小林秀雄の「ベエトオヴェン」

杉本 圭司

リヒャルト・ワーグナーに「ベートーヴェン」という演説録があります。今から百五十年前の一八七〇年九月、ベートーヴェンの生誕百年祭に際して行われたものです。もっとも、これは現実に行われた演説ではない。ワーグナーが想像裡に行った架空の演説です。序文によれば、ワーグナーはこの偉大なる作曲家の百年祭に臨席することを切に望んでいたが、自分が出席するにふさわしい機会には恵まれなかった。そこで、この大音楽家のための理想的な祝祭において祝辞を述べるべく招請されたという想定のもと、ベートーヴェンの音楽に関する自らの考えを開陳する、というのです。聴衆のいないこの演説は、そのことによってかえって己の考えをつぶさに述べることを可能とした、かくしてそれは、音楽の本質に深く読者を導くものであるとともに、真摯なる教養人の思索に訴え、音楽哲学に寄与するものとなるだろう、そして時あたかも普仏戦争勃発に沸き立つ我が国民に対し、ドイツ精神の真髄に深く触れせしめる機縁とならんことを欲す―。いかにもニーチェが言った、「大きな壁と大胆な壁画を愛する」この芸術家らしい着想、序文です。

ベートーヴェンの生誕二百五十年の誕生月にあたる今日、この作曲家についてお話しするにあたって、私にはワーグナーのような大それた目論見はありません。ただこの二〇二〇年という年は、ドイツ国民のみならず世界中の人々が未曾有の苦難と忍従を強いられた一年でもあった。それは今もなお続いています。そのような苦難と忍従の年が、またベートーヴェンの誕生を祝う節目の年でもあるという事実は、決して偶然とは思えないものがあります。そしてそのような年の最後に、この作曲家について考え、その音楽に触れようとすることは、単なる音楽鑑賞を超えた意味を我々にもたらしてくれるように思われるのです。

確かにベートーヴェンの音楽には、がある。あるいは音楽とはがあるものだという事実を、音楽家としてはじめて自覚的に、かつもっとも高い次元において証明したのがベートーヴェンだと言ってもいいでしょう。ワーグナーの演説は晦渋かつ高踏なもので、彼がベートーヴェンという天才に見出し讃えた「ドイツ精神」は、必ずしも万人の共感を得るものではなかったかもしれない。しかしベートーヴェンの音楽について考えることは、ただ音楽の本質に触れたり音楽哲学の思索に耽るというだけのことではない、人間精神のもっとも肝心な部分に触れ、人が生きることの意味と難しさに直面することでもあるという点において、ワーグナーがこの音楽家に託したものの大きさはよく理解できる気がします。

とはいえ、バイロイトの老魔術師のように大風呂敷を広げるわけにはいきません。今日は、ベートーヴェンの音楽に対して言われた一つの言葉をめぐってお話ししようと思います。それは、この作曲家の晩年の音楽について小林秀雄が語った言葉なのですが、あるとき、彼は当時「新潮」編集長だった坂本忠雄さんに、「ベートーヴェンの晩年の作品、あれは早来迎はやらいごうだ」と言ったというのです。この話は、高橋英夫氏の「疾走するモーツァルト」という本の終章に、坂本さん(本文中ではS氏)との対話という形で登場します。高橋氏は、「早来迎」という言葉は初めて聞いたと言い、この言葉によって小林秀雄が何を言おうとしたのかについては直接には論じていません。私はこの話を坂本さんに直接伺ってみたことがありますが、小林秀雄はただそう言っただけで、他には何も説明しなかったそうです。

「早来迎」とは、「新纂浄土宗大辞典」によれば、「仏・菩薩が迅速なスピード感をもって来迎する様」を言うが、通常は、浄土宗総本山である京都東山の知恩院が所蔵する「阿弥陀二十五菩薩来迎図」の通称です。小林秀雄は、間違いなくこの知恩院の「早来迎」を思い浮かべて言ったものと私には思われる。そして彼が聞いた「ベートーヴェンの晩年の作品」とは、高橋氏も指摘しているように、後期のピアノ・ソナタや弦楽四重奏を指していることは疑いないが、小林秀雄が晩年のベートーヴェンに見た阿弥陀如来と二十五尊の菩薩群は、とりわけ作品一一一の、この作曲家が最後に書いたピアノ・ソナタに現れているように思うのです。

だがその前に、お伝えしておかなければならないことがいくつかある。まずは生前、について、お話しするところから始めましょう。

 

 

小林秀雄の音楽論といえば、言うまでもなく「モオツァルト」です。他にも音楽について書いた文章がいくつかありますが、作曲家論としてまとまった批評は、これが唯一のものとなった。ただその「モオツァルト」を発表した後で、彼がベートーヴェンについて書こうと企図していたらしいことが伺える証言があります。昭和三十九年一月に発表された篠田一士との対談(「思索する世界」)で、「前にお目にかかったときに、ベートーベンのことをこんど書く、とおっしゃっていましたけど」と問われているのです。篠田氏は、小林秀雄とは二度しか会ったことがないと後に回想していますから、「前にお目にかかったとき」とは、その五年前に行われた座談会「小林秀雄氏を囲む一時間」の席だったことになる。その中で、小林秀雄は次のように発言しています。

 

たとえば、僕の「モーツァルト論」なんてものは、ありゃあ一つの全然文学的音楽論なんですよ。専門的なものはなんにもないんですよ。だから僕がよくもう一つぐらい書いてやろうと思うことがある。たとえば、ベートーヴェンならベートーヴェンをモーツァルトみたいなやり方で書くなら、ある感動が起きてなんかチャンスがあったら、割合やさしく書ける見込はあるが、そんなことはしたくない。僕が今度音楽を書くならもっと専門的なものを書きますよ。それには勉強が要る。これは音楽の専門的な知識が要りますよ。その知識を得て暇があったら書きたいと思いますが、二度とああいうものは繰返したくない。

 

活字化された記録を読むかぎり、「ベートーベンのことをこんど書く」というよりは、音楽についてもう一度書くなら「モオツァルト」のようなやり方では書きたくない、というのが彼の一番言いたかったところでしょう。同様の趣旨のことは、同じ年に発表された「小林秀雄とのある午後」という座談会でも言われており、後の対談でベートーヴェン論について問われたときも、自分の音楽評というのは「音楽の文学批評」であり、それならできるが、それはやりたくなくなったと答えています。

では、彼がもうやりたくなくなったと語った「文学的音楽論」あるいは「音楽の文学批評」とは何かといえば、それは、それまで彼が書いてきた文学論や文学批評、たとえばドストエフスキーについての批評とは異なる特殊な批評を指していたわけではありません。右に引用した座談会での発言は、文学を対象とした批評と音楽を対象とした批評の違いについて問われたことに対する返答なのですが、結局そこには本質的な違いはないというのが彼の考えなのです。「思索する世界」では、音楽を批評しても絵画を批評しても、結局そこから自分がもらうのは「文学的イメージ」であり、それは結局、音楽や絵を素材とした文学である、と彼は言います。そして次のように語るのですが、これは、文芸批評家と呼ばれながら文学以外を批評対象とすることが多かった小林秀雄の発言として大変重要なものだと思います。

 

たとえば音楽は非常におもしろいですけれどもね、それ言葉にするほうがもっとおもしろいんですね、ぼくには。たとえば絵も、ずいぶん見ますよ。見ている間は、決して言葉は語らないんですよ、絵は。音もそうです。それで、絵に対する批評とか、音楽に対する批評を読むでしょう。

そうすると言葉が見つかるんです。それが逆に、私の見た絵の言葉を語らない印象に帰ってくるんです。そこで、その言葉がかわるんです、言葉のイメージが、自分のものに。そういう経験を僕は実によくするんですよ。

これはどういうことなのかなと考えたことあるんですけどね、けっきょく私は言葉がおもしろいんですよ。

言葉はいつでも、そういうある沈黙から生れてくるんです。

 

ある時、セザンヌの自画像を見た感動について書いたエッセイで、彼は、「いい絵だと感じてしまえば、もう絵から離れたい。離れてあれこれと言葉が捕えたい、文学者の習性というものは仕方のないものだ」とも書いていますが(「セザンヌの自画像」)、「けっきょく私は言葉がおもしろい」というそのことが、戦後、「モオツァルト」から「ゴッホの手紙」を経て「近代絵画」を執筆していた間も、彼の中で一貫して変わらぬものであったということは決して忘れてはならないのです。小林秀雄はこの時期、美の世界に遊んでいたわけではないし、「近代絵画」を終えてから言葉への回帰が始まったということでもなかった。また戦争中、文壇を離れて骨董の世界に熱中していたことについて、「文学とは絶縁し、文学から失脚した」と坂口安吾に批判されたことがありましたが、その安吾の「教祖の文学」と同じ月に発表された座談会で、彼は、骨董という美の世界は近代文学という一種の病気に気づかせてくれた、それは文学的観念を追い出す体操、訓練のようなものだが、しかし結局それもすべて文学のためなのだと明言しています(「旧文學界同人との対話」)。

絵や音楽の批評を読んで見つかる言葉が、自分が見たり聞いたりした絵や音楽の無言の印象に帰ってくる、そこでその言葉のイメージが自分のものにかわると言われているのも、実に興味深い。実際、彼の批評文を読んでいると、明示的なものであれ暗示的なものであれ、そういう経験に随所で遭遇しますし、そのもっとも典型的な例が、アンリ・ゲオンの「tristesse allante(駆けめぐる悲しさ)」という言葉を受けて書かれた、「モオツァルトのかなしさは疾走する。涙は追いつけない」というあの一節でしょう。小林秀雄はこのゲオンの言葉を読んだ時、自分の感じを一と言で言われたように思い驚いたと書いていますが、「かなしさは疾走する」という彼の言葉のイメージは、ゲオンの「tristesse allante」のイメージそのものではない、ましてやその誤訳などではありません。「tristesse allante」というゲオンの言葉が、小林秀雄自身の無言のモーツァルト経験に帰ってくることで、彼の言葉のイメージにもの、つまり沈黙していた「自分の感じ」を彼が自らつかんだということなのです。

小林秀雄にとって、「言葉はいつでも、そういうある沈黙から生れてくる」ものであった。右の対談では、その「沈黙」を「ポエジー」とも言い、さらに「イデー」と言い換えています。その「イデー」は、ドストエフスキーにもモーツァルトにもある。けれどもそれは、「ある姿をした、形をした思想」ではない、とも彼は言います。「ある姿をした、形をした思想」とは、概念化され、イデオロギーと化した思想という意味でしょう。そして本居宣長や荻生徂徠の方法の矛盾を分析的に衝こうとする世の批評を批判しながら、イデーをつかんでいればそこには何の矛盾もない、それは彼らの生活のしぶりや、一生を暮らした足取り、そういうものから浮かぶもので、宣長や徂徠を言わば一人の詩人として捉え、「詩人としてのイデー」から入る道だという。この「詩人としてのイデー」から入る道こそ、この対談の翌年から連載開始する「本居宣長」で、彼が辿って行った道でありました。

さて、「前にお目にかかったときに、ベートーベンのことをこんど書く、とおっしゃっていましたけど」と篠田一士に問われ、「音楽の文学批評」ならできるが、それはやりたくなくなったと答えているのは、この「詩人としてのイデー」の話題の後です。つまり「モオツァルト」という「音楽の文学批評」においても、小林秀雄は「詩人としてのイデー」から入る道を選んだのです。彼はまた、あれは「モオツァルトという人間論」だと語ったこともありますが(坂口安吾との対談「伝統と反逆」)、これも同じことを言った言葉と受け取って差し支えないでしょう。しかしその彼の批評の方法は、戦前のドストエフスキー論から晩年の「本居宣長」に至るまで一貫して変わらぬものでもあった。とすれば、ベートーヴェンではそれはもうやりたくなくなったというのは、「詩人としてのイデー」から入るという彼の方法そのものの否定ではなかったことになります。篠田氏に「やっぱりつまらない?」と聞かれ、「ええ。二度やるのはね」と彼は応じていますが、小林秀雄という批評家は、生涯を通じてそれを何度も繰り返し続けた人なのです。

たとえば彼の絵画批評はどうであったか。「モオツァルト」の発表後、足掛け五年取り組んだ「ゴッホの手紙」を上梓した後、彼は「文学的絵画論」「絵画の文学批評」ならできるが、それはもうやりたくなくなったと言ってもよかったはずです。ところがその後も「近代絵画」において、モネ、セザンヌ、ゴッホ、ゴーギャン、ルノアール、ドガ、ピカソという七人の画家を四年間かけて取り上げた。その単行本のリーフレットに、この本は専門的な研究ではなく、自分に興味があったのは「近代の一流の画家達の演じた人間劇」だと、「モオツァルト」を振り返ったときとまったく同じことを書いています。これらの絵画論においても、彼はひたすら「詩人としてのイデー」から入る道を歩み続けたのである。晩年においては、彼はルオーの「人間劇」を描きたいとも考えていた。

その小林秀雄が、音楽については「モオツァルト」の他は数篇のエッセイがあるだけで、薄い文庫本一冊に収まってしまうくらいの作品しか残さなかった。あれだけ音楽が好きで、小林家に音楽が鳴らない日は一日もなかったといわれる彼が、文学や絵画よりも音楽への関心と情熱が劣っていたということは考えられない。また、ベートーヴェンという作曲家に対する彼の敬愛の念が、モーツァルトに対するそれに勝るとも劣らぬものであったことは、彼の文章にしばしば登場するこの作曲家への言及の熱量を見れば明らかです。「モオツァルト」の中には、モーツァルトについて書いているのかベートーヴェンの話なのか区別がつかないようなくだりがいくつかありますし、「小林秀雄とのある午後」では、出席者の一人が、「モオツァルト」は戦前のモーツァルトに対する誤解を解いた、モーツァルト以外のことでいいからまた書いてほしいと言うと、彼は、誤解といえばベートーヴェンにも誤解があるといって、ベートーヴェンの話を真っ先に始めるのです。

小林秀雄のベートーヴェンへの思いが、一瞬ではあるがもっとも先鋭的な形で露わになったと思われるのは、六十五歳になる年に五味康祐と行った「音楽談義」という対談での一こまです。「天才と才能家との違い」をめぐって、シューベルトとチャイコフスキー、シューマンとショパン、シベリウスとグリーグを対比しながら語り進めていく中で、話がドビュッシーに触れると、彼は、自分はドビュッシーは好きだがと断った上で、しかしあれは「地方人」だ、パリにいたからパリの踊りになったかもしれないが、まあそんなものだねと吐き捨てるように言う場面があります。そして唐突に、ベートーヴェンがなんでベルリンの踊りですか! と怒鳴りつけるように切り返し、「そういうことですよ、私が言いたいのは」と強い語調で訴えるのです。

小林秀雄は、ドビュッシーの音楽を学生の頃から非常に好きで、今日に至るまで折に触れては聞いて来ていよいよ心惹かれると、五十七歳の年に発表したエッセイ(「ペレアスとメリザンド」)に書いています。しかもその音楽に感動し、この作曲家の評論集「ムッシュー・クロッシュ・アンティディレッタント」を翻訳したのは、ランボーの詩に感動してランボー論を書いたのと同じ頃だったという。つまり、彼の文学的青春を決定付けた「事件」(「ランボオ Ⅲ」)と同列の経験として、ドビュッシーの「影像」や「版画」を回想しているのです。そのドビュッシーを「地方人」と言い捨てるというのは、余程のことです。無論、それ自体は酒も入った上での放言に過ぎないでしょうが、ドビュッシーに対してさえそう放言させてしまうものが、彼のベートーヴェンに対する思いにはあったということは確かでしょう。

その「ベートーベンのこと」をこんど書くと言ったという「小林秀雄氏を囲む一時間」は、昭和三十四年十月に発表されたものです。ただし、小林秀雄が亡くなったときの篠田一士の追悼文(「想望・小林秀雄」)によれば、この座談会が掲載された季刊誌「批評」は発行が遅れに遅れたため、実際に座談会が行われたのは前年の十一月あたりのことだったといいます。この事実も、小林秀雄の年譜の上で見ると看過できないものがあります。その年の二月、「近代絵画」の連載を終え、四月に単行本として刊行すると、彼は「急に音楽が恋しくなった」といって、「モオツァルト」の発表以後十年余り中断していたレコード生活を再開します。そのことは、その年九月に発表された「蓄音機」というエッセイに書かれていますが、彼はまず友人に頼んでオーディオ・セットを組んでもらい、生まれてはじめてLPレコードを買いに銀座へ出かけます。そこで彼が店員に注文したのは、「ラズモフスキー・セット」と呼ばれる、壮年期のベートーヴェンが書いた三曲の弦楽四重奏のレコードでした。そしてこのエッセイの最後のところで、「近頃、ベエトオヴェンが又非常に面白くなっている」と書き、今度は晩年のカルテットである作品一三三の「大フーガ」に触れながら、「伝説の衣が、はがれて、直かに音だけが聞えて来るのに、随分手間がかかったものだ」と吐露しているのです。「ベートーベンのことをこんど書く」という彼の発言は、その二ヶ月ほど後の言葉だったということになります。

篠田氏の回想によれば、この座談会の場で、本題である「批評とは何か」の話が終わると、「ところで君たち音楽なんか、きくのかい」と口火を切ったのは小林秀雄の方だったといいます。座談会の記録には残っていませんが、彼は、つい先だって聴いてきたばかりのドビュッシーの「ペレアスとメリザンド」の日本初演の感想を熱っぽく語り(この公演は昭和三十三年十一月二十六日から十二月九日にかけて行われ、その感想は翌年一月、先にも触れた「ペレアスとメリザンド」として発表されました)、また発売されたばかりのルドルフ・ゼルキンのディアベリ変奏曲のレコードを話題にし、この演奏はすごい、ゼルキンはすばらしいピアニストだと、しきりに感嘆の言葉を口にしたそうです。そしてこのベートーヴェン晩年のピアノ音楽の話題が出たことをきっかけに、篠田氏は小林秀雄に、「『ベートーヴェン』は、いつ、お書きになるのですか」と尋ねたといいます。というのも、この座談会よりもかなり以前から、「という風説が、事情通を自認する人々の間で流布されていたからだというのです。

「モオツァルト」のあとには「ベエトオヴェン(彼はいつもこう表記しました)」が書かれるというその風説は、小林秀雄のベートーヴェン論を待望する愛読者の期待によって多少は増幅されていたかもしれないが、火のないところに立った煙ではなかったでしょう。また五年後の対談で、「前にお目にかかったときに、ベートーベンのことをこんど書く、とおっしゃっていましたけど」とあらためて篠田一士が問うたのも、実際に言ったか言わなかったかという問題よりも、最初の座談会でベートーヴェンについて語る小林秀雄に、その気配を強く感じたからだったに違いありません。いずれにせよ、小林秀雄が音楽について、「僕がよくもう一つぐらい書いてやろうと思うことがある」と言ったのは、実際そう思ったことが何度もあったからだったに相違なく、もし書くとしたら、その対象としてベートーヴェンが筆頭に上がっただろうことは想像に難くないのです。

ちなみに鎌倉雪ノ下の旧小林秀雄邸に今も残されているテレフンケン社製のオーディオ・コンソールは、その座談会が発表された昭和三十四年の秋に、小林秀雄が自分で見つけて購入したものです。いったん往年のレコード熱に火が付いたら、最初に組み立ててもらった自作のオーディオでは満足できなくなったのでしょう。オーディオ・マニアでもある五味康祐の指南もあって、彼はこのドイツのメーカーを知り、たまたま百貨店でやっていた展示会に出掛けて行って買ったのだそうです。ステレオ・レコードが発売され始めたのは前年の秋、「ベートーベンのことをこんど書く」と彼が言ったちょうどその頃のことでありました。当時としては最新だったステレオ装置と、「モオツァルト」を書いていた頃に聞いていたSPレコードとは比較にならぬ音質で、彼はベートーヴェンのシンフォニーを、カルテットを、ソナタを、片っ端から聞き直していたに違いありません。

(つづく)

 

※以上は、二〇二〇年十二月、小林秀雄とベートーヴェンについて行った講話をもとに新たに書き起したものです。