から入った。
小林氏は、まず、伊藤仁斎の「古義学」は徂徠の「古文辞学」に発展した、これを古典研究上の歴史意識の発展と呼んでもよいだろうが、歴史意識という言葉は現代語である、しかも今日では、常套語に過ぎなくなってしまっている、だが、
――仁斎や徂徠にしてみれば、この言葉を摑む為には、豪傑たるを要した。藤樹流に言えば、これを咬出した彼等の精神は、卓然として独立していたのである。言うまでもなく、彼等の学問は、当時の言葉で言えば、「道学」であり、従って道とは何かという問いで、彼等の精神は、卓然として緊張していたと見てよいわけであり、そこから生れた彼等の歴史意識も、この緊張で着色されていた。……
と言って、すぐさま次のように言っていた。「学則」は徂徠の著作である。
――「世ハ言ヲ載セテ以テ遷リ、言ハ道ヲ載セテ以テ遷ル。道ノ明カナラザルハ、職トシテ之ニ是レ由ル」(「学則」二)、既に過ぎ去って、今は無い世が直接に見えるわけがない。歴史を知ろうとする者に現に与えられているものは、過去の生活の跡だけだとは、わかり切った事だ。この所謂歴史的資料にもいろいろあるが、言葉がその最たるものであるのに疑いはないし、他の物的資料にしても、歴史資料と呼ばれる限り、言葉を担った物として現れる他はあるまい。歴史を考えるとは、意味を判じねばならぬ昔の言葉に取巻かれる事だ。歴史を知るとは、言を載せて遷る世を知る以外の事ではない筈だ。……
以前、この小文の第十回「詞花を翫ぶべし」で、私は、小林氏は「本居宣長」で、「人間にとって言葉とは何か」を書こうとしたのである、と言い、「本居宣長」の全五十章を通して、氏の主題は人間にとって言葉とは何か、そこに集中しているのである、と重ねて言った。この「言葉」は、あのときすでに、「歴史」と「道」と、三者一体で考えなければならないときが来るとは思っていた。第十章で目にしていた徂徠の「世ハ言ヲ載セテ以テ遷リ、言ハ道ヲ載セテ以テ遷ル」がはっきりと脳裏にあったからである。
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これを承けて今回は、荻生徂徠の言う「世ハ言ヲ載セテ以テ遷リ、言ハ道ヲ載セテ以テ遷ル。道ノ明カナラザルハ、職トシテ之ニ是レ由ル」にいよいよしっかり向き合うときが来たと思っていた。ところが、それと並行して、新型コロナウイルス禍のため四か月にわたって休会を余儀なくされてきた「小林秀雄に学ぶ塾」をなんとか再開すべく準備を始めた私の手許に、塾当日、口頭質問に立ってもらうことになっていた溝口朋芽さんから「自問自答」の要旨が送られてきた。
――小林先生は、伊藤仁斎や荻生徂徠の学問に対する姿勢について語る際、「道とは何かという問いで、彼等の精神は、卓然として緊張していた」(第十章)と表現しています。また、第五十章の最終段落において「純粋な精神活動」「徹底した一種の精神活動」という表現があり、それら「精神」について触れた直後に「また遺言書に戻る他ない」と本編を締めくくっています。小林先生は「精神」という言葉に格別の意味を込めつつ『本居宣長』を書き進め、書き終わる頃には、宣長の「精神」と「遺言書」が一体のものであるように見えてきたのではないでしょうか。そうであるから、最後に「また遺言書に戻る他ない」と書いたのではないでしょうか。……
鋭い着眼である。今回は徂徠の言葉としっかり向き合おうと思っていたにもかかわらず、それをひとまず措いて溝口さんの自問自答に立ち寄り、そこで足が止ってしまった。溝口さんの自問自答が、前回私が引いた小林氏の文、「道とは何かという問いで、彼等の精神は、卓然として緊張していた」から始められていたということがきっかけだったが、溝口さんはそのうち特に「精神」という言葉に刮目して、優れた自問自答を試みていたからである。
正直言って私は、この「精神」に意表をつかれた。次いで、溝口さんが今回の自問自答のために精査したという「本居宣長」における「精神」の用例全十箇所をつぶさに読み、私自身の不覚に気づいた。小林氏の文章を読んでいると、行く先々で「精神」という言葉に何度も出会う。そういう出会いの経験を重ねているうち、氏の言う「精神」はどういう語感で言われているかもおのずと納得できてわが身に具わる。だが今回は、それが不覚のもとになった。前回の引用、「道とは何かという問いで、彼等の精神は、卓然として緊張していた」の「精神」も、語感に変りはない、だが、背景は特殊だった。その特殊な背景は、同じ文章の直前で言われている「言うまでもなく、彼等の学問は、当時の言葉で言えば、『道学』であり」のなかの「道学」だった。この「道学」にいま一度言及する必要がある、否、言及することで小林氏の言う「彼らの精神」を逆光のなかに浮かび上がらせることができる、私はそう思った。
溝口さんが精査して示した「本居宣長」のなかの「精神」は、表面的にはこれまでと変わらぬ小林氏の「精神」である、さらに言うなら、私たちの身近で使われている「精神」とも大差はない印象である。しかし私は、比較的早く、「本居宣長」のここぞという件で小林氏が何度も「精神」という言葉を繰り返した理由に行き着いた。小林氏が近世学問の創始者と位置づける中江藤樹の出現まで、「精神」は日本の学芸、学問から完全に抜け落ちていた、締め出されていた。その「精神」を、日本の学問に、藤樹、仁斎、徂徠、契沖たちが生き生きと吹きこんだのである。
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日本の学芸、学問からの「精神」の脱落は、まずは官家の世襲、家業という旧習旧弊によってであった。「官家」とは官位の高い家、貴人の家だが、小林氏は第十一章で言っている。
――過去の学問的遺産は、官家の世襲の家業のうちに、あたかも財物の如く伝承されて、過去が現在に甦るという機会には、決して出会わなかったと言ってよい。「古学」の運動によって、決定的に行われたのは、この過去の遺産の蘇生である。言わば物的遺産の精神的遺産への転換である。過去の遺産を物品並みに受け取る代りに、過去の人間から呼びかけられる声を聞き、これに現在の自分が答えねばならぬと感じたところに、彼等の学問の新しい基盤が成立した。今日の歴史意識が、その抽象性の故に失って了った、過去との具体的と呼んでいい親密な交りが、彼等の意識の根幹を成していた。……
「あたかも財物の如く伝承されて」を一言で言えば、古来の古記録や古文書といった学問的遺産の多くは何百年にもわたって官家、公家の秘蔵に帰し、官家、公家はそれらを代々家蔵しているということを鼻にかけるだけで外部の閲覧は許さず、官家、公家自身がそれらを繙き、「過去の人間から呼びかけられる声を聞」くということすらもまったくないと言っていいまでの死蔵状態が続いていた。
ここで小林氏が言っている官家の世襲、家業、それがどれほど狷介かつ頑迷だったかの記録が水戸の彰考館に残っている。小文の第九回「あしわけ小舟を漕ぐ(下)」で見たとおり、水戸藩の第二代藩主、徳川光圀は、若くして修史の志を抱き、藩主となるや史書編纂のための「彰考館」を設け、全国から俊英学者を招聘して日本史の編纂事業を大規模に推し進めた。その成果が、今日、「大日本史」の名で知られる大部の史書なのだが、事は当初、けっして順風満帆ではなかった。順風満帆でないどころか、出帆早々、難題に直面した。
修史のために必須の古記録、古文書等、史料の蒐集が意のままに運ばない、という以上に、至る所で暗礁に乗り上げた。ひとえに官家、公家の狷介、頑迷という暗礁だった。徳川御三家の一角をもって鳴る水戸藩の藩主、徳川光圀のたっての懇望、懇請であったが、まるで通じなかった。官家、公家にしてみれば、水戸家といえども所詮は成り上がりの武家、当家は由緒も家格もちがうという意識が強硬だった。官家公家のこの武家蔑視は、水戸家に対してだけではなかった、「大日本史」に先立って徳川幕府が編んだ「本朝通鑑」も同じ苦汁を飲まされた。幕府の権威をもってしても京都の官家公家はしたたかだったのである。
光圀は、説得に腐心した。貴家は、古来の記録や文書を独り占めして何を誇ろうというのか、先々までこのままでは財産としての値打ちもないではないか、と言い、こうも言った。
――わが国にとって貴重きわまりない古記録や古文書はその大半が京都に集中している、もしまた京都に大火や地震が起ってそれらを焼失したとしたらもう取り返しがつかない。今回光圀が古記録、古文書の閲覧書写を願い出ているのは、まずは古記録、古文書の副本を東日本に置こうとしてのことだ、そうしておけば、もし京都に大火や地震が起ったとしても完全消失は免れ得る。……
光圀は、そうまで言って官家、公家の蒙を啓こうとした。光圀のこの言は、方便ではなかった、本心だった。こうして光圀の説得は徐々に功を奏し、光圀の要請に応じる官家、公家が相次ぐようになった。しかし、借覧は許されなかった。一件一件、水戸の彰考館から館員が出向き、何日もかけて現地で書写し、それを水戸へ持ち帰るということが繰り返された。
こうした官家公家に対する閲覧交渉は、光圀の前に先例がなかったわけではない。山鹿素行の「武家事紀」、徳川幕府の「本朝通鑑」ではすでに行われていた。だが、これらの先行例はいずれも小規模、光圀の規模とは同日の談ではなかった。彰考館の館員を何人も派遣して行った光圀の史料蒐集は京都に留まらず、奥羽地方から九州一帯にまで及んでいた。
この光圀の立志と行動力がなかったとしたら、どうなっていたか。契沖の「萬葉代匠記」も「古今余材抄」も現れておらず、宣長が契沖の「一大明眼」によって真の歌学に目覚めることもなかったかも知れないのである。
小文の第九回「あしわけ小舟を漕ぐ(下)」に書いたが、契沖は、天和三年(一六八三)頃、光圀の委嘱を受けて「萬葉代匠記」の執筆にかかり、貞享四年(一六八七)頃に初稿本を完成、さらに元禄二年(一六八九)、初稿本の全面改稿にかかり、翌三年、その結果を精選本として光圀に献じた。
初稿本は初稿本で、今日なお輝き続ける大著だが、光圀はそのすべてをよしとして満足はしなかった。契沖が叩き台として用いたのは、当時最も流布していた木活字本の寛永版本であった。契沖は他の本はほとんど見ず、寛永版本だけで本文改訂や改訓を行い、註釈を施していた。契沖にはそうするほかに術はなかったのだが、光圀の不満はまさにそこにあった、契沖の用いた本が寛永版本だけであったことにあった。
そこで光圀は、水戸家で集めた四種の写本を校合した「四点萬葉」とその他の本を契沖に貸し与え、契沖は、それらの、より精密な校訂本を叩き台として再び「萬葉集」全巻を読み解いた、それが精選本だった。初稿本から精撰本まで、要した歳月はわずかに七年ほどだった。契沖の学識の広さ深さと集中力を思うべきだが、光圀の識見にも思いを致すべきである。光圀が手広く手堅く本を集めていたればこその七年だったのである。
かくして水戸光圀は、小林氏の言う「物的遺産の精神的遺産への転換」を図り、「過去の遺産を物品並みに受け取る代りに、過去の人間から呼びかけられる声を聞き、これに現在の自分が答えねばならぬと感じた」先覚者のなかでも格段の第一人者であった。
そしてこの、日本の学芸、学問からの「精神の脱落」に、朱子学が拍車をかけていた。
中江藤樹が出現するまでの日本の学問と言えば、儒学と禅であったが、禅はともかく儒学は人間本来の「精神」を完全に締め出していた。小林氏は、藤樹に始り仁斎、徂徠、宣長と続いた学者たちの精神は、「道とは何かという問いで、卓然として緊張していた」と言い、彼らの学問は道学であったと言っているが、まずもってこの「道学」という言葉には注意が要る。このことは第三回「道の学問」でひととおり書いたが、「道学」とはそもそもは中国宋代(九六〇~一二七九)に成った新儒学、「宋学」の別称であった。
岩波書店の『哲学・思想事典』等によれば、「道学」という言葉は仏教や道教でも使われたが、宋学を興した程明道、程伊川ら以後は、おおむね彼らの学派を指すようになり、そこで言われた「道」は、自己修養の道、徳治の要諦等を指していた。「徳治」とは、徳を具えた王が国を治める意である。宋はその後、現在の浙江省杭州に都を移し、一一二七年以後は「南宋」と呼ばれるようになった。その南宋の初期に朱熹が現れ、それまでの「道学」を集大成して今日言われる朱子学を打ち立てた。
その朱子学は、理気二元説を説いた。理気二元説については第二十三回「『独』の学脈(中)」で概観したが、宇宙は根本原理である「理」と、質量としての「気」から成り、この両者が相伴って万物をなす、と朱子学は言い、物質を形成する素材およびその運動を「気」とし、「気」を統制する原理であり、その運動に内在して全存在を貫く根拠となるものを「理」とし、したがって「気」としての人間は、「理」をよく理解し「理」に忠実に生きようと努力する、それが人間の道である、人生の目的であると説いた。朱子学が「道学」と呼ばれたのはこういう教説によってである。これはたとえば小学校の先生が、抽象的、観念的な日々の実行目標を黒板に書き、これを生徒に一方的におしつけて遵守を迫るようなものであった。そこでは、人それぞれの「自発的精神」は当然のように無視され抑圧された。
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だが、朱子学の「道学」は、ここまでである。小林氏が仁斎、徂徠の名を挙げて言っている「彼等の学問は、当時の言葉で言えば、『道学』であり」の「道学」は、朱子学の別称としての「道学」ではない。藤樹、仁斎、徂徠たちによって「精神」が注ぎこまれた、日本の「道学」である。しかもそれは、朱子学の換骨奪胎などではなかった、まったく新しい学問の創造であった。藤樹、仁斎、徂徠たちが、理論や観念によってではなく、人間生活の有りようをありのままに見て「道とは何か」を問う学問を生み出したのである。したがって、「道とは何かという問いで、卓然として緊張していた彼等の精神」、その「精神」を端的に言えば、何事につけても人生いかに生きるべきかを考えようとする人間の本能的機能である。その動因を、小林氏は第五十章で次のように言っている、
――宣長の考えによれば、「禽獣よりもことわざしげく」、「物のあはれをしる」人間は、遠い昔から、ただ生きているのに甘んずる事が出来ず、生死を観ずる道に踏み込んでいた。この本質的な反省の事は、言わば、人の一生という限定された枠の内部で、各人が完了する他はないものであった。しかし、其処に要求されているような根底的な直観の働きは、誰もが持って生れて来た、「まごころ」に備わる、智慧の働きであったと見ていい。……
溝口さんが探索してきた小林氏の「精神」という言葉は、どれもがそういう背景を負っていた。いずれ溝口さんには、今回の自問自答を敷衍して本誌への寄稿を頼むつもりだが、そのときにはぜひとも溝口さんが精査した「精神」という言葉が含まれる「本居宣長」の件をすべて抜粋列挙して下さることを今のうちにお願いしておこう、そして読者には、溝口さんの自問自答はもちろんだが、そこに列挙される「精神」という言葉の用例をもすべて熟読して下さることをお願いして、ここには一か所、私が今回、溝口さんのおかげではっとなるほどの覚醒に誘われた第五十章の一節を引かせてもらう。
――宣長は、「雲隠の巻」の解で、「あはれ」の嘆きの、「深さ、あささ」を言っているが、彼の言い方に従えば、「物のあはれをしる情の感き」は、「うき事、かなしき事」に向い、「こゝろにかなはぬすぢ」に添うて行けば、自然と深まるものだ。無理なく意識化、或は精神化が行われる道を辿るものだ、と言う。そういう情のおのずからな傾向の極まるところで、私達は、死の観念と出会う、と宣長は見るのである。この観念は、私達が生活している現実の世界に在る何物も現してはいない。「此世」の何物にも囚われず、患わされず、その関わるところは、「彼の世」に在る何かである、としか言いようがない。この場合、宣長が考えていたのは、悲しみの極まるところ、そういう純粋無雑な意識が、何処からか、現れて来る、という事であった。と言って、こういうところで、内容を欠いた抽象観念など、宣長には、全く問題の外にあった。……
これこそは、小林氏が、溝口さんが自問自答で言っていた「小林先生は『精神』という言葉に格別の意味を込めつつ『本居宣長』を書き進め、本を書き終わる頃には、宣長の『精神』と『遺言書』が一体のものであるように見えてきたのではないでしょうか」に大きくうなずいている文章であり、宣長があの類い稀な「遺言書」を書くに至った理由の正鵠と言えるであろう。
本来ならば、本誌にはまず塾生諸賢の自問自答を載せ、必要に応じてそれを私が後追いする、というのが順序だが、今回は質問者の溝口さんを差し置いて、私が抜け駆けするかたちになった。この非礼は溝口さんにも読者諸賢にもお詫びし、ほんの一言、ここに釈明を付記させてもらう。
冒頭で述べたとおり、今回は徂徠の「世ハ言ヲ載セテ以テ遷リ、言ハ道ヲ載セテ以テ遷ル」としっかり向き合うつもりでいた。ところが、その前に溝口さんの自問自答に立ち寄り、溝口さんが小林氏の「精神」に注目していることを知って翻然と私に閃くものがあった、「世ハ言ヲ載セテ以テ遷リ、言ハ道ヲ載セテ以テ遷ル」は、徂徠の「学説」などではない、「精神」である、「精神」の歎声である、そう閃いた瞬間から、私は小林氏の「本居宣長」での「精神」の何たるかを、多少なりとも明らめないではいられなくなったのである。
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さて、ここからは余談である。今回の主題からすれば余談であるが、この機会に聞いておいてもらうに越したことはないと自負する余談である。
水戸光圀の今日一般に知られている名は水戸黄門であろう。「黄門」は中納言の唐名で、光圀が権中納言であったところからそう呼ばれたのだが、水戸黄門と言えば助さん格さんである。だがこれは、幕末から明治にかけて生まれた講談「水戸黄門漫遊記」の話であり、史実の光圀は全国漫遊などはしておらず、遠出と言っても精々鎌倉の寿福寺に赴いた程度である。
したがって、助さん格さんも虚構なのだが、モデルはいる。彰考館で修史に励み、ともに彰考館総裁となって世に知られた佐々十竹(通称、介三郎)と安積澹泊(通称、覚兵衛)である。光圀の命を受けて全国の名家へ古文書の書写蒐集に赴いた彰考館員たちが、「漫遊記」では佐々介三郎と安積覚兵衛の名を借りて、水戸黄門のお供とされたのである。水戸黄門の諸国漫遊自体が、彰考館員たちの史料採訪旅から想を得たかとも言われている。
(第二十五回 了)