俺は 傷であって また 短刀だ。
俺は 撲る掌であり、撲られる頬だ。
俺は 車裂きにされる手足で、また裂く車だ。
犠牲であって 首斬役人だ。
俺は自分の心臓の吸血鬼、
――永遠の笑いの刑に処せられて、
しかも微笑することも最早出来ない
あの偉大な見棄てられた人たちの中の一人だ!
シャルル・ボードレール『悪の華』より
「我とわが身を罰する者」(*1)
1954(昭和29)年、52歳の時、小林秀雄先生は、次のように述懐している。
「僕も詩は好きだったから、高等学校時代、『悪の華』はボロボロになるまで愛読したものである。……私がボオドレエルに惹かれ、非常に影響されたのは、彼の批評精神であった。詩作という行為の人格的必然性に関する心労と自覚であった。『詩人が批評家を蔵しないという事は不可能である』という苦しい明識であった。その意味で、彼の著作を読んだという事は、私の生涯で決定的な事件であったと思っている」。(「ボオドレエルと私」(*2))
批評家小林秀雄の人生は、批評家たる詩人ボードレールとともにあった、と断言しても言い過ぎにはならないだろう。
*
小林先生による「近代絵画」(新潮社刊『小林秀雄全作品』第22集所収)は、「近代の一流の画家達の演じた『人間劇』」だ(*3)。ところが、その冒頭に登場するのは、画家ではなく、詩人ボードレールなのである。もちろんその事情については、本文で丁寧に説明されており、ここではその概要のみ記しておきたい。
ボードレールは、当時文学界に君臨していた浪漫派の巨匠ユーゴー(*4)から脱出する道を、作曲家ワーグナー(*5)の大管弦楽に見つけた。音楽の世界では、ピアノを始めとする楽器の発明改良とそこから生まれた表現形式(例えばソナタ形式)のおかげで、個人の発見、自覚、内省が進んだために複雑化した意識、より複雑な自己を表現することが可能になった。このことを、ボードレールはワーグナーの音楽から直覚、驚嘆し、そこに「管弦楽器の大建築を見た」(*6)のである。
以上は、楽音という素材の性質に由来するものだが、言葉という素材について言えば、「日常言語の世界という、驚くほど無秩序な素材の世界」の中で、詩は「詩でないものに顚落する危険を自ら蔵している」(同)ことにボードレールは気付いた。浪漫派の詩人達は、自己の告白を散文という形式、つまり小説で書き出した。この自由な散文形式への逸脱こそ、彼が直観した危機であった。
そこでボードレールは、「詩から詩でないものを出来るだけ排除しよう」とした。つまり、「詩には本来、詩に固有な魅力というものがある筈で、この定義し難い魅力を成立させる為の言葉の諸条件を極め」た。「詩は、何かを、或る対象を或る主題を詩的に表現するという様なものではない、詩は単に詩であれば足りる」、そういう確信のもと言葉を厳密に編み上げる、すなわち、「日常言語のうちに、詩的言語を定立し、これを組織」(同)したのである。
しかし、彼の直覚は、そこに留まらなかった。画壇の世界においても、同様に主題や対象の強制から逃れ、画面上の色彩の調和に精魂を込める、先駆的な画家の感覚をも直知した。換言すれば、絵画の自主性或は独立性を創出せんとする画家の烈しい工夫に眼を向けた。その代表こそ敬愛するドラクロア(*7)であり、ボードレールは、そのような「絵画の近代性に関する予言的な洞察」、すなわち「絵画は絵画であれば足りるという明瞭な意識を持って、絵に対した最初の絵画批評家」になったと、小林先生は評しているのである。
ここで、そんなボードレールの肉声を、ドラクロア論の中から引いておこう。
「ドラクロワが何ぴとよりもよく訳出して、我が十九世紀に栄光を与えたという、その何かしら神秘なものとは一体何か? と貴下は問わるるに違いない。それは、眼に見えぬものであり、手に触れ得ぬものであり、夢であり、神経であり、魂である。そして彼は――これに御注意を願いたいが――ただ輪郭と色彩以外の他の手段を用いずしてこれを遂行した。何ぴとよりもよく遂行した。備わざるなき画家の完璧を以って、繊細な文学者の厳密を以って、情熱的な音楽家の雄弁を以って、これを遂行したのである」(「ユージェーヌ・ドラクロワの創作と生涯」(*8))。
*
それでは、「近代絵画」に登場する画家は、ボードレールを、彼の絵画批評を、どのように受け留めていたのだろうか。
小林先生は、セザンヌ論のなかで、「セザンヌがボードレールを尊敬していた事も間違いはないだろう」という前提で、このように書いている。
「ボードレールに、『腐肉』という有名な詩があるが、セザンヌは、この詩を好み、晩年に至っても、一語も間違いなく暗誦していた、という話――この話はヴォラール(*9)の『セザンヌ』の中にある話で、ヴォラールがヴェルレーヌ(*10)の事をセザンヌに再三訊ねたが、セザンヌはこれに答えず、いきなり『腐肉』を歌って聞かせ、『ボードレールは強いのだ。彼の絵画論は実にあきれたものだ。ちっとも間違いがない』と言ったと言う……」。
小林先生自身も、セザンヌ論のなかで、マドリッドのプラド美術館にあるヴェラスケス(*11)の「ラス・メニナス」を観て味わった「実に深い感動」について、「色彩による調和の極限という強い静かな感じ」があり、「為に、主題は圧倒されていたのだと言ってもいい」と表現し、「いや、私は、殆どセザンヌの色調さえ見る想いがした」と述懐している。
先生はセザンヌやヴェラスケスの画に、「絵画は絵画であれば足りる」という精神を見抜いていたのであろう。
一方、セザンヌとは逆に、ボードレールをあまり評価していなかったように見えるのが、ゴッホである。
小林先生は、「ゴッホの手紙」(*12)のなかで、自身の絵について文学者の判断を極端に嫌ったドガの話に続けて、同様に文学者に対して気難しい画家として、ゴッホが友人のベルナール(*13)に宛てた手紙を引いている。
「ああ、レンブラント――ボオドレエルの偉さは偉さとして、特にあの詩に就いて、僕は敢えて言うのだが(恐らく《悪の華》の中の《燈台》を指すと思われる――小林)、ボオドレエルは、レンブラントについて、殆ど全く無智である。……だが、君、君はルーヴルにある《牛》と《牛肉屋の内部》をよく見た事があるか。君はよく見てやしないのだ。ボオドレエルと来たら、もっともっと見てやしない」。(現行番号B12)
ところがその直後、先生は、こう続けるのである。
「ボオドレエルが見ていないわけはないだろうが、画家は見るという事に関して、独特の秘教を信じているものだ。そして意識家ほど、自分の裡に言うに言われぬものがあるという意識に苦しみ、その苦しみによって、言うに言われぬものを、言わば不本意乍ら深化して了うものである。ゴッホは、自分の中にいるボオドレエルと戦う」。(傍点筆者)
加えて、「告白文学の傑作」と称するゴッホの書簡を引きながら、「……彼には告白というものしか出来ない。要するにこういう事だ。この画家は、働く手を休めると、自分の裡にじっと坐っている憂鬱な詩人の眼に出会わなければならない」(同)と綴っている。
小林先生の言うように、ボードレールは、決して「見ていない」人ではなかった。
先生の大学時代の恩師、辰野隆氏の論考「ボオドレエル研究序説」(*14)によれば、彼は、「中流の家庭に少年時代を送り、夙に父を失い、母の再婚から第二の父と争い、文藝に耽って、行に節度が無く、青年時代の放蕩の為に節度を害い、四十代で命を卒った」。氏は、そういう略伝について、「外部から観察して寧ろ平凡であるにも拘わらず、内部から考察する時、初めて近代的悲劇となって吾等の心を打つのである。一個の魂が過度に鋭敏な感性のために苦しみ、理想の熾烈な憧憬に悩み、残酷な自己批判の意識に苛まれている」とし、「少年時代から既に孤独感に悩んでいた聡慧なボオドレエルが、夙に人心の分析家として、自己凝視の習癖を高度に有していたのは毫も怪しむに足らない。常に見る『我』と、見らるる『我』との対立は、享楽し苦悩するボオドレエルの傍に、それを観察し批評するボオドレエルを佇立せしめたのである」(以上、傍点筆者)と述べている。
ボードレールは、むしろよく見る人であり、その眼差しは、外部のみならず、自身の内面深くにまで向けられていたのである。
――そうして、太鼓も音楽もない、柩車の長い連続が
わが魂の中を しずしずと行列する。希望は、
破れて、泣いている。残忍な、暴虐な苦悶は
わがうなだれた頭蓋骨の上に 真黒な弔旗を立てる。
「憂鬱 Spleen」(「悪の華」(*1)より)
*
ゴッホを語るに際し、小林先生が「一番大事なこと」と繰り返しているのが、彼が、自身の病気について「非常に鋭い病識」を持っていたということである。先生は、「鋭敏な精神病医の様に、常に、自身の病気の兆候を観察していた病人だった」(「ゴッホの病気」)(*15)として、そのことは彼の書簡集が証明しており、それは「仮借のない自己批判の連続であって、告白文学と見ても、比類のないものである。又、彼は、四十点を越える自画像を遺しています。短い期間にこれほど沢山自画像を描いた画家は、他にはありますまい。病的という言葉が使いたいのなら、病的に鋭い自己批評家であった、と言ってもよい」(傍点筆者)と述べている。
そこで取り上げられるのが、ゴーガン(*16)との間に起きた「あの周知の不幸な事件」の直後、1889年1月にアルルで描かれた自画像「耳を切った男」である。その、ゴッホが耳を繃帯した自画像を描くさまを、先生はこのように描写している。
「ここに、世にも奇妙な人間がいる。自身でも世間でもこの男をゴッホと呼んでいるが、よくよく考えれば、これは何んと呼んだらいいのであろう。それは、自我と呼ぶべきものであるか。この得体の知れぬ存在、普通の意味での理性も意識もその一部をなすに過ぎない、この不思議な実体を、ゴッホは、何も彼も忘れて眺める。見て、見て、見抜く。見抜いたところが線となり色となり、線や色が又見抜かれる」。
その時、彼の頭の中に、世間が見ている「ゴッホ」という主題なぞ皆無であったし、彼自身が、「ゴッホ」と名のついた人物というよりも、「ゴッホという精神」そのものと化していたように思われる。
同年5月、ゴッホはサン=レミの精神病院に転院する。7月中旬、石切り場入口での製作中に起きた発作以来、中断していた仕事を、「黙した熱狂裡に、憑かれた様に」再開した9月初旬に書かれた手紙から、小林先生が引いているゴッホの肉声を聴こう。
「仕事はうまく行っている、身体の具合が悪くなる数日前に始めた一つのカンヴァスと、今、悪戦苦闘している。《刈入れ》という全部黄色の習作だ。恐ろしく厚く描かれているが、主題は美しく単純なのである。暑熱の唯中で、仕事をやり上げようと悪魔の様に戦っている一人の判然としない人間の姿、この刈る人に、僕は、死の影像を見ている、と言うのは、人間共は、こいつが刈っている麦かも知れぬという意味でだ。今度のは以前に試みた麦刈りの真反対だと言いたければ言ってもいいが、この死には悲しいものは少しもないのだ。あらゆるものの上に純金の光を漲らす太陽とともに、死は、白昼、己れの道を進んで行くのだ。……」(No604、傍点筆者)(*12)
この習作は、病院の鉄格子越しに眺めた、熟れた麦畑を描いたものである。
「さあ、《刈入れ》が出来上った。……自然という偉大な本の語る死の影像だ、だが僕が描こうとしてたのは殆ど微笑している死だ。紫色の岡の線を除いては、凡てが黄色だ、薄い明るい黄色だ。獄房の鉄格子越しに、こんな具合に景色が眺められるとは、われ乍ら妙な事だよ。……」(同)
彼にとって、病室は「獄房」であり、自身は一個の囚人であった。
小林先生は、「ゴッホの手紙」を、「黒い鳥の群がる麦畠の絵」(*17)の複製を美術館で見て、「その前にしゃがみ込んで了った」場面から書き始めていることは周知の通りである。しかし、終盤になって、その画が彼の絶筆であるかどうかを詮議するよりも、ゴッホが前述の習作を描くなかで、「熟れた麦畠を眺め、『純金の光を漲らす太陽の下に、白昼、死は己れの道を進んで行く』のを見てとっていた事を思い出した方がよかろう」(原文ママ)と述べて、話は終幕へと向かう……
*
ここまで辿ってきたように、小林秀雄先生にとって、ゴッホという人間は、研ぎ澄まされた自己意識により、自らの裡に在る、言うに言われぬものを深化させる「鋭い自己批評家」であり、且つ比類のない告白文学たる書簡を綴った詩人であった。また同時に、そのような心眼で、見て、見て、見抜いたところを、デッサンや色彩に昇華する画家であった。
今、それを言い換えるならば、自らの肉体のなかの「ボードレール」と、共存しつつも最期の瞬間まで戦い続け、終にわが身を使い果した、「我とわが身を罰する者(L’Héautontimorouménos)」と見えていたのではなかったか。
(*1)「悪の華」(鈴木信太郎訳、岩波文庫)
(*2)新潮社刊「小林秀雄全作品」第22集所収
(*3)「『近代絵画』著者の言葉」、同
(*4)Victor Hugo、フランスの詩人、小説家、劇作家、1802-1885、フランス文学史上屈指の詩人とされている。
(*5)Richard Wagner、ドイツの作曲家、1813-1883
(*6)「表現について」、同第18集所収
(*7)Eugène Delacroix、フランスの画家、1798-1863
(*8)ボードレール「ボードレール芸術論」(佐藤正彰、中島健蔵訳、角川文庫)、
「ロマン派芸術」からの採録
(*9)Ambroise Vollard、フランスの画商、1868(1866とも)-1939
(*10)Paul Verlaine、フランスの詩人、1844-1896
(*11)Diego Velázquez、スペインの画家、1599-1660
(*12)新潮社刊「小林秀雄全作品」第20集所収
(*13)Émile Bernard、フランスの画家1868-1941
(*14)辰野隆氏は、フランス文学者。日本のフランス文学研究の基礎を築いた。「ボオドレエル研究序説」は、氏の博士論文。1929年、第一書房刊。1888-1964。
(*15)新潮社刊「小林秀雄全作品」第22集所収
(*16)Paul Gauguin、フランスの画家、1848-1903
(*17)「烏のいる麦畑」。1890年作。この複製画は、小林先生の自宅に長く掲げられていた。
【参考文献】
「ファン・ゴッホの手紙」二見史郎編訳、圀府寺司訳、みすず書房
(了)