『源氏物語』という孤高の山

冨部 久

小林秀雄の『本居宣長』は、氏が折口信夫氏の大森のお宅を訪問した際のエピソードから始まる。本居宣長の「古事記伝」を読んでいた小林氏が折口氏にその話題を持って行ったが、どうも話が噛み合わないまま別れることになった。しかし、駅まで小林氏を見送りに行った折口氏が、改札口に入った小林氏を呼び止めて、「小林さん、本居さんはね、やはり源氏ですよ、では、さよなら」と言ったとのことである。そのエピソードを敢えて冒頭に置いたことの深い意味を知るには、小林氏の「源氏」に纏わる思索をまずは丹念に辿っていくしかない。

では、私も改めて「源氏」を手掛かりに、宣長さんの思いの中にもっと深く入ってみようと思う。

その前に、作者の紫式部はどういう人だったのか、ここでおさらいをしてみよう。

生年は970~978年とはっきりとしない。父、藤原為時は花山天皇の読書役だった人で、式部も幼少の頃より漢文を読みこなし、また和歌も詠んでいた。998年ごろ、親子ほど年の差がある藤原宣孝と結婚し一女を儲けるが、間もなく夫は死去。その後、藤原道長の要請で宮中に上がり、その娘、彰子に仕える。まさに時の権力の中枢近くにいて、そこで繰り広げられる人間模様を目の当たりにしていたに違いない。そして、諸説あるが、1012~1019年に亡くなっている。いずれにしても長命ではなかったようだ。残した作品は、和歌の『紫式部集』、『紫式部日記』、そして『源氏物語』である。

 

さて、『本居宣長』の中で源氏について深く考察されているのは第十二章から十八章である。その中心で絶える事のない光彩を放ち続けているのは、「物の哀をしる」という言葉である。いや、光彩という表面的なものは一部であって、そこからは人の心に湧き起こる様々な感情が、尽きる事のない源泉のようにこんこんと湧き出ている。

宣長は二十代だった京都留学時代に著わした「あしわけ小舟」と題する問答体の歌論において、既に「歌ノ道ハ、善悪ノギロンヲステテ、モノノアハレト云事ヲシルベシ、源氏物語ノ一部ノ趣向、此所ヲ以テ貫得スベシ、外ニ子細ナシ」と断言している。のちに書かれた「玉のをぐし」においては、「―此物語には、さるくだくだしきくまぐままで、のこるかたなく、いともくはしく、こまかに書あらはしたること、くもりなき鏡にうつして、むかひたらむがごとくにて、大かた人のココロのあるやうを書るさまは、やまと、もろこし、いにしへ、今、ゆくさきにも、たぐふべきふみはあらじとぞおぼゆる」と言って絶賛している。そして、「紫文要領」では、「此物語は、紫式部がしる所の物のあはれよりいできて、(中略)よむ人に物の哀をしらしむるより外の義なく、よむ人も、物のあはれをしるより外の意なかるべし」と言っている。つまり、紫式部は誰にも増して「物のあはれをしり」、かつこれを「くもりなき鏡にうつして、むかひたらむがごとくにて、大かた人の情のあるやうを」『源氏物語』において書き表したということになるのだろう。

そういったことを考えているうちに、次のような疑問が湧き起こった。「物のあはれをしる」ということに関して人よりずば抜けた感性や才能がありさえすれば、『源氏物語』のような、世界でも類を見ない素晴らしい小説が書けるのだろうか、と。……いや、それは必要条件ではあるが、十分条件ではないはずだ。そういうずば抜けた感性や才能を持った人は、この世には多くいるが、『源氏物語』のような小説を書ける人は古今東西ほんの一握りしかいないだろう。もちろん、若い頃から歌を詠むという習慣や訓練は、式部にとって豊かな滋養となっていただろうし、様々な事件があり、ありとあらゆる感情の渦巻く朝廷の中枢にいたことも、題材には事欠かないということがあっただろう。だが、そういう環境にいた人は式部以外にも複数いるはずだ。そのほかに『源氏物語』を書く事が出来るための十分条件としての要素はないのだろうか? そう思って、その答えを『本居宣長』のテキストに求めてみた。

以下、その手掛かりになると思ったところを列記してみる。

―「源氏」は、作者の見聞した事実の、単なる記録ではない。作者が源氏君に言わせているように、「世にふる人の有様の、みるにもあかず、聞にもあまる」味いの表現なのだ。(中略)もっと根本的な、心理が生きられ意味附けられる、ただ人間であるという理由さえあれば、直ちに現れて来る事物と情との緊密な交渉が行われている世界である。内観による、その意識化が、遂に、「世にふる人の有様」という人生図を、式部の心眼に描き出したに違いなく、この有様を「みるにもあかず」と観ずるに至った。この思いを、表現の「めでたさ」によって、秩序づけ、客観化し得たところを、宣長は、「無双の妙手」と呼んだ。(「小林秀雄全作品」第27集15章p163~165)

ここで言われているのは、朝廷において生きる人々の、「みるにもあかず、聞にもあまる」「情」の曖昧な働きを、式部は表現の「めでたさ」によって、秩序づけ、客観化し得た、その能力は並ぶものがない、ということだろうか。いや、それだけなら、一流の小説家が行う一般的な手法と相違はないが、ここでは、「緊密な交渉」という言葉を注視したい。即ち、「交渉」というからには事物から情を捕らえるという一方向だけでなく、捕らえた情から新しい観点で事物を眺めるということを繰り返し「緊密」に行うことにより、式部は、遂には「世にふる人の有様」という人生図を、心眼をもって描き出す事が出来た、それが『源氏物語』だということなのだろう。宣長は、最終的に式部の事を「無双の名手」と呼んでいるわけであるから、つまりは比べる者がいないほどの名手ということであるから、ここは極めて十分条件に近い要素が述べられていると見てよいだろう。

 

―情に流され無意識に傾く歌と、観察と意識とに赴く世語りとが離れようとして結ばれる機微が、ここに異常な力で捕らえられている、と宣長は見た。(第27集18章P201)

一見分かりにくい文章だが、これは作者の豊かな感情による叙情と、その叙情から少し身を離したところで状況を俯瞰して把握する叙事とが、ぶつかり合いながら奏でる人生の機微を捕らえる異常な力を式部は持っていたということで、先の引用とも重なるが、その能力が一流作家の中でも抜きん出ていたということだろう。そういう意味では、これも単なる必要条件というよりは、十分条件に近い条件と言えるのではないか。

 

―作者は、「よき事のかぎりをとりあつめて」源氏君を描いた、と宣長が言うのは、勿論、わろき人を美化したという意味でもなければ、よき人を精緻に写したという意味でもない。「物のあはれを知る」人間の像を、普通の人物評のとどかぬところに、詞花によって構成した事を言うのであり、この像の持つ疑いようのない特殊な魅力の究明が、宣長の批評の出発点でもあり、同時に帰着点でもあった。(中略)(当時の知識として通じていたはずの儒仏の思想の)影響にもかかわらず、何故式部は此の物語を創り得たかに、彼の考えは集中していたとまで言ってよい。この、宣長の「源氏」論の、根幹を成している彼の精神の集中は、研究の対象自体によって要請されたものであった。それは、詞花言葉の工夫によって創り出された、物語という客観的秩序が規定した即物的な方法だったので、決して宣長の任意な主観の動きではなかった。(第27集18章p204~205)

要約すれば、式部は「物のあはれを知る」人間が抱く、「あはれ」という不完全な感情経験を、儒仏の思想の影響を受けず、誰にもまねのできない詞花言葉の工夫によって表し、客観的秩序を持つ『源氏物語』を創り出したということになるのだろう。ここにも、「誰にもまねのできない詞花言葉の工夫」という言葉がある。「誰にもまねのできない」ものであるという以上、これもまた、十分条件に近い条件ではないだろうか。

 

さて、私は答えに辿り着けたのだろうか? 第12章から18章までを読み込んで私が感じたのは、これこそ唯一無二だと思える十分条件は見当たらなかったが、十分条件に近い条件、そしてそのほか必要条件のようなものはそこかしこに見受けられた、ということだ。それらの条件が積み重なった、類まれなる資質を持ち合わせた紫式部によって描かれた『源氏物語』という山は、豊かな裾野に詞花言葉の花が咲き乱れる、世界でも類を見ない孤高の山となっていたということではないだろうか。

この孤高の山を楽しみ、味わいながら登り詰めたのが本居宣長である。そして、折口信夫に誘われて、小林秀雄もまた宣長の味わい方を辿りながら、その頂上を見極めたに違いない。

(了)